2007年07月25日

●『青山元不動 白雲自去来』(禅林句集)

『青山元不動 白雲自去来』は、 「せいざんもとうごかず はくうんおのずからきょらいす」と読む事が多く、梅雨明けの茶室に掛けられていることが多い。梅雨明けの空の中、遠くに見える青く染まった山々、流れる行く真っ白な雲。さて、皆は何と感じ取るのだろうか。拙僧には、塩山や三島から見た富士山が思い浮かぶ。泰然自若として動かざる山の如し。独坐大雄峰。正に平常心代名詞。同時に、何の拘りも囚われも無く何処から来て何処へ行くのか悠悠と棚引く白い雲。人生はいろいろ。時に真実を覆い隠す雲が現れることもあるし、時には真実をくっきりと浮かび上がらせる雲も現れる。そして、時は無常迅速、諸行無常、されど万法は一に帰すと教えてくれる。何事にも動じない心。何事にも固定観念を持たない自由な心。その心こそ“無心”。全てに実体など無い。しかし、眼前に現象する。事実は事実。素直に受け取る。己は己であって己ではない。己とは部分であり全体。私たちは自然の一部であり大自然の凝縮。人生には晴れもあり、曇りもあり、雨もあるが、長くは続かないし、今日の雨は今日の雨で、昨日の雨でも明日の雨でもない。青山を本来の面目、即ち本来の己、白雲を再現性の無い煩悩と解釈する場合も多い。祖堂集では『白雲聴你白雲(白雲はなんじの白雲たるにまかす)』とあるし、五燈會元や景徳伝燈録には『青山元不動 浮雲飛去來』という表現で登場し、白雲は白雲の自由と取る。煩悩即菩提。そんな風に思えるようになると、坐禅がグッと楽になる。煩悩は完全にはなくならない。それが人間のである。だた、煩悩の力を奪い、煩悩に翻弄される事は坐禅により実現できる。要するに、欲望など固定ではないから、浮かんでも放っておけば消えうせる。禅は“あるがまま”を大事にする。それが“拘らず・囚われず・偏らない心”である。山のように泰然自若として己の本質を迷い無く生きる。富士に向かって坐っていると、無縄自縛で苦しことが多い人生だが、実は“縄”などなく、心を自由にすれが心は動かない事をしみじみと感じる。
 己の外に仏なし。仏が神仏を求める必要などない。手を合わせたいなら自分に合せ。
 自然体で生きることこそが、心身の健康の源。物事は難しく考えないこと。素直に生きること。今の自分に出来る事に全力を尽くせば宜しい。結果は自然と成る。無理をすることは自然に逆らう事。逆らって良いことは何も無い。
 明日から暫くは説法を書けないだろうが、何物にも動じない青い山々と決して留まらない真っ白い雲でも見ていてください。
一日一生 慧智(070725)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成


投稿者 echi : 21:25

2007年05月08日

●回向文について

 最近のことだが、説法文末に回向文『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』を書いている理由は、『自利利他』の本願をネット禅会の参禅者の全てと共有し実行して行きたいと願っているからです。禅は、こ洒落た文化でもなければ、学問でもなく“菩薩行”たる“宗たる教え”ですから、修行そのものなのです。その事を忘れがちな禅士が紛れ込んだり、やたらと質問をする“勉強好き”が増えるのは考え物なのです。
 前出の『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』という法華経からの回向文は、多くの回向文の中でも皆さんには一番身近であり“ピンとくる”回向文だと思います。
 何故なら、禅宗系が理解している菩薩は、『自未得度先度他』を肝に据え、己の悟りより衆生の悟りを支援することを優先させ、己の積んだ陰徳、功徳を全ての衆生に巡らすことを毎日毎日、己に誓っているからです。四句請願の一句目も同様です。勿論、『自利利他』は一如、『自他一如』です。つまりは、利他の“他”の中に“自”は含まれているし、自利の“自”の中に“他”は含まれ、自即是他、他即是自なのですから、何も改めて回向文を読むことは無いのですが、悲しいかな、体は毎日風呂に入れるが、心を風呂に入れるのを忘れがちなのが人間です。私とて病を直そうとする私利私欲からか、ついつい大事な大事なことが後回しになってしまうことがあり、それを戒め、請願を達成させるために毎回毎回、回向文を打っています。燃え尽きたはずの薪でも、風の吹き様で燃え上がることもあります。努努、ご油断を召されぬように願います。
一日一生 慧智 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』

