2007年07月19日

●第1100話『無くてはならぬものは多くない(キリスト)』

 皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答えるだろう。キリストは「無くてはならぬものは"ただ一つ”」とも答えたと伝わっている。それは何か。それは“religion”であると答えている。即ち“キリスト教”なのであるが、キリストは“キリスト教”という表現を使わなかったので、現代の日本語で表現すれば「人生で無くてはならないものは“宗教”であると答えたようなものである。勿論、以前に何回も話しているように『宗教≠religion(レリジョン)』です。レリジョンとは、唯一の神との再・結合という意味のラテン語を語源としており“キリスト教”を示しているからである。
 一方、“宗教”は禅語とは言い切れないが仏教用語であることは事実であり、概ね“禅語”として解釈してよい。出典を探すと碧巌録(北宋初期の禅僧、雪竇(せっちょう)重顕が古来の禅録の中から公案百則を選び,韻文のコメント(頌)を付した『雪竇頌古』に,北宋晩期の圜悟(えんご)克勤が解説・論評を加えたもの)の五則中にある「大よそ宗教を扶堅(ふじゅ)せんとすれば須らく英霊底の漢なるべし・・・」に突き当たる。つまり、『宗教とは“宗(むね)たる教え』という意味であり、“大本の教え”という意味ととらえる。言い換えれば“己の外に仏なし”という大本の考えからすれば、キリスト教を信じる者(信仰する者)の宗教はキリスト教が“唯一の宗教”なのです。ところが、仏教徒(仏教を信仰する者)が信じる宗教は“仏教”だけに囚われ拘らないので“キリスト教も仏教も宗教”と表現するからややこしくなる。
 『宗教』とは、“信仰”の一つであることは事実だが、正しくは『自分が信じる体系化された考え方である“宗たる教”以外の解釈は成立しないのである。そういう意味からすれば、洋の東西を問わず『人生に無くてはならないものは“宗教”』ということになる。ところで、皆の宗教は何かと問えば「仏教」と応えるのか、「禅宗」と応えるのか、「活人禅宗」と応えるのか。拙僧は「己の外になし」と応える。「己の外に無し」と応えた瞬間に『唯我独尊』が成立し、“全ての命が中心”となり、禅を宗教とする者は“山川草木悉皆成仏”から、『全ての現象』となる。
 以上から、我々は『禅の教え』こそが“宗教”ということになる。
 では、宗たる教えが根本であるとするなら、我々は“禅的”に生きるということに繋がる。その根本は何か。それを解説しているのが“経(きょう)”、時代を超えて経(たて)に繋がる教えである、八正道とうに現れているが、要約すれば『何事にも囚われず、拘らず、偏らずに、事実を無差別に受容し臨機応変(自由自在)に犠牲を最小限に生きる』ということであり、正に“持続可能な共生生活”である。換言すれば「人は独立しながら相互に犠牲にすることなく補完し合いながら他を否定せず肯定的に生きる」というのが“禅”であり“仏教”ということになるので、最近の檀家団体など他派を否定する“新宗教”は“カルト(教祖主義者)”なのである。勿論、カルトも教祖の教えを“宗たる教え”とするのであるから宗教は宗教であるが、自分の考えを主張するのは大事だが“それ”に囚われていては『無縄自縛』であって“自由(これもフリーやリバティの訳語は誤り)”を放棄していることになる。(続く)

一日一生 慧智(070718)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 07:22

2007年07月13日

●第1098話 『高山流水 只貴知音』

虚堂録の四巻に和尚の言葉として出てくる『高山流水 只貴知音』は、「こうざんりゅうすい ただちいんをとうとぶ」と読み、「高い山や流れる水の意味は、悟れる者に悟れる」と解釈する。人間、素直な心、清心の者は全てに学べるが、先入観に囚われた邪心の者は、老賢人にすら学べない。言い換えると、加齢と共に成長する者も居れば、返って下衆になってゆく者がいる。年を重ねるごとに賢人となり老賢人と言われるような生き方と、年を増すごとに痴人と化し愚者となる生き方は、日々の生き方に違いがある。物に拘り、事に囚われ、枝葉末節に偏っていては“本質・真理”は見えない。四十を過ぎて博打に現を抜かしている者には本質は見えないだろう。しかし、彼らでさえ“仏性”を内在させているし、何らかの切っ掛けでそれに気付き精進すれば、悟りへの道は開かれている。己の外に価値や規範を求め、物や金、地位や名誉で人間を評価する者は、何れは“神”を作り上げ、“占い”などの迷信に翻弄され、霊だ魂だと言い出し、己が主人公の世界、誰もが己の責任と権限で生きてゆく世界を愚弄する。私たちは誰一人の例外なく、一人ひとりが世界の全てであると同時に、世界の一部であることの自覚が必要だろう。己が大事なら、それと同列に他人も自然も大事なのである。眼前の物の世界に父母未生以前の己の姿を見たなら、子々孫々以後の己の姿も見えるはず。ところが、己の垢である“我”に気が付かない拝金拝物亡者は、“失う事”が苦の最たるものである事に気付かず、一喜一憂する競争社会、喜怒哀楽の快楽追求社会という地獄を足早に生きて大自然へ戻るのである。
 また、祖堂集巻五・石頭下巻第二曹渓345代法孫に出てくる『養子方知父慈』は、「子をうんではじめてちちのじを知る」と読み、意味は、父の慈悲心は自分が子を得て初めて解る」であるが、文の前後関係からは「雲嵒和尚は洞山という弟子を得て初めて雲嵒となり薬山和尚のありがたさが解った」と言われるように、悟ってみて初めて悟った人の境地が解るというものである。であるから、日頃から偏見を持たずに“己を越している”と思える人物と交わるのが良かろう。そして、師と弟子の関係を超えて切磋琢磨するのが良かろう。
一日一生 慧智(070713)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 10:01

2007年07月10日

●第1097話 『剛刀雖利 不斬無罪』

 『剛刀雖利 不斬無罪』は、「ごうとう としと いえども つみなきを きらず」と読み、正法眼蔵や五燈会元十七巻の寶峰克文禪師の文中に散見される句は、意訳すれば、強いものは弱いものを責めないと受け止めたり、能力の有る者は、その能力の使うべき道を知っているとなる。
 最近、能力は高いが“その能力”の“使い道”を誤っていると思われる者が多い。問題は“使い方”ではなく“使い道”なのである。皆は、無意識に使っているだろうが“使い方”と“使い道”は違う事は十分に理解しているだろう。例えば犯人と警官がピストルを持ち、共に“使い方”は知っていても“使い道”は異なるのである。だが、より本質に近づけば、更なる“使い道”が見えてくる。使い方は水平方向に広がり、使い道は垂直方向に深まる。拙僧は『剛刀雖利 不斬無罪』を文字通りではなく、「己の力を知って活かせ」と読み取る。
 ところで、諸君は“己の力”を知っているか?、そして“その力”は一人で発揮できるものか?
本日の禅会では、それに対する答えと出会うように坐りなさい。
 蛇足だが、数日内に大きなニュースを流す。
 一日一生 慧智(070710)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 19:36

2007年07月08日

●第1096話 『歸家穏坐(キカオンザ)』

 昨日、“海洋散骨”をする同夏から「歸家穏坐というが、御主は何処なのか」と問われ「歩歩是道場」と応じた。出家に帰るべき家などないし、寺は修行の場であり仮に留まっているに過ぎない。勿論、此の世とて同じ仮の命。HNKではないが、人間は何処から来て、何処へ行くのか。そんなことは禅坊主なら「こっちから来てあっちへ行く。お前はあっちから来てこっちへ行くのか」と笑い飛ばす。あっちだ、こっちだは所詮は語。“語を悟にした”者にとっては生死は諸行無常。変わらぬ事などが無いこと生きている。されば、歸家穏坐する地とは何処。それは父母未生以前の世界。言い換えれば「この宇宙よ」となるだろう。
 まあ、今日は難しい事は無し。東京の仮住いのベランダにひっそりと咲いた『仏手柑』の花をご覧下さ
い。

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 一日一生 慧智(070708)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 18:53

●第1095話 『曹源一滴水(そうげんのいってきすい)』

 言わずと知れた『碧巌録』に登場する五言の一句です。『曹源』とは「曹渓の源泉」、つまり六祖慧能(えのう)大和尚のこと。紀元前の釈尊という源から流れ出た大河の一滴は、800年の歳月を掛けて我が初祖である達磨(だるま)大和尚、そして本尊の慧可(えか)大和尚、僧粲(そうさん)、道信(どうしん)、弘忍(ぐにん)大和尚と続き、六祖慧能大和尚により『禅の流れ』は大成し、臨済・ 雲門・洞山・潙山・法眼によって、臨済宗・雲門宗・曹洞宗・潙仰宗・法眼宗の五家、加えて臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化して日本には二十四流の禅として伝えられたが、全てはて大河の一滴、『曹渓の一滴水』からのものです。そこで、禅の根本を「曹源の一滴水」と表現し、正伝の禅法を「一滴水」といいます。有名な話ですが、明治の初めに天龍寺の管長になられた滴水宜牧禅師は、曹源寺の儀山禅師を師として修行されており、師が入浴中に滴水に「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」と。適水禅師「老師の次の人が入ります」と。儀山禅師「それがすんだら」と。適水禅師「私たち小僧たちが入ります」と。儀山禅師「では、それがすんだら」と。そこで、適水禅師は「捨てます」と応えるや否や儀山老子の大喝一声。「馬鹿者、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にするでない」と。その一声に小僧である適水禅師が悟り、五十歳にして天龍寺の管長になられ、以後、号(ごう)を「滴水」と改めて遷化されるまで「水は仏の御命、一滴の水をも無駄にせぬよう」と言い続けておられました。
 しかし、最近はどうでしょうか。水を粗末にするなど言うに及ばず、命さえ粗末にしている。生きる時は全力で生きる。死ぬ時は全力で死ぬ。それが無駄の無い生き方ではないだろう。食糧の無駄、時間の無駄、人生の無駄・・・。現在では無駄を裕福・優雅のシンボルのように言うが、それでは地球が、宇宙が嘆き、人類を諌め様と隋縁から驚天動地があっても不思議ではない。それにしても二流の国民に三流の三代目の政治家は情けない。日本を“美しい国”になどと誤魔化さず、“美徳の国”へ戻すために、小手先の『教育改善』を改め、根本から見直す“教育改革”が必要なのではないだろうか。
 一日一生 慧智(070707)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 14:33

2007年07月04日

●第1094話 『乾坤独歩(けんこんどっぽ)』

 拙僧は、この四言を座右の銘としている。勿論、平等共生が此の世の真理ゆえ、意識的に何かを避けることは無い。意味は意識的相対的な評価をせずに“大道”に随って生きるということである。つまり、一日一生、何事にも振り回されず、堂々と前を向いてキョロキョロすることなく一歩一歩を道場として、揺るがざる目的に向かい目標に対しては柔軟に対応して生きることである。文字通りであるなら『天地を一人で歩む』であるが、如何なる生命も共生が真理。相互に補完しあってこそ無欠完全なのである。『来る者拒まず、去る者追わず』も同根。『無事是貴人』『日々是好日』・・・、皆同根、同心。これを在家的に言えば、福祉政策の基本理念と同じ。『自立を推進するために支援助成を行なう』ということ。その為には、少なくとも己は自立自律し余裕を持って独歩していなければならないだろう。更に言えば『大人の心』である。相互依存と相互支援では天地の差、乾坤の差異がある。勿論“補完”なくして無欠完全は無いし、生物は自己完結できない存在(現象)故に、個体には相対的表現になるが“強み・弱み”がある。しかし、強みは長所、弱みは欠点ではない。それは“個性”である。それを知っていれば差別や区別は無い。
なお、以下に示すが、この四言は衆智の通り無門慧開和尚の『無門関』の序の結びの一句である。
 『大道無門・千差有路・透得此関・乾坤独歩』。正しく人間完成へ道に入る標語であろう。
 一日一生 慧智(070704)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 10:39

2007年07月03日

●第1093話 『大直若屈,大巧若拙,大辯若訥』

 表題の読み下しは、「大直(だいちょく)は屈(くつ)のごとく、大巧(だいこう)は拙(せつ)のごとく、大弁(だいべん)は訥(とつ)のごとし」。老子道徳経45章の一節にある3句は、余りにも有名で、今更、能書きを垂れる必要はないだろうが、今日は『誤解』について語りたいが故に敢えて話題としました。表題の表面上意味は「真っ直ぐな者は曲がってみえ、技量のある者は不器用にみえ、雄弁な者は口下手にみえる」ということなのですが、言い換えてみると「何事かに優れ巧みな者は、単刀直入で小細工を弄しないから還って下手(へた)に見え、その技を軽々と行うので難しいことのように受け取られないし、言葉の限界を知っているから多弁雄弁能弁という挙動が無いので口下手に聞える。つまり、本当の一流は一流の人間にしか理解されず、二流は二流以下から評価されるので、“一流のマイナー、二流のメジャー”などと揶揄されていますね。
 昨今は上辺(うわべ)時代。偽造変造模造品など“偽物”が一人歩きする。人間も同じ。“偽者”が多い。坊主の格好をしていると坊主だと思う。身なりが立派だと人格者であるとか成功者、有能な者と思われる。正に軽薄短小、“偽者天国”が今の日本。中国や朝鮮半島のような“偽物天国”より始末が悪い。正に“インスタント文化”の母国らしい。その背景には“ウソ”というより能動的に“誤解させる”こと、建前と本音を使い分ける事を良しとする文化がある。建前と本音、言い換えると意識と無意識。本来、“心”は一つなのだが、擬制と擬態の構造は世界中に見られるが、日本は特に顕著。政治の世界では、本音と建前を使い分けられる者が評価される。昨今、“真贋”を見抜ける本物の人間”が、少なくなってしまっている。確かに、目に爽やかで解りやすく、耳に心地良い事柄は一般に受け容れられやすい。安きに流れ、秘すれば華を見抜けない時代に向っている日本をこのままに傍観していて良いはずがない。禅では『大賢は愚に似たり、大智は愚の如し』を見抜けなければ未熟者。当然、公案に対向できない。巷では死語になってしまっている『能ある鷹は爪を隠す』『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』・・・・。
 吉本隆明の『真贋』という書籍がある。1時間で読めるので一度は目を通されよ。
 我々、活人禅に生きる者は、枝葉末節や“表面”に誤魔化されず“本質”を見抜く力を持とう。それには先ず“無心”。“我”を捨て坐る事だ。

 一日一生 慧智(070703)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 08:41

2007年06月28日

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろう。この一句は『心随万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』という二十二世の摩拏羅尊者(まだらそんじゃ)の偈で、「心は蟠りがなければ臨機応変に働くが、納得が行かない事があったりするとパニックになり、流れが滞り臨機応変は失われるので、喜怒哀楽に心は忙殺される」という感じだろう。人によっては、人生は“喜怒哀楽”があるから楽しい、という。確かに、己の過去を顧みれば解らんでも無いが、禅坊主であり、ストレス心理学、精神身体医学を学んだものとしては、喜怒哀楽の振れ幅の大きい者は、早死にすることを知っている。師のハンス・セリ博士は亡くなられる少し前に「ストレスは人生のスパイスだ」と言われたが、その言葉の裏には、真理を掴みつつも自己否定を嫌った師の個性がある。
 心の乱れが死を急がせることは、免疫系・内分泌系・神経系の不調和であることは解るだろう。そして、心が乱れていれば“自由”を失い臨機応変・融通無碍に暮らせず、心は何かに囚われ、何かに拘り、結果的に偏った考え方が、更なる窮地へと引き込む。これが“悪循環”というものである。つまり、心が万鏡に随わずに、見えているものを見ず、見えないものを見てしまうということだ。心が自由であれば、死ぬ時は死ぬ、生きる時は生きる。暑い時は暑い・・・。それらを評価せず差別せずに受け容れられる。正に“あるべきよう”であり、素直に生きることである。勘違いをして欲しくないのは、暑い時は暑いから、暑いと騒ぎ、暑さを征服しようとする心が起きるのは“素直では無い”ということで、暑い時は暑いように、動きはゆっくりと、4時には起床し午前中には一日の生きてゆくための仕事を全て終わらせ、昼は休み、夕方からはより善く生きてゆけるための勉学に時間を使うのが“素直”ということだ。だからこそ自分が『主人公』で『随所作主』、相対的な考えから絶対的な考え、枝葉末節から本質、喜怒哀楽から安心へという生き方の転換が必要なのです。その転換には『坐禅』以外の方法は万民向きではなく、出来る人と出来ない人が出る。坐禅は“安楽の法門”であり、正しい指導を受ければ個性や価値観に関係なく心身の健康に寄与するし、拙僧のように余命宣言を無力化できる。
 昨日今日、高温多湿の日々だが、今日はエアコンを消し、身体を締め付ける物は外し、窓を大きく空け放し、明かりを消して一本の線香を灯して40分坐ってみよう。拙僧は今日は日本時間の午後11時から坐るので、時空を超えて心を通じ合おう。
 では、その時に。
 一日一生 慧智(070628)
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投稿者 echi : 09:43

2007年06月26日

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

 禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷(固体)と水(液体)と雲(気体)という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず36度程度で体重の75%程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。
 つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的(便法的だが)な苦を主観的な苦と認識しなくなりm主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。
 結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。
 『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』

一日一生 慧智(070626)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 11:22

2007年06月20日

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

 子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。
 ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。
 そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。
 つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』
は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。
 しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。
 釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。
 さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。
 『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。

一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 07:06

2007年06月19日

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

 他力のシンボルが“神”、自力のシンボルが“仏”。神は己の外にあり、仏は己の内にある。神は己に対峙する絶対者、仏は己その者の本質。神は彼の世にあり、仏は此の世にある。権力の為に殉死すれば神、己の為に殉死すれば仏。神は文学的経験、仏は現実的体験。神は組織行動、仏は独立独歩。神は自由を奪い、仏は自由を説く。神は殺し、仏は活かす。神は“特別な人間(特定の場所を与えた)”を幻想させ、仏は“普通(普く世界で通用する人間を自覚させる。神は随わぬ者を罰し、仏は随わぬ者も受け容れる。神は“霊”、仏は“魂”。神は“御告げ”、仏は“悟り”。
 最近、この“当たり前”が忘れられている。否、故意に歪められている。それは何故か。 また、仏教宗派の中には仏を方便以上に神格化した“如来”を崇拝し他宗を否定するところがあるが、それは何故か。更に、新興宗教の中には極めて独裁的(教祖崇拝)なもの(所謂カルト)があると聞いたが真偽の程は解らないながら、葬儀に徒党を組んで乗り込み、葬儀そのものの主導権争いをしたり、香典を着服して故人宅に上がりこんでは、既存の仏壇を破壊して新しい仏壇に入れ替えたり、墓地を売りつけている会があるという。思想信条、信教の自由が憲法に定められている我が国で、そんな暴挙や邪道が罷り通るとは思わないが、仮にあるとするなら、それは“マルチ商法”の一つか“講”の過激版で自らの組織の力を維持発展させるために考案された集金システムであり場合によれば政治活動と絡んでいるとしか思えないし、少なくともそのような団体は仏教団体ではなく、カルト集団(教団)に違いない。
 仏教は“来る者は拒まず、去る者は追わず”。凡夫即菩薩、煩悩即菩提。考え方は深さ(経)の違いであり、幅(緯)ではない。経てなれば“道”、緯なれば“椅子”。道は誰でも歩めるが、椅子には限りがあり、“椅子取り”となると対立が起こるのは自明の理であり、過去の多くの戦争は、その“椅子取り”合戦がエスカレートしたものだ。勿論、『経ての道(大道という)』には、多数の分岐があるが、皆、出発点も終着点も同じで門は無く、出入り自由なはずだが・・・。
 さて、本題だが、“祈り”と“誓い”について禅士諸君は前出から類推すれば大凡の見当は付いているだろう。“祈り(祈願)は完全な他力であり、“誓い(誓願)”は完全なる自力なのだが、それは極論であり、両忘すれば同じこと。つまり、祈るか誓うかは当人の心の問題であり、事実という枝葉末節は複雑だが、真理は大幹根底は単純であるからして、大した問題ではない。そもそも“自他一如”とは自力と他力は表裏一体ということなんです。キリスト菩薩にマリア観音、アラーもユダも皆菩薩。それで良い。鰯の頭だってカラスだって御本尊。大いに結構。
 さてさて、前出の疑問に皆は如何応える。
一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 13:40

2007年06月17日

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

 例えば風邪をひく。二元論的にはウイルスに感染したのが原因。間違いは無い。しかし、ウイルスが充満している部屋にいて風邪をひく者とひかない者に分かれる。何故か。二元論的に言えば、免疫力が落ちている者が感染し、免疫力がある者は感染しない。間違いない。では、免疫力はどんな理由で上がり下がりするのか。二元論的に言えば、ストレスが原因となる。ストレスは身体的と心理的と分けられる。栄養失調、体力低下、怪我や病気のようなものが身体的要因。不安や不信に伴う被害の予感などの心配事、焦り、競争、不満、悲しみ、度の過ぎた喜び・・・などが心理的要因。言い換えれば、個体の免疫力が最高値を示すのは、『満足では無いが不満との言えない状態』、つまり“喜怒哀楽”に変化が少ない状態で、『病気や怪我と認識する程では無いが、健康体そのものでも無い状態』である。勿論。それらの認識には、個体差、個別的特長、つまり個性の違いが大きく影響するので、“同じ事実”であっても感じ方、認識は質的にも量的にも差が大きい。言い換えれば、あらゆる事象に対して“悲観論者でも楽観論者でも”まずい。勿論、悲観論者より楽観論者の方が“ストレス耐性”が高いのは事実だが、認識することと体が認知することは異な、免疫力に与える影響に差異は小さい。
 つまり、どうして風邪をひくかと言えば、『分別妄想(煩悩)により無(自)縄自縛となり、心が乱れ、『自由(自ずからの由:自ずから然るべき状態)』を失うことで、ストレス因子を感知して無意識な抵抗で心身の疲憊が進行し、やがては当該個体の“免疫力”を弱体化させ、病名の付いている病気の95%を発病させるし、ストレスが心の免疫力を蝕んだ結果“怪我”や“事故”に遭遇する確率が高まることから、『ストレスを要因として免疫力が非弱化して怪我や病気が増す』という一見“風が吹けば桶屋が儲かる”的な現実があるのが“人体”であり、人体の生理機能が投影したのが“社会”である以上、個人のストレスが個人の心身のみならず社会が“病変”するのである。
 ここ50年の精神身体医学の進歩が、欧米的な心身二元論を消耗させ、東洋的な心身一元論が注目を浴びている。極論を言えば、権力者のストレス、免疫力を変数として“戦争”すら勃発するのである。その事を2500年前に解明していた釈尊(仏教徒)は、戦争の加害者(攻撃者)に現代に至るまで無く、権力者のストレス状態から十字架に掛けられて罪人として処刑されたキリストを崇拝する信者は、史実として確認されている4000回余りの戦争うち、約80%の戦いの当事者なのである。それ故に、戦争という集団的ヒステリー状態、ストレス状態が“競争・破壊・略奪・洗脳(宗教の押し付け)”の権化がキリスト教徒の特徴であり、無抵抗が特徴の仏教徒と全くことなる文化を築いているのである。言い換えれば“愛の宗教”と“慈悲の宗教”という社会基盤が180度異なるが故に、性悪説をとるキリスト教に対し性然説をとる仏教という図式が攻撃的リーダーシップ文化と守備的マネジメントの文化を生み出し、今日に至っているのである。
 前出のような言葉による説明は“分析・還元論の二元論”が有利だが、その分析の結果“一元論”に傾きつつあり、二元論の文化は一元論に向かい、一元論の文化は二元論に向かい、欧米に“禅”が広がり、アジアにキリスト教が広がりつつあるという捩じれ現象がおき、東西問題が縮小し、南北問題が拡大しつつあるのも“現代”という時代なのである。
 人間は60兆の植物性細胞と動物性細胞の共生体であり、細胞は分子構造・原子構造・素粒子・量子の構造を持ち、最終的には“力(波と粒子)に帰結し『色不異空=空不異色、色即是空=空即是色』『不生不滅、不垢不浄、不増不減』・・・で語りつくされているのである。故に『一切皆空』であり『物心一如』である故に“一元論”こそが“真理”への道なのである。この辺りは白隠禅師坐禅和讃』が優しく解説している。
 さて、表題について解いみよう。禅は“拘らず・囚われず・偏らず”と言いつつ、一元論に偏り・拘り・囚われているという言い方をする者があるが、実は『禅』は、釈尊の心そのものを拠り処にしており一元論でも二元論でもなく“無元論”と解釈と言った方が解りやすい。しかし、一般大衆に“無”を説明するのは難しく、まあ大きな括りから言えば“一元論としておこう”と鈴木大拙師らは語っていた。西田幾多郎先生と同級生で竹馬の友である二人が、若き時代、共に数学に心を向けていたいたが、夫々が『宗教学と哲学』という似て非なる道を歩んだのもお“その辺り”の微妙な理解が異なったからだと聞いている。
 さて、話を戻して、表題の『心身一如』についてだが、賢明な読者は既に読み取っているだろうが、『風邪』と『心身症』の原因は生育環境での価値観の異なりなどを除いては極めて類似し、『心身症』は“心の風邪”のようなもの、現代では、誰でもが“予備軍”であり、明日は吾身なおである。
 念のために以下に般若心経を書いておくので、ゆっくりと読んでみよう。多分“心身一如”が理解できるだろう。そして、出来れば“人生観・生命観”が変わるだろう。つまり、『競争より協奏』、『無対立・無犠牲・自主独立・一日一生』の意味は簡単に理解できるようになるということだ。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶、般若心経

一日一生 慧智(070617)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 22:35

2007年06月15日

●第1084話 『六道輪廻(3)』

 地獄という場所、浄土という場所など無い。しかし、“その心”はある。一日一生として、一日を「働く・学ぶ・寝る」を三分割して考えても、その時、その一瞬の心がある。
『餓鬼(がき)』のように金の為にガツガツと働き、物や力に飢え、焦りを覚えるような時。
 『畜生(ちくしょう)』のようにセックスを求め、美食を求め、睡眠を求めて得られない不機嫌な時。
 『修羅(しゅら)』のように喜怒哀楽を表に出し、競争に負けまいとしてストレスいっぱいの不安な時。   『地獄(じごく)』のように、悩み・苦しみ・悲しみの中で四苦八苦している苦痛な時間。
 『菩薩(ぼさつ)』のように穏やかで心が安定している余裕のある時。
 『如来(にょらい)』のように何もかもが頂天にあるように満たされ誰の望みでも適えてあげたくなる時。
人間であれば、“如来の時”とまで言わないが、せめて“菩薩の時”だけを過ごしたいと思うだろうが、それには何もかも投げ出して人里はなれた山中の叢林の篭らなければならないだろう。しかし、それは非現実的。その上、臭いものに蓋をするが如く、己のみの安楽感は得られるだろうが、それは本来の幸せには程遠いだろう。事実、不幸な人がいることを知っていて、知らぬ振りなんて出来るだろうか。本当に幸せになりたいなら、幸せにすることだろう。「他人の不幸は蜜の味」ということを言う人がいるが、暫くすると蜜の味が“ほろ苦い”ことを知るものだ。本当の幸せとは、全ての人々が争わず穏やかに菩薩のような生活が出来ている時に湧き上がる“心の状態”だろう。世の中には、菩薩のような顔をしていながら餓鬼、畜生、修羅、地獄の住民がいるのも確かだ。しかし、それに目くじらをたて、イライラしていては、己の幸せは遠のくばかり。だからと言って許していては罪を繰り返えし被害者が増えるだけ。そんな悩みを工夫で乗り越え、その世界からの脱出を支援する修行こそが『菩薩行』だろう。言い換えれば『経営者』は菩薩であるべきなのである。
 人生は『一日一生』の積み重ね。心の持ち方一つで、六道は輪廻する。だとしたら・・・。如来のような一切の見返りを期待しない慈善家。菩薩のように皆が幸せをつかめるように支援する経営者を目指し、六道を輪廻する毎日を修行と考え、少しでも己を磨き、菩薩、如来に近づこうではないか。
 活人禅寺は、餓鬼・畜生・修羅・地獄の時を苦しんでいる者が、一時でも菩薩の心を味わい、如来を目指す心が芽生えることを支援している寺である。
 明日、明後日は禅会。来る者は拒まないし、去る者は追わない禅会である。
この時期の参加者は少ないので、覗きに来て見なさい。
一日一生 慧智(070615)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 09:48

2007年06月14日

●第1083話 『己の外に仏なし』

 仏は心であり、脳のOSであると感じる事が時々ある。つまり、それは脳がCPU(中央処理装置)、つまりコンピュータの構成要素で、内外装された装置の制御やデータ処理を行なう機能を持ち、記憶(蓄えられた情報、メモリ)をプログラムを実行する役割を持つ“部分”で、所謂、『入力→変換→出力』という力や情報の処理の中心で、動物の『五感→脳→運動』を基本としつつ、入力が無くても出力が出来る“人間”の特徴、即ち『五感→記憶→変換→行為』という流れから考えると、『“心”≒“仏”≒記憶変換装置』なのである。つまり、心は特定の臓器ではないという場合は、『感じない・思考しない・動かない』、脳は心だという場合は『五感・記憶・変換・行為』の一連をいうことになる。言い換えれば、宇宙(物理的)や社会(心理的)と幅広い情報交換を行ないながら、必要と考えた時に情報を処理して行為するのが、“心”と言える。勿論、コンピュータは脳を基本モデルとして目標にしつつ、人間の心の再現を目的に考案され、製作され、日々進化し、現在では脳の機能の一部は超越し、心に似た動きが出来るようになっているが、生物の脳はその生物の脳の機能を超える世界は作れないことは衆知されている。しかし、それは個人の脳が器質的に同じである“機械”と考えてのことで、地球で最も知能の高い人間が作成したコンピュータは、その彼の心をも引き継ぐために、全ての価値観を壊してしまう可能性を秘めている。
 ここで考えたいのは、一人の“心”は他の人の行動を情報源にしたり、他の人の心を自分の心が感じて二つの心がシンクロしたりするという経験的な事実は、心は地球であり、全ての物質現象、生命現象から切り離しては“一人の心”は現象できないということ。つまり、『己の外(ほか)に仏なし』が真理だということである。そして、その真理を、ある人は“神”と名付け、“仏”と名付け、“天然”などと名付けているだけなのかもしれないと、ということである。言い換えると、現象に対して人間が名付けた名称、それに担わせた意味などは、例外なく便法であり、便宜的なもので、それを“絶対”として論理展開したり、自由連想したりするのは、瞬間的なことで、実体など無いということである。
この話を“私の脳力”で、万民に理解できるように事例を引いて語るためためには“本一冊分”は最低でも必要なので、ここらで良寛和尚の力を借りてみる。
  
◆良寛さんの原文
仏是自心作 道亦非有為    
報爾能信受 勿傍外頭之    
北轅而向越 早晩到著時    

◆慧智の読み下し文
仏は是れ自心の作にて、道は亦た有為に非ず。
爾に報じ能く信受して、外頭にそうてゆく勿れ。
ながえを北にして越に向わば、いつか到著する時ならん。

◆慧智の超超訳
仏は自らの心がつくり、道は有為ではない(無為だということ)。
汝はこれを受け止め、外事に追随するな。
舵を北にして越に向っても、いつそこへ至り着けるだろう。

一日一生 慧智(070614)久々に体温が42度を超え、全身に痙攣が走った。またも“生きているな”と感じさせてもらった。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37

2007年06月13日

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

 拝金主義、拝物主義の“美しい日本”。金と地位が「人間の価値を決める」と豪語する者が多い金融、不動産、IT関連の若き経営者。勝組負組を構造化し権力の座を維持しようとする二世三世の政治家などなど、巷に跳梁が闊歩しているのは教育の荒廃が大きな要因になっているのだろう。所謂“格差”は、本々一つのあらゆる現象を二分三分し、無限に分かれたものを二極化することから始まる現象である。例えば人間を男と女、貧と富、美と醜、善と悪・・・。本来は“統合し調和させ融合する”方向へ進むべき道が誤った方向に進んでいる。その仕組みの原因は、神経系を持つ生物であれば具有しているが、その機能が暴走しないように内分泌系と免疫系があるが、機能不全になっているのかもしれない。二律背反の源泉であるデジタル系は神経系の産物。統合融合の源泉であるアナログ系は内分泌系の産物。そして、自己と非自己という判断の源泉である免疫系。生体に異変があれば、3つの系が同時に活動して生命を守り、進化への情報を収集しつつ成長させる。現代科学では随分前に発見されているし、生物の生理機能が外部にとうえいしたものが、その生物の社会・世界であるということも理解されている。にも関わらず、その知見が生きていない。言い換えると、人間が病むから社会が病み、社会が病むから人間が病むのである。このような状態にある世界は、対症療法は病巣を慢性化させ、症状を助長強化させるので、根本療法と併用しなければ何れは滅亡する。
 表題の『人生、如何に生きるか』ということを出来るだけ多くの者が真剣に考える事が根本療法への道を開くことになる。人は夫々で、一つの考えに偏り、拘り、囚われてはならないのは当然のこと故、何を考えるかは自由。本来は前提も不要。しかし、白い布に染みが付いた場合は、染める前に染み抜きをするのと同様に、何事によらず、一つの考えに固執せずに、『対立』は避け、多くの考えを受容し、本質の部分において“満足ではないだろうが不満とまでは言えない”『中庸』を模索することだけは約束事にしたいものである。そうすれば“多数決”という強者の切り札を使わずに済む。多数決という横暴が罷り通るから政治は荒廃し、『美徳の国』から“徳”を奪いさり利権を貪る者が鼠算式に増えるのだ。それに随い経済、教育、福祉・・、全てが後を追う。
 『人生を如何に生くるべきか』を一人ひとりが真剣に考えなければ明日の日本も人類も無くなる。“人間”を考えるとなると体系的な哲学という勉強が必要になるが、“己”を考えるには坐禅さえあれば宜しい。一日20分で良い。場所など何処でも良い。足を組まなくても良い。ただ、呼吸を整え、姿勢を正して半眼を維持し、現実・事実から逃げずに、それらの背後に流れる本質に目を向ける。それだけで良い。
  
 臨済宗大徳寺47世住持というには不似合いな一休宗純は、あらゆる権威を否定し、更に悟りさえも否定して、大徳寺に留まらず、庶民の中で生き抜いた拙僧など足下にも及ばない“真面目な破戒僧”であり、勝手に“師匠”にしている禅僧がおられた。一休禅師がある時、在家筋から家宝にしたいので一筆認めてくれと頼まれ、「けんかなぞせず、くらそじゃないか 末はたがいにこの姿・・」という賛を付け、一つの骸骨は自分自身、もう一つは喧嘩相手として二つの骸骨の絵を書きました。それから何を読み取るかは自由。しかhし、多くの者は「人生色々、人間関係も色々。だが、互いの行く末は“こんな姿(骸骨)”で、競い争うことなど愚の骨頂」と受け取る者が多い。
 また、“タクアン漬け”の考案者で、宝鏡寺等を再興した沢庵宗彭和尚は、一休さん後輩。同じ大徳寺の154世住持となるが、一休禅師同様に、三日で寺を捨て、書画・詩文・茶道を親しんだ自由闊達、融通無碍の禅僧で、周囲に武術家が集まったことからも類推できるように、「ことばにも、色に出して候ては、用心になり申さず候・・・」と言う和尚の心は、「常に備えつつ、その“備え”を表に出すな」というもの。禅でいうところの“無心の心”を生きた。つまり、人間関係は考えれば難しいが、相手と“二つ別れ”する前の状態を知れば、『無対立・無犠牲・自主独立』という生き方が出来ることを示している。勿論、“無”を知るには『坐禅』である。
 『人生、如何に生きるか』。それを考え尽くす。それは自分なりの“本当の幸せ”への道が開くこと。道が開けば、『手段も目標も目的』も一つであることが解る。つまり、『今・此処・己』が全てであることが解るのである。繰り返しになるが、過去は決定して戻ることも直すことも出来ない。未来は未だ来れず可能性以外に無い。そして今は、過去の結果であり未来の原因なのである。

一日一生 慧智(070613)癌センター待合室にて
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん

ことを』

投稿者 echi : 13:18

2007年06月12日

第1081話 ●良寛さんと遊びたい

●良寛和尚に「“仏”に会いましたか、会いますか」と訊ねると、どのように応えるだろう。そもそも問いを問いとして受け取ってくれるだろうか。それともニコっと微笑むのだろうか。もしかすると、毬を渡たされるかもしれない。まあ、想像がつくのは、大喝でも棒でもなく、今を淡々と生きているからこそ浮かび上がる自然な微笑みが返ってくるということだろう。

■良寛和尚の漢詩
過去己過去 未来尚未来    
現在復不住 展転無相依    
許多閑名字 意日強自為    
莫取旧時見 莫逐新条知    
懇々遍参窮 参之復窮之    
窮々至無心 始知従前非    

■慧智の読み下し
過去の己は過ぎ去り 未来は未だ来らず。
現在はまたとどまらず 展転して相依るなし。
あまたの閑に名字し ひねもす強いて自ら為す。
旧時の見を取る莫れ 新条の知を逐う莫れ。
懇々としてあまねく参窮し 之に参じ復た之を窮める。
窮め窮めて無心に至り 始めて従前の非を知らん。

■慧智の超超訳
過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ない。
現在はとどまらず、移り変わりの中に頼れるものはない。
多くの言葉を弄して閑を潰し、己を決め付けてはならない。
過去に固執せず、未来に囚われてもならない。
心を込めて広く体験し、さらに究め尽くせ。
究め尽くして無心に至れば、始めて過去の誤りに気付くだろう。

一日一生 慧智(070611)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 01:12

2007年06月09日

●第1080話 『文教に随わず』

 文字や言葉は“葛藤(つたかずら+ふじ)”と表現されることがある。理由は“本質という根っ子”が幹や枝に撒きつく蔦を伴って成長するにつれ、複雑に絡み合い、何処が本やら先やら解らなくなるように、悩む必要も無いことに悩むことになるからだろう。正に“葛藤(カットウ)”が起きるのである。
 熱海の旅館組合の会長から聞いた話ですが、“とある温泉旅館”の実話だそうです。サービスと温泉と料理が素晴らしい、という噂が噂を呼んで人気が上がり、連日満室が続くので銀行から借金をして、本館に別館を付帯させ更に本館も別館も増築・改築を続けた結果、歩く距離が多すぎる旅館となり、客は言うに及ばず仲居さんすら館内で迷子になる始末となったそうです。そして、客は徐々に減っていったようです。笑い話のようですが、「旅館の使命とは何か」が途中から忘れられ、既成事実がエスカレートしたのでしょう。この話から学ぶことは多いですね。なお、旅館の名前を『葛藤荘』と改名することを奨めたいくらいですね。
 さて、現代は“二者択一”、サロー曰くのゼロサム時代(誰かが得をすれば誰かが損をする)と言われています。AかBか、勝つか負けるか、有るか無いかということである。
 また、シェイクスピアの「ハムレット」の中の名台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という西洋人の発想は、「生き死には自然の計らい」という東洋人の発想とは異なり、「生命や行動を支配するのは人間だ」という生命に対する“思い上がり”が見え隠れします。
 更に、西洋人は、特に産業革命以後、自然とは“征服”の対象である、と考えています。
一方、僅かな数になってしまったかもしれませんが、“西洋文明を盲従しない独立心のある東洋人は“万物共生”という人間も自然の一部として共に生きています。 『共生と征服』、この違いは大きいのです。皆さんは、完全に勝つ、完全に負ける、完全に正しい、完全に間違っているという事実を知っていますか?常識的に言えば“殺人”は完全に間違っていますか?それでは正当な防衛により相手を死に至らしめた場合や国家権力による死刑は“殺人”ではないということになります。
 さて、勝ち負けはどうでしょう。野球でもテニスでもゴルフでも、ルールを前提として勝ち負けを決めています。言い換えれば、ルールが変われば勝敗は逆転します。それでも完全と言えますか。全ては“相対的”なのです。本多勝一の『殺す側の論理』『殺される側の論理』を読んだことはありませんか。二元論(二項対立論)、つまり『有る』『無い』でも良いし、上と下、右と左、ゼロと一でも良いでしょうが、円を描いてみると、二元論者は“内か外か”を考え、一元論者は“線を観て“始まりも無く終わりも無い”と考えます。貴方は、どちらですか?何れにしろ、日常生活では多きな問題にはなりません。しかし、事、価値判断となると180度の違いが現れます。例えば対立が起きた場合、二元論者は裁判での白黒を望み、勝訴に向かいあらゆる策を講じます。一方、一元論者は、良し悪しは絶対的では無く、対立は堂々巡り(始まれば終わりは無い)になるので、自分も相手も満足ではないだろうが、不満とまでは言えない条件を考え“和解”しようとします。結果、二元論者同士ないし原告が二元論者で、被告が一元論者の場合に泥沼の争いが始まります。なお一元論者同士、原告側が一元論者で被告相当側が二元論者の場合には裁判になりません。前出の組み合わせによるトラブルで裁判が行なわれるのですから、当然に『勝訴と敗訴』が自分を完全な人間と勘違いした裁判官という不完全な人間により、白黒が決断された結果、勝った側は驕り、負けた側は恨みを残し、双方に問題を残こすことになります。一方後者の円に線に注目する一元論者は、勝ち負けを判断せず、双方が満足とは言えないが不満とまでは言えないという中庸を模索し「雨降って地固まる」という結果を模索します。これらの違いは『論理思考と情緒感覚』と言うことが出来ます。論理は“頭”、情緒は“心”です。勿論、真実は洋の東西を問わず『心頭は一如』です。それでも二元論者は“心と頭”、“心と体”を別の論理で考えます。霊魂だ魂だ、天国だ地獄だ、極楽浄土だ無限地獄のような人間が考えた二項対立、物理的には無いが心理的には有る”の真実であるにも関わらず、都合よく使い分けます。確かに二元論の考え方は単純な頭脳には便利なのですが、『限定的な合理性』しか持ちません。つまり二元論は、それが架空であれ実体であれ、『公正』には“基準”を必要とします。つまり、“前提”という概念が必要なのです。
 一方、一元論は“無(有無の無ではなく、有無が無いの“無”)”という発想から、公平、つまり無差別、無分別を重視します。簡単に言えば“王様”と“乞食”に本質的な違いは無く、人間としての価値は『平等』とみます。これらの違いは、記憶に新しいマリーアントワネットでも連想してください。時代も価値観も諸行無常。昨日は天下人、今日は断頭台。革命前後でもマリーアントワネットという人間は変わりませんが、回りが変わったために“生死”が逆転します。一元論はヒエラルキーを否定し皆平等に考えるので、例えば釈宗演老師の弟子の夏目漱石が学んだ福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を信条にしていましたし、勝海舟や山岡鉄舟らの西郷隆盛との交渉による江戸城無血開城などを参考にしても解るでしょう。現代風に言えば、『六本木ヒルズと断ボールハウス』か、『皆仲良く長屋暮らし』のような違いです。
 さて、一般に言われる頭の良い人は多くの場合は前者、二元論者です。ところが、今日のニュースからも解るだろうが、頭が良い人が必ずしも正しい訳ではなく、幸せ(大安心)である続けることはないのです。解りますか?。つまり、論理は無限に飛躍しつつ拡散し本質という“円の中心”に向わず、枝葉末節である“円の外”に向うのです。ですから“競争”は永遠、となるのです。
 一方、長屋暮らしであっても“心豊かな人”は、足るを知っていますから、必ず幸せです。現状に感謝し、現状を大事にしているのが一元論者の幸せなのですから、一生幸せなんです。勘違いしないで下さいね。一元論者は、現状は常に変化していることとして理解していますから、保守的ではなく融通無碍、自由自在なのです。
 さて、長くなったので終わりにしますが、表題の『文教に従わず』というのは、外から強制された考えに服従せず、己の感じている正しい道を何があろうと兀兀と進むと考えて良いでしょう。つまり、泥棒の被害にあえば、「罪を作らせたのは自分が悪い」と考えつつも、二度と罪を犯させないために取られた物を取り返すのではなく、必要な行動を起こすという感じです。因みに、二元論者は、事の背景などに関係なく、奪った側が加害者、奪われた側が被害者で、理由に関係なく白黒を着けて、奪われた物以上を取り返そうとします。
 さて、諸君、君達の“論”はどちらかな?。どちらとも取らないことについては如何に思うかな?
一日一生 慧智(070609)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
 

投稿者 echi : 02:32

2007年06月08日

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

 相変わらず上下によらず巷は騒がしい。こんな時は良寛和尚の漢詩を読むに限る。禅士諸君も坐る前に読んではどうかと思い、示しておく。教訓は『偏ること毋れ』である。百尺竿頭に着いて始めて半人前。聖から俗へ、そして俗から聖を渡り歩くことこそも“両忘”である。聖の是は俗の非かもしれないし、俗の是は聖の非かもしれないが、真実は是非一如なのである。己の信じる道こそ仏の道だが、己を信じても妄信してはならない。

◆良寛和尚の詩
昨日之所是 今日亦復非
今日之所是 安知非昨非    
是非無定端 得失難預期    
愚者膠其柱 何適不参差    
有智達其源 従容消歳時    
智愚両不取 始称有道児    

◆読み下し(慧智流であり、一般的かどうかは各位の判断))
昨日の是とせしところ 今日また非とす。
今日の是とせしところ いずくんぞ 昨の非にあらざるを知らん。
是非に定端なし 得失はあらかじめ期し難し。
愚者は其の柱をにわかとし いずくにゆくとしてしんしたらざらん
智あるは其の源に達し しょうようとして歳時を消す。
智愚ふたつながら取らずして 始めて有道の児と称す。

◆慧智の超訳
昨日、是であったことも、今日は非だということがある。
今日、是であっても昨日は非でないと、どうして解るだろう。
是であれ非であれ絶対ということはなく、何を得で、何を失かは予期できない。
愚者が是非を決め付けるが、食違いはどうしてもでるものだ。
智者は是非一如を知っているから、決め付けることなく悠悠と時を過ごす。
智愚を両忘出来てこそ、道を悟った人ということができる。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


投稿者 echi : 10:08

2007年06月07日

●第1078話 『公案は頭では解らない』

 禅士諸君。ここ数回の記述から気付いただろうが、『公案』は、頭では解けないのである。と同時に、室内において師と弟子が“同じ空間・時間”を共有し、即否定、即肯定が行なわれない限り、師は弟子の心を観ることが出来ないのである。同時に以心伝心、弟子もまた師の心を理解できない。ということで『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』の四句の意味が解るだろう。
 つまり、坐禅はネット上でも出来るし、夫々は毎朝生まれるように起き、毎夜死ぬように眠り、過去を変えることは出来ないし、未来を決定することも出来ない。“あれ・これ・それ”も思う通りにはならない。全ては“変数2であり、“縁”により今が現象していることも解っただろう。更には、言語学では“シニフィエ・シニフィアン”と表現するが、山は山であって山そのもではないのである。言葉・意味・実体が同一であることは保証されていないのである。言い換えれば、言葉や、常識という思い込み、それが作り出す先入観などで雁字搦めになっている己(それ“我”という)を毎日風呂に入り体を洗うように、心も風呂に入れて毎日の垢を落として死ぬ。そして生き帰るのが正しい生活(イキイキと生きる)だということは理解できただろう。何かを知っている。言語表現に長けている。常識的(道徳的)である。それら全ては“教えられ、信じ込まされてきた事”。つまり『主人公』ではなく、“操り人形”であるということ。それが抽象的不安や具体的恐怖である“苦しみ”を生んでいること。それ故に、己の幸せ(大安心の境地)を己自身で放棄していることも解るだろう。『今・此処の己』は、瞬間的な現象である。勿論、生まれたときも裸、死ぬ時も裸。その上、人間は例外なくあるにも関わらず、自分が生まれた事、死んだ事を体感できない。生まれて来た。生きている。死にそうだを想像するだけ。その想像もソーシャルマインドコントロールによって思い込んでいる“社会の常識”という幻想。お節介な拙僧としては、まだまだ書きたいのだが『知らなければならないが、教えられてはならない』とは、『自ら学べ』ということ。それが“禅の真髄”なのである。繰り返しになるが、本当の『学び』は体験からしか生まれない。教えられたものは、時間的合理性の観点からは便利であるが、記憶して変性され先入観(潜入感)の源泉になり、結局は“苦”の根幹になるだけなのだ。つまり、公案は言葉の体系のように思われているが、真実は、『体験の促し』であり、体験の解釈の結果を点検するのが師なのである。
 今日は、これをかみ締めながら坐るように。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★因みに、“あなた≒私”は“今”、何に坐っていますか?

投稿者 echi : 08:24

2007年06月05日

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

 禅師は、教えずに、育てる。育てるためには、学ばなければならない事を教えずに気がつかせる。それの浅いものを“気付き”、深いもの“悟り”と言う。気付きは態度に表れ、悟りは行動に現れる。究極の悟りを“大悟”という。大悟は、態度と行動に現れる。1073話のヒントをワシの言葉で与えると以上となる。つまり、現成公案も公案。ワシのヒントはヒントにしてはならない。何故なら、“教え”だからである。教えで人は育たぬ。己の師は己の内にある。それを“目覚める”という。自覚という。仏教では、すべての現象に『因』があるから『果』が生じると説いています。しかし、『原因と結果』というような“一対一”の関係は否定され、『因』は『縁』に触れて『果』を生じるという事実を発見し。更に『果』は因の一要素となり縁に触れて果となることから『因果一如』と表現しています。つまり、世界は循環慣性の法則に従って動いていることを理解しています。簡単言えば『因縁果』が連続的にあるのが“此の世”であり、“それを拡大すると“彼の世”なのです。ですから、此の世は彼の世であり彼の世は此の世なのです。となれば、因果を結ぶ『縁』を大事にしなければならないとは思いませんか。例え何かの『種』があったとしましょう。『種』の力は縁の出会えば発芽するということであり、発芽すれば天候だとか、人工だとかの『縁』により果を結ぶ場合もあれば枯れる事もあります。言い換えれば、発芽すれば結実するという約束は無いのです。『隋縁』つまり因は縁に従います。そこに人間が割り込むと、人間いとって都合の良い状態を『好い・良い・善い』、都合の悪い状態を『悪』と決め付けますが、『種』は無心です。その時その場所を全力で生きているだけです。環境に対して不満を漏らさず受け止めています。以上の事は、教えられれば理解は出来るが、体験しなければ納得できません。納得できないことは思考や行動に現れません。だからこそ、『作務』も坐禅同様に修行なのです。食べることも、排泄することも修行なのです。体を洗うこと、心を洗うこと・・・行住坐臥の全てが修行なのです。結論、修行なくして人は育ちません。厳しければ厳しいほどしっかりと育ちます。岩場の松、砂浜の松が教えてくれます。ただし、先入観があれば聞えません。見えません。感じません。だから分別を捨て無心に生きろということです。
 →明日は『学ぶ・育つ』です。ネット禅士諸君、今日も、しっかり坐れよ!
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 14:16

2007年06月03日

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という風流な句がある。出典は『虚堂録・巻一・興聖寺語録』。そして虚堂智愚大和尚が最初に上堂した時、一人の僧が立ち上がり『呼猿洞口、無心臥月眠雲、長水江頭、正好抛綸擲鉤、只如霊山密付、還許学人咨参也無』と質問した時の二句目。読み下すと「呼猿洞口、無心にして月に臥し雲に眠る。長水江頭、正に好し綸を抛ち鉤を擲つ。只だ霊山の蜜付の如きんば、還って学人の咨参を許さんや也た無や」となる。大まかな内容は「今までの和尚は呼猿洞において『月に臥し雲に眠る』ように無心であった。しかし今、長水江のほとりで住持となり、有り難い事に修行者を指導することになった。そこで、禅の極意についてお訊ねしたいが、よろしいか」と、いう感じだだろう。『臥月眠雲』とは、表面上は文字通りに「月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」だが、もう少し踏み込むと「厳しい環境で修行に集中している姿」となるだろう。言い換えれば、現代のように恵まれた環境の中で“人間”や“人生”を本や言葉から頭で学んでいては、人の本当の空しさ、悲しさ、辛さなどなどの言葉に出来ない苦しみを受け留めることは、御為倒しの心で態度や言葉では共に悲しみ苦しむような擬態は出来ても、本当の心は受け止められないだろう。拙僧の周囲にも“口と態度と心”が重ならない者が世間並みに居る。場合に拠れば無智なるが故に、彼らは“それ”にすら気付かず、自分は優しく思いやりがあるなどと自分本位に自分を評価していることも多い。それは、多くの場合、自分が弱い立場にあり、強い者には保護されて当たり前だというような甘えがあることが多い。人間に強いも弱いも実は無い。もし有るとすれば賢者か愚者かである。しかし本質は賢愚も一如。差別区別は不要である。野であれ聖であれ、これも亦一如。事実は一つである。事実とは“無”の蜃気楼のような物で、事実が映る己の心次第である。ということは、如何な
ることも無心に素直に受け容れることである。
 となれば禅士諸君は 『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という句に出会って何を悟るか。「あるべきよう」なのか、郷に入れば郷に従うのか、無駄な贅沢はするななのか。100人居れば百人の心があるだろう。中には自然が一番というのもいるかもしれん。
 『臥月眠雲』・・・・・。拝金主義が賛美され、格差が成長の源泉だなどという幻想が流され、物の豊かさに目を奪われがちな今日。今一度立ち止まり、『本当の豊かさとは何か』を考え、心豊かに暮らしたいものである。禅士諸君。無智は敵だ。妙智力。知恵の世界を超えて智慧の力を知ろう。その時“空”の意味に得心が行くだろう。
一日一生 慧智(070602)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 00:39

2007年06月01日

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 良寛さんに表題を問えば「今日はおついたち、ホラ足下に・・・」と返ってくるかもしれませんね。
 旅から帰ると全身に倦怠を覚え、夜が明けたのも知らずに8時間もの眠りに落ちていた。考えてみると、50年間、横になるのは一日3時間内外であった。“する事”があるし、“すべき事”も多い、その上、それらは“出来る事”で、結果“したい事”でもあった。人生、何度か立ち止まり、空を見上げ、涙したこともあった。それでも一日一生、寝て起きれば“新しい己”。昨日の己は己ではない。勿論、明日の事は明日。去る者、去る事は追わず、来る者、来る事は全て受けてきた。衣を着け絡子を着ければ坊主、背広を着れば経営者、白衣を着れば研究者。作務衣を着れ労働者。正に“馬子にも衣装”。そして、その時の為に白衣で床につく。3年前は坐睡を心がけていたが、線路脇のため最終電車と始発電車の間の数時間だけコトンコトンという列車とレールの励ましあいが途切れる。レールと車輪の互いの無事を確認する声に励まされた。今も同じ。「己!さっさと起きて働け!死んだら働けんぞ!」今、レールと車輪に励まされている。
 さて、今日は起き掛けによろけてツッカケてしまい開いてしまっいた良寛さんの漢詩を一つ紹介しておくので、味わってみて欲しい。

我生何処来 去而何処之    
独坐蓬窗下 兀々静尋思    
尋思不知始 焉能知其終    
現在亦復然 展転総是空    
空中且有我 況有是興非    
不知容些子 随縁且従容    

◆読み下し
我が生は何処より来り、去って何処にかゆく。
ひとり蓬窗(ほうそう)の下に坐し、兀々(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す。
尋思するも始(はじめ)を知らず、焉(いずくんぞ)能く其の終を知らん。
現在も亦復(また)然り、展転 総べて是れ空。
空中に且(しばらく)我れ有り、況んや是と非と有らんや。
如かず 些子を容れて、縁に随って且く従容(しょうよう)たるに。

◆慧智の超訳
命はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
荒れた庵の窓の下に独坐して、動かず静かに考える。
考えても考えても考えても命の始まりはわからないし、命の終わりゆくところもわからない。
今、此処に然るべく在り、寝返ると時は移りゆき、すべては空であることに気付く。
私は空の中にしばらくいいるが、有る無しに固まっているわけではない。
今此処にある現実を受け入れ、縁に従いってゆったり生きてゆこう。

