2007年06月14日

●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

 ネット禅会に参加している方から「出家は僧侶になること思っていましたが、“在家出家”ということが他宗には有るようですが、出家の意味を教えてください」という質問をうけたので、活人禅宗としての見解を話そうと思います。元来、出家は、家を出て修行に入ることであり、柵を切り無一物となることです。そして、剃髪して仏門に入り仏に帰依する『得度』とセットになって初めて、『僧侶』になると言えます。
 つまり、僧侶の一大事は“柵から自由になる”、言い換えれば『解脱』する。言い換えれば家族や近親縁者と結ばれている“絆(きずな)”を100%断ち切り、全ての人間、全ての現象と公平無差別の絆を結ぶことと言えます。簡単に言えば、私有、所有という“愛着(煩悩)”や、父母兄弟姉妹への“愛情(煩悩)”を一旦は捨て、全ての現象や存在と“等距離”になること、即ち“慈悲”に生きることです。ですから、正しく、文字通りの『本来無一物』を生きることです。何か“仙人”のような感じがするでしょう。現実には、“煩悩の凝縮”といえる一人の人間を他の人間と差別し義務と権利の対象とする『結婚』が、仏門でも一般化し、本来無一物のはずが地所家作、車などの私有財産を持ち僧侶が多く居ます。つまり、職業としての僧侶、身分としての僧侶、生き方としての僧侶・・・、いろいろな僧侶がいます。それが現実であり、質問者が疑問を持つのは当然です。この説法でネット禅士の質問を取り上げたのは、快楽追求主義である自由主義・資本主義、禁欲主義と言われる共産主義や社会主義などを引き合いに出して、拙僧の考えを述べるためではなく、『~主義』という考えも捨てるのが出家得度だということを知らせたいから
です。偏らない心、囚われない心、拘らない心。それが本来の“自由”という心で、現実から逃避せず、“あるがまま”を受け入れて尚、自由に生きることが出家だと考えています。言い換えると、「したい事、すべき事」という心を捨て「出来る事」に生きることで、『出家』は物理的な問題ではなく、心の問題だと考えています。ですから、仏門に居ても出家ではない人もいれば、家にいて出家している人も居るのです。
 ところで、あなたは初対面の老婆と実母を無差別公平に扱えますか。扱えれば出家、扱うことが出来なければ在家です。『性愛から始まり族愛、理愛、博愛というプロセスを通じて慈悲に至る』のが人間です。そして。それらの段階は重畳的に現象し続けつつ重みが変わってくるのが人間の成長です。例えば物欲は性愛+族愛+理愛の投影であり、やさしさは、博愛までのプロセズの全ての投影、受容は慈悲までにプロセスの全ての投影なのです。ですから、出家は『煩悩を踏まえつつ慈悲に生きること』だと考えています。
一日一生 慧智(070614)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 09:13

2007年06月02日

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

 以前、茂原の両亡活人禅堂に参禅に来られた方、職業は精神科医師で森田療法、内観療法に詳しい方から、四行日記の内でも未来日記が統合失調症の患者に効果的だと久里浜の療養所で伺ったので、要点を教えてくださいというメールを頂いたので、お応えします。
 先ず、昔から『禅日記』や『坐禅日記』として、本来は邪道であるが、室内での己の心境などを記録として書き留めておく者もいたにはいた。そもそも『四行日記』の原点は、“そこ”にあったと言うことも出来なくはないが、何もかも“禅”に帰着させる気は無い。しかし、禅は本質、原理、原則を見抜いて『智慧』を会得し生活様式、行動様式とするのが肝であり、結果として科学的なアプローチの帰結と一致する故に、四行日記も例外では無いといえる。
 なお、四行日記は小生の俗での専門分野の一つである『ストレス心理学』の定説に根ざした方法論であり、思考行動様式を計量する計量心理学の知見が無くして『FFS理論』はなく、当然、四行日記の潜在力は半減することを前提に置いて欲しい。
 ご存知の通り、“日記療法”は、心傷の原因が究明されて総括され完治できない“心の傷”がトラウマを形成したり、現実と理想の乖離が認知を不協和状態に追い込み、軽度ないしは一過性の精神疾患が見受けられるクライエントに、事実の客観視を訓練し、セルフカウンセリングとしての気付き部分をフィードバックさせ、思考や行動の変容を生み出させる手法である。それは、何も非健常者のみに有効なものではなく、“自分の存在意義”に疑問を感じたり自分を深く探求しようとする成長願望があるものには極めて有効であると認められている。小生が提唱する『四行日記』や『未来日記』は、禅において体系化されている公案や、悟りのメカニズム、中枢神経系・免疫系・内分泌系の生理機能を利用し、世界で一番短く、コストがかからずに効果が高いセルフカウンセリング法として開発したもので、出家からすると邪道だが、居士が参禅修行している時の記録法としても有効だと考えて皆に教えてきたもので、私の科学者の立場からはFFS理論、四行日記、セルフエクスパンディングプログラム(SEP)として“健常者”の更なる成長促進のために紹介しているが故に、非健常者への『日記療法』としての応用については、専門的な指導者が指導しない限りは危険なので敢えて公表を避けているものです。
 ご存知の通り、四行日記の構造は『事実→発見(気付き・悟り)→記憶(教訓・一転語化)→発明(現在進行形による行動宣言)』という構造であり、水面上に居られる方々が、それ以上に飛躍し、己の潜在力を120%発揮させるための変容過程をシステム化したもので“目的達成型”、『読み替えれば“参禅日記”』と読み返ることが出来るものです。一方、未来日記は、“願望(望んでいる自分の姿)”を、日々の反省と都度の勇気付け自分自身で行なうことで、目標達成型という構造にしていあります。何れも、先ずは『自己肯定』がポイントです。ただ、四行日記では『個性(個別的特性)の強み』を活かすことに焦点をあてていますが、未来日記では『個性の弱みを認める』ことで強みに気付かせ、認めて活かせるように考えてあります。つまり、水面下から水面までを未来日記、水面から空中へを四行日記が担っています。
 この辺りは、今秋には四行日記の改訂版が出ますが、“奥の院”としておくことが大事ではないかと思い書くことはありません。言い換えれば、この辺りから深く入るのであれば、個別指導、禅でいうなら“室内参禅”という方法しかありません。
 よって、申し訳在りませんが、専門的な話や議論は、お会いしてと考えています。がしかし、専門家であれば、此処までを読まれれば、見通せるはずです。遠まわしになりましたが、質問に対する応えとさせて頂きます。

一日一生 慧智(070601 小林惠智として記す。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 01:16

2007年05月16日

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

 究極の答えは『禅を体得した者以外に“自由”は無い』ということだ。言い換えると、禅を極めることは、“自由の自覚を得る”ことだ。だから、欧米には“自由”は無い、と断言しても過言では無い。
自由とは、“主観”という幻想から覚めることだ。自由においては、主観も客観(≒主観)も無い。自由とは“無心”のことだ。只それだけ。道徳的・倫理的・法律的など意に反するの制約が無い、ということが“自由”なのではない。今一度5月1日の説法を読んで欲しい。
 君は重力から自由になれると思うか?。宇宙に出れば重力からも自由になる、と応えるか?。食欲から自由になれるか?。環境から自由になれるか?。そもそも自我から自由になれるか?。辞書の定義から自由になれるか?。自由民主党に、文字上の自由はあるが、本当の自由はあると思うか?・・・・・。
 つまり、自由は意思でも意志でも無い。自由は、“本来”であり、『自ずからに由(よ)る状態』をいう。『由』の文字を見ても解るだろう。“由”は、田んぼから芽が出てくることだ。芽は誰かに命令されたか?。気(期)が熟せば『自ずからの由(よし)により発芽する。言い換えると、自由とは、“あるがままにある”、“あるべきよう”ということだ。
 良寛さんの言葉を借りれば、『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』こそ、“自由”を自覚している表現だ。死ぬまいとするから不自由になる。解るか?。相手を自分の都合で動かしたいというから、不自由になる。解るか?。自他不二に逆らい、相対的に、対象を考えるから“主人公”の椅子が危なく感じて不自由になる。“随所作主”は自由であってこそだ。自由であれば、何処でも主だ。解るか?。
 科学は考えなければ解らないが、科学を考える科学哲学は考えの所産を放棄している。限定合理性の範囲外、つまり無限定という自由な状態では科学は無力なんだ。ミクロとマクロの僅かな領域でのみ有効な科学を、現代的に言えば、科学は“コンビニ”、便利だけど絶対では無いのだ。“自由”を知りたければ寺に来て坐れ。10年坐れば誰でも解る。一日で解るかもしれん。
 これ以上、応えようもない。あ、そうだ、“科学”に毒された頭は科学から解放されなければ、自由のスタートラインにも着けんぞ。欧米風に云えば、自由は我、欲望からの解放だ。だから欧米には“自由”がない。自由が無いから共生が出来ずに、争い競うことを続けるしかない。
 “悟り”とは“本来”全てに行き渡っている『無一物中 無尽蔵』の“自由”を体現して(竿の頭まで行く)、現在の全てをあるがままに受け容れる(戻ってくる)ことだ。
 ところで、君は自由になりたいのか?自由を知りたいのか?不自由なもんだな。皆、本来は自由じゃないか。刑務所に入っていても自由な者は自由。六本木ヒルズに住んでいようと不自由な者は不自由という方便が伝わらないかな・・・。残念。考えすぎると体を悪くするぞ。馬鹿に付ける薬は有っても利口に付ける薬は無いか。御免。あんたさん、もしかしてミスター・マリックか?メニュー見ただけで腹がいっぱいになるんかな?

一日一生 慧智(070515) 『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 16:56

2007年05月10日

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。

 鈴木大拙に拠ると、慧智和尚の般若心経の解釈の終わりの呪文のところで、文字は『羯諦羯諦』とあるが、正しくは『掲帝掲帝』。意味は『行って観よ』ではなく正しくは『来た・着いた』だと書いてある。・・・・・という、御指摘を頂いたので、お応えしよう。
 先ず、文字については“当て字”であり何種類もある。特に呪文は"音”こそが肝であり文字はどうでも良いはず。心経のように、音訳であって意味をも伝える時は“漢字”は慎重に選ばれる。つまり、呪文の文字に何が正しくて何が間違いだということは無い。況や、鈴木大拙師が正しいという思い込みは如何なものか。
 次に、拙僧が『行って観よ』と訳しているは、大拙の『禅学』とは聊か異なる発想からである。そもそも般若心経は"空”と解いているが、解いているだけでは心経が担った使命を果たせない。確かに、単純な翻訳なら大拙氏の『来た・着いた』であるが、『来た・着いた』と言って良いのは拙僧の解釈では『釈尊のみ』である。拙僧は、心経を菩薩(修行中の仏)に読ます場合は『来た・着いた』ではなく『行って観よ』と訳すのがスジだと思っている。
 『禅(宗)』は、修業こそ肝であり、『不立文字』を深く理解していれば、文字に囚われているのは愚考であると解るはず。そもそも『経』には音訳(一種の陀羅尼)と意訳、それに和讃があり、何れも修行の補助が目的であり、それに囚われてはならない。
 因みに『経』は、ある意味で意味が解らない方が無心となることを促進すると思う。つまり、意味が解りそうな場合は、看ようが読もうが、意識への働きかけが強く、『直指人心』の障害になる。『教外別伝』とは、文字や言葉を離れたところを指すもので、仏の心は修行者の心に内包されているので、その浮上を支援できれば良いのだ。
 さて、Yさん。中途半端と中庸は違いますな。学と修、行も違いますな。大拙と慧智も違いますな。ところで、Yさん、貴方は誰ですかな?。拙僧は釈尊であり達磨であり貴方ですよ。禅を学問と考えるのは欧米人に多い。何故なら『宗教はキリスト教しか許さない』からである。となると貴方はクリスチャンかな?。まあ、何でも宜しい。一度は寺に来て坐りませんか?。拙僧の文殊一刀流警策の乱れ打ちを受けてみませんか。限界に来てしまった二元論を超えてみませんか?。それが『両忘』の意味です。Yさん、大拙を読まれるとは素晴らしい。しかし、それにはそれなりの理由があるだろう。背景には言い難い何かがあるのだろう。待っているよ。何年先でも構わない。 
 拙僧は、いつの日にか『羯諦羯諦』の訳に関して参禅者から指摘があると期待していた。しかし、残念
ながら3年以上、指摘も質問も無かった。
 なお、『行って観よ』が間違いだと指摘する人は、『来た・着いた人』ではないから、『行って観よ』が正し
い。何も指摘しない人は『行き先が解らない人』か、『来た・着いた人』。後者の『来た・着いた人』は拙僧の真意が伝わるので指摘はしない。前者の『行き先が解らない人』は指摘が出来ない。となるとYさん、貴方はなかなかである。しかし、大拙を読むのは早すぎる。先ずは坐ろう。
◆蛇足:人間、指摘されている内は現役でいられるが、指摘を受けられなくなると引退しかない。今日は、少々辛い日であったが、「未だ死ぬな現役でいろ」という応援を受けたようで嬉しかった。感謝。
以上
一日一生 慧智(070510)久しぶりに全身が硬直し骨が折れるような痛み、されどそれは生きている実感をくれる。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合掌。

