2007年06月06日

●第1077話 『仏の乗り物は何か』

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釈尊は蓮の華に座している。文殊は獅子の背に座している。普賢は象の背に座している。
では、『仏は何に座しているか』
禅堂で坐れば一炷で解る。

一日一生 慧智(070607)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 23:19

●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

しばしば目にする公案の一節に「問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。恁麼. 會。便不是了也。如何是祖師西來意。庭前栢樹子」なるものがある。言わずと知れた趙州大和尚の『如何是祖師西來意』に対しての名答である。『山川草木悉有仏性』なり『山川草木悉皆成仏』を全身で理解し体験していれば、犬の然り、野狐も然り。況や動かぬ草花然り。その真理を伝えたのは誰か。言わずと知れた祖師である達磨大和尚。その上、目的是作略、坐禅は目的であり作略、目的と手段は表裏一体、不可分不可同となれば、『祖師西來意』は真理そのもの。真理とは全てに投影している『本来』である。ということで問いに対する応えは何でも良いのだが、この公案の構造上の問題は、“問に対する答”という二元論と取る修行者が多くなることである。問は答えであって別々のものではない。だからこそ“問答”という。問と答が別れる前は何だ。“そこ”に真理がある。 さて、今日の現成公案は・・・
問『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』にしよう。
中学生の国語の授業をサボっていなければ「これ」は無意識に自分の領域にある“ある物”を示し、「それ」は対峙している相手の支配下にある「相手のこれ」、「あれ」は対峙しあう二人の領域外にある「“これ”であり”あれ” 」。“どれ”は“あれか、それか、これか”という誰の領域にあるかを知るために投げかけられる“代名詞”であることは日本人の常識。まあ、常識という言葉を発するのは非常識であるから、「あれこれ」言うのは止める。「これ・それ」という時は対話だが、「あれ・これ」いうのは独話。
 さてさて、禅士諸君。何と応える。
慧智はネット禅士に問う
『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』
チリーン。「はい、お座り。お手、チンチン」「おい、“そこ”で足を上げて何を出すか」。カーン、カーン。「おたのみもうーす」。「ドーレ」。「どれ、見て来い」という訳で、考えても無駄。論理は通じない。かといって情緒もダメ。“思い”と“考え”、即ち『思考一如』。『禅脳は無心で全脳』。
 今日の公案はどうだ?ネット禅士が望むから与えているが、消化できているか?1700の古則公案の先、“これ”がワシが与える悟後の公案だ。小僧(10歳)の頃、「隻手の音を聞いたか?」と師匠に問われ、「それは、これですか、あれですか、どれですか、聞えますか?」と返したら、平手で横っ面を殴られ、鼓膜が破れたて、片手の音が聞こえたのを思い出す。まあ、鼓膜があると聞えない音もあるんだな。否、鼓膜などがあるから聞えないんだ。今度、慧可大和尚に会ったら“左手”で殴ってもらおう。右手は痛そうだからな。

一日一生 慧智(070606)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:11

2007年06月04日

●第1074話 『全ては過不足なし』

 この宇宙の全ての現象は本から過不足なし。人間も宇宙の現象の一つで過不足なし。心も同様、仏も同様。形だけの坊主も同様。にも関わらず、大衆の心は、成長とともに過不足を感じるようになり、長者の子供が貧里に迷い、乞食の子供が成り上がって驕りを覚える。過不足感は、自惚れや嫉妬、挫折や偏見を生じさせる。
ネット禅士に問う『仏は何処におるか,、見つけてつれて来い』 
 勿論、禅士は、昨日同様、言葉、文字、態度で応えることは許されん。言葉を使い頭で考えてもいかん。音を出してもいかん。
 さあ、道え、応えよ。応えなければ破門だ。さあ、どうする。
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


◆追記
今。此処の状態に過不足なし。全ては其処から出発する。故に日日是好日、降って好し、晴れて好し。明日は明日。努力とは明日のためにではなく、今、此処で全力を尽くすこと。そして結果は自然に成る。それを全面的に受け容れる。だから、すべき事で出来る事に全力を尽くす。今、此処で、すべき事・出来る事に全力を尽くせば、自然に熟達して自由自在に動けるようになる。抜きん出て秀でる。好きになる。すべき事、出来る事、好きな事が統合されると使命感が見える。これが自然。これが禅的に生きるということ。(質問に応えておきます) 慧智

投稿者 echi : 23:24

●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

 表題の『学ばなければならないが、教えられては行けない事』というのが“禅”における“公案”です。俗では『教えられても、学べず』、『教えられなくても、学んでしまう』ということが多いことが、今日の日本の状況に“投影”しています。
 大脳生理学や心理学の世界では、記憶、表層心理、深層心理という表現が使われますが、禅では、心と頭です。『滅却心頭火自涼』という表現に心と頭の関係が見えます。そして『分別と無分別』、『知恵と智慧』、『言葉(文字)と反応(心)』などと便法的に二項対立法を用いて表現しつつ、それらは父母未生以前の“本来から一体”、不可分不可同で、片手の音の聞こえる世界を示しています。名称や概念は、全てが現象した以後に、人間が便利の為に勝手に付けたもので、言葉や文字で表現しています。『公案』は、“本来”を悟り、体得するために白隠禅師が体系化した方法論であり、師弟が室内で生死をかけて行なわれる口頭試問といえます。拙僧も敢えて名をあげませんが隠山、卓州両家3人の師から500を超える公案を与えられ、鍛え上げられました。しかし、既に遷化された3人の師の名誉の為に名は伏せますが、本来は師の作品、嗣法のはずの弟子が私のような“破戒僧”では師も泣くに泣けないでしょう。
 さて、本日のネット禅会の為に、現成公案を与えます。
如何なるか『学ばなければならないが、教えられてはならない事』 
勿論、言葉や文字で応えてはダメ。態度に出してもダメ。考えてもダメです。音を出してもダメ。本来無一物だ、明鏡の如しだ、本来仏なりなどの言葉も概念も使ってはならん。只、己の境涯をワシの心に直接に伝えよ。
さあ、どうする。どうする。どうするか!
・・・・・チリーン。
カーンカーン。

一日一生 慧智(070604)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 05:57

 
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