一日一生 慧智(070601)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37

2007年05月31日

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

記憶では、拙僧が10歳頃、小僧となって2年目。老師から大拙翁の荷物持ちに行けと言われ、鎌倉の帰源院(円覚寺塔頭)に出かけたのは昭和35年の夏だったと思う。まあ、今から50年近く前のことであり、大拙師は90歳前後、拙僧などの曾孫程度とみられ覚えていて頂かなくても当然だと言われて来たが、覚えていておられ、その上講演会の末席で話を聞kさせて頂いた。訳の解らぬ講演の間、出掛けに師から言われた事が気になり、講演後、東京へ向う道すがら大拙師に質問した時のことだと思うが、「坊、禅書はな一歩読み違えると奈落の底に入るぞ。それにな、寺だけでは修行にならんから、漢字だけでなく西洋の言葉も勉強せよ・・・」と、それからの拙僧の人生を大きく左右することになる金言が今でも耳に残る。道々、洪川老師、宗演老師、西田幾太郎や三舟(海舟・南洲・鉄舟)、世界宗仰会議の話などだったと今は創造できるが、訳の解らぬ小僧に“勉強の大切さと人間関係の難しさ”を聞かせてくれたような記憶がある。がしかし、真に残念であるが前出の一言以外の記憶は定かではない。 なお、師の出掛けの一言は、今でもハッキリと記憶しているし、今では拙僧の口癖となり、漢字を“観字”と読み変える本まで書いてしまっている。その一言は、師が、小生意気な小僧だった拙僧に「慧智坊、お前な、漢字で書けない言葉は使うなよ、警策の十本二十本じゃ済まないぞ」と言われた事も思い出される。
 さて、今、訳け有って京都の某寺にいる。今日は、期せずして花園大学名誉教授の西村惠信先生とお話する機会があったり、白隠禅師の坐禅和讃についてのお話を聞く機会があり、何故か、タイムスリップしたように昔の事をが思い出され、この文章を書き始めている。
 禅士諸君、君達は『何故、ヒマワリは東を向くか(書名の記憶は怪しい)』という本を読んだことはあるか。もし読んだ者があたなら正確な和名を知らせて欲しい。内容は『麦の根』から言葉・行動・個性と環境との関わりで、私が人間の思考行動様式を研究していたピーク時に禅書的な読み方からヒントを得て“受容性”、即ち“己”の特性や環境を無心に受け容れる力の発見に寄与した本である。(内容には疑問な部分が多いが・・)
 禅は、文字や言葉の限界に挑戦しつつ、その竿の先にある“行間”や文脈の背後に暗々裏に語られる著作者の無意識を汲み取ってもなお、顔と顔をくっつけ、寝食を共にして師から以心伝心、直指人心には及びもしないことを全身で理解させる。そして、行脚での出会いが、人生観・生命観、自然観の全てを変えてしまう一言に出会い“因縁”を無心に素直に受け容れてこその人生を悟れるのである。考えてみれば、それは“禅”のみに非ずだが、師弟が命がけで対峙する室内(公案・法戦の場)に優るものは、拙僧の知る限りでは無い。
 今、師の話を思い出しながら『沙彌十戒威儀録』を読んでいる。何を云わんとするか、ネット禅士から、読んだだけではダメ。書き写せ、実践せよ、読めるまで坐れ。読めたら心身を染め上げて忘れろ。解れよ。
 そろそろ休む。禅士の陰口はワシにも聞えるので、なるべくなら誤字脱字には気を付けるが、“辻説法”としている訳も解せよ。一日二十分、話すのと同じように無心にタイプし終わると、見直す力など無く、バタンキュウ。残念だが其れが現実。勿論、指摘があれば、遡って修正はしているので、試しに読み直して欲しい。

一日一生 慧智(070530) 京都にて 『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 08:38

2007年05月29日

●第1068話 死について考える

 昨日から、現職の大臣の自殺について多くの報道がなされ、周囲から自殺に対する賛否両論が囁かれていた。
 さて、生者必滅。生まれた者は必ず死ぬ。日本人は一年に約100万人が死ぬ。世界では毎年5000万人が死ぬ。老衰死、病死、事故死、変死(自殺・他殺)という死の原因に違いはあるが、何れも死ぬことにかわりはない。しかし、俗世間での死の価値には大きな差異がある。美化される死、揶揄される死、重視される死、軽視される死・・。
 拙僧は、“死”は死であり、俗人が価値判断をすべきではなく、犠牲だ、犬死だ、立派な死だなどと死を評価し、差別すべきでないと考えている。
 以前、説法でも書いたことがあると思うが、拙僧は“己にとって意味の有る死を遂げたい”と語っているはず。それは己の己の死への己の評価であり、他に向けるものではない。だからこそ、癌仲間、禅仲間には「死は他人事、自分の死は経験できないから、永遠に生きることとして生きよう」、「死ぬ覚悟などしなくても誰でも死ぬが、生きる覚悟を決めないと生きた屍になるぞ」、「死は新たな生命を誕生させる転換点で、細胞分裂のようなものだから、子孫が出来る出来ないなどは、権力者が考え出した“家制度”の問題であり、子供の有無など人生には何の関係もない」、「世界的に見れば死ぬより生まれる方が多いので、日本ぐらいは人口を減少させ5000万人で機能する国家を目指せばよい」、「人間は病気や事故では死なない。死ぬのは寿命が尽きるからだ、使命を全うしたからだ」、「死に急ぐな、生き急ぐな」・・・。その場、その場で、方便を使っている。
 ところが、拙僧にとって他人の生死は身近であり日常であるが、“病院で生まれて病院で死ぬ時代”、魚も肉も店頭に並んでいるのは死骸で、一寸前まで遊んでいた庭先の鶏が夕食の食卓に上ることや、釣ってきた魚、捕まえた獣を父母が子のために殺す姿は見なくなった今、現代の大半の日本人にとって死は"非日常”なのである。統計を解釈すれば、男女平均で80年という長生き国家の日本でも、毎日3000人の人が死んでいる。しかし、同時に3000人弱が生まれている。結果、人口は若干減ってゆくが大きな変化は見て取れないにも関わらず、机上の統計数には表れ、現状を“少子高齢化”と名付け、“地球温暖化”だ、天然資源の枯渇だなどと同様の切り口で、官民揃って“日本の危機”だ煽り立てている。拙僧に言わせれば、そんな些細な事は『少欲知足』、『以和為貴』、『質実剛健』を肝とする“禅的生活スタイル”を実践すれば問題にもならない。しかし、経済合理性しか見えない拝金主義の亡者は、マスコミや風評を操り、一億総パニックを演出して大騒ぎする。それは、情けないことだが、所謂『健康・環境関連事業』という日本の新たな産業基盤整備を目論む一部の特権階級が失われた利権を補填するために新しい利権構造を作ろうとしているだけなのが悲しいことである。
 (注)建前と本音に開きが在りすぎる。
 さて、今日、一人、二人の著名人の死から沢山の思いが漏れ聞えて来る中で、コソコソとパソコンを持ち込んでいる国立ガンセンターの待合室での今・此処の己は、自分の死をそっちのけにして、他人の死を評価している声を聞いている。確かに、待合室に居る彼らにとっては死は身近なのだろう。勿論、私にとってもだが・・・。
 ところで、本日のネット禅会に先立ち、拙僧が日頃から話している死に纏わる話を、思い出した順に書いておくので、本日のネット禅会までに、『己の死』について考えておいてください。勿論、坐る時は全てを捨てて姿勢を正し、呼吸を正し、心を正して、頭の中の言葉を全て吐き出して坐ることは忘れずに。
◆『自殺』とは『自ずからを自らの手で生物学的な死に至らしめる』ことで、日本の場合は、『死ぬ事で生きる』という積極的な選択と『四苦八苦からの逃避』という消極的な選択という両面を持つ『人生の始末のつけ方』、一つの方法論であり、前者は美意識、後者は醜意識に通じる。
◆死は生と不可分不可同の現象の転換点であり、循環の通過点であるが故に生死一如である。つまり、誕生が祝い、死亡が弔いという決め付けは合理性を欠く。生死は重畳的連続現象である。
◆『極楽・浄土』とは四苦八苦から離れた自由で清浄な土地であり、『地獄』は自由が束縛された四苦八苦が因縁に従って現象する不浄な土地。つまり、両方とも、人間の無智が作り出した事実の解釈であり、事実の陰、幻、陽炎のような心象であり、権力者が大衆を支配するために、否定も肯定も証明できない言葉を凝縮した道具である。
◆『魂』とは拘りや囚われ偏りにより生じた変性意識であり、『霊』とは無智が生んだ未知の現象に対する仮初の姿で心身二元論の産物。
◆『己』という“本来”は、時、空間、意識も超越した無色透明の全体であり部分で、万物の一露、大河の一滴である。
◆『我』という己の“仮初”は、時、空間、意識により翻弄されている有色汚濁の部分であり、大河の澱である。
◆???????。此処は坐禅が終わったら、コピペして“気付き”を書いておいてください。

一日一生  慧智(070529)  築地ガンセンター待合室にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 12:02

2007年05月27日

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

 以下に、鎌倉五山の一つである円覚寺の釈宗演禅師の師であり愚僧が小僧になったばかりのころ激励を頂いた鈴木大拙師の師でもある今北洪川老師の『亀鑑』を紹介し、愚僧の“超訳”を付しておくが、原文を読み、それぞれなりの解釈をして、今一度、禅とは何かを再確認してください。
 愚僧が日頃から口が酸っぱくなる位に言っている“薄っぺらなヒューマニズム”を捨て、無心となって全ての為に生きよ、ということを再確認してください。
 禅、坐禅は“カルチャー(お稽古事)”では断じて無い。今を生き切り、全てに報いる人間としての唯一無比の正しい生き方である。現在の社会の矛盾を解き明かし、如何にして生きるかを考えた人々は、法律の壁、道徳の壁、科学の壁、即ち相対的で限定された合理性が不完全であることに気付いた者の大半が坐禅をし、その因縁が望まずとも“大人物”という評価が下されていることを知って欲しい。
 坐禅をするから大人物になるのではなく、大人物をなる者は必然的に坐禅をしているのである。言い換えれば、遠い先を夢見るのではなく、出来る事に、全身全霊を打ち込み、他責的にならず、不満を言わず、現実をあるがままに受け入れつつ、己を失わずに、今・此処の己を使い切るのである。
 言い換えれば、それなくして、真の自由、真の合理性と出会うことなく、矛盾だらけの限定的合理性に埋没し、夫々が例外なく持つ本来の己(仏性)を萌芽させることが出来ず、単なる自己満足という稚拙な快楽に溺れ空し人生を送り、死に臨んで後悔するのである。
 悪いことは、言わないから、真剣に坐りなさい。
 以下を読めば解るが、必ず成就するから“三日坊主”はお止めなさい。
●今北洪川老師の「亀鑑」
「諸禅徳、既に俗縁を辞して仏弟子と為る。治生産業、汝が事に与からず。且く道え、甚を以て父母の生鞠劬労の大恩に報答すや。甘旨を供して父母を養うも汝が報恩底の事に非ず。文学に達して父母を顕わすも汝が報恩底の事に非ず。経呪を誦して父母を弔うも汝が報恩底の事に非ず。畢竟作麼生か是れ汝が報恩底の事。唯大法の為に辛修苦行して真の僧宝と為るの一事有る耳。之を譬えば、厦屋を造るが如し。真心を以て地盤と為し、志願 を以て礎石と為し、実悟を以て棟梁と為し、孜々兀々として朝参暮請し、歳月の久しきを厭わず、親切にして懈らずんば、則ち他時異日、一大厦屋を成立して輪奐の美を極むるや、必せり。然して後、始めて真の僧宝と謂うべきなり。此に至りて、啻今生の父母劬労の恩に報答するのみにあらず、過去百劫千生の父母劬労の恩、一時に報答に畢んぬ。大いなる哉、明心見性の功徳。唯但諸禅徳、二祖断臂の親切、臨済純一の刻苦、慈明引錐の激励等を憶念して、日々に修煉し、時々に体窮して、寸陰も怠ること勿れ哉。古徳曰く、僧と為って理に通ぜずんば、披毛戴角して信施を還すと。怖るべし、慎むべし。旃を勉めよ、旃を警めよ」
●慧智の洪川老師「亀鑑」の超訳
禅を志して出家し世俗を離れて仏弟子となった者は、経済生活を目的とした仕事に従事することは歩むべき道ではない。となれば、如何にして父母に養われてきた大恩に報うことが出来るか言ってみよ。出家にとって父母を扶養することは真の恩返しではない。学者となって知名度が上がり父母が世間から賞賛を受けたとしても真の恩返しにはならい。経や呪を読み誦んで弔っても真の恩返しにはならい。出家者として父母の大恩に報えるのは、大仏法を体得して真の禅僧となる以外には無い。それは、屋敷を建造するようなもので、真心を地盤、願心を礎石とし、実悟を棟や梁として、一心不乱に禅道を進み、一日を一生と思い、坐禅・公案・作務に成り切り、期間など気に留めず修行者に成り切れば、いつの日にか比類なき屋敷が完成すれるように、禅の宝をなる禅僧になる。つまり、出家した者は、道を究めること以外に父母の大恩に報うことは出来ない。己事究明を通じて父母未生以前の己に帰り本来を明らかにして自利利他に徹することこそ父母の大恩に報うことである。
 父母をはじめ全ての生きとし生けるもの、山川草木の大恩に報いるには、二祖慧可大師が臂を断って達磨大師にしめし道心、臨済大和尚の大いなる工夫、慈明禅師の壮絶な修行を忘れる事無く、一日を一生として全身を以って修行に打ち込み、日々に悟り、一分一秒も無駄にしてならない。
 つまり、歴代の大禅者の言葉を借りれば、「家を捨てて禅僧となった以上は、全ての本質を示した仏法を完全に会得、自覚しなければ、人間として生きた価値がなく、修行を支援して頂いた山川草木や無数の方々の大恩に報うことは出来ない」ということになる。恐れいり謹んで心に刻んで教訓として修行に打ち込め。

一日一生 慧智(070527)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 19:57

2007年05月25日

●1066話 『入室参禅』について

 無期懲役とも思える禅堂修行に入ると相見(対峙により師弟の自覚が出来上がる面会)を済ませた“その日”から師の室で師弟の命がけの戦いが一日の二回、入室参禅(にっしつさんぜん)という形式で行なわれる。師は、夫々、弟子の力量を押しはかり『公案(修行のための正解の無い問題)』を与え、見解(けんげ)を求める。専門僧堂では朝暮二回、師の部屋に通じる廊下に喚鐘という半鐘の半分程度の鐘が出て、入室参禅が求められる。すると、修行僧は我先に入室しようと廊下に正座して順を待ち、ノック代わりに喚鐘を二点打して作法に従い入室する。問題は、室内での出来事なのだが、これは師はもとより雲水同士ですら一生涯に渡りその内容を話すことはない。何故なら、先入観を捨てるのが修行の肝であるにも関わらず、先入観を助長強化してしまうからである。俗世間でも、教師が“答え”を教えることは学人の成長を阻害してしまうので、先ず無い。実は禅師は己の雲水時代の経験から『規矩作法(規則や立振舞い)』は体験(体)で学べば躾になるが、頭に先に入れてしまうと、形式として記憶されしまい、心身に刻み込まれる躾にはならないことを全身で知っているからである。という訳で、拙僧など“パブロフの犬”のように今でも喚鐘の音を聞きくと全ての雑念が瞬間的に消えてしまうのである。という訳で、現在の立場は入室を促す側なのだが、心は学人のままなのである。ところが、今時の世間は、教育が“サービス業”という商売になってしまい、師と弟子が“差しで対峙”する法戦場こそが教育の場であり、教師の使命である己を超える人間を育成するという教育の肝が忘れられているのは残念である。
 さて、学人(雲水・居士の場合もある)は、己を経営する経営力を己自身で鍛え上げるため、予め与えられた公案に対する見解を入室毎に師に提示するが、初めのうちは一言も話せぬまま鈴が振られて追い出される。後で解るのだが、問いに対しての反応が0,25秒を超えると追い出される。ですから、師の立場になった今でも“間抜け”は許せない始末である。
 ところで、禅士諸君は、最大限の怒鳴り声を耳元で聞いたことがあるかな。本当に鼓膜が破れる。しかし、鼓膜が破れると聞える声がある。“法の声”かも知れんが不思議だぞ。ワシは優しいのので怒鳴らずに竹刀を打ち込むことにしている。竹箆、警策、扇子はすぐに折れてしまうからね。まあ、昔から「炉柎に入りて鉗鎚を受る」と言われているように真剣勝負だから、甘えは100%させないし、しない。生半可は火傷をするだけ。それは今でも変わっていないはず。入室参禅と坐禅、作務は“二入”、修行の両輪であり、最終的には“四行”をもって『悟り』に通じる大道、百尺竿頭への道であり、竿頭に着けば直ぐに一歩を進み、また原点から竿の頭を目指す繰り返しの始まりである。正に悟前・悟後が一つになる過程だ。
 ワシは、『入室参禅』こそ教育の原点だと思う。しかし、教育はプレタポルテ(既製服)ではなくオートクチュール(注文服)と同じようなもので、一人ひとりの技量に合わさなければ、師も学人も徒労に終わってしまう。だから、拙僧は、参禅者に対し、日々の雑談の中に『現成公案(今風の課題)』を与えているが、最近は、マニュアル人間が増えたことか、学校や家庭が崩壊状態にあるのか知れんが、“それ”と気が付かぬ者も多いのは困ったものである。
 ところで、「陰徳を積んでいるか」と問れたら、何と応える?ハイと肯定すれば陰徳ではなくなるし、イイエと応えれば嘘になることを承知で応えよ。

一日一生 慧智(070525)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 10:36

2007年05月23日

●第1063話 『身体、心、頭』について

 昨日、理事長を務める財団法人職業資格取得支援協会の理事会が早めに終わった。久々に時間が空いたせいか、時々顔を出す渋谷の喫茶店に足が向いた。途中、先日の禅会を思い出していた。
 参加者は少なかったが活人禅寺らしい内容であった。この時期の寺は、北関東というより南東北と言った方が似合う茨城と福島の県境である大子のこの時期は可憐な草花が多く生命の息吹を感じる。夜坐は春ならでは星が煌き無寒暑。拙僧の体調も安定してたせいか、一、二炷程度は、参加者と共に坐ることができた。また、寺の管理人が一ヵ月前に脳梗塞で倒れたが、何せ“復活再生の寺”故か、回復が早く、リハビリを兼ねて草刈に汗を流していた。「癌にも脳梗塞にも打ち勝つ寺だ」なんて売り出そうという笑い話が出来るまでに回復しているのには驚いた。
人間は清心万能邪心萬危。己の状態を全面的に受け入れ、持病も障害も“個性の一つ”として認めることが、障害の無い部分を自由自在に工夫して生かすことが出来る。出来る事に集中し、境涯を恨むことなどなければ、持病も障害も克服できる。“一病息災”とは良く言ったものである。己の障害や病を意識し
過ぎると、他のところまで病むことになる。教訓のようだが、人間、先ずは“出来る事”を完璧に行なうことが幸せの第一歩。今、此処で“出来る事”に全力を集中していると、それは“すべき事”を飲み込み“したい事”を飲み込んで、『出来る事がしたい事で、すべき事』という最高の人生を送ることが出来る。『したい事が出来ない、すべき事に気が付かない、出来る事をしない』ことにより“縁”が変わってしまい、本来は大安心の境涯となるべき人が、大不安の境涯に迷い込み、悲しく・寂しく・侘しく・空しい“生き地獄”のように苦しい現実にあることは相談に来られる方の多く善男善女に共通している。
 渋谷のセンター街を入って直ぐの処に、“ヤンキー、ニート、プータロー”達の溜り場がある。
数年前から時々顔を出し、仲間に入れてもらっている。彼らだって考え方をほんの少し変えるだけで充実した人生を送ることは出来ると信じ、タイミングを見つけては議論を吹っかけている。 
拙僧「体は目的も目標も持たないし結果も求めずに機能するだけ、ということは解るか」
茶髪A「解らね。SEXは目的だぜ、な」
茶髪B嬢「目的はSEX、目標もSEX、それでいいじゃん」
拙僧「そんな良いなら、これから皆でするか」
茶髪A「馬鹿じゃねの、エロ爺。SEXは好きな奴と二人でするもん、酒でも飲まなきゃ乱交なんかできねよな、な」
拙僧「お前らにちゃんと考えられるんだ」
茶髪A「俺達は、身体とハートで生きているんだぜ、頭じゃねよな」
*彼らは、どんな事でも仲間の相槌を必要とする。だから仲間が同意すれば、それが彼らの社会の“常識”になるらしい。
拙僧「じゃあな、お前らの心って、どこにあるんだ」
茶髪B嬢「ここの中、見たい?」
拙僧「お、見せてみろ。でも、心以外の物は出すなよ」
茶髪A「馬鹿じゃねーの、心が観れるわけねーよ、な、な、そうだろ」
拙僧「じゃあな、あんたらが目的や目標を持つのはどこだ」
茶髪A「頭じゃん、な」
茶髪B嬢「心だと」
拙僧「おい、意見が分かれたな、ところで、頭って、ここか?
拙僧「じゃあ、心は何処だ?」
 こんな話をいつもしている。すると、多くの場合、“霊魂”、“神様”、“運命”、などが登場する会話になる。今回も同じ。
拙僧「ところで、体を持たない頭、体をを持たない心、頭を持たない体、心を持たない体、心を持たない頭、頭を持たない心があると思うか?」
茶髪2人「あるわけないじゃん、な」
 すると、それまで黙っていた若者が
若者「霊魂は体を持たない」
拙僧「ということは、体は霊魂を持っているのか?」
若者「ある」
拙僧「じゃあ、見せろ」
若者「霊魂は特別に選ばれた者にしか見えない」
拙僧「誰に選ばれたら特別な者なんだ?」
若者「ゴッドだ」
拙僧「ゴッドって“神”ということか?、どこに行けば会える?」
若者「オレだ。おれがゴッドだ」
拙僧「オレは仏だから、親戚みたいなものだな」
若者「お前は人間だ」
拙僧「じゃあ、ゴッドは人間じゃないのか」
若者「そうだ、だから、おれはお前を消滅させられるが、爺はオレを消滅させられない」
拙僧「ゴッドは死なないのか?」
若者「体は心でも、心は不滅だ」
拙僧「だったら何故、心がゴットで霊魂だと言わないのか」
若者「霊魂や神は“宗教”の言葉だし、“心”は普通の言葉で、ゴットは五次元世界の存在だ」
拙僧「空間は三次元、時間が加わると4次元、五次元は何を加えればいい?」
若者「ゴッドだ」
 いつものことだが、この辺から会話はループに入って、大概の場合は、席を立たれてしまう。ところが、今日の若者は違った。
若者「お前は坊主だろ。神は信じないが霊魂は信じているんだろ?」
拙僧「神も霊魂も、おれは見たことも感じたこともない。どうしても神だ、霊魂だとかいうものがあるなら、ワシは神だし霊魂だ」
若者「お前は本当に坊主か」
拙僧「ワシは坊主だ。だから、世界は全ては心が描いた結果で、心をカラッポにすれば、見える世界も見えない世界も一つだということがわかるんだ」
 ここから2時間。11時をまわったところで、若者が「仕事だ」と言って出て行こうとした時、振り向きざまに「今度はサシで話そうぜ。来週の水曜に来いよ」
 素晴らしい。2年目で初めて受け容れられた、と感じた。来週が待ち遠しい。
一日一生 慧智(070523)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 09:08

2007年05月18日

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

 “好き嫌い”という二見が人間本来の自由を奪うことは少し考えれば解ると思う。好きな事は前倒し、嫌いな事は先送り。身に覚えがある人は多いだろう。“好嫌”という情動、“善悪”という感情、“正否”という理性。人が出会う現象を好事だ、悪事だ、都合が良いの悪いの、善だ悪だと二つの方向に分けることが“苦の源泉”なのだ。そして、そこから始まるのが、身勝手であり、求める心、偏った心、拘る心、囚われた心なのだ。そして、それを放置しておくと、執着心・先入観となり、行動が偏り、結果的に世間を狭くした上に、“自由”を失ない苦しむことになる。
 ネット禅士諸君。充実した人生にしよう!勿論、それは一朝一夕には出来ないが、今、此処で始める決断をしないと、いつまでたってもイキイキ人生にはならない。
 禅では、何事も“否定せず・肯定せず”、差別無く分別しないことを、先ず肝に据えさせる。そのためなら、師は弟子に対して強硬な手段も厭わない。そこを乗り越えられなければ、修行には耐えられないし、全てを“あるがまま”に受け止めることはできない。そこさえ乗り越えられれば“自然”と共生が出来る“自由自在”に一歩近づく。その心が“無心の心”という境地である。そこまで辿り着ければ、仏滅だ大安だなどの吉凶などは考慮の対象にすらならないし、喜怒哀楽に振り回されることなく『日々是好日』『無事是貴人』に得心が行く。妄語迷信など敵ではない。仏滅に結婚式をしようと、大安や友引に葬式をしようと、吉だ凶だ、方位だ、四柱推命だ、星占いだ、血液型占いだ、怨霊だ、怨念だなどの妄想など笑い飛ばせる“自由”に目覚める。何があってもドンと受け容れてしまい、理由を考え出したり、こじつけたりすることは無くなる。毎日が廓然無聖。カラッとしたさっぱりした気分だ。ただ、それで満足していては禅者ではない。ここまでは“自利”つぎは“利他”だ。
 人生を充実させたいなら、自分を自分の人生の主人公にしなければならない。それには、常識と思い込んでいる事を一度、全て捨てて、価値観を再構築する必要がある。だが、世間的な常識と思い込んでいるもの、価値観を全て否定し排斥するものではない。それらの全てを『肯定もせず否定もしない』目で見つめ直すのが大事なのだ。ところで、貴方にとって『好事』とはどんな事かと問われれば、『自分にとって“都合のよい”こと』だと答える人が多いだろう。日本人は“好い事、良い事、善い事”と書いて、どれも「いいこと」と発音する。同様に好い人、良い人、善い人と言う場合も同じ。勿論、3つの意味は異なる。しかし、前出の3つの「いい事、いい人」は“自分にとって“都合がよい”という共通項はある。

 心理学の世界では、「好い事」を感じるのは情動、「良い事」を判断するのは理性、「善い事」と決め付けるを人格という概念で説明しているし、大脳に部分機能を持つ構造に帰着させて考えることが多い。しかし脳に“その場所”があるのではない。脳の進化の過程で変わってきた“主導脳”による情報処理の異なりに呼び名をつけただけだ。だから、単細胞→多細胞→植物→魚→両生類→爬虫類→哺乳類→高等哺乳類と進化してきた人間だけが3つの定規を持ってしまい、その相互関係の矛盾から“自由”に生きていることが出来なくなったのです。 それが、釈尊をして『一切皆苦』という大前提を構成させたのだ。そして、苦の原因を断つ方法を探すために出家し修行をし、苦の分類(四苦八苦)と構造を発見し、苦しまない生き方を発明した。それが『一切皆空』といって、全ては相対的であり実態は無く、全ては“紙の裏”のようなもので、見方次第だが、不可分不可同、つまりは固定されたものではない、という真理に行き着い
た。そのポイントは、全ては実体ではなく、相対的な幻想に過ぎないということだ。だから、物事が二つに分かれる前、『我(が)』を『父母未生以前の己』に立ち返れらせればば、生死一如であり、原因が縁と結びついて結果となるのだから、結果に注目して苦しんでも無駄で、自分の心に注目し、結果は全て無条件に受け止め、足るを知れば、“此の世こそ大安心で満ち溢れている蓮華国、浄土であると理解し、『無事是貴人』『日々是好日』『平常心是道』『一期一会』『薫風自南来』・・・・という『禅語』は、結局『好事不如無』の心と同根だということを得心するために坐禅を発明したなのである。

 「穏やかに、伸びやかに、安心して、活き活きとしつつ淡々と暮らす」。反対する人がいるだろうか。心と体は不可分不可同、心身一如。差別する区別する分別することが幻想だと解ると、この上の無い気分で暮らせるようになると考えられないか?
 今週の土日は、大子の活人禅会です。自宅で一人で坐っているのも良いが、一度は寺に顔をだしてください。
 一日一生 慧智(070516)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 03:24

2007年05月16日

●『善悪』について 

 道元禅師の言葉に『人の心、もとより善悪なし。善悪、縁に随ておこる』というのがある。これは禅師の侍者であった懐奘により書き残され今に伝わっている。意味は「全ての現象・事象には人の決めた“善悪”とは無関係な“因”があり、それが“縁”に触れて“果”となり、また因となり回り続けて返ってくる。それが因果応報。だから回向返照。“本来”に善悪などはないが、道徳的な善悪、儒教的な善悪、世界で異なる法律的善悪。夫々で異なる宗教的善悪。善悪の基準は心の汚れ具合で皆少しづつ異なるが、己の清心の基準で善をなし、ひけらかす事をしないことは大切な事。だが、残念ながら人間は染まり易い。だから“したい事より、すべき事。すべき事より出来る事を大事にしよう。己の認識の有無には関係なく、縁が“善果”を結ぶ場合もあれば“悪果”を結ぶ場合もある。そして、それがまた“因”となる『因果一如
』。真理は永遠に繰り返す。どんな人間でも、生きていれば悪因の無い者も、善因の無い者もいない。問題は“何れに偏っているか”である。如何なる結果も自業自得。だからこそ、『全てを素直に受け容れる』のが一大事。それがどの様に評価されるかなど気にしちゃならん。出来る事に全力を尽くして、知足(足るを知る)。
◆良寛さんの一言
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』人は誰もが災難や死から逃れたいと思うものだが、不安や恐怖に逆らおうとする心はストレッサ
ー、ストレスの原因。望まぬ方向への道案内。だからね、何事にも逆らわず、力を抜いて素直に受け入れてこそ、この身即ち仏なり。この智(地)即ち蓮華国。それが妙法。 俗世間の善悪は相対的。心を無にして生きことこそ善、そして禅、そして然、そして全。
一日一生 慧智(070515)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
◆報告:薬は薬で毒は毒は西洋の二元論物語。東洋は薬は毒で毒は薬。意味深長だな。

投稿者 echi : 00:49

2007年05月14日

●『本来』の意味・意義について

『禅』ないしは『大乗仏教』でいうところに『本来』とは、過去の拘り囚われ、偏りの一切を脱落せしめた純然たる“今”という瞬間が永遠に続く時空に依存する以前の世界を示す。
 つまり、『一』という全体を構成する『一』という部分が全体と相互浸透している世界である。
更に言えば、父母未生以前の己の消息であり、“二つ分かれ”する以前の『一』という未分化の世界である。それは、不二、自他一如、生死一如、不生不滅、不増不減、不垢不浄の状態であり、人間の手で汚れる以前の天然の世界である。
 故に、『本来』とは、無一物であり、無一物中無尽蔵の融通無碍の世界であるといえる。
 実は、『禅』における悟り(大悟)とは、その無空の消息自体を己を媒介にして坐禅・作務および行住坐臥の修行(歩歩是道場・日々是道場)の全てを以って自覚し体現することである。
 つまり、『己事究明』こそが真理(本質・原理・原則が同心球、円や球の中心)を悟る行為の唯一無比、絶対の方法を持った目的であり、目的を持った方法なのである。
 故に、禅の修業は『大死一番(娑婆の自分の一切を殺して(出家)、無心の心を心として修行に徹する覚悟)』が大前提となっている。なお、禅でいう『無心』は、空っぽ。自由で創造的で新鮮な心。それが『大死一番』で蘇った新しい己であり心身一如の姿です。言い換えれば『放下著』した残り(無)こそ『本来』が指し示すところなのです。
 なお、“本来の禅師”は、達磨大師が慧可大和尚に示したように、弟子が師に相見して公案を受け取る為には、本来、坐禅により“一度は死んだ己”を呈する以外には道は無いのです。
 とい訳で、野狐である愚僧ですら相見を受けにあたり、座禅の経験だとか、禅の知識だとか、況や社会
での地位などに関わりなく、『以心伝心』を重視している。言い換えれば、“人を観て法を説く”事以外に参禅者に応える方法はないのです。

以上、『本来』の二文字ですら、言葉で伝えるのは難しい。況や、無だの空だのは意味を頭に記憶させるのは大した問題ではないが、全身に染み込ませせるのは禅師としても命がけなのです。
達磨さんが『教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏』と言わざるを得ない気持ちが理解できたかな?
一日一生 慧智(070514)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合 掌

投稿者 echi : 15:15

2007年05月13日

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

『和光同塵(わこうどうじん)』は、“和≒品性(“和を以って貴しと為す”の和)”と“光≒光り輝く才智(≒天分)”を“同≒同じくする”と“塵≒汚れ≒塵芥”で構成された句と考えられます。 
 つまり、『和光』という全ての人間が本来から具有する清い心や個々独特の能力を、『同塵』、即ち“塵や芥”と同等にするということです。
 しかし、一般には何が何だか解りませんね。
 ところが、東洋の教養を身に着けていたり、禅を学んだ方、“**道”というような行為を通じて自分自身を磨いておられる方であれば、これは“謙虚であれ”とか“陰徳”を積む事だと解釈します。
 更に、禅の修業を真剣にされた方は、『和光同塵』は禅語(文字や言葉を引き金にはするが、それに囚われずに本質を観じる)として受け止めて『己の本質である穢れ無き力量を他の為に使う上で、無功徳に功徳を期待するような偽善に流れず、修行の成果かど微塵も見せずに巷(≒野、俗)にあり、人知れずに衆生を救い、救われた者に救われた意味を悟らせる生き方こそ最高の生き方だとなるでしょう。十牛図の十番目にある布袋さんを連想するように理解し同時に行動します。正に菩薩さんの行住坐臥です。正に、私達ネット禅士のゴールイメージです。
 さて、目を現在の日本社会に転じてみましょう。
 現在の日本の姿は、禅者である私達の非力のためなのか、民主主義、自由主義という変幻自在な隠れ蓑を被った経済(経国済民)、拝金主義、資本主義を建前に“経営(営みを経て目的目標を達せさせること)”という実を伴うべき志を曲解した格差社会(勝ち組と負組みを明確にする不公正・不平等な社会)を固定し拡大することで“新市民と新奴隷”という新たな身分社会を一部の権力者が誕生させようとしているように見えます。
 勿論、日本という国は“過去”が素晴らしくて“今”が悪い、というものでは断じてありませんが、20世中盤から世紀末、そして21世紀初頭にかけての変わり様は、恰も“一億総博打打ち”にようです。特に昨今の日本社会は、上流はヘッジファンド・株式投資のようなマネーゲーム。下流はパチンコ・競馬・宝くじのような射幸性ビジネス。双方ともに実を欠いた“虚業”に幻惑され、猫も杓子も金金金・・、ではないでしょうか。
 考えてみると、経済界のリーダーの一部は『和光同塵』を忘れて主婦、退職者、中学生に株取引を教えて誘い込み、政界のリーダーの一部は『會成一棵大樹 給天下人做蔭涼』を忘れ、世界遺産とも言える非暴力宣言を柱とする憲法まで放棄しようとしています。その上、“和を以って貴し”としてきた声無き声の“国民の本音”を守り、事実を正確に伝達する使命を持っているはずの“マスコミ”は、官民の区別なく品性を欠いた“面白ネタ”で読者や視聴者を獲得し、異なる種類の利権と結託して拝金主義を煽り、勝手な論理を振り回す文化人や学者をも取り込んで、正義を装いつつも、司法権でも握ったかのように、時には国民を裁き、日々に弄んでいるようです。また、国民は国民で、自分さえ良ければ良い、という手前勝手な論理を展開する無知蒙昧ぶりで、個人的利益のみに目を奪われ“快楽と投機”に没入しているようです。更には、“勝組二世”と言われる輩、即ち“虎の意を巧みに利用できる小利口な高学歴”は、“御為倒しの善意・正義”を隠れ蓑に市場イメージに過剰反応する時価純資産の高い企業と徒党を組み“非営利事業という営利事業”を考案して『大量生産・大量消費・大量廃棄』を支える金融やIT産業という虚業の延命を図るため、『環境保護活動』や『環境回復活動』という収益性の高い“虚業”を考え出す始末です。
 勿論、それらは“一事が万事”ということではありませんが、それらは高い“教育効果”を有し、日本人の品格を収穫逓減の如く下げ続ける危険を孕んでいるのです。
 『和光同塵』とまでは言いませんが、日本は米国の属国でも、北朝鮮の玩具でも、中国の標的でも無いはずです。以和為貴、質素倹約、質実剛健、非暴力、独善より協調、競争より協奏の素晴らしさを体験している“まとも”な国民であり、世界屈指の“共生による世界平和のノウハウ”を持つ国です。
 そうは思いませんか?
 ネット禅会に参加されている禅士諸君、そろそろ『自利利他』事を実践する時節ではないでしょうか。
 以上、禅というより儒教的な説法になりましたが、全ての人類が安全・安心を確保でき、山川草木と共生できる地球を取り戻せるように行動しようではありませんか。
一日一生 慧智(070513)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』 合掌

投稿者 echi : 22:13

2007年05月10日

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

  『碧巌録』九六則・趙州三轉語「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽」という偈がある。読みは「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。雪に立ちて未だ休せずんば、何人か雕偽せざらん」というのが一般的。
 そして、評唱には「泥佛不渡水。神光照天地。這一句頌分明了。且道為什麼卻引神光。二祖初生時。神光燭室亙於霄漢。又一夕神人現。謂二祖曰。何久于此。汝當得道時至。宜即南之。二祖以神遇遂名神光。」とある。読みは、「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。この一句に頌して分明にし了る。しばらく道え、什麼としてか卻って神光を引く。二祖初め生るヽ時、神光室を燭して、霄漢にわたる。また一夕神人現じて。二祖に謂って曰く。なんぞ此に久しき。汝まさに道を得べき時いたれり。宜しく即ち南に之くべしと。二祖神遇を以て、遂に神光と名づく」である。
 「神光」とは、達磨大師の後継であり、活人禅寺の聖僧として禅堂に鎮座している二祖慧可(えか)大和尚のことである。慧可大和尚は、達磨大師の下で修行を願い出たが許されず、左片腕を元兵士らしく雪中で自ら切り落とし、修行への決意を示したところ、入門が許され、初祖達磨大師から『慧可』の諱を賜る。
 表題の『泥佛不渡水 神光照天地』の意味は、「土作りの仏像は水に溶けて消えるが、神光により伝えられる法は世界に伝わり天地をてらすだろう」と受け取ってよいだろう。翻って言えば、己を超えてゆくであろう只一人の後継者を経営することが修行の完成を意味し、その後あらゆる評価すら捨てさり、正に無一物となり、存在そのものが“癒し”として巷にあるのが禅僧の理想像かもしれない。
一日一生 慧智(070509) 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏』

投稿者 echi : 01:16

2007年05月07日

●『無常の偈』に学ぶ

■涅槃教より漢文と表面上の意味
諸行無常・・・森羅万象は常に変化し留まることはなく、
是生滅法・・・これを消滅の法という。
生滅滅已・・・生も滅も滅するに至れば、
寂滅為楽・・・何もかもを受け容れることが出来る涅槃の境地である。

*前半の二句(半偈)を流転門、後半の二句(半偈)を還滅門と言う。

■慧智の超訳
『全ては只一回の奇特な現象であることを悟り、全てを素直に受け容れて生きることが大安心の世界である』
 →一日一生(何事にも手を抜くな。今日出来る事を明日に延ばすな)
 →一期一会(何者も日々初対面、会った時には全力を尽くせ)
 →素直になって事実を受け容れろ。
 →心頭滅却すれば火は自ずから涼し。
一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 05:31

2007年05月03日

●良寛和尚の心、一休和尚の心

■良寛さんは、新潟の豪農の出身で18歳で出家得度し修行の後、大忍国仙の法嗣となり、歌人・詩人・書家として大愚良寛という法名で18~19世紀を無欲恬淡に草庵に住して、庶民と子供とともに淡々と清貧を生きた高邁深遠な境涯の曹洞宗の禅僧。
■一休さんは、天皇所縁の出身で、一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)という法名で、臨済宗大徳寺の47世を経て15世紀を飄々と生きた禅僧で、『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有漏路(迷い)より 無漏路(悟り)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」と応じて境涯を示し、伝わる話では、1420年のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したとあるも師からの印可を断り詩人·狂歌·書画を残しつつ風狂の生活を送った。
 さて、この二人、曹洞宗の良寛和尚と臨済宗の一休和尚の似て非なる人生から何を学ぶかは、各々によるが、“捨てるべき荷物”が多ければ多いほど、捨て去った時の爽快感は筆舌に尽くせないだろうというところだ。荷物は“苦楽一如”苦と楽は紙の裏表。財産であれ、家柄や学歴、地位や名誉であれ、欲望であれ何でも良いが捨てるべきものは大きい方が修行は楽しい。何故か。守るものが無い者が、守るものを持つ者より安らかの実感が大きいからである。私有から共有へ。物から事へ。有から無へ。何か感じませんか?
■良寛さんの漢詩から
言語常易出    
理行易常虧    
以斯言易出    
逐彼行易虧    
弥逐則弥虧    
弥出則弥非    
油救火聚弥    
都是一場凝    
■慧智の読み方
言語は常に出(いだ)し易く
理行(りぎょう)は常に虧(き)け易く
斯(こ)の言の出し易きを以て
彼(か)の行の虧(か)け易きを逐(お)う
弥(いよい)よ逐えば則ち弥よ虧け
弥よ出せば則ち弥よ非なり
油をそそいで火聚(かじゆ)を救わんとす
都(すべ)て是れ一場の凝(きょう)のみ
■慧智の解釈
理屈を捏ねることは簡単だが、理屈通りに行動するのは難しい。人は安易な言葉に頼って、行いの不足を補おうとする。
しかし、補おうとすれば、するほど底が見え、伝えようとすれば、するほど伝わらない。つまり、火を消そうとして油を注ぐような馬鹿げたことだ。
耳が痛い。しかし、これは良寛さんであって一休さんではない。

■一休さんの漢詩から
児孫多踏上頭関、一箇狂雲江海間。
大会斎還在何処、白雲蒸飯五台山。
■慧智の読み方
児孫の多くは上頭の関を踏めど、一箇の狂雲は江海の間。
大会斎(だいえさい)は還た何処にか在り、白雲は飯を蒸す五台山。
■慧智の解釈
伝統や系譜を肩にかけた頭でっかちの“お偉い”先輩弟子が公案を通るが、頭を捨て去り融通無碍に生きてこそ本物である。
耳が痛い。しかし、これは一休さんであって良寛さんではない。

一日一生 慧智(070503)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 03:31

2007年05月02日

●活人禅とは、殺す事と見つけたり

 臨濟義玄(りんざいぎげん、諡:慧照禅師)大和尚は、臨済宗の宗祖で『臨済録』という公案の宝庫である語録で知られている禅師で、『逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱』、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」という心を残している。この文脈が教喩する真意は、先入観、固定観念を捨て切った後の心で全てを見ろ、ということだと拙僧は理解している。
 大衆の多くは、それぞれの言語活動(Langage:ランガージュ:仏語)で勝手に創り上げた幻想を、恰も“相手そのもの”と思い込んでいる。本来の心である『自他不二』、父母未生以前の心、二つ分れとなる以前の本来の心を思い出せば、仏とはこれこれ、親はこれこれ、禅はこれこれ・・・。それから出発して、親は~でなければならない。宗教は~でなければならない、禅は~でなければならない、茶は~でなければならない・・・などの“思い込み”がつくられ、それが熟成して先入観となり、本来は誰にでも平等に備わっている“己の自由”を放棄してしまっていることへの警鐘である。
勿論、全てに手前勝手な解釈をしろというものではない。『己事究明の後に唯一であれ』であって、1-2年僧堂に坐っただけで禅を語るなど言語道断、蒙昧の限りである。良い例に利休百首の百番目にある茶道の極意中の極意『守破離(規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るな)』がある。実は、これすらも、鎌倉時代の利休が書き残したとか、室町時代の世阿弥の言葉だとか“特許争い”のような下衆な論争を聞いたことがあり、近代の凡夫の本家論争のように微笑ましい部分はある。
 さて、昨今、自分が作った教訓ではなく、他人のつくった教訓を並べて企業理念などという経営者も現れているが、これは二重の誤りをおかしている。ネット禅士には、コンサルタント、経営者が多く居るようだが、今日の講話は咀嚼を繰り返して己のものにして欲しい。
 『捨て切る』≒『殺す』。幻想を殺す。これが大事なんです。活人禅は殺人禅。活殺自由。御分かりかな。
一日一生 慧智(070502)『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37

2007年04月29日

●良寛和尚の『我生何処来』を思う

我生何処来、
去而何処之、
独坐蓬窓下、
兀兀静尋思、
尋思不知始、
焉能知其終、
現在亦復然、
展転総是空、
空中且有我、
況有是與非、
不知容些子、
随縁且従容。
■慧智の読み方(標準的な読み下しではない)
我が生は何処より来り、
去って 何処にか之(ゆ)く、
独(ひと)り蓬窓(ほうそう)の下に坐して、
兀兀(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す、
尋思するも始(はじまり)を知らず、
焉(いずく)んぞ能く其の終りを知らん、
現在(いまある)も亦(ま)た復(ま)た然り、
展転(ゆくさき)は総て是れ空、
空中(このよ)に且(しばら)く我れ有り、
況んや是と非と有らんや、
如かず 些子を容れて、
縁に随いて且く従容(しょうよう)たる。
■慧智の解釈
 私の命は何処から来て何処へ行くのだろう。ひとり庵に坐って考える。しかし、幾ら考えても命の始まりは解らないし、終わりゆく先もわからない。今・此処・己ということも釈然としない。時は常でなく、全ては空であり、空の中にしばらくの間だけ現象しているのが私だ。ましてや、絶対的な善悪、良否、好嫌といった差別などはない。だから、私は縁に従いつつ、少しの間だけゆったり生きてみよう。
 さて、勝手な味わい方をしたが、皆には良寛和尚の気持ちに近づいて原文である漢文の方を味わって欲しい。
一日一生 慧智(070429)

投稿者 echi : 16:03

2007年04月24日

●山花開似錦 澗水湛如藍(碧巌録第八二則 大龍堅固法身)

表題は、千年ほど前、中国宗代の禅僧・大龍智洪禅師が弟子の問いの応じたもので、「山花(さんか)開いて錦(にしき)に似たり 澗水(かんすい)湛(たた)えて藍の如し」と読みます。
詳しくは『碧巌録第八二則 大龍堅固法身』。本則と評唱の一部を抜粋すると以下の通り。
◆本則
大龍因みに僧問う、色身敗壊す、如何が是れ堅固法身。
龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。
◆評唱
古人の一機一境は~照用同時、人境倶奪、双放双収、時に臨んで通変す。
大用大機~明鏡の台に当りて胡来たれば胡現り、漢来たれば漢現るに大いに似たり。
見ずや僧雲門に問う「樹凋み葉落つる時、如何」
門云く「体露金風」と。

弟子が大龍和尚に「色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身」と問います。
意味は「生身の肉体は必ず老いや病に侵されやがては死んで無くなりますが、老・病・死に左右されず永遠に滅びることのない生命・仏身・真理とは如何なるものでしょう」と。
すると、大龍和尚が応じて「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」。
意味は「山に咲く花々が錦を織り成すような百花繚乱の春景色に似ている。谷川の流れは時として渓谷の淵で水を青々と湛えているが、実際には淀む事無く流れ続けている」と。

■慧智の講話では
「もし・たら話」はするな。人間は病む時は病む。死ぬ時は死ぬ。昨日は過去で変わらん。明日は未来で可能性しかない。無くなる、無くならないなどという二項対立に囚われ、拘り、偏った先入観でオロオロしてどうする。諸行は無常。永遠なることとは、全ての物事は変化流転し、増えず減らずということだけだ。
景色だって移り変わる。一瞬たりとも留まることはない。人間の心も同様。だからこそ、選好みは不要。ご都合主義はいらぬ。日々是好日。咲いてよし、散ってよし。降ってよし晴れてよし。濡れても乾いても永遠ではない。全てを“あるがまま”に受け止めてこそ『大安心』、即ち究極の幸せだろう。素直が一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂だろう。答えが人の数ほどあることに現をぬかしている閑があれば、眼の前にある“出来ること・すべきこと”に全力を注入しろ。疲れ果てて寝ろ。そこには不安など起き様もない。
ワシは皆も知っての通りの出る釘坊主、悪たれ坊主。言わしてもらえば、善だ悪だ、自力だ他力だ、自然だ不自然だ、温暖化だ少子化だ。景気が好いの悪いのとバタバタするな。過去は変えられん。明日は解らん。だから、今・此処を精一杯生きろ。一日を一生として生きろ。出来る事をせよ。すべきと思うことをせよ。それが明日をつくる。それが因縁論だ。バタ臭い因果論に振り回されるな。一つの原因が一つの結論を導き出すなど科学理論の世界だけだ。理論は生きてはいない。自然も人間は生きているんだ。山川草木悉皆成仏。如何なる物事にも、自分の都合の良し悪しに関係なく感謝だ。生かして頂き、活かされていることこそ幸せ以外のなにものでもないだろう。己を含めて全ての人間は己の師匠。反面教師も亦教師。『度・断・学・成』、与えて捨てて学んで実る。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)

一日一生 慧智(070424)
★願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

投稿者 echi : 03:06

2007年04月22日

●『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』

 人間は、知る限りにおいて自分が経験した文脈を抽象化して端的に伝えるために短い語や句をつくる習性があるようだ。
禅においては“一転語”と言う“見解(けんげ):悟りの凝縮文”を、記憶に残りやすい、言ってみれば、潜在意識に落ちやすいようにリズミカルな“句”として表現する。例えば、喫茶去や本来無一物、無事是貴人、日々是好日など。同様に、俗世間でも、今風に言えば表現と意味合いの関係を結びつける“辞書や辞典”が沢山生まれた。それを一般的には『事物解説書』と呼ぶ。数多ある中に寛文四年に発刊された『世話支那草』というのがある。その中に禅寺に伝わる『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』に似ている『毒薬(どくやく)変(へん)じて薬(くすり)となる』という件(くだり)がある。似て非なるが何れが元で先かは定かではない。表題の「毒にも薬にもなる草は料理次第で美味なる馳走(醍醐のこと)になる」という意味。禅寺では『毒薬変作醍醐』にどんな心と託しているかは、夫々の師の解釈によるが、拙僧が教えられた?または、理解したのは「師の罵声は軽薄な弟子は“怒られた”ととり、賢明な弟子は“叱られた”と取る」。結果、怒られたと思えば意気消沈し、叱られたと思えば奮起し修行に拍車がかかる。
 本日の禅会で「殺人刀(せつにんとう)活人剣(かつにんけん)は上古(じょうこ)の風規、今時の枢要」という碧巌録十二則の圜悟克勤和尚が羅山道閑の言葉を引用した件の話をした。禅語として取れば“刀や剣”は“般若の智慧(良く切れるから刀剣に準えられている)”となのだが、拙僧の解釈は“力(力≒仏≒智慧”)とし、活人禅寺では解釈させている。つまり、“力(智慧や罵声)”は使いようで、相手に劣等感を植え付ける場合もあれば、有能感を与えることもあるので注意して使えと、いうことを話した。活人禅の語源であるから、参禅者は知っていて当然なのだが、何度も何度も言わないと、忘れる者も出る。
 勿論、拙僧の罵声に耐えて参禅、公案工夫9年。これが後継者(印可)の最低条件であることは事実。何故なら、拙僧の罵声に絶えられれば、如何なる時でも『平常心是道』が身につく。
 さて、表題も、活人剣の件も、俗の教訓においても異口同音に示しているのは、『力は使いよう』ということである。転じて「才能、財産、技術、知識、地位、体力、若さなど・・・・」は“使い方次第”ということである。勿論、“力”を正しく使えるようになれるには、『六波羅蜜行』である『布施・持戒(自戒ではない)・精進・忍辱(にんにく)・禅定・智慧を実践することは言うの及ばず。それには“善根”に害を及ぼす煩悩である『貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)』、“むさぼり、うらみ、愚痴ること”の三毒を追放する。そのためには、眼、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官(五根)は入ってくる“情報”で生まれる五欲、色、声、香、味、触である五境を通じて“意”が生じるメカニズムを理解し、チッポけな“小欲”である『必要以上の物(金銭)欲、快楽のための性欲、選好みや美食などの食欲、目的としての名誉欲(結果ではない)、必要以上の惰眠である睡眠欲』などなどの“アドレナリン中毒、βエンドルフィン依存症”と決別し、天下国家、地球を俯瞰するような『大欲一個』に集中するのが肝要ということである。それが“精進”の意味であり、只管に道を究めようとする“禅定(坐禅のこと・只管のに与えられた仕事に打ち込むこと)”が、あるとき忽然として“悟り”を生み、結果的に“智慧”となり、そこから“智慧≒力≒仏(衆生本来仏なり・己の外に仏無し・・)となるのである。また、日常的な行動規範である『八正道』、つまり『正見(先入観を持たずに純粋な事実を正しく見る)・正思(正しく考えて事実の背後にある本質を考える)・正語(パロールという個人的な方言ではなく長い間に洗練されてきた標準的な意味であるラングを使って正しく話し、書くこと)、正業(コンプライアンスに自信の持てる正しい仕事や行動を行なうこと)、正精進(志した正しい道を只管に歩むこと)、正念(一点にフォーカスされた正しい念(おもい)、正定(師に従った正しい坐禅や規矩作法)』を重視して生きることが必須なのである。
 よく聞け。禅は“今・此処に正に生きている人間”が、迷い無く活き活きと生きることを身に着ける“道”なのだ。言い換えれば、自分を“経営”出来るようにするのが“禅”なのである。我欲の為に作業する“月給鳥”には無縁。己の持ち味を存分に発揮して、天下の為に生きる“乾坤只一人”の菩薩育成機関である。薄っぺらなヒューマニズムなど無用。負け犬など門前で叩き切る。強く活き活きと生きようという“生きる覚悟”をさせるのが禅である。忘れるな。とは言っても、来る者は拒まず、去るものは追わずもまた、禅である。
●最後に一言。
昨日今日輸入された“バリュー、ビジョン、ミッション、フィロソフィーなど”というキリスト教的な“性悪説”の国の“お題目”に踊らされている“似非・日本人”。取り分け政界や財界をリードする権力者は、己の見せ掛けの“地位・財力・発言力”を今一度点検し、長ずる者の生き方に気付いてもらいたい。それが本物の『ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige)フランス語』であり「財産、権力、社会的地位を背景にした高貴な者の義務(社会的責任:CSR)」である。
●ぼやき
「わかんねーだろうな」成金には・・・。
一日一生 慧智(070422)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

投稿者 echi : 13:44

2007年04月20日

●禅は、事実を『みる』、『きく』ことが先ず第一。

先ず『みる』の文字は、拙僧が知る限り、誤解をさせるまいとして更なる誤解を生む可能性があるので、完全には使い分けてはいないが、『見 看 相 覯 覧 観 矚 眄 視 覗 診 睨 睹 監 覩 瞰 瞥・・・』。文書の師である塩小路光孚師(菅原道真公の38代目)によれば100以上はあるという。次に『きく』は、聞 聴 可 聆 訊 (利 効)、現代に於いては少々意味が異なる2字を加えても6文字。師に問えば「もっとある」という。確かに、話を“きく”、音を“きく”。人工音か自然音か。音源別なら無限にあるだろう。いずれにしても“分別”→“差別”に繋がる“有”の源泉であることは確か。それにしても、「みる」文字が「きく」文字より多いのは何故だろう。

『看話禅(臨済宗)』の修業に入ると、“初関”として与えられることが多いのが『無門関』第一則の「趙州狗子」。その本則に対する趙州の解説は懇切丁寧そのもので、無門禅師の解説も同様。その『無門関 第一則「趙州狗子」』は通称『“無字”の公案』といわれている。『室外持ち出し厳禁』の公案なので詳細は述べないが、『本則』は、「趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無」。意味は、趙州にある僧が「犬にも仏性があるでしょうか」と尋ねると、趙州は「無」と答えた。一切衆生悉有仏性 山川草木悉皆成仏、森羅万象は全て仏性そのもの」という根本思想からすれば“おやおや”の応えである。続いて、無門禅師の解説が、「無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて、絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽くこれ依草附木の精霊ならん」というもので、意味は「禅の実践は、先ず最初に「祖師の関」を透らなければならない。それから、悟りを得る道に踏み込み、己事究明を通じて“心”見窮め、夢想・妄想・煩悩から解放されることが肝要。祖師の関も透らず、夢幻や妄想に取
り付かれたまま、煩悩を滅する経験も無しに『禅』に取り組んでも無駄、中途半端は禅敵である」。「しばらく道え。如何なるかこれ祖師の関。ただこの一個の無字、すなわち宗門の一関なり。ついに之をなづけて禅宗無門関という」。「さて、祖師の関とは何か。それは、この一個の「無」字である。これが禅宗の第一の関門である。それを名付けて「禅宗無門関」という」というのが、「趙州狗子」の超超訳のである。
 何故、臨済宗は『看話禅(かんなぜん)』なんだろう。何故に「話を看る」と書くのだろう。そして『無字の公案』なのだろう。捨てるには、“有無”の“有”の状態が無ければならないが、周知のように、無字の公案の“無”は“有無の無”ではなく、“有無の無では無い無”である。つまり、相対的な無では無く、絶対的な無。絶対的な無を観ようとする時に“相対的な無”が比較に出てくるのは絶対的では無い。「素粒子の姿を直接に観ることは出来ない」というのは先端科学の常識。有は無であり、無は有であるからだ。そんな事実は『般若心経』の肝である「色即是空 空即是色」とあるから、禅者であれば衆智。がしかし、本当に解って行動できていれば“初関”が全て。にも関わらず1700の公案があり、48000の経がある。

■禅士に問う「禅では、何をみるか、きくか」

一日一生 慧智(070420)
『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』
『衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成』
願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

投稿者 echi : 12:04

2007年04月19日

●『帰到家山即便休(かざんにかえりいたって、すなわちきゅうす)』碧巌録六十四頌

『帰到家山即便休』とは、表面上は「故郷に帰えりつくは休むこと」という句だが、真意は「無心を得て父母未生以前の己を生きる」と小衲は感じた。さて、己本来の休息の場とは如何なる処か、如何なる心か。そこは『枯木花開劫外春(枯れ木に花が咲く時間を超越した大安心の春』。正に、死中に活を得た心境。さて、そこは何処か。
一日一生 慧智(070419)
◆今日は、少しだけ長めに坐られよ。