投稿者 echi : 19:30

2007年05月07日

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

 どこで調べられたのか、お会いしたことの無い女性から電話で「強くなりたいんです。和尚さんの強さの秘密を教えてください」と聞かれ、「私が“弱い”ことを知っているだけですよ」と応えたが、納得いただけなかったようで、「強いことは辻説法を読んでいるから解る」「私は乳癌で手術したが転移し、死ぬのが怖くて寝ることも食べることも出来ない」「助けるのは和尚の仕事でしょう。だから、強くなる方法を教えて欲しい」・・・。随分と長電話になったが、拙僧の未熟さゆえ、楽にさせてあげられなかった。そこで、これを読んで頂ける事を期待して、“強くなるコツ”を伝授しようと思う。
 先ず、少しだけ冷静になるために、読んでください。
耳で聞けば同じ、読んでも同じ音、正に“異句同音(≠異口同音)”だが、文字を観れば異なる興味深い四文字熟語があるので紹介します。
■『一刀両断』とは、一太刀で、AもBも、両方を断固として切り捨て、迷いを断ち切る。
 禅語の
■『一刀両段』とは、一太刀で、AもBも両方を活かし、新たな境涯を作らせ、迷いを消滅させる。
 
次に、文字は同じだが、意味は微妙に異なる一転語があるので、紹介する。
 碧巌録十二則の圜悟克勤和尚が羅山道閑の言葉を引用した件の
■『殺人刀 活人剣は上古の風規、今時の枢要』
 無門関 第十一則の頌である
■『眼は流星、機は掣電。殺人刀、活人剣。』
 以上から、“空”を説き、“無心”となることが”究極の智慧”であり、あらゆる相反は上位に統合される“一如”であることを体得するのが『禅』であることは連想できるでしょう。
 元気であろうが、病であろうが、“今・此処の己”を活かし切り、一日一日を全力で生きることが、“弱い人間”と思い込んでいる人間が強く生きてゆけるコツだと知ってほしい。
 刀も剣も同じ矛。矛より強い盾もあり、盾より強い矛もある。それらが互いに対立することを“矛盾”という。また、殺人刀と活人剣が両刃の矛とすれば、理と情の相克に迷う時もあるだろう。知っていますか、文殊菩薩の剣は両刃です。
 弱い心と強い心が対立するのが“不安”の現況で、具体的な恐怖ではない。実は、そこが厄介。しかし、人間は本より、全面的に強い、全面的に弱いなど無く、経験知に惑わされた幻想、思い込み、先入観です。人間には夫々に個性があり、不安や恐怖の対象が異なります。ただ、それも宇宙から観れば些細なことです。
 どう考えても、人間は健康に生き永らえても100年。しかし、38億年の下積みの上での100年。つまり、貴女は38億三十歳、私は38億五十七歳。所詮、早いも遅いも誤差範囲でしかないんです。
 私は、人間は“病気や怪我”では死なないことを知っています。もしかすると、それを知っているから強いと思われるのかもしれません。死ぬのは寿命が尽きるからだと思います。何らかの役割を終えるからだt思います。
 世の中に不要人間など誰一人としてなく、皆、気付く気付かないは別にして役割をもって生まれ、役割を終えて旅立つのだと思います。人間、どんなに健康であっても“明日”は未知、誰にも解らない。だが、100年後は誰でも確実に死ぬ。
 そこから考えると、全ては“考え方次第”、時間の使い方次第だと思いませんか。
 確かに“痛い”のは辛い。私だって感じる。しかし、“痛い”と感じるのは脳であり、それを受け止めるのは“心”なんです。
 私は、人間に強い弱いの差別・区別が根本的にはあるとは思わない。が、貴女に百歩譲り、仮に強い弱いがあるとしても、前出したように、その原因は、“真理の気付き”の有無だろうと思う。しかし、真理は気付こうが気付くまいが真理であり、心理。 『真理が心理を正し、心理が真理を歪める』と思う。この世は諸行無常。無常迅速。時不待人。光陰可惜なんです。死ぬことは娑婆の修行の仕上げ、と考えたらどうだろう。人より早ければ優秀なのかもしれない。
 もし、痛みと不安が別々のものなら“苦”を『一刀両断』すれば”楽“になる。苦楽一如ということだ。
 苦しいものは苦しい、痛いものは痛い。それを乗り越えるには『一刀両段』。使う刀剣は、殺人刀か活人剣かの違い。
 活かそうと思っても死ぬことがある。死なそうと思っても活かすことがある。人生は矛盾だらけ、『一切皆苦』と同時に『一切皆空』、『苦楽一如』。
 事実だけを受け容れるか、余計な詮索に忙殺され偏見までも受け容れるかが、貴女の考える心の強弱を分けているのかもしれない。貴女から観て私が強く、貴女が弱いと思うから、貴女は相対的な強さを求めからだろう。私だって死ぬことに不安があるかもしれない。しかし、それを考え、悩んでいたら、残された時間を楽しめない。「痛い痛い」と言って、何もしなければ時間の浪費。何かに夢中になれば痛みは和らぐ。勿論、それは坐禅が理想的。時間の浪費は長生きが保証されるならモタモタ人生でも良いかもしれない。しかし、そんな人間はいない。命には賞味期限がある。賞味期限をを知って、それを活かせるのと、賞味期限を知らずに時間を浪費する人生では、何れに価値を感じるか。
 『痛い、苦しい、不安だ』なんて天下国家の安寧を考えれば些細なことだ。
 ところで、『脳と悩』の文字の違いは何処か。“身体か心か”という違いに気付くだろう。しかし、心無くして体なく、体なくして心なし、という事実からすれば、体と心に区別も差別も無い。
 坐禅をしてごらん。心と体は不可分不可同であることを体験するよ。
 確かに、不安だろう。しかし、誰だって不安の一つや二つはある。確かに恐ろしいだろう。でも、そんなことに忙殺されちては、残り少ない人生を楽しめないぞ。
 無理しても食べろ。辛くても坐れ。そして十分に寝ろ。残された時間を楽しめ。
 成長させる責任のある子供があるのか、無いのかは知らないが、親は無くても子は育つ。夫がいるかいないか知らないが、貴女が居なくても大丈夫。地球には30億人もの女性がいる。誰か一人くらい奇特な人は現れるから、後は任せればよい。年老いた親が居るのかもしれない。それでも大丈夫。日本の祉は捨てたものではない。返し切っていない借金があるかもしれない。心配無用。金は天下の回りもの。
 ところで、何が本当に心配なんだ。泣いていても何も始まらないし、何も解決しないで、大事な時間が過ぎるだけ。
 自分の弱さが心配なのか。人間には出来る事と出来ないことは誰にでもある。出来る事に時間を使おう。出来ないことを悩んでいる閑はない。診断結果だって医者の意見でしかない。私なんか日本の名医といわれる医師の三人が異口同音に『余命6ヶ月』と太鼓判を押してくれてから、丸3年生きて、人生最後の仕上げを一日単位でしている。寿命なんてものも解らん。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きる。どうせなら立派に生きよう。立派に死のうよ。
 悪いことは言わないから、兎に角、坐れ。幹部の痛みや心の痛みなど幻想だ、足の方が余程痛いぞ。不安は幻想なんだ。お化けと同じで、出た験しが無い。事実は、死ぬまでは生きているし、真実は、命は無限だということ。生に執着するな、拘るな、死に囚われるな。死ぬのか人間として健康な証拠。
 ところで、ドナー登録はしたか?他の人が使える部品があれば残してやりなさい。忙しいだろうが、時間が限られているなら、ノンビリと悩んでいる閑はないはずだ。自分のために生きるには限界があるが、他人のために生きるには限界はない。お互い、価値のある死に方をしようよ。それが『生きる覚悟』ということだ。大丈夫だ。我々が死んでも世界に影響は無い。むしろ、生きている事の方が問題かもしれない。
では、秋葉原辺りの冥土カフェで△印の鉢巻でもして会おう!只、今生きている奴と死んでいる奴では、圧倒的に死人が多いはずなので、お互いに出会えるかどうかチョット心配。
 どうしても苦しいなら、私のところに来なさい。苦しい心を私の前に出せれば必ず無くしてあげるから。
一日一生 慧智(070506)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:25

2007年05月03日

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

『慧能大和尚の禅』について詳しく知りたい場合は『頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經(通称:壇経)』を通読された後、今・此処で貴方が出来るを完全にし切ることを奨めます。
 とは言え、問われた以上は、記憶の限りで応えましょう。しかし、慧能大和尚の禅は“頭(我)”では無く“心(己)”であることは言うまでも無く、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏の達磨大和尚の四聖句に見られる禅の肝の中の四句目にある“見性成仏”に力点が置かれているのが特徴と言えば特徴。
 『見性成仏』を文字や言葉で語ることを拙僧としては躊躇いがあるものの、言ってみれば、仏教の常識。当たり前のこと。誰に聞いても異口同音で、活人禅らしい答えに困る。
 つまり、『本来、此の世に現象している全てが公平、平等に埋蔵している“仏性(空に働く無一物の力)”に気付いた瞬間、己の内に埋蔵されている仏(無限の智慧)が萌芽し、即心菩薩となり、己(我ではない)とは即ち修行中の仏、菩薩であり、菩薩として、今・此処の己を素直に生きることこそ、己の外に何かを求める“我”ではなく、己の内の己(仏)を活かすこと。
 されど、簡単すぎて難解な慧能大和尚の心を理解する上で大事の全ては、達磨大和尚の五代目にあたる『五祖・大満弘忍大和尚』が後継者を選ぶため、弟子に対し、「詩に表した『悟りの心境』を観て決めるぞ」という『不立文字』から発想すれば愚問であって難問の思い付きに始まった、秀才にして高弟の誉れ高き『神秀』と、愚鈍に映るような下働きをしていた『慧能』の境涯を表す、以下に掲げた二人の詩から“己自身で”学ぶことを奨める。
 なお、ヒントとしては、慧能が弘忍大和尚の後継となって六祖になった後、周囲から囁かれたのが『神秀の漸修禅』、『慧能の頓悟禅』という有名な話を考えると良い。拙僧がそこから類推すれば、『神秀は左脳型の秀才、慧能は右脳型の天才』で、共に本来無一物の“凡才”から禅の修行により成長した“普通の人間”だということを導き出すだろう。さて、質問者は何を見出すか楽しみである。
 付け足しになるが、禅宗において“祖”とつくのは六祖慧能が最後となるのは、その後は南方禅の慧能系、北方禅の神秀系に分かれたからである。
→先手を打った神秀の詩は以下の通り。
■神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
→後手を打った慧能の詩は以下の通り。
■慧能の詩
菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
★問う:二人の詩の提示順序が逆さであったら、五祖は如何にしたか。(内緒だが、活人禅の公案の一つ)、まあ、書いた以上は永久に封印だから予習の意味は無い。
応えは以上である。

★最近、HPからの質問は増えたが、参禅者は減っている。活人禅は、堅苦しいのが嫌い。気軽に来て、気軽に坐って、楽しく山作務。『一泊二日三食四坐五月の坐禅は六祖の禅、無くて七癖、八百屋もビックリ、九労は無いが十実も無し、それでも実現、大子で大悟は3000円』。敷居は低く鴨居は高いが襖は無い貧乏寺。その上、全能の神は居ないが“禅脳”の死に損ないの和尚はいる。楽しいと思うがな。5月の禅会は、19(土)・20(日)。詳しくは★http://www.ryobo.org/sche28/sche28.cgi ★メールは info2@ryobo.org  大子も春爛漫、和尚は昼寝。軽薄短小、野狐禅和尚は禅僧の恥部。本日体調を崩し、ついに体温は40度。歩くと浮いているようで、頭は暴走、心は房総。海が見たい!
梯子と弟子は文字姿が似ているな~。何が違うのかな?

