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<title>慧智和尚の辻説法</title>
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生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人
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<title>●『青山元不動　白雲自去来』（禅林句集）</title>
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<summary type="text/plain"> 『青山元不動　白雲自去来』は、 「せいざんもとうごかず　はくうんおのずからきょ...</summary>
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<dc:subject>辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p> 『青山元不動　白雲自去来』は、 「せいざんもとうごかず　はくうんおのずからきょらいす」と読む事が多く、梅雨明けの茶室に掛けられていることが多い。梅雨明けの空の中、遠くに見える青く染まった山々、流れる行く真っ白な雲。さて、皆は何と感じ取るのだろうか。拙僧には、塩山や三島から見た富士山が思い浮かぶ。泰然自若として動かざる山の如し。独坐大雄峰。正に平常心代名詞。同時に、何の拘りも囚われも無く何処から来て何処へ行くのか悠悠と棚引く白い雲。人生はいろいろ。時に真実を覆い隠す雲が現れることもあるし、時には真実をくっきりと浮かび上がらせる雲も現れる。そして、時は無常迅速、諸行無常、されど万法は一に帰すと教えてくれる。何事にも動じない心。何事にも固定観念を持たない自由な心。その心こそ“無心”。全てに実体など無い。しかし、眼前に現象する。事実は事実。素直に受け取る。己は己であって己ではない。己とは部分であり全体。私たちは自然の一部であり大自然の凝縮。人生には晴れもあり、曇りもあり、雨もあるが、長くは続かないし、今日の雨は今日の雨で、昨日の雨でも明日の雨でもない。青山を本来の面目、即ち本来の己、白雲を再現性の無い煩悩と解釈する場合も多い。祖堂集では『白雲聴你白雲（白雲はなんじの白雲たるにまかす）』とあるし、五燈會元や景徳伝燈録には『青山元不動　浮雲飛去來』という表現で登場し、白雲は白雲の自由と取る。煩悩即菩提。そんな風に思えるようになると、坐禅がグッと楽になる。煩悩は完全にはなくならない。それが人間のである。だた、煩悩の力を奪い、煩悩に翻弄される事は坐禅により実現できる。要するに、欲望など固定ではないから、浮かんでも放っておけば消えうせる。禅は“あるがまま”を大事にする。それが“拘らず・囚われず・偏らない心”である。山のように泰然自若として己の本質を迷い無く生きる。富士に向かって坐っていると、無縄自縛で苦しことが多い人生だが、実は“縄”などなく、心を自由にすれが心は動かない事をしみじみと感じる。<br />
　己の外に仏なし。仏が神仏を求める必要などない。手を合わせたいなら自分に合せ。<br />
　自然体で生きることこそが、心身の健康の源。物事は難しく考えないこと。素直に生きること。今の自分に出来る事に全力を尽くせば宜しい。結果は自然と成る。無理をすることは自然に逆らう事。逆らって良いことは何も無い。<br />
　明日から暫くは説法を書けないだろうが、何物にも動じない青い山々と決して留まらない真っ白い雲でも見ていてください。 <br />
一日一生　慧智（０７０７２５）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>

<p><br />
 </p>]]>

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<title>●第１１００話『無くてはならぬものは多くない（キリスト）』</title>
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<modified>2007-07-18T22:24:44Z</modified>
<issued>2007-07-18T22:22:15Z</issued>
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<summary type="text/plain">　皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答える...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答えるだろう。キリストは「無くてはならぬものは＂ただ一つ”」とも答えたと伝わっている。それは何か。それは“religion”であると答えている。即ち“キリスト教”なのであるが、キリストは“キリスト教”という表現を使わなかったので、現代の日本語で表現すれば「人生で無くてはならないものは“宗教”であると答えたようなものである。勿論、以前に何回も話しているように『宗教≠religion（レリジョン）』です。レリジョンとは、唯一の神との再・結合という意味のラテン語を語源としており“キリスト教”を示しているからである。<br />
　一方、“宗教”は禅語とは言い切れないが仏教用語であることは事実であり、概ね“禅語”として解釈してよい。出典を探すと碧巌録（北宋初期の禅僧、雪竇（せっちょう）重顕が古来の禅録の中から公案百則を選び，韻文のコメント（頌）を付した『雪竇頌古』に，北宋晩期の圜悟（えんご）克勤が解説・論評を加えたもの）の五則中にある「大よそ宗教を扶堅（ふじゅ）せんとすれば須らく英霊底の漢なるべし・・・」に突き当たる。つまり、『宗教とは“宗（むね）たる教え』という意味であり、“大本の教え”という意味ととらえる。言い換えれば“己の外に仏なし”という大本の考えからすれば、キリスト教を信じる者（信仰する者）の宗教はキリスト教が“唯一の宗教”なのです。ところが、仏教徒（仏教を信仰する者）が信じる宗教は“仏教”だけに囚われ拘らないので“キリスト教も仏教も宗教”と表現するからややこしくなる。<br />
　『宗教』とは、“信仰”の一つであることは事実だが、正しくは『自分が信じる体系化された考え方である“宗たる教”以外の解釈は成立しないのである。そういう意味からすれば、洋の東西を問わず『人生に無くてはならないものは“宗教”』ということになる。ところで、皆の宗教は何かと問えば「仏教」と応えるのか、「禅宗」と応えるのか、「活人禅宗」と応えるのか。拙僧は「己の外になし」と応える。「己の外に無し」と応えた瞬間に『唯我独尊』が成立し、“全ての命が中心”となり、禅を宗教とする者は“山川草木悉皆成仏”から、『全ての現象』となる。<br />
　以上から、我々は『禅の教え』こそが“宗教”ということになる。<br />