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★追記
白隠禅師坐禅和讃が頭を過ぎられかな?
衆生本来仏なり~一坐の功をなす人も~自性即ち無性にて~無相の相を相となし~無念の念を念として~当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり。

投稿者 echi : 23:51

●『日月雖有清明 不照覆盆之下(じつげつにせいめいありといえども、ふぼんのしたをてらさず))』

表題の文字通りの意味は「太陽や月に自然な明るさがあるとしても、盆が覆った下を照らすことはない」というもの。
さて、句中の『盆』とは一体何なのか。『盆が覆う』とは、どういう状態か。だから、どうしろと暗示しているのか。
禅語として受け取ることと、教訓として受け取ることの違いは、時代的な背景もあるだろうが、それ以上に“受け取る側の心”の違いなのだ。禅士が己の修業と同様に重視しなければならないのが、衆生の手本となる生き方をすること。となれば、“人を観て法を示す”が大事となる。それは、小さな子供から漢語の専門家や老師に至るまで、相手に相応した理解が必要だろう。それは無心となって自他一如が体現できていれば何の懸念も要らない。しかし、そこに至るまでの道においては、その交わりから生まれる“本質的な学び(気付き・悟り)”にこそ、一大事がある。
 さあ、禅士よ“見解(けんげ)を伝えよ。ただし、言葉は不要。
 「願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを」
一日一生 慧智(070419)
◆追記
昨日、寺の管理を一手に引き受けていてくれた村上夫婦の夫が脳溢血で倒れたとの連絡を受けた。生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人。悔いなく生きることは日々を全力で生きていることにほかならない。病む時は病む。素直に受け入れ、出来る事に全力を尽くす。因果を超えて因縁に生きる。快復を心底より願うのみ。
 

投稿者 echi : 09:07

2007年04月17日

●『飲水貴地脈(みずをのんでちみゃくをとうとぶ:虚堂録)』

私たちは、毎日毎日、起きて寝て、息をして、水を飲んだり食事をしたりする。当たり前のこと。それが日常というもの。つまり、一瞬たりとも物事と断絶していることはない。禅の修行者は、禅堂は言うに及ばず、行住坐臥の一瞬一瞬を全力で生き切る。鐘の音、風の音、洗面時の水音、線香の灰が落ちる音、引き戸の軋み・・・、その一挙手一投足を一期一会の出来事と一体となって本来の己、父母未生以前の己に出会おうとする。つまり、四苦八苦の“根”を全身で解ろうとする。先ずは3年、十年、二十五年。人により多少の異なりはあるが、坐って坐って、歩いて歩いて、凍えて焼かれて、己の無知に悩みながら諦める寸前まで“無”の一字になり切る生活をする。それは、同じ水を飲む場合、喉が渇ききった時に飲む水と、十分に潤っている時に飲む水は、水は水だが、水が水ではない。水の中にあって渇きを叫ぶのば不自然なように、必要な時に必要な量が満たされていれば、感謝の心は忘れられている。『知足(たるをしる)』の大事さは当然だが、私達が体験する全ての現象は、無数の原因が“縁”となって具現し認識する。言い換えれば認識しえない事実は無限にある。私たちは“事実”と共に生き、事実から学び、事実の根底にある根本(本質)と離れることはない。にも関わらず、「本質とは何か」と、あらためて問うと、頭で考えて言葉にしてしまう。それは私達の外に“仏”が無いにも関わらず、内に求めるべきを外に求めてしまう傾向がある。
 本質とは私達の外だとか、内だとかには無い。何故なら、私たち自身が無限に姿を変える本質の“一つの形”であり、“仏”以外の何者でもない。全ての現象が“仏”“本質”である以上、感謝無しには生きられない。会う人、力の出すために頂く食物、雨露を防ぐ藁一本から瓦まで。足の痺れを癒してくれる坐布一枚・・・・・。托鉢の折に山中で出会う湧き水の一滴。何も化もが本質、根本の変化。
 表題の句は、虚堂録にある「~仰山飲水貴地脈 報恩久貧乍富~」から切り出した“一句という一片”。直訳は、湧水を飲んで、その源の貴さを知り恩を忘れないということ。好き嫌い、良し悪し・・・、自分都合で評価する事実は無限だが、事実は、個人の都合の良し悪しという評価に関係なく現象し続ける。故に、現前する事実を無差別、無条件に受け容れることが自然体。暑い時は暑さと一体となる。苦しい時は苦しみと一体となる。主体と客体を一如とする。“不二”となる。この時が“無心”。生死一如、自他一如。一切皆苦が一切皆空と一体となりること。山川草木悉皆成仏、全ての自然は最初から成仏している。皆例外なく仏。感謝し合う現象。そのような真理、本質、原理、原則が世界、環境を構成している以上、“気付き”や“発見”は、日常そのもの。しかし、水の中に居て喉が渇いた、という者は多い。長々話したが、『飲水貴地脈≒みずをのんでちみゃくをとうとぶ』ということ、その理由に気付くこと。大事だとは思いませんか。
一日一生 惠智(070417)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを
 

投稿者 echi : 07:03

2007年04月13日

●『空』『不』『無』について

 般若心経に限らず、『教』を後世に確実に送るための『経』、仏教経典には、『空』『不』『無』という言葉
が沢山出てきます。何とは無く“似たような”考え方に基づいているのだろうな、と多くの方は思っているようです。そこで、今日はそれらについて話しましょう。
 先ず『空』とは、『一切皆空』の“空”であり、釈尊が発見した真理を示し『全ては実体が無く、全ては現象である』ことを意味します。恰も『量子力学』の中心概念のようです。「実体が無い」ものは「無常」、変化しないものはありえません。言い換えれば「全ては変化するが、増えもせず減りもせず、ということです。分子は元素、原子、核と電子、素粒子、量子と細分化され終には『4つの力』に帰着します。つまり“全ての物(者)は一時的な現象です。例え、それを我々の五感で現認していても想像がつく通り、永遠の存在(実体)ではなく宇宙の波動性と電磁性で一時的に現象しているに過ぎません。しかし、真実の実在ではなくとも現象しているのですから『色即是空であるが空即是色』と考えます。有るけど無い、無いけど有るという状況は“空”、“力”だから実現しているのです。つまり、物として確認しているのは“事(現象)”の仮の姿です。宇宙の本質こそ『空』なのです。以下『不』も『無』も『空』を前提として、経験的に確認できる“物”も“事”も一過性の現象という考えが下敷きになります。
 ですから、『不』は、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」などが代表的な使い方で、現代日本語の使われ方で「不自由」を“自由が無い”と解するか“自由でない”と解するかで微妙に差異が生じますが、仏教用語としての『不』は、「~しない」「~でない」のように使われていて、“実体が無い”という考え方の延長線上で使われています。つまり、不生不滅、不垢不浄、不増不減は、「生じるという事実はないし滅するという事実ははない、汚れるという事実はないしききれいになるという事実はない、増えるという事実はなく減るという事実はない」。つまり、“実は変化するという事実も無い”という考えが投影しているのです。
 となれば『無』は、“実体は無い”ことを意味し、日常経験の世界のもろもろの存在物は、実体が無い、ということです。在していないのです。これを「無」という語によって表しました。
 以上から、全ての“般若経典”に共通する概念で、智慧を伝え送る経においては、『一切皆空』という釈尊の“発見”を伝えているのですが、実は、『一切』という語は“例外は無い”ということから、釈尊と言おうが仏陀と言おうが、それもまた『空』であることが伝わって来ています。
諸君、トップぺージのある般若心経を、記憶に委ねて口をパクパクするのではない、今日はしっかりと読んでください。
一日一生 慧智(070413)

投稿者 echi : 01:57

2007年04月08日

●言葉の怖さ故の『不立文字』か。

 今朝、テレビで“absolute(absolution)”を、“実体(実態かもしれない)”だと、わざわざコメントを付加して訳した大学教授がいた。その瞬間、私は“これだ!”と思った。
 そもそも“absolute”はラテン語に起源を持つ英語で、[ab+solute]で、 概念的には、全ての力から完全に解き放たれた絶対的独立であり、疑う余地の無いことを示す副詞ないし形容詞で、名詞的には『原理・原則』となる。そして、哲学用語では『何者にも依存しない』という概念を持ち、キリスト教の影響下にある思想用語では『絶対者、神、実体』という意味で使われる。
 この程度は高校生の英語の授業で出てくることで、取り立てて大騒ぎする必要はない。所詮、英語を日本語に、日本語を英語にするような意訳の場合は“曖昧性”が拭えないことは誰しもが知る大前提で、「経営をマネジメント」と訳すような的外れは日常茶飯事なのである。
 今朝、気付いたことは“無知を自覚できていない権威者(知識人・文化人を含む)”が、大衆に向かって“誤り”を述べ、大衆はマスコミを通じた権威者の言葉に強く影響を受けることであり、悪意の無い権威者が無知な大衆に対して送る言動が誤りを定着させてゆくということに危惧した。
 拙僧は、決して権威者ではない。しかも悪意も無い。ただ、拙僧の体験から得た“幸せ(≒大安心)に至る道”を『千日説法修行』として語っているだけで、如何に言葉を尽くしても“一坐の効”には及ばないことを感じて頂き、『坐禅』の素晴らしさを伝えているだけである。“ホッとする禅語”のような優しく思い遣りに満ちた言葉も、相田みつおさんのような心に響く素朴な“かな言葉”も提供できていない。否、“それ”をこの辻説法の使命としてはいない。
 しかし、考えてしまった。毎日100以上のアクセスがあったり、四分の三以上が新しい読者からのアクセスを考えると、そもそもネット禅会の禅者に向けて話から始まった“辻説法”が、今や私を直接知らない方々に読まれていることへの不安が芽生えた。
 『言葉』、それを書き残す『文字』は、便利だが危険な文化である。『以心伝心』『直指人心』・・・。それが禅会なのだが、インターネットを通じての禅会にどれ程の価値があるか。白隠禅師の坐禅和讃は、ネット禅会を前提にはしていない。しかし、釈尊や達磨、臨済の祖師は“それ”を含めて伝えてくれていたのだ。
 春になりました。ネット禅会の方々も、一度は寺の禅会に参加し、親しく同じ空気を吸い、同じ物を食べて雑談に興じようではないか。
 禅会参加や禅に関することは、info2@ryobo.org にメールしてください。皆様の基準からすれば“愚か禅僧”かもしれないが、持てる全ての力を提供しようとしている意欲だけは信じて欲しい。
 “言葉の力”は両刃の剣。活人剣であり殺人刀。されど“両亡”。これを如何に言葉で伝えるか。それが拙僧の永遠の課題。
一日一生 慧智(070408)

★追記
アップロードしてから、ふと気付いたのですが、TVで発言した彼は、哲学では類似の概念を示すことから、「substance」を「absolute」と単純に良い間違いただけなのかしれない。とするなら、拝物主義者なのかもしれない。
★★追記2
一日中“水”を飲んでいた。痛みは激減し、体温は37度。すこぶる快調。明日は忙しくなる。それにしても土日祝祭日は、気が緩むためかダウンしている。もったいない。諸行無常、光陰可惜、時不待人、と時は金なり・・・。最近は坐睡をしていると太腿が鬱血し、腰に鉄板が差し込まれたようになるので、坐禅すら一炷がやっと。しかし、寝込んでいては“無駄死”になる。
★★★追記3
2003年4月7日が“虫(無私か、無死か)の知らせ”で書き始めた『辻説法』の始まり。今日から“5年目”に入る。
2003年12月24日が末期癌の宣告を受けた日。
2004年6月25日が、命日の予定日。
2007年6月25日を越えれば・・・・今日から、また“一日一生”を積み上げよう。

投稿者 echi : 10:49

2007年04月07日

●聞声悟道、見色明心

 禅の世界に『聞声悟道 見色明心(もんしょうごどう、けんしきみょうしん)』という雲門和尚の言葉があり
ます。「声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らかにする」という意味です。勿論、連綿と続く生命38億年の歴史を踏まえ、全身で聞き、全身で見なければ『聞声悟道 見色明心』はない。
 我ら、高々数十年の狭い狭い個人的な意識体験では、数千年の“知の体系”である学問にすら及ばないのは自明の理である。
 もし、白隠禅師に問えば、「鐘の音な何て言っている、カラスは何と鳴いている」と教えて下さるだろう。もし、盤珪禅師なら「花の香りは如何なる色か」と言われるかもしれない。
 つまり、見聞きする日常を師として、先入観、決め付け、拘り囚われた偏った“頭”ではなく、150億年の宇宙の歴史、38億年の生命の歴史が刻まみこまれた“60兆個の細胞の共鳴”である“全身の智慧(無の心)”で聞き、見る時に『父母未生以前の本来の己』、即ちマクロ宇宙の部分であり、ミクロ宇宙の全体である己、正に“主人公”でなければならない。
 それには、どうするか。“坐る”こと、全身を“禅”にすることである。
 つまり、戒や律に従って生活を整え、身体を整え、姿勢を整え、呼吸を整え、深い三昧(脳はα波状態)に入り、一日一日を一生に準え、眼の前のご縁に全力で取り組む。すると、求めなければ『般若の智慧』に至る。求めない理由は、稚拙な知識や高々の体験や経験、世間の常識という先入観の源泉を“捨てて捨てて捨てまくる”からだ。すると、ある時に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりする何かが、全てを気付かしてくれる。
◆表題の出典は『従容録第八十二則 雲門声色』。
衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。
挙す、雲門衆に示して云く、『聞声悟道、見色明心』、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。
頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。
禅士よ。今日のネット坐禅の前に声を出して100回読んでみなさい。必ず何かに気付く。
一日一生 慧智(070407)
報告:本日、朝方から激痛(鼻毛を千本抜いた位)と高熱(体温計の目盛りの上限に近い)を楽しんでいる。何か宙を飛んでいるようで趣がある。
 品川五畳菴にて

投稿者 echi : 14:12

2007年04月06日

●年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず・唐詩選)

大子の春の花.JPG
 この漢詩は、唐の詩人、劉(りゅう)希夷(きい)の「白頭を悲しむ翁に代わりて」の第4節の『古人は復た洛城の東に無く、今人は還た対す落花の風、<年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず>、言を寄す全盛の紅顔の子、応に憐れむべし 半死の白頭翁』を出展にしています。
 昔の恋人はもういないが、若い恋人達同士は今も風に散る花を眺めてる。思えば、寒い冬が終わって春が来ると、毎年同じように花は美しく咲くが、嘗て花を一緒に見た人はもう此の世にはいない。若者よ、いつまでも若いと思っていると、すぐ年老いてしまうぞ!、というように意味。
 『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』、正に諸行無常。悠久の自然と生命のはかなさを対峙させた句から学ぶことは多い。生者は必ず死ぬ。それは定め。だから「死んでしまうかもしれない」なんて考えなくても大丈夫。必ず死ぬ。だからこそ、クヨクヨせずに思い切り生きよう。完璧な人間なんか何処にもいないし、だめな人間だって何処にもいない。人それぞれに個性がある。その個性が集まって“人類”や全ての現象が成り立っている。大丈夫。ひとりぼっちの人間なんかいやしない。知られてなくても君は君。少なくとも私は君の事を知っている。寺に来なくても良い。今夜、11時丁度。真北を向いて二人で坐ろう。20分で良いよ。死ぬなんて思うな。何れ死ぬ。だから自分に威張れる死に方をしよう。君を救えるなら、遠慮なく私の命を使いなさい。だから、子供は生かしてやりなさい。残すのが心配なら、私のところに連れてきなさい。
☆Kさん!毎日、読んでいてくれて有難う。読者が減るのは寂しいので読み続けてください。
一日一生 慧智(070406)

投稿者 echi : 08:42

●愚かなほどに素直に生きると幸せが・・・。

「災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 <大愚良寛 和尚>
 人は誰しも“災難”や“死”から逃れたいと思うもの。拙僧だって例外ではない。強い人間などいやしない。ただ、強い弱いという“ふた心”が無い人はいるよ。それは“その心”に逆らい“~でなければならない”なんて精神論を振り回そうものなら、帰って肩に力が入り、さらに恐怖心が増すもの。
 だからね、何事も逆らわずに“今・此処”を素直に受け入れる。何があろうと『日々是好日』『和顔愛語』『無事是貴人』すると不思議なことに平静(平安・安寧・大安心≒幸せ)が得られる。それが妙法だよ、と良寛和尚は優しく語っている。
 では、“その心”になるには、それなりの方法があるんだよ。目的・目標は“恐怖心”を消滅させる何か。言い換えると“無心・無我”となる何か。それが“坐禅”なんだ。
 いつも言うだろう。『過去は変えられないし、未来は決まっていない』。今の全ては“縁起(無数の原因の相乗効果が今の結果という未来の原因をつくること)”によって現前している。それがどんな状態であれ、誰も“それ”からは逃げられない。つまり“因果をくらます”ことは出来ないんだ。
 方便に聞こえるかもしれないが「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」と親鸞聖人が言っているね。それは、悪人正機(あくにんしょうき)という浄土真宗の教義の中心的な教えなんだが、本意は、人間の本来は善悪などを差別しない、善そのもの。だから“それ”を悟り、一日を一生として世間の決めた善悪などに囚われずに、拘らずに“本来の己”を素直に生き、しっかりと坐って自性すれば、己が“無性”であることを悟り、己が菩薩、此の世の仏(つまり仏陀≒真理を悟った智恵者)になりますよ、と白隠禅師坐禅和讃にあっあろ。だから、親鸞さんは“方便”として“善人は自らの力で成仏”できるんだから“悪人”だと思っている人は私の話を聞きなさいと言っている。素晴らしい。これが、本物の信仰だろうね。ヨーロッパで神様の椅子取りゲームを性懲りも無く何千年もしているレリジョン(一神教)が「私の支配下に入り“羊”として暮らさなければ皆とも地獄に落ちて苦しむぞ」なんてマインドコントロールを多用する世界的なカルトが教団があるが、それに比べると我が国の親鸞さんは素晴らしい。先日旅立たれた青島幸男さんじゃないが、「♪悪い奴は、俺んとこに来い♪」だからね。
 脱線してしまったが、“無心となる方法”は、難行苦行でも脳天気に生きることでもなく、“只管に坐る”こと。釈尊もそうだったし、慧可大和尚も達磨大和尚も、臨済さんも白隠さんも、良寛さんも、玄峰老師も宗淵老師も・・・・、皆『二見(相対的な考え)』を消滅させ、本来の己を発現させて生きることを体験し、体験させようとした。それは、二見がなくなると、不安や恐怖という相対的な幻想が消え失せ、本質、原理原則、真理が見えるからだ。すろと、みんな“良寛さん”になるんだ。すろと、いつもニコニコ。元気に生きよう、元気に死のうとなる。無理なんかしなくて良い。本来の己(父母が生まれる前の己)に素直になれば良い。それだけ。嘘みたいな本当の話。それが“坐禅”。死に損ないの私が言うんだから間違いないが、疑うんなら坐って自分で試してごらん。でも、ちゃんと坐るには寺に来なさい。教えてあげるから。
一日一生 慧智(070405)
*昨日の説法は“怖い”なんて、若い娘に言われたんでね。今日は・・・・・。
*これが、坐禅和讃の心。

投稿者 echi : 04:33

2007年04月04日

●“禅”と“悟”のノウハウ

 禅は“信”ではなく“修”だと書いた記憶がある。つまり、盲目的に信じるのではなく、疑い尽くして体験して気付き、生き方を正すのが禅なのです。
現代風に言えば、禅は『事実』を価値観や先入観で汚染せずに、あるがままに受け止める。枝葉末節の事実の正しい認識が増えると機が熟し、一挙に本質、法則、原理原則などを発見する。それが“悟り”であり、引き金は極めて身近で単純な出来事が圧倒的に多い。例えば、ボタンが取れたとか、時計が止まっていたとかなど。禅では“発見(悟った)”程度ではまだまだ。小さな気付き、小さな発見が積み上がって初めて“大悟(だいご)”となる。大きな悟りであれば、その瞬間から行動が自動的に変わる。だから師家が弟子の悟りの段階を見抜けるのだ。
 つまりは、禅は『事実』→『小さな発見』→『小さな発見の記憶』→『大きな発見(大悟)→『生き方の発明と『実行』という流れであり、『発明』とは己ブランドのオンリーワンだ。全ての大衆は初期条件から全てが異なるのだから、姿が違うように悟も他人とは違うのが当然だ。そこからが本当の修行だ。そして、ある時、他人と自分の境界が消え、ミミズと己の境界が消え、全てに個性がありつつも全てで一つという世界に至る。そこまで来たら本物だ。そこから更に進めて、先ずは悟を捨ててしまえ。捨てて捨てて捨てて、捨てるものが無いという心も捨ててみろ。言い換えれば、その手法を“止揚の止揚”という。止揚とは、異なる、または対立する事象を上位統合すること。それを更に統合する。この矛盾を生きろ。まあ、悟りは最小公倍数と言っても良いかもしれない。そして、最大公約数が得られてから更に修行を進めて最小公倍数を大発見するのが『後悟』ということ。それが禅の全てある。ミクロとマクロを止揚するとどうなるか。
 さて、ここまで言葉・文字で親切丁寧に教えた以上、拙僧の定義する“悟り”をパクレば、悟りに達しないことになる。オンリーワンではないからな。格好だけで“片手の音”を聞いたようなことを言葉に出来るようなら、それは妄想、幻想、嘘ッパチの勘違い。無の一字に成りきりましたなんて言葉は出鱈目。頭が首の上に付いているようじゃ小僧だぞ。頭は網代の台みたいなもんだ。
 さあ、禅士よ。どうするか。釈尊も達磨もワシも殺してみろ。活人剣を使うか、殺人刀を使うか。両方とも刃物というのが事実だ。さあ、どうする。
さあ、ネット禅士よ。『悟』とは何か言ってみろ。但し、言葉や文字は使うなよ。体も動かすなよ。その上で私の衣を脱がしてみよ。もし脱がすことが出来たら風呂に入ってやる。そうしたらネット禅姉よ。背中を流せ。ワシの背中が鏡になるまで磨きつくせ。但し、手も足も使うな、湯も水も使うな、氷もだめだぞ。手ぬぐいも使うなよ。風呂場にも入って来るなよ。入れば禅姉とてワシはお前らの衣をズタズタにするぞ。
 さあどうだ。今日、此処で、禅の事など忘れて、お題目でも唱えていろ。
疲れた。茶でも飲んで寝るか。お前らは座れよ。
一日一生 親切が衣を着て歩いているような生涯一雲水の慧智(070404)

投稿者 echi : 22:58

2007年04月03日

●今日は“憲法記念日”?

 拙僧の記憶が正しければ、今日は聖徳太子が17条の憲法を策定した記念日(西暦604年4月3日)である。そんなことを思い出したので、少し調べて、総則というか、精神というか、日本人なら一度は聞いた事のある「以和為貴」の部分について考えよう。
◆原文:
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
◆読み:
いちにいわく。
やはらぎをもってたっとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。
ひとみなたむらあり、さとれるものすくなし。
これをもって、あるいはくんぶにしたがはず、またさととなりにたがう。
しかれどもかみやわらぎ、しもむつびてととのへば、ことをあげつらわむに、
すなわちことわりみずからかよへり。なにごとかならざらむ。
◆訳文:
 一つ、節度をもって仲良くすることが大事で、足を引っ張り合うようなことはしてはいけません。
人は皆、派閥をつくって群れ感情的に動くもので、論理的に考え行動できる者は少ない。
つまり、直接の上司の命令に従わない者や仲間同士の喧嘩で、規範を逸脱する者がでる。
しかし、上の者に敬意を払い、下の者に正しく接すれば、上下関係は円満となり正しい議論が生まれ、物事の原因や結果を共有し、正しい対策が取れるので、不祥事は起きない。
◆評語:現代は、太子が心を痛め憲法を制定せざるを得なくなった1400有余年前と同じように、『競争を賛美し、勝ち組と負け組に分け、年長者を老害あつかいし、拝金主義が心を重視する者を排斥し、一人勝ち願望が蔓延している今日』、同じことを繰り返さない創意工夫が必要でしょう。
一日一生 慧智(2007年4月3日)

投稿者 echi : 10:56

●『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

我々は本来から“仏性(ぶっしょう)”を完全に具えている、と白隠禅師の坐禅和讃の冒頭に出てくる。さて、「如何なるか“仏”」と私が白隠禅師に問うと、禅師は如何なる表現をされるか。今日は、ネット禅士各位に問いたい。
 また、それを禅士に問えば何と応えるか。
 さらに、如何なる者も“同じ表現”になってはならない、と拙僧が付け加えたとすると、その真意は何か。
 「本来仏なり」なら、仏性に始まりはない。始まりがないとするなら終わりもない。父母未生以前から孫子誕生以後も同じ。即ち、本具仏性は永劫不変。となれば、核攻撃も、老・病・死や地震など問題外。地球が壊れても微動だにしない。『不生不滅、不垢不浄、不増不減』と般若心経にある。
さて、応えよ!
但し、頭を使うなよ。言葉を使うなよ。
さあ、どうする?
一日一生 慧智(070403)

投稿者 echi : 08:11

2007年03月30日

●『雨奇晴好(うきせいこう)』

 『雨奇晴好』の意味は「雨の景色は奇特、晴の景色もまたよし)」、晴れても雨でも、それぞれによい景色で、趣のあるというのが文字通りの意味であることは誰しも想像はつくだろう。出典たる語源は、蘇軾(そふ)という詩人の「飲湖上初晴後雨」という歌だろう。聞くところによると、この詩は西湖の美しい情景を歌った一節にある~水光瀲艶晴方好・山色空濛雨亦奇~というところで、西湖のさざ波が陽を受けて輝く様は筆舌に尽くしがたいほど美しく、湖畔に佇む山々の雨に霞む姿もまた風情があってよいものだとい感じだろう。 つまりは、『日々是好日』の断片であり、大自然を前にすると誰しもが素直な心を取り戻し、今此処をあるがままに受け容れられる。
 今日は痛みがひどいので早起きて、東京の仮住いがある御殿山の雨の桜並木の下を歩いた。実に美しい。生きている実感は痛みをも忘れさせる。晴れ渡る青空の桜も良いが、雨の桜も趣がある。人生も同じこと。晴れる日もあれば降られる日もある。しかし、いずれの事象も全ては"一過性”、正に因果一如である。常なる現象は無い。正に諸行無常。歩きながらふと気が付くと『白隠禅師坐禅和讃(正宗国師坐禅讃)』が口をついて出ていた。
衆生本来仏なり   (私たちは本来仏なのである)
水と氷の如くにて  (水と氷の関係のようなもので)
水を離れて氷なく  (水がなければ氷ができないように)
衆生の外に仏なし (私たちの外に仏はない)
衆生近きを知らずして  (しかし、私自身が仏であるにもかかわらず)
遠く求むるはかなさよ   (自分の外に仏があるかのように思って探しまわっている)
譬えば水の中に居て   (それは水の中にいて)
渇を叫ぶが如くなり   (喉が渇いたと叫んでいるようなもの)
長者の家の子となりて   (また、裕福な家の子に生まれたのに)
貧里に迷うに異ならず   (貧しい里をさまよい歩いているようなもの)
六趣輪廻の因縁は   (いつまでも迷いの世界から抜け出すことができないのは)
己が愚痴の闇路なり   (世の中の真実を知らないからである)
闇路に闇路を踏みそえて   (迷いに迷っていて)
いつか生死を離るべき   (いつ苦しみの世界を離れることができるだろうか)
それ摩訶衍の禅定は   (大乗の禅は)
称嘆するに余りあり   (限りなく大きな支えとなる)
布施や持戒の諸波羅蜜   (他人への施しや自分自身への戒め)
念仏懺悔修行等   (念仏や懺悔、他力の信心、自力の修行など)
その品多き諸善行   (数々の善行があるが)
皆この中に帰するなり   (それらは皆「禅定」の中に含まれている)
一坐の功を成す人も   (一時でも、心を落ち着け坐った人は)
積みし無量の罪ほろぶ   (今までの迷いや不安は無くなり)
悪趣いずくに有りぬべき   (悪い出来事などどこにもなくなる)
浄土即ち遠からず   (浄土は今此処の近くにある)
辱なくも此の法を   (ありがたいことに、この真理、教えを)
一たび耳に触るる時   (一度でも耳にして)
讃嘆随喜する人は   (讃え、喜び、受け入れる人は)
福を得ること限りなし   (広大無辺な幸福を手に入れるであろう)
いわんや自ら回向して   (ましてや自ら修行して)
直に自性を証ずれば   (本来の己が分かれば)
自性即ち無性にて   (迷いや不安などは完璧に消え)
すでに戯論を離れたり   (同時に煩悩から離れた)
因果一如の門ひらけ   (そんな私たちは、今、仏と一体となり)
無二無三の道直し   (真実の道が真直ぐひらける)
無相の相を相として   (無常の相を実相とし)
往くも帰るも余所ならず   (どこに居ても、心から安らげる)
無念の念を念として   (雑念の無い心を心としていれば)
謡うも舞うも法の声   (全ての現象が仏の悟りの代弁者となる)
三昧無礙の空ひろく   (拘り囚われ偏りの無い心は、果てしない大空のように自由に広がり)
四智円明の月さえん   (本質を映し出す美しく清らかな月が輝く)
この時何をか求むべき   (この時、多々求める心は無くなる)
寂滅現前するゆえに   (迷いや不安がなくなって心の安らぎが得られた今此処)
当処即ち蓮華国   (それこそが、正に浄土であり)
此の身即ち仏なり   (私達自身が“そのまんま仏”(仏陀の再来)なのである)
慧智 超訳

『即今只今』、それが全て。全てが美しく『一期一会』。『無事是貴人』。真理を知る人は本当に素晴らしい。感謝。
★お知らせ:3年で1000本の辻説法を越えたらしい。それでも生きている。私の使命とは何なのだろう。さあ、坐るか。
一日一生 慧智(070330)

投稿者 echi : 11:27

2007年03月23日

●『百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に一歩を進む)』を解りやすく、と問われて。

この句が含意する心は、長い修行で至った悟りであれ、そこに留まり、安住していたら衆生救済の働きにならない。それ故、百尺の竿の先きから、さらに一歩を進め、命をも投げ出す(大死一番)ことで、自然と不惜身命の心(無心≒何事にも囚われない拘らない偏らない心)になるのが大事ということ。
 禅僧も“人間”。一度掴んだ安らぎの境地、悟りの世界は大変は居心地が良く、そこに安住する者も少なくない。つまり、捨てて捨てて捨ててきた心を捨てられないということ。それでは、悟らぬも同じで、何の悟りかというもの。寺を檀家からの預かり物と考えるなら兎も角、“個人資産”と考えて血族で相続し続ける“末寺”など、寺であって寺で無いから寺である。確かに、霊峰の頂上からの見晴らは良く、気分は最高なのも解る。また、内心、ここまで来れた自分を誉めたくなり、更には誉めてもらいたくなる気持ちも解らないではない。しかし、そんなところで満足していて本願である『衆生救済』が出来るだろうか。上がった山は“下りる≒私は“それ”が還俗だと信じている”。そして、その素晴らしさを活かして、己が手本となる生き方をする。人に伝え広める。それが“禅者”の働きだ。論理的には、百尺の竿頭から一歩踏み出せば、生物学的な生命を失う。しかし、得た社会的な生命が衆生救済になる。
 参考に、五祖弘忍大和尚の後継一番候補の神秀和尚の『竿の頭』の一時の心境を表している句を紹介する。
『身是菩提樹(身は是菩提樹)』
『心如明鏡台(心は明鏡台の如し)』
『時時勤払拭(時時に勤めて払拭(ふっしき)し』
『莫使惹塵埃(塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ。)』
 大意は、「この身体は悟りを宿す樹の如く、心は清浄で美しい鏡台の如きもの。故に常に汚れぬように払い拭きして、煩悩の塵や埃をつけてはならない」
 含意は、煩悩多き心に塵埃が無くなることはなく日々の修行こそが大切だということを示している。確かに“道”清浄なる境地であり、“秀才”の境地だろう。つまり“竿の頭”である。
 次に、前評判を翻して五祖弘忍和尚の後継となった六祖慧能大和尚の境涯を神秀和尚の境涯に対し一石を投じ、結果として五祖弘忍大和尚が法嗣させる切っ掛けとなった一句を披露する。
『菩提本無樹(菩提本(もと)樹(じゅ)無し)』
『明鏡亦非台(明鏡も亦台に非ず)』
『本来無一物(本来無一物(ほんらいむいちもつ)』
『何処惹塵埃(何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん』
 大意は、「本来、菩提には樹という不変(実態)はない、明鏡という心も実態ではない。故に、本来無一物であり、塵埃は溜まりようがない。故に、払拭の必要もない」というものです。
 含意は、本来無一物とは、好き嫌い、損得、良し悪しなどの二見に囚われた概念ではなく埃がかかる払うとかという道理はなく、対立的な考えを超越した、“竿の先”の禅の根本を示しているです。
(注) 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めると発表し、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍はそれを認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという、伝聞が伝わっている。
 禅士諸君!病僧を試し続けることで、私の命を延ばそうとして頂いているのは十分にありがたい。しかしな、質問攻めは、疲れるぞ。では寝る。
一日一生 慧智(070323)

投稿者 echi : 13:12

2007年03月20日

●“癌(ガン)とともに生きる

過日、禅会後の座談の中で“心身の健康”という議論が交わされた。“健康”の定義は、立場により沢山あるだろうが、国際的な機関である『WHO(World Health Organization:世界保健機構)』では“健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会福祉の状態であり、単に疾病又は病弱が存在しないことではない”というものです。言い換えれば、健康を病気(専門家により病名を特定された心身の不調状態ではない)との対比で語りつくせるものではないということである。つまり、“健康”を考えるには、その背景にある『価値観・経済状態・個性と社会的環境』などを考慮した上で、その地域に根ざす“文化(集合的な無意識の投影としての形式)”が大きく影響する“幸せ”という概念を理解する必要がある。換言すれば、『幸せ』の一つの要素が"健康”という概念であり、例え病気であったとしても、主体自らが“幸せ”と感じるのであればであれば『健康』と考えてよい場合もあるし、その逆もある。
 通常、幸せ(幸+福)には3つの側面がある。それは『体の調和状態(身体的健康)・心の健康(活き活きと生きている状態・生甲斐がある状態)・生活の健康(経済)』であり、その3つの側面の個々の価値感に応じた充実度が優先順序うを伴って統合され、その人なり『幸せ(幸+福)』であると言っても過言ではない。
 勿論、それらの考え方は、デカルト的二元論世界の論理で構成されている以上、完全に鵜呑みにするのは出来ないが、最近の唯物論的な教育を受けた多くの日本人への説明には利便性が高い。つまり、本質論ではなく現象論としての“方便(本質を理解できないと思われる相手に対して本質が意味する内容を知覚可能な身近な現象を比喩として使う瀬戸際的な例示法)と考え、例えば「嘘を言えば地獄に落ちて閻魔様に舌を抜かれる」などという荒唐無稽な例え話を“方便”として使って、『嘘を付く事は悪いこと』という本質的な価値を与え、それに沿った行動をさせることが必要な場合が多々ある。当然、私なども、しばしば“方便”を利用してる。それは前出のような理由と、本質は“言葉や文字”で伝えるが難しいという現実があり、禅堂修行において、全では『不立文字・教外別伝・直心人心・見性成仏』という表現で、師から弟子へ修行生活を通じた『以心伝心』で行なっていることからも十分に理解してもらえるだろう。
 さて本題である。
私は3年3ヶ月前に、脾臓・胆嚢・肝細胞の癌を患いステージ4で手術も出来ない状態だと3人の専門医から異口同音に「余命6ヶ月と宣告されたが、“今日も此処で生きている”という不可思議な状態にあるのは禅士諸君のご承知だろう。言い換えれば『何故“延命(小康状態)”できているのか』、それは『何
故か』を伝え、同様の状態にある人々に“希望”を与えるのが、今・此処での私の使命だとも考えている。
 各位の身近にも“余命幾許も無い”と宣告されている方が居られるかもしれない。そこで、今日は前出したように『健康』に関する考え方を説明しつつ、私の行住坐臥を公開しようと今日はこの文を書いている。本来なら、「寺に来て一緒に坐りましょう」と言いたいが、状況が状況だけに遠方の方には難しいので“ネット禅会”を毎日開いている。つまり、延命の方法論は“それ(坐禅)”が中心で、補助的には各地の禅者にお届けいただく“ご縁(民間療法の薬や健康食品など)”を無差別に頂いていることや、寺に伝わる寝ながら出来る“一人整体法”だけである。あくまで結果論としてなのだが、坐禅の三要素である『調身、調息、調心』、『身を調え、呼吸を調え、心を調える』ということが重要であり、“病”を否定するのでがなく、“病”もこの身の一部であり、宇宙の一部であるという考え方が重要なのである。詳しく知りたい方は、禅会においで下さい。
一日一生 慧智(070320)

投稿者 echi : 19:40

2007年03月16日

●『無宗教』を自慢する人に出会って

 昨日、“無宗教”を自慢されている方に出会った。不思議でならなかった。生命に貴賎は無く、他の生物や現象と差別をするつもりは無いが、宗教を持っているから人間なのではないだろうか。そもそも『宗教』とは“宗たる“教え”であり、考えの柱、よって立つ価値観であり、英語のreligion(レリジョン:有神論・一神教)とは異なり、faith(信条や教養)に近い概念である。であるから、日本語の宗教は、無神論である仏教は勿論、禅、神道、道教、儒教、キリスト教、イスラム教など“それ”を生き方の拠り所にする全ての宗教(考え出された“生き方”の体系)が入っている。しかし、“エコノミック・アニマル”≒拝金主義動物や個人崇拝、政治思想は入れていない。つまり、“無宗教”であるということは、自分教(ナルシスト)だということであり、「私は利己主義(自己中心の生き方)です」と言っていることに他ならない。それを自慢する人は、何を考えているのか興味があったので、暫く話を聞かせてもらった。概して言えることは、彼は「自分は宗教に頼らなければならないような弱い人間ではなく、自分の考え方を持った精神的に強い人間である」と言っているようであった。そこで「あなたの葬式は“何式”でやるのですか?」と聞くと、「私の葬式なんて縁起の悪いことを言うな」と怒り出された。それを聞いた時、彼は納得できる死の概念をもっていないからだな、と感じた。だから死という概念を忌み嫌うのであり、恐れているという弱い人間なのだと理解できた。弱い人間というのは“自分”を含めて何かを“信じ切る”ことが出来ない方で、軽度の不安神経症と言っても過言ではありません。さらに、彼の中にはお気の毒だが、何かを信じてしまえば盲従してしまう自分の弱さを自覚しているのかもしれないな、とも感じた。
 考えてみると、彼のような人間が居ると言うことは、日本の“教育”に問題があるのではないだろうか。宗旨や宗派に関わりなく、積極的に社会に参加し、自分が大事であると同じように相手も大事な存在であることを自然に認め、助け合って生きてゆくのが人間であり、自分の考え(と思っているソーシャルマインドコントロールを受けた考え)のみを主張したり、自分の宗教を他人に押し付けるようなことをすることが、過去において紛争や戦争を起こして来たことを知らないのだろうか。私は“正しい宗教”とは、相手を尊重し、非生産的な対立をせず助け合って生きてゆく術を提供できる体系化した価値の体系であると思っている。
 このところ、ユニークな人との出会いが多い。つまり“ご縁”に恵まれている。禅では『一期一会』を大切にしている。それは“全ての出会い”は一生に一回というのが根拠で、昨日会って、今日会っても、昨日は戻ることの無い過去の経験であり、“今”ではないということからである。『今・此処の己が全て』というのが禅の考え方で、一生は“今”の連続という考えからだ。だからこそ、“今”に手抜きをしない。
 さて、『無宗教』を自慢している方、ないしは“自分は無宗教”と思っている方は“一日”を何と考えているのだろうか。過去と未来の通過点なのか、それとも何も考えずに“今”を過ごしてしまっているのか。
 禅士諸君。君らは“今”を全力で生きているだろうな。今を大事に出来なければ、未来を大事にも出来ないし、過去も大事にしていないことになる。大丈夫だろうな。人間らしく『和顔愛語』で生きているだろうな。
一日一生 慧智(070316)

投稿者 echi : 08:54

2007年03月15日

●『“美しい国”に必要なのは道徳?、教育?、それとも禅?』に関する無駄話

 『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝、“禅”は“心”
を“無”とすることが肝だと、道徳的な動物園の狐が、野生の狐に語った。続けて、道徳的な動物園の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と野生の狐にたたみ掛けた。野生の狐は「何故“自由”になりたいのか」と動物園の狐に問うた。すると、動物園の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると野生の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。
そこに、話を聴いていた野狐禅和尚が登場し、「では、お前達は入れ替わってみよ」と。
 暫くして、「『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝で、
“禅”は“心”を“無”とすることが肝だ」と檻の中の狐が、檻の外の狐に語った。続けて、檻の中の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と檻の外の狐にたたみ掛けた。檻の外の狐は「何故“自由”になりたいのか」と檻の中の狐に問うた。すると、檻の中の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると檻の外の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。

 明鏡(曇り無い鏡)は、外界を“ありれまま”に写し出し、何の造作もない。つまり差別がない。苦しみとは自我、我欲という“心”に執着することから始まる。『檻と名付けられた鏡』の世界に内外があるかな。産まれた時は、皆“無心”。恰も明鏡。自由とは明鏡無心。あらゆる価値から離れている。それが絶対的な自由の境地。人の個性(気質・性格・人格の統合概念)は容易には変わらない。それに、世俗的な価値か、知的な価値か、道徳的な価値が加わり人は評価され、己を判断する。
 禅は「無念の念を念として、無相の相を相として、無住の住を住とする」。『念』とは情動・理性・感情の生み出す現象、つまり“心”。『相』とは体が置かれている状態、己を己としている環境とで言える。『住』とは正に今安住している価値の世界と考えれば宜しい。『自由』とは拘らない・囚われない・偏らない本来の面目の姿である。『本来の面目』とは「父母の生まれる前のあなたの姿」である。そして、衆生は本来仏である。仏こそ己である。己の外に仏なし。それが禅である。
一日一生 慧智(070315)  政府系の会議で対立している委員を眺めながら・・・・。

投稿者 echi : 20:21

2007年03月14日

●真理は平凡に宿る(高校生に言い残したいこと)

 今日は、高校2年生に対して講演をさせていただいた。テーマは「社会が求める人」というもの。そして答えは「当てになる人」という一言でした。
 私は、此の世に要らない人間など一人もいない。自分の強みを発見して、それを活かしてください。それには、今・此処で出来る事を完璧にして下さい。それが出来れば大丈夫。その人が「社会が求める人」なんです。ただ、その事に気付かないで、今・此処で、自分に出来る事に全力を尽くさず、キョロキョロと周り眺めて、うらやましがったり、嫉妬したりして、肝心な事が出来ない人が、周りから“不要な人”と言
われてしまうんです。勿論、本当は“要らない人”など一人もいないんですよ。でも、言われてしまうんです。悲しいでしょ。悔しいでしょ。
 皆、大事な“命”だし、自分が大事なように、相手も自分が大事。だから、お互いに大事にし合うんだ。それって普通でしょ。普通のことを普通にする。それが大事なんです、というような内容の話をさせてもらいました。しかし、時間の都合で話しきれなかったことがあるので、今日は此処に書いておきます。いつか、キット読んでくれる人もいるでしょうから。
 夢も結構、理想も結構。「したい事」をするのも大いに結構。でもね、それが、誰かの迷惑にならなければの話。偉くなりたい。それも結構な事です。でも、誰かの足を引っ張らないこと。金持ちになりたい。勿論それも結構なこと。でも、貧しい者から奪わないでください。それだけは忘れないで下さい。
 さて、君達は「したい事」が出来ないと、どうだろう。「すべき事」が出来ないと、どうだろう。辛いだろ。苦しいだろ。悲しいだろ。だから、今は先ず、自分に『出来る事』を確実にすることなんだよ。それは平凡な事に思えるが、実はとても非凡な事なんです。何故って、続けることは大変なことなんです。出来る事をキチンとして毎日毎日を大事に生きる。出来る事を繰り返し続けるとどうなるだろう。実はね、“達人”と呼ばれる人になるんだよ。つまり、毎日を大事に生きる事こそが“達人への道”ということなんだ。そして、“達人”とは本当に“当てになる人”のことなんです。そして、達人といわれる人、当てになる人は、何があろうと、今、自分の居るところの眼の前の“道”を淡々と進む人なんです。出来る事を完全にするんです。すると、徐々に出来る事が増えてゆくんです。簡単なことでしょ。それを禅では、『平常心是道(へいじょうしんこれ“どう”)』という言葉で表します。この言葉は、唐代の南泉普願(なんせんふがん)が弟子である、後に『喫茶去(きっさこ)』という言葉で知られるようになる趙州従諗(じょしゅうじゅうしん)の「道とはどのようなものですか?」という問いに対して発せられた言葉で、詳しくは『無関門』第十九則を読むと良いが、少し難しいかもしれないな。まあどんなに難しい内容でも同じところを100回読めば自然と解るよ。人間の頭は凄いんだ。試してごらん。そこが解ると、『臨済録』に出てくる『無事是貴人(ぶじこれきにん)』という言葉が、今・此処で出来る事に成り切って全力で、結果など考えずに事に当たること、とうことが解り、それが、社会が必要としている『当てになる人』のことであり、「無事是れ貴人なり。ただ造作することなかれ。ただ是れ平常なれ。」という真理が解るんだよ。
 繰り返しますが、『当たり前の事』をあれこれ考えずに『当たり前』にする。それが“平常”であり“無事”
ということんなんです。それは、如何なる場合でも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく受け入れ、瞬間瞬間で処置して行くことなんです。当たり前の事ですね。
 『真理』とは、実に平凡な事の中にあるんです。しかし、それは極めて非凡なことなんです。言い換えれば『平凡は非凡の中にあり、非凡は平凡の中にあるんです。というと、数学好きな人がウズウズするでしょう。実はね、私の場合は中学時代だったけど、般若心経、ガモフ、アシモフ、アインシュタイン、ガストン・バシュラールに夢中だったから、今の君達の中にもそんな人が居ると思うので、ヒントをあげます。『真理』を解き明かすために『事実』を追って追って追い続ける“科学”という入り口もあることを覚えておいてください。それを“禅”では『大道無門(だいどうむもん)』と言います。“道(真理に繋がる生き方)”は何処からでも入れるんだということです。科学好き、数学好きな人なら、『平常心是道・無事是貴人』を複雑系数理論で証明してごらん。ヒントはカオスとフラクタル、マンデンブロー集合。真理とは“青い鳥”のように実に平凡で身近なところで見つかるよ。哲学好きなら、先ずはデカルトを読んでごらん。音楽好きなら、青空の下で鳥の声が言葉として聞こえるまで聞いてごらん。美術が好きなら、目の前にある粘土を熱くなるまで捏ねてごらん。芸術全般が好きなら先ず「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を読んでごらん。どこから入っても良いんだよ。『何が正しいのか、何が間違っているのか』。それを解るために真理を探究するんだからね。答えは簡単だからここで僕が答えておきます。『この世の中に、絶対的に正しい、絶対的に間違い、などということは無いんだよ』、あるのはね、『正しい考え方』があるだけなんだよ。さあ、僕が行ったことが本当かどうか、考えてごらん。君達は未だ2年生だから、少しは時間があるはず。受験勉強に入る前に、1週間で良いから、深く深く考えてみてごらん。実はね、それが受験勉強の頭のウオーミングアップになるんです。
一日一生 慧智(070313)

投稿者 echi : 00:32

2007年03月10日

●『セレンディピテイと“禅”は不可分不可同』

 セレンディピティイメージ.bmp
セレンディピティ(英:serendipity)とは、『“重要な何か”を探している時に、偶然としか思えない状態で、探しているものとは異なる重要な何かに出会い、探す原因となった課題が結果的に解決されてしまうという“人間の潜在力”を示す概念』です。
 つまり、一般的に使われている“何かを発見したという思いの結果で発見した当初の何か”、つまり課題に対する意識的行為を示すのものではありません。言い換えれば、この語(概念)は、古くから多くの研究者や技術者の間では知られ、体験する者も多い“ツキ”“ヒラメキ”“ラッキー”と称されるが、現実には『己の秘められたる力(≒潜在脳力)』だといえます。
 簡単に言えば、潜在意識を活用する方法を身に着ければ、誰にでも備わっている「潜在“脳”力」を“偶然”と思えるが、実は“必然”として活用できるのであり、人間はその潜在能力より高い結果は出せないが、自分が思うより大きい潜在能力が備わっているのが人間なのかもしfれない。
 なお、この語の語の起源は、『セイロン(セレンディプ)の三人の王子』という童話の内容にあるといわれているので、原著を読まれると宜しいが、この語の命名者ホレス・ヴォルポールの“発見(それそのものがセレンディピテ)”は18世紀中盤という時代的な背景から、そのメカニズムには言及していないし解明もしていないので、現代では、それそのものを研究するより『脳』にかんする知見を深めるが、セレンディピティの力に期待するのであれば、自分を信じ切り、日常的な“すべき事”に全身全霊を打ち込んで生きていれば良いだろう。
 さて、セレンディピティと“禅”の関係についてだが、ご存知の通り『禅』は釈尊が“苦”の本質を探究しているなかで、偶然にも“大自然の法則性と人間の思考の法則性”を発見し、その結果、“苦楽一如”であることに気付き、更には“脳力開発法”を発明したプロセスを『発見と発明の内容』を、発見した本質(原理原則)に随い、弟子達に追体験(坐禅)させるという法は、セレンディピティそのもです。
 “釈尊のセレンディピティ(潜在脳力)”は、言語的・映像的に伝えることが出来ない(不立文字・教外別伝)ので、坐禅という方法であり目的を通じて、修行者(探求者)に追体験(直指人心)させ、釈尊と同じレベルの発見者(見性成仏)にする教育システムを完成させた力である。
 なお、その“法”が、達磨大師から臨済大和尚、そして白隠禅師を中興の祖とした祖・師のセレンディピテイを通じて伝わっているのが『禅』なのである。
 だからこそ、禅の根底には大自然の法則である『大自然には一切の無駄は無い(≒揀択を嫌う・無分別の思想)』ということから、とことん捨象し、完全に削ぎ落とした結果の“本来無一物”が拙僧(我々)に伝わり、更に、休む事無く削ぎ落として次世代に引き継がせようといしているのは、ご存知の通りです。
 そこで、これもご存知の通り、拙僧が提言している『禅脳思考』は、言葉で解説するには限界があるが、“SEPとか四行日記として一般化し、『潜在意識である全身意識(細胞意識)を活性させ、大脳基底核から辺縁系を連続的に刺激して活性し、続いて非言語脳(右脳)からのアナログ信号を言語脳(左脳)に瞬間的に転送してデジタル信号に変換し、脳の全体でデジタル信号とアナログ信号を統合し、必要最低限の言語表現(主に観字)を用いて、発見内容(悟りの内容)を言語化(一転語)したものを、バイオフィードバック・システム(口から発音された言語情報を耳へと回向返照する仕組)を利用し、発見(悟り)前の思考回路を瞬間的に閉鎖して、発見(悟り)後の思考回路を使った新しい考えや行動を発明するというもので、『脳力強化≒“禅脳(禅僧の思考法)”』は、仏教2500年の歴史を背景にした脳力活用法なのだが、私が“これ”を発見したのもセレンディピティの賜物なのです。
一日一生 慧智(070310)
◆蛇足:これを書いている最中に「やはり言葉では伝えきれない」ことを再確認し、多くの悩める者に坐禅(禅脳思考)を伝えるのが、私の使命であることを再確認した。

投稿者 echi : 08:00

2007年03月07日

●『啐啄同時用(そったくどうじのよう)』伝統録

 南院和尚が「諸方の師家は啐啄同時の眼はあるが、用(はたらき)がない」。そこで僧が「啐啄同時の用とは何ですか」と尋ねた。すると「作家(さっけ:やり手の事)の禅者の出会いは啐啄しない。すれば同時に失う」と。
 僧「その答えは私の質問の答えではありません」と。
 南院和尚「では、お前の質問はなんだ」。
 僧「失いました」
素晴らしい遣り取りですが、僧は独り善がりで、和尚の心が通じなかった。僧の行脚の折、似た様な遣り取りをしている他の師匠と弟子の話を聴いて(人の振りみて我が振り直す)、南院の和尚に帰ったが和尚は遷化されていた。そこで、南院の後継者である風穴(ふけつ)和尚に、経緯を話すと風穴和尚は「啐啄同時の用は解ったか」と尋ねられ、「あの時は、“燈火の影”を歩いていて、ハッキリと照顧できませんでした」と。風穴和尚はそれを聞いて「啐啄同時」を証明した。
さあ、今日は燈火の影を示すので、坐ってください。
一日一生 慧智(070307)
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投稿者 echi : 04:53

2007年03月05日

●歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

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どんな山中の閑静な処にあっても、心に妄想や邪心があっては、其処は“道場”とは言えない。
『歩歩是道場』とは、正直な心、素直な心で己事究明(己の本性をトコトン知ろうとすること)にあたれば、そこが何処であっても『道場』、即ち修行の場であるという意味です。
つまり、修行の場とは、己の内にあり、環境に求めるものではなく、真摯な態度で暮らす“行住坐臥(日常)”の一挙手一投足、歩みの一歩一歩であり、如何なる入り口も仏道(智恵)の完成への入り口であり道であり、一歩なのです。
さて、調布の勝さん、出家を考える前に、騙されたと思って、服装など何でも宜しいから、雨の日に、少しだけ遠出し、見知らぬ土地をカッパ(レインコート)姿で、何も考えずに涙が自然に出てくるまで歩いてごらん。己の本性を垣間見ることができるよ。先ずは、それから出家得度を考えても良いのではないだろうか。坊主は世捨て人の終着点ではないんだよ。
●ネット禅会に参加してる禅士からの質問に答えました。
一日一生 慧智(070305) 

投稿者 echi : 19:31

2007年03月04日

●可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶)

一昨年、銀座で拙僧の“手慰み”の展示会を開いて頂き、沢山の方に見ていただいた。墨蹟だとか作品などとは程遠い、本物の“手慰み”なのだが、先ほどファイル探しをしているとふとしたタイミングの悪戯からその画像ファイルに出くわした。この写真である。誰が撮ってくれたのか、誰も居ない開館前の手慰みの写真に眼を奪われていると、ふと、五燈会元にある投子和尚(とうすおしょう)の行と我が師匠と拙僧の遣り取りが思い出された。
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「森羅万象は全て這裏に在り」と投子和尚は弟子に茶を出した。すると弟子は、この茶を飲めば境涯の一つも言わなければならないと舞い上がり、咄嗟にその茶碗を跳ね飛ばして「森羅万象、甚麼処にかある」と和尚に迫ると、和尚は「可惜一杯茶」と静かに応えた。
 師匠と弟子とは24時間365日真剣勝負。写真の中に写っていた一枚、「円相」は師匠との思い出であった。師匠「何を書いたか」と、14歳の拙僧、悪戯に坊さんの絵を書き始めたそのときで、未だ頭の部分である○しか書いていなかった事をよい事に、「円相ですと言うつもりが瞬間的に言い換えて」、「森羅万象です」と。すると、師匠は即座に「良く燃えるから焚付けに使いなさい」と。そして、薬石の為に湯を沸かす時、それを竈にくべてマッチで火をつけた。確かに良く燃えた。火を見ていると『力』の意味が見えた。どんな物もどんな人も分相応の役割があり、役割が終わると役割が変わる。それが『生死(しょうじ)』であり、山川草木悉皆成仏なのだと気付いた。一休和尚なら「円相は煙相だな」とでも和ましてくれるだろうが、暗い土間で一人きりの拙僧には煙が目にしみて涙が頬を伝うだけだった。
一日一生 慧智(070304)

投稿者 echi : 15:15

2007年03月02日

●悠々閑々灑々落々(ゆうゆう・かんかん・しゃしゃ・らくらく)

 禅者の姿の手本となる『悠々閑々灑々落々』とは、老子の道徳経の『和光同塵(わこうどうじん)」、十牛図なら十番目の『入塵垂手(にってんすいしゅ)、巷にあって衆生を直接に済度する』・・・の姿、生き方を表して、同義語は沢山あります。
禅者であれば『悠々閑々灑々落々』といえば布袋和尚を連想する人が多いでしょう。布袋和尚は七福神に『布袋さん』として描かれていますから、皆さんも達磨和尚や一休さんに次いで見知った顔でしょう。腹を出し裸同然の格好で杖と生活用具の一切を入れた大きな袋を持った実在した方です。
 禅の悟りに至った者は、法だ道だ悟りだなどと言わず、況や説法だの、仏だの、善だ、悪だなどという道徳じみたことも微塵も見せず、馬鹿か利巧か、偉いのか世捨て人なのか、仏なのか乞食なのか、まったく判らない境涯で、巷にあって、衆生にやすらぎや安寧を与え続けられることを理想としています。
 天真爛漫で無欲、無一物。食べられる時は食べ、食べられない時は、それを受け容れます。地位も財産も名声も安寧も求めず、利口ぶることも、威張るでもない。その上、誰に会っても笑いかけ、会った全ての人が“幸せ”を感じる。それが布袋さんであり、百尺竿頭に歩を進めた禅者です。拙僧も、と思うのですが体型にこそ不足は無いが垢だらけの身で説法など書いているようじゃね。『悠々閑々灑々落々』には程遠いな。トホホホ・・・。
一日一生 慧智(070302)
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投稿者 echi : 16:14