一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 15:20

2007年05月02日

●『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか?という学生からの質問に応える

■「『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか」という疑問がHP来訪者(学生)から寄せられた。そこで、過去、何回か書いてはいるが、再び、活人禅が考えている日本語本来の意味としての“自由”を“自由”として、質問者が考えているとと思われる『自由』を『自由』と書いて説明してみます。なお、“自由”でも『自由』でもない“手前勝手”は、自分だけに都合が良い未熟な軽薄なる“我”の表出として、ここでは触れません。 さて、質問者の考える『自由』は、二元論(二分論)世界、還元論世界の価値観が生んだ自我と対峙する“他(彼)”、例えば天変地異など天然の驚異、間断なく刻む時、意思に反して従っている権力(法律)、否が応でも従うことになる家系的な伝統、遡ることが出来ない過去の積み上げとしての文化(神を含む)・・・などからの拘束や圧迫から解き放たれたFreedom:フリーダム、Liverty:リバティという英単語の持つ意味を、日本語の“自由”と思い込んでいるのではないだ
ろうか。だとしたら、日本人がそれを『自由』と呼ぶのは全くの見当違い。また、仮に百歩譲って、質問者が思っているのが『フリーダムやリバティ≒自由』だとしても、そこには『権利と義務』から『責任と権限』への人間的な成長を前提とし、『自由』は予め与えられているものではなく“勝ち取るもの”であり、学問、修養、労働を通じて得られるもので、学生には自由は無い、と理解出来ているはずである。言い換えると『フリーダムやリバティ』は、西洋社会では然るべき前提がある概念であり、自我を取り巻く制限された外界から開放されるのが『自由』であり、それは相対的概念であり、絶対的概念ではない。
■他方、東洋社会(とは言っても仏教、特に臨済録などの禅書を背景にもつ日本文化)における“自由”とは、“自に由る(おのずからに、よる)”という父母未生以前から内包している“自然の理由と共にある自然の一部である己”、全てを“あるがままに”受け容れている状態を指し示す仏教用語を語源にしたもので、近代におても円覚寺(臨済宗)所縁の故人である禅者(禅学者)の鈴木大拙と西田幾太郎の二人でも解釈は微妙にずれてはいるが、概ね相対的概念である自我、煩悩から“取り戻す”対象が“自由”で、簡単に言えば、勝ち取るものではなく“最初からある”囚われない、拘らない、偏らない心そのものが“自由”なのである。言い換えれば、自由主義は、主義という拘り、囚われ、偏りの凝縮である以上“自由”ではないのである。
■そもそも言葉や言語は、言語学的には“PAROLE:パロール(個人的“言葉”・方言)”の集まりである“LANGUE:ラング(言語)”というように分けるという西洋思想が下敷きにあるので、『自由』は言語学的に理解できるが、“自由”は禅を全身で学ばなければ解らない概念です。
■結論的に言えば、自由を二元論的な表現で言えば人間の自由は唯物論的自由と唯心論的自由があり、一元論的な表現であれば自由は自ずからの由”、“素より”のあり方ということになる。
■大胆な表現を使えば、西洋人の『自由』は懲役からの解放である目に見える世界の規範であり、本来の“自由”は、先入観を捨てた心に映る宇宙の規範と言っても過言ではないだろう。
■質問に対する答え
 ①全ては縁起により生起する“空”を理解している。
 ②相対的な認識で振り回される我は実体ではなく幻想であり無我≒己を理解している。
 ③事の本質は己の心の中にのみあることを理解している。 ④あらゆる先入観を捨て去っている。
心が以上の状態を実現できている時の心が自由であり自在に動ける融通無碍が実現できている状態、生死をも超越している心の状態を言います。
■蛇足①
西洋人は西洋哲学における自由の定説では『人間には自由は無い』という結論を乗り越えるため、本物の自由を得るには“禅”しかないと思っている人が大多数なのです。残念ながら、それでも西洋人は西洋人なのかもしれませんので、禅の修業は厳しければ厳しいほど本物の自由を勝ち取れると思っているようです。
■蛇足②
第二次世界大戦中のヒットラーが求めた西洋的自由と、アウシュビッツの入り口にある看板にある「労働で自由を(アルバイテット マハト フライ)の西洋的自由は、底辺では同じなのです。本当の自由とは“不戦”と“協働”の同時実現です。つまり“不二”、萬法一に帰すということを全身で体得した人間の心の状態といえます。

一日一生 慧智(070501)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 00:56

2007年04月27日

●『無差別 無分別』って神を冒涜する和尚のような“悪者”のことです、という高校生からメールで受けたので、少しだけ説明をします。

 高校生なら十分に知っているだろうが、『物事は確率的に存在し、観測により実在が確定することは無く、物事は本質的に“空(性)と力”の具現である(量子論)』
 更に、『人間は“我”によって、人間や物事に対する愛着や執着が生まれ、それが“苦”の原因となる(仏教)』、『禅においての“我(アイデンティティ)”は、実体を伴わない幻想であり、“我”に左右されない純粋な“己”、即ち“仏性”の真相こそが純粋な智慧である“無分別智”なのである』
 因みに、活人禅では、以下の通り。
■知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫の知恵=差別知
■智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧=無差別智 
 所謂、二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
それが“ご都合主義”の源泉でもあり、永久不変の実体など無いことが衆智されている現代でも、所謂ところの我執、自我、アイデンティティという幻想を『不変の実体』として“変わらない自我”があるように勘違いして生きている世界で、分別・差別・競争が正当とされている畜生・餓鬼・修羅に準えられる知恵の世界である。
 一方、“我”が分別して生み出す妄想や煩悩を消し去り、物事を正しく検知する能力は、差別を伴わない平等の世界であり、各々が縁により生じている自覚から“出来ることに全力を尽くす”世界であり、『幻の結果より真なる過程』を大事にする無差別智の菩薩の世界、智慧の世界である。
 なお、俗世間では、心を意識・前意識・無意識のような構造とする場合が多いのですが、真理は一つですが、衆生に解りやすいように、仏教的では“分別と無分別”という方便を使いますし、頭と心という場合もあります。
 専門的には、脳の全体機能である“心の構造”は、無意識層(命の識:植物の識)を最下層に、前意識層(動物の識)、意識層(人間の識)が重畳的(地層化した)三層一体構造をなしているというのが精神身体医学や大脳生理学の知見ですが、脊髄を最下層とした四層構造を主張する方もいます。
 それらの機能を表す動詞的な表現を使うと『魚の脳→ワニの脳→馬の脳→人間の脳』となり、『生きている→生きる→都合よく生きる→より善く生きる』と表現されたりします。
 勿論、38億年の生命進化、46億年の地球的進化、150億年の力学的進化の産物としての一体構造ですから、絶えず上位は下位の構造を前提としています。
 最近、分裂症、分裂病という名称は差別的だと“統合失調症”というニックネームをつけられた精神障害は、前出の三ないし四階層の共鳴に器質的障害があるか強いストレス状態の防衛本能として同調を解除している状態です。鬱症状や鬱病は、その部分的な非同調が引き起こします。
 また、細胞は、自己複製の原型であるDNAという物質構造からなる染色体・遺伝子を格納している生命の最小単位であり、それらは全て分子構造を有し、分子構造は元素・原子の科学的結合であり、元素原子は核と電子、核は素粒子、素粒子は・・・、最後は量子(光速で動く力の結晶とその機影である波)となり、『存在は現象であり、現象は存在である≒色即是空 空即是色』の単位体であることは衆智となっているが、人間は人間の原点を完全には解明できていません。
 そのような力学性・光学性・現象性・物性を持つ構造を原点として成り立っている“生命”は、時として、単位個体である“自身”の不安や恐怖を解放する活動に成功し、その成功を単位同士に共有させると同時に上位構造に転送させた“安心”の個体的経験を“実体”と錯誤した二次的な経験を素材にした“物語”という幻想(妄想)を創造し、伝播する度に洗練化させ、やがてはその夢想である個人的な経験を集団に提供して共有化が図られ、個人的で原始的な権力構造を安定・助長・強化させる過程で、それらを磐石にするために『人格化させた神』と『神の代理人』と『権力者』が出来上がり、発展途上にある大衆の細胞レベルに宿る命の抽象的不安を、具体的な恐怖に統合して支配する構造が出来てきたのが”初期の社会”で、数千年前の少数の人間の“小さく他愛無い嘘”が洗練され、矛盾を昇華して来たの“神”の歴史であることは十分に知られています。
 言い換えれば、そのような過程を経て、支配する側とされる側の人間の未必のコラボレーションにより完成させた『神』という概念は、如何なる時代の『権力者』にとっても極めて便利な道具として、大衆の“不安と恐怖心”を利用して彼らを支配するために、『共産主義や全体主義』など、神に取って代りたい独裁者以外には、神という名の権力者の傀儡は捨てられることは無かった。
 つまり、神を冒涜するつもりなどない。存在しえない文学の世界の登場人物を、どうして冒涜できるだろうか。それを何と名付けるかは、歴史や文化、言語体系により異なるが、宇宙の本質は“力”であり、仏教では、それを“仏”と名付けているに過ぎない。仏像などは芸術世界との融合で、単なるインテリアである。しかhし、『物』もまた仏性の具現であり、私達人間と同様に大事にされなければならない。
 高校生なら、今使われている鉄は、地球生成時代に地球に衝突した隕鉄(石)であり、石油や石炭は初期の植物の異性体。樹木は人間や動物が吐き出した二酸化炭素を固定したものであり、植物が生産している酸素を我々は呼吸に用い、植物と動物は互いに開放生態系でガス交換している“共生体”であることは常識のはず。
 だからこそ、バクテリアの一匹、小石の一つまで、我々と同じ地球の構成要素であり、人間だけが地球の住民だというのは、思い上がりで、一瞬一瞬の生命現象に“感謝”が必要なのである。
 貴女が何を信じるかは自由です。しかし、神より大事なのは“貴女自身”です。己の外に想像上の絶対者を求め、崇め奉るからこそ“戦争”が起きてきたのです。神のために人間が死に、環境が破壊されて良いのだろうか。
 助言します。貴女は貴女を先入観を持たずに探求しなさい。すると、貴女が“仏”であることを理解できるはずです。そして、“人格化された神”は、救いの便法であることに気付くはずです。
■拙僧は、僧侶が天職と思っている。しかし、寺に居て弱者の拠り所になることだけを善しとは考えていない。全ての人間に“幸せ”に生きてもらいたい。全ての人間が自分を自分で経営できる経営者であって欲しい。それが幸せの源泉であることを知っているから。幸せとは“無知(不安や恐怖を抱く心の状態)”から解放された自由であり、大安心の境地である。自分で自分を限定して縛りつけている『無綱自縛』の綱の切り方を身をもって教える(生き様を曝す)ことだと思う。
 禅の考え方、科学の考え方、哲学の考え方には、夫々の世界観があり、互いに矛盾するような表現もある。しかし、煎じ詰めると“一”であり“無”であり“空”であることは自明の理。それを、「それぞれの分野の井戸の中にいる方々に、解り易く話す事で人類・地球は平和を確保できる。それ故、三つの世界から排除されようと、教師と言われようと、反面教師と言われようと、辱めを受けようと、一切構わない。また、禅坊主らしい『和顔愛語』などに興味はない。それは年寄りに任せる。拙僧は、守銭奴の世界、無知の世界に住み、命ある限り智慧の普及を行なう。怒らない禅坊主は禅坊主ではないと考えている。そこが何処であれ、自利利他を実践・実現するためには、正しく見る、正しく聞く、正しく生きる、そして正しく書く、話す。淀んだ淵をかき混ぜれば波風が起こる。自分さえ良ければという世界では“風当たり”は強いし、足を引っ張る者も多い。しかし、拙僧は、脇道は歩かず、“大道”を行く。年齢、性別、人種、宗教、貧富など所詮は幻想。分別による差別には全く興味がない。『山川草木悉皆成仏』、地球は一つ。世界も一つ。人間は夫々が独立しつつ、夫々が出会い補完し合う相補現象。だからキリストさんは菩薩さん。マリヤさんは観音さん。アラーも菩薩さん。彼も彼女も皆、仏さん、貴女も仏さん。生きてさえいれば“それ”に気付くチャンスはある。死んで仏になるより、仏として生きる方が幸せに決まっている。死ねば“幸せも不幸せ”も感じることはない。地球に戻り、宇宙に戻るのだから。
一日一生 慧智(070427)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 18:21