　では、宗たる教えが根本であるとするなら、我々は“禅的”に生きるということに繋がる。その根本は何か。それを解説しているのが“経（きょう）”、時代を超えて経（たて）に繋がる教えである、八正道とうに現れているが、要約すれば『何事にも囚われず、拘らず、偏らずに、事実を無差別に受容し臨機応変（自由自在）に犠牲を最小限に生きる』ということであり、正に“持続可能な共生生活”である。換言すれば「人は独立しながら相互に犠牲にすることなく補完し合いながら他を否定せず肯定的に生きる」というのが“禅”であり“仏教”ということになるので、最近の檀家団体など他派を否定する“新宗教”は“カルト（教祖主義者）”なのである。勿論、カルトも教祖の教えを“宗たる教え”とするのであるから宗教は宗教であるが、自分の考えを主張するのは大事だが“それ”に囚われていては『無縄自縛』であって“自由（これもフリーやリバティの訳語は誤り）”を放棄していることになる。（続く）</p>

<p>一日一生　慧智（０７０７１８）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９９話　『自分で自分を縛り、自分以外を支配しようとする邪心こそが苦の源泉』</title>
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<modified>2007-07-16T00:53:53Z</modified>
<issued>2007-07-16T00:51:00Z</issued>
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<created>2007-07-16T00:51:00Z</created>
<summary type="text/plain">　自分ひとりが心静かに暮らしていても、周囲にはゴタゴタが溢れている。それは、雨の...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の独話</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　自分ひとりが心静かに暮らしていても、周囲にはゴタゴタが溢れている。それは、雨の日に縁側に坐って往来を眺めているようなもので、景色として観ていれば悟りの切っ掛けになるし、雨宿りを頼まれれば軒先を貸せば其れで済む。しかし、濡れ鼠になって走りまくる者を見てしまうと、バタバタせずにユッタリと暮らす方法を語りたくなる。ところが、語るためには、己も外に出て、バタバタとしなければ話す切っ掛けもつかめない。軒先に居るものなら、縁側からの声も届くので、「上がって茶でもどうぞ」と声を掛けられる。病から、暫くの間、縁側に座り、軒先で雨宿りをしている者にだけ“お茶”に誘い、往来でバタバタする者には「来る者は拒まず、去る者は追わず」というメッセージを投げかけていた。<br />
　今、縁側から腰を上げ、玄関先に出られる程度に身体が回復すると、またまた“世間の塵や埃に塗れても、お節介と言われようと、雨の路地に出て、共に濡れながら、先ずは傘を差し出し、一人でも多くの人に心豊かな暮らし方を説きたい衝動に駆られる。<br />
　病の間は、毎日のように悟りがあり、「溺れている者は、バタバタしている時は手を出さずに見守り、気絶したら引き上げて人工呼吸をするのが最善だ」ということを知った。<br />
　しかし、まだまだ未熟な己は、火中の栗を拾うが如く、ツイツイ、軒先で雨宿りする者の話を聞いて、道の歩き方などを“中途半端”に話してしまう。病の折に、己がモデルとなりユッタリと暮らすころが、“結果的には多くを救う”ことを悟ったにも関わらずである。<br />
　まあ、そんな己に内なる仏が反省させるため、癌という機会が与えられたのだが・・・。<br />
　それにしても、巷には金の亡者が多い事か。金の使い道の何たるかに気付かぬ者が多い事か。確か、良寛和尚も心を痛めていたが・・・。少しだけだが解るようになったのは、癌のお陰。そろそろ“病の意味”を理解して欲しいものだ。<br />
◆良寛和尚の漢詩<br />
人生浮世間　　　　<br />
忽若陌上塵　　　　<br />
朝為少年子　　　　<br />
薄莫作霜鬢　　　　<br />
都為心不了　　　　<br />
永劫枉苦辛　　　　<br />
為問三界子　　　　<br />
将何為去津　　　　 <br />
◆読み下し<br />
ヒトのウキヨのカンにイくるや　コツとしてハクジョウのチリのゴトく　アシタにはショウネンのコたりしに　ハクボにはソウビンとナる。<br />
スベてシンフリョウなるがために　エイゴウにムナしくクシンす　タメにトう サンガイのヒト　ナニをモッッてキョリツとなすや。<br />
◆解釈<br />
心定まらない者がこの世を生きるのは、正に道に舞う塵や埃のようなもので、朝方は子供、夕方は白髪の老人になってしまうようなもの。<br />
全ては“本来の己”を自覚出来ずに空しく辛く苦しい生涯を送るのは何故なのか。皆のために悟りを開いた仏に、どんな生き方をすれば良いか教えて欲しい。</p>

<p>一日一生　慧智（０７０７１６）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９８話　『高山流水　只貴知音』</title>
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<summary type="text/plain">  虚堂録の四巻に和尚の言葉として出てくる『高山流水　只貴知音』は、「こうざんり...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>  虚堂録の四巻に和尚の言葉として出てくる『高山流水　只貴知音』は、「こうざんりゅうすい　ただちいんをとうとぶ」と読み、「高い山や流れる水の意味は、悟れる者に悟れる」と解釈する。人間、素直な心、清心の者は全てに学べるが、先入観に囚われた邪心の者は、老賢人にすら学べない。言い換えると、加齢と共に成長する者も居れば、返って下衆になってゆく者がいる。年を重ねるごとに賢人となり老賢人と言われるような生き方と、年を増すごとに痴人と化し愚者となる生き方は、日々の生き方に違いがある。物に拘り、事に囚われ、枝葉末節に偏っていては“本質・真理”は見えない。四十を過ぎて博打に現を抜かしている者には本質は見えないだろう。しかし、彼らでさえ“仏性”を内在させているし、何らかの切っ掛けでそれに気付き精進すれば、悟りへの道は開かれている。己の外に価値や規範を求め、物や金、地位や名誉で人間を評価する者は、何れは“神”を作り上げ、“占い”などの迷信に翻弄され、霊だ魂だと言い出し、己が主人公の世界、誰もが己の責任と権限で生きてゆく世界を愚弄する。私たちは誰一人の例外なく、一人ひとりが世界の全てであると同時に、世界の一部であることの自覚が必要だろう。己が大事なら、それと同列に他人も自然も大事なのである。眼前の物の世界に父母未生以前の己の姿を見たなら、子々孫々以後の己の姿も見えるはず。ところが、己の垢である“我”に気が付かない拝金拝物亡者は、“失う事”が苦の最たるものである事に気付かず、一喜一憂する競争社会、喜怒哀楽の快楽追求社会という地獄を足早に生きて大自然へ戻るのである。<br />