2007年03月01日

直心是道場 歩歩是道場

「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」(趙州録)の語は、もとは維摩経の中の「直心是道場」という維摩居士の言葉に由来している。修行は山中の閑静な処にあっても心に妄想や邪心があっては修行とは形だけで其処は“道場”とはいえないし、素直な心で一日一日を一生に準えて修行をするならば、そこが病院のベットの上であれ、事務所や街中のような喧騒の場であれ“道場”、即ち修行の場です。言い換えれば、ビジネスの世界に身を置いていようと、心掛け次第で一日一日が成長の過程となり修行の場となります。例え、満員電車に乗っている時でも、風呂に入っている時でも、心がけ一つで、そこが道場、修業の場です。縁の快川紹喜和尚の遺偈にも「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」とあります。
因みに、「歩々是道場≒直心是道場」で、「光厳童子という修行者が、騒がしい城下を出て、閑静な修行場所を探していた時、維摩居士に出会ったので、「どちらから来られましたか?」と訊ねると「道場から来た」という答えが帰ってきたので、空かさず「その道場は何処にあるんですか」と問い直すと、維摩居士は「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」と返答をしたことに由来し、「直心」とは素直な心、我見、我執のない真っ直ぐで無雑な心のことです。 
一日一生 慧智(070301)

投稿者 echi : 19:56

2007年02月22日

辻説法『伝えたかった事』

  禅を解りやすく言えば、見えるものより見えないもの、聞こえる声より聞こえない声、聞こえる音より聞こえない音・・・、と言えなくもないが、本当は“分別”というややもすると二項対立や二律背反という『神経系(電気的)』にみられる“0対1、プラス対マイナス、有・無、苦・楽、正・否”という「父母未生以後」の相対的な考え方に偏らず、囚われずに、納所両亡、極論を排し、足して二でわるような単純な中間ではなく絶対的な原点である中庸(主人公の立ち位置)という“一点”、始まりも無く終わりも無い、裏も無く表も無い、そして立ても無く横も無いところで生きる生き方、解釈の背景にある事実の根底にある普遍性・原理・原則(安易に真実などと言ってはいけない)を全身で受け止められる自然体で生きることを時間や空間、祖や師という区別なく、誰にも頼らずに、己を師とも祖ともして修行に励むことである。
 それには、事実から眼を背けずに事実(実態ではない)の世界に身を置き、眼前に現象する全ての背景(共有する法則性)を発見し、記憶し、即(今・此処・己)の行住坐臥に投影して生きる。極論を言えば、『禅とは己を祖師として己に帰依する宗たる教え(宗教)』と言える。
 知る限りにおいて禅以外の全ての宗教は、己の外に向かって手を合わせることで楽になろうとするが、禅は己の内側に向かって手を合わせて一切の先入観、無縄自縛から自分で自分を解放する唯一の宗教だと思う。言い換えれば、『最初に言葉ありき、文字ありき』ではなく、『最初にも最後にも文字も言葉もない』と考えるから、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏であり、以心伝心であり、無事是貴人であり、日々是好日、山は青く川は緑で花は紅。全てが一つで一つが全てなのである。
 さて、私は禅を伝えようと何十年も生きてきた。しかし、伝えられないまま生物学的な生命を終わろうとしている。言葉を駆使して言葉の怖さと非力さを伝えようとして言葉を失い、言葉を使わずして真に気付いてもらおうと無為なことをしてきた。疑って疑って信じて信じた。そして、気付いた。「全ては不増不減・不生不滅・不垢不浄・・・」。その日まで淡々と暮らすことこそ素晴らしいということを。縁に随い全てを受け入れ、今・此処で己に出来る事を“すべき事”として生きることを。
●遺言:おい、主人公。出来る事をすべき事として全力で行い、今を堂々と生きろ。遺骸は山に捨てろ。葬儀はするな。俗名も戒名も不要。
慧智
 

投稿者 echi : 09:11

2007年02月12日

十方無壁落 四面亦無門

『十方無壁落 四面亦無門』は、「じっぽうむへきらく しめんやくむもん」と読むのが一般的。四方八方上下で十の方向、つまり360度に『仕切り(壁)』がなく解放され、更には四方に『門』もない。このような状態は宇宙空間を遊泳しているのそ想像すると理解できるかもしれない。まあ、一般的には想像力にも個人差があり、不立文字・教外別伝と言っても、以心伝心でイメージを共有できるようになるには“室内十年”が必要なのかもしれませんが、可能な限り多くの者とイメージを共有するための方便(レトリックと言ったも過言ではない)を以って、『心の理想的(本来の)な状態』を表した表現です。詳しく知りたいと“分別”の世界に居る者は碧巌録三十六頌評唱を読んでください。
意味は、『無心』であり、「本来の面目」であり、心の垢を全て洗い「本当の自由」を知り、その落とした『心』という概念すら捨て去った『無一物』の境涯を表現した言葉です。つまり、“菩薩(仏)の心”と言っても差し支えないでしょう。百尺竿頭の一歩先の心であり、禅者が至る(帰る)心です。
 その心の状態を外に投影したのが“本来”の禅寺です。来る者は拒まず、去る者は追わず。呼び込むようなこともせず、来ることを期待もしない。自らある現実の中で出来る事に特化して、今・此処を只管に生きる。生き切る。つまり、"寺(禅風)”は歴代の住職、現在の住職の心の投影であり、『禅』に対する考え方、生き方を象徴しているのです。
 話は少し変わります。生理心理学という学問領域では、『進化適応』の法則性を探求を通じて、取り敢えずは二項対立させている『体と心』の関係を明らかにしようとしています。嘗て教えを受けたポール・ソシャール博士(精神身体医学:パリ第一大学)は心理生理学という基盤となる学問が逆とは言え、最終的には、禅も生理心理学も心理生理学も同じ知見に辿り着きました。その行き着いた先が『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』、人間は物質および生命現象の一部であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減という原則、色即是空、空即是色という原理なのです。そして、其処から出発すると、『心身一如』に得心が行き、心と体は紙の裏表に書かれた文字のように同じではないが分けられない。不可分 不可同という二項対立に意味を持たないという真実が得られます。そこまで解ると『泯絶超脱』の境涯となり、全てをあるがままに受け入れ、全てと同化し、諸行無常(全ては再現しない現象)の世を一日一生を意識して生きる本当の生き方に辿り着きます。つまり、どんな道を辿ろうと、最終的に行き着くところは、同じなのです。
 皆さん、私たちは母の体を媒介として此の世に生を受け、日々の環境から価値を教え込まれ、今、『自分だ』と思い込んでいる自分で生きています。最近、好き嫌いや、善悪や、正しいだ、間違っているなどという判断、分別、つまり『真の己』ではなく『偽の我』に振り回されて、苦しんだ経験はありませんか?典型的な苦しみが『板ばさみ』ですね。そんな時、皆さんはどうしていますか?多くの人は、考えて、考えて、尚も考えたりします。そして時間を浪費します。つまり『時』を失います。人間は何一つ持たずに裸で生まれ、何一つ持たずに裸で死にます。
 ある参禅者が、損得の世界から出たいと言いました。私は、坐りなさいと応えました。すると、「坐れば解るんですか」と聞き返されました。そして私は何も応えませんでした。
 日本人の多くが合理的だと信じ込まされている平凡な科学の世界観は、『具体的な原因と具体的な結果』の相関関係の強度を分別判断しようとします。科学者となると“それ”を限定的合理性と考え、限定を解除することを考え、坐禅などをします。
 損得を離れるには、分別心から分別を捨てて『心』とすることで、獲得するのではなく捨て去ることです。それが坐禅です。
 坐禅をしている時ほど“幸せ”を実感することはありません。
慧智(070212)

投稿者 echi : 09:19

2007年01月24日

●『教育』とは

 昨今、巷での『教育論議』を耳にすることが多くなった。まあ、その大本が自らの教育が成功しなかった政治家であるこが滑稽ではあるが、今、日本人が“教育”を国民的な議論とすることは大事なことだろう。
さて、本日夕刻、体調に問題はあったが高校教師の集いに招かれ一時間程度の話をさせて頂いた。その折ひとりの教諭から、『そもそも教育とは何だろう』という素朴な質問が投げかけられた。勿論、彼らは“教育現場”の人間であり、『教育とは、知育・体育・徳育の総称で、頭に教え、体を鍛え、心を磨くこと」という常識的な答えを求めたわけではない。彼らにとって大事なのは、「成長過程において誰がどの部分の責任を持つのが正しいか」という意味合いが込められているということである。簡単に言えば“いじめ”の予防と再発防止の『責任』の全てを教師と学校に委ねるなら『権限』の全ても委ねられる必要があると考えていることに通じる。
なお、そこでの教諭と拙僧の遣り取りが面白かったので書き留めてつつ皆にも考えてもらいたいと辻説法の素材とした。
教諭:そもそも教育とは何だろう。
拙僧:安心を与えることだ。
教諭:安心とは?
拙僧:受け容れられる心だ。
教諭:何を?
拙僧:全て。
教諭:どこで?
拙僧:全身。
教諭:殴られても我慢すること?
拙僧:我慢という心を捨てること。
教諭:我慢しないとということ?
拙僧:我慢しないことも捨てる。
教諭:暴力であっても自然に受け容れるということ?
拙僧:受け容れているという心も捨てること。
教諭:唯我独尊となること?
拙僧:皆が主人公である
教諭:それが“愛”ですかね?
拙僧:“愛”とは執着であるから、捨てる。
教諭:となりと“憎しみ”しかないのでは?
拙僧:愛は憎しみと不可分ゆえ、両方を捨てる。
教諭:何が残りますか?
拙僧:何も残らない。
教諭:では教育の成果は?
拙僧:本来無一物を得心すること。
教諭:そんなことが出来ますか?
拙僧:その心も捨てなさい。
この後も続きそうであったが時間切れ。
付け加えてると。
拙僧:教育とは心の垢落とし、素っ裸になること。それを『経営』という。誰が誰に行なうかは、先ずは親と世間が心、教師が頭(教師も世間にある)、自分(自分も世間にある)が体。言い換えれば『教育は世間を構成する全ての者が権限をもち責任がある。だからこそ、教育の大前提は『己が手本となって生きる』こと。それだけ。
慧智(070124)

投稿者 echi : 05:04

2007年01月12日

●先ずは大前提から

●仏教の基本
ふと気が付くと、我が国の多くの市民が、戦後の混乱と戦後の偏狭教育の結果として宗教・仏教・禅に関して多くの誤解や曲解が起こり、結果として宗教や道徳が少なからず軽視されているという事実がある。西欧型の一神教に根拠を置く西欧文明は、釈尊が発見した真理には遠く及ばない価値観を作り上げ、『原因と結果』は一対一の関係であるという論理展開をする合理性を生み一人歩きさせた結果、強者優先と自然征服主義、人間優先主義の世界を築いてしまい、戦争を肯定し、自然破壊を正当化し、自分達人間以外の生命を軽視し続け、結果として世界の持続性(サステナビリティ)にダメージを与えてしまいながら、それに気付きながら価値の転換が図れない状況にあります。そして、その流れは我が国の『自然との共存(征服の反対概念)と美徳(陰徳を善しとて卑劣な心を恥じる文化)』を汚染し、徳を捨てて“美しい日本”を作ろうなどという未知な政治家が現れ、“徳より得”を当然とする社会を正当化して、我が国が唯一世界に誇れる“美徳教育”の本質を根底から砕いてしまった。
私は、余命幾許も無い“下野した禅僧”であるが、聖俗一如を地で生きている者として、何とか警鐘を鳴らしつつ、一人でも多くの人間に“心眼”を開いて頂き、一人でも多くの人間に己の能力を活かして“美徳を実現する生き方”を選んで頂きたいと、今年は“仏教や禅、生命観や倫理観(生き方)”に関する考え方を、出来る限り解りやすく解説しつつ、“経営(目的目標を達成させる行為)”に言及してゆこうと思います。そこで、本日を第一回として書き始めます。
●釈尊の根本課題(命題)は、人生の一切の苦悩を如何にして超脱し、安心して寿命を全うするということは、どういうことかを考えつくしたことです。
そして、釈尊が発見した人間を含む世界の法則性(真相)は、次の通りです。
1、諸行無常:一切の現象は、刹那ごとに生滅し変化する。
すなわち、一切のものは、単なる時間的現象として生起し、同じ現象は一回限りである。だからこそ一期一会、何事にも全力投球が大切なのです。
2、諸法無我
諸法とは“一切の存在”、“無我”とは、固定不変の実体のないこと、即ち全ては“現象”であるという事実。
故に、全ての現象は、特定の原因により特定の結果があるのではなく、不特定多数の原因が縁により不特定多数の結果を結びつつ、それらが新たな原因と新たな関係性を生み続ける瞬間的な現象だということです。
3、一切皆苦
一般人は、変動に固定(無常に常)を求め、欲望が満たされないことを“苦”とする。つまり、私達を取り巻く一切の現象は、“苦楽”の対象として仏教的理解における“苦(不安)”として現れているということ。
4、涅槃寂静(1・2・3を前提としての究極の心境)
無常・無我・苦という法則性を如実に知見して己のものにすることで、一切の執着から解放された真に自由な境地(大安心)があるということ。
慧智(070111)

投稿者 echi : 06:41

2007年01月06日

●己事究明と修行

日本の仏教には沢山の宗派があり、同じ釈尊の教えでもフォーカスする部分が異なると、経の解釈や修行方法が異なります。我らは『禅宗』という流れにあり、己の外に絶対者(神や如来など)を持って依存せず、己の内なる仏を覚醒させるために修行の中心を坐禅においています。宗派によっては護摩行と言って経木を燃やして呪文を唱えたり、オリエンテーリングのように野山を走り回ったり、只管に念仏を唱えたりしますし、他力を標榜して自らは決して動かないという宗派もあります。そんなところから考えると、一般の方々に、禅はおろか仏教そのものが誤解され怪しまれるのは理解が出来ます。
そもそも『仏道修行』とは何でしょう。例えば富士山を連想してください。山梨から見ようが静岡から見ようが富士は富士ですが、見る人の位置と時の変化し随い、今此処の富士は瞬間的な現象であり、不変でもなければ同じ富士山を見る事は今此処の己以外には誰にも出来ません。況や釈尊の悟りから2500年も経って4万8千と云われる経があれば、その解釈は無限と言っても過言ではありません。故に、歴史的変遷を無視して、“是こそが釈尊の意思だ”という妄想に囚われることは出来ません。言い方を変えれば、「どこから何時見た富士山が本物ですか」に答えるようなもので、どれが本物の仏道修行か、と聞かれても答えようがないのが真実です。勿論、明らかに怪しげな修行もあり、ある意味では玉石混交と言えるかもしれません。何が良くて何が悪いなどと言えば“分別”が起こり絶対受容である“無分別の境地”を目指すという修行の根本が崩れてしまいます。つまり、己に縁があり、縁に従って出会っている修行で、疑いが起きていなければ“それ”で良いとしかいえません。
しかし、歴史を紐解いてみると、出家者の修行には大きく分けて二つの流れがあり、一つは坐禅、もう一つは経学です。この二つの流れから類推すれば『坐禅により心を鎮めて無心を実現し、その状態で経の行間から智慧を学び取り涅槃寂静の境地を実現するのが王道であることは容易に理解できます。つまり、その基本の上に宗派別の個性が乗って複雑化しているだけです。禅宗でさえ坐禅+経学が少し変形して『作務』が加わっています。少しだけ付け加えれば、滝に打たれたり、火に炙られたりする修行は神道系の修験道がフューチャーされているのだということです。仏教の心は『己の事を探求しつくして心静かな境地に至ること』が大前提で、単純な話が、己の心を清らかにするのに、火に焼かれたり、水に冷やされたりすることは逆効果こそあれ効果は無いでしょう。勿論、生理学的観点から考察すれば“脳を暴走させる”のですから不思議な体験は得られるでしょうが、それでは“麻薬”を使うのと代わりがありません。心を安定させ己を探求するには非言語的な脳が覚醒し、言語的な脳が沈静していなければ無理なのです。現代科学はその状態をアルファー波状態と呼んで“絶対的覚醒状態”と考えられているようですが、科学の言葉を借りるまでもなく、この世に“神秘や奇跡”は無いと幻惑の正体を見抜いたことが釈尊の悟りの構成要素なのですからバタバタな方法は逆効果しか得られないと我々は考えています。火では温まり、水では冷やされれるのが大自然の理です。
 以上で理解できたとは思いますが、一般の社会で美徳を尊重し、善良に暮らしている皆さんは、先ず全力で不特定多数の人々に貢献しようとする志で働き、日々に己を鍛え、日々に心に被る埃を落としているのが大事なのです。『坐禅』は心を洗うことであり、毎朝毎晩、歯を磨くのと同じように『坐禅』をすることが大事なのです。そうしないと心が虫歯や歯槽膿漏になってしまい、弱肉強食と卑怯な裏切りの世界の住民になり、勝ち負け、高い低い、貧富などで物を考える下衆でさもしい“物狂徒”になってしまいます。
 さあ、坐りましょう。働きましょう。それが『己事究明に通じ陰徳に通じて美徳の人となる品が実現するのです。
惠智(070112)

投稿者 echi : 14:03

2007年01月03日

万法帰一 一帰何処

 『万法帰一 一帰何処(万法は一に帰す。一はどこに帰すか?)』は、碧眼録45で趙州和尚に対する“質問”です。これに対しての趙州和尚の返答は「私が故郷の青州で一枚の麻衣を作ったが七斤(4,2キロ)もあった」であった。
「多即一 一即多」は「色即是空 空即是色」という般若心経を一度でも本気で読んだら解るから、即軽薄な雲水は、「万法帰一 一帰万法」という“正しい”常識的な返答をするだろう。また、未だ初関が通らない修行の浅い雲水は「麻三斤(碧眼18参照)」と頭で返答するかもしれない。しかし、趙州和尚は「私が故郷の青州で一枚の麻衣を作ったが七斤(4,2キロ)もあった」である。
 禅は単なる哲学や思想ではない。況や因果論科学などではない。質問が同じなら答えも同じという“演繹論”ではないし、文法論のようにA=BならB=Aではない。日本語や朝鮮語なら「山は春である≠春は山である」、即ちA=BでもB=Aは成り立たない。寧ろ、「AはAでないからBである」となる。それ故に禅は厳として禅なのだ。質問に対する応えは個々人の個性的で独自の体験の中で得られる真理(事実ではなく、事実の体験が誘発する真理の発見)の間髪を入れない返答であり、それから導き出させる日常の行動である。
さて、「あらゆる現象は一に帰しますが、全ての人間の解釈と表現は無数です。何故ですか?」
虚庵快紹慧智(070103)

投稿者 echi : 23:57

2006年12月30日

脚下の道を見直そう

新年明けましておめでとうございます。
旧年中、体調を崩し1000本説法を中断しましたこと不徳の致すところ、心よりお詫び申し上げます。
年明けまして心を新たに、倒れても倒れても前へ前へと突き進む所存ですので、時折、この辻説法を除いて頂けるようお願い申し上げます。
さて、旧年中に“己の道”を見出せた方は幸いです。『大道無門』と言いますが、無門であるが故に足元の道には気付くことが難しいのかもしれません。時々、先ずは10年坐りましょうと話すことがありますが、日々に積もる塵芥を拭き払い、己の何たるかに気付き、己の道を無心に突き進むのは決して簡単なものではありません。人は迷うもの。迷いが大きければ大きいほど迷いから自由になったときは素晴らしい。正に大愚大悟といえます。
昔から、右を極めれば左に、左を極めれば右にというように、道は始まり無く終わり無く“円相”を描き、能所両忘、極論を離れば、そこが中心。随所作主。皆主人公。正に中庸こそ道です。拘ること毋れ、囚われること毋れ。偏ること毋れ。現実をあるがままに受け入れ、今此処を全力で一日一生として生きる。求める心に安寧なく与える心に安寧が宿る。強みだ弱みだ、勝った負けた、幸せだ不幸だなどの相対的な気分に実相はなく、所詮は紙の裏表です。相対的な価値観に実体はありません。
『碧巌録』に度々登場する「至道無難 唯嫌揀択(しいどうぶな ゆいけんじゃく)」。究極の真理(全ての原理原則は難しいものではなく、ただ好き嫌い、選好みを嫌うだけだ)と趙州和尚が弟子に示した通りです。揀択とは憎しむ心・愛する心によく現れます。キリスト教でも「愛から博愛へ」と自分を成長させることを善しとします。昨今の“いじめ”は愛憎という醜い心の投影が作り出す現象です。拘らず囚われず偏らず。選好みの究極の心が愛憎です。活人諸君は、愛憎を離れ慈悲の世界に無対立・無犠牲・自主独立の世界が広がることを知っているはずです。死ぬ時は死ねば宜しい。生きる時は生きるが宜しい。現実をあるがままに受け入れ、あらゆる幻想・妄想から己を自由にして生きてゆこうではありませんか。それには先ずは“出来る事”に全力を尽くすこと。それは“看脚下”。今・此処がある今歩いている道を知ったりと意識して一途一歩全力で歩むことです。『大道無門』。誰でもが大道という大自然の原理原則を生きています。それゆえに無門なのです。
さあ、今年も坐りましょう。
一日一禅。一日一生。悩む暇があれば寺に来て一緒に坐りましょう。来れない人は深夜12時に坐ってみてください。同じ心の人々と出会えるはずです。
では、今年も宜しく。
平成19年1月1日 両忘山活人禅寺 慧智

投稿者 echi : 09:02

2005年07月20日

野狐禅和尚の辻説法『熱時熱殺闍梨』 №811

 梅雨明けの禅堂は、言の他“暑い”のは事実で、暑くないなどという“痩せ我慢”は禅者には似合わない。暑い時は暑い。寒い時は寒い。それで良い。暑い時に寒ければ病気。寒い時に暑ければ病気。暑い時は暑い、それは健康。しかし、暑い時に暑い暑いと言っていては暑さを忘れる事は出来ません。例えば、暑い時に暑さを忘れるほど畑作務に没頭する。寒い時に寒さを忘れるほどに山作務に専心する。しかし、それは暑さ寒さから逃げるためではなく、一意専心できていれば、暑さ寒さは、忘れてしまうということ。何事にも全身でぶつかり、成り切る。それが、暑さを殺す、ということ。今週は活人禅会です。例年、恰も我慢大会のようにも見えますが、修行には最高の季節。座布団の汗染みが何を物語っているか。二日間、汗が枯れるまで、坐り切ってみよう。
 表題の読みは「ねつじ・じゃり・を・ねっさつ・す」で、意味は、“殺”という文字に肝があり、これは“殺す”という意味ではなく、『徹底する』というニュアンスを持ちます。つまり、『暑い時は暑さそのものに成り切る』、転じて、如何なる出来事に会っても、決して逃げることなく、真正面から取組むことの大切さを示唆しています。勿論、取るに足りないような事は囚われ、拘るなどは論外です。
慧智(050721)

投稿者 echi : 22:25

2005年07月19日

野狐禅和尚の辻説法『時々勤払拭』 №809

 『時々勤払拭』は、「じじ・に・つとめて・ふっしき・せよ」と読み、私は座右の銘にしている。出展は六祖壇経に出てくる神秀の偈の一部で、「身は是れ菩提樹、心は明鏡の如し。時々に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむ莫れ」に出てくる。本来の己は仏そのものなので、日々修行に勤め、心に煩悩という塵埃が付かないようにしなければならない、という意味だが、これに対して、六祖慧能が「本来無一物。何処にか塵埃を惹かん」と喝破したのは有名な話で、この一言の重みが五祖である弘忍の印可を受けることになったと伝わる。
 月に一回、一月の塵埃を落す活人禅会は大事であることは言うまでも無いが、毎日20分でも40分でも、ネット禅会で坐ることが大事だ、と感じさせてくれる句だと思いませんか?本来無一物を悟り切っていれば、塵埃すら無いはずだが、本来無一物を頭で理解している程度では、『時々勤払拭』という日常の心を刻み込んでいることが大切です。俗人は、今、此処で出来る事でも、ついつい明日に延ばしてしまうことがある。学生であれば、予習も大事だが、復習が大事。「明日にしよう」という心こそ“塵埃”だと私は思っている。“ま、良いか”という気持ち。よく有るだろう。しかし、それこそが“塵埃”。つまり“煩悩”に引き回されないことが大事です。今、此処で出来る事は直ぐする。本当に大事な事ですね。怠け心が起きそうな場所、例えばトイレや机の前には必ず「時々勤払拭」と書いて貼っておこう。さてさて、我が家には何枚貼ってあるかな。今すぐ、見に行こう。
慧智(050719)
蛇足:机、トイレ、洗面所、風呂、4枚もあった。お世話になります。大掃除も大事だが、やはり、一日一生。日々こそ一大事。

投稿者 echi : 21:29

2005年07月17日

野狐禅和尚の辻説法『よく学び、よく働く』 №808

昨日は500人、今日は15人、人前で話す事が日常である。つまり、私にとっては“話す事は仕事”である。しばしば、人は金銭的報酬を前提にして仕事を考える。時給1000円で“こんな仕事”は出来ないとか、あの人の講演は90分で100万円だとか、である。つまり、仕事と金銭的報酬をリンクさせる人が多い。しかし、私は“それ”に同意できない。報酬であれ、価格であれ、それは“価値”の数値化であり、価値は、その価値を消費する側に決定権がある。そして、仕事には、仕事に対する其々固有の“価値感”がある。勿論、価値≒価格という人もあるだろうから、報酬を仕事の前提にしてはいけない、とは思わないが、私は違うというだけである。
私にとっての仕事とは、勉強の成果の発表であり具現化である。言い換えれば、沢山勉強することが仕事の可能性を拡大すると考えている。そして“仕事”とは、社会貢献であると私は確信している。
キリスト教では、労働≒仕事は、神から与えられた“懲役”である。だから、“安息日≒休日≒非労働日(神への感謝と時間の自由処分)”が内包されている。一方、日本(仏教伝来以降)、労働は“美徳”である。故に美徳に“安息”という概念はない。キリスト教では、有る意味で“客体的労働”であり、仏教は“主体的労働”である。その違いが解らないILOは、“労働は懲役”という価値感を前提に考えるから、時間制限と加重負荷に注視する。日本では、労働は、有る意味で“学び”を伴う美徳であり、働きながら学び、学ながら働く。学働一如である。
私は、昼間は働き、夜は勉強をするものだと、考えている。つまり、主体的に働いている以上、働く中に、学ぶ中に“遊び”があるので、あえて“安息日”を必要としないし、意味を感じない。晴耕雨読も同様。昼間、働けなければ、その時間は学びに転用する。寝る時間は、生理的要求であるが、全ての人間が6時間の眠りを必要とするとは思わない。9時間必要な者もいえば、3時間で十分という者もいる。私は、記憶の限りでは8歳から一日3時間以上の眠りは、体調不良の時以外は必要としなかった。つまり、私にとっては、相対的比較を持ち出せば、平均値より夜が長い。夜が長いから、必然的に勉強の時間が長いし、その成果を以て社会に貢献する時間は長くなる。
私にとって“仕事”は、「富は徳の結果」である。しかし、“富”を経済学でいう「集積した財貨、経済主体の財の総和」という定義を持たない。“富”とは、“豊かさ”であり、豊かか、豊かでないかを決定するのは“価値感”であり、“心”である。故に、財貨の集積が大きければ“豊か”と考える人がいても良いし、そのように考えなくても良い。しかし、私は、真理は一つだと思っている。人間は何も持たずに生れ、何も持たずに死ぬ。つまり“物質や財貨”は、心の豊かさの手段の一つであり、全てではない。
今日、何故、このような話をするかといえば、数日前の中学校での出張授業の折り、些か“まずい”と感じ、今日もまた大きな疑問にぶつかったからである。公立の小中学校で“株の取引(投資)”を授業に入れるの入れないのという話し。私立なら理解が出来るが、国家が、金で金を生み出すという異常で異色な経済メカニズム(資本主義の本質ではある)を唯一の価値観として“教育現場”で未来の日本人を洗脳するのは如何なものか。『富の源泉が金』、これは論理的に考えても誤りである。金は交換の仲介手段である。つまり、便宜上存在する“仕組み”であり、本質的には不要である。しかし、世界(交流の範囲)が広がると、貨幣経済は必須となる。しかし、その事と“国民の幸せ”とは強相関にはない。確かに世界は変る。其れは当然である。しかし、本質は変わらないからこそ本質というだろう。金や物や遊びが“豊か”の象徴だろうか。私は、“豊か”とは、不安が無い状態≒幸せだと思う。其処には、攻めたり、守ったりというディス・ストレスは無い。もっと勉強して、己の可能性を拡大しようとする“豊かな心”が有るだけだろう。蓄積された財貨(BS)・報酬(PL)は結果論であり、いつだって“足るを知る”ことが“幸せ≒豊か”なのである。
活人諸君、仕事について、豊かさについて、遊びについて、一度位は“根本まで掘り下げて”考えてみてはどうだろう。
坐禅は、さらにそのような分別を捨て、絶対的な境地への道。その道に踏み込む前に、自分の考えを知っておかないと、最後には全てを捨てるにせよ、中間段階で捨てる順序がわからなくなる。このHPでは、『十牛図』を解説していない。ただ眺めていれば解るからである。
『一日不作一日不食』、喜びは“働く事”の中に、“学ぶ事”の中にある。学んで之を活かす。働いて之を学ぶ。働ける事≒世の中に必要とされて居ること。これが人生最大の喜びであり、富の源泉であり、幸せの正体だろう。
慧智(050717)

投稿者 echi : 03:08

2005年07月15日

野狐禅和尚の辻説法『あるべきよう』 №807

 私が大好きな言葉である『あるべきよう』とは、明恵上人の「繰り返し大蔵経を読みたるに“あるべきよう”の六字なりけり」に登場している言葉です。『あるべきよう』、その人が其処に居る。その物が其処にある。その時、その場所にピッタリとある。それが“自然”という言葉であり、『あるべきよう』の心です。人間で言うなら『適宜適時適材適所』。居るべき処に、居るべき人が、居るべき時に居る。何とも素晴らしいことです。ところが、それが余りにも“当たり前”として、心に留まらない事が多く、従って感謝を忘れていることがある。そして、“その人が、その物が、其処に”無くなると、多くの場合には“不便、不自然”を感じて、其処に、其れが在った時の“価値”に気付く。つまり、“あるべきよう”というのは、正に“奇特”であり、“当たり前”こそが一大事なのです。“あるべきよう”は『無事是貴人』に通じています。『日々是好日』も同じ。毎日毎日が、自然であること。それこそが実は“稀”なことなんです。野の草は野にあってこそ美しい。それは“あるきよう”の心を持った人なら簡単に理解できる。
 最近、皆さんは“不自然”に慣れ過ぎていませんか?“旬”という概念を忘れていませんか?急ぎ過ぎていませんか?毎年毎年、その時が来れば花は咲き、鳥は鳴き、実は実ります。人間も同じ。誰にでも“旬”があります。それを忘れると、その価値が発揮できません。これ以上は何も言いません。今日のネット禅会の前に、“あるべきよう”の価値を考えてください。そして“あるべきよう”こそが“隋縁”の結果であることを。また、“流れ”に従うことが本当の勇気であることを考えてみてください。
慧智(050715)

投稿者 echi : 23:30

野狐禅和尚の辻説法『独釣寒江雪』 №806

時々、茶室や旅館の床の間で見かける山水画の讃にある『独釣寒江雪』は、禅林句集に挙げられた立派な禅語で、「ひとり・つる・かんこう・の・ゆき」と読み、厳冬の中で一人黙々と修行に励む禅僧をイメージさせつつ、如何なる場所でも“修行”とは、他の群れていては“己”との対話が出来ず、聞こえるはずの心底の声も、大自然が語りかけてくる法話も聞き取れないので、切磋琢磨も良いが、夜中に一人で山中に坐す時のように、暁天に「独坐大雄峰」の意味に気付くように、しっかり坐れ、ということだろう。一人で坐る、一人で行脚する。弘法大師ではないが「同行二人」。お遍路は、どんな時でも一人じゃないよ、弘法大師といっしょだよ、一心同体だよ、という方便で、時に挫けそうになる善男善女を勇気つけて居るが、禅では「物我一如」というように、いつだって一人ではなく、“万物と一体”、正に一心同体であり、それを体感することが修行であるゆえに禅宗では教祖を崇めず、教祖は“兄弟子”という位置付け。そして、祖に会って祖を殺し仏に会って仏を殺し、という言葉で表しているように、全ては己との戦い、目指すは己の真の姿である“仏”との一体化で、相対的な目標を持たない故に、禅は孤独な修行と言われるが、実は、禅に孤独は無い。山川草木悉皆成仏、全てが一、一が全てなのである。また、部分が全体であり、全体が部分なのである。故に色不異空、空不異色、色則是空、空則是色、不生不滅、不垢不淨、不増不減・・・・、なのである。
 『独釣寒江雪』、禅会であれ、独参であれ、夜中に一人で大子の山中に坐し、川の流れ、鳥の声、木々の囁きを聞き、月の励ましを受けて星とともに坐るのは、一坐、百坐の価値がある。夜坐は正に“野坐”。7月23・24日の活人禅会では、それを味わってもらおう。
 兎に角、修行は集まれど群れず。俗人には一番辛いかもしれないが“一人”こそ“万人”、万人こそ“一人”を感じ取って欲しいものである。
慧智(050715)

投稿者 echi : 00:43

2005年07月14日

野狐禅和尚の辻説法『究竟窮極 不存軌則』 №805

 『究竟窮極 不存軌則』は、信心銘に登場する一節で、「くぎょうぐごく ふそんきそく」と読む。これから碧巌録の第三則「馬大師不安」の垂示に「大用現前、軌則を存せず。しばらく向上の事の有ることを知らしめんと図る。蓋天蓋地、叉模索不著」とある。多分、失念しているだろうが、類似する表現は禅書には沢山あるだろう。表題の意味は、現代風に言えば『超法規的行動の賞賛』であり、規則をとことん重視する禅宗にあって“超規則”を重視するのは、規則重視を形骸化。目的化せず“手段”と位置付けていることに他ならない。『禅』は、究極的に言えば『生活そのもの』であり、あらゆる呪縛、自縄自縛から己を解放し、常に臨機応変、融通無碍、殺活自在、縦横無尽に生き、生かす“宗たる教え(宗教)”であり、“常識”、定石、形式、前例などという“過去の現在化”であり“未来の現在化”という妄想幻想に縛られず、10年程度の禅の修行をした者であれば、何をやらせても“超・一流”と思える結果を出す。つまり、禅の修行から結果的に身に着く“道力”は驚天動地と言われる所以がある。
 最近の日本を眺めていると、遵法(コンプライアンス)といったり、創造・改革・普及優先(イノベーション)と言ってみたり、統治・管理(ガバナンス)と言ってみたり、リーダーはマネージメント力を重視するという“ありえない”ことを口走ったり、正に“混迷”状態だろう。前出したことを、一瞬にして“止揚(アウフヘーベン)”してしまうのが禅者であり、その境地境涯が『究竟窮極 不存軌則』なのである。故に、絶えず“本質”から発想して動くのが、禅を生活に取り入れ、俗生活と禅を止揚してしまう『活人』が重視すべき心ということが出来る。ここ一番で、“猫を殺す”くらいはコラテラルダメージとして昇華してしまうのが本物の禅者で、木を見て林を見ない禅学者と活人禅者は世界が異なるが、それらも山川草木の部分。皆、互いに手を合わせあう“同志・道士”である。
 俗には『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』という表現があるが、多弁と嘘話で真実を隠し、その場限りを楽しむピーチクパーチクの燕雀が頭に乗り過ぎれば、南泉が猫を一刀両断したのと同じように、世の為、人の為であれば、禅者は何の警告も無く一気に殺してまうだろう。
 つまり、禅者とは“超・自由人”なのである。
慧智(050714)

投稿者 echi : 08:46

2005年07月13日

野狐禅和尚の辻説法『破戒坊主との問答』 №804

 朝、出かけようとすると、知人が“訳アリ”で訪ねてきた、嘗ては“タレント坊主”であった坊主。他愛無い会話があった。真剣といえば真剣、茶番と言えば茶番なのだが、活人諸兄に“何か”を感じ取って欲しいので掲載する。
慧智「久しいな」
其「・・・・」
其「俺は坊主か?」
慧智「不知」
其「エッさんは坊主か」
慧智「其が坊主なら己は坊主ではない。其が坊主で無いなら己は坊主と言われるだろう」
其「坊主とは如何に」
慧智「無」
其「禅とは如何に」
慧智「まあ、上がって茶でも飲めよ」
慧智「ところで坐っているのか」
其「歩いている」
慧智「突き当たったか」
其「突き当たれば、此処には来ない」
慧智「この茶は、高いんだぞ、美味いだろう」
其「もらい物だろう」
慧智「然り、ところで何か土産は持ってきたか」
其「玄関からは入らんで、外に置いてある」
慧智「内は暗いからな。じゃあ、捨ててしまえ」
其「捨てるほどのものでは無い」
慧智「なら、茶碗を洗って、さっさと帰れ!」
其「帰るところは無い」
慧智「行くところが無いのだろう」
其「お前、“坊主”らしくなったな」
慧智「俺は、坊主ではない。お前こそ坊主らしくなったな」
其「解った。やっぱり還俗する」
慧智「それでこそ、禅坊主だろう」
慧智「だったら、その衣を置いてゆけよ」
其「新しいのも良いものだ、これと換えてくれ」
慧智「俺のは、衣より破れの方が大きいぞ」
其「俺には似合う。なんたって破壊(戒ではないのだろう)だからな・・・」
僅か15分で消え失せた。どこから来たか。どこへ行ったか。何とも気分の良い訪問であった。
彼とは10年振り。ここ5年は風の頼りも聞かなかった。元気で何より。屋根の無い寺こそ本当の禅堂なのだ。在家は出家、出家は在家。困った世の中である。
慧智(050713)

投稿者 echi : 16:47

2005年07月12日

野狐禅和尚の辻説法『智者不言(しるものはいわず)』 №803

『智者不言(しるものはいわず)』、只、この一言。しかし、それで済まないのがお節介坊主である。つまり、本物の賢者は口数が少ない、というのだから、少なくとも私は賢者ではない。思い出すに、老子や荘子は、正に、そのように考えていたのだろう。それに追い討ちをかけて「言う者は知らず」とある。真実を知る者は無口。然りである。禅は勿論、老荘思想でも、人知以前の純真素朴を大事にします。つまり意識より潜在意識ということです。潜在意識は38億年に及ぶ先祖の教えが下敷き。昨日今日の浅智慧とは比較にならないほど深遠。つまり、本で覚えたような他人の知のパクリなど、さも其れらしくしても、所詮は借り物。俗に溢れる小利口など論外。正に、「大智は愚の如し」である。
 今日は、初々しい中学1年生の授業。半年前まで小学生に、“仕事”や“進路”の考え方を教えるのは、なかなか難しい。しかし、黙っている訳にはゆかない。そこで、世の中が必要とする人間はどんな人か知っているか?と始めた。皆、ポカン~。次には『働』という文字を解き明かし、目的を持って目標に対して人が動くのを“働く”ということだと版書しながら振り返る。またもポカ~ン。そこで最後に切り札。「僕はね・・・」と、身の上話。少し反応あり。それに味をしめて「ここに君達からの質問があるね。先ずは“これ”に応えよう、と紙を見ると、年収は?、ゲームはするの?、何時間寝るの?、家は何階建て?、大学では何を勉強したの?・・・。思わずニコリ。つい半年前までは小学生なんですね。“聞きたがり”なんです。ということで、45分。中学生の心構えや仕事についての話を織り交ぜ、子供達にも話させながら授業を終えた。そして、フッと、何を聞いてもニコニコしながら、答えなかった祖父の偉大さを思い出した。答えれば考えない。聞かれたら“応える”が“答えない。すると、子供は考えるようになる。そう考えると、学校とは“考えない人間”の製造装置なのかもしれない。説教だって同じだろう。庭を掃いている姿を見せる。そこに利他の心を学ばせる。知識は本で学べるが、智慧は姿からしか学べない。さてさて、今日もネット禅会。さあ、坐ろう。
慧智(050712)

投稿者 echi : 21:19

野狐禅和尚の辻説法『悟了同未悟』 №802

 『悟了同未悟』は、「ごりょうどうみご」と読む場合が多い。意味は、悟り終わって、未だ悟らずに同じ。活人、達人、そして名人。人生の最高峰である“名人”の境涯を表わす言葉で、平たく言えば「菩薩のようでもあり修羅のようでもあり、俗人からは見通すことが出来ないほど大きい人」と言っても良いだろう。老子の道徳経に「大直若曲、大巧若拙、大弁若訥」という一句がある。読みは「大直は曲の若く、大巧は拙の若く、大弁は訥の若し」。意味は「(愚か者からは)真っ直ぐな人は曲がっているように見え、技量に優れたもの人は不器用に見え、雄弁な者は口下手に見える」と解して良いだろう。偉大な者が偉大に見えるようでは未だ、未熟。賢者が賢者に見えるようでは賢者とまでは言えない。何とも趣がある言葉である。確かに、俗の世界では、切れ者が切れ者に見えれば警戒され、卑怯者にバッサリというのは良く有る話。同時に、『三人寄れば文殊の智慧』というが、それは「凡人が三人寄れば文殊の智慧」であり、「愚か者が三人寄れば大戯け」、「賢人が三人寄れば????」
 今日、幾つかの会議があった。人生勉強であった。人生は本当に面白い。イロイロな人がいる。知識が豊富な愚か者。知識や技術は未熟のように見えるが大きな仕事が出来る智慧者。まあ、何れにしろ、「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学べず」を実感した一日だったし、『心眼』を持つ事の大切さを痛感した。
 さて活人諸君。反面教師に学んでいるかな?そして、謙った智慧者、思い上がった愚者は周囲にいないか?喝!!!!!。
 回向返照、他人を評価する閑があれば、己を見つめよ!!!。己の師は己以外に無い。毎日毎日、昨日の己を1ミリでも良いから抜き去ろう。それは『克己(こっき)心』。それこそが『悟了同未悟』ではないだろうか。
慧智(050711)

投稿者 echi : 00:42

2005年07月10日

野狐禅和尚の辻説法『人間は自然の一部』 №801

 人間はロボットではない。つまり自分以外の誰かが、その人生の目的や目標をセットしてくれることはない。しかし、“類”としても使命は、改めて知ることなく、知っている。私は、それを“協働”だと確信している。そして、人間、生まれた以上は必ず死ぬ。それは何故か。過去に囚われ、未来に拘っても、それには意味が無いという大自然の仕組みだろう。となれば、一生を協働の中で過ごすのは間違いない。生まれることで親に生甲斐を与え、成長することで喜びを与え、働く事で仲間に貢献し、老いては仲間の足手間取りにならぬようにして死ぬ。働ける内は長く働く。しかし、長く働くには己の特性を知って活かしていなければ一時期の労働力としかならない。そこで、己を知り、己を活かす道を探る。それを“修行時代”という。修行の結果、“己”を発見し“己の道”を歩む。修行の時間は、個々に異なるだろう。しかし、必ず“道”は拓ける。昔は「四十にして惑わず」と言っていたが、先人の恩恵で、当時の平均寿命の1,5倍が今日。一昔前の四十は今の六十歳だろう。言い換えれば、六十歳からが“本物の人生”なのかもしれない。仮に80年を四季(四期)とすれば、人生の仕上げは60からだろう。
 『無門関』に、「春有百花秋有月、夏有涼風冬雪」とある。自然と己を一体として生きている様子が覗える。苦しい時は苦しめばよい。楽しい時は楽しめば良い。しかし、溺れてはならない。苦しい時にも楽しい時があり、楽しい時にも苦しい時がある。それは心の持ち様。苦も楽も心が作り出す幻想。そのような幻に迷うことなく、一日を一生として淡々と“己の道”を生きる。己の道は、己の強味を活かして協働に参加している道だろう。其の道は必ずや“大道”の一部となっている。己の人生の目的が言葉に出来ずとも、己を見つめて、己の真の強味に出会い、それを活かして協働する。そこには自ずから目標が浮んでくる。それは“昨日より一歩前へ”というものだろう。生を以て貢献し、死を以て貢献する。人生に迷ったら、縁に随って“利他”に徹して全力で生きてみよう。必ず“観得る。心の雲は必ず晴れる。つまり、今を怠惰に過ごすこと勿れ。快楽に溺れること勿れ。時を無駄にすること勿れ。『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』である。そして「一坐七走」、時々は坐り、己を見直してみよう。
昨日はエアコンで快適な研修センターで一晩坐らせて頂いた。講義は走るに似ている。走れば坐り、己を点検する。そして、気付いた。四季を見失いかけている己がいることを。快適に暮らす事は、実は不幸なことだということを。山川草木悉皆成仏。暑い時は暑いように、寒い時は寒いように。自然と一体となって暮らす。それが正しい生き方なんだろう。
慧智(050710)

投稿者 echi : 17:34

2005年07月09日

野狐禅和尚の辻説法『裂古破今』 №800

 『裂古破今』は、「いにしえ・を・さいて・いま・を・やぶる」と読みます。何故か『守破離』に共通する趣を私は感じます。『守破離』は、「規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても もとを忘るな」という短歌の“肝”を表わした3文字。茶道の創始者である千利休の茶道に寄せる精神を伝える"利休百首"の百番目にあります。『規矩(きく)』というのは「きまり」のこと、覚える事です。『作法』とは振る舞いの姿、身に着ける事です。つまり、茶道の“心”である、“もてなす心”を失わなければ、流儀を破り、流派から離れたとしても、それは、それで立派な茶道だ、と言っているのです。『裂古破今』は、「古いといって全面肯定するな、古いといって全面否定するな、新しいといって盲目的に飛びつくな、新しいといって毛嫌いするな」というのが現代的な解釈でしょう。では、どうするか。活人なら心の底から理解している通り、如何なる場合も「先入観を持つな」、囚われるな、拘るな、偏るな、ということであり、古かろうが新しかろうが、本物は本物。偽物は偽物ということでしょう。つまり、『新旧は上手に取り混ぜろ』ということです。言い換えると、科学や技術を盲従するな。宗教や哲学を毛嫌いするな、ともいえるかもしれませんし、若老一如としての登用を考えることを忘れた現代企業社会への警鐘と取る事もできるでしょう。
慧智(050708)

投稿者 echi : 01:01

2005年07月07日

野狐禅和尚の辻説法『迷己逐物』 №799

 『迷己逐物』は「己に迷って物を追(逐)う」と読み、出典は碧巌録第46則の本則にあります。この則は『鏡清雨滴声』という公案で、「外なる刺激の源の全ては、内なる悟りの源」であり、内と外、音と声、頭と心などが分離していては“仏”の本質を体得できない・・・」
 俗世間では、自分の金と会社の金の区別がつかないという最低な者が居ることはしばしばマスコミを賑わしているが、この公案は“そんな”こと比喩としても論ぜず、悟り気付きに必要な“刺激”は内外を分別しない“声なき声、音なき音”に纏わる比喩を用いて修行僧に“一如”を観づかせるものです。それが46則のタイトルで“雨の滴”を何と取るか、に表れています。少し難しいかもしれませんが、『事実に何を学ぶか』を知って欲しい公案です。事実とは“私”が見る、聞くに関わらず現象している全てですが、私が事実と認めるには体験を必要とするのが俗の理解です。つまり、“私”という“我”が体験した事実は、純粋な事実ではないのです。この辺はヨーロッパの哲学(論理学)、言語学などでも探求しているので、多少なりとも哲学をかじった者であれば“一言”あるところでしょう。
 『学び』とは、『迷己逐物』からは得られません。『無心』とは、分別・弁別しない心であり、“先入観”を捨てた心のことです。先入観があるから『迷己逐物』となり『雨滴声』が仏であり、同時に己の心底の声、つまり御説法にならないのです。猫に小判、俗に雨音・・・。
『己以外は皆“我”の師』の心境から歩を進めると『自他一如』であり、『一切皆空』、“無”一字の心境への過程(この表現は野暮)でしょう。地位や金や物の亡者諸君、大事なのは“心”ですよ。家を建てて“家庭”を失う人は意外と多いのですよ。会社を取って人生を失う人も多いのですよ。今日は七夕。星が何を教えてくれるのだろうか。46億年前の宇宙を知る為に彗星を狙い撃ちする程度が“科学の限界”なんです。禅者であれは、報道から“諸行無常”を悟ってしまいます。
降って良し、晴れて良し。雨に学び、星に学ぶ。今日の禅会は楽しみですね。
慧智(050707)

6月30日で個展は終わりました。沢山のご来場に感謝します。

投稿者 echi : 07:09

2005年07月06日

野狐禅和尚の辻説法『不戦国家建設の挑む』 №798

以下の■で始まる文章は、前防衛庁長官 石破 茂 氏の講演「新・国防論・・・いま日本が直面している危機」の要約です。それに対し●で始まる文書は、私の主張です。
なお、講演の目的は、「国の防衛体制」「自衛隊」とは何かを語り、「小泉、石破は米国のポチだ」という国民の声に、「いまは日米安保に頼るしかないではないか!」という主張の根拠を示し、国民に自衛隊の存在を理解をして欲しいほしいということでしょう。

■石破氏の主張:今年、自衛隊が誕生して50年目を迎える。02年9月からまる2年間(729日)、私は防衛庁長官を務めた。「長官として、ぜひやり遂げたい」ものが私にはあった。1つは、「有事法制」をつくること。2つ目は、「ミサイル防衛システム」の構築。北朝鮮などの脅しに屈しないためにも。3つ目は、自衛隊そのものについての考え方を変え、国民の理解を深めたかった。
●慧智の主張:自衛隊を名実共に“不戦”の軍隊として、『地球災害復旧防衛隊』として、日本のための軍隊から世界の軍隊へと返信させ、銃器の代わりに“重機”、銃剣の代わりに“スコップ”、破壊から建設へ、国連以上に国連的な存在、世界最大のNGOとすることに、日本国民がコスト負担を拒否するだろうか?先手必勝という言葉が示すとおり、世界で唯一の不戦・建設憲法を持つ、日本の地球における存在意義を極限までに高めることで“日本を攻撃することは世界を敵にする”というイメージを確立できないだろうか?少なくとも、“攻撃される不安”を払拭するためのコストより、“攻撃されたい安心”に対するコスト負担の方を国民は望んでいるのではないだろおうか?嘗て釈尊の故郷インドのガンジー首相の“無抵抗主義”、つまり根本は“仏教思想”について深く考えても良いのではないだろうか?