2007年04月24日

●質問「和尚はアメリカという国が嫌いなんですか?」と27歳の日系アメリカ人。

 拙僧は、ご存知の通りアメリカの連邦組織や大学と8年の間、深い関係にあった。しかし、そこでは“好き嫌い”の感情は生まれなかった。ところで、国家に対して好き嫌いなど感じるものがいるだろうか。国民や文化なら解らんでもない。しかし、それは滅茶苦茶な表現で、自分の知る限りの文化、人間に対する感情であり、その背後にあるのは“心”だろう。心は留まる事無く変わる。変わらぬ心などない。何故なら“心”が瞬間的な現象だから。
 さて、問いに応えよう。嫌いではない。同時に好きではない。つまり、感情の対象ではない。勿論、貴殿が理解できるかどうかはわからないが、拙僧は“好き嫌い”を持たず、来る者は例外なく受け容れるし去る者は例外なく追わない。
 拙僧にとって重大事は、『物事を先入観を持たずに純粋な事実として正しく見て、論理的に正しく考えて事実の背後にある本質を求め、自分勝手な解釈ではなく、偏らない考え方に従って考えた結果を堂々と伝え、郷に従い違法性の無い自信の持てる正しい仕事や行動を行ない、只管に精進し、確信するが妄信しない一つの考えに集中し、一日を一生に準えて寝る前には即身仏となる』。そこには、小人の専売特許である好き嫌いなど入り込む余地はない。
 ところで、多くの日本人が好きな国はアメリカ、と言うと統計的なデータがあるようだが、貴殿は“世界で最も悪質な無差別殺戮である原爆を2回も落とす国、自国の経済的繁栄のためには、人類をも犠牲にして省みない国、人種差別や不合理、不条理を“正義”と呼ぶ国に国籍を置いているようだが、誇れるのか?聞きたいのは好きか嫌いかではない。そんな感情は聞く必要性も感じない。今日は好きでも、明日は嫌いなんてことは山ほどある。『誇りに思うか、埃と思うか』に答えてくれ。
一日一生 慧智(070424早朝メールに応えて)

投稿者 echi : 08:59

2007年04月23日

●坐禅の要諦は『無我実現≒自己実現』

 本日の講演会で『“坐禅”とは何ですか?念仏とどう違うんですか?』という質問を受けたが、立ち話であり時間も無かったので、ここに書き残します。
 先ず『坐禅』が“自我の完全否定、つまり真空無想(本来無一物)・無念無想の心境の現前である“真”の“自己実現”であることを理解しておいて欲しい。そして、自己は“自我”を空じて『無我』の心境を体現することであり、一意専心の“一”をも捨てた心境である。
『念仏』は、前出の一心不乱に念仏を唱えるという“一意専心”であることを理解されたい。つまり、『禅』は、念仏や難行苦行という大学課程を卒業した者が、更なる探求(己事究明)のために入る修士課程や博士課程である“大学院”のようなポジショニングにあり、“卒業はない修行”であると理解されたい。勿論、指導教官(師)から修士課程修了(印果)の証明書を受け取ったり、博士号に準えられる法嗣者となるよいうな場合もあるが、決して“卒業”はないものである。
 なお、勘違いしては困るのは自己と自我の違いである。巷を闊歩するA.Hマズローの『Self-actualization』が日本語では“自己実現”と翻訳されているのは明らかな誤訳であり“自我実現”を意味していることは明白なことである。詳しくは「人間性の心理学(初版1954年)」を原書で読めば直ぐに解るはず。ヒントは、マズロー自身が心身一如という絶対的平等の真理を理解できず、概念として人間が作り上げた文学作品としての“神と我(心と体は分離)”を前提とした差別を肯定しているところがポイントとなる。
 さて、念仏と決定的にことなるのは『坐禅』は儚い夢幻に何かを委ねたり、“帰る”だけでは半人前であり、“また帰る”ことが重要であることは、十牛図あたりを参照すれば直ぐ解るだろう。つまり、坐禅により“本来の面目(元の住処≒父母未生以前の己)”に帰えり、そして戻ってくる。“行くも帰るも法の声”であることは白隠禅師の坐禅和讃にもある。
 言い換えれば、“自我”を抱いて父母未生以前の世界へ帰り(行く)、“我”を捨てさって本来の自己(面目)である“空”と一体化した“己”として帰ってくることである。これが自己実現(本来の面目で生きる)の正しい定義である。
 蛇足だが、拙僧は、病の為か、大愚和尚の言葉ではないが、黄檗和尚の“老婆親切”には疑問があると言われたことと似ているが、余計なお節介として懇切丁寧に話したがる傾向があり、禅者の本物の悟りの妨害をしているかもしれないが、平に許されたい。
一日一生 慧智(070423)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

投稿者 echi : 07:32

2007年04月10日

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

世俗の常識を全面的に受け容れると、人は夫々、夫々に夫々の人生の目的があり、当然に目標がある。
目的は、目標の集合で、目標の全部が達成された時、目的は自動的に達成する。
目的を達成させるための行為の全てを総称して、戦略という。
目的達成の節目ないしは重要な要素である通過点に合理的に置かれた目安を目標という。
目標を達成させるための行為を戦術という。
目標達成の手段である戦術は、標的単位で戦闘という行為が行なわれる。
つまり、『戦闘は標的を射止める行為、戦術は目標を達成させる行動、戦略は目的を達成させる活動』で、それらは階層化されており、論理学的に正しいことを要件として成立する。
そして、それらの知見の源泉は“軍事技術”が整理され洗練された結果“経営”の概念となっている。
つまり、国家経営も、企業経営も、組織経営も、家庭経営も、人間経営も、哲学という原点、思想という枠組みをもった上で、それらに対して論理的で合理的であることが絶対条件である。
なお、それらの哲学・思想・目的・目標・標的・活動・行動・行為に一貫性を互換性を担保しつつ進捗を計画し実施状況を調整して統合するもが“管理”であって、経営=管理、管理=経営は成り立たない。
また、それらの階層分化を設計する上での必要条件は、米国のコンサルティング会社であるマッキンゼー社が『Mutually Exclusive and Collective Exhaustive(相互に重なりなく、全部集めたら漏れがない)』がコンセプトとして提言した、と言うか論理学の世界では“当たり前のこと”をである、略称『MECE(ミシー)』という構造になっている論理構造図(ロジックツリー)が完成していなければならない。
更に、社会構造に言及すれば、目的達成をために編成されるのが社会組織であり、目的と規範がない集合は集団に過ぎない。このことは、全ての組織に共通する概念であり、家族という組織もまた同様である。
 因みに、家族とは最終的に解散することを暗黙の内に共有している核(単位)家族と、貴族や富豪一族のように解散を前提とせず拡大を前提とする形態を“家”ないし一族(華族ないし豪族ないし伝統的家族)という。故に、核(単位)家族は、相続を前提とはしておらず、従って資産形成が目的とはならないので、必然的に消費傾向が高まり、蓄財より費用対効果の確実な教育などのサービス消費が重んじられ、“家(一族)”に置いては、資産の継承を重視するために、耐久消費財への消費はありが、基本的には土地や金融商品などに関心が向けられ、蓄財傾向が高まる。
横道にそれたので話題を戻す。
上記のような論理展開を理解し、目的が決まれば、それに必要な戦略の大枠は決まり、戦略が決まれば自動的に組織構造が決まるというのは自明の理である。
そして、企業などにみられる組織構造は、目標単位で纏まりを作ることを要件としている以上、目的達成責任者である代表者と組織目標達成責任者である管理者が置かれ、目標達成責任者がその請け負った目標を全て達成すれば、組織の目的は自動的に達成することとなる。
故に、目的達成責任者は、部下である目標達成責任者の目標達成を支援するのが使命であると断言できる。
◆以上のような概要を詳細に解説し、個別の事例を調査研究し、クライアントの要求に従い、組織を設計したり、人材編成を行なってりするのが、在野での小林惠智の仕事のひとつである、ただ、現実的には『経営』という「仏教用語を語源とする統合的教育活動」の全般を担うことになり、在野においては、それらは“科学(方法が正しければ同じ成果が出る)”であることが当然のように要求されている。所謂“普遍性”の探求が、在野での私の仕事である。質問者は“それ”つまり、回答者が置かれた立場を理解して置いてください。
注記) 経営とは、『予め設定された目的・目標を日々の営みを経て達成させること』というのが定義である。

さて、巷で考えられている経営が完璧であったにしろ、それで“心”が満たされることはない。私は、それを全身で体験し知っている。解りやすく言えば、理科の実験室でレシピ通りに作られた料理を、シャーレやフラスコや試験管を食器として使う食事のようなもので、安全で安心故に、頭で考えれば最高の出来栄えであっても、それは味気なく、況や“心”が満たされることは決してない。況や、それを満腹な状態で食べたり、嫌いな食材が入っていたら“食糧”として、物理的エネルギー源としては十分だが、最も大事な要素が抜け落ちていることになるのは容易に理解できるだろう。
 そこで、頭と体、心身二元論が前提にある“科学”を幾ら寄せ集めても、人間を幸せには出来ないということ多くの科学者に理解され、二十年程前の『線形科学から複雑系(非線形)』という考え方が芽生え、同時に研究が始まり、結果として当時最も最先端の科学であった素粒子論、分子物理学、現在では量子論力学(量子論は科学と哲学が止揚された究極のアプローチ)は、“物”を中心に置いた二元論を疑問視することとなり、蹴った敵に二元論という“有無”の論理体系は無力化し、“力”を中心においた一元論の世界に足を踏み入れてしまった。その最初がサンタフェ研究所の前身であり、私がFFS理論を提唱する切っ掛けとなった戦略研究所の仕事であった。
 つまり、その時点から限界に達してしまい、限定的な合理性すら担保できなくなった科学が、無作法にも“頭で考える禅”、俗称でビート禅などと呼ばれている世界に足を踏み入れ、“禅の考え方”が、東洋思想から世界思想へ、思想のデファクトスタンダードに向けて動き出したのは事実である。ところが、一部の頭でしか理解していない修行体験を持たない一部の禅者は、それに気を良くして、有頂天となって『古い神が死に、新しい神が創造された』などという暴言を吐き、それがローマ法王庁の心を逆なでし、禅はバチカンから弾き出され、今日では嘗てのマイノリティの地位に後退してしまった。しかし、「それでも地球は回る」と言い続けているのが海外で修行を続ける“ZEN者”なのである。なお、その“新しい神”とは、“力”を意味しているのであって、父母未生以前の己であり、新しくも古くも無く、始まり無く終わり無く、減る事無く、増える事も無い“本質”なのである。その辺りは質問者が、本気になって般若心経を読めば解るだろう。
 話を進めるが、私は、前出の科学者同様に、『禅』を伝統サイドからのみ見ている禅僧ではない。禅の本来は全ての表現は固有であり、真似事を極端に嫌い、過去に固執し、師の言葉に拘り、偏った考えで自由を放棄することをもっと卑しむ。つまり、それでは禅僧ではないのである。『A≠AでないからAである』と書けば、聡明な相談者には類推できるだろう。ところが、既存の宗派は、自由闊達であることを伝統を危うくするものだとして嫌った。禅の伝統は生身の人間の成仏(生きながら仏になること)であり、革新であるはずなのだが、である。
 故に拙僧は“逸れ坊主”となり本山系からは異端扱いされ、禅僧であるが故に、現行法の中で法人格を必要となり、結果的に自身で宗派を立てざるを得なかったのである。勿論、それこそが“本物の禅僧”と確信しているし、葬式仏教との決定的な決別をも意味している。
 つまり、『禅』は今此処を生きている者が“幸せ(大安心)”に生きて行くための方法論であり目的論ということなのであり、“坐禅”は、その方法であって同時に目的なのである。
 更に付け加えて言えば、“禅”は、現代において最先端の知識を超えた“生きる智慧”なのである。なお、智慧は頭に蓄積記憶され再生される単純な知識ではない。しかhし、それらの知識は智慧を得るための通過点、捨て切る素材としては必ず必要であり、無知であってはならないのは事実である。例え話であるが、知識・地位・資産を得て、それを守ろうとする心こそが不幸であることを体験できないと、全てを捨て去り“大安心”の体験をすることは、本質的には出来ないのが凡夫の悲しさである。なお、誤解が無いように付け加えるが、出家得度して禅堂で最低でも十年暮らせば、如何なる凡夫であっても“本質を全身で悟り、智慧を得る事は無限である。
 話はまだまだ途中だが、質問である「生きながら仏になる道(菩薩道)」はに対する答えを、杓子定規に表現すれば、『本来無一物』を生きるなさい』としかいえない。
 しかし、その前に、一人ひとり、誰をも例外にせず与えられている個人固有の能力(強み)を発見し自覚し、今此処で活かし切り、自分に与えられた能力を出し切りましたか、と問いたい。
もし、未だに出し切っていなければ、俗世間で納得できる成果(大目標と言っても良い)は、実現できていないはずで、そんな状態を、禅を利用して脱出しようと考えるのは100年早い、と言いたい。
だから、逃げることではなく、先ずは、成功を勝ち取るまでは、在野の規範、“科学の世界(ニュートン力学の世界)から足を踏み外してはならないのである。
それは野球の試合は、野球のルールに従い、相撲は相撲のルールで行なわなければならず、野球に相撲のルールを適応させては野球にならないからである。そして、野球選手として技術的に秀でて、実力者として評価されても、野球は人生の一部であり全てではないのだかから、究極の幸せ(大安心)には至らないことを実感できるのである。
例えば、京セラの稲盛氏が、何故、得度し禅の世界に足を踏み入れたか、元総理の中曽根氏が・・・。成功を極めた人々、最先端の科学者・・・。彼らが何故“禅”の道に、在家であるか出家であるという分別差には関わりなく踏み込んで来た理由は、お分かりだろう。
付け加えるが、お金や地位は、使うためにある。ただ、自分の為に使ってはならないことを肝に銘じておくべきである。私は、師から、そのように教わってきたし、納得も出来ているので実行している。それが社会にどの様に映るかは、受け取り評価する側の人間の“心”次第である。
「素直に生きる」「社会の為に生きる」と松下幸之助氏は言った。成功したからそのような発言が出来るようになったのではなく、そのような心で働いていたから成功したということを理解しておいて欲しい。
◆拙僧が思う有質問への究極の答えは以下の通りである。
生きながら仏になるためには、『一日を一生に準え、謙虚に、真面目に、誠実に今の仕事を徹底し、一日30分でも良いから、静かに坐って(坐禅)、呼吸と姿勢を整え、心の乱れろ毎日修復すること』です。
当たり前ですが、己の体を風呂に入れのは誰ですか。心も同様です。心身一如なのですから。故に、場所は何処でも構わないので、風呂場でも結構です。安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼しである。
因みに、禅寺では、古来から“浴室(風呂)・東司(便所)・食堂(ダイニング)”は三黙堂と言って、坐禅と同じように厳粛に無言の修行の場となっていることからも“修行は日常に潜んでいる”ということは想像はつくだろう。
 