投稿者 echi : 14:39

2007年04月29日

●自由とは“即今日眼前聴法底”の己の姿

“自由”という概念の源泉が“禅”にあることはご承知の通りで、それは『臨済録』の底に秘められている。『自由』は、『師、衆に示して云く、今時、仏法を学する者は、且らく真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去住自由なり』、『若し生死去住、脱著自由ならんことを欲得せば、即今聴法する底の人の、無形無相、無根無本にして、活撥撥地なることを識取せよ』、『若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』という節に滲み出ている。
“自由”は、その文字の如く、一切の制約がなく、天地自然の原理そのものが、“自らの理由”で働いている状態です。
 他にも、自由の意味を理解させようとする禅語に、『大用現前、軌則を存ぜず』という表現がある。意味は「人工的な規則などとは無縁な自然は、大用現前(眼の前で現象している自然の中の大きな役割)は人間の判断や規則が及ばない自然の中にあるものです。
 “人間としての自由”は“山川草木の自由”と異なり、前出した“本来の自由”を知った上で、手垢に塗れた世間という「不自由」な世界に身を置きながらも“自立しつつ制約に汚染されていない発想で自在に働くことです。
 つまり、二項対立の世界の呪縛から解放され、本来の己に従って生きることなのです。ですから、本当の自由を生きるためには、己の本質、本来の面目を知らなければ無理なのです。それには、坐禅と無心に働くこと以外に期待できません。
一日一生 慧智(070429)
禅は、自由・平等・平和を実現するためにあります。拙僧は、十牛図の十番目に出てくる布袋さんのようにありたいと思っていますし、その過程では、強く優しく柔軟で在りたいと思っています。

投稿者 echi : 06:04

2005年07月03日

●野狐禅和尚の辻説法『悟無好悪』 №796

 『信心銘』の「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪なし。一切の二辺は良に斟酌に由る」に出典を求めることが出来るだろう。読みは「悟れば好悪なし」とするのが臨済的であるが、曹洞的には「悟に好悪なし」と読むことも多い。当然、読み方により意味は異なるが、宗派に関わらず、禅者としては「万法如一、万法帰一」と同じで、悟ることということは二項対立の幻想からの解脱だということです。
 俗世間は、勝った負けた、取るの取られるのと、先入観や固定観念に犯されている。
しかし、真理は、森羅万象悉有皆仏性、山川草木悉皆成仏・・・と表現されるように宇宙は一つであり、生命を含めた全ての現象は、相互浸透した相互補完の関係にあり、其々が位置のエネルギーを具備して、因縁果の法則に随い現象しているが故に、無常迅速であり、只、“今・此処”が全てとして捉え、“其々の其処”で全力を出し切って働き、無対立・無犠牲・自主独立を守り、与えられた仕事に誠実に取組むのが、この社会の唯一の在り方を示唆しているのです。
 つまり、悟りを得た世界には、そんな生き方、あんな生き方などはなく、『只管に生きる』という、俗世間で言われる個々に異なる生き方の全てを止揚した在り方があるだけです。
 「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪なし。一切の二辺は良に斟酌に由る」は、無明からの脱出を示唆している句です。それを実現するには、回向返照、只管に己を見つめ、己の使命を果たすべく悔いを残さぬように、一日不作一日不食、今・此処で出来る事に全力を尽くすだけなのです。
慧智(050704)

投稿者 echi : 20:36

 
活人禅宗・両忘活人禅会
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