■石破氏の主張:いま日本の自衛隊は世界有数の軍事力を備えている。即ち、世界最新鋭の戦闘機(F15)、日米にしかないイージス艦、世界にひけを取らない最新鋭の戦車など有し、年間予算5兆円も使っている「軍隊」だ。が、他の国からいくら脅かされても、出て行ってミサイル基地を叩くことはできない。この50年間、そういう「能力」を持ってはいけないことになっている。
●“持っている”ことは使いたくなる。米国の原爆も同じ。軍事設備の全てをスクラップ&ビルドして、転職が続く建設・建築労働者を中途採用し、5兆円の半分の予算を投入して『地球災害復旧防衛隊』に変身させ、思想信条に区別無く、“国際赤十字”に匹敵する規模と組織で、赤十字を行動を共にする日本の自衛隊基地を変身させた『地球災害復旧防衛隊』とすることは簡単である。何故なら、軍隊の基本機能は“自給自足”だからである。更に、日本の災害対応能力は世界に知られた“個性”であり、資金負担能力も国連以上であることを思い出して欲しい。不戦憲法を思い出してほしい。そして“それ”を一歩進めて“建設”憲法へと進化させて欲しい。

■石破氏の主張:災害時に出動する「困ったときの自衛隊」というイメージを、多くの国民は持っているが、それが本当の仕事なのか? 自衛隊はまぎれもなく、軍隊なのだ。従って、有事法制は一刻も早く成立させる必要がある。20年前、栗栖統幕会議議長が或る週刊誌のインタビューに「有事法制がなければ自衛隊は超法規的に動かざるを得ない」と答えてクビになったことがある。
●慧智の主張:災害出動こそ“本当の仕事”である。防衛とは“敵”から守る事で“敵”は他国である事より“自然”という場合の方が、歴史的にも多い。名称に実体を合わすのか、実体に合わして名称を変更するのか、両方とも考え直すのか。少なくとも“今”のままでは不合理が生じている。現在の自衛隊は軍隊であることに異論は無い。しかし、軍隊は持たないのが日本の世界に向けた宣言である。憲法に合わすのが正論で、実体に憲法を合わすべきなら、駐車違反を違反としないとして、実態に合わして道交法を変えるのと同じだ。そんなことは子供でも解るだろう。クビは当然で、軍法会議にかけて終身刑にすべきだった。

■石破氏の主張:いざ戦争の時、国内法ではダメ。赤信号でいちいち止まるわけにはいかないのだ。有事法がなければ、超法規で動くのは当たり前のこと。が、日本では、「これは戦争準備法案だ」という人があまりにも多い。「そうではない、国民を戦争に巻き込まないための法案である」ことを私は説いた。お蔭で、昨年の国会で自、公、民の圧倒的多数で成立したときは嬉しかった。
●慧智の主張:対症療法は、薬と毒という両義性から逃れることは出来ない。世界が戦争準備法だと考えるのは世界の常識である。さらに、本当に日本の国民を戦争に巻き込みたくないなら『永世中立宣言』と『地球災害復旧隊』を第九条に加え、日本語から“戦争”という概念を捨てる国際活動をすることが、『守りという攻め』に注力するのではなく、『攻めという守り』への意識変革が重要だ。“いざ戦争”という恐怖マーケティングの手法で国民を騙すのではなく、健康と平和(和平ではない)維持のために国際法に新たな根拠を与え、有事法は“地球災害法”にすべきで、与野党議員が賛成したのは、対象療法しか知らない無智が根底にあるからだ。慶ぶのは石破壊氏が“邪心の固まり”である証拠だ。

■石破氏の主張:20年前と、時代は確かに変わっていた。が、「そうは言うけど、戦争は起るの?」と言う人は、いまも少なくない。事実、戦後60年を経て、日本は一回の戦争もしていない。世界的に見ても大規模な戦争はなかった。人類史上、珍しい時代だったと言える。が、これは米ソの軍事力が拮抗して生まれた「冷戦期」という稀有の時代であり、その恩恵だったと私は思う。
●慧智の主張:石破氏の考えは、間違いである。木を見て林を見ていないし、人間を知らない。戦争が無かったのは偶然ではなく、“悲惨さ”の教訓が薄れていなかったのであり、それだけ第一次、第二次に続いた地域戦争に経済合理性が無い事を知ったからである。決定論でしか考えられない過去だけを見る“先例前例主義者”には永遠に“平和”の意味が解らないだろう。次元を落として発言しても、戦争の死亡者より、自然死、災害死の方が圧倒的に多いし、軍人はもっとも安全な職業とアメリカですら言っている。

■石破氏の主張:ベルリンの壁が崩壊し、その冷戦は終った。自由主義のイデオロギーが共産主義に勝ったということ。「もうこれで世界は平和になる」と錯覚した人も多くいた。が、間もなく湾岸戦争が勃発。その原因は宗教であり領土問題だった。ソ連を下した米国の一極支配が強くなってきたと思ったら、「9.11テロ」が起った。いつどこから攻撃されるかわからない時代となった。
●慧智の主張:共産主義に自由主義が勝ったというのは事実誤認。本来の共産主義は未だ到来していない。政治思想と経済思想をゴチャ混ぜにして国民を騙すのは止めて欲しい。快楽社会主義が禁欲社会主義に優位した結果が“ベルリンの壁崩壊”である。
“宗教”に責任転嫁するのは石破氏は卑怯者である。正しくは“一神教”という独裁主義の原点が原因であり、“仏教は神を持たない”、つまり、人間全てが“仏”という根本教義で、歴史的にも“無神論仏教”は、戦争の被害者になっても戦争には関わったことはない。日本で“宗教”という言葉を使う場合は“仏教”を示していることを忘れないで欲しい。
繰り返すが、“唯一の神”というから戦争が起きるし、それを一神教は求心力として布教していることを考えてみれば解るはず。今の発言は、余りにも無智。

■石破氏の主張:テロの時代に入ると、安全保障の考え方も変える必要がある。テロの特徴は「自由と民主主義(話し合い)の否定」。我々はこれと対峙していかねばならない。が、日本国憲法は、その前文で謂う「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高の理念と・・・」、まさに性善説だ。このような環境下で我々安全保障を担当する者は、性善説に立つことはできない。
●慧智の主張:その発言は、事実誤認であり、人間を知らなさ過ぎる。テロというカタカナを使わずに日本語で『宣戦布告なき攻撃』と言い、それは公正では無いなんて強者アメリカの価値感だ。弱者は宣戦布告などというコストを払っていては戦闘に勝てない。
性善説と性悪説の意味を知らないのか。善悪一如を説いている。善と決め付ける、悪と決め付けるから対立が生まれる、孔子・孟子を読み直して欲しい。憲法前文を誰が作ろうが、時代がたとうが、表現された事実・真意に誤りは無い。崇高の理念の何が悪いのだ。世界平和の為に、積極的に死ぬという志に繋がる前文の何が悪い。安全と危険は、紙の両面である。状況を読む心である。石破氏は童話から読み直した良い。北風は旅人のコートを脱がせたか?“安全”とは“安らかな心”を持てる物理的状態であり、安心は“安全を感じられる心理的状況である。戦争マニアに平和や安心は理解できないだろう。

■石破氏の主張:また、楽観的にものごとを考えることも禁物だ。ケネディ大統領が防衛予算を増やすとき、野党の批判に答えていわく「多いかも知れない。が、私は合衆国大統領として、国民をギャンブルに賭けるわけにはいかないのだ!」。私たちはギャンブラーではない。何ができて、何ができないか・・・を、きちっと考えていかねばならない。そのために自衛隊というものがある。
●慧智の主張:石破氏は、心と体を分離した二元論者で、『体の安全が心の安心に通じる』という、歪んだ楽観論である。それとも歪んだ悲観論者なのだろうか?国民に恐怖心を煽り、安心感を与えられなければ政治家ではないし、アメリカ一神教独裁性悪説国家の国民感情と、八百万神仏合掌生善説国家の国民感情は違う。キリストは迫害を恨んで殺された。釈尊は慈悲に喜んで病死した。その違いから勉強をすべきだ。貴方こそ自己認識が足りない。貴方は、明らかに株式投資家のような戦略的ギャンブラーであり、コツコツと溜める郵貯派でないことは解る。そして、自衛隊は、形と名称と心を変えて“あるべき存在”だ。

■石破氏の主張:自衛隊の歴史は複雑だ。50年前、警察予備隊として呱々の声をあげた。朝鮮動乱が勃発、米軍に代わって共産革命から日本を守るのがその使命。昭和27年に保安庁になり、同29年に自衛隊になった。このとき、初めて「わが国の独立を守るため」という言葉が出てくる。「国の秩序を守るのが警察で、国の独立を守るのが自衛隊」という概念がはっきりしたわけだ。
●慧智の主張:歴史認識に異論は無いが、何故、“木を見て林を見ず”以下の観点しか持てないのだろうか?恰も“葉を見て、木を見ず、林や森など概念すら無い”という心の狭さを自覚できていないのが怖い。過去に拘らず、稚拙な頭で考えられる程度のリスクに囚われ、競争大好きという偏った考えに気付いて欲しい。“国”ではなく守るべきは“国民”だろう。国とは“政権”であり、石破氏は利己主義である。利他の心に気付いて欲しい。貴方だって“菩薩”なんだから。菩薩である事に気が着けば『国民を守り、人類を守り、生命を守り、環境を守る』のが、人間であるあなたの使命だ。小学生の国語の授業に出て勉強し直したら良いだろう。政治家は、あなたのようなモノローグに呆れている。必要なのは対話、ダイアローグであり、頭に用意された原稿を読むような議論も出来ない“話下手”に人間は語れない。根本で有る国語から勉強し直すべきですね。

■石破氏の主張:いま、弾道弾ミサイルがいつ飛んでくるかわからない時代になった。現に、工作船が日本海域で巡視船と銃撃戦を行っている。拉致問題も「日本の独立を守る」に関わる問題だ。北朝鮮の核実験は本当に心配な事項としてあがっている。中国と台湾の情勢も緊迫している。長い間、平和を享受した日本人だが、いまいろんな「有事」を、考えなければならなくなった。
●慧智の主張:あなたは以前、一人の命は地球より重い、という発言をしたのを忘れたのか。文学的な表現で国民を騙さないで欲しい。貴方の言う“日本の独立”とは、政権維持を言っているとしか思えない。あなたは“日本人を守り、人類を守り、環境を守るべき政治家である。北朝鮮が攻撃してきたら、あなたは逃げるだろう。しかし、我々僧侶は“盾”になる。我々僧侶が死に絶えるまでに世界に平和を訴えれば良い。平和建設のための犠牲にならなるという志を持つ日本人は少なくない。日本人の心を自覚して欲しい。それより、自衛隊をNGOにして、壊されても恨まず、殺されても報復せず、只管に“建設”しようよ。

■石破の主張:米国とソ連が対峙していた頃は、空白をつくらないための防衛力程度でよかった。が、これからはそうはいかない。そこで昨年、「防衛計画大綱」を見直し、機能的、実効的な防衛力に変えた。即ち、一機100億円もするF15戦闘機を200機、10億円もする世界最高値の9マル式戦車、イージス艦・・・これらをどう活用するか、今後、本格的に考えるようにしたのだ。
●慧智の主張:“戦争オタク”の発言には、返す言葉も無い。対症療法しか知らないアダルト・チルドレンに国民の安全を守れるだろうか?そんな戦争が好きなら、北の金さんと刺し違えれば良いだろう。小泉氏も会談の時に刺し違える勇気があれば、国連に銅像が建ったはずだ。しかもコストはかからない。ミサイルで反撃されたら、世界中を敵にすることになる。それが最小の犠牲で最大の効果だ。そのために税金を生活しているのだろう。

■石破氏の主張:「陸・海(陸軍対海軍)全力をあげて戦い、余力をもって英米に当たる」と揶揄されたほど日本の軍隊は統一性に欠けた。これは自衛隊としても要注意だ。今後はどうするか? やはり核の問題がある以上、「日米安保」に以外に選択肢はない。自衛隊をイラクに送ったのは、石油確保が最大の目的だが、同盟国の米国が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかなかった。
●慧智の主張:石破氏を代表とする政治家は、自分の1000万円の年金を欲しいがために、国家に100億円を損させるような狭い根性しかないのか?。一事が万事、稚拙で、公私の分離が出来ない人間が政権を握り、論客と言われているのは呆れて物が言えない。せめて中学生レベルの人間観、世界観を持って欲しい。

■石破の主張:03年12月24日、航空自衛官に初のイラク派遣命令を出した私は、20代の隊員を前に「なぜいま自衛隊が重要なのか」を懇々と説いた。或る隊員が私に言う「自分が行かなければいけないことが、よくわかりました。一番、嬉しいクリスマス・イブになりました」。平和と自由の国を守るため、身を挺して国民の負託に応えようとする自衛官の姿を知って頂きたい。
●慧智の主張:将が将なら、兵も兵。隔絶した環境でのマインドコントロールは、オオム以上だ。何時から拝金教、ハゲタカ教の教祖になったんだろう。
 一切の先入観を捨て、物事の本質を見ようという努力はして欲しい。3流の国民には3流の政治家、3流の軍人が似合うのだろう。教育経済学の定説から考えると、政治家が成長すれば、国民も成長し、軍人も成長する。それを肝に銘じて活動して欲しい。
口“アングリ”の慧智(050706)
蛇足:呆れた国会、呆れた政治家、そろそろ60年、70年を思い出して、今一度、国会前に雲水姿で座り込む時期かもしれない。

投稿者 echi : 07:05

2005年07月05日

野狐禅和尚の辻説法『坐一走七』 №797

 『坐一走七』は、「ざ・いち・そう・しち」と読みます。意味は、文字通り。七回走ったら一回は坐る、ということです。この言葉は、古来から『酔生夢死(すいせいむし)』という、目的も目標も見えずに無我夢中、闇雲に走っているような生き方を諌めています。確かに、我々現代人は、世界・社会の大きな流れに流され、本来の己を忘れ、何が何だか解らないまま、皆が走るので、自分も走るといったように、働いていることが多いようです。そんな生き方に対し、七回走ったら一回は坐れ。つまり、人生の方向性を大きく逸脱することの無いように、時には心静かに座りなさいということです。坐る、即ち己を見つめる。走っている時は、転ばないように、ぶつからないように外を見ていますね。ですから、内を見ていないのです。内を見ている時は外は見ていないのです。理想は、心を見ながら足下を見て、ゆったりと着実に歩くことです。しかし、現実的には“走らなければならない”のも事実でしょう。そこで、俗世間で『坐一走七』、満足な生き方とは言えないが、不満とまでは言えない生き方にするためにも、走れば坐る。ネット禅会の思想です。一日を一生として多くの活人は走っているでしょう。ですから、一日に一回は禅僧のように坐ろうというものです。
今晩のネット禅会では、坐を組んで、中国風喫茶を楽しみましょう。耐熱ガラスのコップに茶葉(家庭で普通に飲んでいる緑茶で良い)をティースプーンに半分くらいの量を入れ、6-70度の湯を三分の二程度入れ、茶の成分を出すようにコップを揺すりましょう。暫らく揺すってから目の前におきましょう。そして眺めましょう。只管、眺めてください。コップから目を離さないでください。そして、湯が落ち着き、茶葉が沈んでも、10分間は目を離さずに眺めてください。10分したら、さあ、“喫茶去”、まあ、飲んで下さい。温度も味も飲み頃です。そして、湯や茶葉のように動いていた一日が静まったはずです。コップや茶葉、そして喫茶から何を学びましたか?『坐一走七』が解りましたか?
慧智(050705)

投稿者 echi : 03:07

2005年07月02日

野狐禅和尚の辻説法『贖罪の山羊』 №795

 “贖罪の山羊”は一般的には“スケープゴート”として一般化している概念で、キリスト教の聖書に出典をみることが出来る。元来の意味は、民衆の不平や不満を他に逸らすための身代り、を指すが、その方法論である「政権にある者が、社会的統合を維持するために、自己の責任で生じた問題の原因を、社会的弱者や政治的小集団に起因するかのような幻想をつくりあげ、自己の利益を守る技術」でもある。この話から、東アジアの権力者を連想する人が多いだろう。勿論、このような話は身近にも溢れている。つい最近も地方の素材メーカーとしてそこそこの地位にあった会社の社長が経営改革を断行しようとしたところ、利権を一人で貪っていた社員や反主流は関係者が結託し、社長を“スケープゴート”にして追放し、経営権をまんまとせしめたが、その後、経営権を奪った者達に、スケープゴートの排除という共通目標が完了するや、其々の思惑の違いから徐々に結束を弱め、最近では内部崩壊が生じ、企業業績は更に悪化し、いまや、新たなスケープゴートを反乱軍の中で新たに見つけようとしている、と風の便りで聞きましたが、まるで、“バトルロワイアル”。まあ、似たような話は昨今は余りにも多く、嘆かわしい限りです。
 さて、贖罪の山羊を必要とするのは“執着”、“固執”、“我執”・・・と表現される“偏った心”であり、物事の本質を観ることの出来ない無智・無明であり、翻って言えば、正に『苦』の原因である“先入観”を捨てきれない貧しい心があるからです。バトルロアイアルのように、10人の弱者が暗黙的な同意から先ずは一番強い者を狙い撃ちに、次々と同じ事を繰り返し、最後に残った2人が最後の戦いをするので、9番目に弱い者が最後の勝利を得るというのが一般的なストーリーですが、その間の其々の思惑や評価の異なりから、方程式自体は確定論なのですが、結果は不確実性論理が展開され、多くの場合“そして誰もいなくなった”ということになります。つまり、玉石混交のこの世界は正に諸行無常であり、如何なる“下心”も、それが“有心”である限り、現実化する可能性は低いのです。
 この説法を読んで頂いている方ならお解りでしょうが、『玉石一如』と考えると、時間の関係で栄枯盛衰はあるでしょうが、最後は“あるべきよう”に納まりが着くのです。ですから、大事なことは、下手な分別を捨て、今、此処を全てとして全力で生き、如何なる結果も受け入れ、“知足”を心がけることです。人間本来無一物。下衆な争いに巻き込まれ、『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』を常に心して生きることが大事なのです。それには“無対立・無犠牲・自主独立”の心がけが大事なのです。因縁果ですが、どこかで過去の因縁を断ち切らなければ、新しい明日は来ないのです。
慧智(050702)

投稿者 echi : 17:01

2005年06月30日

野狐禅和尚の辻説法『常行一直心』 №793

 「常に一直進(じきしん)を行(ぎょう)ず」と読み、六祖壇経の言葉です。意味は読んで字の如し。“どんな事でもどんな時でも直心(直向な心)で励め”という意味です。流す、適当にやる、そこそこにする、ボチボチでんな・・・・日常には手抜きを肯定するような言葉が多い。また、『過ぎたるは及ばざるが如し』という表現もある。さて、どういう意味だろう。我々の行為は何事にも“目的”がある。その目的が大きければ、通過点に“目標”を置いて、目的が振れないようにする。つまり、目標は目的ではないし、目的は目標ではない。表題の『常行一直心』は、“常行”とある以上“目的”達成の心を表わしている。
 先日、受験を前にした高校3年生に『受験の心構え』について話した。その時のこと、一人の生徒が「先生、人生の目的なんて解らない。それより大学受験をどうすれば突破できるかを話して欲しい」と言われた。そこで「君は大学に入る事が目的なの?」と聞くと、「勿論」と返事が返ってきた。「では大学で何をするの?」というと「入ってから考えるんだよな~」と他の生徒に同意を求めた。「では、受験する大学や学部はどうやって決めたの?」と聞くと、「偏差値」という返事。・・・・。正直、彼の論理は全く理解できなかった。しかし、彼の入試に対する必死さは理解できた。問題は“そこ”にある。簡単に言えば「入れそうな大学で一番のブランド校」に入りたいので、自分の得意を見つめ、将来を見つめ、将来の仕事に必要な知識や人間関係を獲得する為に学部や学校を選んでいないことだ。正直、受験だけを突破するのは簡単である。しかし、“簡単さ”が解るには“その学部”に精通しなければならない。精通する為には“その学部”が好きでなければならない。好きであれば“肝”は見えてくる。肝が見えれば、出題の傾向は自ずから解る。つまり、学部で必要な基礎の基礎が出題されるのが“入学者選考試験”なのだ。つまり、目的から大目標、中目標、小目標と落とし込んだ結果で学部や大学を選ぶことが、入試を突破するために最も合理的なのである。翻って言えば、「自分はこんな仕事をして、こんな人生を送る」と聞ける事が、合格の肝なのだ、と教えた。ところが、理解できないようであった。海外へでようとしなければパスポートは要らないし、車を運転しなければ運転免許は要らない。何とも不思議な生徒であった。その後、校長と懇談すると「今の生徒は皆、そんなものですね」と。「我々も、人生なんと教えられないし、それは自分で考えることで学校の役割だとは思いませんね」と。疲れた。何かが狂っている。そう、子供達に“大志”が無い。『大志を抱いて大志に拘らず、囚われず、常行一直心、縁に随え』と祖父に叩き込まれた。今更ながら、在り難さを実感した。今度は私が偉大な“祖父”になろ。それしか考えられなかった。
慧智(050630)

投稿者 echi : 00:40

2005年06月29日

野狐禅和尚の辻説法『仏性と法性』 №792

 『長者長法身 短者短法身』という言葉を知っていますか?これは意外と知られていませんが、仏教の根本教義を知るうえで大事な言葉です。元来、仏教の宇宙観では、「山川草木悉有仏性と言って、全ての現に仏性が宿り、物我一如ではあるが、人間に宿る宇宙原理を仏性、人間以外に宿る宇宙原理を法性といい、全ての存在・現象は、“それ自身、そのまま”で円満と考えています。この根本教義、真理から、背の高い者は背の高いままで立派な仏であり、低い者は低いままで立派な仏という意味から『長者長法身 短者短法身』という表現が使われます。それを解釈すれば「不可分不可同」であり、現象には例外なく仏性法性が宿るのだから、全ては“一の如し”であり、男女、貴賎、老若・・・・を差別区別せずに、それぞれの“個性”を歪めることなく“活かす”ことが大事であると説いています。竹は竹で立派、松は松で立派・・・。つまり森羅万象は“あるがまま”である事が“個性的”であり、本来本性、仏性法性を活かしているのが完成されている状態として尊び、己を分別し、己以外を分別して他の個性を真似るような自己否定を問題視します。ですから、どんな状態でも、それが自然≒仏性であるのが根本ですか、自己否定をする人も、その状態が織り込まれた個性なので、それはそれで立派ということになります。
 つまり、人間が“己を知る”という場合、その根本は“仏性”であり“無個性”なのですが、仏性の見え方(報身)、機能作用(化身)、それらが統合された姿(如)を法身により『個性』があると考えています。
 そして、無個性(無差別)である本質を知って、現象している個性を活かし、他を活かしている者を『活人』と呼んでいます。ですから活人の目で世の中を観れば、好嫌、賢愚、損得、美醜、強弱、男女・・・・の差別は全く無いのです。ですから、活人の修行レベルを自己診断するには、嘗て“我”ゆえに好きだ嫌いだ、怖いだ可愛いだと差別していたものが薄らぎ、無くなっているかをチェックすることです。お解りかな?KKさん。
慧智(050628)

投稿者 echi : 04:21

2005年06月28日

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

 “主”という文字は、燭台の上に置かれた灯火を描いた象形文字。文字をジット見ていると、土や台の上の平皿が炎を上げる様子とも思える。今日の一日は東奔西走、気温は30度超え、湿度は80%であった。今日は公立学校の教員・管理職に“経営と管理”、教育の心についてお話をする予定。その他重要な会見などがいくつもあり、昨夜からメールの返信、原稿書き、今日の講演のレジメ作り、**法人の申請書類作成、**法人の事業説明書・・・と寝る時間は無かった。『忙』という文字は“心を亡くす”という事態で、『主』となっていない事の証、と早朝のおつとめの後、坐禅をしていると蝋燭の灯(火)が『随所作主 立処皆真』、随所に主となれば、りっしょ、皆、真なり」という臨済録の示衆にある偈が心を過ぎった。臨済大和尚は私の中では生きているし、私の外でも生きている。そして『生死一如』を示してくれている。和尚の『主』の解釈は、主体性があるとか、悟っているとか、そんな訳のわからない意味で使っているのでは『自然の其処に在る』と意味だろう。禅の心は“計らいの心を捨てる事”、今・此処で全ての事実を事実として全面的に受け止める“野の草”のような在り方を真実の生き方として捕らえている。その心が体に表れれば“無事”、心は“平常”。臨済和尚の心を解釈した大応国師は「立処皆真なれば、方に随って主となる」というのがある。意味は、真(理)は、固定されたものではなく縁に随い変化するので、今・此処の一瞬一瞬が真実の場であり、場が真実」といことだろう。
それを受けて、小衲が思うに「全力で生き切っている今・此処こそ真理の具現であり、そこ、それは自ずから然るべくある」。どんな処でもどんな状態でも、それらをドンと受け止め自然体で生きているのが“主”なのだ。主となってい生きるには難行苦行など不要。今・此処を無批判に受け止めて、気張らずに全力を出し切って生きるだけのこと。
 そろそろ外出時間なので筆を置くが、今日も『日々是好日、随所作主 立処皆真、無事是貴人、松樹千年翠』と行こう。
慧智(050628)

投稿者 echi : 07:51

2005年06月26日

野狐禅和尚の辻説法『身土不二(しんどふじ)』 №790

 朝は粥、昼は一汁一菜、夜は雑炊。これが修行僧の日常食。その上、全ては自給自足、とは言っても托鉢で米などは頂いてくる。自給自足も、畑で作る以外に寺周辺の山野を歩き野草を摘み、根を掘ってくる。正に「菜根譚」そのもの。Roots & Leaves Story、Equal Life & Nature. 最近の表現ではスローライフだろう。その心が、身土不二。物我一如の心である。「不許葷辛酒肉入山門」、くんしん・しゅにく・さんもん・に・いる・を・ゆるさず、とは言え、草木も生命であることにかわりはない。山川草木悉有仏性である。つまり、命は、他の命を殺生してしか生きられないという宿命がある。それ故に、最低限を守り、感謝と謝罪の気持ちを忘れない故、食事の前後には“偈”を唱える。
 ファーストフードとスローライフが対峙するなら、スローライフはファーストライフ(生き急ぎ)と対峙しているのだろう。
禅の生き方は『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』を“板”に書いて、毎日毎日、心に刻み込む。「生死、即ち日常は常ならず、過去も無く、未来も無く、一瞬一瞬が連続するのが日常ゆえ、一瞬たりとも無駄にすることなく、時の流れに遅れをとるな」というニュアンスだ。即ち、「急ぐなよ、でも遅れるな、ゆっくりな」ということか、“自然体”、自ずから然るべく在れ、ということ。スローライフやスローフーズが、ノンビリ生きろ、ユックリ作れという今風とは些か違いがあるだろう。禅寺の修行僧は走り、動中の静を知る。そして黙して坐り、静中の動を知る。そして何時しか『静動一如』、『心身一如』、『物我一如』、となる。『身土不二』、重みのある表現である。
食糧需給率が50%を下回り、起業創業して淡々と企業活動をしてゆくことが軽視され、M&Aというハゲタカ流が世のトレンドだが、一方で、それに嫌気がさした団塊世代が大量に退職する時期が到来しはじめ、スローライフが農業、林業、漁業、ノンビリ旅行を連想させるらしく、退職後のセカンダリーライフでは“スローライフ”を目指しているようだが、少々軽薄ではないか、と感じている。機会があれば、第二の人生、後悔することにない半生とするためにも、一度は立ち止まり、心の声をしっかりと聞いてから動いても遅くは無いだろう。それがファーストからスローへの転換なのではないだろうか。それには一時、『坐禅と作務』に励むことが大切だろう。
慧智(050626)

投稿者 echi : 19:47

野狐禅和尚の辻説法『把手共行(はしゅきょうこう)』 №789

 この禅語は、無門関第一則『趙宗狗子』に対する無門和尚の評語を出典とするとあって、余りにも有名であり、しばしば表現を替えて多くの公案、書物に引用されている。
『賊知賊』の項で書いたと思うが、“賊”同士は、その究極の目的を無言で共有し、釈尊が、達磨が、その目で見て、その耳で聞き、その全身で感じたものと同じ心象風景を得て、共に、“無”の体得を目指して大道を歩む。そこには切磋琢磨はあれど、競争など無い。あるのは“己という幻想”との戦い。二項対立、二律背反という幻想にみが敵となる。「犬にも仏性があるか」、“無”と応えようが、“有”と応えようが、表現された言葉に意味は無い。“有無”を超えた本来の面目世界、言葉が生まれた20万年前以前、AはAではなくAと呼ばれ出した時を超えて観れば解る世界を体得する。更には行住坐臥と大自然を分離してしまう以前、父母未生以前の本来の面目と一体化し、不可分不可同を知り、無対立・無犠牲・自主独立を知り、我執の幻想からの脱却を体得します。その時、何を観るのか。正に“把手共行”の世界なのである。
去ること35年。学費を稼ぐために“フーバー潜水”で水中写真のアルバイトをしていた時、館山沖で無心に仕事をした時、過去も未来も、水中も陸上も、そして“己”も、全てが一つに溶け込んでいるという体験をした。酸欠でも、常軌を逸していた訳でもなく、たぶん、己が己という生命を意識する以前とでもいようか、生命以前の“記憶”が蘇ったような気になったことがあった。それは幻想では無い。厳しい訓練の果てに潜水士免許(厚生労働省の認定資格)、港湾潜水技士資格(社:日本潜水協会認定)という資格を得ていたし、すべき仕事も全て完了させていた。有る意味で“不思議”な体験だったが、その時、『把手共行』という言葉が脳裏に浮び、言葉と自然が体に染み込み、共に仕事をしていたバディと己の区別が消え失せ一体化したのを体験した。
最近、スキューバ、スクーバという遊びが流行っており、二人を一組をして“一つの命”として海中散歩を楽しむ者達が多いが、時として自己が起る。今日も、知人から知人がダイビング中の事故で肺を潰してしまったことを聞いた。仕事なら止むを得ないが“遊び”でも事故とは残念。因果一如。善因善果、悪因悪果。安全が安全を生む。バディが一つの心、一つの体とならずに危険を遊ぶなど考えられない。
夏、それは心身に油断が生まれる時期。遊びも結構だが、“把手共行”を感じられるような“修行”も必要だろう。もう直ぐ“雨安居、夏安居”、とことん坐る。公案と心身を一体化する、禅宗では臘八大接心に次ぐチャレンジャブルな時期となるが、今年はどのくらいの雲水が悟るのだろう。そんな思いを巡らしながら、山梨での山作務から戻った。
慧智(050626)

投稿者 echi : 15:47

2005年06月25日

野狐禅和尚の辻説法『尋常茶飯(じんじょう・の・さはん)』 №788

 僧堂10年は中途半端な修行歴だが、坐禅と公案の日々は“禅脳思考”という貧弱な脳を完全に使い切る訓練となった。しばしば、人間は脳の能力の20%以内しか使っていないと言われる。ところが、10年程度の僧堂修業をした禅坊主は、私の感覚で、一般の人の脳の活用量の2倍は使っていると思える。その原因というか結果というかは別にして『公案』は、賢愚一如に成り切らなければ透関できない。私は“それ”を禅脳思考と名付けている。水平思考と垂直思考を止揚した空間思考とでも言うものだ。一を知って十を知り百に活かせると言ってもいいだろう。常識人の多くが習慣的に行なっている垂直思考、発想が豊かとか創造力があると言われるアントレプレナー型の思考法である水平思考、そしてそれら二次元思考を超える三次元思考である立体思考。禅脳思考はそれに時間を加えて乗り越えてしまう四次元思考とでも言えるだろう。それを一言で表現しているのが、表題の『尋常茶飯』という言葉で、誰にでもある日常の事実に接して瞬間的に事実の背後にある法則性や真理を見抜き、それを一転語という『言中有響(ごんちゅう・に・ひびき・あり)』の短く単純だが言葉の中に言葉以外の妙意を持たせた短文(教訓のような表現)に表わし、そして、即其れに成り切る。正に達磨大和尚の二入四行の実践が“自然”に出来るようになっている。繰り返しになるが、一を知って百を知り千に活かすのは“朝飯前”という事。ローコスト・ハイパフォーマンスとは正に“禅脳思考”の為せる業。もっと今流に言えば、ファミコン並のCPUでスパコンのCPUをも凌ぐ“スーパーソフト『THE ZEN-KNOW』とでも言える。蛇足だが、スパコンにzen-knowソフトが乗っているのような人が“高僧”。
 活人禅会では、その“禅脳思考”を体得して頂いている。一つの事実から真理や法則性を発見し、それを最小限の記憶容量でハードディスクに記憶させ、それに無数のシナップスを付けて、汎用性のある知識ユニットとしてしまい、瞬間にテストランさせ、ニューロンの結束をしてしまうのである。勿論、その方法は“坐禅”と“作務”以外には無い。
 禅は“悟り”である。悟りとは“真理”の実感である。真理とは一切皆空である。一切皆空とは、全ては一瞬の現象であるということ。故に一瞬の現象に150億年を観る事が出来るのである。
■:林檎が落ちるのを見た・・・出会った事実
◆:全ての物体は大に小が引き寄せられる。・・・・その瞬間の閃き(悟り)
●:万有引力、人同士も引き合う。・・・・一転語
★:私は、引き合う力を増幅している人間である。・・・行動
終りに、禅脳思考、別に工夫無し。
以上が、今日、数年ぶりにお尋ね頂いた店舗開発の日本有数のエキスパートとお話している最中に、自分でも気付かぬまま潜在意識がパラレル処理していた内容で、NET禅会が終わると、無意識にキーボードの上を指が走った結果で、これが禅脳思考なのだ。
慧智(050625)

投稿者 echi : 15:42

2005年06月24日

野狐禅和尚の辻説法『別無工夫(べつ・に・くふう・なし)』 №787

 この語は、『正念工夫、不断相続』を強く要求する“公案”の心構えに一見して反していると思われる夢窓疎石和尚(相国寺開山)の言葉です。禅が一般の方に理解され難いのはこの辺にあるのです。私が方便の混乱として時々使う川柳に「頑張れよ でも無理するな 遅れるな」とか、そのバリエーションで「無理するな でも頑張れよ 遅れるな」、更には「遅れるな でも無理するな 頑張れよ」・・・・、一体どうすれば良いのか。それは簡単。他人の言葉に迷わされるな、という事です。夢窓疎石和尚は「日々工夫せよ しかし特別な工夫は無い」というのは、日常的な行い(修行)をしていれば、公案を頂いたとしても特段の気張りなど要らないはず、と言っているのです。言い換えれば、一日一日を一生として生き切っている者は瞬間瞬間が工夫三昧なので、特別な事など無いということ。正に日常に全てが現象しているということ。『日々是好日』『無事是貴人』『万般存此道』に通じているのです。
 さて、学生であれば中間試験だ、期末試験だと徹夜騒ぎをするし、企業人であれば企画会議だ、予算会議だ、決算会議と、それが恰も特別な事、非日常としてバタバタする。実に嘆かわしい。今日出来る事を明日に延ばさなければ、如何なる日でも“日常”である。特別な工夫など不要。つまり、夢窓疎石和尚の言葉通りである。
 昨日の高校の生徒からメールをもらった。就職試験には“どんな勉強がいるか”という内容。その応えが『別無工夫』である。特別な事は必要ない。一日一日を完全燃焼していれば、特別な事は何も要らない。解ったね。今日という日は一生で一回しかない。
『論語の学而第一』は、
『子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不温、不亦君子乎。』
子(し)曰(のたま)わく、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う、
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠方(えんぽう)より来(き)たる有(あ)り、亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(うら)みず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
孔子云う、
「学んだことを繰返し実践していると、自然に身について来る。これは何とも嬉しいことだ。
志を同じくする友が遠くから訪ねて来て、一瞬の内に意気投合する。これは何とも楽しいことではないか。人目や成果など気にせず、只管に励む。これは何とも立派なことではないか」と。
学生君、下心など持たずに毎日を全力で生き切れ。それ以外に人生が満ち足りたものにする方法は無い。
慧智(050624)

投稿者 echi : 12:17

2005年06月23日

野狐禅和尚の辻説法『驢年(ろねん)』 №786

子丑寅・・午未・・犬亥、『驢馬』という歳は干支には無い。そこで、“当てにならない”ということを禅寺では言う。
今日の説法は千葉の高校。50人ばかりの来年は就職という形で社会に巣立つ若者である。しっかりと聞いてくれた者。寝ていた者。様々である。
“社会が必要とする人間とは”について話した。結論は『当てになる人間』。どこの世界でも同じ。改めて話す事でも無い。しかし、現実は、お寒い。今の日本には“当てにならない人間”が多すぎる。当てにすることの良し悪しは別にして、この世界を一人で生きれる者はいない。つまり社会とは“相互補完”なのである。言い換えると、一人一人が請け負う役割がある。請け負う役割は、一人一人違う。それが“個性”なのである。悟りは諸法無我を体得することであるが、『無我』への道の一里塚は『有我』だろう。捨てるべき“我”は“我”の正体を知らなければならない。“我”とは“仮の主”である。つまり、己を認識することであり、それは己自身の強味・弱味を知ることである。そして“強味”を活かして、他に貢献することである。強味を活かして利他に生き切る。それが“無我”である。
高校生には“当てになる人間”であれ、と力説した。何でも良いから得意を発揮して生きろと話した。出来る事から始める。出来る事は成功する。成功は向上心に結びつく。そして更なる成功を産む。振り返ると“それ”が好きなこととなっている。そして、それが“すべき事”と気付く。そして、それを意識せず、当然の事として生きる。“当てになる人間”の完成である。この当たり前の事が解らない者が“驢馬歳生まれ”なのである。
多くの高校生は“好きな事”に魅了されている。好きな事では無いから、出来る事でもしない。それが“ニート”である。我々は38億年を生きて居る。それはDNAという過去帳に記録されている。要らぬ人間なら“今・此処”に居る訳が無い。つまり、人間は“何らか”で“当てになる存在”なのだ。
さて、あなたは“当てになる人間”という自覚があるか。それが『自利利他』である。『自利利他』とは、WIN-WINの関係を言う。勝ち負けの世界の対極である。人間に“勝ち組”や“負け組”は本来は無い。随所で主となる主人公ばかりである。それは、己を知って、己を活かし、己を捨てて、己を生き切ることである。それは“無我”という完成された人間の生き方である。
蛇足だが、金や快楽を追う者は一生涯、金や快楽で苦しむ。金や快楽を追わずに己を追う。それを『回向返照』という。己を追えば、金も快楽も追いて来る。前者を有心、後者を無心という。そして有と無が止揚されると“空”となる。『一切皆空』とはそういうことである。
更に蛇に“お手”をさせよう。今日の高校生の中に36年ほど前の“自分”を観た。それは一人の女生徒だった。眼鏡越しにも目が輝いているのが見えた。彼女は必ず“跳べる”と直感した。拈華微笑である。そして、未だ“旬”の到来がない子供を含めて、周囲のオトナが『啐啄同時』を誤らなければ、必ず“役に立つ”人間として未来を担うだろうとも感じた。我々“オトナ”は彼等彼女等の踏み台とならねば、と感じた。
慧智(050623)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 12:16

野狐禅和尚の辻説法『賊知賊』 №785

 『賊知賊』は、「ぞく・ぞく・を・しる」と読み、碧巌録第八則「翠巌夏末」に由来する禅語。意味は、文字通り。賊の気持ちや手口は賊だからこそ解る、というもの。転じて「悟りの心境は悟った者同士では阿吽の呼吸で解る」、翻って言えば「悟った者の心境は悟りの無い者には解らない」と思って良い。私は、この語(評語)が導かれた“関”には思い出がある。釈尊が蓮の花を掲げて迦葉尊者がニコッとしたのと同じような経験をし、『正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏・・・』全ての公案がドミノ倒しのように連動し始めたことだ。
 無門関第一則『趙州無字』の無門和尚の評唱である『把手共行(はしゅきょうこう)』の境涯も、『賊知賊』も煎じ詰めれば同じだし『以心伝心』も同じ。しかも『類は友を呼ぶ』も類語。朱に交われば朱くなる、というのも類縁である。
活人諸君、師は弟子を選ぶべし。弟子は師を選ぶべし。入った学校を何事も思わず卒業するようでは情けない。言い換えれば、何処の大学に入ろうと、そこを惰性で卒業しようなどと考えず、自分の知的好奇心を満足させられる師を求めて学部も学校も替わるのは“自然(じねん)”だ。解るかなTさん。
慧智(050623)

投稿者 echi : 06:21

2005年06月22日

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

 今日、然る会合の前、10年ぶりに元総理大臣のN氏と思い出話しから韓国問題を切っ掛けに『禅と神道』に関する雑談をした。ほんの2-30分のコーヒータイムだったが、彼の神道感は従前の理解に反して、靖国に代表される現在にような国家神道感ではなく、神話や自然感に基づくもので、彼のライフスタイルの一部である『禅』、彼の禅に対する理解と矛盾していない事が解った。また、“憂国の士”としての彼の懸念が『日本人の宗教心の希薄化』であることを聞き、多いに同感を覚えた。なお、“老兵は死なず~”ではあるが、青雲塾で共に語った頃より“マイルド”になった事は否めないが、見方によれば『悟無好嫌』、何ものにも縛られない心を得たのだろう。政治家や経営者の坐禅とは“そういう”ものなのだろう。それに接するに、現役の政治家は辛いだろうな、と思えた。前出の『悟無好嫌』は、信心銘にある言葉で「さとれば、こうお、なし」と読む。意味は“文字通り”。好き嫌などの感情に左右されないのが“悟り”と言っても言いし、悟れば、自ずから好き嫌いという二律背反、二項対立という幻想が消滅して世界が無辺となると思っても良いだろう。全ての現象は流動的で実体は無い。左右があれば二分、天地あ¥があれば二分。天地左右無きは無限なのである。言い換えれば好き嫌いがあれば世界を狭くする、ということ。即ち凡夫で、無ければ聖人ということだ。そして、この凡夫・聖人という区別を忘れた世界こそ、真に自由な“浄土”、此の世そのものが蓮華国で、“死して浄土へ、地獄へ”という方便からも解放され、“魂”などという訳のわからない観念からも解放され、靖国に参るも良し、参らぬも良し、“そこ”という場所には何も無く、全ては心の内にあるのだからとなり、世界は広がるだろうに。小泉君は気の毒だな、と・・・・。そして、多数決や量という“数”の世界が幻想だと思うようになったよ、と。正に“然り”である。最後に「しかし、彼は軽いな」という言葉は重かった。考えてみれば、“宗教心”の無い人間は確かに“軽い”。
慧智(050621)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 00:19

2005年06月21日

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №783

 「しんぎょく・でいちゅう・に・いなり」と読みます。出典は景徳伝燈録です。意味は「本物(者)は、何処に在っても本物」ということです。本物(者)は、寡黙であっても随所で主となるでしょうし、主人公。大道を進むということは、多くを語らず、他人を気にせず、堂々と、そして勝手に輝いていれば良いのです。『今・此処』があなたの舞台。解る人は解るし、それに嫉妬し足を引っ張ろうとする下衆な輩もいる。しかし、『両忘』、その両方を忘れて、大道を歩む。それが大事なんだ。
 F君。心配は理解できるが、“君は本物”、何も気にする事は無い。本者とは、本来の己に忠実に生きている人であり、強味を活かしている人であり、弱味を隠さない人。つまり、分相応を知って淡々と、そしてイキイキと“今与えられている仕事”に全力を出し切って居る人。
F君、『オドオド、キョロキョロ、ギョロギョロ、ベラベラ、ヘラヘラ、モジモジ、カリカリ、ドタバタ、ソワソワ、ヒソヒソ、チョロチョロ、バタバタ、セコセコ、ウジウジ、ピリピリ、ショボショボ・・・』、そんな言葉は、君に似合わない。「サラサラ、グイグイ、グングン、ニコニコ、ノシノシそしてコツコツ」、それが“ピカピカ”の『真玉泥中異』。
大丈夫、大丈夫。心配御無用。私も活人禅者も、皆、君の味方だ。骨は拾ってやるから、信念を貫け。しかし、それに囚われるな、拘るな、偏った考え方はするな。どうしても困ったら、私を悪者にして火の粉を避け、体力気力を再生して出直せば良い。私は癌だが、防弾、防炎・防火・耐水構造だから大丈夫。
 出る釘として頭を打たれ、転職に迷っている青年からの相談を受けて
慧智(050621)

投稿者 echi : 00:21

2005年06月19日

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

 久しぶり知人が訪ねてきた。玄関先で、行き成り、ぶっきら棒に「“無心”とはどういう心か」と挨拶された。一瞬、怯んだ。「ムーーー」と言っても彼には解らないことは解ってたので、「主観的でも客観的でもない心だ」と返したが・・・「それは何だ」と。
 禅を理解する言葉に『両忘』という表現がある。そもそもの意味は『対立を離れる』ということである。しばしば『主体(能見の我)』と『客体(所見の彼)』は、表裏一体、不可分・不可同。即ち“一如”こそが全てということ。『能所両忘』と書いても良い。坐禅が求める境涯である。己と自然、我と仏、善と悪、好と嫌・・・何でも良いが、一般論として対峙する概念、其れが相互浸透し一体となる心境だ。まあ、それを『父母未生以前の本来の己』というんだが・・・。
 心とは不思議な現象だ、応えに対し更なる相対的質問を投げかねられると、所謂“フォーカッシング”という質疑応答形式から逸脱しているゆえに戸惑う。戸惑うと、考える。これは野狐の宿命。殴ってしまえば良いはず。何故なら、無心は消極的な戸惑いではなく、積極的な戸惑いに近い心境だからである。
 禅の心を言葉と頭で理解しようとする者は、禅を知ろうとしない者より、禅から遠ざかる、というのが私の実感だ。それ故、この手の質問は苦手だ。
 まあ、上がれよ。ところで、どうしたんだ。
 いや、昨日、お前達のHPでやっているネット禅会とやらで坐ったんだ。そうしたら、“宙”に浮くような感じで、気持ちよくて、気が付いたら1時間たっていたんだ。なるほど。その気分こそ“無心”なのかと、どうしても知りたくてな・・。なるほど。時間感覚が無くなるというのは正に“三昧”という状態で起こるんだ。しかし、“宙に浮く”というのは怪しいな。宙に浮くという認識が有る以上、主と客は融合していないだろ。確かに。じゃあ、『無心』とどういう気分なんだ。簡単に言えば、何かに“一心不乱”に打ち込んでいる状態だよ。だから「これが無心だ」と気が付くわけがない。言い換えると「無心」になった、と思っている内は、無心とは縁が無いんだ。ところで、何で無心を知りたくなったんだ。だって、お前、自分で癌を治したろ。まあ。実は・・・・。この先は割愛する。
 何かがあって“無心”を求めるのは、死後に戒名を授かるくらい滑稽。悟って旅立つのであり、旅立って悟れる訳が無い。そもそも皆、例外なく“仏”。自分が“仏”であることに気が付いているか、いないか。三昧、無心何でも良いが、それを体験するのが“悟り”と言っても過言ではない。何れにしろ、何処であれ、何時であれ、一日に一回、一日一生の締め括りに坐るのは素晴らしい。彼も近々、禅会の門無き門を通るだろう。
慧智(050619)

投稿者 echi : 00:23

2005年06月18日

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

 達磨大和尚の6世前に摩拏羅尊者(まどらそんじゃ)の偈に『心隋万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』というものがある。読みは「心は万鏡に随って転じ、転処は実によく幽なり。流れに随って性を認得せば、喜びも無くまた憂いも無し」と私は読む。意味は、ユーストレス状態の心は事実を事実として受け取り臨機応変に動いて喜怒哀楽に左右されずに流れを見失わない。つまり、ディストレス状態の心は拘り囚われ偏りが起こり自由を失い苦しむものと解釈すれば良いだろう。つまり、日常生活における私達の心で大きなマイナス要因はストレスマネージメントの失敗なのだ。
 坐禅は究極のストレスマネージメント手法と言われる場合があるし、ストレス耐性の高い心を実現する唯一の手法と欧米では言われる。まあ、目的・目標・手段を分けて考える文化の国の解釈らしく、我が国の解釈である『坐禅はそれ自身が目的・目標・手段』という理解には及ばないが、現代人の功利主義は満足できるのだろう。モントリオールのストレス研究所時代、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエ博士に何度も尋ねられたのも“この”部分である。彼は“坐禅”はセラピー手法として宗教と分離すれば世界的な方法論となり小林はノーベル症も可能だと言われた。其のたびに「坐禅と禅(宗教)は表裏一体で、人間から皮膚の全てを剥ぎ取りコートとして商品にしろというような考えは危険極まりない発想だ」と逆らい続けたが、今でも其の考えは変わらない。
 人間にとって重要なのは“真理”であり現象ではない。心の本性は前出の第一句である『心隋万境転』という心の本質の理解体現である。つまり『自由』と『自在』の心である。それが『無心』であり、『無我』である。この部分はキリスト教文化に汚染されていると先ず絶対に理解できないらしい。アイデンティティ(自我)という幻想を捨てた心が本性であり、それがアイデンティティであるというのは欧米人にとって公案以上のハードルなのだ。それが彼ら欧米人にとっては、そこにある“無”であり“空”が唯一の切り口なのだが・・・。
活人禅者よ、『日々是好日』にしても『平常心是道』にしても、ストレスマネージメントの成功した姿であることは機会ある毎に話しているが、それそのものが喜怒哀楽による心身
の自虐から解放され、自然体で生きていることこそが我々の目的で目標で手段であり、食事、呼吸、排泄と同じ次元で、坐禅が日常生活の欠くべからざる要素であることは容易に理解できているだろう。しかし、実践できているだろうか?一日20分で良いから坐れているだろうか。俗人は個性から逃れる事は出来ない。個性という自縛を乗り越えるには坐禅しかないが、一般的な社会生活では、個性を捨てる以前に先ずは活かす事が大切。自分の生得的な強味・弱味を知って強みにストレスをかける。するとそれは向上心・有能感へと向かう。しかし、誤って弱みにストレスが加われば、それは焦燥感・劣等感へと向う。活人は、達人への過程。菩薩道の助走である人間道と言っても過言ではない。その道を悠々と歩くには“ストレスマネージメント”の方法論が必要だろう。それは坐禅をおいて他には無い。兎に角、一日一回。しっかり坐ろう。
慧智(050618)

投稿者 echi : 08:26

野狐禅和尚の辻説法『愚直なほどに素直』 №780

 禅の心は、愚直なほどに素直に生きる事、の一言に尽きるかもしれない。何に対して“素直”なのかと言えば、それは“自然”。即ち、自ずから然るべくある“自然”だ。暑い時は熱いし、寒い時は寒い。春は春。梅雨は梅雨。綺麗と感じれば綺麗。苦しいと感じれば苦しい・・・。つまり、“眼前に現象している世界”。言い換えれば、それを感じている心だ。ところが、同じ事実に接しても人により感じ方が異なる。“赤ちゃん”とは随分と違う。何んで変わったのだろう。そこれが知識や経験と言われる“解釈”だ。そして其の解釈が固定して“先入観”を構成したからだ。言い換えれば、“素直じゃなくなった”からだ。そして其れを“愚から賢へ”という勝手な解釈をしているからだ。
 『常行一直心』という禅語がある。「つねに・いちじきしん・を・ぎょうず」と読む。読んで字の如しだが、誤解が無いように“直心”とは『直心是道場』の“直心”と同じで「造作の無い心」のこと。言い換えれば、愚直なほどに純心な心、つまり素直な心のこと。あるがままの心のこと。知識・情報・経験により汚染される前の心。分別(≒先入観)する前の心。故に『常行一直心』とは、『愚直なほどに素直な心で日常生活』ということだ。
 マイナス6%運動の一貫で『クールビズ』なる言葉と軽装が政府主導で推奨されている。暑い時は暑いので、涼しくしよう。上着やネクタイは不要というもの。しかし、不思議だと思わないか?上着やネクタイを制服にまでした西欧カブレの日本で、春・秋・冬の仕事には必要で、夏は要らない。四季で仕事が違うのだろうか。そこに“素直”を無くした日本の姿がある。『何に対して素直』なのかを忘れた姿だ。しかし、愚鈍な政策が“自然”を思い出させてくれるかもしれない。暑い時は暑いように、寒い時は寒いように暮らす。それが“自然”だ。素直な心への回帰だ。流されたり、押し曲げ捻じ曲げることではなく、“自然の法則に従って流れる”、つまり自然体で生きるというのが大事なのだ。先入観・稚拙な知識や浅い経験を離れ、事実を事実として素直に受け入れ素直に暮らすことだ。
好きな者は好き、嫌いな者は嫌いで良いが、好きだから会う、嫌いだから会わないのではなく、自然の流れ(≒縁)に委ね、瞬間的で実体の無い感情(解釈された事実が構成する)に左右されず、『常行一直心』、いつも眼前の事実を素直に受け入れ、何事にも素直な心で対峙することだ。つまり『無心(先入観の無い心)』に生きるということだ。
活人諸君。“上手く生きよう”なんて考えるな!素直に生きよう。一日一生、一日一日を全力で生き切ろう。『隋縁』、それは本質から外れないとても大事な心。小泉さん、竹中さん、素直に生きようよ。素直な心(勝手な心ではない)こそが“本質”を見抜けるんですよ。★禅会ですので説法は“生”のみ★
慧智(050618)

投稿者 echi : 06:28

2005年06月17日

野狐禅和尚の“経済”説法『経国済民そして分相応』 №779

久々に『政策金融委員会』に出席し、背筋が寒くなったので、内職のようにこの原稿を書いている。経済は、経国済民(くにをおさめ、たみをすくう)を語源とすることは衆智であり、経済≠金ではない。しかし、文化や教育を弄るには結果が出るまで時間がかかるので、政府や役人は、ついつい“金”を弄って仕事をしている幻想に陥る。困ったものである。
今日の日本の経済状況は、分不相応を追いかけたバブルの崩壊で1400兆円の“泡”である資産価値を喪失したが、1929年のアメリカ大恐慌の再来はなかった。理由は単純で、政府が無智ゆえに膨大な財政出動をしたからだ。つまり、無智に無智を重ねた偶然が恐慌を結果的に起こさなかっただけなのだ。先ず、それを記憶しておいて欲しい。現在の日本経済は、一部には“長期デフレ”とも、“構造問題”とも言われている。しかし、私は、米国拝金イズムという“病”にかかりながら、ホメオスターシス(恒常性維持力)とプラセボ(財政出動)の相乗効果で、瀕死の重傷でありながら基礎体力(実業主義→米国型虚業主義の反対)で何とか命を長らえている内に、基礎代謝を落として、健康を回復しつつある状態と見ている。そもそもインフレとデフレを区別しているのは何か。金(マネー)の仕入れと販売の関係値で、長い刀には長い鞘、短い刀には短い鞘という本来のスタイルを逸脱し、長い刀を短い鞘、短い刀に長い鞘という『分不相応』をおかしいと思わない連中、ないし悪辣な“刀鍛冶”とそれを取り巻く商人、悪代官の指標で、本来の実質重視経済を基調とする日本では不要な数値なのだ。英国や米国の嘗てのインフレは22%という短期金利を仕掛け、転んでも“ただ”では起きまいとする海賊の頭と、山賊の頭が“策士が策に溺れた結果”であり、謹厳実直で素直な仏教徒である大半の日本人は『晴耕雨読』の生き方を思い出し、質実剛健に徹したから恐慌にならなかっただけで、本来、経国済民を司るべき政府の力ではない。今、未曾有のゼロ金利が長く続いている。それにも関わらず、資金の流通量は増えない。言い換えれば、政府の中枢にある無智な経済学者が“構造改革”などと騒いで、資金の供給力を銀行に付けさせたところで“借手”は増えない。増えないから仕入・販売ともに金利は上げられない。エコノミストの中には日本国内は需要不振だと言うが、いつに比較して需要不振といっているか。『今』を否定し、バブル時を肯定しているという心理が背景にあるからだ。
話は少し変わりアナロジーになるが、チョットだけイメージして欲しいのは、『日本人の平均身長が150センチになれば、現在の50%を下回った食料需給率は解決する』ということ。江戸時代、食料需給率は農業技術が低いし人口も少ないが100%だったのだ。つまり分相応の大きさで生きることから背伸びをし、贅沢に暮らすことを欧米に教え込まれた結果の今日で、“経済問題”の本質は其処にあるのだ。言い換えれば、“分相応・質実剛健”そして『知足』という“日本の心”を思い出して暮せば、現在の経済状態でも十分に“豊か(餓死者を出さず、皆仲良く慎ましく安心して暮して行ける貧富の差の小さく妬みや恨みを抱くことのない社会)”なのだ。
さて話を戻そう。大隈先生の開校した立派な学校の縮小再生産が生んだ鬼っ子で、経営の“け”の字も知らず“日本の心”も知らないアメリカ拝金教の信徒である政治屋さんになった経済学者は、銀行屋に向かって「信用力のある大企業で素晴らしい企画を持っている会社が沢山あるのに銀行がカネを貸さないのは訳が解らない」と言うが、それは世間知らずの弁で、現実に資金の需要があれば、借入れは増え、仕入と販売が市場原理に連動して貸出金利は上がるのが当然。しかし、現実は違う。その証拠に資金需要があり、邦銀が貸さなければ、ハゲタカ銀行が貸しまくる。しかし、そんな気配はないし、邦銀・外銀とも貸出し量は下がったまま。其の上、外銀の対法人シェアは落ち始めている。つまり、T大臣は世間が見えていないのだ。
常識の目で、今を見てみよう。企業はゼロ金利にもかかわらず借金をどんどん返済している。何故?。受容性は高いが、保全性の高い経営者も国民も『マネーストレス』から学習したからだ。バブル絶頂から見れば株価が6割、都市不動産は8割も下落した。勿論、本来なら株価は9割下落でも不思議ではなかったが、“持ち合い”で救われた。覚えておきたいのは、政府が持ち合い解消を奨めている以上、“次”は耐えられないということを皆、本能的に悟っている。だから、金は借りない。しかし、現実問題、今でも中小企業の『不動産』は怪しい。簿価と実勢には全国平均で8対1。そして“借金”はそのまま残っている。日本の企業の9割が中小零細であることは衆智。つまり、株式会社日本のBS(バランスシート)は危機的状態に変わりない。しかし、本業に回帰してPLは健全、CFも大きな問題は無い。しかし、BSは“債務超過”だった。・・・これ修復するため日本中の企業が「早く借金を返そう!」と大合唱。そして、大企業から健康を取り戻した。しかし、中小企業はまだまだ。そして現実はバランスシートが綺麗にならないから、それまでは例え“ゼロ金利”でも借金はしないし、銀行も同様に貸さない。銀行が貸して万が一にも銀行のBSが悪くなれば破綻し、ハゲタカと其の手先であるT大臣に潰される。それが怖いのだ。現実に、日本の銀行には、今も何が起きても不思議ではない。世界的格付機関で合格を示す「ABC」をとっているのは銀行は一行もなく、揃いも揃って「DE」ばかり。学校の成績なら“2”と“1”ばかり、進級なんか出来ない。
 一方、企業の借金返済が昨年から急速に進み、有利子負債残高は大幅に減少しバブル前の86年水準を回復。また、恒常性維持力により都市圏での土地価格の下落も止まり、バブル崩壊の主犯である団塊世代の整理が進み、バブルで痛い目にあっていないホリエモン世代が、禁断の木の実に幻惑されている。つまり、07年あたりから、病気が再発し、先ずは熱があがり、浮かれ、疲れて、悪寒が続き、悪寒に慣れて、それなりの暮らし方を発見するだろう。正に、景気は循環なのだ。
 そういえば、小泉公約の「30兆円枠」は今何処に?まあ、今の政策をあと2年続ければ、大半の大企業は元気になりMAやMBOを進められ、日本の心を完膚なきまでに捨てた米国カブレの企業ばかりになるだろう。果たして、それが良いのか悪いのか。それでも多きな課題は残る。そのキーワードは『石油・中国・ドル・輸出とアメリカの一人横綱』。車社会のアメリカ、これから車社会にある中国。漁夫の利を狙うEU。そして世界が狙う日本の外貨。心臓が政府・日銀とすれば、中間ポンプが銀行というイメージで“経済”を国民と文化を無視して動かしている限り、日本の危機は去らない。今、日本に必要な改革は『日本式文化大革命』なのだ。ホリエモンに老子・孔子・菜根譚を読ませ、六本木ヒルズ族に坐禅をさせて週末は農業・林業に参加させることだ。
つまり、今の日本に本当に必要なのは、『経済改革・郵政改革・・』なんかより『教育改革』と『宗教心(禅)』なのだ。
 会議が終わるので、内職もここまで。
★★明日から活人禅会です。寺で待っています★★
慧智(050617)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 08:31

2005年06月16日

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常・無常迅速』 №778

 中国、漢代の人間訓に『人間万事塞翁馬(にんげんばんじさいおうがうま)』という句がある。元東京都知事で作家にしてタレントの青島幸男氏は、この句をもじって『人間万事塞翁丙午(・・・・ひのえうま)』という本で、自分の人生を予言していたようだ。
さて、しばしば耳にする“この句”は、幸福は必ずしも幸福ではなく、不幸は必ずしも不幸ではないという意味。原書では「塞翁という男が飼っていた雌馬が逃げて落胆していると、暫らくの後、牡馬を連れて帰って来て、子馬が生まれてた。それを喜んでいると、塞翁の子供が馬から落ちて大怪我をしてしまった。その時、戦争が始まり殆どの若者は徴兵され、90%が戦死したが、体が不自由な塞翁の子供は徴兵を免れ、親子は命拾いをした」という内容だったと記憶している。
しばしば、二項とは表裏の関係だと話している。『楽中苦・苦中楽』という禅語の意味もしばしばお話している。そして“諸行無常”、常なるものは無く、全ては現象であり、解釈ひとつともお話している。『人間万事塞翁馬』にしろ“~丙午”にしろ、何事も決定的などということはない。良い時もあれば拙い時もあるし、それは不可分不可同である。つまり、哀しむ事なかれ、かと言って喜ぶことなかれ。今・この時こそ“全て”なのである。一瞬前は過去、一瞬先は不確定。全ては諸行無常。故にチャランポランに生きろというのではなく、善因善果・悪因悪果、因果応報。今・此処での己を一日一生と準え生き切ること。それが悔いの無い明日の今・此処となるのだから。
慧智(050616)

投稿者 echi : 08:32

2005年06月15日

野狐禅和尚の辻説法『見掛けと実体』 №777

 怖そうに見えて優しい。強いように見えて弱い。高そうに見えて安い。堅いように見えて脆い。・・・・。今日、時々法話を頼まれて伺うグループにメンバーの一人と電車でバッタリ会った。その時の会話「衣を着ていると優しそうに感じたんですが、スーツ姿だと“偉い経営者”って感じですね、と話しかけられた。「そんなに違いますか?」と返すと、「ぜんぜん違う」と。「孫にも衣装ですかね?」。「どちらが似合いますか?」。「どちらとも言えないわ」。「じゃ、どちらが好きですか?」。「衣かな・・・」。「じゃあ、あなたは強い人より優しいが好きなんですね」というと、「何故、解るんですか?」と。「あなたは言いましたよ」と返すと、「不思議な顔をしている」。理由はこの次に会った時に話してあげますが、先入観なく聞いたり見たりする心が出来ていると、相手の心は解るですよ。「スゴイ、心理学者みたい」と。「心理学者なんです」、「じゃまた」と二駅間の会話。
 さて、先入観という脳の処理メカニズムは便利ではあるが不便でもある。そもそも先入観は脳が情報処理をエネルギーの消費を抑えつつ高速で行なえるように大脳辺縁系が持つ既得的な『経験能力』。その下位構造が『反射神経』で、上位構造が『先入観』。しかし、便利な機能は必ず“不便”も伴います。それが“生き物”なんです。なお人工物は、それに挑戦しているんです。小さくて、軽くて、早くて、大きい・・・ノートパソコン。加えて頑丈で安くて綺麗で・・・。人間って欲張りですね。私なら、これに加えて電池が48時間とお願いしたい。
 さてさて本題。『見掛け』とは先入観の為せる業。ところが“実体”も先入観という評価
で、前出の『優しい衣姿、偉く見えるスーツ姿』から類推して欲しいが、“私”の実態は?
活人諸君は、もう私の公案が解りましたね。“実体”と書けば“根底”、“実態”と書けば“在り様”。全ては“現象”であり“実体”など無いというのが“実態”。それが先入観であり夢、幻。
 諸兄!。見掛けとは如何に???。晴耕雨読。今日の東京は雨。早々に帰宅して坐ってみよう。湿度が高い状態と雨との関係は?濡れると湿るのと違いは?人間は思った事を信じている動物。安定した考えが“思い”の源泉。私は優しいから、公案も易しい。さて、この言葉は正しいか?
今週の禅会までには、一転語を用意してくださいね。
慧智(050615)