 以上、少々長くなりましたが、定年後の仕事と人生で迷われているというメールを頂き、結論は貴方が出すにしろ、団塊世代の大量退職の時代に、仕事と人生を考える方々のヒントになればと、同世代の人間として体験を書き残しました。
 最後に一言:“死ぬまで現役”、“死ぬまで全力”を心に、気張ることなく淡々と持てる能力を使い切りましょうよ!
一日一生 慧智(070410)

投稿者 echi : 11:24

2007年04月01日

●”七歩歩んで天上天下唯我独尊”とお釈迦様は生まれて直ぐ歩いて喋ったと聞きましたが信じられません。本当ですか。(墨田区・中学生)

和尚ズ.JPG
私は釈尊ではありませんので、文字通りの事実は確認できませんし、聖書と同じような創作話は信じないのが宜しいでしょう。しかし、『何故、そんな話が作り上げられあなたが聞くことになった』のかは真剣に考えることに値するでしょう。
 因みに、我々に伝わっている『~七歩歩んで天上天下唯我独尊~』とは、釈尊という人を例えに出しただけで、『七歩』とは地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上(菩薩)という心のあり方である“六道”の先の一歩で、『如来(宇宙そのもの)』の凝縮の如く、どんな赤ん坊も、過不足なく全てが整って生まれてくる“唯一無二”の存在であり、全てで一つの現象というのが人間の本質であることを伝える言葉としてです。ですから、その他の表現は“方便”であり、『真理を発見し、真理に至る道を発見した釈尊』に対する心からの畏敬の念がエスカレートして“超人化”させてしまった表現だと思います。
 禅の心は“先ず疑う”ことが第一歩です。最初から信じたら、それに囚われ・拘り・偏った考えになってしまいます。ですから、疑って疑って、疑う過程で、疑いが解けたら、それを”あるがまま”に受け容れる。それでも疑い、疑い、疑うものが無くなり、疑う心が消えるまで疑いつくす。それが“禅”です。なお、一番先に疑うのは“己”の考えですよ。己を無にして初めて“大疑”がもてるんです。
一日一生 慧 智(070401)
★驚き:海外の画廊から拙僧の“悪戯描き”を一枚5000円で何枚でも譲ってくれという話がありました。御浄財5000円は托鉢に出たら1週間分。悪戯書きは3分とはかからない。不思議な世の中ですね。過日、紙すきをして、出来栄えをみようと筆を走らせたら、職人さんが「だめだ!書いたら売れなくなるっぺ!」と言われて怒られたのが夢のようです。しかし、本来は売るものではないので困っています。

投稿者 echi : 15:06

2007年03月27日

●『悟』と『悟後』の連続性について問う、とカナダのネット禅士から迫られた。

禅士:「『悟』と『悟後』の連続性」とは如何に。
慧智:「それでも月は地球を回り、地球は太陽を回る」と
禅士:「では、修業とは」
慧智:「即今」
禅士:「智恵とは」
慧智:「足の裏でもなめろ!」
禅士:「裏とは表の反対か」
慧智:「手をなめてみよ!」
禅士:「無明とは」
慧智:「東京は夜だがカナダは朝か」
慧智:「早く仕事に出ろ!」
禅士:「言葉による解説の意味は」
慧智:「離却語言、語言三昧、東京の桜はもうすぐ咲くよ」
慧智:「坐りなさい。働きなさい。食べなさい。寝なさい」
 最近、ブログへのアクセス数が爆発し、海外の日本人からの“~らしき”が増えた。一方、日本人は沈黙。『禅学』への問いなら、禅文化研究所のDBにでもアクセスすれば済むだろう。にも関わらずである。“問答”は修行者同士の挨拶。修行に入っていなければ“言葉遊び”である。一日に十通近くは深刻な相談があり、海外に出ていると日本語による刺激を求めたくなるのは解るが、『時不待人』、深刻な相談を優先させてもらうので、次回からは“手紙”にして下さい。慧智 拝(070327)

●追記
更に『質問』がありましたので、お応えします。
質問:『公案』は、修行者でなければ理解できないのですか?
慧智:カーーーーーーーーーーッ」
□公案は、禅者同士が境涯をチェックするためのもので、師の室の外には持ち出すことはタブーです。
勿論、公案と問答も違います。
また、比喩ですが、初関のような師が“入り口”での決意を知ろうとするための学士過程の公案と、在家修行者である居士のための“竿の上”の古則に則った修士課程の公案と、独自の境涯を披瀝させる“竿頭の一歩先”の博士課程の公案とはまったく違うと拙僧は考えています。
 ましてや、『公案を理解する』というのは、禅学者の類であり、頭で考えている限り“禅”とは言わず“哲学”の類でしかありません。悪いことは言わないから、先ずは10年坐りなさい。
 当寺では、この3年、公案を与えたものはいません。それが“答え”です。それが全てです。
合掌 慧智拝 

投稿者 echi : 03:25

2007年03月21日

●『活きる生き方』を教えてというネット禅士からの質問に応えて

 拙僧が思うに、究極的には「生まれて死ぬ」ことが“活きる生き方”なのだが、それでは“活きる”という部分の自覚が出来ないだろう。自覚するということは“意識(有)”の問題で、無意識(無)ではない。本当に“無心”に生きていれば、“活きる”という意識ではなく、“活かされている”という無意識からの叫びに満たされ『日々是好日』や『無事是貴人』が考えずとも、思わずとも全身を満たしてくれる。だが、未だ修行中(悟後のことではない)の身であり、機械的な生産と機械的な消費という生活を余儀なくされている多くの人々にとっては『活きる生き方』、言い換えれば“納得できる生き方”が出来ているか否かでは、『“楽”の世界である浄土と“苦”の世界である地獄』の差があるだろう。禅は“自力本願”と方便的には考えても良いが、実際には『自他一如』であり自力VS他力という差別は無いということを以下の考えを読む場合には、せめて頭では理解しておいてください。そこを理解していないと『善因善果・悪因悪果』と『善悪一如』が同時に実現している一元論、『因縁論(原因は過去にあり、今は縁により現象中の過程≒故に『果』は『因』と不可分不可同)』という前提に矛盾を見てしまうからである。
 『不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏』を掲げているのに、グダグダと面倒な前置きをして申し訳ないが、質問の背景にある“心”を私なりに解釈したからである。『和眼愛語(和癌遭悟という今の心境ではない)』とは程遠い冷たい言い方に聞こえるかもしれんが、己が『活きる生き方を知って、己を活かして生きてゆこうという意志(ないし意思)の背後は、“活きる生き方”をすることで満足(安心)感を得たいという利己的な思い(邪心)か、それが人間としての当然の姿だ、使命だ、あるべき姿だとかような、ややもすると偏った拘り、囚われに近い強い価値観(脅迫観念的)ものがある場合もあれば、語彙の問題で“そんな表現”しか出来ないが、純粋で素直な思いの場合もあるだろう。しかhし何れにしろ、“今・此処の己”が不安定な状態にあることは確かだと思うから前置きをしたのである。勿論、「教えて」という『自由(自ずからに由る)に生きられない依存心にもが問題があるのは言うまでもない。また、『活きる生き方』は、“生活”と“死活”という言葉の語源をキーワードに、例えネット禅会での坐禅であれ、坐禅と仕事を通じて己事究明に挑戦していれば、自ずと答えは内にあることに気付くはずなのだが、拙僧が“そう”言ってしまえば“反面教師”を標榜する野狐禅和尚の名折れになる(そんなことはどうでも良いが、『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』だ)。
 その上、禅士が東大法学部→ハーバード→財務官僚というキャリアがあると拙僧に伝えていることから推理できるように、優越感を持ちながらの懐疑であり、本当に頭脳明晰なら、解るはずである。つまり、悩むのは、禅士が既に“有”の世界の成功者であり、捨てるべき垢が多すぎるというマイナスからの出発だからこそ、敢えて“有”の世界で通じるであろう“グダグダ話”をせざるを得ないからだ。
 良いか、よく聞け。ここまでの話は一週間も本気で坐れば、自然と気付くものだ。であるのに、難しく考えようとするのは高学歴者固有の“無知”のなせる業だ。グダグダと考える暇があるなら、己の能力を今、目の前にある仕事に120%注ぎ込め。働いて働いて働きつくせ。それが如何なる評価を得るかなどに囚われるな。独り善がりの満足感など捨ててしまえ。
 大体、過去の仕事の充実感に思いをはせ、拘り囚われ、己の理解に偏りが出てしまい、“今・此処の己”に与えられた仕事への疑問を原因に不安な毎日を送っているなどと、ほざくのも嘆かわしい!。嫌なら辞めて寺に来て住み込みの下働きでもしろ。そして時には禅堂の末単にでも坐れば、拙僧が警策の代わりに木刀で脳天を打ってやる。そもそも“人間は何か”程度のことは人に問うことなく己の全身で考え、己に問え。知的能力だの肉体的能力だの、仕事能力だの作業能力などと分けて考えるのは大衆に対する方便だ。世の中に不要な人間もいなければ、欠くべからず人間もいやしない。一人一人に個性(個別的特性)という得意・不得意があるが、全ての人が“主人公”だろうが、違うと思うか。悩むくらいなら“人間”を辞めてしまえ!!!。物(無心)となって自動的に全てのためになれ。それが『死』であり「死して活きる」ことだ。「活きて生きる」ことを望むなら、『一日一生』、己に与えられた環境で全力を尽くして生き切れ。大馬鹿者が。もう疲れたから寝る。
一日一笑 慧智(070321)

投稿者 echi : 12:47

2007年03月15日

●如何なる化『菩提心』に応じて

ネット禅会の禅士から、「如何なるか『菩提心』」と問われた。
拙僧は、「自分で答えてご覧」と返した。
続けて「自他一如」と。

 坐禅をしている時、50%程度のレベルの禅士なら、自問自答という心の動きに出くわす。何故なら、聞く相手が居ないからだ。つまり、本当に己を無に出来ていれば、聞く人と答える人の区別はない中途半端だから、己の中に師と弟子が出来る。
 母に会えば子供になる。しかし、禅者なら、母に会えば母になる。
それが、『単(一)』になること。頭で考えた事は『一切不是』。
禅士:「単(一)」になる術は如何に。
拙僧:「無を知る者と共に生きよ」・・・・「(0+2)÷2」=1(これは冗談)
拙僧:「余念を捨てよ」
禅士:「つまり・・・・」
拙僧:「カーーーーーーーーーーーーーーーツ」

「比較」する事なかれ。
比較とは、心の内に対象物があるから起こる。無心(余念を無くす)となれば、比較は無い。
それは、禅堂でなくても出来る。どこでもできる。歩歩是道場。
それが『菩提心』。
菩提の心とは、余念の無いこと。
一日一生 慧智(070315)

