2007年04月25日

●日系アメリカ人からの回答「アメリカ人であることは誇りです。」

これが拙僧の物理的な脳であり、心が機能するハードウエアーです。
慧智の脳.jpg

 時差の関係で、深夜のメールが多く、ここに書き込むにはズレがあるが、昨日の拙僧からの質問に彼は2-3分で回答してきた。素晴らしい!と感じた。正に“反応”である。極論を言えば、雨漏りを見つけたら、ウロウロと洗面器を探しているより、雨漏りの下で口を空けて受け止め、その後、工夫をする。その間髪を入れない対応こそ“禅”である。
 回答の内容の全文を掲載するいは語弊がでると感じたのでポイントのみにする。
◆原爆については“当然”であり、日本国内に戦火が拡大しなかったのはアメリカ、長崎・広島に他の地域の日本人は、アメリカの決断と必要な犠牲となった日本人に感謝すべきである。
◆アメリカ以外に世界を平和に出来る国はない。正義を実現できる国はアメリカしかない。世界がアメリカの州になることが理想。
◆全ての人間が異なり、能力に既得的な個人差がある以上、差別や区別があるのは当然であり、それは神が与えた自由と試練である。寧ろ、日本のように表面的な繕いをする国に真実はない。(freedom
とlibertyは日系とはいえ言語学上では正しく使い分けられている)
 以上が拙僧の問いに対する文法論を重視した上での日本語への意訳である。
 これを読んだ多くの日本人は納得できないだろう。しかし、彼らの論理は理解できるだろう。
 しかし、個人の“有能感”が国家の優越感の源泉になっているという怖さは感じられるし、仮に回答者のような考え方の市民が多いとなると、世界の、否人類の恐怖を連想する者がいるだろう。
 ご存知の通り、英語には拙僧の調べた限り「能ある鷹は爪を隠す」「出る杭は打たれる」「以和為
貴」に酷似する教訓は無い。また、「以和為貴」となるに使われている“和”と完全一致する英語は無いが告知する語はUNITY(ユニティ)である。蛇足だがロシアには「伸びすぎた向日葵は倒れる」がある。
 日本が美徳の国と言われた時代、政権の座にある者が今唱えている“美しい国”ではない、多くの
日本人は「論理的な正しさを争うより、争い対立そのものを避けることを“和”とし、それを貴いこととして、「以和為貴」に価値を見出してきていた。それを如実に現すのが会議体の人数をみれば、米国では奇数、日本では奇数偶数の何れでも良く、全員一致を目指して、全員が満足とまでは言えないが不満とまでも言えない落とし処を探した。米国は“多数”が正義、多数決主義であり、それが権利である。rightという単語の意味から類推できるだろう。注意すべきは、権利は義務を持つ者に対峙する権利で、日本の概念である義務を履行するための力が権利ではない。また、カタカナ語にもなっている“アグレッシブ”、つまり攻撃的で闘争的、は日本では否定語であるが、米国では肯定語である。言い換えれば日本は協奏を重視するが、アメリカは競争重視であり、勝利者が全ての権利、敗者が全ての義務を負う。しかし、それではバランスを欠くと思う人もいるので“チャリティ”が税の控除対象になっている。日本は“再配分”主義なので収税と助成や補助は同時進行させない。
 さて、前出した、“恐怖”というのは“心と行動”に不思議な影響を与える。多くの場合「不安の源泉」は先入観や言葉にしえない抽象性である。一方、『恐怖』はその原因となる具体的対象がある。簡単に言えば、多くの日本人はアメリカに対して不安を抱き、北朝鮮に対して恐怖を抱いている。となると、中国に抱いている感情はなんだろう。温度差があるとしかいえない。
 禅者諸君。以上の文脈から何を学ぶか。正義や価値観の源泉となる『道徳や倫理』は絶対では無い
と感じたか。感情や情動は一瞬たりとも同じではないが、結果に関わらず活力の源泉になる、ということを感じられたか。
 禅は、以上のような世界の日常や、人類の心の違いや変化を十分に知り、その本質を見抜き、それらを全て捨て去る修行である。
 つまり、禅は、『不安→恐怖→克服→自由を実感して安心→大安心(自利利他)』という流れを坐禅により実現し、大安心をも捨てて森羅万象と共に生きることを体現する。だからこそ、先ずは“疑う”。釈尊と同じように『不安を原動力にして世界を疑い→恐怖の本質を理解し→因縁を得心し→全てをあるがままに受け入れて安心を築き→大安心(幸せ)』へと向かう生き方そのものである。
一日一生 慧智(070424)
★願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを


投稿者 echi : 08:06

2005年03月07日

野狐禅和尚の辻説法『菜根譚・前集132からの警告』№688

昨日、偶然に出会った釈宗演老師の菜根譚訳本の、偶然に開いたページに、以下の教訓があった。私と宗演老師では経験や生きた時代が異なり、受け取り方に多少の違いはあるものの、皆さんにとって大事な内容だと思うので、2年ぶりに掲載します。
■前集132項
善人未能急親、不宜預揚。
恐来讒譛之奸。
悪人未能軽去、不宜先発。
恐招媒蘗之禍。
◆訓読
善人、未(いま)だ急に親しむこと能(あた)わずば、宜しく預(あらかじ)め揚(あ)ぐべからず。
恐(おそ)らくは讒譛(ぎんしん)の奸(かん)を来(まね)かん。
悪人、未(いま)だ軽(かる)がるしく去ること能(あた)ずば、宜しく先ず発(あば)くべからず。
恐(おそ)らくは媒蘗(ばいけつ)の禍(わざわ)いを招(まね)かん。
●解釈
相手が善人と解っていても、本当に親しくなるまでは、相手を褒め称えてはならない。
さもなければ、それをやっかんで、陰口を使って仲たがいをさせ、利益を得ようとする下衆な輩が現れるだろう。また、相手が悪人と解ったとしても、近付かれた以上は、悪事を働く前に排除してはいけない。それをすると、恨み妬みを買い、悪さ以上に大きな被害を受けるだろう。
つまり、活人は、何事にも時期があり、処し方があることを知って、実行している人間なのだ。
言い換えれば、一寸先に明かりを灯せる心の眼をもった人なのだ。
とは言え、禅では「善を思わず悪をも思わず」と説く。自他一如に二心無し。短期的に騙した騙されたという考えは嫌うし、相手の意見を定数とも変数とも思わず、あるがままに受け止めて、決して無理をせず出来る事はする。そして、自利利他に徹するように教え、何が起ころうと結果は自然に成るので、足るを知るように教える。さて、善悪が分かれる前には、何があったのだろう。実は何もかもカラッポなのだ。善悪は分別。巷では善を行い、悪を為すなというが、その真理は善悪などに囚われず、拘らず、偏らず、無心に淡々と生きよということだ。
慧智(050307)

投稿者 echi : 06:56

 
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