投稿者 echi : 08:32

野狐禅和尚の辻説法『人生には“旬”、一年にも“旬”、一日にも“旬”』 №776

 茶掛で見かける事が多い『花謝樹無影』という5文字がある。「はな・しゃして・き・に・かげ・なし」と読みます。これは蕾の時期は蕾。人生は相対評価ではなく“絶対評価”の対象。己は絶対的な己あるのみ。人間、皆、旬は異なる。他人と己を比べることから、優越感や劣等感が生まれ、人生を危ういものにしてしまう。以上が人間としての心構え。活人は、菩薩道。一瞬一瞬が“旬”、無駄な一瞬など無い。故に、一日一日を“旬”として生き切る。己の人生の“旬”に気が付くのを忘れると“思い出に生きる”という悲しい人生となり、今・此処を楽しめない。
さて、活人諸君。今日の“旬”を感じたか?“今”という“旬”の連続を生き切れたか?
目を開いて生きよ!!!!愚痴を言うな、夢に逃げ込むな。今・此処のみが現実、そして、人生に一回しかない“旬”、大事にしなきゃ。ね、W君。
気が向いたら、以下のURLへ飛んで見て下さい。
慧智(050613)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 06:33

2005年06月14日

野狐禅和尚の辻説法『見返りを求めず』 №775

 労働には報酬金を求め、ボランティアには充実感や感謝される事を求めるといった事が多い。何とも情けない時代である。報酬にしても充実感にしても、『結果成自然』、結果として自ずから然るべく成るのであって、前提や目標にすべきではないだろう。『働く・尽くす』のは、其れ自身が目的であり、目標のはず。給料の為に働く、感謝されたくて働くなどは“愚の骨頂”であり、大半の人は“それ”を十分に理解しているはず。親が子を育ててるのに将来の資金源となる事を求めるだろうか。只管に子の必要を満たしているに過ぎない。仕事にしても、縁あって力を発揮できる場が与えられ、職務が割り当てられる。そこには『出来る事・すべき事』があり、結果として熟達し『したい事(し続けたい事)』に変る。そして結果として、分相応、何らかの利益(りやく)が表れ、足るを知る。金満家になりたくて医学を学ぶ、成り金を目指して経営学を学ぶ、優雅な生活を思い描いて芸術に勤しむ・・・・。例外はあるにせよ、そんなことでは長続きしない。サラリーマンであれ、農業であれ同じこと。しかし、最近、その“当たり前”が拝金主義に圧倒されているようだ。そして、それ故、足るを知らぬ者が溢れ、世には不満が充満している。更に、拝金主義者が、現状に満足する“足るを知る者”に向上心や積極性が無いと揶揄し、“モチベーション論”という愚行を押し付ける考えが蔓延している。足るを知る、結果に不満を抱かないのが消極的だろうか?今・此処で“出来る事・すべき事”に全力を尽くす事が“消極的人生で、結果に不満を持たない事が“向上心が無いことだろうか。そもそも向上心とは“如何なる心”だと思っているのだろうか。己も“そう”なのであるが近年のアメリカで教育を受けた者の大半は自分が“功利主義者”であるという最も卑しい存在と化していることに気が付いていない。
 禅では“作務”を重視する。隠匿に価値を見出す。在野にあっても、その心は同じはず。
『可惜労而無功(惜しむべき労をして功なし)』という禅語がある。苦労をしても功は無く、ただ只管に労を重ねることを功という意味である。つまり、結果や効果を期待して行なう労はでは功は得られないということ。
我等『活人禅者』は、滅私、忘我、無心に、己に与えられた舞台で、己の才能を発揮し、一心不乱に一生を働き尽くす。『一日不作一日不食』、己の快・楽を求めない。
今日は、人を観て、己を振り返るチャンスがあった。誠に有り難い。正に我の外、全てが師。反面教師もまた教師。“反面教師”という存在も身近には多いが、みな偉大である。
高いつもりで低いのが教養・能力。低いつもりで高いのが欲望・報酬。理解して頂けますか?「あらゆる事について何事かを知り、何事かについてあらゆる事を知っている」を以て“教養人”を定義した学者がいたが、皆さんは何と考えますか?私達の知っている事は極めて少なく、知らない事は極めて多い。一生学んでも学び切ることなど無い。つまり、あらゆる事の何事も、あらゆる事を知り尽くすことも無い。我らは“愚”であり、“愚”をを自覚できてはじめて“智”となり、結果的に“賢”と呼ばれるのだ。
活人禅者諸君!心して生きようではないか。

慧智(050613)

投稿者 echi : 08:33

2005年06月12日

野狐禅和尚の辻説法『葬儀そして埋葬を思う』 №774

縁者の事故死に接し、通夜、葬儀の往復、托鉢をしながら思ったことがある。確かに、通夜・葬儀・回忌法要、そして埋葬には、それなりの根拠も現代的合理性もある。しかし、考えなくてはならないのは“誰の為の行事”なのかということである。そして、それにも増して“何故、仏式か”ということ。確かに、社会の凭れ合い、相互依存と前例踏襲による合理性は十分すぎるほど理解できるが・・・。禅僧の多くは、「通夜・葬儀・墓所など不要」と考える。しかし、現実には慣習に流される。それが“誰の為か”、思い遣りか、残された者の都合か、それとも・・・・。
 活人諸君、自分の通夜・葬儀・回忌・埋葬について決めていますか?それを誰に託していますか?。それとも“死は遺族への最期の奉公”と考え遺族に全てを依存しますか?確かに、死んでしまえば死者の当人である我々は何も解らない。と同時に、不垢不浄、不増不減、天国だ地獄だ浄土だなどという荒唐無稽な方便でも躍れない。我等“即心菩薩”には其々が其々の思いを実現するか、それとも拘らず・囚われず・偏らずと、「遺族の勝手にせよ」とするか。それとも即身成仏と洒落込んで山中で野垂れ死にするか。それら全てに拘らず、囚われず“野となれ山となれ”と今・此処を生き切るとするか。
 現代的は契約社会、自分の意志を自分の死後、自動的に実行されるような献体や相続、葬儀まで法的な効力がある“遺言信託”などもあるし、生前葬儀などもあるが、それも我々らしくないようにも思える。因みに、私は“遺言”に『通夜葬儀、回忌、墓所不要、所持品は全て勝手に処分し、負債を整理し残る預金、全ての資産は財団と寺に等分して寄附の事、その他は勝手たるべし』と書き残してある。
 “己の死”は縁者にどんな影響を与えるのだろうか。死は決して単純な感傷的心理的現象ではなく、現実論からみれば遺族・関係者の価値観やら人生設計、経営者であれば事業継承などを含む経済的問題、法律問題も絡む些か悩ましい“公的・私的両面”を持つ“一大事”である。
 まあ、個性豊かな活人諸君は、いろいろとお考えはあるだろうが、少なくとも一度は人生の締め括りをじっくりと考えてみて欲しいものである。
慧智(050612)

投稿者 echi : 10:44

2005年06月10日

野狐禅和尚の辻説法『梅雨入りしました』 №773

 いよいよ梅雨入り。これから4-50日は、植物が暑い夏に耐えられるようにと恵みの雨が降ります。
無門関に『春有百花秋有月 夏有涼風冬有月』、春に百花あり秋に月あり、夏に涼風あり冬に雪あり、とあります。自然とは実に“風流”ですね。
 人生にも自然と同様、雨の日も晴れの日もあるでしょう。それを自分の都合で“良い日、悪い日”というのは些か問題があります。まあ、正確な表現をすれば『都合の良い日、都合の悪い日』ということでしょう。同様に、天気に良し悪しはなく、どんな日でも“一生に一度の一日”です。晴耕雨読。長雨なら勉強が捗り、晴が続けば仕事が捗ります。降って良し晴れて良し。正に碧巌録に出典をもつ『日々是好日』。それを延長すれば無門関に出典を持つ『平常心是道』。更に延長すれば信心銘に出展する『万法一如』・・・・宝蔵録にある『天地と我と同根、万物と我と一体』。
 今日は、梅雨に学べば本来の面目に到達するということを坐りながら思ってください。勿論、言葉を使わずに思う、のは大前提です。コツは自分が“梅雨”に成り切るのです。できれば今日は外に出て、梅雨の雨を全身に浴びながら坐ると良いでしょう。濡れるというのは何か先祖還りしたような気分となり実に良いものです。
慧智(050610) 

投稿者 echi : 02:47

野狐禅和尚の辻説法『夜坐は目をカッチリと見開け』 №772

今日の夜明け、フト油断したのか、薬師堂の岩の上での坐禅中に居眠りをしてしまい、落ちた。幸い、打撲と擦り傷だけだったが、どうやら断崖を3メートルを頭から落ちたようだ。思い出せば15歳の春にも同じ様なことがあった。その時も「初志貫徹」を再確認した。私は、時には痛い目に遭わないと忘れていることがある。それは目的≒初志、目標≒隋縁(臨機応変)ということ。稼業ゆえに頭で忘れる事はなく、口にも自然に出る。しかし、忙しさ(心を亡う)故に、淡々と生きるという初志に埃が溜まるのだ。
 “野狐禅和尚”の由来である無門関第二則『百丈の野狐』の偈に「不落と不昧、両采一賽なり。不昧と不落、千錯万錯なり」とあります。第二則は『因果律』に関する公案で“因果一如”をトコトン体現させるもので、それを透過すると、本心から“苦楽一如”、今・此処を生き切ることに何の疑問も無くなる。
 15歳の春、師から与えられていたのが「如何なるか仏」。“無字”を透過した直後。眠れずに苦しんでいるのに居眠りして、岩場の夜坐で転落し鎖骨を折り全身打撲と擦り傷。元社員のことで40年振りに『理か情か』で苦しんでいた。そして、眠れぬままに居眠り。そして転落。そして『理情一如』、自然に任せる、と気付いた。最近は、誰も私を打たない。やはり、生涯一雲水でいなければ。打つ者がいなければ、己で己を打てば良い。今、左手、左足の打撲、擦過傷が警策代わり。やはり坐禅は素晴らしい。しかし、居眠りはいかん。夜坐こそ闇を睨みつけて坐らねばならない。そして闇を一体になって暁天を一体になれることを忘れまい。
 活人諸兄、ネット禅会でも『一如』を忘れることないように。
慧智(050610)

投稿者 echi : 01:49

2005年06月08日

野狐禅和尚の辻説法『戒+律=???』 №771

宗教の世界では、しばしば『戒律』という言葉が何気なく使われます。しかし、“戒”と“律”というのは本来は別のもので、私の場合は、“戒”は“してはいけない事”、“律”は“しなければならない事”と教えられました。言い換えると、“戒”は“道徳”に類似し、“律”は、“法律”に類似しているようです。つまり、一人の人間が“悟り(真理の修得)”へと至る“道”において自らが自らを縛るのが“戒”。自らが住まう社会でのその社会の秩序を維持する上での“決まり”が“律”といいうことになるでしょう。ですから、“戒”を破っても他人に“罰”を与えられる事は無く、己が己を罰するだけですが、“律”を破れば“罰”が与えられ、宗門や師匠から破戒僧として叱責されたり、場合によれば破門されます。
ところが、在家の社会では『戒+律』が逆転しているように思えます。例えば会社において、その組織の存在意義、有るべき姿は『理念』で“律”、その具現化した姿が『規則』で“戒”となっているように思えます。また、道徳、憲法、法律、慣習などなどに関しては、“戒”も“律”もゴチャ混ぜのようにも思えます。
さて、小生が研究し概念を整備した“マニュアル”という分野があります。ご案内のように“マニュアル”の語源は“マヌス≒手”、さらに辿れば“マナ≒欠くべからざるもの”という言葉に行き着き、この地球上に現存する3000弱の民族で使われている6000弱の言語の全てに、“マナ”という音が存在し、大半がその文化圏で『欠くべからざる何か』を示していました。例えば、マナー、マネー、眼・・・のようにです。そしてマニュアルも同じです。ですから、マニュアルを体系化する際、マインドマニュアル(心であり価値感の共有化)、テキストマニュアル(理由の体系化で合理性の証明)、そしてオペレーションマニュアル(行動の標準化)としました。つまり、『心・頭・体』といっても良いし『心・技・体』でもよいように整理しました。戒+律≒心+頭+体、と言うわけです。
さてさて、私達個人が属する企業や宗門のような社会、日本や中国というような国という概念世界では、平時においては心・頭・体の“全て”が相互に浸透した形で“常識≒組織構成員の大半(80%以上)が合意できる文化”が成立していました。しかし、昨今、“国際化≒異文化合同”が進み、嘗ての常識は“常識”としての意味を失ってきています。つまり、本来は、規則や法律の数が増え、行為を事細かに評価することが必要になるはずです。ところが、最近になって“アメリカ人”という概念が完成しだし“アメリカの常識”に意味を持ち出したアメリカなら理解できるのですが、国際化という現象の中で“常識”が意味を為さなくなってきた日本は、法律の数が増えることにより安定した社会が維持できるという合理的根拠に背を向け、明確な哲学を持たず、とても聡明とは言えない指導者が『規制緩和』を叫び企業犯罪、外国人犯罪、少年犯罪などなどが増えています。
そもそも、活人諸君。世界の理想は、“道徳(心の共有)”のみで法律(罰を伴う縛り)などを必要としない平和な世界でしょう。しかし、現実には“道徳”は排他的宗教(一神教)により分断され、権威を失っている状態で、法律を減らす、規制を緩和するというのは間違いではないだろうか。勿論、理想論としての『規制緩和≒道徳重視』は大賛成であり理想と思う。しかし、その前提は“道徳”の完全普及である。言い換えれば、教育の質的完成度の向上と規制緩和は相関関係になければならないのである。そうでなければ、教育は荒廃し、規制が緩和された世界の行き着く先は“無政府主義社会”になるのではないだろうか。
今日のネット禅会に入る前に、戒律の事、法律の事、道徳のことなどを自分なりに深く考え、坐禅が始まる時には“それ”を全て忘れ、ピタッと坐って欲しい。
慧智(050608)

投稿者 echi : 01:50

野狐禅和尚の辻説法『自画自賛』 №770

禅画の特徴は、絵が描いてあって、それを説明する言葉があることです。これを賛(さん)といいます。多くは、そこに描かれた絵の内容に賛同して、それを言葉で表現し、称えるものです。つまり、絵を描いた人と賛を付ける人が別なのですが、我らが白隠さんは、絵も賛も全て自作がほとんどです。これを「自画自賛」といいます・・・。自画自賛というと、“自惚れ”“ナルシスト”などを連想する人が最近は多いようですが、本来の意味は違いますよ。
さて、小拙の場合も自画自賛なのですが、それは白隠さんと異なり、絵だけでも言葉だけでも言い表せないところからの苦渋の選択で、何とも情けないものです。○一つで全てを表わす事が出来るようにと精進しているつもりですが、何せ根っからの愚者ですから、絵と文字と言葉をフルに動員しても足らずという始末。情けない。とは言え、私は“行動”で示していると“自画自賛”というか、居直っているのですが、朝一番でキツイ一発を電話で受けました。「和尚の作品の坊さんの顔は全て違うね。心が定まっていないんじゃない?」と。「確かに」と応じたが・・・。『本来無一物』『応無処住而生其心』『行雲流水』・・・とは書いてはあるが、返せなかった。
さてさて、「心をひとところに安住させず、フラフラもさせない」とは融通無碍、臨機応変と言えるだろうが、それには、心を何処におけば良いだろう。それこそ“無心”と答えたいだろうが、心という文字も言葉も絵も、そして態度にも表わさずに応えよ。さあ、活人諸君、応えよ!
慧智(050608)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 00:51

2005年06月07日

野狐禅和尚の辻説法『悟は、理と情が止揚された状態』 №769

 多くの方は、「理と情の相克」に悩む。理は“道理”、情は“情状”、“相克”は拮抗する相対現象の他方が他方に克とうとする対立現象。正に、理と情が一歩も譲るまいとして対峙して動かない状態だろう。禅会会員が打ち明ける悩みは“それ”が多い。言い換えると“すべき事”と“したい事”との板ばさみ、ということも出来るし、理性と感情の対立とも言えるだろう。それは一聞すると“人間らしい”心の状態だと素直で未熟な人はいうだろう。一方、理を情に優先させてこそ人間だ、と道徳的で思い込みの強い人は言うだろう。
この二人が出会った時、理と情が対峙している姿だろう。翻って観れば理>情、情>理、理≒情というタイプが世の中には存在しているということだろう。しかし、現実には前出の3タイプではなく、もう1タイプである理と情を分別しないというのがある。これが『悟』である。以前にも話しただろうが『悟は無分別』であり、理と情を不可分不可同、紙の裏表としつつ、紙と観る見方である。少々異なるが『清濁併せ飲む』ことが出来て『達人』だと言われることがある。しかし、それは所謂“折衷案”という双方が“満足とも不満とも言えない状態”を演出しる力ではなく、双方ともに“満足”させる力を持ったひとの業である。前出したアナロジーから連想してもらえれば解るだろうが、『悟』とは下位構造をそのままに上位統合してしまう力だと言える。つまり『止揚(しよう)』する力で、世に言う『課題解決力』や『問題解決力』の究極の業である。対峙する善と悪を止揚すると“無心”となる。好と嫌を止揚すると“無心”となる。正と否を止揚すると“無心”となる。・・・これは、AかBかという一般的に言う答を出さないという消極的な態度ではなく、Aでもなく、BでもないとしてCを出すのでもない。“AであってBである”、AとBは同根であるということを見抜いて『AB=X』を提示することである。禅では「X」を無、つまり超二項対立、脱二元論、止揚論として、そんな野暮な言葉を使わずに心から心に伝えている。
つまり、『悟り』とは、何れかに偏らず、原因に囚われず、結果に拘らない心の状態を得ることなのだ。そしてそれを“無分別”と表わし、その心境で暮らす毎日が『日々是好日』、その状態が続いている姿が『無事是貴人』、貴人の心OSが『本来無一物』、それが『教外別伝』であり、その心を伝えるのが『以心伝心』『直指人心』で、それは『不立文字』だからである。そして、それが伝わった瞬間が『見性成仏』ということである。故に、止揚の業という“心のテクノロジー”という具体策を有した『悟り』こそ、仏、菩薩という生き方であり、本来、父母未生以前から備わる真理、己の外に仏なし、『即心即仏』なのである。以上は分別がましい表現であることは承知で、それを人を観て法を説く、つまり『方便』という。
 突き詰めると、拡散しても1、凝縮しても1、受容しても1、弁別しても1、保全しても1というのが真理なのである。・・・解るかな~。解らなければ坐ろう。解ると気持ちが良いぞ!
慧智(060607)

投稿者 echi : 01:52

2005年06月06日

野狐禅和尚の辻説法『一切の現象に囚われない≒安住しない≒自由≒無心即心』 №768

 沢庵和尚が重宝した金剛教に由来する『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』は、「まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし」と私は読む。意味は、「何か、何処かに安住することが無ければ、喜怒哀楽とは無縁な自由な心心が生まれる」というもの。つまり、行雲流水のように何事にも執着しない、其の瞬間瞬間の在り様を100%受け入れ、しかも、それに拘り囚われないのが我々本来の心と言える。現代風に言えば「前例・先例に縛られない」ということ。そして、“縛られない”と思う“縛られまい”とする心にも、また縛られないという心こそが、人生を真に謳歌する唯一の心とも言える。
とは言え、我心(我儘な心)という心が“苦”の根本であることを悟った上であることは言うまでも無い。この心境を頭で理解しようとするのは少々難しいだろうから、数々の公案に登場する。『己は無心だと、心に浮んだ瞬間、無心に囚われている』。魚が水の中に居て喉の渇きを嘆き、その誤りに悟って、水に感謝している心が生まれたならば、未だ無心とは言えない、ということ。全てを捨て切ったとする認識をも消えて、初めて行雲流水のような自由な心となる。
 この心境を、この心境を体験できていない者の頭に説明するのは難しい。
坐禅をして、禅堂で蜂に刺され、蜂に己の存在を悟られたことで、己の未熟を悟り、其の次の瞬間は痛みを忘れていたが、更に其の次の瞬間、直日から警策を受け・・・。
美しい物は美しいし、美味い物は美味いが、それを覚えていると、囚われたり拘ったりして、相対比較の世界に捕まる。
つまり、『来る者を拒み、去る者を追う』という修羅の如き人生ではなく、『来る者は拒まず、去る者は負わない』という菩薩の心境となり、その心境にも囚われないのが、悟りの境地だと言えるのではないかと思える。言い換えれば、『人間』とは“その中間”でゆれて居るが故に人間なのであろう。
蛇足になるが、畜生→餓鬼→修羅→人間→菩薩→天上→畜生・・・・。赤ん坊から、我儘坊や、身勝手少年、悩む青年、道徳的な壮年、慈悲深い老年、そして輪廻に戻る。そんな風にも思える。訳の解らぬまま個人で起業し、社長と言われながら労働者を兼務してムチャクチャに働き、労働から解放され、そこそこの規模の会社の社長となっても我欲に翻弄されて事業拡大・M&A、ふと“己の心”と行動のギャップに悩みつつも“大義”を掲げた大社長となり、会社を次世代に譲って会長となり大義の自縛から解放され、何が大事かが解るようになり、それをも捨て去り一日一日を農作業に専念し「一日不作一日不食」の心境となり、己より先に作物を持って恵まれない施設に陰徳を積み、“善い事をした”という邪心が起こって己の未熟さに気付き、『応無処住而生其心』の意味に得心し、『本来無一物』の意味が深まり、名も無く行き倒れて地に帰る・・・。そして朽ち、地の資源となり植物や微生物の生存に貢献し、『不生不滅』の世を流れる。
実は、この文字を書いた時のエピソードだが、それを書いた紙は、職人さんに指導を受けながら自分ですいた。無心とは言えない心境で作業していたが、出来上がり乾いたので紙の質を知ろうと思わず書いたのが『応無処住而生其心』。滲んだ。すると後ろから職人さんが「書いちゃダメべ~、売れなくなるズラ」と。そして、己の未熟さに気付く。『人生に練習など無い。今・此処の在り方が本番、試しは試しでないから試しと名付けた本番なのだ』
慧智(050606)

投稿者 echi : 01:53

2005年06月05日

野狐禅和尚の辻説法『人生の意義』 №767

毎日、忙しく動いていると、時として己にとって一番大事な“人生の意義”を見失うことがある。否、見失う以前に“発見”出来ない者もいる。
“発見”は『大悟』に似ている。つまり“気付き”という『小悟』の積み重ねが、一気に爆発する感じだ。それはそれまでの人生で味わったことの無い“快感”。言葉では言い表せられない。
 しかし、残念なことに“それ”を味わえる者は少ないだろう。それは、人間は動物ゆえ、動いている方が自然。しかし、本当に“己の思い”で動いている人がどれ程いるだろう。周囲の者を観ていると、“動かされている”という感がある。それは惰性であったり、外に動因があったりする。つまり、“己の人生の意義”が解って、主体的に、己の主人を己として己の道を歩んでいるとは、とても思えない。皆が大学に行くから自分も行く。皆が金儲けに走るから自分も走る。皆がサッカーを見るから自分も観る。・・・・・。
つい先日、高校の授業を引き受けた時、一人の生徒が「先生、何故勉強しなければならないのですか」と問うてきた。どこの親でも答えるであろう、当然と言えば当然と思っていた答を返した。「生き方の選択肢、人生の可能性を大きくするためだろ」「人間は年を取るから、肉体の可能性は低減するが、心の可能性は死ぬまで拡大する」「勉強とは可能性を拡大することだろ」「今、君がした質問も、勉強したから出来るようになったんじゃないか?」「違うかい?」。すると、「家では良い大学に入るためとしか言わない・・・」。何故か悲しげ。そこで「ご両親は解っているが、君に解り易いと思って目の前の目標を話しているんだろうよ」、と話しながら、最近の家庭では“目標優先、目的喪失”なのかな、そんな思いが頭を過ぎった。
人生の意義は教わるものでも、教えるものでもなく、“己で気付く”こと。だから人生には“個性”がでる。教え込まれれば画一化し、教われば縛られる。“気付く”以外に“自由”という『自らの存在の理由』には到達しない。しかし、自らの存在理由を発見するのは、並み大抵の気付きではないだろう。言い換えれば、小さな気付きの積み重ねが“発見(大悟)”という爆発を生むのだ。そのためには、毎日毎日、一瞬一瞬を真剣に生きることが大切であり、専ら学ぶ時代には全てを師として真剣に学び切るしかない。学びが多くなれば視野が広がり、選択肢が増えると同時に、大きな流れが見えてくるだろう。それが俗に言う『道』である。道には必ず目的地と目標地がある。
人生の意義とは、己固有の道を発見し、一日一日を一生と見立てて歩み続けることだろう。道が解れば、キョロキョロせずに『足下』見て一歩一歩を確実に歩いていれば、ふと気が付けば“ゴール直前”ということになる。
昭和45年辺りまでは、ほとんど家に、その家らしい教育、その学校らしい教育があったと記憶している。しかし、昨今、家にも、学校にも“教育”が無くなったのかもしれない。教育とは“己の本性”を自覚させる手段であり、己の本性に出逢って“己は自由”を得る。つまり、己が己の主人、主人公として生きられる。主人公は“動く”のであり、“動かされる”ことはない。
話が右往左往になったが、『人生の意義』を子供達に気付かせるのは“大人”の役割。これが解らないと、人が大学へ行くから自分も行く。人が就職するから自分も就職する・・・親が受験しろというから受験する。みんなが結婚するから自分も結婚する。一体、誰のための人生なんだろう。
己の本性、目的地はどこか。見えないから、見失ったら、再確認したいなら、一度立ち止まって、自分の方角を見定めて、それから動き出してもおそくはない。
“一度立ち止まる”、つまり“静かに考えて見る”、それが一般人の坐禅だ。言い換えれば、“人生の意義”を問いただして、発見すること。それが坐禅と考えても良いだろう。
ところで、諸君!。己の存在意義を見出し、“活人”としてイキイキと生きているだろうね。そうでなければ、坐りましょう。坐れば必ず雲は晴れる。濃い雲、薄い雲、雲にも数々あるだろうが、晴れない雲、切れない雲は無いのだ。
慧智(050605)

投稿者 echi : 01:53

2005年06月02日

野狐禅和尚の辻説法『辻説法の展示会』 №766

 活人禅会の会員有志のお力で、拙僧の気付きを一枚のメモとして書き溜めた『備忘録』が、6月30日まで銀座書斎倶楽部(日比谷線東銀座駅から2分、みゆき通りと昭和通りの交差点で蕎麦屋さんの隣)で展示して頂いています。禅僧の墨蹟などという立派な物ではなく、一日一日の気付きを、その都度、電車の中、自宅、禅堂などなど場所を選ばずに書いてきたものが、気が付けば数百点溜まっていました。今回というか、最初で最後だと思いますが、その内から、ランダムに70点ほどが展示されています。しかし、自分としては“心の裸”をさらすという羞恥心を克服する修行のようで、正直、“未熟をさらす”のように思え、修行が足りないのか、展示場に足が向きません。しかし、会員同士の連絡で展示を知られた方から、「和尚、水臭いよ」と言われましたので、本日、ここで“恥さらし”のご案内を致します。
なお、どうやら私達の活動を応援してくださるために頒布して頂いているようですが、『備忘録』は私自身の気付きの記録であり芸術作品でもなければ、墨蹟でもありませんし、元来は時期が来れば焚付けに使かうか障子の破れを塞ぐために使うもので、ご覧になって頂けるだけで十分です。しかし、仮にお求め頂くような奇特な方があれば、その使途を明らかにすべきですのでお話しておきます。現在、有志の方々とともに、チェーンソーを持ち、ユンボを操り、南伊豆に、大自然の中で“作務(農業)と修行”をより多くの方に体験して頂けるように、菜根譚という村と禅堂を建設しているので、その費用の足しとしての“ご浄財”と、大子の寺の修復費用に使わせて頂きますことをお約束します。
さて、今日の辻説法に入ります。
人間には“個性”があります。その個性により“縁”が生じ、因→縁→果という自然法則に随い“今・此処”があります。勿論、どんな家に生まれたのか、どんな体質・健康状態か、どんな教育を受けたのか、何をして働いているのか・・・などの自分では如何ともしがたかった“既得”に準じることもあるでしょう。 しかし、『因果一如』の言葉が示すとおり、生れおちてから死ぬまでの人間生活において、全ての原因は例外なく過去の結果であり、誰一人として因果から逃れることはできません。ですが、一瞬前の過去、一瞬後の未来は、“縁”で繋がって行きます。ですから、“今”を変えれば“明日”は変わりだすのです。それが『善因善果』を確認できる方法です。しかし、善果を期待して善因をつくろうとする下衆な考えはいけませんし、善果を生むはずが無いのです。『因』は生き方です。ですから『果』も生き方です。過去の生き方が未来の生き方、死に方に投影するのです。しかし、それは数学的表現でいう“相関関係”は成り立たず、『受止め方』なのです。例えば、コップの水を眺めて「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うかで、次の意思決定は変わりますし、同時に“縁”が変わります。キリスト教という懺悔は、罪の認識の告白でありますが、仏教における懺悔は、己の生存は他の犠牲の上に成り立って居るという認識から、今、己が生きてということは、他を犠牲にしているということに対する確認であり、それを以て“利他”に生き、無駄な殺生を戒める行為です。私たち人間は、何の為に生きているのでしょうか。理由など深く考えずとも、生きて居るそのこと自体が“目的”でしょう。ですから、森羅万象全てに感謝し、相互に助け合って生きてゆくのが自然です。木を切れば植林するように、出せば入れるのです。入れば出すのです。決して留めないのです。それが仏教でも、科学でも同じで、“経済”の本質なのです。つまり、全ては相互依存であり相互補完なのであり、多を無視した“自律や自立”など存在しません。言い換えれば、『助け合って生きてゆく』ことが真理なのです。ですから『自利利他』と言われる様に、“してあげる”なんて“恩ぎせがましい”考えは邪心なのです。今日、会員からボランティアという言葉を聞きましたが、それは思い上がりです。禅者であれば『助け合いは当然』であり、それを表明するなど言語道断。『陰徳の心』を失うことです。
さて、この先は、今日のネット禅会で、言葉を使わずに考えてみてください。詳しくは、以下のURLへ
慧智(050602)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 01:54

2005年05月31日

野狐禅和尚の辻説法『活人禅会を終えて』 №765

5月の活人禅会を終えて東京に戻った。否、最近は“東京に来て居る”という心境。
今回、参加者が少なかった為と新参(製茶業の方)があったので、邪道ではあるが“三昧”の疑似体験をして頂いた。今更ながら、己の“お節介”には呆れた。禅、坐禅にバーチャルリアリティを持ち込むなど邪道も邪道であるが、一回でも“三昧”の快感を体験しなければ、居士の坐禅は長続きしない。長続きしなければ『己の外に仏なし』という絶対的な宇宙観は解らないし、己という存在が正に“無尽蔵”の力の化身、即ち“仏とは己の本心”を伝えられない。『煩悩即菩提』という表現もある。迷いに揺れ動き、定まらない心を感じ、それを含めて、己の心が“そもそも菩薩”という事を感じられない。『自利利他』という言葉があるが、私は『利他自利』であり、『自利即ち利他』、如何なる事も表裏一体。悪い人間も絶対的に悪い者はいないし、善い人間でも絶対的に善い人間もいない。つまり“善悪・良否・好嫌”などの“相対感覚”は、一瞬の現象で、絶対的ではない。『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』、『清心万能邪心万危』。人生の一瞬一瞬を真剣に生き切り、務めて己の良心に随い働く。人間に無駄にしてよい時間は、一分一秒無い。『歩歩是道場』、いつでも、どこでも人生道の修行の場。その時その時の経験から何を学ぶのかで、人の価値が決まる。己の人生の価値は“己”以外には高められない。というより、森羅万象が“その状態”で完成されている最高の地位にあるが、“分別”からの『囚われ・拘り・偏り』が己を苦境に追い込み、『苦』を現象させ、己の存在の素晴らしさを忘れさせてしまう。少々飛躍するが、代用監獄や刑務所に入れば、心身修養には最高の環境が得られはずだが、再犯者が多いという現実がある。『安禅不必須山水・滅却心頭火自涼』はず。それに比べて、自由に逃げ出せる“禅会”で“三昧”や“悟り”を感じるのは難しいだろうな。人間は“弱い”存在だろう。覚悟を決めるには、覚悟させられる方が遥かに楽。犯罪を犯す者は、何らかの形で“修行”が要求される。今、知人が経済事件で拘留中である。逮捕されるというのは、悟りの最大のチャンスだろうな、と、ふと過ぎる。本当の慈悲は厳しくあること。
そんな思いが浮んでは沈みながら東京へ。それにつけても“坐禅”は素晴らしい。軟弱な“ウスッペラ”な偽物のヒューマニズム、偽物の優しさなど、すっ飛ばし、“慈悲”の意味を体感させてくれる。
 これから坐禅に挑戦しようとする方、既に坐禅を経験した方。『もう一歩』踏み出してみませんか?
慧智(050530)

投稿者 echi : 01:54

2005年05月30日

野狐禅和尚の辻説法『葵花向日』 №764

『葵花向日』は、「きか ひにむかう」と読みます。意味は、“ひまわり”は太陽を追いかける。翻って言えば、雑念に惑わされず一つ事に集中すべしということです。“ひまわり”の咲く夏は、晴れ渡った空、青々した木々・・、一見すると、ギラギラと輝く太陽より魅力的な景色ばかりです。しかし、大輪の花を付け、虫たちを呼び、命を繋ぐという大目的のために“ひまわり”は只管に太陽を追います。
ところで、人間はどうでしょう。あれもしたい、これも見たい、それが欲しい・・となかなか心が定まりません。企業社会では「選択と集中」という言葉で、企業の成功は“何でも屋”ではなく、自社の強味(個性)に特化して、特化した事業に直接的な影響を与えられない事業は“捨てる”ことから始まるといわれています。
ところで、活人の皆さん。趣味でも仕事でも、所謂“極めたい”と考えている事は、絞り込まれていますか?。「二兎追う者は一兎も得ず」なんて事になっていませんか?
『照顧脚下』『看脚下』などという禅語も同じです。今・此処で“為すべき事”に『一意専心』、キョロキョロせずに、一つ事に集中する。それが“成果”を産出する唯一の道だとは考えませんか?
俗に“マルチ”と呼ばれる事がある私の場合でも、「頼まれた事で、出来る事で、すべき事」と感じた事の“一点”に集中し特化して生きているつもりです。皆さんは、どうですか?“頼まれもしない事”に手を出す。“出来そうも無い事”を引き受ける。“すべきでない事”をしてしまう、ということはありませんか?
悩んだら、“ひまわり”を思い浮かべ、足元を看てみませんか?
勿論、将棋の内藤九段のように、「芸能界で一番の将棋打ち、棋界で一番の歌唱力」という、“オンリーワン”の発想も大事ですし、“ナンバーワン”より“オンリーワン”が禅の思想に合致しているとも言えます。
大事なのは、選択や集中の大きさではなく、選択する事であり、集中することなのです。“選択”とは、一見すると“分別”のように思うでしょう。しかし、私は“それ”を『縁』に支えられたことと考えています。ですから、時間がかかるかも知れませんが、結果的に“選択”・“集中”となるのでしょう。
さて、今日、貴方は何を捨てることが出来ましたか?全てを捨て切れれば、最後の一つは“己”であり“無心”ですね。それが叶えば“空”という、『諸行無常で相互補完』という真理が見えるでしょう。
慧智(050530)

投稿者 echi : 01:55

2005年05月26日

野狐禅和尚の辻説法『癌センターの待合室で・・・』 №763

 作務衣姿で放射線治療を待っていると、見知らぬ患者さんから「お坊さんですか?」と声をかけられた。「そのように見えますか?」「ええ」ということで、「般若心経を毎日写経して唱えているんですが、“空”の意味を教えてくれますか?」と問われた。一瞬、迷った。“空”は、十牛図と同じで、その人の境涯で応え方がことなり、人を観て法を説かないと、かえって悩ませてしまう。多分、癌なんだろう。その声は弱々しいが、必死さを感じた。年のころ60歳くらいの初老のご婦人だ。「あなたは、写経をしていて、どんな気分になりますか?」と訊ねると、「その間は不安が薄らぎますね」。「じゃあ、心は“空も体”を解っているです。解らないのは“頭”だけですよ」。「いえ、解らないんです」。「ではね、不安な時と、不安が無い時では、何が、どう違いますか」と。「何かに夢中になっていると、楽のようです」。「ほら、解っているじゃないですか」。「“空”はね、諸行無常の根拠、決まりきったものは何も無く、全ては“思い”に随う、つまり“実体は無い”という真理を表わす言葉なんです。だからね、健康に拘るから現状が不安。生きて居ることに囚われているから不安。やれ科学だ、やれ宗教だ、やれ漢方だ、放射線だと偏るから、不安が起こるんですよ。人間、医者でも患者でも一人では生きられません。それを『無我』と言いますが、健康と病は、分けることは出来ないが、同じではないんです。ですから、私達だけが病気に選ばれたのではなく、誰だって病気になるし健康にもなるんです。『空』とはね、“諸行無常”と思って、心経を読んでみてください。そうすると、何故“拘らず・囚われず・偏らず”なのかが解りますよ。するとね、今日・此処を生き切ることの大切さが自然に解りますよ。一日を一生だと思って、生き切ってください。大事なのは“今・この時”以外に無いんです。今は、病と闘うんです。逃げたら負けますよ。大死一番、死ぬ気で生きるんですよ。一期一会も大切ですね。」・・・、すると、受付から声がかかり、そのご婦人は治療室へ消えた。「南無観世音菩薩、また逢えます様に」と心で合掌。ふと気付いたのだが、癌センターは、坊主が似合わない場所なんだな。次は、ジーパンで来よう。
慧智(050526)

投稿者 echi : 02:17

2005年05月24日

野狐禅和尚の辻説法『“仏”とは何ですか、という問いに応えて』 №762

 新参から、昨日の夜、悩んだらしく、朝っぱらから携帯電話に、「和尚、仏とは何でしょう」という質問を受けたので、お応えします。
『非心非佛(ひしんひぶつ)』という表現があります。これは『即心即佛』、活人禅でいう『即心菩薩』に近い表現ですが、『非心非佛』の逆説的な表現で、「仏とは一体何か」と言う問いに対し、禅僧が『非心非佛・即心即佛』と応えました。この応えは、禅を極めないとチンプンカンプンでしょう。『AはAでない故にAと言われている』という“即非”の論理から答で、我々が日常的に親しんでいる弁証法に代表される二元論理では解読不能であり、『無』を理解していないと解らないかもしれません。頭で応えるよな「仏とは意味」に対し「無」と応えれば、「無がある」ということになります。だからと言って“固有の存在”では無いはずなので、「有「であるはずはない。もし、本気で「仏」を理解し、仏になろうとするから、大死一番、解るまで坐り切る覚悟で、禅会に参加し続けてください。なお、山に来るときは“頭”は家に置いて、体は道中に置いて、『心』だけで来て下さい。そして、来られたら、「如何なるか心」と問いますので、“その心”を見せてください。見せる事が出来たら、“その心”を『仏』と名付けてあげます。
慧智(050524)

投稿者 echi : 02:18

2005年05月22日

野狐禅和尚の辻説法『至人無夢』 №761

大慧書に『至人無夢』、至人(しじん)に夢なし、という言葉がある。意味は、悟りに至った人に夢(妄想)は無いということで、未熟な人間が漠然と描く夢(妄想)は、悟った人間では“あるべき姿”となり、それは未来の現実であって“夢”ではなくなる。つまり、“そこ”に向かって大道を淡々と歩んでいるので、俗人の妄想とは異なるのだ。しばしば、“夢の無い人間はつまらない奴”などと言われる。しかし、それは誤りで、夢を夢のままにしておく人間はつまらない、と言い換えるべきだろう。夢であれ、理想であれ、抱いた以上は実現する。しかし“それ”に囚われない。一度抱けば、潜在意識の中では目標となり、意識しなくとも、我々の潜在意識は“そこ”に導いてくれる。それに至る道には難関もあるだろうが、“難関”は、“そこ”に向っている証拠であり通過すべき儀礼なのだ。それが“縁”と言っても過言ではない。
 あなたに夢はありますか?、と聞かれたら、活人を標榜している禅会メンバーとしては、「いいえありません、しかし、未来の現実は持っています」とサラッと答えられるような人間であって欲しいものである。人間の潜在意識は『未来の己の在るべき姿』を強く描き、それに拘らず、囚われずに淡々と歩んでいると、必ず実現してしまうという、機能をもっている。同時に、“嫌だな”と思う事も実現してしまう。つまり、イメージを実現してしまうのである。それを仏教では『妙智力』という。それを合理的に説明する言葉を持たなかった時代にあっては、それを“観音力”と表現し、観音信仰が盛んになった。翻って、現代、妙智力の構造が科学によって解ったにも関わらず、観音への信仰が薄れてゆくのは何故だろう。観音、即ち『仏』、即ち『本来の己』は、己であり宇宙である。つまり、現代の観音信仰は、“己”を信じきることに他ならない。
 活人諸君、夢を夢のままにしておくのは止めよう。夢は“未来の現実”なのだから。今を生き切った結果なのだから、潜在意識に焼き付けて“それ”に拘らず囚われず。それが活人の生き方なのだから。
願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんがことを。
慧智(050522)

投稿者 echi : 02:18

野狐禅和尚の辻説法『只管坐る』 №759

どんなに修行をしても、修行を終える事は無い。死んで、善人が極楽、悪人が地獄ということもない。輪廻から逃れる物は無い。そう聞くと、何の為に“修行”をするのか、と返ってくる。そもそも“修行”とは何だろう。俗には「悟りを求めて仏の教えを実践する事」である。修行≒難行・苦行などという意味は無い。仏の教えは“苦”なのだろうか。違う。「一切皆苦」という表現で、此の世の本質が苦(エントロピーの増大)であることを発見し、諸行無常を自覚し、森羅万象と合一して生きよ、というのが教え。つまり、森羅万象と合一して生きることが“修行”。決して“苦しむ”ことではない。流れに逆らわず、素直に生きる、それが修行である。流れとは“縁”と読み変えても良い。つまり『隋縁』であり“無心”に生きること。大道を歩むには、誘惑に乗って横道や袋小路に入るような下手な分別は捨てろ、という。確かに、金は欲しいだろう。その金で手に入れたい物があるだろう。それがあれば幸せになれると思うかもしれない。つまり“金”は手段で“幸せに生きる”ことが目標であり目的だろう。人間は、どのような時に幸せを感じるのだろう。“金”があると幸せか?それが妄想であることは“一度、金を持ち、失った人間”は知っている。“幸せ≒楽しみ”の対極と思われている“不幸≒悲しみ”は『失う事』だといことを。そして、その傷心を癒すために“喜び≒快楽”を求めるということ。そして“快楽”にはコストがかかるということを知る。この弁証法的論理は“俗”が“聖”の世界を垣間見るには便利であり、疑問が解けるのは快感だろう。しかし、解けない疑問もある。弁証法では手に負えない疑問もある。否、その方が圧倒的に多い。哲学を学ぶと必ず行き詰まる。そして苦しむ。実は科学も同じ。経済も同じ。学を究めると“学は極まらない”ということを知る。俗的に言えば、人間には器(分)があり、古くから『分相応』、『知足』が処世訓として説かれている。
 今日は、『人間の器』とはを考える瞬間が多かった一日であって。そして、器を眺めていた。器の質。量の規準となる容積。器の見せる姿形。中身を覗くと混沌としているのが解る。混沌は必ず沈殿する。沈殿したものが価値感となる。言い換えると“自我”となる。器がエス(イド)、沈殿物がエゴ、上澄みはスーパーエゴと捉えた学者もいた。解り易いが、疑問は多い。“なるほど”と言えば疑問を持たず、“苦”を背負い込まずにすむ。突き詰めると、この世は“一切皆苦”ということが素直に解る。そして“苦”を避けるには“今・此処”を淡々としつつ全力で生くことだということも素直に解る。“今・此処”には時間も場所も存在しない。瞬間的な現象世界で、二度再現することはない科学には歯が立たない世界だ。結局、己が妄想であれ何であれ幸せに生きてゆくには“瞬間に成り切る”ことしか無い。人生とは“瞬間”の連続を自覚して生きること。始まりも無く、終りも無い。俗的に見ても、苦が続くことも楽が続くことも無い。脳細胞は毎日死ぬ。再生することは無い。今、解っているのは死ぬ脳細胞は、その持てる情報を隣の元気な細胞に転移させるということ。だから、昨日の己と今日の己が同一だと勘違いする。それは恰も“雲や水”の如きである。器を眺めていると、器の中の水に目が行く。見ている水は、瞬間瞬間、変化をしている。分子崩壊から逃れることは出来ない。全ての現象に再現しない。繰り返すのは『法則性』だけである。それは色即是空・空即是色。不生不滅。不増不減。不垢不浄。
 人間は、坐れば落ち着くし、考えなければ落ち着いている。お茶を飲んで、ゆったりと坐ろう。そして一日の垢を落そう。体を風呂に入れるように心を風呂に入れよう。それが坐禅。只管に坐ること。坐れば本質が見えてくる。本質とは“器に内外なし”ということ。見える物と見えない物に違いがないこと。正に、在って無く。無くて在ること。即ち色即是空。空即是色ということ。真理・法則は極めて単純。つまり、物事を難しく考えて苦しむことはない。今・この場を全力で生き切れば、大道を外すことはない。大道はグッドサイクル、邪道はバッドサイクルのこと。しかし、大道と邪道は異なる道ではない。大道を迷って歩むのを邪道というだけ。素直に、素直に生きよう。只、只管に生きよう。そして素直に死のう。
 今日、セミナーの間に1時間のアイドリングタイムを頂き、坐っている時間が出来た。一時間は一瞬であり永遠とも感じられる。『壷中日月長し』
慧智(050522暁天4時)

投稿者 echi : 00:00

2005年05月21日

野狐禅和尚の辻説法『表裏一体』 №758

 大慧宗杲禅師の言葉で『回無明為大智』、無明をかえして大智となす、という表現がある。しばしば、『不可分不可同』と活人禅では表現するが、正に智と愚は表裏一体で、智愚一如という所以。未完成の人間を“無明”≒闇を以て示唆し、禅では完成度の高い人間を“明”という表現で暗喩している。観世音菩薩の俗人には不可思議と移る智慧の力を“妙智力”というが、それは“明るく照らす力”であり、表裏を返す(回す)力であり、否定を肯定に、暗を明に、偽を真に・・・に“気付き”を与える力なのだ。実は“それ”こそが菩薩行で会得する力であり、俗人に与える“たった一言”で、世界を変える力なのだ。そして、その力を己の中に発見して使えるようにするには、小賢しい知識や情報などの分別の源泉を大捨できる坐禅が大事なのである。
今日は『一の如し』、“一如”の二字を“一字”として“無”となって“空”に坐ってみよう。きっと“成り切る”という禅の極意の一端を感じられるだろう。
慧智(050521暁天)
来週は、活人禅会です。夜通しの“夜坐(野坐)”で己を大気に溶け込ましてみよう。

投稿者 echi : 02:21

野狐禅和尚の辻説法『神道と仏道』 №760

 “神道”は、己が如何に弱く小さい存在であるかを気付かせ、他力を確信させる。一方、“仏道”は、己が如何に強く大きな存在であるかを気付かせ、自力を確信させる。そこには神道の二元論、仏道の一元論がある。言い換えれば性悪説と性善説の違いが生じる。人間を受身(客体)の存在として森羅万象の一部と対比させる神道と、人間を能動(主体)の存在として森羅万象の全体として融合させる仏道。180度ことなる考えも、表裏一体と仏道では受け入れる。それ故、私の生家(寺)では、キリスト菩薩、マリア観音まであるし、天地、天国(極楽浄土)と地獄は“表裏一体”と説いている。善悪一如とも説き、善を為す時に“悪心(下心)”は無いか?悪を為す時に“善心(躊躇)”は無いか?『無心』に生きる、それは全ての現象、森羅万象と一如となって生きること。そこには、相対的な世界の規準である、善も悪も、快も不快も、苦も楽も無い。絶対的な世界である“大安心”の世界しか無い。嘗ての我が国は奈良時代を起源に『神仏混淆、神仏習合』という文化があった。矛盾する概念を止揚して“無対立・無犠牲・自主独立”とする“中庸”の文化で、平和そのもの。大晦日には寺で除夜の鐘を聞き、その足で神社に初参り。クリスマスにはケーキを食べる。寺の坊主のバレンタインのチョコレートが来る。神主に戒名が贈られ、神社は寺の檀家で寺は神社の氏子。神父が坐禅にくる。日本は素晴らしい。この受容性の高さ、慈悲深さこそ、日本人が“慈悲”を尊ぶ“菩薩民族”である証拠。その大道に至るには“禅”という唯一無比の“生き方”がある。無対立・無犠牲。自主独立という平和主義がある。
 皆さん、不安や不信に満ち溢れて居る現代、何が問題なのでしょう。
『己の偉大さに謙虚になる』という一見矛盾した真理に気付く者が少なくなったのではありませんか?
慧智(050521)

投稿者 echi : 00:19

2005年05月20日

野狐禅和尚の辻説法『アリストテレスと禅』 №757

アリストテレスが、『ハッタリ屋とオトボケ屋』という表現で人間を2種類に分けて考えたという件があります。私は、それを追認しつつ、“しきり屋”と“頑固一徹”を加えてような個性分類をしてます。元来、禅僧と同時に、一方で哲学、ストレス心理学等の研究を生業にしてきた“科学者”でもあるものとしては、アリストテレス、その師であるプラトン、ソクラテス、イソクラテスなどなど、ほぼ釈尊と同時代の哲学者の考えには、“俗人”として共感できるところが多いが、誰を比較しても“釈尊”には遠く及ばないとも思っています。アリストテレスは、釈尊入滅の前年である紀元前384年に古代ギリシャに生まれた哲学者であり、釈尊、西洋ではソクラテスと同世代のプラトンの弟子で、しばしば“西洋”最大の哲学者の一人とみなされつつも自然研究の業績から、「万学の祖」とも呼ばれ、アレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られています。活人禅の会員各位も、禅に拘ることなく広く世界の名著には親しんでおきましょう。
 今日、第二禅堂として建築を進めている静岡県の南伊豆に行ってきました。そこは『菜根譚村』と名付けさせて頂いた。当禅会ゆかりの私有地で、広さはローマ法王庁が、政治からの独立を宣言して建国して100年の『バチカン市国』とほぼ同じ程度あり、境界地は“ゼロ磁場”の山と言われる山が聳え、菜根譚村はその山頂に向かう風の谷(龍谷)でもあり、今日、イオン測定器で村の中心でマイナスイオンの量をイオンカウンターで調べていたら、10分平均で1000近い値でした。道理で清清しいはずです。
 さて、今日の説法は、タイプ論についてです。タイプ論は元来、西洋的な考えで、東洋的な考えで、人間の個性の違いは認めつつ中庸を説いています。西洋は、ご存知のように“自我”重視で、自我を確立できた人間が「おとな」で、確立出来ていないのは「こども」として二項対立で考えるのが一般的です。ところが、禅では、“違いを知って違いを捨てる”無差別、無分別の心境に到達するのが修行です。ですから、“先ずは知る”ということが必要で、それが出来なければ『方便』の意味も威力も解りません。そして『方便』の世界をも捨て、真理と一体になって大安心の境地でイキイキと生きるのが“禅”です。そこで、今日の辻説法です。まあ、俗人も個性を捨てろと言われつつ個性豊かな禅僧を観察していると、曹洞宗系の禅僧には『おとぼけ家』が多く、我々のような臨済宗系は『はったり家』が多いように思えます。菜根譚村への電車の往復で、心を過ぎったのが“それ”で、禅僧の多くは“ハッタリ屋でおとぼけ屋”の融合段階で、完成されると『ハッタリおとぼけ』になりんだな、と思いつつ、思わず苦笑いをしていました。『禅僧は、禅僧でないから禅僧と名付けられている』という言い方があります。正に、ハッタリをかましつつオトボケな表現で、一人の中で“ボケとツッコミ”を同居させている噺家のように“人を主食”とする菜食主義者のようです。『不許葷辛酒肉入山門』と多くの禅寺の山門にありますが、「正に」と思い、クスクス笑いが止まりませんでした。“人を食って”いれば、それ以上は、臭くて、辛くて、依存的で、皮肉で覆われた物は、食えやしません。
 さてさて、在家の皆さんは最近の“禅坊主”に関して、どんな印象があるでのでしょうね。ついでに、あなた自身、ハッテリ屋ですか、オトボケ屋ですかですか、それとも、『禅僧』ですか?
慧智(050519)
*ソクラテス:前469~前399 古代ギリシアの最も有名な哲学者。
*釈尊、有力な一説:前463年4月8日~前383年2月15日。

投稿者 echi : 02:22

2005年05月17日

野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756

 『禅』を、その他一般的に知られている宗教である“信仰的”と比較して『覚宗教』ということがある。本来、宗教に“区別・差別”を持ち込むのはナンセンスではあるが、一般の方に解り易くするための悪意の無い“方便”としてである。その場合、『禅』が、中世的な信仰(己の外に絶対者を置く)宗教から近代の『哲学的(理性的・二元論的)解釈』を通過し、更には理性の限界をも超え、真に自由で融通無碍の“己”を生き、己を森羅万象の一部であり全体として、己を超えて表現する宗教体系であるからだ。つまり、大自然を『恐れ戦く』対象、限定的ではあるが『克服すべき』対象から、己と大自然を不可分・不可同として相互浸透している“真実”を体現し、それを行じ続けるているのが『禅』であるからだ。故に、最も本質を突いている宗教が『禅』であるのも関わらず、「禅は宗教というより哲学」と揶揄される場合もある。
 活人禅においては、禅が宗教と言われようと、哲学であるいわれようと一向に構わず、『宗たる教え』と自覚している。そういった意味では、活人禅は、『一如』を体現する『覚悟の宗教』、『覚宗教』といえるだろう。科学と宗教(文学)を止揚すれば“無と空”の思想であり、“禅”にしか行き着かないのは科学なり文学を究めた者には何の違和感もないのが“現代”である。
慧智(050517)

投稿者 echi : 02:22

2005年05月16日

野狐禅和尚の辻説法『質問:どのように勉強した?』 №755

 20歳の大学2年生から「和尚の本を読みました。マルチですね。20歳頃、どんな勉強をしましたか・・・?」という質問を受けました。そこで、出来る限り具体的にお応えしようと思います。『勉強』は、一人一人の個性や環境で全く異なるでしょうが、人間の頭は2種類の大きな個性に分かれています。20歳とは言え、現代は七掛け時代。一昔前で言えば14-5歳でしょう。ですから、14-20歳頃までの“我流”の勉強法をお話しします。
14歳の夏、平凡社の百科事典26巻に出会い感動。夏休み40日間と冬休み14日で全てを読みました。1冊1000ページ程度で4~5段組だったと思いますが、夏の接心を除いて、夜10時からの3時間を含めて一日平均6時間くらいは読書三昧でした。勿論、雲水はメモ書禁止だし図書館の本ですので書き込みも禁止。しかし、“全ては覚える”という習慣が小僧として5年も修行していれば誰でも出来ますので、只管、読みました。本師曰く「人間、生きてゆくに必要なことは全て知っている。知っていることを素直に出せば、本など要らん」を叩き込まれていましたからね。しかし、学校に行けば図書館にも教科書にも黒板にも、興味を掻き立てることばかり。誰でも“知るべき事”を覚えるにはメモが必要だろうが、“知りたい事”にメモは要らないでしょう。つまり、“何もかも”、“知りたい事”だったのです。それに読む速度は、“知りたい事”であればあるほど、早くなります。反対に“知るべき事”は、その重要度を意識すればするほど、どんどん遅くなります。言い換えると、百科事典も教科書も板書も、私にとって“知るべき事”ではなく、“知りたい事”だったのでしょう。なお、所謂“速読”は自然に出来るようになり、今でも500ページ30分程度で読みます。
以上のところのポイントは、本も、教科書も、“常識”と信じ込んで殆どの生徒学生が行なっている『重畳的学習順序』が私には合わなかったし、速読のお蔭で、学ぶ順序は無視できたということでしょう。思い出しますと、私は、足し算→引き算→掛け算→割り算という順序でノンビリと勉強した経験がありません。米の量・疲労度・人数からお粥の水の量を瞬時に割り出すのが、“算数”の最初でした。つまり、それがキチンと出来ないと、自分の食べる物は無くなるし、みんなに迷惑をかけるという瀬戸際にあったからでしょう。また、カタカナを覚えるより先に漢文を読まされもしました。間違えればピシャッとされますので、今思い出すと、漢字は表意文字として記憶したのでしょう。それに身近に遊ぶ環境がなく、その面白さと交わらなかったことも“知る事時間”を増やしていたのでしょう。『必要は発明の母』とは納得です。時々“博学”と言われますが、その自覚はありません。誰でも知っているが、思い出せない事を素直に思い出せる力を、幼少期の坐禅が付けてくれただけで、私は一般人です。知能で悩んでいる人には“嫌味”と取られるかもしれませんが、本心から『頭を自由自在に使いたいなら坐禅をしなさい』としか言い様がありません。私のような素材が悪くとも“そこそこ”にはなります。その経験を後に『禅脳思考』と名付けて、禅会員に伝授していますが、精神力などという自分を縛る縄を解き、何事にも囚われず拘らず偏らず、“無心”となって“事と一体”となれば、何でも吸い込んでしまうのが、私達の“脳”だということです。
★『出来る事』を工夫して『したい事』をする。『すべき事』は進んですることで“強制”されないので、直ぐに『出来る事』になる。『出来る事』が増えると『したい事』が増えても大丈夫。時間まで増えるから★
 以上、出来る限り具体的に話したつもりです。そこで、今話したことを全て忘れて『坐禅』に来ませんか?夏の休みに一月も小僧として来ていれば、それなりに納得の行く己に会えると思いますよ。
慧智(050516)