投稿者 echi : 10:44

2007年02月12日

●坐禅と瞑想(ヨガ)の違いは何ですか、と聞かれて。

 ヨガを教えておられる方から電話で、禅堂で瞑想をしたいが「坐禅とヨガ」では、眼が“半眼と瞑る”。手が組む、組まないの違いの他、何がありますかと問い合わせがありました。
 実は、応えに困りました。相手が、ヨガや仏教、禅いついて何を知り、何を知らないのかが解らないと、相手の疑問に答えられないからです。本当は何を知りたいのか。禅堂の規則なのか、禅とヨガの関係なのか。そこで、私は申し訳ないと思いながらも「何のためにヨガをなされているのですか」と、質問で返したが、快く答えて頂いた。「はい、和尚さんですね。私が美容と健康のためにと答えると思われますか」これには困惑。お株を奪われた感じ。そこで「私の聞きたいことが解っておられるのですね」と付加疑問で再度返した。「ええ、多分、和尚さんは私の知識のレベルに合わせて答えようとされていると思っています」。そこで「そこまでお分かりなら何故、坐禅とヨガの違いをお聞きになるのですか」と。すると、「鎌倉の禅寺で雲水の方に怒られたからです」と。「ということは、禅堂の決まりに随わなかったということですね」と。「ハイ。でも禅は全てを受け容れると聞いていましたから・・・」。「そうですよ。拘らず、囚われず、偏らずにね。雲水が叱ったのは、貴女の拘り、囚われ、偏りの心が観えたからだと思いますよ」。「禅堂に来たら禅堂の規則に随うのが自然ではないですか」・・・中略・・・・。
 「禅は己の外に絶対者を持ちませんが、ヨガは神人合一の方法論ですから己の外に絶対者(神)を存在させていますね」「坐禅は釈尊の悟りを追体験する行為であり、あらゆる妄想から脱却する方法であり、それ自身が目的でもあります。お分かりですか?」。「ハイ何とはなく」。「では、坐禅は無功徳。利益を求めず、本来は『一』であった己に生きながら死んで帰る(大死一番)。本来の己と現在の自分を完全に重ね合わせるのですから、眼を瞑り、現実から逃避した妄想の世界に入り込まないために『半眼』で坐りますし、全身の力を抜かず入れずの状態を維持するために手を組むことを必要としています。理解できますか」。「はい・・・」。「では、ご縁があればお出でください」
 さて、彼女はどうされると思いますか。あなたならどうしますか。
慧智(090212)

投稿者 echi : 17:50

2005年07月20日

お応えします『坐禅をすると頭がよくなりますか?』 №810

 高校2年生からの質問がありました。「先日、グループ研修で近くの寺で坐禅をしました。その時、和尚さんが「坐禅を続けると頭がよくなる」と言っていました。それが本当なら来年は受験なので、近くで坐禅を続けようと思い、HPで検索したので質問に答えてください」という内容。
喝!、自分で考えろ!坐禅で頭がよくなるなど聞いたことがない。そもそも、双子がいて、一人は坐禅をさせ、もう一人は坐禅をさせないなどという実験も聞いたことがない。それに、坐禅は“心”がくすまないように、大自然の営みの一部としての自分に素直になる、素直であり続けるための手段の一つであり、くすんでしまった心を自分で綺麗にするもの。“下心”があれば、坐禅にはならない。和尚が話した「坐禅を続けると頭がよくなる」というのは、方便であり、“風が吹けば桶屋が儲かる”というのとかわりない。つまり、君達の“今の在り方”に対して疑問を持った和尚が、君達でも解るように表現しただけだろう。
私の経験から言えば、10年坐った人間と、そうでない者を観察すると、物事に動じない、落ち着いている、どんな状態でも暮せるだろうと思える・・・など、幾つかの共通点を見出すことは出来るが、逆に考えれば、“そういう人間”だから禅堂で10年暮せたと言えなくもない。つまり、『坐禅は結果を求めない』、只、只管に坐る。それ自身が目的であり、手段なんだ。坐禅を経験し、それが下心であれ、多少なりとも興味をもったのであれば、それも何らかの縁。家でよいから、坐禅でなくても良いから、“10年後の自分”をどうしたいのか、ハッキリしたイメージが出来るまで、一日20分、言葉(何も考えない)を使わない時間を持ってごらん。そして、それで感じたことを行動に移しなさい。“下心”があるような者は、その下心がなくなるまで、禅堂ではなく、玄関で坐ってもらいます。勉強や人生のことで困ったことがあれば、どんな相談にものりますが、それと坐禅は別です。坐禅は、自分自身との真剣勝負。“こいつは坐れるな”と思わなければ、誘いません。坐れば、如何なる疑問も“自ずから”晴れる。しかし、“解った!”と思ったら、その高まりが消えるまで坐る。悟っては捨て、捨てては悟り・・・を繰り返す。そして心がカラッポになるまで坐る。すると大自然の一部となり、勉強などせずとも全てが全身で解る。全身が心になる。知識、智慧、叡智は意味が違う。生きて行く上で何が大切か。それは。少なくとも“知識”でも“金”でも“己”でもないだろう。『今、何を成すべきか』、君は“それ”をしていれば良い。
慧智(050720)

投稿者 echi : 07:55

2005年04月25日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:坐禅は、それ自身が目的であり手段だということが和尚の過去帳に書いてありましたが、どうしても理解できないのでヒントを下さい(中学2年生)』 №737

 答えではなく“ヒント”を求めるのは最高の質問者です。ですが、君は坐っていますか?頭で解ろうとしていませんか?それともゴールが見えないと行動できませんか?君のように智慧の回る若者なら、教えなくても坐れば解るはず。坐禅に来たくなった来なさい。でも、今は学校に耐えなさい。
さて、ヒントが欲しいというなら“六波羅蜜”の説明をしましょう。
 六波羅蜜とは、布施・忍辱・持戒・精進・禅定・智慧の六つ。この六波羅蜜こそが実践的菩薩道(生き仏になる道)で、戎・定・慧の三学である実践的精神と対をなすものです。
「布施」とは“貪欲の心”を捨て不特定多数(僧侶や寺という解釈が一般的だが私は拡大解釈している)に財を与え、真理(法)を説いて完全な恵みを施すこと。
「忍辱」とは“瞋恚の心”を捨て去り艱難辛苦、迫害を耐え忍ぶこと。
「持戒」とは“悪業の心”を捨て去り身心を清浄にすること。
「精進」とは“懈怠の心”を捨て去り自分自身で自分の身心を励まし全力で生きること。
「禅定」とは“心の動揺や散乱(不安と言ってもよい)”を捨て去り、心身を統合して集中し安定させること。
「智慧」とは“愚痴の心”を捨て去り、迷いの心から離れて、諸法の“究極的の実相(真理)”を見極めること。
そして、「波羅蜜」とは、“完全無比の完成”ということ。
付け加えると、禅では六つの波羅蜜の中で最も重要なのが『智慧の完成』とされています。言い換えると,“智慧”は“波羅蜜の根拠”とも言えます。そして、“智慧の完成”こそが『無執着の完成』です。如何なる物や事、言い換えると“全ての現象”に囚われることなく、完全に執着しないという“融通無碍・自由自在”は、自利の完成であると同時に利他の完成であり、智慧の完成というものです。
 付け加えますが、君には知識などという相対的であやふやな情報に頼らずとも、君は解るはずだよ。何故か。それは人間として生き物として、現象している状態として“当たり前”のこと以外はないからです。中学生には少し難しいが、私ですら14,5で“坐っている内”に自然に解ったんですから、君なら必ず“答え”に出会えるはず。それが私の“応え”です。
追伸:高校には進学してみなさい。教師に疑問があれば、“己の先生は己”と決め、学校は“場所貸し”程度と思えば良いんです。先入観で決めるのだけは止めよう。焦ることは無い。君ほどの力があるなら大学院を出て本山の管長を目指して10年坐るのが世間のためだ。それが本当の功徳だよ。
慧智(050425)

投稿者 echi : 16:21

2005年04月20日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:法律を守ることが最低の道徳なのですか(中学2年生)』 №733

 先日の中学生から、“法律と道徳の関係”を理解したいと言う内容の質問がありました。過日、助言した通りの質問方法が出来ていました。なかなか筋の良い15歳です。
 さて、お応えです。『法律』には強制力があり社会の維持に必要な最低限の“きまり”、『道徳』は個々人が、帰属する社会の中で、より豊かな気持ちで暮して行けるようにする合理的な“理想像”で、一般的には強制力はないが、常識の根幹ともなりえていると考えれば良いでしょう。つまり、法律の多くは“頭と行動”に注目し、道徳は“心”に注目しているのです。君の仮説では、大正解とは言えませんが、素晴らしい“発見”だと思います。法律すら守れない大人が多い今日において、“法律が最低の社会規準”という考えを中学生が解っているというのは感動です。しかし、そこまで解るなら、もう一歩、前に進んでみましょう。
そこで質問します。『“法律”は自分と他人の今を守り、“道徳”は未来の自分を守る』という道徳人に、“自他一如”という“禅”の世界観からの“ひと言”言ってください。ヒントは“止揚(必ず辞書を読みましょう)”です。対立を相互浸透させて無対立に昇華させてしまうことです。“今”は無限の過去と無限の未来の一瞬の接点で、今という今は既に無い、ということです。
慧智(050420)

投稿者 echi : 16:24

2005年04月18日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:先生は、何を目的に、何を目標に生きていますか?』 №731

 茨城県の中学生から『先生は、何を目的に、何を目標に生きて居るんですか?それに死ぬのが怖くないのですか?という質問』がメールにありましたので、お応えします。
Yさん、“この質問”は、僕に対する興味からか、“君自身の問題を解決するためのヒントを得るのが目的か知りたいな。君は今、中学生。可能性の塊だと僕は思う。だから、質問をしてくれたお礼に、一つ素晴らしいことを教えます。質問する場合には、2つ基本があるんです。一つ目は、調べれば解るような客観的な事実を知りたい場合は“質問しない”で、調べること。そして、その結果が正しいかどうかを質問すること。二つ目は、相手の主観的な意見を知りたい場合は、“自分の意見(私は~と考えます・思います)”、を先に述べるんです。そうしないと、質問された相手、聞かれた相手は、聞いてくれた人の知識や境涯を踏まえて“応える”のが『大人の世界』だから、“どのようなレベル”で応えたら、あなたの役に立つか解らないと辛いんだ。解ったね。
 さて、君の心や頭を理解しないで応答するのは、難しいことだけど、聞かれた以上は応えておきます。
■人生の目的:究極の目的は“幸せに死にたい”と言えるでしょう。ですから“死の一歩手前まで“幸せに生きたい”と思っています。
■私の幸せ:“不特定多数に役立つている”と感じられること。
■大目標:出来るだけ、多くの人に貢献する。
■中目標:一切の差別を捨てる、媚びないなどなど
■小目標:来る者は拒まない、去る者は追わない。お金は他人の為に使う。・・・多分50個くらいの目標があるでしょう。
Yさん、以上は、標準的な中学生をイメージして書きましたが、君がもう少し大きければ、
『目的や目標は意識していません。“今”を全力で生きています』と応えるでしょう。
質問した相手が坊さんなら、殴るでしょう。
 今、言葉の空しさ、自分の未熟さを味わっています。Yさん、有難う。
慧智(040518)