　また、祖堂集巻五・石頭下巻第二曹渓３４５代法孫に出てくる『養子方知父慈』は、「子をうんではじめてちちのじを知る」と読み、意味は、父の慈悲心は自分が子を得て初めて解る」であるが、文の前後関係からは「雲嵒和尚は洞山という弟子を得て初めて雲嵒となり薬山和尚のありがたさが解った」と言われるように、悟ってみて初めて悟った人の境地が解るというものである。であるから、日頃から偏見を持たずに“己を越している”と思える人物と交わるのが良かろう。そして、師と弟子の関係を超えて切磋琢磨するのが良かろう。<br />
一日一生　慧智（０７０７１３）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●お知らせ</title>
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<modified>2007-07-11T15:28:54Z</modified>
<issued>2007-07-11T15:27:44Z</issued>
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<created>2007-07-11T15:27:44Z</created>
<summary type="text/plain">ご心配を頂いた皆様へ 　本日、私は４年６ヶ月におよぶ闘病期間に終止符を打ちました...</summary>
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<dc:subject>お知らせ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ご心配を頂いた皆様へ<br />
　本日、私は４年６ヶ月におよぶ闘病期間に終止符を打ちました。<br />
　２０代からの心身の酷使から、肝炎、肝不全、肝硬変、食道静脈瘤、肝細胞癌、胆管細胞癌、脾臓癌となり、その進行速度から、医師団により平成１４年１２月に余命６ヶ月と宣告されました。宣告を受け、数日間、心は迷い、残された期間を如何に過ごすかに心を奪われた時間もありました。しかし、如何に過ごすかなど考えるのも無駄な程、残された時間が僅かなことに気付き。先ずは、身辺整理と心身の不調和を修正しようと５日間、大子の活人禅寺にある小さな薬師堂に篭り坐禅に没頭しました。そして、皆様に末期癌であり余命幾許も無い由を告げさせていただきました。<br />
　その時から、皆様方からのご配慮、ご助言、ご指導、ご支援が始まり、私の支えとなりました。その後、手術が出来ないことからも、西洋医学的対症療法とは決別し、何事も全ては“あるがまま”を受け入れ、“御縁”に随い皆様からお届けいただいた全てを受け入れ、それを“ご縁療法”と称して今日に至りました。　勿論、その中には医師とのご縁もありましたが、それが無料である限り、ご支援を受けました。私にとっては“無料”であることが大事でした。お金が無いわけではないのですが、己の命を金で買うような不謹慎なことはしたくなかったのです。死ぬ時は死ねばよかろう。生きる時は生きれば良かろう。全ては己の内なる仏である自然の力に委ねる事こそ、私らしいと考えたからです。正直、最後の最後まで、“一人で立って、働き、坐り、寝て起き”、立てなくなったら薬師堂で、私の師の多くががそうであったように、威厳・尊厳を以って“坐して死す”覚悟を決めておりました。<br />
　その為には、少なくとも、余す命を燃え尽くそうと思い、“一日を一生”に準えて今日まで生きてきました。<br />
　平成１５年６月２４日、命日の予定日が過ぎ、一年、二年と、ステージ４（末期）のまま生き恥を曝して生き続けましたが、平成１８年六月、“奇跡的（確率０，３％）”に癌の進行が停止し、診断の結果、テージ（期）が一段階下がり、それまで連続的に続いていた激痛と過剰腹水、食欲不振、全身倦怠感、骨そしょう、全身痙攣などなどを伴う血管侵襲多発性癌腫（全身への転移を伴う）が、勢いを失い、直径２センチ以上ではあるが“進行が極端に緩慢となり、癌が“瘡蓋化”して“休火山”状態となったいるという診断を頂き、奇跡的に余命宣言が取り消されました。　しかし、それでもステージ３（三期）で常時症状を自覚し、時に激痛もありましたし、腹水には困り果てていました。まあ、貫禄があり健康そうに見えるから都合が良いと思いつつも、太い注射針で１０日おきに２リットル近くの腹水を抜くことは大変でした。<br />
　あれから一年、本日、東京国立癌センターの医師団から「臓器に非進行性の腫瘍が固定し、未だに癌であることは変わらないが、６か月以内の死亡の確率は５０％以下、３年生存の確率は３０％近い」というコメントを頂き、四年前の「６ヶ月以内の死亡確率９９％という宣告、３年以上生きられる確率はゼロに近い」と宣告されたことに比べると、「完治しましたよ！！」と言われたのと同じようなものです。<br />
　勿論、養生は続けますが、それは誰でも同じこと。人間、誰にも“明日”は解らないのです。そういう意味からすれば、誰でも余命は今日一日であり、確率論からすれば、誰でも、明日死ぬ確率は百万分の三なのですから。<br />
　さて、生きるということは一日一日の積み重ねであり、結果は自然なるものです。つまり、如何なる事実であろうと運命に抵抗して心をすり減らすより、事実をあるがままに全面的に受け容れるしかないのです。しかし、それは諦めるということではなく、自然の流れ、縁に委ねるということで、事実を消極的に受け容れるのではなく、積極的に受け容れることでしょう。勿論、悲観的でも楽観的でもありません。心を無にして受け止めるのです。<br />
　今回、癌と共に歩みながら多くを悟らせて頂きました。毎日が悟りの連続でした。思うようになることは何も無い。苦しんでも一日、無心でも一日。只只、出来る事に全力を集中して生きていれば、楽もないが苦も感じませんでした。正に苦楽一如を実感しました。<br />
　死ぬ覚悟より生きる覚悟の方が重い。・・・・俗な表現をしてしまえば、正に「闘病とは成仏へ道」に他ならなかったのです。不思議な事ですが、死ぬと決まってから活き活きと生きた気がします。明日からは、この貴重な体験を活かし、新たな道に足を踏み入れようと思います。一日一生、一生一日。ご縁に随って歩歩是道場、娑婆の修行に励んでまいります。皆様とはご縁があり、これからも続くでしょう。その素晴らしいご縁に感謝しつつ、病状のご報告と、皆様への感謝の気持ちを述べさせて頂きました。本当にありがとうございました。<br />
　皆様の精進は日々の健康の賜物。梅雨時ですが、張り切ってお暮らしください。<br />
末筆ですが、涼しくなりましたら快気とは言わず“回帰祝い”の場を設けさせて頂こうと考えていますので、時期がまいりましたら、ご連絡させていただきます。　<br />
合掌<br />
平成１９年７月１１日　小林惠智（慧智）</p>]]>

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<title>●第１０９７話　『剛刀雖利　不斬無罪』</title>
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<modified>2007-07-10T10:38:00Z</modified>
<issued>2007-07-10T10:36:42Z</issued>
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<created>2007-07-10T10:36:42Z</created>