投稿者 echi : 02:23

2005年05月15日

野狐禅和尚の辻説法『無象無私春入律』 №754

 「象なく私なく、春、律に入る」と読む。従容録にある万松行秀の句で、意味は『春と季節には形も私という我も無いゆえに、花は咲き、草は萌え出て、春夏秋冬のリズムが始まる』と、今日の私は受け止めている。
 今日の活人禅堂は、梅・桜が終り、木蓮が中継ぎをして、全山、色とりどりのツツジが満開で、所々には藤が枝垂れ咲き、ボタンはその花弁を風に揺らし、カキツバタは端正な顔立ちを覗かしていた。正に百花繚乱の風情がある。禅堂に一人坐していると、鳴き慣れた鶯が経を唱え、『生き急ぐなよ』『淡々と暮らせよ』『一日一生だぞ』と、正に、“法・法華経+25、25”と聞こえた。
 今日は、春を迎えられた感謝の記念として、癌封じでお世話になり続けて居る薬師堂の前にスモモと桃、禅堂の前にはプラムの苗木を植えた。ふと、ツツジの花越しに下を見ると、浅川が水量を増して流れ、田植えの終わった田の水は、風と雲と空を映していた。寺を後にしようとすると、庫裏の軒先に蓮を咲かそうと禅姉が置いた大鉢の水が澄んでいるのに気付いた。泥水のような煩悩も静かに坐していると澄んでくる。煩悩即菩提。煩悩是道場。日々是好日。正に、山川草木悉有仏性。己以外は皆師である。自然は素晴らしい、自然は偉大な教師である、と感じつつ所用のため170キロ先の東京を目指して時速***キロで90分、常磐道を東京に向った。
慧智(050515)

投稿者 echi : 16:10

2005年05月13日

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常』 №752

 親しい方のご尊父様の通夜に列席させて頂いた。ご縁の深い方の急な訃報に接し、ご遺族の心境は如何許りかと察するに余りある。
卍山広録に道白の言葉として『一蓮托生拭目可待』(いちれんたくしょう、まなこをぬぐいてまつべし)という一句がある。意味は「愛しい人に先立たれたあなたではあるが、何れはあなたも往生し、極楽において同じ蓮の葉の上に坐るであろうから、涙を拭い、気を確かに持つことだ」というもの。
 また、禅堂の板には『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』とある。意味は「諸行無常の人生は迅速で、生き死にという迷いの対象は悟りへの切っ掛けとなる一大事の因縁であり、時は人を待たないので、寸暇を惜しんで修行に打ち込め」というニュアンスである。
 人間、どんな元気で健康であっても一寸先は誰にも解らない。生死一如とはいうものの、現実には不安を抱える者も多いだろう。それ故に、一瞬一瞬に完全燃焼し、一日一日を一生と考え、悔いの無い一日を積み重ねることが大事で、不安を払拭する唯一の生き方なんですね。人は生まれれば例外なく必ず往生します。生死とは宇宙が『凝縮して拡散する』こと。大宇宙が、小宇宙に変身して、また大宇宙に戻ること。即ち『不生不滅・不増不減 不垢不浄・・・・』。命は大自然の営みの一過程であり、往生もまた同様。即ち諸行無常、常なる現象は無い。過去に拘らず未練を残さず、未来に囚われて自由を捨てることなく、融通無碍に一瞬一瞬を真剣に生き、足るを知って明日に備えよう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
慧智(050512)

投稿者 echi : 16:12

野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753

『教育』の肝を表わす言葉に、『敲骨打髄』(ほねをたたき、ずいをうつ)という禅語がある。意味は、上っ面にこびり付いた邪心を徹底的に打ちのめして清心を洗い出すことであり、『教育は手を抜いてはならない』ということを表わす言葉だ。言い換えれば、教育をしようとするなら、皮だ肉だで終わるような中途半端なことをせず、骨の髄まで徹底的に染み込ませることが“教育”の根本原理なのだということ。とは言っても、恐怖を与えて洗脳することではない。簡単に言えば“怒ることなく叱り、脅すのではなく励ます”、のであり、“教える側”と“教わる側”が不可分不可同となるように“伝えたい”“学びたい”という心を相互浸透しつつ阿吽の呼吸により教育すべき内容を共有することだ。それには、先ずは自ら学びたいという心を醸成させ、その後に機会を与え、学びの程度を知らせて励まし続けることだろう。言い換えれば、教える側は精神的に成長し、教わる側は知識や技術、心を統合しつつバランスの取れた人間的な成長をすることである。
『禅』の師弟関係を経験すると、“教育”が何で有るかが骨身に染みて解る。私の場合、そこから教育に関するノウハウを構築できたように思う。『禅』の世界では“無個性”こそ最高の個性である。それは個性を“我”として捉え、無個性を“本来の面目”と捉えるからである。しかし、在家の場合は、先ずは“我”、自我を重視する。それは『すべき事』と『したい事』の中間に位置する『出来る事』を合理的に理解させる必要があるからだ。『教育』は“心”+“頭”+“体”に教え込むことであり、それには教える側が“教わる側”の個性(覚え込む順序)を理解し、それにあった順序と教本・教具・教材を使わなくては、途中で挫折するからである。それを少しだけバター臭く小洒落て言えば『心の教えるマインドマニュアル』、『頭に教えるテキストマニュアル』『体に教えるオペレーションマニュアル』ということだ。活人禅の場合は、『価値感(経)+公案+坐禅と作務』となるだろう。話は少し脱線するが、臨済宗は“頭”から曹洞宗は“体”から入り、“心”に浸透させ、頭・体・心が統合されて一人前の僧侶と認める。だから、臨済宗向きの人間と、曹洞宗向きの人間が自ずと居るのである。それが“縁”なのだろう。人間は“教えるべき内容”を身につけるのは簡単で誰でも“先生”になれる。しかし、“教え方”をマスターしている“師”はどれ程いるだろうか。今日は、自分の教育という場面におけるレベルについて考えてみよう。
慧智(050514)

投稿者 echi : 06:11

2005年05月12日

野狐禅和尚の辻説法『一心不乱に坐る』 №751

坐禅儀に『久久忘縁自成一片』、「きゅうきゅう として えんをぼうずれば おのずから いっぺんとなる」と読みます。意味は「縁を忘れて久しく坐禅に打ち込んでいると、内と外の差別区別、有る無しなどの二項対立が消えさり、“ふっ”とした時に己が“自然の一部”であることに気付き、夜(野)坐の折の雨に気付かなくなる。つまり、己と雨と大地が一体となっており、眠さ・痛さ・寒さや時間までも消え失せてしまう。この体験をした日から、坐禅と坐禅以外という対立も自然と無くなる。不思議ななことに犬の糞を素手で片付けても気にならなくなる。正に『森羅万象は無差別』、一切衆生悉有仏性 山川草木悉皆成仏が現実となる。私の経験からすると“先ずは一年”だろう。「世界観が変る」などという言葉では表現できない。偉い偉くない、男だ女だ、善だ悪だ・・・全ての対立概念の妄想的な意味が消える。それは“恥ずかしさ”という心が消滅していることで直ぐに解る。言い換えると、道徳という世界から“超道徳”の世界に移住した感じだ。やさしい言葉で言えば“愛”という奪い執着する心から、無心に与える“慈悲”とも言えるが、愛と慈悲という差別も無くなる。この経験をしたのは10歳の頃だと思うが、それまで何とは無く“生死”の違いに縛られ、亡くなっている方に触れるのが“怖かった”が、『万物即一片』を感じ取った時から遺骨を木槌で叩いて砕いている最中に骨片が飛んできて口に入ってしまっても全く気にならなくなった。それから数年、14~5までは坐禅も室内も楽しくて楽しくてたまらなかった。つまり隻手音声が聞こえ、父母未生以前の本来の面目を探さなくなったということだろう。
 ネット禅会の会員の皆さん!毎日20分、先ずは一年。只管に坐ってみよう。坐り方は大子の禅会で伝授するので、時々は坐りにきてください。夏はサウナのような暑さ、冬は冷蔵庫のような寒さでしか持成しできないが、味噌汁と沢庵と米の飯には不自由はさせないし、トイレや庭掃除から土木工事まで作務も沢山あるので暇を持余すことはないだろう。最低、月に一度は陰徳を積む機会を差し上げるの是非とも大子にお出でください。喜捨・浄財箱も大きいのがあるから、誰からも感謝されずに数億円は捨てられます。身も心も財布も“カラッポ”、これが最高の気分です。是非味わってください。
慧智(050513)

投稿者 echi : 16:14

2005年05月11日

野狐禅和尚の辻説法『不思議なこと』 №750

 時々禅会に顔を出すYさんと六本木のサウナ風呂で偶然に出会い、行き成りの質問攻撃を受けた。
室温は105度、10分も居るとヘロへロ。正直、“熱い”。にも関わらず「坐禅は毎日すると効果があるんですか?」と来た。少し突っけんどに「坐禅に効果なんか無いよ」というと「ありますよ」と反対に諭された。「しかし、毎日は辛いでですよね」というから「毎日だから楽なんだ」というと、「毎日しなければ効果は薄いんですよね」と再び。『坐禅に効果なんかあるものか』というと、「否、絶対ありますよ」と。このままでは倒れてしまうかと思い立ち上がると「心頭滅却できていないんですか?」とやられた。何と言われようと、耐え切れずに外へでて水風呂へ一直線。19度の“水”は実に気持ちが良い。そしてサウナへ戻ると、「修行が足りまへんな~」とやられた。そこで、「だから毎日坐って居るんだ」と返してみた。すると、「でも効果ないんでしょ?」と返された。「そうだ。効果とは目的や目標に対しての評価で、目的や目標を持たなければ効果もない。坐禅は“無心”に坐るんだ。ただ坐るだけだ。だから効果などない。がしかし、変化はある。しかし、変化を目的・目標にはしない。それば坐禅だからね」「ところで、君は毎日、風呂に入るだろ?」と聞くと「まあ、ほとんど」と。「何故?」聞くと、「汗や汚れを落としてリラックスするためですかね」と言葉を選んで応えた。其の瞬間、彼は解ったはずだ。
 “心”を風呂に入れるのが坐禅でもある。汚れが落ちるか汗をかくかは坐り方しだい。しかし、毎日“埃”に塗れるんだから、坐禅が大事なんだ。
禅語に『時時勤佛拭』というのがある。「時時に勤めて佛拭せよ」と読む。私の家ではトイレに書いてある。意味は「常に心の埃を払いなさい、そうでないと“清心”が“邪心”になりますよ」と解して良いだろう。言い換えれば、体と同じ様に、心も毎日、風呂にいれて綺麗にしておきなさい、というようなもの。出典は、『神秀、偈に曰く「身はこれ菩提樹、心は明鏡の如し、時時に勤めて佛拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ。」である。
 風呂は良いな~、と思いつつ、サッパリした心身で帰宅。今日の経験は『一切衆生悉有仏性』、「己以外は皆師」。どこにでも師はいるものだ。
慧智(050511)

投稿者 echi : 16:14

2005年05月09日

野狐禅和尚の辻説法『一苦一楽 一疑一信』 №749

 菜根譚などに代表される徳に敬意が払われていた時代の中国や我が国の『処世訓(≒道徳体系)』では、苦しみがあって楽があり、疑があって信があると人間の“あるべき姿”を説いていた。例えば、『一苦一楽相磨練、練極而成福者、其福始久。一疑一信相参勘、勘極而成知者、其知始真』、「人間は苦楽により磨かれ、磨き切って幸せとなった幸せは長く続くし、時に疑い、時に信じることで磨かれた勘は智慧へと昇華する」というようなものがある。正に“俗”における処世術、教訓として得心が行く者が多い示唆であろう。
 しかし、禅の発想では、それを更に一歩進め、“苦楽一如”と表現されるように、道徳の“それ”を『百尺竿頭』と位置付け、そこから更に歩を進めた地点の境涯の修得こそ悟りの境地としている。当然、我ら活人禅でも同じで、苦楽は不可分・不可同であり、『苦楽一如 疑信一如』、苦楽も疑信も紙の裏表と捉えうることとし、苦と楽、疑と信という相対概念を排した“一如”の体得を目指し、更に更に歩を進めようとしている。では、“そこ”はどんな世界か。それは言わずと知れた『不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏』と言うしかない。
 話は変わるが、最近、各マスコミは“不幸な大事故”をドラマチックに伝えようと、相も変らずの“魔女狩りとリンチ”に終始し、その対象となった愚か者は“その”挑発に乗って“世論”と称される無智な群集の声の一翼を担っている。冷静に合理的に考えれば、事故の日に宴会をする・しないは、“当事者”の価値感の問題で、我々が当事者の話も知らずにマスコミのシナリオに乗って、その善し悪しに関与すするのは如何なものだろうか。我々が大切にしなければならないのは、他人への軽率な糾弾ではなく、知る限りの事実を踏まえ、そこから“私”なら“どう”するかを自身に問い、“私の心”を知り、何かを学び、それを教訓として自分を成長させることではないだろうか。“それ”を『常識』という個人の勝手なローカルルール(価値感)を、公共性を謳い文句にするマスモミの挑発に乗ってインタビューに子供のように感情向き出しで応じているのは“目糞、鼻糞を笑う”が如きの軽薄さである。そして、原因探求も済んでいなければ、裁判も始まらない事件に対し、その関係者を感情だけでリンチ断罪するような風評をつくるなど、大人のすることではない。そもそも、他人の不幸をこれ見よがしに題材として視聴率を上げようとするマスコミの下衆な態度は、“宴会やゴルフ”に参加したと言われる者と大差ないだろう。
 それが“不幸な出来事であれ幸福な出来事であれ”、起きてしまった事故は『事実』であり、それを変えることはできない。問題は、それに対して当事者・関係者が“どのように”受け止め、行動するか、傍観者である非当事者は“それ”から何を学び、如何なる教訓をつくるかである。そうでなければ、“亡くなられたり怪我をされた直接の被害者”の不幸な経験は“無駄”になってしまう。
電車事故の少し前にあった“ホリエモン騒動”はスッカリ影を潜めているが、『過去は確定・未来は可能性』と言われ、“今・此処”こそが現実であるように、世は“諸行無常”、全てが“今・此処”という瞬間以外は全て“変数”であり、それらを我関せずの“他人事”として傍観するのではなく、己以外、森羅万象の全てを師として“自分事”として受け入れ、それに学び・昇華し・教訓として凝縮し、一瞬先の思考・行動に反映することが大事だろう。
 考えてみて欲しい。この世の中は、誰でも例外なく、一寸先には加害者となることも被害者となることもありえるのだ。その時、“如何に対応するか”が“その人”の価値を決定するということを。
 『覆水盆に返らず・・』、『死んだ子の年を数える・・』といった過去への囚われ、己の信じる常識への過度の拘りは、我々の悲しみや苦しみを助長強化するだけであり、先の事件の犠牲者の平成化を妨害したり、置き石事件や被疑者となっている会社の社員に対する暴力事件など第二次第三次の事故を引き起こすのだ。
社会でも企業でも、平時においては『公私混同するな・感情を仕事場に持ち込むな』と叫びつつ、有事となれば『公私混同を要求し、“動機付け”と証して仕事場に感情を持ち込む』ように圧力がかけられる。活人禅会のメンバーなら理解できるだろうが、『公私一如』であり、平時有事も一如であり、目の前にある『出来る事+すべき事』に自分に恥じることの無い方法で全力を尽くせば良いのだ。
ここで、もう一つ考えて欲しい。最近の“お騒がせ”を子供達にどのように説明し教訓とさせるか。それが我々“大人”の使命ではないだろうか。ところで、皆さん、振り返ってください。身近な子供達には今回の出来事を“どのように”解説し教育の素材にしていましたか?
慧智(050509)
●お願い:体調が不安定なので“辻説法”が間欠するかもしれませんが、私は生き抜きますますので、時々は覗いてください。

投稿者 echi : 16:15

2005年05月08日

野狐禅和尚の辻説法『“無心”を感じさせる』 №748

 坐禅をしていてもなかなか“無心”になれないんです、という参禅者がいた。
「本当に“無心”になりたいのか?」と聞くと「本当です」と返ってきた。そこで、「少し辛いぞ、我慢できるか?」と聞き返すと「耐えます」としっかりした返答があったので、私は、参禅者の鳩尾を思い切り打った。考えてみれば空手・柔道・合気道それと書道を合わせて12段の小衲の当身はかなり効き目があったらしく、暫らく声も出ずに蹲っていた。暫らくすると、「何をするだ!」と烈火のごとく怒った。そこで、「無心を感じられたろ」と言うと、「冗談じゃない、痛いだけだ」と。すかさず、「それで良い、それが無心だ」と言ったが、禅堂には二度と現れない。
未知数Nを知りたければ(N-1)を知ることだ。(N-1)は(無心-痛さ)なのだが、解ったかな~。“痛い”という事しか感じない一瞬こそ“無心”なのだが・・・。
慧智(050508)

投稿者 echi : 16:15

2005年05月07日

野狐禅和尚の辻説法『理事=事理=止揚の姿』 №747

 今日、午後遅くからハンデのある子供達を支援する団体の会合に呼ばれ、“理事”を依頼された。そこで就任に際し、“理事”の使命について話させてもらい、“その”認識で良ければ引き受けると話した。そこで気付いた事は『理事』という役割が寄附行為に示された法律上の権利と義務については衆智なようだが、『理事』という呼称が本来持つ使命について知らない人が多いのには驚いた。
 そもそも“理事”とは、仏教用語であり、“理”+“事”=理事または事理である。“理”とは『万法帰一』の論理で一元論を代表する『絶対的本質』のこと。“事”は表面的現象で相対的・差別的現象のこと。つまり、“理事”とは、二元論、一元論を止揚した“無”を司る役割で、表面的な損得、良悪、道徳的な善悪などを超越して、真理を探究する道の目的目標を失わせないようにする役割と考える事が出来る。正に“禅”の実践者なのである。つまり、理事会は、判断機関ではなく決断機関であり、団体の代表である理事長の執行を監視して助言する役割があり、それを委託することは“目的達成”の番人になることでイエスマンでは絶対にありえないし、執行役である理事長の部下ではないのである。
 まあ、平均年齢60歳を超える“大人”に対してお話しするようなことではないとは思いつつ、ついつい強い言葉になってしまい、反省している。
 それにつけても、日本人が日本語を知らないという現実は怖い。漢字は表意文字であり、単語は固有の意味を伝承してきている。そして、熟語、文節、文脈を構成して“意思・意図・意味”を伝えている。つまり、文中、話中の登場するキーワードの一つでも意味を取り違えれば、話し手・送り手と聞き手・受け手の間には大きな認識のズレが生じるのである。「“こう”言ったつもり」、「“そう”聞いたつもり」が大事件を生むこともある。
 日本語は美しいし、意思疎通には素晴らしい潜在力を持つ言葉。大事にしたいものである。
慧智(050507)

投稿者 echi : 16:16

2005年05月05日

野狐禅和尚の辻説法『先入観は“愚行の源”』 №746

 『無心帰大道』、無心なれば大道に帰す。無心とは、先入観の無い心を言うし、禅はそれを平常心という。つまり、平常心とは一切の先入観を持たない心の状態で、心が自由自在に動き、大道(真理)に統合された、父母未生以前の在り方そのもので、一切の創造の源となる心です。そして、それが“本来の心”であり隻手音声を聞くことが出来る唯一の心です。
 しかし、人間の神経系には、過去の成功事例をパターン化して認識し、高速で情報処理できるような単純化システムがあり、“先入観”を持つことにより表面的には“便利”に生きて行ける部分があるのは事実です。つまり、赤信号は止まれ、車は左・人は右。雨の日には傘を差す。睡眠時間は8時間必要。魚や野菜は買うものだ、というようなことです。つまり、反射に神経に入れて良いほど単純な情報処理の結果としての行動を、一々“何故か”と考えていたのでは時間がいくらあっても足りないというものでしょう。しかし、同時に、“それ”を思い込んでいれば、パターンから外れた現象が有る以上、事故に見舞われることもあるし、心気症になる確率は高まるし、発見のチャンスを逃すこともあるだろう。
 さて、あなたは本当の自由を取りますか?目先の便利を取りますか?このような聞き方をすれば、大半の方は「自由」を選ぶと言うでしょう。しかし、その質問と回答にも“先入観”が作用しています。解りますか?ヒントは“言葉”です。次に、一般に言われている“先入観と固定観念”の意味の違いを意識して使っていますか?それとも無意識ですか?先入観ですか?。その答えのヒントは“する前”、“した後”、経験の結果か、体験の結果という違いにありますが解りますか?
『禅』は、“二元論”という目先の便利である先入観を捨て、『万法帰一』である本当に自由な“一元論”を説き、先入観や固定観念などの“無縄自縛”を“拘り”、“囚われ”、“偏り”と呼び、過去の経験に拘り、常識にという幻想に囚われ、理か情とい二項対立の片方に偏るなどが“苦”の源泉と説いています。
 我らが精進している『活人禅』では、“苦”は“愚”の結果ではあるが、“楽”への過程と解いています。ですから、『一切皆苦』は同時に『一切皆楽』であり、それを『一切皆空』と説いています。つまり、『諸行無常』の此の世に先入観は危険極まり無い無用の長物なのです。現代において必要なのは、臨機応変の行動を支える“自由な心”であり、一切の先入観を捨て去った心なのです。なお、先入観は、別名『選択肢の制限』と言われてます。それは何故だと思いますか?言葉を使わずに思いを集中して坐って観じてみましょう。きっと気付くでしょう。
慧智(050505)

投稿者 echi : 16:16

野狐禅和尚の辻説法『“利行”という生き方』 №745

 “利行”とは、道元禅師がしばしば使われている『利を生み出す行為』のことです。道元さんは、“利行”を“一法”と述べ、大乗仏教の“自利と利他は一如”と同じです。
「愚人(ぐにん)謂(おもわ)くは“利侘(りた)”を先とせば、自(おのずか)らが利省(はぶか)れぬべしと、爾(しか)には非ざるなり。“利行(りぎょう)は一法”なり、普(あま)ねく自侘(じた)を利するなり」と修証義にあります。
意味は、「愚か者は、相手を利すれば、自分は損をするのではないかと考える、と普通の人は“そのように”考えるが、それは間違いで、本物の“利”は相対的なものではなく、絶対的であるから“利”は全ての人々に向く」と言い切っている。
 このことは経験した人間ではないと解らないだろうが、エジソンやベルの発明を想像してみると何とは無く追体験できるのではないだろうか。彼らの発明や発見は自分の利益を目標にしたのではなく、結果として莫大な利を得て、それを社会へと循環させたのである。勿論、莫大な特許料を得て“大儲け”したのは事実であろう。それで得た金が、社会の解釈から有意義に使われようと、仮に浪費に使われようと、結果的には社会を循環し、不特定多数の者の財布を経由したし、一つの大きな発明が産業の勃興に関わり、不特定多数の人の利となったことは事実なのだ。そこで、忘れてはならないのは“利”とは何か、ということである。前出したように我々活人禅では『自利利他一如』が説かれている。その“利”は、『無心からの創造の結果』であり、自分を利するとか、他人を利するとかを超えて、不特定多数への貢献意欲に基ずく行為です。それが“菩薩行”です。お解りですよねKさん。「したいこと」とは、『不特定多数の為に“したいこと”』というのが、真意で、“自分勝手な思い”ではないのです。しかし、それを理解出来る方は少ないのです。もし理解出来ていれば、『したいこと』=『すべきこと』で、必ず『できること』になるので、大願は成就するのです。小願は、自分のための小さな願いで、成就するのは難しいのです。しかし、大願は小願を含んで成就してしまうのです。ですから利行一法、自利利他一如なんです。
慧智(050505)

投稿者 echi : 06:17

2005年05月03日

野狐禅和尚の辻説法『謙譲の美徳は死語ですか?』 №744

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害は其の身に至る。己を責め、他人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」は、戦国時代を締め括った徳川家康の遺訓です。そして、天下取りの時間に大きな差が出た戦国3武将には、彼らを評した連句があり、それぞれに感ずるところがあるでしょう。
信長を評して「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」
秀吉を評して「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう 不如帰」
家康を評して「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」
 自己肯定を望む多くの人は、自分と似ているように感じる武将を贔屓目に観るようです。
あなたは、3人に内で誰を贔屓にしますか?
 さて、家康の遺訓を眺めましょう。彼は、幼少の頃から“人質”として肉親と離れた“不自由”な生活経験があり、また、戦国の世を最も長く経験し、中年になって“天下”を取り300年の徳川時代の祖となり、その経験から子孫に伝えたい事を言葉にしたのでしょう、かなりの重みが感じられます。遺訓のポイントは『焦らず、足るを知り、無事を最良として、他責的にならず、一歩を譲って、淡々と生きる』ということでしょう。信長も秀吉も家康も、茶道を通じて『禅』と交わっことは衆智ですが、禅者らしいのは家康のような気がします。
 競争に勝つ事が“美しい”ですか?負けることは“醜い”ですか?“勝ち負け”は所詮は相対的で、勝っても負けても、競い争うことでの弊害は内包しています。一方、一歩を譲る生き方、“謙譲を美徳”として生きる事は、情け無いですか?カッコ悪いですか?
「すべき事」の中に「出来る事」を発見し、淡々と実行してゆく。ふと気付くと“それ”が「したい事」だったという経験はありませんか?「したい事」を優先すると対立が起るが、「すべき事」を優先すると協調が生まれるとは思いませんか?何れにしろ日々精進。「出来る事」を拡大する必要があるでしょう。自分の人生を振り返ってみる、僅かな選択肢しか無かったが、出来る事で、すべき事をして、その成功が、それらを徐々に“したい事”に変身させてきたようにも思います。勿論、如何なることも“決め付ける”事はせず、“縁”に随い、条件の範囲内で“工夫”して“川の流れに乗る”ように生きてきたように思います。もし、この命が保てれば、今年の暮れには55歳になります。さてさて、明日は新しい日。一日一生の今日は、明日も目が覚めることを期待して終わらせることにします。
慧智(050502)

投稿者 echi : 16:18

2005年05月02日

野狐禅和尚の辻説法『まあ、お茶でも一服』 №743

 良寛さんの戒語の一節に「悟り臭い話、学者臭い話し、茶人臭い話、風雅臭い話しは頂けない・・・」と言われるのに得心が行く。利休百首での『守り尽して破るとも離るるとても・・・(守破離)』は忘れられている。互助は競争に、慈悲は執着(愛着)に、楽は苦に、布施は略奪に・・・、表層は深層の流れに逆らうこともある。分別臭いことはナンセンスだが、最近の日本を眺めると“振れ幅”が大きいのは事実。仕事は誰にとっても修行だろうが、何のための修行だろ。諸法に実相あり。大道の先は“大安心”。無対立・無犠牲・自主独立。いつもニコニコ、自他ともに虐めず、一歩を譲りながら協調しながら中庸の道を歩むことが処世術のはず。まあ、ジタバタせずにボチボチと歩くこと。
 さあ、お茶でも飲もう。寝る時間が無いほどバタバタしている病持ちは、今日もバタバタ。反省!
慧智(050501)

投稿者 echi : 16:18

2005年05月01日

野狐禅和尚の辻説法『大器晩成』 №742

 Xさん、近況メール有難う。連休は、迷いを吹っ切るために坐禅三昧のXさんに贈ります。以下は、2年前の7月に『超訳・菜根譚・前集222項』で書いたものを再掲し、言葉を加えています。
■前集222項 原文
桃李雖艶、何如松蒼栢翠之堅貞。
梨杏雖甘、何如橙黄橘緑之馨冽。
信乎、濃夭不及淡久、早秀不如晩成也。
■読み下し
桃李(とうり)は艶(えん)なりと雖(いえど)も、何(なん)ぞ松蒼栢翠(しょうそうはくすい)の堅貞(けんてい)なるに如(し)かん。
梨杏(りきょう)は甘(あま)しと雖(いえど)も、何(なん)ぞ橙黄橘緑(とうおうきつりょく)の馨冽(けいれつ)なるに如(し)かん。
信(まこと)なるかな、濃夭(のうよう)は淡久(たんきゅう)に及(およ)ばず、早秀(そうしゅう)は晩成(ばんせい)するに如(し)かざるなり。
■超訳
桃やスモモの花は艶(あで)やかだが、松や柏の常緑の強さには及ばない。
梨やアンズの実は美味しいが、黄色のダイダイや緑のミカンの芳香には及ばない。
何はともあれ、艶やかでない物は、さっぱりして長続きするものには及ばないし、早熟は晩成に及ばないのは事実だ。
つまり、世間の評判がよい早熟で表面的な知識や技術を実力と勘違いした頭脳派は、たっぷりと時間がかかった実質的で内容の充実した“経験者”には及ばないということ。
言い換えれば、現代は、早熟・軽薄短小が持て囃されているが、晩成・重厚長大の素晴らしさこそ本物だろう。他人に何と言われようと、コツコツと地道な人生を歩むことが“本者”の人間の道だろう。仕事か、会社か、帰属を問う“自利”も良し、不特定多数の最大幸福を支援する“利他”も良し。真の自利と利他は、不可分不可同。過去は囚われないこと、未来に拘らないこと。“今”を無心に生きてください。自分の決断を信じ切ってください。何処に居て、何をしていようと、貴方は貴方なんです。貴方は貴方を磨き上げるんです。それが利他に通じるのです。“未知数”は外にあるのではなく内にあることを忘れずに。そして“外”も“内”も、貴方を含む宇宙の従属変数(これを“縁”といいます)で、世の中には相互浸透(因果といっても良い)から逃れた“独立変数”などは無い、ということも忘れずに。
なお、『大器晩成』という言葉は『老子41章』に出てきます。時間があれば『老子』も一読されると良いでしょう。
慧智(050430)

投稿者 echi : 16:19

2005年04月29日

野狐禅和尚の辻説法『人間の思考』 №741

一人一人が個性的である人間を其の抽象性、不確定性を超えて断定する表現はナンセンスであるが、それでも“人間”という表現を使う場合、多くは生物学的共通性に起因した生理学的存在として人間を見据えた場合である。『人間は考える葦である』と言ったのは哲学者で数学者、物理学者のパスカルであるが、そのキーワードが何を言わんとしたことかは、その前後の言葉から感情を排して推し量るしかない。ここで“感情を排して”と付け加えたのは、電車事故を素材に視聴率を上げようとするために、被害者を“哀れ”の対象、加害者を“悪”の対象として強調して、裁判をする以前に“リンチ”を楽しむ大衆に迎合し、大衆を煽動する卑劣なマスコミへの警鐘を鳴らしておきたいからである。話を戻す。
パスカルは『人間が葦の如く弱い存在であることを知っている人間は、“考える葦”として“知らない宇宙”より偉大であり、全てを知り尽くしていることより“小さな愛”の業の方が更に偉大である』と発言し、『物体→精神→愛』の連関を通じて“秩序の三段階”を明らかにした所謂“実存主義”の先駆者と言われている。勿論、パスカルの考えは釈尊に比較すれば明らかに稚拙で非科学的ではあるが、そこから欧州型道徳(モラール)に言及しその後の教育者の愛読書となる著書『パンセ』に昇華できたのは評価できる。ここで活人禅会会員に考えてもらいたいのは、『人間と物』を二元として捕らえていることである。それは何故なのか。
 人間の生理メカニズムの知覚的現象の一つは、皆さんが日常的に経験するように、『動いている時は考えられない・動かないでいるときは考えてしまう』ということ。『肉体的に疲れ果てている時は何も考えられない・(精神的な)悩みに苛まれているときは動けない』ということです。そして“坐禅”の初歩段階では『止静』の状態になると“雑念”が景色を隠す雲のようにモクモクと湧き出してくるということ。山作務で全力を出し切っている時は、考えようとしても“その考えや思い”も消え失せてしまっているということです。そこから、禅では畑にしても山にしても“作務”の効用が積極的に利用されています。このような説明に馴染めない方もいるでしょうから、『紅茶ポット』をイメージしてください。ポットに茶葉を入れ、90度の湯を指すと茶葉はダンスを始める。そして1分もするとポットの中で踊っていた茶葉は、静かに底に沈む。そして、それを持ち上げてカップに注ごうとすると茶葉は巻き上がる。この風景を居間のテーブルで目撃すると、人間の思考と行動の関連に気付く人は多く、有る意味で“自然”を感じるだろう。そして、それを感じると多くの禅者は、『碧厳録』の「魚行きて水濁る」という言葉を連想するようだ。ところが、この句は、『己が動いた後に己の道は出来る』という暗示であり、動かなければ360度全てが道だとも暗示しているので、連想が、どのようなニューロンのスナップから起きたのかは修行を積んだ師家なら直ぐ解る。
 考える事は“雨”に似て、思う事は“雲”に似ている、といわれる事があるが、『思+考』を切り離して“考えられない”のが現実である。
まあ、パスカルは、“人間は考える葦だと思った”と考えるのが妥当だと私は思う。
さて、活人諸君。電車事故の周辺から学べ!。それが出来なければ、無くなられた方は“犬死”だ。過去は変えられない。過去に執着したり、未来の囚われていると“苦”しかない。やり場の無い悲しみや苦しみは“やり場”をつくり上げ、認知的不協和を作り出して抽象的な不安や苦しみを、具体的な怒りに転換して、心を整理しようとするが、傍目には“気の毒”としか思えない。亡くなられた者は決して帰らないし、魔女狩りでの腹いせは、生きている己を更に悲しみへと向わせ、“大安心”という幸福から遠ざけてします。つまり、不幸の悪循環が始まってしまう。人生は諸行無常。時は人を待たない。大事なのは『全力で生き、全力で死ぬこと』。いつ何時旅たっても後悔しないし、残すものに悲しみを贈らない生き方がある。今日は連休の入口。時間が有るときこそ無為に時を過ごさず、日常の『事実』から坐禅を通じて何かを『発見』し、それを『教訓』として脳細胞に刻み込み、今この場の己の生き方を『宣言』してみてほしい。それが“活人4行日記”という、文字を使わない“ハイパー4行日記”なのである。因みに、私は“これ”で生きている。それ故に『一日一生』と断言できるし、死ぬ覚悟と生きる覚悟を止揚した生死一如を体現できるのであり、末期癌と共存する体質を作れるのだと思う。
慧智(050429)

投稿者 echi : 16:19

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740

 『真玉泥中異』は、「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読んでください。この句は、景徳伝燈録にでてきます。『本物は何処に居ても異彩を放っている』というもので、己の不遇を嘆くことに警告を発しています。転じて、『他責的になるな』という警告でもあります。
 人間は須らく“縁”により生じ、縁あって居場所がきまります。つまり、何処に居ても“そこ”が晴れの舞台です。ですから“そこ”で輝いて居なければ“本物”ではないのです。言い換えれば、与えられた境遇をイキイキと生きて居る人が本物です。自分の評価は自分では出来ません。“今の境遇”に不満を抱かず全力を出していれば、自然と『随所で主となる』を実践していることに他なりません。随所で主となる心をもっている人を“主人公”といいます。舞台で馬の足を演じていても光るし、会社ではどんな制裁人事に遭おうと、配属先で輝きます。Sさん、4月の人事異動はショックだったのでしょう。しかし、それこそがチャンス。貴方の本物をだしましょう。これまでは部署が貴方を飾っていたのでありあなたのアウトプットはバブルだったのではないですか?左遷されたと思う、被害者意識や他責的な発想に変るようでは、馬子が衣装で殿様と勘違いされ、殿様という椅子の権威で評価されていただけではないですか?。本物の殿様は裸になっても殿様です。つまり、本当に実力が有る者は、どこに居ても主人公です。そして実力者に「あなたは何故輝いているのですか」と訊ねると、「そうですか。有難う御座います。しかし、どこにあっても全力で生きて居るだけですか、他人の評価を気にしたことはないので、輝いている自覚はありませんね」というような反応でしょう。つまり、『何処にあっても全力』『どこにあっても“足るを知る”』、それが出来ている人が“真玉”であり、泥の中でも輝いている人だと思いますよ。
 「暗いと嘆くより、自分が明かりになりましょう」それが“伝燈”の心です。
Sさん、手紙を頂けたこと嬉しく思っています。気が向いたら禅会に来て下さい。
慧智(050428)

投稿者 echi : 06:20

2005年04月28日

野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739

 昨日、参禅者から「悟りとは無を知ることですね」と雑談の中で聞かれた。“問われた”のではないので、言葉の限界に挑戦するなどとは思わないが、言葉で伝えようと次のように話した。
「少なくとも“無”を知ることではなく“無になり切る”“一切を無に帰せること”が悟りの一面ではある。つまり“思い込む”ことではない。そしてそれは自分を無意味な“有”として感じられる程度ではなく、理性は元より、あらゆる感情、あらゆる情動、あらゆる意欲を無くし、尚且つ“空しさ”をも無くした経験を持たない者は、悟りを“概念”としか捉えられず、言葉を知っただけで、実際には“悟り”に至ってはいない。そして、そこに至るには、言葉や記号を以て極めようとすることを完全に断念するまで、己の力で思考を停止させる、つまり“我”は言うに及ばず“己”を殺せない限り、“無”を知ることは出来ないし、従って“無”になり切ることはできない。そこが『竿の先』であり、菩薩はそこの更に一歩先に居る者であるが、それは同時に、“それ”を求めて精進して居る者でもある。故に“悟り”とは“何か”なので、無になり切れたと自覚することではなく、“それ”を知った者により“感じられる”ことしか“それ”に達したか否かは解らないのである。即ち“それ”が悟りであり、悟りとは“それ”以外には無い。そして、“それ”という言葉も捨て、“それ”と不可分不可同となった状態が“それ”なのであり、“それ”を『糞箆』と言おうと、『麻三斤』と言おうと『“それ”は“それ”』なのである。『仏は仏でないから仏と呼ばれている』、もし“それ”が仏なら、呼称に縛られない自由があり、表現に限界の有る言葉には依存しないのである。」と話した。
 以上から、禅に於ける悟り、真理の探究など、どんな表現でもかまわないが、言葉の体系で有る“学問”、感情の体系である芸術など、無限と評される限界を極め、究極の一歩手前で知った限界を超えて始めて“悟り”を体験できるだろう。助言的に言えば、“何かを極めて、それを捨て去ったところに“それ”を体験する瞬間があると言える。
 過去、何度このような虚しい試みをしたか忘れたが、“坐禅”であれ“悟り”であれ、『体験しなければ解らない』ことを言葉に依存した『頭から頭へ』という“以頭伝頭”は虚しい限りである。つまり、その空しさを脱却し捨て去れるのは『心から心へ』“以心伝心”しかないのである。正に『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』。今、私が“仏”とは何か、と詰められれば「ローマ法王の屁」だとでも応えよう。
慧智(050428)

投稿者 echi : 16:20

2005年04月27日

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

 大事故が起きた。死者や怪我人が多数でた。何とも痛ましい。謹んでお悔やみを申し上げます。
最近、天災や人災の多くが記憶に残っている。視聴率至上主義のマスコミにとっては痛ましい現実もチャンスであることは否めない。キャスターやコメンテータと言われる輩は、“ここ一番”の顔つきと声で弔意を表現する一方で、恰も裁判官か検察官気取りで“魔女探し”を嬉々として勤しんでいる。何とも情けない。
事故があったのは事実。事実を受け止めるには“心”を動かしてならないのは人間としての基本。心が動けば事実は解釈され、“情動や感情”を動かして、事実が心象と化し、正しい理解や対応が出来なくなる。人間は情動・理性・感情を錯綜させて生きて居るのは事実で否定しようはない。確かに、情動や感情(俗に“心”といわれている)を動かす事から喜怒哀楽が生まれ、それが人間らしさだという考えもある。しかし、同時に、喜怒哀楽がストレス反応を引き起こし、“苦”の源泉になっていることも事実。生理学的に考えれば『苦楽一如』、“苦”はハイパーストレス状態を加速させ、“楽”はアンダーストレス状態を加速させ、共にディストレス状態を招いている。俗な言い方をすれば、笑うこと、泣くことは、共に同じ作用をするストレス因子として健康にダメージを与えることは広く知られているし、無表情はアンダーストレス状態に繋がることも知られている。そして、ニコヤカに微笑んでいられる状態こそが、健康を促進する状態で、心が動かず安定した状態でる心身がバランスの取れ、“至福感”の源泉であることは常識のはず。にも拘らず、“知って意味の無い情報”、無智な者に先入観を持たせるような動きが、何の疑問も無く社会のシステムに組み入れられている。悲しい者の悲しみを煽る、苦しい者の苦しみに油を注ぐ“マスコミ”という暴力装置は困ったものである。
私達は、正しく見る、正しく聞く。正しく理解する、正しく行動する、正しく反省する、正しく成長することを理想(道徳)としているはず。勿論、正・誤は相対概念であり、絶対的では無く、それに拘り、囚われることことは厳に慎むことも同時に教えられてきているはず。だからこそ、無縄自縛に注意し、諸行無常を念として臨機応変に暮らすことを、社会のありとあらゆる機会で教えられてきたはず。『他人の振り見て我が振り直す』ことを北朝鮮や中国の教育から洗脳の怖さを諭されたはず。
過去は変える事は決して出来ないし、未来は可能性しかない。そして我々は“今・此処”を通過している現象である。
“幸せ”とは何か。心が落ち着いて動かず、如何なることも素直に受け止められる冷静な状態が続いていることだろう。言い換えれば“大安心”の状態ということだ。
坐禅は“流言蜚語”に踊らされることを減らすな、と最近の参禅者から見て取れる。
さて、“幸せ”とは、どんな“心”の状態か。被害者に哀悼を捧げるとともに、他人事に終わらせず“自分事”として、幸・不幸、事実と解釈など“二項対立・二律背反”について考えてみよう。
慧智(050427)

投稿者 echi : 16:21

2005年04月24日

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

『禍は慎家の門に入らず』、慎みを忘れない家には禍は起きてこない、という意味です。正に、と思いつつも難しいな、とも思えます。自分としては“厳に慎み深い”と思っていても、“慎み”という意識は相対的で、慎んで居るつもりでも相手はそのように思わないということもあります。『長者の家は暗い』という戒めがあります。周囲の者から“妬まれない”ように、富める家は夜になれば早々に雨戸を閉めて外から見えないようにして余計な嫉妬の対象にならないようにすると良い、というのが表面的な意味で、背景には「禍は慎家の門に入らず」という心が伺えます。しかし、富む者と貧しい者にどんな違いがあるのかと考えると、なかなか難しいものがあります。一般的には地位や名誉などなどが思い起こされますが、それは貧者の発想で、富める者、長者の発想では地位、資産、収入などでは貧富を決められないというのが標準的な考え方です。それは高学歴なものは学歴の意味を知って意味が無い事を実感できるが、そうでない者は、それを信じられず、高学歴者の学歴無用論に疑心暗鬼を持つのと同じです。仏法が規準とする貧富は、資産、地位、名誉という相対的なものではなく、“心”であり、“与えられる者は豊か”と考えられています。何を与えるかは、与えられる物・事は全てです。言い換えれば、不特定多数のために役に立つ者が豊かな者です。言い換えれば、何事にも囚われず、拘らず、偏らない利他の心を持つ者が“豊か”と言っても過言ではありません。そこには地位・名誉・資産は関係ありません。しかし、“偽善”は困ります。偽善者ほど“貧しい心”の持ち主はいないからです。
つまり、『禍は慎家の門に入らず』とは、“慎み深く暮らす事”を言行一致で実践できる者といえるでしょう。現代的に言えば、どんなに社会的に評価されても“驕らない人”ということでしょう。勿論“だからこそ”不愉快だと思われる嫉妬心を抱かれる場合もありますが、それに耐えてこそ真に“富める者”と言えるでしょう。
なお、禅では以上の話の“まだ先”を教えています。『本来無一物』という言葉に代表されるように、人間は最初から全て備わっているので、それに気付き、実践している者が“富める者”だということです。しかし、これの悟りに達する道は厳しいが、また本当に豊かな気持ちになるのも事実です。この道を一緒に歩きませんか?
慧智(050424)

投稿者 echi : 16:22

2005年04月23日

野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735

嘗て、師匠に「眠いなら岩の上で坐っていろ」と坐禅中に居眠りをしていた私に“喝”がとび、警策が唸りを立てて方に食い込んだ。
今日、暁天で久々に禅堂の前の“張り出した石”に坐った。顔に差し込む日の出は眩しい。しかし、素晴らしい。鶯は鳴き、山桜の花びらは朝日を浴びて薄桃色。若葉は勢いがあり、足下は百花繚乱。眠さが残っていた故に、石坐(当禅堂の居眠り者御用達の単)に坐ったが、余りの風景に、二重の意味で目が開いた。その時、思い出した禅語が、『無賓主(むひんしゅ)』という言葉。通常は、山岡や宮本などの武芸者が“剣禅一如”と敵と己を合一して戦わずして勝つというような場合や茶室での“決闘”に似た主客など、人と人の関係に於いて使われる。意味は「主は主に徹して、客は客に徹することにより、主客の対立を超越する境地」のことで、意外と理解し辛い。易しく言おうとすればするほど難しくなるが、まあ、「自分の立場と相手の立場を瞬時に見極め、阿吽の呼吸で相手と自分を相互浸透させて一体にとなり、“相手が自分であり自分が相手である”という心境になること。二項対立を瞬間に止揚した境涯と言ってもよいだろう。また、“無心”への昇華と言っても良いかもしれない。
 目に朝日が飛び込み、鳥が鳴き、青空を静かに雲が流れ、少しヒンヤリとした微風が竹を戦がせ、我が頬を撫でる。其の瞬間、私は“自然の一部であり、自然は私の一部”であることを感じ、次の瞬間、己と自然の区別が無くなり、大声で“喝!”と叫んでいた。
 何気ない日常に、真理が生きている。“無心”とは、心の完全なる拡散。何ものにも拘らない、囚われない、実に清清しい自由な気分だ。
慧智(050423)『自然の声は辻説法』。春の大子にて

投稿者 echi : 16:23

2005年04月21日

野狐禅和尚の辻説法『丈夫面上に紅粉をつく』 №734

この句を何故覚えているかは定かではないが、『男の顔に紅を差す』ということ転じて『いらぬ細工をすれば余計に見苦しくなる』という意味だろう。
先日、東京原宿の喫茶店で、辻説法をしていたところ、“スカート”をはいた20才程の“男の子?”が私の前に坐り、熱心に私を見ている。決して話を聞いているのではないようだった。そこで、「何か聞きたいのか」と訊ねると「その“前掛け”みたいな物はどこで買った?」と聞かれ、「どれ?」というと、どうやら『絡子(らくす)らしい。『絡子』っとは、修行僧や住職が普段に掛けて“平式の袈裟(五条袈裟の小さいもの、大袈裟でないもの)”で、禅宗の僧侶が行雲流水の如く所定めずに行脚する際に墨染(すみぞめ)の直綴に墨の手巾(しゅきん)、丸ぐけの帯を締め,白脚絆に草鞋(わらじ)に『絡子(らくす)』を肩に掛けその上に頭陀袋(ずだぶくろ)を吊している“それ”だ。「これか?」と訊ねると「そう、それ、どこで売っている?」と。「何だ、欲しいのか」という「カッコイイ」という。「それじゃ、寺に来いよ。一つやるぞ」というと、「今、売ってくれないか」ときた。何やら“フリマ”の店主の気分になった。そこで、「いくら出せる」というと、「触らしてくれ」となり、「300円で買う」と言われた。流石に“まいった”。そこで、「ところで、何でスカートをはいているんだ」、「衣と取り替えようか」と持ちかけた。すると「そんなボロじゃ、嫌だ」ときた。「良いじゃないか、俺のもスカートみたいなもんだ」と立ち上がると、「結構良いかも」だそうだ。こんなやり取りのなかで、フッと思い出したのが『丈夫面上に紅粉をつく』、人の振り観て我が振り直すか・・・。原宿では“雲水衣”もファッションにしかならないのかな?まあ、しかしだ、後で聞いたが、彼の姿は少々古いが“裏原宿ファッション”らしい、略して“ウラハラ族”と聞いたが、私には『裏腹(うらはら)』としか聞こえなかった。
何事も、要らぬ細工は見苦しい。今度の辻説法は“ホリエ門ルック”とするかな。
慧智(050421)

投稿者 echi : 16:23

2005年04月19日

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №732

 “山寒花発遅”は、「山寒くして、花のさくこと、おそし」と読むのが一般的です。意味は、『人々に生きる慶びを与えられるような在り方は、長く厳寒風雪に耐えた分、一気に開花する北国の春のように、大器は晩成だということ』でしょう。
 福島以北、標高1000メートル以上の地の春は、梅桃桜梨の花、草木の新芽が一気に咲き、雪深いところであればあるほど“百花繚乱”という言葉に相応しい春が来ます。それは里や都会の春とは比較にならないほど、人々に大きな喜びを与えています。
 都会の青年の“早熟”も結構ですし、“温室育ち”“純粋培養”の特別コースも結構ですし、反面、田舎育ちの歪な天下獲りも、滑稽で微笑ましいのは事実ですが、艱難辛苦に耐え人間として大切な“利他”の心というのは、その完成に至るまでに時間がかかるものです。そういう意味で“東北の春”に準えた「山寒花発遅」は、味わい深い言葉です。
まあ、自分は大器だとか、反対に大器ではないという自己評価を聞くたり読んだりすることがありますが、発現を耐えに耐えた“晩成”は、なかなか難しいもので、江戸期や明治時代なら兎も角、平均寿命が80歳を超えている現代において、三十や四十の“未盛年”が、何を生き急ぐのか“成功”に固執しているのは、微笑ましいが、更に若い“未来の日本人”にとっての鏡としての“不特定多数の者に喜びを与えられる”という“成功(こうをなす)”なのかどうか、甚だ疑問があると感じます。
 蛇足ですが、“金儲けと借金”は下手でコツコツと陰徳を積める者は、出家・在家を問わず限りなく少ないが、だからこそ、日本人として『目指したい人間像』ではないだろうか。中国からの反日のテレビ中継を見ていると、さすがに歴史教育を操り帝国主義を実現した国の若者らしいなと、その軽率な発言から感じます。まあ、現代中国は、数千年の過去の栄光を捨て、焚書と洗脳と徴兵などを伴い独裁者が60年で築いた国だけに、過去、我々が鏡として学んだ4000年の歴史に裏打ちされた中国とは無関係なのだな、残念だなと思うのは私一人だけではないでしょう。『山寒花発遅』、日本は、昔も今も“中国は鏡”、“日本の先生”としてアメリカを先生とするのと同様に、大いに学ぶ必要があるでしょう。
『人類への信頼を失ってはならない。人類は海のようなものである。譬え海の中が汚れても、海全体は汚れない』とインド独立の功労者であるマハトマ・ガンジーも言っているように、汚れがあるから、綺麗にしようという心が動くとも考えられる。
慧智(050419)6:25

投稿者 echi : 06:24

2005年04月18日

野狐禅和尚の辻説法『多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し』 №730

 釈尊が遷化する前、その教えを箇条書きにして残したものを集めたものを、後に鳩摩羅什が漢訳した経典である『遺教経(ゆいきょうぎょう)』にある、“多欲”を戒め“利他”を促したものの一つが「多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し」というものです。『自分だけの欲望を追求し、自分の事だけを考えて生き、不特定多数の利益のために己の能力を使うことをしない者は、苦しみも多く悩みも多い』という意味です。なお、「知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり」という『“足るを知ること”こそが、大安心の源』ということを暗示する記述も見られます。
さて、『足るを知る』という言葉は、現代の我々にとっても耳に心地よく、頭では簡単に理解できるでようが、それを本心から得心して行動している者は、私が知る限り、極めて少ないのが現実です。
一昨年、この辻説法で『菜根譚(さいこんたん)』を解釈してきた時にあった『貪らずを以て宝となす』という一節を思い出せないだろうか。『今・此処の己』のみが現実。過去は変えられない。未来は変わりすぎる。つまり、『決定と未定』の中間過程にあるのが“今”であり、今は『過去の結果であり、未来の原因』であるから、何をどんなに貪ろうと、過去は変えられないので、今は過去の結果。未来の為に今を貪ろうと、未来は今の結果であり不安定なので、望んだ分が実現するとは限らない。つまり、過去や未来に囚われ拘り、偏った考え方をすれば、“落胆”が待ち構えているのです。ところが、今、此処で、現象している“事実”を、因が縁により変換された過去において自分が望んだ結果であると考えたら如何だろう。『黙って受け入れる』のだ当然、という気持ちにならないだろうか。不足を漏らし、愚痴を言えば変るのだろうか。ところが、“今は分相応”という規準で今を評価できたらどうだろう。そして、現前に現象する“すべき事”に集中できたら、あなたの明日は如何だろうか。
私は、今日も生きて居る。正に、“人間は病気や事故”で死ぬのではなく、“寿命”に随うのだろうという考え方が間接照明されている。『今』、それは感動である。
『今があることで十分』と感じる事が出来れば、“もっと・・”という心は消え去る。
『今を満足して、昨日は昨日と、済んでしまったことに拘らず。まだ現象しない未来に今を犠牲にさせない』、そんな生き方が出来たら、この世は薔薇色以外の何ものでもないだろうか。“縁”で結ばれた“現前の事実”を素直に受け入れ、それに対し“全力を尽くす”、そして、その結果もまた“素直に受け入れる”それが最高の生き方では無いだろうか。
慧智(040518)
*出張→セミナー→坐禅と数日間があっという間に過ぎた。行方不明になった携帯電話、壊れかけたコンピュータ(Eメール)、その上、新聞・テレビ・ラジオなどなどから“孤立”していた。『情報断食』、これは素晴らしい。アルコール依存、金依存、物依存、人依存などなど、現代人は“何らか”に依存していきているが、時には“それら”を忘れることが大切だな、と今、感じている。4月18日午前4時、記す。

投稿者 echi : 04:00

2005年04月15日

野狐禅和尚の辻説法『一日不作一日不食』 №729

「一日なさば、一日食らわず」と読みます。「働かざる者、食うべからず」という道徳的な戒めをはるかに超える百丈懐海(ひゃくじょうえかい)和尚の名言で、公案集である五燈会元の第三則に出てきます。この語は、禅と労働(作務)を結びつけた金言で、たとえ年老いても、たとえ体が不自由であろうと、一生涯に渡り働く。働く≒利他。それは、生産性を問うものでも、結果を論じるものでもなく、“出来る事をする”、それが人間を人間ならしめる『唯一の道』であることを示唆しています。
 巷はマネーゲームを賛美し、拝金主義者は小・中学生までに、アメリカに追随して株取引を教え込もうとしています。古来、金で金を生み出す生業を“虚業”として忌み嫌いました。そして額に汗して働く“実業”を善しとしてきました。しかし、昨今は変わってしまいました。勿論、変ること、変化することは自然であり、忌み嫌うべきことは何もありません。しかし、それは枝葉であり、“根本(真理)”は変わらないものです。限定合理性である科学でさえ“地動説”を説いています。
 定年までに金を溜めて遊んで暮らすことが理想の老後であるが如き昨今の風潮は、完全な誤りです。人間が人間であり続けるためには、“出来る事”をするのです。目が見えなくても、足が無くても、譬え、余す時間に余裕の無い病の体であろうと、“使える部分”を使って“利他”を実践するのが“働く”ということです。働かないのは、死しているのも同じ、だから当然“食べない”、それが一日不作一日不食なのです。寝たきりになり“働けなくなった人間”でさえ、“介護の対象”となることで、人間をまっとうして、働いているのです。 “働く”という事は、金を得る『手段』ではなく、それ自身が『目的』です。生きて居る“証”です。“働くこと”それ自身に意義があるのです。言い換えれば、“働ける”というだけで十分な“利益”を得ているのです。経営者は、働く場所、機会を提供する人であり、営みを経て目的目標を達成させることと予てから言っていますね。
 マネーゲームは“最低の人間”の生業ではなく、人間のすることではないのです。
性悪説であるキリスト教では『労働は懲役』という概念であり、性善説である儒教では『労働は美徳』です。しかし、仏教(正確には禅)では、『労働は自然』なのです。森羅万象は例外なく理法に随い“働いている”のです。結果は自然に成るのであり、結果を目的や目標にはしません。それは人間であっても例外ではありません。
『生涯現役』という言葉は、一生涯、出来る事を活かして、働き続けるということです。
『活人』も『達人』も、働く人です。活人はイキイキと働き、達人は悠々と働くのです。
 先ほど、『増加する中年フリーター』という論文を読んで、情けなくなりました。若年フリーター、ニートだけに目を奪われていると、とんでもない現象が起きているのです。皆さんも考えてみてください。
慧智(050416)