投稿者 echi : 16:25

2005年03月16日

野狐禅和尚の応え『質問:神様は存在するのですか、人間は皆、死ねば仏様になるんですか?』№701

都内の少しだけ辛そうな高校2年生から、上記のような質問を受けましたので、応えたいと思います。
冒頭で言って置きますが、この質問には、その人の立場により60億通りの答えがあるはずです。もし、答えが一つで、それが“普遍的な事実”を示すとすれば、この世には戦争も無ければ、犯罪も無いと思います。
◆そこで、先ず「存在」という意味を考えましょう。
 一般論として「存在」は物理的に在る、という意味で、イメージ(心の中に浮かぶ像)をあらわすことはありません。身近な例ですが、自動車とドライブを考えて見ましょう。自動車は『物』で、ドライブは『事』ですね。世の中にはいろいろな価値観があります。自動車を所有することがドライブに行くより大事という人もいれば、所有なんかしなくてもドライブに行く時だけレンタカーを借りれば良いという人がいます。もし、神様が車のように「物」として存在するなら、何らかの方法で具体的に証明することが出来るでしょう。もしドライブのような経験的な「事」であれば、自然や実在した人間から、心で想像し、心の中の存在として創造することが出来ます。そして心の中に創造したイメージは認知的不協和というメカニズムで、一度信じたことはどんどん強化され、幻影を見ることも自然になります。もちろん事実はひとつですが、真実(事実を心が解釈した内容)は、人間の数だけあると言っても過言ではありません。論理的でなく想像力が乏しい人は、他人に影響を受けやすい人は、自分より強い人、知識のある人、社会的に人気がある人などなどに影響を受け、そのイメージが転化し、あたかも自分の考えや自分の経験のように考えるものです。勿論、それが全面的に悪いということはありません。実際、そのメカニズムを利用したのが「教育」であり、道徳なのですかか。そして、その結果、形や形式になり、後世に残って行くものが芸術や文化というものです。
◆要約しますと、神様は存在すると思う人には存在し、存在しないと考える人には存在しません。
 次に、仏様に関してです。仏様は「仏陀」に対して尊敬を込めた呼称である場合や亡くなった方のその後の呼称であったり、これもまた一人一人の解釈が異なります。一般に「神様は外なる絶対者、仏様は内なる絶対者」と言われたりします。それは、私たちが死んでしまうと「神様の元に行く、仏様になる」という言い方に投影されているように、体が滅びて残るものはなく、神様の所に行ったというイメージとして残された方の心の中に存在し、悲しみを仏様になったということで整理し、心の中に記憶を存在させます。
 つまり、神様でも仏様でも創り主でも、どんな名前、どんな概念でも、全ては「心」の問題なのです。少々科学的な考察を加えれば、素粒子という存在の基本物質は、物というよりは「力」といった方が合理的なのですが、それが沢山集まると「硬くで重い」つまり具体的に感じることが出来る質量を持つ物質(存在)に見えるし、疑いようの無い実体験をもたらします。しかし、それらをトコトン細かく割ってゆくと、そこには「物」ではなく「力」、現在は4つの異なる性格の関係力、5つの現象、6つの塊単位になります。ところが、それは宇宙の歴史と科学的な定説となっている150億年という歴史の範囲で考えられる限定的な合理性で、絶対的と言い切れるかどうかは解りません。つまり、人類は未だ無知と言っても過言ではありません。
 少し飛躍しますが、仏様は全ての人の心の中に現象しているのですが、それに気付かない人には存在しないのです。
 説明が長くなり、言葉だけでは十分に伝えられないことは十分に解っています。それを仏教では「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」といい、コミュニケーション能力と意思伝達能力に対する言い訳のように聞こえるでしょうが、『真理』を伝えるのは大変に難しいことなのです。ですから、一人一人が先入観を捨てるために坐禅を行い心を自由にして感じ取るしかないのです。面白いことにキリスト教は文学的だし、仏教は科学的なんですが、先ずは頭で学ぼう(≒知りたい)ならば、キリストの夢と釈迦の現実を定規にして世界を見ることを薦めます。そして、先ずは、自分自身で自分の考えを持ち、それに固執することなく、その心を実践してみましょう。その実践を通じて、貴方なりの真理を形成できるでしょう。繰り返しになりますが、だからと言って、『私を信じない者は地獄へ行く』などという恐ろしい嘘だけはつかないように。自分が正しい思い込むと、それに拘り、囚われ、偏ると、『対立』が起り、困った世界になるものです。
●究極の答え:あなたの信じることが『真実』です。この問題に『事実』は存在しません。
あなたは此の世に欠くべからざる素晴らしい人間です。そして、この世界に一人しかいない素晴らしい高校生です。今も、あなたの心は、恰も純金のように光り輝いているでしょう。ですから、何があろうと、それを決して曇らさないでくださいね。僕は、いつでも貴方の味方です。
『火に入るも真金の色転た鮮かなり』と云います。『真の実力とは、逆境にあって明らかになる力』です。本当の黄金というものは、火に焼けてもまったく色が変わらないように、人の真価というものも、災難にあったとき、逆境に陥ったときに明らかになるものです。今、迷いがあるのは自然です。世の中が悪すぎます。多分、あなたが、神仏を考えるには、それなりの理由があるでしょう。この次のメールでは、より具体的な話をしてくれるか、さもなければ、坐禅に来なさい。時間がある限り、付き合いますよ。
慧智(050316)

投稿者 echi : 16:48

2005年03月15日

野狐禅和尚の再びお応えします『質問:禅とヨガ、坐禅と瞑想の違いを教えてください』№698

 今日も亦、質問にお応えしようと思います。『禅』と『坐禅』についてはしばしばお話していますので一言で纏めてしまえば、『坐禅は、現実を逃避したり、夢に逃げ込んだりせず、また功徳や利益といった下心を持たず、現存した智慧者である釈尊や達磨大和尚ほかの先達の悟りを“追体験”して心身を解脱し真理(仏の境地)に到達する方法であり目的です。
 一方、『ヨガ』は『ユガ・スートラ』を根本経典とした有神論の宗教的行為であり、瞑想によりヨガの神(霊魂を最高神)と一体化して超自然的な力を得ようとする方法で、その要諦は、呼吸を調え、目を閉じることにより現実の誘惑を避け、両手を広げて神を受け入れて心身の健康を増進させるのが目的です。
ご注意:小生は、ヨガに関する体験は皆無といっても過言ではなく『禅』の側からの視点でお応えしていますので、違いを知りたければ体験をして頂ければ幸いです。何事も先入観を持たず、“先ずは体験”でしょう。
慧智(050315)

投稿者 echi : 16:50

野狐禅和尚のお応えします『質問:禅とデリバティブの関係についての見解はお持ちですか?』№697

昨日の早朝、過激な回答になり易い質問を頂きましたが、“全てに応える”のが禅僧の使命である以上、お応えします。
◆先ず、『デリバティブ』に関する基本知識
 ある商品や資産の価格、金利等に関連した“特定の指標”に依存して“時価”が決定される商品のことを『デリバティブ』と云います。デリバティブ商品は、農産物、金属といった実質資産から短期金融商品、債権、株式、通貨など広範な金融資産です。
 何故、デリバティブ商品ができるかと言うと、企業(人)は不確実性を嫌うからであり、将来の不安(リスク)である市場経済の特徴である将来(実際の取引時点)の受給バランスによる価格変動がおこるからです。その結果、リスクによって企業は、将来大損害を出す可能性と大儲けする可能性があり、それが予算・実績に大きな影響を与えるからです。
 つまり、『諸行無常』に対する抵抗を『デリバティブ』と言い、その背景には無智な人間の悪癖である“競争(勝者の為に敗者を必要とする文化)”があるので、森羅万象の全てがデリバティブ商品に成りうるし、損得に関わる関係者の数を増やすことで“虚業”を作り上げる効果がありますし、リスクを分散する効果はありますが、人類や地球のリスクを消滅することはできません。言い換えれば『知足(足るを知る)』ことの無い“博打打ち思想(他人の損を得とする輩の考え)”がある限り、“餌”となる弱者が存在しますが、カニバリズム(共食い)の正当化の成果が“デリバティブ”とも言えます。
『一日不作一日不食』ましてや『諸行無常 諸法無我 諸法実相』という真理が少しでも理解できれば、『不幸の婆抜き』が此の世から失せるのですがね・・・。自分の神様が一人で“100%”正しいという思い込みがある限り、此の世に幸・不幸の種はなくならず、地球の崩壊はどんどん早まるだけなのです。残念!!!。
仏教経済学者?の慧智(050315)

投稿者 echi : 06:50

2005年03月11日

野狐禅和尚のお応えします『質問:ベンチャー企業の成功の条件は?』№694

一般的に“ベンチャー”という定義はビジネスモデルをコアコンピタンスとするニューエコノミーで、製品・商品・チャンネルをコアコンピタンスとするオールドエコノミーに対峙するビジネスと理解しますが、Yさんが、ベンチャーをどのように定義しているかで応えは変わってくるでしょう。しかし、どんなビジネスであれ、“企業の成功”の条件は、「考える力」と「伝える力」そして「素早く動く力」だと考えていますし、それは、時代が変わっても変わらないと考えています。
なお、それを少しだけ詳しく言えば、次のようになるでしょう。
■顧客・商品のフォーカスが明確であること
 ベンチャー企業成功の条件の一つは、「誰」に対して「どんな価値」を提供するかが明確になっていることです。顧客が絞れているか、商品の機能が絞れているか、いわゆる“フォーカッシング”が明確になっていることである。逆に言えば、失敗の可能性が大きいのは、何とはなく多種多様な顧客に多種多様な機能・価値を提供することであり、前線を拡大しすぎて、少ない資本を効果的に使えない企業です。
■商品(ビジネスモデル)の価値を持続できること
 ベンチャー企業の生命線である「商品(特にビジネスモデル)」の価値を長続きさせられる社内リソースに強みを持っているかどうかです。新商品や新サービスの多くは、何らかの“新技術”を含んでおり、特定の領域に“強み”は持っているでしょうが、問題は“それ”が長続きするかどうかです。商品というよりビジネスモデルと言った方が良いでしょうが、一つの商品が長続きはしなくても、次々と連続的にヒットを続けられるなら別ですが、それはかなり苦しいことでしょう。つまり“日保ち”の良さが要求されるのですから、商品というよりビジネスモデルと言った方が良いでしょう。言い換えればベンチャーに必要な“強味”とは“それ”だと言っても過言ではありません。
■マーケティング力の強さ
 “マーケティング力”という理解され難い。例えば、「一流の技術力(製品)」と「二流のマーケティング力(商品)」の会社と、「一流のマーケティング力(商品)」と「二流の技術力(製品)」の会社では、「一流のマーケティング力(商品力)」の会社の方が圧倒的に強いのです。つまり、マーケティング力に優れている組織は、社員の内で、たった一人の経営者さえ“まとも”であれば、自社の持つ強みを最大限に発揮できる。つまり、"戦略”が実行できるというわけである。何故なら、技術力は外部から調達できるチャンネルでも商品でも外部を利用できるのです。しかし、多くの場合、経営者やマーケティング担当幹部だけは、簡単には得られません。現代はビジネスモデルの時代であり、経営者のリーダーシップ、マーケティング力、そしてマネージメント力が成功の3つの肝の時代と言っても過言ではないでしょう。
■持論:経営は"統合芸術”である
 ベンチャー企業と、これまでの企業に特別な違いはないと思います。『経営力とマーケティング力』は、何も新しい概念ではないのです。問題は、"猿真似”ではなく「自ら考える力(自前の智慧)」の活用です。“自ら考える力”は、有史以来、常に“富の源泉”であり、現象から本質へ、そして本質から“新たな現象”へ、という思考の流れが創られ、結果的に強い“目的意識”と人生哲学が生まれるのです。それが昇華すると、断片的な知識は統合・止揚され、経営哲学、企業理念、商品哲学が誕生します。しかし、それは必ずしも“絶対的に正しい”とは限らないので、絶えず自問自答する必要があり、それは極めて孤独な作業となるでしょう。そんなところから、事業の成功者の多くは“坐禅”をしているのです。まあ、以上を纏めれば、経営力×マーケティング力×哲学=ベンチャー成功の秘訣でしょう。それは正に“科学”というようり“芸術”でしょう。
慧智(050311)

投稿者 echi : 16:52

2005年03月10日

野狐禅和尚のお応えします『質問:会社勤めをしながら菩薩になることは可能ですか?』№692

 “菩薩”になりたい、と思っただけで、菩薩山の五合目。“坐禅”を始めれば7合目。
日々、利他を心がければ8合目。それが実現できていれば9合目。それらが日常の自然体となれば、正に、貴方は『菩薩』なのです。言い換えれば、“発心”すれば『菩薩ジュニア』であるのが私達です。
大乗仏教は『菩薩道』であり、元来、菩薩道は在家仏教です。在家のままで家庭を持ち、仕事を持ち、社会生活の中で分け隔てなく助け合いながら暮してゆくのが菩薩道の本願です。ですから、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などなど、地獄餓鬼蓄生などの苦悩を救う六道能化の菩薩といわれる地蔵菩薩を除いては、どの菩薩さんも髪の毛を長くし、首飾りや腕輪、イヤリングをしています。それが在家の証拠です。
 菩薩道は、上求菩提下化衆生、上を向いては仏の智慧を学び、下を向いては人類に奉仕することです。
 仏の智慧、即ち釈尊が自覚した『一切衆生悉く皆具有す』という仏心は『大智と大悲』が表裏一体となった不可同不可分の心の状態で、今風に言えば『智慧と慈悲』の二面が一枚であるということです。繰り返しますが、『上求菩提』は“仏の智慧”を求めて修行する事。『下化衆生』は仏の慈悲を実践してゆく事です。ですから、悟りを開くということは同時に実践できているということです。内緒ですが、“そこ”が『公案』の肝です。
言い換えると、私のように、時には、衣を着て、手巾をしめて、肩に袈裟を掛け、時にはスーツ姿で金儲け指南をしているなど『菩薩』の風上にも置けない“野狐”か“狸”のような者で、ロクな者じゃないんです。しかし、菩薩であろうという心があるから、少しは多めに見てください。そして、菩薩は仏の仲間ですし、心身一如の観点からすれば、“この身”を傷つけたり、病気なるのは厳禁なのです。『癌』になるなど論外なのです。(懺悔します)
 纏めますと、サラリーマンをしながら、公正公平、自利利他(坐禅+ボランティア+仕事)を行い、『人類』全ての苦しみや悩みを救おうという気持を込めて仕事の時は仕事の目標達成に励み、坐禅のときは四句誓願度になりきっていれば、『悟り』なんか開けなくても、其の身が、そのまま菩薩なんです。即ち、それが活人禅会・即心菩薩会でいう『即心菩薩』なんです。だから、我らは皆、菩薩ジュニア=即心菩薩、安心して利他に励もう!!!)
慧智(050310)