<summary type="text/plain">　『剛刀雖利　不斬無罪』は、「ごうとう　としと　いえども　つみなきを　きらず」と...</summary>
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<email>keichi-k@tkh.att.ne.jp</email>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　『剛刀雖利　不斬無罪』は、「ごうとう　としと　いえども　つみなきを　きらず」と読み、正法眼蔵や五燈会元十七巻の寶峰克文禪師の文中に散見される句は、意訳すれば、強いものは弱いものを責めないと受け止めたり、能力の有る者は、その能力の使うべき道を知っているとなる。<br />
　最近、能力は高いが“その能力”の“使い道”を誤っていると思われる者が多い。問題は“使い方”ではなく“使い道”なのである。皆は、無意識に使っているだろうが“使い方”と“使い道”は違う事は十分に理解しているだろう。例えば犯人と警官がピストルを持ち、共に“使い方”は知っていても“使い道”は異なるのである。だが、より本質に近づけば、更なる“使い道”が見えてくる。使い方は水平方向に広がり、使い道は垂直方向に深まる。拙僧は『剛刀雖利　不斬無罪』を文字通りではなく、「己の力を知って活かせ」と読み取る。<br />
　ところで、諸君は“己の力”を知っているか？、そして“その力”は一人で発揮できるものか？<br />
本日の禅会では、それに対する答えと出会うように坐りなさい。<br />
　蛇足だが、数日内に大きなニュースを流す。<br />
　一日一生　慧智（０７０７1０）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成<br />
</p>]]>

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<title>●第１０９６話　『歸家穏坐（キカオンザ）』</title>
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<modified>2007-07-08T09:56:44Z</modified>
<issued>2007-07-08T09:53:29Z</issued>
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<created>2007-07-08T09:53:29Z</created>
<summary type="text/plain">　昨日、“海洋散骨”をする同夏から「歸家穏坐というが、御主は何処なのか」と問われ...</summary>
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<email>keichi-k@tkh.att.ne.jp</email>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ryobo.org/seppou/">
<![CDATA[<p>　昨日、“海洋散骨”をする同夏から「歸家穏坐というが、御主は何処なのか」と問われ「歩歩是道場」と応じた。出家に帰るべき家などないし、寺は修行の場であり仮に留まっているに過ぎない。勿論、此の世とて同じ仮の命。ＨＮＫではないが、人間は何処から来て、何処へ行くのか。そんなことは禅坊主なら「こっちから来てあっちへ行く。お前はあっちから来てこっちへ行くのか」と笑い飛ばす。あっちだ、こっちだは所詮は語。“語を悟にした”者にとっては生死は諸行無常。変わらぬ事などが無いこと生きている。されば、歸家穏坐する地とは何処。それは父母未生以前の世界。言い換えれば「この宇宙よ」となるだろう。<br />
　まあ、今日は難しい事は無し。東京の仮住いのベランダにひっそりと咲いた『仏手柑』の花をご覧下さ<br />
い。</p>

<p><img alt="DSC00280.JPG" src="http://www.ryobo.org/seppou/archives/DSC00280.JPG" width="640" height="480" /></p>

<p>　一日一生　慧智（０７０７０８）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９５話　『曹源一滴水（そうげんのいってきすい）』 </title>
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<summary type="text/plain">　言わずと知れた『碧巌録』に登場する五言の一句です。『曹源』とは「曹渓の源泉」、...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　言わずと知れた『碧巌録』に登場する五言の一句です。『曹源』とは「曹渓の源泉」、つまり六祖慧能（えのう）大和尚のこと。紀元前の釈尊という源から流れ出た大河の一滴は、８００年の歳月を掛けて我が初祖である達磨(だるま)大和尚、そして本尊の慧可(えか)大和尚、僧粲(そうさん)、道信(どうしん)、弘忍(ぐにん)大和尚と続き、六祖慧能大和尚により『禅の流れ』は大成し、臨済・ 雲門・洞山・潙山・法眼によって、臨済宗・雲門宗・曹洞宗・潙仰宗・法眼宗の五家、加えて臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化して日本には二十四流の禅として伝えられたが、全てはて大河の一滴、『曹渓の一滴水』からのものです。そこで、禅の根本を「曹源の一滴水」と表現し、正伝の禅法を「一滴水」といいます。有名な話ですが、明治の初めに天龍寺の管長になられた滴水宜牧禅師は、曹源寺の儀山禅師を師として修行されており、師が入浴中に滴水に「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」と。適水禅師「老師の次の人が入ります」と。儀山禅師「それがすんだら」と。適水禅師「私たち小僧たちが入ります」と。儀山禅師「では、それがすんだら」と。そこで、適水禅師は「捨てます」と応えるや否や儀山老子の大喝一声。「馬鹿者、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にするでない」と。その一声に小僧である適水禅師が悟り、五十歳にして天龍寺の管長になられ、以後、号(ごう)を「滴水」と改めて遷化されるまで「水は仏の御命、一滴の水をも無駄にせぬよう」と言い続けておられました。<br />
　しかし、最近はどうでしょうか。水を粗末にするなど言うに及ばず、命さえ粗末にしている。生きる時は全力で生きる。死ぬ時は全力で死ぬ。それが無駄の無い生き方ではないだろう。食糧の無駄、時間の無駄、人生の無駄・・・。現在では無駄を裕福・優雅のシンボルのように言うが、それでは地球が、宇宙が嘆き、人類を諌め様と隋縁から驚天動地があっても不思議ではない。それにしても二流の国民に三流の三代目の政治家は情けない。日本を“美しい国”になどと誤魔化さず、“美徳の国”へ戻すために、小手先の『教育改善』を改め、根本から見直す“教育改革”が必要なのではないだろうか。<br />