投稿者 echi : 06:53

2005年03月08日

野狐禅和尚のお応えします『質問:上司や経営者にカウンセラーの技術を持たせたいが、どうすれば良いか?』 №690

 最近、注文の多いレストランの如く、小生への質問が多い。実に個人的な内容は質問者のみに返信しているが、より多くの人に知ってもらいたい内容は、ここで応えるように心がけている。しかし、小生は釈尊ではないので、全ての質問に応え切れているかは甚だ疑問ではあるが、質問に対し無心に応えてはいるつもりなので、己の思いを纏める参考にはしてほしい。さて、今日の質問は社員の心の状態を案ずる心優しい経営者からの質問である。「最近、社員の何人かがメニュエル症候群や鬱症状で医者に通っていると聞いたので、部下を持つ社員には「カウンセリング」の勉強をするように指示しようと思うが、どんな勉強をさせれば良いか」というものである。
■この質問に対し、私は『お止めなさい』と申し上げたい。理由は以下の通りである。
◆理由:厚生労働省から心因性の病で休職している労働者は大企業で0,5%、中小企業で0,8%という数字が発表されている。人数で言えば47万人である。これは、健康保険にナイナスインパクト、企業には賃金の過払いが生じ、日本全体では1,5兆円の損害となる。勿論、医療機関は収入となるので、GDPレベルで判断すれば1兆円のマイナスとなる。これらに公衆医学医学の論理を加えて判断すると、心因性の疾患予備軍は500万人となり、労働者の10人に一人は、近い将来には通院する可能性がある。言い換えれば、国家と産業の潜在リスクなのだ。さらに、興味深い数字がある。昨年の自殺者は34427人。分類は、病いによる苦痛を原因とした者は14500人(私もこの数字に入っていたかもしれないが、悔い留まったている)、失業や倒産等の経済的な苦痛を原因とした者が8900人。3万人を超えようになり今回の最高数に達するようになったのは98年の「銀行の貸し渋り」が行われた年からである。「お金があれば死を選ぶことはなかったろうに…」という軽率な風評が流れて、単純な連中は『金が家族より、社員より、況や国家や郷土より大事』ということが強まった。実は金が問題なのではなく『金に依存する弱い心』であり経済問題ではなく『教育問題』なのだ。ところが、近年は経済苦より『心の病』が自殺の原因の主流になっている。何故だろう。だから、上司にはカウンセラーの勉強をさせる、というのも危うく肯いてしまいそうになる。しかし、それは絶対に止めるべきで、企業は『風土改革』を先行すべきだろう。
社員の『健康』は、常識外に過剰でない限り、労働時間や環境の問題ではなく、一人一人の社員の“働き方”の問題である。言い換えれば“やりがい”と“何でも話し合える企業風土”が大事なのである。人間は、それ程“やわ”ではない。1日12時間、300日働いたとしても、心身とも健康でイキイキしている社員は山ほどいる。その秘訣をインタビューした経験があるが、ヒアリングした全ての共通する話もあれば、何組かにグループ分けした方が良い話もあった。勿論、経営者としては、従業員を安全で健康な環境のもとで働かせるという安全配慮義務、健康配慮義務の認識は前提である。社員は“奴隷”ではないし経営者は“君主”ではない。前にも書いたが“経営とは、営みを経て目的・目標を達成させることである。言い換えれば、利害関係人の全てに対し奉仕するのが経営者の役割であり、労働者に甘く、株主にキツイとか、納税をしないとかは経営者失格である。勿論、納税を“誰に委ねるか”は経営者の裁量、戦略判断である。
さて、ここいらで“質問”に対し“反対”を唱えた具体的な理由を述べよう。
先ずは、病人や半病人を作り出す原因を潰しましょう。つまり、『企業組織』の問題として取組むべきで、個人と組織がWIN‐WINの関係構築をしましょう。つまり、個人と組織で目的を共有し、一人一人の目標達成を組織成員全員で助け合える構造と“その価値”を利害関係人の全てに共有させましょう。これは、『従業員満足の高い職場においてはストレス症候群にある患者が少ない』という事実があるからです。言い換えれば、一人一人のストレスマネージメントに配慮した『風土(文化)』を創造することです。
 次に、上司をカウンセラーにしない方が良いという背景には、『利害関係が構造化しているヒエラルキー社会では、上司は部下のカウンセリングは出来ないからである。言いたい事が言えない。上司は上司であるが部下でもあるという階級構造では、上司が部下の心身の健康に気を配るのは当然だが、『心因性の疾患の原因の多くは“上司”だからである。
 ですから、社員のカウンセリングは利害関係に無い“社外”の専門家が宜しい。もちろん、“偽”は困る。本物か偽物かは簡単にチェックできるので覚えておいて欲しい。先ず『社員は、人間は、部下は、上司は・・・』というように個性があり目的・目標が異なる社員を抽象化する専門家は“似非”と考えて間違いない。
少々脱線したが、社員一人一人は、異なる個性があり、其々に強味・弱味がある。言い換えれば、それを活かす仕組みが重要であり、企業が選択枝を用意し、社員に選択権を与えるのがベストだが、社員の多くは自分の強味・弱味に気付いていない場合が多く、先ずは、“それ”を気が付く事が出来るようになる“教育”が必要だろう。人と仕事のベストマッチングは、生甲斐と生産性を向上させ、個人にも組織にも有利に働くのはことを思い出して欲しい。具体的な指示が必要な個性もあれば、目的や目標を与えるが方法については自分で考えたい個性もある。とにかく、組織は個性を殺させて生産性を下げるのではなく、個性を活かして生産性を上げなければ、何れに対する“貢献”も出来ないのだ。小さな会社であれば毎日が教育の機会ではあるが、教育すべき経営者に教育者としての能力が無ければ、欲深な社員の思いのままになる組織が出来上がり、遠く無い将来には崩壊し、最終的に悪は滅びるとしても、その前に善が崩壊する。
最後に付け加えるが、一過性のニュースに対し、流行に乗るような判断をする経営者こそ問題であり、上司をカウンセラーにしようなど言う前に『風土改革』と『経営者自信のレベルアップ』をすべきだろう。理想は『一人が皆の為に、皆が一人の為に働ける補完組織であり、一人一人の個性・能力を活かして採用・教育・配置・評価・処遇し、目を共有し、理念を枠組みとして、全員一丸となれる生産性の高い編成を行ない、利害関係人全ての満足度を上げられる組織』の構築が経営者の仕事だろう。
慧智(050308)

投稿者 echi : 16:55

2005年03月07日

野狐禅和尚のお応えします『質問:和尚は“神”を否定するのですか?』 №687

 短いが的を射た質問を受けましたので、私なりの考えを述べます。
■質問:慧智和尚は“神”の存在を否定しているようですが、私は交通事故で3日間の間意識不明でしたが、その間に臨死体験をして、無限の光の中で父なる神に会い、神が居なければ“人間”も自然も存在しないことを知りました。勿論、それまでの私は死に対する恐怖を抱いていた無神論者であり、他の宗教の影響は受けていません。つまり、純粋な意味で神に会ったのです。つまり慧智和尚も“神の作品”の一つなのです。和尚の文章はほぼ毎日読んでいます。同感するところもあれば、間違いだと解るところもあります。特に、和尚の神に対して理解は、完全に誤りです。何故、和尚ともあろうひとが全知全能の『存在である神』を否定しているのですか?」
◆応え:私は“神”の存在を否定していません。ですから、実は質問には応えようがあるいません。しかし、私と貴方で『神』という言葉に与えた定義が違うので、それはお互いに知っておいた方が良いと思い、『否定していない』という回答で十分だとは思いますが、あえて付け加えておきます。
さて、“神”という概念は人間が想像し創造した“内的存在≒ワイルドカードのような内的存在”の最高傑作であり“理想モデル”でもあり、“道徳的”意味では大変な価値があり、人類の成果の一つであるということは『真理』に気付いた私を含めた多くの方々の解釈であります。反面、『唯一』であると主張する個人や団体が、“唯一”なるが故に対立し“唯一の椅子取り争い”をしている状況は、人間の世界にとって大きなマイナスもあります。さて、応える前に、あなたの主張を整理してみましょう。
あなたの質問の背景には『神は“絶対的な一人(唯一)”である。絶対的な一人の存在が全ての物質や生物を作った。人間の肉体と精神は別物であると臨死体験で解った。過去あなたは無信仰者であった。そして私の説法を読んでいてくれる。』
禅が分別(情報や知識による取捨選択)を否定するのはご存知でしょう。勿論、私も同様です。しかし、『井の中の蛙が大海を知らないように、大海の鯨は井の中を知りません』から、井戸のなかの話は井戸の中で通じる話であり、井戸の中にいる限りは『井戸の中での限定合理性』を前提として考えるべきでしょう。また、人間は物理的肉体を構成する宇宙にありふれた物質の集合であり、各要素間で電気的信号により化学反応が連続する有限である時間的存在であり、解釈という幻想を“自我”ないし“事実”としている生活体です。また、物理的と思われる現象世界での“価値(神もその一つ)”は多種多様で、誰一人として、“神”が物理的存在であることを証明した人はいません。禅語に“壷中の日月は長い”という言葉がありますが、物理学上の変化の単位である“物理時間(時計が示す時間)”と心理学的な時間とは相関関係がありません。言い換えれば、一生は一瞬だとも、一生は無限だとも言えます。しかし、“一生”が他者を観察して語ったものでなく“自己の認識”であれば無限です。私達は己の受精(物から命への転換点)の認識もなければ“死”の体験も出来ません(“自分が死んだ”という認識を生物ができません)。禅では“父母未生以前の本来の面目を見よ”というのがそれで、“全てが二つに分かれる以前の姿”なんでしょうと入門の時に問われ、何年も“それ”を見ようと挑戦しますが、結局は“無”であり“空”であることがわかります。ですから、死はいつでも他人事であり、臨死体験とは“死んでいない人の夢、幻であり、神経や内分泌系が一時停止したり暴走したりしている異常な状態”ですので“生”であります。つまり、貴方が出会った“神”は、あなたの“神”なのでしょう。ですから、人生の宝として大事にしてください。と同時に、あなたが自分の神、自分自身を大事に思うように、他人も自分の神や自分を大事にしたいです。言い換えると、“あなたの神”以外にも多くの神が存在しているので宜しいのではないでしょうか。しかし、それらが“唯一”であると言って、それに拘り、囚われ、偏った見解を流布して自己への利益誘導を行なえば“対立”が起こるのです。あなたはあなたの神を信じて生きなさい。そして、他人にもそれを認めなさい。そして、少しづつでよいから『井戸』の外も見てみましょう。過去、何回も書いていますが『釈尊は“発見者”であり、キリストはじめ一神教の中心人物は“発明者”である』というのが私の考えで、物質循環論からすれば釈尊は私の一部であり、私は釈尊の一部ともいえますし、あなたも同様ですし、キリストと釈尊を100%別人とはいえませんね。なお、私の少ない知見からすれば、『万法帰一(全ては相対的現象であり実体は“無(一)”の変形である)・一切皆空(全ては相互依存の現象である)』というのは、科学的な真理であり、全的な真理であります。勿論、“真理”と主張する意見は、無限にあって差し支えありません。しかし、相互に排他的となり対立するのは不幸なことです。大事なのは『無対立(互いに相手を尊重し対立しない)・無犠牲(犠牲にしない・されない)・自主独立(徒党を組んで対立しない)』ではないでしょうか。
ですから、私は貴方の“神”を否定しません。貴方が会ったということ否定しません。あなたには“それ”が内的な事実でしょう。ただし、それが『井戸の中の出来事』であることは認めましょう。そして、“自分の神”を“唯一だ”と“押し付ける”行為は危険なことだと知ってください。『八百万の神々』は仲良くやれるのではないでしょうか。それとも、一国優位、一人優位の独裁が必要ですか?。己の外に仏なし。人間万事塞翁失馬。60億の自由な民。共有する神ごとの文化。・・・。大事なのは“神”がいようと、いまいと、余計な殺生殺戮はせず、全ての存在に畏敬の念を抱いて他への犠牲を極力強いずに“安心”して暮してゆける世界、一人一人の人間が尊重される世界が大事なのではないでしょうか。
蛇足:快慧さん!祝:一級小型船舶免取得
慧智(050307)

投稿者 echi : 05:58

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House