　一日一生　慧智（０７０７０７）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９４話　『乾坤独歩（けんこんどっぽ）』</title>
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<summary type="text/plain">　拙僧は、この四言を座右の銘としている。勿論、平等共生が此の世の真理ゆえ、意識的...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　拙僧は、この四言を座右の銘としている。勿論、平等共生が此の世の真理ゆえ、意識的に何かを避けることは無い。意味は意識的相対的な評価をせずに“大道”に随って生きるということである。つまり、一日一生、何事にも振り回されず、堂々と前を向いてキョロキョロすることなく一歩一歩を道場として、揺るがざる目的に向かい目標に対しては柔軟に対応して生きることである。文字通りであるなら『天地を一人で歩む』であるが、如何なる生命も共生が真理。相互に補完しあってこそ無欠完全なのである。『来る者拒まず、去る者追わず』も同根。『無事是貴人』『日々是好日』・・・、皆同根、同心。これを在家的に言えば、福祉政策の基本理念と同じ。『自立を推進するために支援助成を行なう』ということ。その為には、少なくとも己は自立自律し余裕を持って独歩していなければならないだろう。更に言えば『大人の心』である。相互依存と相互支援では天地の差、乾坤の差異がある。勿論“補完”なくして無欠完全は無いし、生物は自己完結できない存在（現象）故に、個体には相対的表現になるが“強み・弱み”がある。しかし、強みは長所、弱みは欠点ではない。それは“個性”である。それを知っていれば差別や区別は無い。<br />
  なお、以下に示すが、この四言は衆智の通り無門慧開和尚の『無門関』の序の結びの一句である。<br />
　『大道無門・千差有路・透得此関・乾坤独歩』。正しく人間完成へ道に入る標語であろう。<br />
　一日一生　慧智（０７０７０４）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９３話　『大直若屈，大巧若拙，大辯若訥』</title>
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<summary type="text/plain">　表題の読み下しは、「大直（だいちょく）は屈（くつ）のごとく、大巧（だいこう）は...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　表題の読み下しは、「大直（だいちょく）は屈（くつ）のごとく、大巧（だいこう）は拙（せつ）のごとく、大弁（だいべん）は訥（とつ）のごとし」。老子道徳経４５章の一節にある３句は、余りにも有名で、今更、能書きを垂れる必要はないだろうが、今日は『誤解』について語りたいが故に敢えて話題としました。表題の表面上意味は「真っ直ぐな者は曲がってみえ、技量のある者は不器用にみえ、雄弁な者は口下手にみえる」ということなのですが、言い換えてみると「何事かに優れ巧みな者は、単刀直入で小細工を弄しないから還って下手（へた）に見え、その技を軽々と行うので難しいことのように受け取られないし、言葉の限界を知っているから多弁雄弁能弁という挙動が無いので口下手に聞える。つまり、本当の一流は一流の人間にしか理解されず、二流は二流以下から評価されるので、“一流のマイナー、二流のメジャー”などと揶揄されていますね。<br />
　昨今は上辺（うわべ）時代。偽造変造模造品など“偽物”が一人歩きする。人間も同じ。“偽者”が多い。坊主の格好をしていると坊主だと思う。身なりが立派だと人格者であるとか成功者、有能な者と思われる。正に軽薄短小、“偽者天国”が今の日本。中国や朝鮮半島のような“偽物天国”より始末が悪い。正に“インスタント文化”の母国らしい。その背景には“ウソ”というより能動的に“誤解させる”こと、建前と本音を使い分ける事を良しとする文化がある。建前と本音、言い換えると意識と無意識。本来、“心”は一つなのだが、擬制と擬態の構造は世界中に見られるが、日本は特に顕著。政治の世界では、本音と建前を使い分けられる者が評価される。昨今、“真贋”を見抜ける本物の人間”が、少なくなってしまっている。確かに、目に爽やかで解りやすく、耳に心地良い事柄は一般に受け容れられやすい。安きに流れ、秘すれば華を見抜けない時代に向っている日本をこのままに傍観していて良いはずがない。禅では『大賢は愚に似たり、大智は愚の如し』を見抜けなければ未熟者。当然、公案に対向できない。巷では死語になってしまっている『能ある鷹は爪を隠す』『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』・・・・。<br />
　吉本隆明の『真贋』という書籍がある。1時間で読めるので一度は目を通されよ。<br />
　我々、活人禅に生きる者は、枝葉末節や“表面”に誤魔化されず“本質”を見抜く力を持とう。それには先ず“無心”。“我”を捨て坐る事だ。</p>

<p>　一日一生　慧智（０７０７０３）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９２話　『山川草木悉皆成仏』</title>
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<modified>2007-07-01T01:13:22Z</modified>
<issued>2007-07-01T01:11:55Z</issued>
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<summary type="text/plain">　雨が上ったので寺庭の手入れをしようと草刈機を持ち出し、聖観音様と禅堂の間の草む...</summary>
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<dc:subject>野狐禅和尚の独話</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　雨が上ったので寺庭の手入れをしようと草刈機を持ち出し、聖観音様と禅堂の間の草むらに分け入った。エンジンを掛け、いざ、草刈をしようとすると、何故かエンジンが止まる。それも連続５回。何かあるかな。別に無い。その時、急に雨が落ちてきた。禅堂の軒で雨宿りしながら、草刈機を調べた。問題は無い。その時、雷鳴が轟き大粒の雨がバケツをひっくり返したような勢いで落ちてきた。しばらく桔梗の花を眺めていると、雨が打つ竹やぶから『山川草木悉皆成仏』と聞えた。人間の都合で無駄な殺生はいけないのは解るが、さりとて・・・・。<br />
　雨が止まない。晴耕雨読。禅堂で一人坐っていた。いつの間にか寝てしまったようだ。辺りが暗い。午後の庭仕事は頓挫。世の中に無駄な命は無い。ただ、人間にとって不都合な命はある。我侭なことだ。雑草という名の草花は無い。小さな草花にも皆、名前があり旬がある。それを一纏めにして“雑草”と言うは人の身勝手。小さければ小さいほどに可憐。観ると刈り取れない。と考えながら踏みつけてもいる。ふと、人間でいるのが辛くなる。病や痛みのせいではない。己の分別、我心。厄介なものだ。<br />
　一日一生　慧智（０７０６３０）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９１話　『心随万境転（心は万鏡に随って転ず）』</title>
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<modified>2007-06-28T00:49:37Z</modified>
<issued>2007-06-28T00:43:54Z</issued>
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<created>2007-06-28T00:43:54Z</created>
<summary type="text/plain">  茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろ...</summary>
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<email>keichi-k@tkh.att.ne.jp</email>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>  茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろう。この一句は『心随万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』という二十二世の摩拏羅尊者（まだらそんじゃ）の偈で、「心は蟠りがなければ臨機応変に働くが、納得が行かない事があったりするとパニックになり、流れが滞り臨機応変は失われるので、喜怒哀楽に心は忙殺される」という感じだろう。人によっては、人生は“喜怒哀楽”があるから楽しい、という。確かに、己の過去を顧みれば解らんでも無いが、禅坊主であり、ストレス心理学、精神身体医学を学んだものとしては、喜怒哀楽の振れ幅の大きい者は、早死にすることを知っている。師のハンス・セリ博士は亡くなられる少し前に「ストレスは人生のスパイスだ」と言われたが、その言葉の裏には、真理を掴みつつも自己否定を嫌った師の個性がある。<br />
　心の乱れが死を急がせることは、免疫系・内分泌系・神経系の不調和であることは解るだろう。そして、心が乱れていれば“自由”を失い臨機応変・融通無碍に暮らせず、心は何かに囚われ、何かに拘り、結果的に偏った考え方が、更なる窮地へと引き込む。これが“悪循環”というものである。つまり、心が万鏡に随わずに、見えているものを見ず、見えないものを見てしまうということだ。心が自由であれば、死ぬ時は死ぬ、生きる時は生きる。暑い時は暑い・・・。それらを評価せず差別せずに受け容れられる。正に“あるべきよう”であり、素直に生きることである。勘違いをして欲しくないのは、暑い時は暑いから、暑いと騒ぎ、暑さを征服しようとする心が起きるのは“素直では無い”ということで、暑い時は暑いように、動きはゆっくりと、４時には起床し午前中には一日の生きてゆくための仕事を全て終わらせ、昼は休み、夕方からはより善く生きてゆけるための勉学に時間を使うのが“素直”ということだ。だからこそ自分が『主人公』で『随所作主』、相対的な考えから絶対的な考え、枝葉末節から本質、喜怒哀楽から安心へという生き方の転換が必要なのです。その転換には『坐禅』以外の方法は万民向きではなく、出来る人と出来ない人が出る。坐禅は“安楽の法門”であり、正しい指導を受ければ個性や価値観に関係なく心身の健康に寄与するし、拙僧のように余命宣言を無力化できる。<br />
　昨日今日、高温多湿の日々だが、今日はエアコンを消し、身体を締め付ける物は外し、窓を大きく空け放し、明かりを消して一本の線香を灯して４０分坐ってみよう。拙僧は今日は日本時間の午後１１時から坐るので、時空を超えて心を通じ合おう。<br />
　では、その時に。<br />
　一日一生　慧智（０７０６２８）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０９０話　『この身で証を立てる“禅”とは』</title>
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<modified>2007-06-26T10:36:55Z</modified>
<issued>2007-06-26T02:22:06Z</issued>
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<created>2007-06-26T02:22:06Z</created>
<summary type="text/plain">　禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅がある...</summary>
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<email>keichi-k@tkh.att.ne.jp</email>
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<dc:subject>野狐禅和尚の辻説法</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷（固体）と水（液体）と雲（気体）という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず３６度程度で体重の７５％程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。<br />
　つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的（便法的だが）な苦を主観的な苦と認識しなくなりｍ主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。<br />
　結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。<br />
　『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』</p>

<p>一日一生　慧智（０７０６２６）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０８９話　『眠れぬ夜の与太話』</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ryobo.org/seppou/archives/2007/06/post_107.html" />
<modified>2007-06-25T09:55:03Z</modified>
<issued>2007-06-25T09:48:51Z</issued>
<id>tag:www.ryobo.org,2007:/seppou/2.245</id>
<created>2007-06-25T09:48:51Z</created>
<summary type="text/plain">　仏陀とは「真理に目覚めた人」「覚者」という意味で、釈尊とは、釈迦という人間の尊...</summary>
<author>
<name>echi</name>
<url>http://www.ryobo.org/</url>
<email>keichi-k@tkh.att.ne.jp</email>
</author>
<dc:subject>野狐禅和尚の独話</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ryobo.org/seppou/">
<![CDATA[<p>　仏陀とは「真理に目覚めた人」「覚者」という意味で、釈尊とは、釈迦という人間の尊称である。人間である釈尊（開祖）の悟りを追体験する宗教宗派が“禅宗”であり、そこに生きる生き方が“禅”であり、それを家風とするのが禅家である。また禅宗三派では達磨大和尚を禅宗初祖、連なる二祖を慧可大和尚、六祖慧能大和尚。その法燈を繋いでこられたのが歴代の祖師で、臨済宗の場合は臨済義玄大禅師を宗祖、栄西禅師を日本臨済宗の開祖、白隠禅師を臨済宗中興の祖、禅家に集う修行者を禅士・禅子、その師匠を禅師・禅匠・老師という場合が多いが、在家の修行者を禅士と言わず居士という場合もある。なお、鎌倉時代に日本において成立した臨済宗は、中国で成立した禅の一派で、禅匠である臨済義玄大和尚の禅風を伝える宗派で、日本臨済宗開祖の栄西大和尚が宋より伝え、現在に伝わる臨済宗各派の大半は鎌倉末期から室町期に活躍した『大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄』といういわゆる『応燈関』の流れにあり、江戸時代の白隠大和尚（禅師）を中興の祖として『心身一如』にある状態を意味する“dhyana(jana)”の音写を漢字に当てた禅那、そして坐を組んで己事究明、自己の本性を見徹することで『悟りを開く』≒釈尊の悟りを追体験し『禅定（心の完全なる自由状態）』に至らしめることを目的としている。なお、一般論として言えば、その悟りの境地は言葉や文字によって全てを説明することはできないという意味の『不立文字・教外別伝』、師と弟子の間の以心伝心で心から心へと伝わる『直指人心』をもって釈尊の心を伝えて仏となる『見性成仏』に帰着させるための方法が坐禅であるが、禅は目的・目標・手段を分けて考えないので、師が弟子の心頭一如の体得度を点検するために『公案』という問答の切っ掛けを使い、修行の成果を自覚させ、更に修業を深めさせる。なお、現在の日本においては江戸期の白隠禅師による古則公案の“体系化”が広く普及し、その大河は明治期の山本玄峰老師を経て末席の拙僧にも伝わって来ている。　つまり、我々は皆、釈尊の弟子であり法孫であるが故に、『“苦”の本質を理解体得し、苦を苦としない生き方』を“言葉を超えて率先垂範して普及する責任がある。なお、常識だろうが、仏教では苦の総体を「四苦八苦」と言い、四苦とは生・老・病・死（しょうろうびょうし）、八苦とは「愛別離苦（あいべつりく）」「怨憎会苦（おんぞうえく）」「求不得苦（ぐふとくく）」「五陰盛苦（ごおんじょうく）」を加えたものをいう。<br />
　さて、人間は、その質・量の違いこそあれ、四苦八苦を避けて通ることは出来ないだろう。それは釈尊も同じ。ワシも皆も同じである。言い換えれば、苦しみを苦しみと認識出来ない人間に宗教は無用だろう。ところで、そんな人間はいないはずなのに、宗教を否定する者が多いのは何故だろう。その上、宗教を否定する人間を観ると“気の毒な位に不幸”なのは何故だろう。それは“自由な心”という状態を解らないからで、見えない縄で自分を縛っている『無縄自縛』という状態にあるからである。言い換えると、何かに拘り・囚われ・偏った考え方にあるが故に、己自身を理解出来ていないのである。<br />
　活人禅寺は『来る者は拒まず、去る者は追わず』を信条にしている関係で、“下心”のある者も来るし、本来は自他不二だが、明らかな下心がある者や朱に染まる者、つまり、利他より自利を優先する輩もいる。それでも、活人禅寺は信条を曲げない。否、“無心”である。ワシもしばしば利用されるし、たった一人だが浄財泥棒も居た。しかし、罪人を作るのが寺では無いので、その都度、学びを頂くが、それでも『他人を疑う心』は持ちたくない。どんな者でも、清く正しく幸せに生きたいはずである。しかし、それが思うに任せない。実は“それ”こそが僧侶の責任なのだ。 <br />
　釈尊は、修行に入って六年目の12月8日に暁の明星を見て活然（忽然）と大悟され活人となった。師が居ただろうか。寺があっただろうか。それは『己の師は今・此処に居る己自身だ』という気付きがあればこその”大悟”である。語呂合わせでは無いが活人禅寺は“大子（だいご”という地にある。ワシが癌に負けないで済んだのも大子の寺のおかげである。釈尊は６年の修行で３５歳で大悟した。つまり己を師として大賢者となった。釈尊も我々と同じ人間である。釈尊に出来て、達磨に出来て、臨済に出来て、白隠に出来て、皆に出来ない訳は無い。祖師に共通するのは上辺に流されず本質は何かとトコトン考える大疑心と、本来の己に対して素直になり、本質が解るまで諦めない心があったことだ。物事は途中で止めるから“失敗”というゴールが出来る。しかし、何があっても止めなければ失敗は無い。失敗が無い事が“成功”なのだ。言い換えると大悟が成功ではなく、大悟に続く道を歩み続ける事が成功なのである。ワシの人生も波乱万丈。３回も死に損なったが未だ生きている。考えると、為すべき何かが残っているからだろう。だから、「奇なる、奇なる、一切衆生皆如来の智慧徳相を具有せり。只、顛倒妄想の故に知ること能わず」と喝破する日を目指して生きる。誰が言ったかはどうでも良いが、「万物は天地人の三つの働きで成り立つ。天は理想、地は現実、人は実現」ということが言われる。それは、己の人生を宇宙と一体化し人生を大地に根を張り、万物の理想の実現のために現実の生活（事実）をしっかりと踏まえて生きていくべきである」ということだろう。幸せとは、あらゆる迷い、あらゆる苦しみから解き放され状態である。それには、無限の空間、悠久の時間を超越し、物事に拘らず動物、植物、鉱物とを問わず、賢愚の別なく、全て公平で公正な生き方を志すのが大前提である。“起きて半畳、寝て一畳”、空っ手で生まれ、空っ手で死ぬ。どんな生きても百年そこそこ。その上、誰でも明日生きている保証は無い。誰だって“今・此処・己”のみが現実である。釈尊であっても最初はたった六人からのスタートで、80歳で大遷化されるまで行雲流水の如く、三衣一鉢以外持たず、乞食（托鉢）されインドの各地を説法して回った。時代が変わっても釈尊に出来て我々に出来ない事は無い。勿論、方法は異なるだろう。しかし、ワシはワシを含めて皆にも出来ることだと信じている。人間は“生き方”で価値が決まる。釈尊だって45年の行脚を行い80歳になった頃、生まれ故郷に向かう途中で鍛冶屋さんが差し上げた供物を食べ、腹痛で床に臥し、死を悟った時の説法が後に『遺教経』として伝わり、２月１５日に大遷化（涅槃に入られた）された。<br />
　末筆になるが、釈尊が『事実の無分別なる直視→本質の発見→教訓化（一転語化）→生き方の発明』という悟りへの流れは、四苦八苦の現実を直視し、苦の本質をつきとめ、苦しみを滅するために四諦八正道の教え説き『坐禅』を考案されたことを忘れずに、最後の最後まで諦めずに生きようではないか。<br />
　何か、遺言めいた話になったが、痛みで一睡も出来ないと、ワシの辻説法のトーンも変わるようだ。まあ、良いか。誰も明日の事は解らんからな。 今日の説法はワシ自身に向けて書いたようなものだ。ワシも弱い人間だということだな。<br />
一日一生　生き恥を曝している野狐禅和尚　慧智（０７０６２５）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成</p>]]>

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<title>●第１０８８話　『事実（体験）・発見（学習・小さな悟り・瞬間的理解）・記憶（得心</title>
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<modified>2007-06-21T21:08:36Z</modified>
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<dc:subject>野狐禅和尚の独話</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　論語の為政篇に、子曰く「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という件がある。孔子は“学問”と“思索”を独立概念としてとらえていたのか、それとも補完概念と考えていたかは、個々の研究者の解釈に委ね、ここでは前出の句を“禅の眼”で観ることにする。すると、禅という“一如”の発想ではなく、“道徳や倫理”に繋がる“二つ分かれ”からの発想だということが解る。つまり、「すべき事とすべきでない事」という雰囲気があることに気付くだろう。<br />
　つまり、禅では父母未生以前、隻手音声から類推できるように、“二つ別れの前”に本質、原理原則を見て、眼前の事実（その背景）こそが本質・真理は“投影”と考えている。拙僧は“それ”こそが『百尺竿頭の世界と其処から飛び降りた処の世界の違いだと思っている。<br />
　さて、孔子の『学び』とは何だろう。それは孔子の他の言葉から伺えるように書物や経験など他人からの借り物の“知”を意味している。また、『思い』は、知を純粋化してゆく中での独り善がりの”痴”を意味している。つまりそれは学者の発想であり、止揚することで“統合化”する考えか方に他ならない。それは確かに単純な体験や経験を広く深い“智”にすることは出来るだろうが、所詮は頭の理解であって簡単には体に浸透はしないだろう。それ故、禅における“今・此処”の悟りのように過去と未来の活動を劇的に変え力には成り得ないので、拙僧は“それだけ”では不十分だと考えている。言い換えると“智”は日々の行動に活きてこそ完成する“叡智・智慧”であり『本質』だと思っているからである。<br />
　本質（智慧）に辿り着く道が『坐禅』であるのだが、坐禅も坐禅だけでは不十分で、坐禅の初期で得られるのは“痴（偏見）”であり、それは作務を通じて“智（真理）”となり、室内において『叡智・智慧』となり、更に聖賢の書・言葉、日々の事実、気付き、行動を通じて無相の相たる“般若（全身に染み込んだ智慧）”に至るのが“禅”である事を全身で知っているからである。<br />
　さて、現在は“頭でっかち”の時代と見ている。そういう拙僧も“その傾向”が無くも無いのは自覚しているが、それを踏まえつつ話すので聞いて欲しい。頭でっかちとは、一億総評論家を意味していると考えて欲しい。<br />
　過日、政府の『教育再生会議』の反主流はのメンバーと以下のような話をした。員「この会議の本質は何だろう。議論が盛り上がれば盛り上がるほど考えてします」僧「なるほど。つまり、コンセプト（概略）を作るのが使命なら枝葉末節に偏りすぎ、ワークが使命なら抽象的で感傷的である、と感じているのではないか？」<br />
委員：「正しく、その通り」<br />
拙僧：「そもそも『教育再生会議』という表現は誤りだとワシは思う。正しくは『“公”教育再生会議』が正しく、国民を勘違いへ誘い込もうとする邪心はみえみえである。勿論、政府系権力が公的教育を支配するのは、国民から付託された権限の一つではあるが“全て”ではない。つまり、『私教育（家庭教育を含む）』の自由を奪う権利はない。教育という知育・徳育・体育（行動）、頭・心・体（行動）が『同質』となる“躾”であり、本質的には“親”の責任である。勿論、現代のような情報化時代においては、継続的に体系化された知識は学校でしか出来ないだろう。だからこそ、平均的な学習は公立学校の役割であり、家庭の役割は“心”を中心的にしたものであることは確かである。何故なら、躾とは“家庭の文化”であり、国により平準化・標準化されるべきものでは無い。言い換えると、民族の未来を担う現在の責任である。<br />
　美徳の国“日本”から“徳”を取り去り、私利私欲の為に、子供に悪影響を与えている原点は一部の政治家と一部の役人の行動である。二次答申の中にも、“道徳教育”に中途半端に言及し、“親学（親としての子育ての常識を学ぶ事）”の必要性を述べているが、教育（子育て）に迷った時に戻る『依って立つ』拠り処”、便爾“価値基準”を明確にしないところに根本的な問題がある。それは、諸悪の根源が“頭でっかちで偏見に満ちた”リーダーを選んだ国民の無智にあるということだ。そもそも“再生”というなら“いつの時代が理想であり、どの状態に戻す”のだろうか。それが示されていなければ『再生』の意味が解っていないことになる。委員「では、どうすればば良いか」<br />
拙僧「禅が全てだなどと言うつもりは無いが、せめて儒教・道教・仏教の基本的な知識論語程度は持っているメンバーに入れ替えないとならんな」<br />
拙僧：「考えてもみろ。日本にとって維新から戦後の最悪の時代でも、優秀な人間は出ているし、彼らが今の礎となっいる。それは頭より心を重視した『意欲と志』があったからだ。<br />
拙僧「今、問題とすべきは国際社会を比較の対象とする『相対的な成績の低下や、犯罪の低年齢化などなどではなく、『日本の理想像（目的）』を示しつつ目標を明確にすべきせで、それが出来ない政府の無智を正す事である。<br />
拙僧：日本は“美徳”の国であり、法律で雁字搦めにした懲役列島ではない。・・・・。<br />
　<br />
　この先は文字にするのが憚られる様な教育再生会議の呆れた内幕が告白された。<br />
　教育は、１００人居れば１００人の教育論があるだろう。だから、それを一本化するような事をせず、政府は選択肢を用意し国民が選択権を行使できるようにすれば良いだけである。だが、子供の教育を云々する前に“政治家と親と教師の教育”を見直すことが先だ。品格も無ければ人間力も無い政治家を当選させない選挙制度の確立が遠回りなようで近道である。（続く予定）</p>

<p>一日一生　慧智（０７０６２１）<br />
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』<br />
★宣言　衆生無辺誓願度　煩悩無盡誓願断　法門無量誓願学　仏道無上誓願成<br />
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