投稿者 echi : 16:26

2005年04月13日

野狐禅和尚の辻説法『好事不如無』№728

「好事も無きに如かず」と読みます。単純に言えば「この上なく良いことは無い方が良い」というところ。意味は、二項対立から生まれた“素晴らしい物や事”は、捕らわれの対象となり自我となってしまい、全てが真金の如く最高の状態で備わっている“本来の面目”を傷付けてしまうことになる危険性が“凡夫”は高いからです。
こうした語句を境界辺(きょうがいへん)のものといい、実は、相当に修行した者でなければ解らない心境を表わす禅語です。相当に修行した者とは、力がある者で、無ければ分からぬからだ。坐禅をする者の中には、少しでも過去に比して“優れた考えとか気持”が得られると、それを誇示したり、それに満足したり、その状態に依存してしまうことがある。やがて、それが他との隔絶を生み、対立心を強め、自己顕示欲や自己主張を巨大化し、鼻持ちなら無い野狐と成り下がってしまう。だから、“特別に良い事”≒修行の初期段階での分不相応な悟りは無い方が良く、徐々に徐々に成長してゆくのが良いということに他ならない。巷では、経済的に困窮している人間が宝くじに当たったり、莫大な遺産相続の縁に触れ、不相応な大金を掴んでしまうことで人生を棒に振ってしまったという話は枚挙に遑が無い。
なお、公案には趙州禅師に纏わる話がある。弟子が修行中の時、「一物不将来の時如何」と、師に対して「私は既に何ものも心にもっておりませんが、どうでしょうか」と得意気に言った。すると師は「放下著」、捨ててしまえ、と応じた。すると、「既に一物不将来。箇の什麼(なに)をか放下せん」、つまり「すでに何もありません。そんな私が、更に何を捨てるのですか」と理屈を言った。言い換えれば『無理会』ではないのだ。そこで、「放不下ならば担取し去れ」。そうか、そんなに何も無いと言う下衆なものが好きなら、何時までも担いでおれ、と応じた。すると、弟子は、大いに悟りを得た。
慧智(050414)

投稿者 echi : 16:27

野狐禅和尚の辻説法『質問:方便は“嘘”ですか?』№727

 『方便』とは、仏教用語で、衆生を真理に導く“便法上の教え”で、子供に対し親が、親の知識レベルで教育するのに便利な“架空の喩え話し”と考えれば良いでしょう。例えば、恐怖を教える“悪魔”、善を教えるのに“神”、畏敬の念を教えるのに“自然神”を、人間が創造し、成長過程にあるものに対し“権威”を植え付けることを目的にしています。つまり、『方便』には目的と目標があります。言い換えれば、『教育』が目的であり、『教育内容』が目標です。
 そこを前提に考えれば、神教は“方便”の体系であり、13宗56派の日本仏教の大半は教本や仏像などを用いて大衆教化を目的としているので“方便宗”であります。一方、禅宗(主として臨済宗)は、特定の教本や特定の本尊を持たず、“方便”も使わずに、“心から心へ”釈尊から達磨・・と連綿として連なる“仏心”を、『教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏』を合言葉に、方便に代わる方法論として『公案』を使い、師から弟子へと確実に伝えてきています。だから、禅はハードルが高いと思われています。
 さて、質問である『方便は嘘ですか?』に対しての応えは、何とも言えません。あなたが、考えれば良いことです。言語理解が未熟な赤ん坊に、怪我をさせず、台所仕事を手際よく行い、更には“湯は熱い”≒“ヤカンは熱い”ということを同時に教えるために、台所の入口に一端は熱いヤカンを置いて、幼児にヤカンを瞬間的に触れさせ“熱い≒怖い”を教え、次にヤカンを空にして、台所の入口に置くことで親の利便性と子供の教育を同時に行うことは多くの家庭で行なわれてきています。あなたは、それを“嘘”だと言えますか?正に、『嘘も方便』、これは“誤り”ですか?方便と嘘の違いは、“悪意か善意か”が問題ではないでしょうか。
 蛇足になりますが、私は“科学は真理の共有を目的とした『方便』”だと考えています。ですから、“科学は限定的合理性の体系”だと話している筈ですし、真理を段階的に探究する“方法論”として、私自身も社会科学者として関わっています。
 言い換えれば、私の中では、『科学・哲学・仏法』は止揚され無矛盾なのです。
慧智(050413)

投稿者 echi : 06:27

2005年04月12日

野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726

『無理会』は、“むりえ”と読み、坐禅修行において修得を目指す究極の“在り方”。『理会』は、理屈のことであるから、『無理会』とは“理屈なし”ということ。
では、何故、無理会が禅における究極の境地なのか。それを説明することは難しい。理由は、“理由”だからである。無理会は“理由なし”、正に全ての現象を“あるがまま”に受け入れること。理由を問わないこと。言い換えれば、迷いから解脱することなのだ。理会することは、迷いを引き伸ばしているに他ならない。
雨が降る。晴れ上がる。鳥が鳴く。月が出る。日が昇る。雪が降る。生まれる、病む、老いる、死ぬ。現代科学は“それ”の理由を解き明かし、人間にとって“都合が良い”ように自然を支配しよと考える。そして、一が解れば二に、二が解れば三に、と連綿たる迷いにはまり込む。そして、現代、素粒子物理学は、究極の物質が物質でなく“力”であることに到達したが、其の次には“力”の源泉を求める。知への欲望は果てることはなく、向上心、探究心として賛美の対象としている。しかし、それは何れも『欲望』に源泉があることは衆智であり、“満たされない欲望”こそが“苦”の源泉であることも衆智。それでも人間は、それを尽きることの無い欲望に翻弄される。そして、苦しみ続ける。言い換えれば、組みつくせず海の水を全て組み出そうとしているのと同じだ。汲み出しては捨てるが、それは循環する。大局的には、減らない増えない。つまり、苦しみは永遠。それが『一切皆苦』の原理。
人間は、解らないから苦しむ。解らないから不安になる。それは“知”であれ“情”であれ、“意”であれ同じこと。
もし、“解ろう”という意識を捨て、全てを在るがままに受け入れる勇気を手に入れたら、あなたは“どう変わる”だろう。
禅の修行は、無理会の心を会得すること。それが“無心”ということ。苦しむ心を捨て去ること。過去に拘らない。未来に囚われない。今・此処における己を全てとして生きる。すると、全てが輝き、心は絶えず満たされている。不安が無い。
以前、師に“無理会”だけは説明するな、と教えられた。しかし、私は、今日、その戒を破る。複雑怪奇な理由など無い。書きたいと思ったから書く。書きたいという気持ちは私の心の叫び。ただ、素直に、利他に生きたいから。この世の全ての“種”は、種の保存に貢献することが第一義的な目標であり、仲間の為に生き、仲間の為に死ぬことが使命であり、そのために“今”を全力で生きるようにプログラムされている。勝ち組も、負け組みもない。一人一人、異なった才能(強味・弱味)を自覚し、それを発揮して、仲間のために一生懸命に生きることが全て。仲間とは、山川草木森羅万象の全て。
もう、優劣、勝ち負け、貧富、男女、人種、国籍・・・。そんな差別や区別を止めて、『人間』として生きようよ。共食いは止めようよ。
 『願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんがことを』
以上は、今日、財界のパーティに参加している間中、感じていたこと。疲れた。
慧智(050413)

投稿者 echi : 16:28

2005年04月11日

野狐禅和尚の辻説法『足るを知れ』№725

 立派な家を建てたが、無理な資金づくりが災いし、新築後間もなく家庭を崩壊させた方と会った。起業し会社は大きくなったが、不正経理が発覚して社会的制裁を受けている会社がある。株式を公開して市場から膨大な資金を調達し、キャピタルゲインを独占して有能な創業の同志を失った人がいた。無理をして高級外車を買い保険を軽視していて交通事故を起こして自己破産した人がいた。欲に眼が眩んで会社を乗っ取った中間管理職は不正が露呈することやオーナーの反撃が怖くて仕事は手に付かず夜も眠れずに体を壊して家庭をも崩壊させた者がいた。
裏口入学で偏差値の高い学校に子供を入学させたが勉強に追いつかない子供が自殺してしまった親が坐禅に来たことがある。その他、“嫉妬心”を背後に置いた“見栄や高望み、無理や分不相応”が齎す一瞬の“満足”のために一生を台無しにした例は枚挙に遑が無い。
 最近は、猫も杓子も、競争だ、勝組だ、投資だ、株だ、金さえあれば何でも買えると豪語する“拝金主義者、拝物主義者”が巷を闊歩している。
 確かに、資本主義社会の基盤は“欲求充足経済”。共産主義の“禁欲経済”とは正反対で、持てる者と持たざる者の収入や資産は、天地の開きが生まれ、情報化社会が“彼ら持てる者”の私生活の快楽的優雅さを流布させるために、世の中は“彼らこそ理想”という風潮に流されている。私は日本人自身が選択している体制や資本主義だ共産主義だという経済思想、自由主義だ社会主義だという政治思想に口を差し挟む気は無いが、一部の勝ち組を大多数の負け組みが支えるという米国型・中国型社会より、『最大多数の最大幸福(国民総中流化)』を実現する社会の方が、安全で安心な社会であることは事実であろうし、それを目指す事が大切だろうと考えている。しかし、“幸福”という概念は、民度、生活レベルや個々の価値感により大きく異なることは事実。勿論、其のこと自身は、“皆が同じ価値感”であることに比較すれば決して悪いことは無く、個性的で結構なことだ。しかし、こと『幸福』という概念に関して言えば、煎じ詰めれば、『“不安”が無い人生』だということが共有かできることだと私は思っている。言い換えれば“安心して暮せる”こととも言えるだろう。
“安心”という心理状態、言葉としての概念は、『未来に於ける毀損が担保されている心理状態である』という歴史的にも衆智されてきた事実がある。言い換えれば『日々是好日』『無事是貴人』という境涯にある状態なのである。
しかし、現実の社会に天災、人災という“不都合”は付き物。言い換えれば、誰でもが被害者や加害者になる恐れがある。問題は“そこ”の認識の差異なのだ。
 もし貴方が『現実をあるがままに受け入れられる勇気』があったら、どうだろう。『足るを知る』ということは、“そういう事”である。
 『禅』における究極の境地は『知足』即ち“あるがままの現実”を受け入れ、一瞬一瞬に策を弄せず、真正面から全力を尽くし、如何なる結果も素直に受け入れて生きる事なのである。今日のネット禅会前に、少しだけで良いから『足るを知る』ということの意味を考えて欲しい。
また、中国・韓国・北朝鮮の対日政策の現実の背後にある“嫉妬”と“集団ヒステリ行動”を伴うディストレス状態は、アメリカ政府の先導に悪乗りした“配慮の足りない”現代日本の政治の在り方にも問題があるだろう。勿論、嫉妬する側と、される側の功罪を比較するなどナンセンスではある。しかし、振り返るべきは、我々日本人は“必要以上の金や物”を占有していないだろうか?そして、何故“それ”を“共有化”出来ないのだろうか?それは“不安”だからではないですか?
坐禅に効能を期待し求めることは『坐禅』の目的を汚損することではありますが、坐禅は結果的に、“不安”を捨てる勇気が湧いてくるものです。生きている辛さ、老いることへの恐怖、病の結末への不安、死に対する恐れ・・・。それが無い状態、それが“大安心≒幸福”というものではないでしょうか。
慧智(050412)

投稿者 echi : 16:28

野狐禅和尚の辻説法『麻糸は、1、8キロ(麻三斤)』№724

 弟子が「如何なる是れ仏」と問うと、雲門の法嗣(はっす)である洞山和尚「麻三斤」
と応じたことは、碧巌録にも無門関にもあるので知る人は多いだろう。
 昨日は、大子での活人禅会であった。20代から60代の、何れが桜か梅かの7人の活人が各々の心境で坐った。灌仏会の翌日から一昼夜を共にする仲間に男女、老若、肩書き、貧富、国籍など、ここでは全ての差別区別はない。それぞれには其々の心の眼の大きさがあり、心境は様々だが、自利利他の心さえ捨て去り、坐禅衣を着けて禅堂に坐れば、みな菩薩。中には、心落ち着かず10分とじっとしていられない初心者もいるが、振り返れば皆同じような道を通ってきた。『安禅不必須山水 滅却心頭火自涼』、そのうちには“清心万能邪心万危”を体得するだろう。大子の春は未だ走り、桜は三分咲き。夜は火を囲んで人生談義。作務の後は、竹の子掘り、筑紫積み、背負子を背負って裏山の掃除。坐る時は坐る。歩く時は歩く。行住坐臥は“それに成り切る”ことだ大事。一夜明け、作務が終われば饂飩供養(斉座)。そして、食後には、それぞれの心境を川柳に託しあって散会。
『坐禅会 人も桜も 三分咲き』、満開には今しばらく時間はかかるだろうが、皆、咲き切るだろうというのが私の心境。「如何なるか菩薩」と、今、ここで問われれば『三分咲き』と応えるだろうな、と思いつつ、洞山和尚の『麻三斤』の公案に応えた15歳の春を思い出し、“我が春夏秋冬”を噛締めた。
『葉は緑 花は紅 一日一生』、観自在、あるがまま。『一大事今日只今心』。過去に囚われず、明日に拘らず、今を生き切る。大安心とは、先入観を捨て切った者への御褒美。そして大安心をも捨てたら“無心”。それが菩薩の心。三分咲きを眺めていると、思わす笑みが零れた禅会であった。
活人禅会 慧智(050411)

投稿者 echi : 06:29

2005年04月09日

野狐禅和尚の辻説法『神と仏、そして、禅』№723

『哲学』は“行動と分離された定義の体系”と言われ、『宗教』は“行動を伴う価値判断の根本体系(≒思考行動原理)”と言われ、双方の概念は隣接しているし、重なり合う部分と相互に排他的な部分がある。
そんなことから、体系的な教育を受けていない者は、哲学を強者の理性、宗教を弱者の感覚などと揶揄する。私がアンケートを用いて調査した限り、即ち知る限りに於いて、哲学派(理性型)が2割、宗教派(感覚型)2割、混合型3割、無帰属型3割という分散がある。勿論、彼らの全てが物事を判断するに十分な教養(一貫性互換性が有る基本的な知識)が有るわけではないので、アンケート文の理解が出来ずに答えた者もあるだろうが、概ね2:6(3+3):2という正規分布を示す。然るに哲学派:無信論派:宗教派と言い換えることもできる。
また、伝統的で標準的な“言語”解釈(ラング)規準の広辞苑などの一般人用の辞書を離れ、多くの日本人が日常的に使っている言葉(パロール)から類推する“ことば”の定義は、次のようになっている。
『哲学』≒行動と分離された定義の体系、『神』≒自分の外部にある絶対的な力の主体、『仏』≒自分の内にある根源的な力、『宗教』≒行動を伴う価値判断の根本基準、『信仰』≒畏敬の念をもって尊ぶこと、『仏教』≒釈尊が発見した真理、『禅』≒哲学と宗教の中間概念。『カルト』≒個人崇拝、『活人』≒イキイキと生きて居る人間という解釈から“ことば”が独り歩きしているようである。
 そこで、同じ言葉で話しても、哲学派、無信論派、宗教派では解釈に大きな差異が生まれ、人間関係の粗密化に大きな影響を与え、主体の客体に対する“人格判定”に差異が生まれている。勿論、今、この文章を読んでいる方々もその影響から逃れることは出来ず、私や活人禅会会員に対する評価も大きく分かれるのである。
 先日、『活人禅』は、哲学ですか?、もし『哲学』なら入会して坐禅をしたいが、もし『宗教』なら参加したくないというという人に出会った。私は、活人禅会の代表として「私が何と応えるかで貴方の人生を変えるような質問には応えられない」「参加してあなたが判断すれば宜しい」というと、「それだったら怖いので止めます」と言われた。多分、その心境には、私の応えから“宗教”と考えたのだろう。
 『禅』も『活人禅』も、釈尊の発見した真理を追体験する“体系的仏教”以外の何ものでもない。非体系的仏教(葬式仏教)としての葬儀、埋葬、墓参、仏壇、御神籤、美術的価値の対象となった古寺の観光参拝などなど“文化”と化した低次元のものではない。
 しかし、宗教が何故に怖いのか不思議である。教祖がスキャンダルを起こしたオウムや何とかキリスト教などは、宗教ではなく“カルト”という狂信的個人崇拝集団とは全く相容れないのは衆智の事実であるはず。また、『宗教』は“宗たる教え”の略称でもあり、世間には選択肢があり、個人には選択権がある“思考行動様式の体系”であり多くの場合、子供や独立した自我が芽生える前の者には自立的な選択能力が無いので対象外のはずである。つまり“宗教”に強制力は無いので、来る者は拒まず、去る者は追わないのが宗教で、強制的に入信させたり、退会を拒絶したりするのは“エセ”であり“カルト”であることは、誰が考えても解るはずである。にも関わらず真贋判定が出来ないのであれば、国民が無智化したとしか言い様がない。
 質問をくれた貴方!貴方は何をよりどころに生きて居るのですか?己を信じている、否、信じたいなら坐りなさい。もし、己を信じていない、否、信じられないなら手を合わせなさい。言い換えれば、自力か他力かを自分に問いなさい。
 なお、付け加えておきますが、『禅』は宗教です。活人禅も宗教ですが、他宗と異なるのは哲学と分離された“他力”ではなく、心・頭・体を不可分不可同として統合した自力本願の“宗たる教え”ですので、教祖など存在せず、『己の教祖は己である』こと、己の主人は己であることを自覚する『道』とも言えるでしょう。茶道(裏千家)が臨済宗大徳寺派の生活様式の一形式であるのと変わりはありません。そして「活人禅」はイキイキと生きる人間の生活様式(思考行動様式)を確立させる“道”なのです。蛇足ですが、株式を上場している会社にも宗教系(理念系)は多く、カルト系(拝物・拝金・拝人系)、哲学系、無信論系、無政府系などなどと名前を付けて区別をしようとすれば、全て何らかに属するのです。
両忘活人禅会 慧智(050409)

投稿者 echi : 16:30

2005年04月08日

野狐禅和尚の辻説法『色即是空、空即是色』』№722

 宮本武蔵の師匠として、漬物の代名詞として著名な禅宗在野の『沢庵和尚』の言葉に「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝は五尺の身を売って、一切衆生の煩悩を安んず。色即是空、空即是色。柳は緑、花は紅。水の面に 夜な夜な月は通えども 心も留めず影も残さず。」というのがあります。
正に、融通無碍、自由奔放の禅風を感じますね。何とは無くなら沢庵和尚の心境、境遇を理解出来るでしょうが、さて、“意味は”となると、なかなかです。
解釈:森羅万象は、須らく永遠に続く実体は無い。それを諸行無常という。しかし、眼前に現象している。勿論、現象は“瞬間(刹那)”の“態”であり、一時として不変ではない。即ち『色即是空』なのだ。それが解れば、“瞬間こそが唯一の実体”であることが解るはず。つまり現象、瞬間こそが真実とも言えるので『空即是色』である。
言い換えれば、関東以西では今日が花見の最盛期であろうから、自分が花に成り切って花見をしてみると良い。それで初めて“花に学べる”のである。くれぐれも“飲んだくれて花見をするなよ”と言っておきます。まあ、無意識が“それ”を知っているからこそ、その“不安”から逃れる為に、徒党を組んで酒に溺れるのだろう。煩悩即菩提とはいえ、酔って悪さだけはするなよ。そして明日は禅会だぞ。二日酔いで来るなよ。
『不許葷辛酒肉入山門』
慧智(050408)

投稿者 echi : 16:30

2005年04月07日

野狐禅和尚の辻説法『転迷開悟(てんめいかいご)』№721

人間は迷う。それは未熟だからではない。14世紀のスコラ哲学者であるビュリダンは、腹をすかした驢馬を二つの干草の山の中間におくと、どちらにも動けず餓死してしまうことを観て『ビュリダンの驢馬』という概念を提示している。これは、どちらかの餌を食べようと、そちらの方向に動くと、他方の餌から離れてしまうことに囚われることからなのだ。『二兎を追うものは、一兎をも得ず』、実感ですね。つまり、哺乳類という類に属する動物は、大脳辺縁系が種により発達レベルは異なりますが、“弁別≒分別”が出来ます。つまり、分別は差別、区別の原因なのです。道徳や倫理は当然の如く関係しますが、打算や計算、作為などの心的機能にも大きく関わります。言い換えると『善と悪、快と不快、好嫌、功罪などを、大自然に代わって勝手に作り出し、価値感や文化という“先入観”を固定させます。禅では、そこを問題視して“分別を捨てろ”と云います。また、『策士、策に溺れる』とも云います。その反面、俗世間では、合理性や戦略性などと“分別”を賞賛し、それを“智”として肯定的にみています。その結果、『理と情の相克』なとという概念を創造し“迷い”や“苦しき”の元凶としています。更に更には『知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される』などという観点もある。勿論、これは誤りで、『理や知と情』は完全なる二項対立ではない。しかし、何れにしろ『理や情や知』を使い分けることがストレサーであり、『迷い』を生み出す心的機能であることは事実である。そして、人間は“迷い”の本質に出会って、捨てることしか“苦”という概念から抜け出すことは出来ない。故に釈尊曰く『一切皆苦』なのである。しかし、『苦』は実体ではなく、分別の結果である瞬間的な現象なのだから『一切皆空』となる。
 『禅』は、苦の本質を迷いながら悟とる生き方、生き様なのである。『煩悩』とは“迷い”でもある。しかし、我々は煩悩の塊でもある。その煩悩を知って捨てるしか『真の安心(完全な幸せ)』はない。言い換えれば、大きく迷い、大きく苦しめば苦しむほど“悟り”に近付く。正に『煩悩即菩提』なのである。
●Nさん!。迷いなさい。板ばさみで苦しみなさい。それが在野の修行です。其の修行の先に“悟り(大安心)”が有るのです。一日一生、一生一日。明日は明るく、新しい日です。過去に囚われ、拘る人間は苦しみの連続、正に生き地獄。囚われず・拘らず・偏らずに日々是好日、無事是貴人に生きる人間は、正にこの世は浄土です。死んでしまえば地獄も浄土・極楽もありません。全て生きている間の幻です。しかし、仏・祖師は、苦しみ続ける無智なる衆生の心を救うため、方便という手法で、「死後の救い」を暗示させ念仏に極楽往生を求めさせ、無明なる衆生の根性の苦しみを軽減させたのです。素晴らしいことです。しかし、禅に方便はありませんし、禅には真理に体当たりできる覚悟がいります。
 さあ、“それ”が解る活人諸君、今日も坐りましょう。
慧智(050407)

投稿者 echi : 16:31

2005年04月06日

野狐禅和尚の辻説法『4月8日の灌仏会について』№720

 今から三千年ほど前の四月八日(旧暦)、釈尊がカピラ国(日本でいう藩のような地位)の王(当主)である浄飯王(じょうぼんのう)とその妃である摩耶(まや)との間に、王子として生れ、ゴータマ・シッダルタと名付けられました。
伝説では、花が咲きほこる「ルンビニーの園」で生まれた釈尊は、誕生すると即座に東に七歩歩いて、右手を上に、左手を下に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と声を発したと伝わります。この伝説の真偽は兎も角として、意味は「私たち一人ひとりは、宇宙にただ一つの独自の命を与えられた尊い存在だ。」という意味で、八文字で“命の尊さ”を表現しています。しばしば巷では『天上天下唯我独尊』を自惚れや独善的など否定的に解釈する場合がありますが、真意は『この世に不必要な命はなく、山川草木森羅万象は、全て“個性的な”使命をもっている独自の存在だ』ということです。   釈尊はその後、父の過保護からルンビニ園で世間と遮断され、温室育ちを余儀なくされましたが、直観的に“おかしい”と感じて、“外の世界”を体験すると、そこには“生老病死”という現実があり、悩み苦しみ、出家を思い立ち、当時のバラモン教に倣い難行苦行を行ないましたが、心の痛みは癒されず、消沈して“坐禅”をしていた12月8日の夜明けに、忽然として“真理”を発見し、それを大衆に布教する段階で“それ”を検証しつつ“方法論”として完成され、十人の弟子達に伝えつつ、托鉢を続けながら辻説法を行い、陰暦2月、現在は3月15日(涅槃会)に、托鉢で頂いた傷んだ食べ物で食中毒を起こして亡くなったと伝わっています。「何故、傷んだ供物を食べたのか」については諸説がありますが、私にも経験がありますが、『清廉な心から提供された物』は、それが腐り始めていたとしても捨てられませんし、『自説』を実践している己では、他の者に食べさせて病気になる可能性があるなら自分で食べてしまうものです。私は疫痢で済んだ経験があります。
 つまり、我々も、『正しいと確信できる説』に対しては、命がけでそれを実行しますね。釈尊は、“それ”を示すのが最後の使命だと思ったのではないでしょうか。私は“諸行無常”“諸法無我”“一切皆空”“一日一生・一生一日”“生死一如”“生死事大”“日々是好日”“無事是貴人”“山川草木悉有仏性”“万法一帰”などなどという一転語に秘められた真理を伝えるためには“毒をも喰らう”覚悟で“在野”で『来る者は拒まず、去る者は追わず』という姿勢で生きています。それが“己の使命”と確信しているからです。それも『天上天下唯我独尊』、一人一人には固有の使命があると信じているからです。そして、私は“己の使命”は、“自分の強味”に投影されていると考えているので、「強味を活かして全力で生きよ」と伝えているつもりです。世の中には“それ”に気付かず“下衆”な生き方をする者もいるでしょう。それでも彼は“唯一無比”の人間です。反面教師として自らを省みず何かを伝える使命を担って居るのですから立派なのですから、受け入れるのです。しかし無対立・無犠牲・自主独立。足して二で割るような妥協はせずに、『異質を止揚して両忘する』こととしましょう。本質的には善悪一如です。しかし、それを理解していない者は『悪因悪果善因善果』という法則性に随うのです。因果法則からは誰も逃れられません。しかし、“因”は変数です。そして“因と果”を結ぶ“縁”も変数です。故に“己”を信じ己に忠実に生きてください。もちろん“己”は森羅万象と同根。自他一如。『己の外に仏なし』ですよ。では、8日から再開します。
現代の菩薩ともいえるかもしれないローマ法王の遷化を心より悼みます。しかし、“神”は人間の創造した虚空の概念であり、最後まで『己の外に仏無し』という真理に出会えなかったことはお気の毒でした。再度、御遷化に対し謹んでご冥福を祈ります。
蛇足ですが、宗教を持つことは、それが如何なる宗旨宗派であれ、『我執』で生きるより素晴らしいことです。しかし、他宗の存在、言い換えれば多種多様な価値観を受容できないようでは、それは“宗教”とは言えないでしょう。宗教の肝は、“自利利他”の心です。
慧智(050406)
<><>165.76.27.129<><>
737<>2005-04-05 (Tue)<><><>●野狐禅和尚の辻説法『8歳の夏の思い出』№719<> 出家・得度の思い出も、45年以上前経つと薄らぐ。しかし、その中でハッキリと思い出すのが師が仲良くさせて頂いていた龍澤寺の山本玄峰老師の言葉である。今日、寺の薬師堂の前で暫らく坐っていると、雨蛙が一匹、怪訝な目つきで私を見ていた。その時、雨蛙が「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」という、老師が酔って口にされた北条時頼の歌である。当時の私は8歳。剃刀を入れて頂いた夜のことで、意味は何も解らなかった。すると同様に剃髪して頂いた宗淵和尚がすかさず「コロコロ変る心に心を奪われるなよ」と耳元で囁かれた。それでもチンプンカンプン。それ故に45年経った今でも、その時の声の調子まで覚えている。蛙が語った「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」を観じて、自分では乗り越えてしまったと思っている病が心の奥底に未だにあるのを悟った。一日一生、一生一日。生死一如。今日生まれ、今日死ぬつもりで生きてはいるが、その心が捨てきれていない。『無心』であるつもりである限り『有』の世界から解脱できない。目の前の白梅、紅梅、水仙。膨らみかけたソメイヨシノ。膝の前には芹、ホトケノザが顔を出している。時が来れ芽生え、時が来れば枯れる。それこそが無心。ふと気が付けば蟻が膝の上にいる。何と素晴らしい事か。皆、無心に生きている。己以外は皆師である。
 さて、俗に「人の振り見て我が振り直せ」というが、他人の陰口や悪口。俗にみ“無明”と言われる無智。あなたは、作為的な言葉に振り回され、己を見失ってはいませんか?
 今度の8日は釈尊が誕生された日でもあり、今度の土日禅会では『父母未生以前の本来の面目』を、春爛漫の森羅万象に教わりましょう。降って良し、晴れて良し。しっかりと坐りましょう。
蛇足:2日ばかり説法が出ない環境に入りますので、お休みさせてください。では、禅堂でお会いしましょう。
慧智(050405)

投稿者 echi : 16:31

2005年04月03日

野狐禅和尚の辻説法『澗水松風悉説法』№718

 「澗水松風は悉く説法」と読む、禅語には稀なストレートな表現である。この句は“読んで字の如し”で、谷を流れる水音、松を揺らして発せさせる風の音は須らく仏(真理)の声というもの。森羅万象は全て仏(真理)の投影に他ならない。言い換えれば、山川草木、森羅万象は“仏性”そのものであり、皆、己そのものであり師なのである。つまり、我々は、仏性の部分であり全体なのである。この自覚に立脚すれば『澗水松風悉説法』に他ならない。
 『観音』とは、“音に本質を観る”ことに他ならない。言葉を慎み、目の前の事実、現象の声無き声、音無き音をしっかりと聞くことが悟りへの道。正に、大自然との対話である。
 本日のネット禅会では“線香の燃える音、灰が落ちる音”を聞いてみよう。
慧智(050403)

投稿者 echi : 16:32

2005年04月02日

野狐禅和尚の辻説法『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』№717

 『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』は、老子の句として多くの日本人が基本的価値感の一つとしている「知る者は言わず、言う者は知らず」と似た意味を持つ句で、正に“謙虚”、世阿弥の「秘すれば華、秘さざれば華ならず・・」を善しとする日本文化の底に流れる価値です。
 『白』は“明白の白。『黒』は沈黙のこと。『式』は規範のことで、前出の句は『本質を知って多くを語らず、淡々と生きてゆくのが価値の有る生き方だ』と解しても良いだろう。
 最近、“知ったか振り”をしている評論家がマスコミを賑わしている。何と“ウスッペラ”な社会だろう。また、巷には“肝心な事”や“大事なこと”に薄く、無意味な事に熱くなる者が増えている。まあ、『雄弁というより多弁』と言われる小生のような者かもしれない。雄弁の一言は重く、多弁の一言は軽い。
 活人禅会では、『情報断食』を奨めている。一月に一回は、“活字、電波、会話”から完全に離れ、内なる声に耳を傾け、全身を目や耳にして“森羅万象”に溶け込んでみようということだ。その日は農作業や創造活動が良いだろう。しかし、何と言っても“坐禅”、特に“野坐”がお奨めである。
 そこで気付くのは『真理は雄弁』、風が、漣が、鳥が、雲が・・・真理を語ってくれる。
そして、明日からは、無駄口を止め、大事な事をしっかりと伝えることを少しだけ心がけて欲しい。
慧智(050402)

投稿者 echi : 16:32

野狐禅和尚の辻説法『人生の起・承・転・結』№716

 人間を幼児・少年・青年・壮年・老年というような主に生物学的な年齢を基準とした段階だけで解釈すべきではと考える事が多い。また、第二の人生だとか、日本ベテランズ倶楽部提唱の11月14日(いいとし)は盛人式とか、成人式は30歳にすべき、ないし15歳にすべき等の議論を聞いていると、“人生”というマラソンのような過程を個人が積極的に考える上で何らかの標準的な指標が必要なのではないだろうか。
 是までの人生を振り返ると、社会適応を目標とした“学習期”、学習の結果を利用して社会の最前線に参加している“自利の期”、第一線での仕事を退き社会の後方支援に徹する“利他の期”そして、出来る限り健康でそれまでの知識や経験を後世に残す“総轄の期”といった区分が出来るのではないだろかと思っている。それは人により異なるだろうが、25歳までは勉強、55歳まで最前線、70歳までは後方支援、それいごは悠々自適といういうようなイメージが生まれてくる。『学んで、行い、育てて、去る』。人間の一生とは、そのようなものだろう。
慧智(050401)

投稿者 echi : 06:33

2005年03月31日

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

論語「里仁」篇に、『子曰、徳不孤、必有隣』というよく知られた一句がある。一方、禅では“無功徳”を重視する。理由は“~のために”という道徳的行為は己への利益誘導であり、功徳ではない。言い換えれば“下心”からの行為である。しかし、『善因善果、悪因悪果』という一文もある。言い換えれば、暗黙の利益誘導である。良い結果を得たいから良い行為を行なう。これは“道徳”レベルの卑しい心であり、分別や差別の源泉である。
前出の『徳不孤、必有隣』は、「徳は孤ならず、必ず隣あり」と読み、意味は、正しい事をしていれば、例え孤立したとしても、必ず理解され支持者(隣人)が現れるということである。論語の解説書によれば、この句は孔子の体験談からの消息(≒インフォメーション・情報)とまり知識からではなく情報を背景にしているようだ。一般的な日常、社会生活では道徳を規準として動く常識派という『分別グループ』と、法律を規準として動く合理派という『弁別グループ』、法律すら無視する『無法グループ』、そして真理に随う『無心グループ』の便法上4グループに分かれる。勿論、そのような分類に意味はない。六道輪廻を考えれば、一瞬一日の間でも人間の心は無常である。
 今、道徳という性善説文化を築いてきた当たり前の社会ルールが壊れ、法治という性悪説を基盤とする社会ルールで動いている。法律に抵触しなければ、“何でも有り”というのが今の社会の様である。ここは日本。アメリカでも中国でも北朝鮮でもない。せめて“道徳”をデファクトスタンダードに暮したい。しかし、本来、道徳はローカルルールであり、日本の道徳が世界の道徳にはなり得ない。それは、道徳は文化を変数としているからである。
さて、表題の『“ひとり”じゃない』というのは、山川草木悉皆成仏、全ての現象は仏性そのものという真理を踏まえていれば『万法帰一』。“ひとり”という概念は存在しない。人間は微生物と細胞の補完共同体であり、全ての自然現象は『一切皆空』という言葉で染まされるように“空”という完全調和を“相互補完”で保証している。故に“ひとり”という概念は無いのだ。
 今日のネット禅会では、“空”を思わずに“空”に成り切って坐って欲しい。
慧智(050331)この説法は今日で2年目を終わり、明日からは3年目となる。ネット配信以前を数えると、7年目に入る。

投稿者 echi : 16:33

野狐禅和尚の辻説法『山形拄杖子(さんぎょうのしゅじょうす)』№714

 この句も公案に関連しているので、詳しくは述べないが、表面上の意味は「山から切り出したままの姿で何の手も加えていない杖」です。行脚する禅僧にとって“杖”は重要な意味を持っています。橋の少ない時代では、渡るための川の深さを測り、道無き道を歩く時は自分の体の一部、センサーのような役割を担いますし、説法の時は円相を描くなどの道具となり、仏法の敵から心身を守るシンボルなどになります。
 つまり、『山川草木悉皆成仏(この世の全ての現象は仏性そのもの)』から考えれば、この世の全ての存在の一つである“山形拄杖子”は正に仏性の化身であり、使われ方が全てを物語っています。ですから、蓮の花一輪でも、杖一本でも、猫でも虎でも、私たち自身を含めて、“自然”は仏であり、人間が手を加え(垢を付け)れば表面的には便利(人間にとっての都合良さ)になるのですが、エントロピーは増大して曇るのです。
人間と教育の関係も同じ。学ぶ事を支援することと強制的に記憶させることは違う。人間も自然の産物で、“旬”がある。人間が植物なら、土地と天候を母とし父として花咲き実を結ぶだろう。動物なら親から、そして親に準じる存在からの教えと自らの経験(修行)を通じて立派な大人になるだろう。そして知識を集めたり、創造したりするだろう。
南伊豆の作務に来ませんか?きっと何かが変わります。
慧智(050331)

投稿者 echi : 05:37

野狐禅和尚の辻説法『84000→108→3→5』№713

誰が数えたか解りませんが、人間には84000の毛穴があると云います。そして人間は無智・煩悩・迷いなどが起こす、人生を海に例えるなら“波”のような“感情”、つまり喜怒哀楽を一生涯に84000回を使うということです。これを中分類する数珠の数や除夜の鐘で御馴染みの108となり、それを大分類化すると『貧・瞋・痴(とんじんち)≒無明』の3種に納まり、それを戒めとして纏めると五つ、つまりは『五戒』となります。その五戒は、1不殺生(生き物を殺すな)、2不偸盗(人のものを盗むな)、3不婬乱(性を乱すな)、4不飲酒(酒を飲むな)、5不妄語(嘘をつくな)というものです。言い換えれば、人間は生き物(眼に見えない微生物を含む)を殺ろし、人のものを横取りし、子供をつくる以外のセックスを行い、酒(薬は別)を飲み、何らかの嘘(自分に対する嘘を含む)をついて、それを自覚しているか出来ていないかは別にして暮していると考えられています。
つまり『無明』のなせる結果が3種の悪、百八の煩悩、八万四千の罪なのです。
しかし、般若心経に『無無明亦無無明尽』とあるように、実は完全なる無明などないし無明が尽きることもないので、日々、自分自身としては多くを望まず質素に森羅万象に誠実に、一日一日を“出来ること+すべき事”である過去に原因がある結果として、今・此処に現象して状態(結合した縁)を“生き切る”ことを人間としての上等な生き方とし、そのような生き方を手助けするのを菩薩道としています。
そして、“出来ること+すべき事+成果≒したい事≒生甲斐”という『心・頭・体の統合と現実』、即ち、この世の“メカニズム”を2500年前に釈尊は帰納法と演繹法を超越した“坐禅法≒禅脳思考≒誰にでも差別無くある潜在意識を総動員する言葉を使わない思考法”で解き明かしています。
以上は、生きる上での目標、懸念される課題、そして解決法を示して見ましたが、それらは読んで解るものでも、聞いて解るものでもなく、只只管に喜怒哀楽を起こさず、心を静かに坐るしか無さそうです。
どうですか?4月は禅堂も春。花が咲き乱れ、若葉が眼に染みるようになります。心地よい風も吹くでしょう。夕暮れの山々・深夜の星空・夜明けの光は素晴らしい。一度は坐って、“本来の己”に出会ってみませんか?
慧智(050330)

投稿者 echi : 04:38

2005年03月29日

野狐禅和尚の辻説法『向南見北斗』№712

『向南見北斗』は、「南に向かって北斗を見よ」と読みます。
さて、皆さんは、どうしますか?
鏡を使う、などと考えるようでは現代に毒されているとしか言えない。つまり、南だ北だ東だ西だという差別区別に囚われているようでは、“真理(万物の本質)”に近付くことは出来ないだろう。「父母未生以前の己に如何に」と問われ、必死になって考えるようなものだ。後頭部に眼があるわけは無いし、己という自覚が生まれる以前には現象すらしていないのは、衆智の事実、正に常識といわれる。しかし、其の“常識”という先入観に“疑惑”を持たせ、自由自在に観て感じて“常識”を捨てるところからしか“真理(万物の本質)”とは出会えない。言い換えれば、常識(経験的科学)や科学(限定合理性)の世界観では“真理”は見えるわけは無い。つまり、真理に出会おうとするなら、南に向かって北斗を見ることができなければ無理なのだ。しかし、森羅万象全てが“真理”の投影であるという仮説があるなら、真理はどこにでも転がっていることになる。
そこで、そもそも「南に向かって北斗を見よ」という指示、問いそのものの真意は何かを問題にしなければならない。「分別を捨てよ」と受け取れれば、「見ようと思っても見えないが、見ようと思わなくても見えている」ものは何か、と言っているのが解る。つまり、“有る・無い”という二項対立を基盤とする物理的な世界に無いものは何か。物理学の浅智慧をいくら廻らして見えるわけはない。そこには『色即是空・空即是色』の世界である、有ることは無い事を含み、無い事は有る事を含むのだ。それは、頭(電気信号で成立している神経系)では解らない。神経系+内分泌系+免疫系≒心を調和させた状態で“気付く”、森羅万象という現象の原点。物が生まれる以前の姿だ。それは“感じた後に開いた眼(心眼)”でしか見る事ができない。心眼は物理的な現象を観る目ではない。真理を見抜く眼である。それは、常識という世間の塵芥、知識という無智から離れなければ使い物にならない“仏性≒心眼≒生得の智慧≒空≒相互補完”。南に向かって北を観る事が出来る心眼なのである。自他一如、万法帰一・・・・。般若心経を指で読みなさい。耳で写経をしなさい。踵で聞きなさい。
慧智(050329)

投稿者 echi : 16:42

野狐禅和尚の辻説法『テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ』№711

 釈尊から5代目の弘忍大和尚(五祖)、その弟子で六代目の慧能大和尚、慧能大和尚の兄弟子が神秀和尚。弘忍が法を継がす相手を決めようと「明日の朝、廊下に自分が“これ”と思う仏法に関する一首を貼っておけ」と法邇を公募した。
そこで、一番弟子の一首が『身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時勤払拭、塵埃を惹かしむこと勿れ』。正に秀才の作。もう一首、弟弟子の小猿こと後の慧能。『身は菩提樹に非ず。明鏡亦台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん』と表面上の意味が正反対の一首。正に天才の作。これが『時時勤払拭』『本来無一物』という紙の裏表の公案の源流。それが『不思善悪』という公案に結ばれる。
 簡単に言えば、真理とはと尋ねられ『全て揃っているが埃が付き易い』と『何も無いので埃は付かない』という対立。そして『有る無しは無い』という3つの表現がある。全て秀でた者の境涯が表れている。勿論、大本は『一切皆空』であり全ては“補完”し合あうゆえに“空”であり、全ては自然の状態で完全調和している、というもの。
つまり、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。さて前出の3種のテーゼが、さらに止揚(アウフヘーベン)されれば、如何なる表現となるか。
 簡単に『無』などと応えてはならない。さあ、一秒以内に応えろ!!!。
慧智(050329)

投稿者 echi : 06:42

2005年03月27日

野狐禅和尚の辻説法『春来草自生』№710

 『春来草自生』は、「春来たらば、草、自ずから生ず」と読む。森羅万象は“時節因縁”に応じて変化するのみ。春が来れば、草は自然と萌え出る。
昨日から“作務三昧”。甘夏の収穫を行った。果樹園は菜の花が咲き乱れ、たわわに実をつけた甘夏の樹が500本、1本におよそ100個が実る。5万個の収穫は一日では不可能だが、始めなければ終わらない。作務の合間には、山作務。倒木を片付け、石拾い。今年の秋には、参禅者が気持ちよく作務が出来るよう露天風呂ができるだろう。職人さんに聞くと、かなりの温泉が出るそうだ。楽しみである。多少、弱っている体も、実りに接し、春の色を目にして、“春来”に接すると、心なしか元気が湧く。自然は素晴らしい。小休止では、竹の子が顔を出している竹林で火を起こし茶を頂いた。足下には蕗の塔が、蓬が、・・・。大地にゴロりと横になる。青い空。白い雲。蝶も飛びだした。風も心地よい。正に“春”一色。『万法は森羅万象の全てであり、時が来れば“旬”を迎える。差別なく分別なく“自然(自ずから然かるようにある)』”。
慧智(050327)

投稿者 echi : 16:43

2005年03月24日

野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709

 世の中には、自分にとって不都合なこと、恥ずべき事があるとスケープゴート(贖罪の山羊)を作り上げ、自分の悪を隠すために「あいつのせいで止む無くやった」とか「あいつのせいでこうなったのだから、俺がこうするのは当然だ」とか見え過ぎた詭弁をたれ、善意の者に責任を転嫁し、コッソリと利益を貪る“卑怯者”が存在する。そして、その悪者は、猛然とした多弁で、繰り返し話している内に自分でも信じてしまい、善意の第三に本気で腹を立てることがある。仏教ではそれを『瞋恚(しんに)』といって最も忌み嫌う。そして、悪者の嘘が露呈し出すと、こんどは『嶰怠(かいたい)』という心を生み出し、ふてぶてしく怠け、居直り、今度は、それまでのスケープゴートに媚を売って取り入り、また新たなスケープゴートを作り上げて同じ事を繰り返す者がいます。
 今、TVニュースに度々登場している“俄か評論家”は、大なり小なり前出の傾向があります。勿論、“瞋恚”の主人公は言うには及ばないでしょう。
 ここで考えなければならないのは、事の良し悪しは別にして、俄か評論家となって知ったかぶり、“正義”を装って何を語ろうと、何も変えられません。
 今、日本は病んでいます。真に日本人であれば、この状態を放置してはおけない。
 今日、数十年ぶりに私の人生に大きな影響を与えて頂いた日本の教育哲学の重鎮である村井実先生とお話ができた。私が印象に強く残ったのは、『教育が人間を幸せにしたか?』という内容。思わず唸るほど考えさせられてしまった。理由は、これも尊敬する同業者でノーベル経済学賞を受賞しているベッカー博士の『教育と生涯報酬の相関関係』に眼を奪われていた私自信の軽薄さと視野の狭さに気が付いたからだ。
 そして、帰りの電車で寒いのにも関わらず汗を流しながら“発憤”している自分の姿に気が付いた。よし、これから命のある限り『教育と幸福』の関係にメスを入れ、『人間を幸せにする教育』を開発するぞと考えているのに気付いた。
 『瞋恚(しんに)』は、外に向かって憤り、怒り、攻撃する人間としてもっても恥ずべき心で、厳に慎まなければならない心。
『発憤(はっぷん)』は、内に向かって己の未熟さに憤り、怒り、己に対し檄を飛ばし、喝を加え、己が己を叱咤激励する心。
 さて、活人諸君。ストレスのメカニズムからすれば同じではあるが、あなたは『内に敵をつくる発憤型』なのか『外に敵をつくる瞋恚型』なのか。じっくりと考えて欲しい。そして、単に『自分評論家』として己を他人事のように見ないで、如何なる場面でも“主人公”として、前向きに考え行動して欲しい。それが“活人”の証なのだから。
蛇足だが、『競争』とは、己の至らなさを“敵”として己に勝つことであり、他人との相対的消耗戦とは考えない方が良い。なお、私は『他人との競争より協奏、協創』という考え方を支持している。
慧智(050324)

投稿者 echi : 16:43

野狐禅和尚の辻説法『和以為貴(和をもって貴しとなす)』№708

 『争』が賛美されている昨今、今一度“日本の心”である『和』を見直すことを真剣に考えなければならない時期が来ている。『和』は、決して“事勿れ主義”ではなく、相克状態を止揚した積極的で新しい対立解消の結果です。
 聖徳太子の十七条憲法の第一条に登場する“日本人”の“心”の在るべき姿を示した事が表題の『和以為貴』です。『和』は“和合”であり、全ての現象には“本質・真理”が投影されているので、両方を否定したり、片方に偏ることなく、対立を“和合”させて“本質を浮かび上がらせることこそを最優先とする考えで、現在のような未熟な知性からの単純な二元論(白か黒か)に陥らないことが大事です。しばしば、是々非々などという極論主義では、対立が構造化し、必ず“争い”がおきます。争いは“勝者と敗者”をつくり、最後は崩壊するというメカニズムを内包した縦社会へと向かいます。“和”は、言い換えれば“補完”であり、対立する意見から双方の良さを抱き合わせることで“平和(和らかく平な状態)”を建設します。“男と女”に対立があれば『人間』として和合されます。善と悪は“無”として和合されます。表と裏は、“一体、一如”として和合され、不可分不可同に帰結します。其の発想の原点が『色即是空 空即是色』です。『和』の発想は、単純に“足して二で割る”というような疑似一元論ではなく、『万法帰一』を拠り所とする、最小公倍数・最大公約数探しと言えば解り易いでしょう。男と女の例に準えるなら、最小公倍数が『人間』、最大公約数が『生命』と考えられますし、色即是空・空即是色の真理は貫かれています。金か精神か、頭か心か、古いか新しいか、・・・というような対立的な神様志向の偏った考えを捨て、両論を否定せず、肯定もしないという偏りのない『中正』を重視した生き方こそが“21世紀の日本人”であり、世界の対立の仲介者としての“あるべき姿”ではないでしょうか。
慧智(050324)

投稿者 echi : 06:44

2005年03月22日

野狐禅和尚の辻説法『下載清風(あさいせいふう)』№707

『下載清風』という禅語は、碧巌録45則に由来するので、詳細は碧巌録を読んで味わって欲しい。
 さて、『下載清風』の表面的な意味は、積荷を降ろした船が滑るように軽快に帆走している様子を描写している。考えてみれば、我々も重い荷物をヨタヨタと担いでいる状態から、荷物を下ろした状態を想像すれば、清々として風に乗って歩けるというイメージになる。これを禅語風に解釈すれば、苦の源泉である“迷い”や、その結果としての不安という“重荷”を下ろせば、清々した気分になれるし、もう一段踏み込んだ言い方をすれば“悟り”すらも捨ててしまえば、尚更、軽快に風に乗って大海原を悠々と帆走できるというもので、出典では、『下載清風』に続く句が「誰にか付与せん」とあるので、“伝えようも無い”という“爽快な気分”を語っているのだろう。言い換えれば『あらゆる柵や先入観、気負いなどという不安定な感情や気分、そして其の源泉となる分別の全てを捨て去った気分は、言葉では言いようのないもので、それこそが“無心”という最高の心の状態だと教えている禅語だと私は感じている。
 最近、勉強好きな定年退職者が町に溢れている。言い換えれば、重荷を買いに走っているように感じる。それまで守るべき対象であった地位も名誉も資産も収入も捨て、守るべき、と思う一切の気持を捨てて、年金暮らしが出来れば、この世は、そのまま浄土だろう。しかし、浄土に暮す人ならでは“何か”が・・・・。
慧智(050323)

投稿者 echi : 16:44

野狐禅和尚の辻説法『布施こそ自利利他、法施・財施・無畏施、そして無財の七施』№706

今日は、久々に休ませて頂いた。すると来客。知人は、この辻説法を時々読んでいてくれているらしい。そこで質問「先生のように力があれば功徳を積むことも出来るだろうが、自分は生きていくのがイッパイ。無智で、愚かで、地位も無く、財産も無く、力も無い人間はどうしたら功徳を積めるだろう・・・と」。この質問の裏には何か事情がありそうだが、敢えては聞かなかった。それは「功徳を積めるだろう」という文節に、功徳が必要だというに至った理由がありそうだったからである。
 “功徳を積むこと”に理由は無い。功徳を積むことに理由をおけば、それは「不清浄施」といって退けられます。坊主は在家の人々に道を説き(法施)、安心を与える(無畏施)、一般の方が寺への喜捨や公益団体に寄附をする(財施・信施)は“当然”。人々は助け合って生きて要ってこそ“人間”なのですから。ところが、“何も無い”という人でも“何かしたい”ということは素晴らしい。勿論、禅は“全てを捨てる”ことにより大安心が得られ、利他に徹することが自然となるとしています。言い換えれば、『全てを捨てた者』と『何も無い者』には、非なるが似ているものがある。その人には『無財の七施』という行為がある。それは、『眼施』、軟らかい視線で人に接する。『和顔悦色施』、微笑みに満ちた優しい顔で人に接する。『言辞施』、角の立たない優しい言葉で話す。『身施』、礼儀正しく接する。『心施』、善意を以て人に接する。『牀座施(じょうざせ)、人に席を譲ること。『房舎施(ぼうしゃせ)』、寝る場所に困った人を家に泊めることであり、“ある意味”で道徳的なことであり、だからこそ、誰でも出来るが、難しいことでもある。言い換えれば“全てを捨てた者には当然なことで、何も無い者には“素晴らしい”ことなんでしょう。しかし、そこに“下心”があれば、望んでいる方向とは“逆”に進んでしまいます。
 『功徳』を積もうなんて思ってはいけません。困った人を助け、無い者には与え、社会を明るく、他人を蹴落とすことなく生きているのが一番です。
つまり、人間は、己に素直になり、金だ支配だと息巻かず、無駄使いをせず、質実剛健に“淡々”と“当たり前”に“利他”に生きる事、それが一番の“功徳”だと思っています。
慧智(050322)

投稿者 echi : 06:45

2005年03月21日

野狐禅和尚の辻説法『人間は“解釈”する動物』  №705

“解釈”とは、言葉や文章、または物事(事実)の意味、即ち“事実”を観察者(情報の受け手)の知識(明白知)+経験(暗黙智)=知性レベルに従って類推、推測・推理・推定などの“思考(個性により論理的思考と感覚的思考がある)”を行いて評価し、言葉や文章、物事の『価値付け』を行い“個人的な新たな意味(価値付け)”を与える行為である。
 昨日の『禅会』前後の車座で、“友人”“知人”“家族”“夫婦”・・・など『人間関係』の関係性の定義について議論があり、それらには意外と大きな個人差(解釈)があることを再認識した。
 元来、『禅』では、“それら”を“分別”という表現で、“真金の曇り”として“捨て去る”べき意識である“差別の温床”としている。簡単に言えば、多くの場合、“定義”は排他性を約束する思考様式における必須の思考原点である“分別”、言い換えれば、差別の源流である二律背反化、二項対立化の源泉なのである。故に、“禅”においては、弟子の質問に対し、師は直接的に回答しないし、質問者である弟子に対して、師は“質問内容”が弟子の経験との関係で“止揚”可能なフィードバックをするのだ。だから“それ”を知らぬ者には禅問答そのものが難解と映り、師と弟子との間に未だ共鳴しうる関係が成立していない場合と同様、以心伝心は実現されないのである。つまり、質問者と回答者の悟りのレベルが拮抗しなければ、以心伝心は生まれず、当然、双方が自覚できるのである。そこで、禅の修行においては、師である自分を超えてゆくことが感じられた弟子にしか“印可(法系を担わせる)”をしないのである。
 話が少々ズレたので、元に戻す。
『人間関係』という人間同士の関係の包括概念(抽象名詞)に、その特徴、傾向別に固有の名詞が与えられたのが、友人関係、仲間関係、親類関係、一家関係、親子関係、夫婦関係などなどという名称と標準化された意味が与えられ、“普通名詞化”が行なわれ、更に“その”最小単位である関係には、“固有名詞化(山田さん夫婦とか、天皇ご一家など)”が行なわれ、“その関係”を言葉や文字、行為の形式で理解しようとする。
ところが、“そこ”には知識や経験などを変数とした誤った解釈となる問題が生まれたので、人間は“辞書・辞典”を発明して、“言葉の標準化”を行い、個人による勝手な解釈と伝播を食い止めてきた。
しかし、近代のように知識や情報の質量が飛躍的に拡大するようになりと、その所有量を関数とするな“階層化”社会が強化助長されて固定し、更には、印刷→通信→放送→??へいう文明の進化と情報の伝達スピードが飛躍的に大きくなったことから、知識や情報の質量は個人間で益々大きな差が出来、“縦社会”が完成されてきた。そして、昨今、元々は米国の軍事技術であり、DBの共有を求めて開発成長してきた“インターネット”という素人(無智で勝手な解釈をする者)御用達のメディアが生れ、新しい“ネット社会(非関係的情報網社会)”を作り上げてきている。
そこで、問題となるのは、『言葉の定義』による“差別”である。言い換えると、二項対立・二律背反である。
誰かが「私には“友達”がいない」と言ったとする。それを聞いていた人が「私は友達ではないの・・・?」と感じたとする。また、ある女性が「彼は家族です」と言ったとき“その彼”が彼女の夫で、それを聞いていたら・・・。ある経営者が「命の次に大事な金を投資して、利益を生む鶏を手に入れて大事な社員や株主に金を与えるのは、頭の悪い社員の稼ぎが無いからで・・」という話を、その経営者の社員が聞いたら・・・。さて、みなさんはどう思いますか?
纏めると、“友達”と“非友達(友達以外)、他人>知人>仲間≒友人≒友達>親友>家族(親戚>親子≒同居>子供≒夫婦)>自分などのような価値例で示されるように、順序は別にして、正しく『差別構造』なのです。また、それが“道徳(子供は何より親を敬え)”や“倫理”、および倫理や道徳の延長線上にある“神教”の世界です。
ところが、仏教、特に仏心宗といわれる“禅宗”の本質(現実には矛盾もある)は、“無差別、無区別”であり、優劣という差別を止揚させることを第一としています。ですから、本質的には妻と妻以外、息子や娘とそれ以外が自然に生まれ、必然的に序列や差別を生むような関係を否定しています(現在は蔑ろになっている)。
私なり、活人禅会の考え方は『来る者は拒まず去る者は追わず』という言葉で表わしているように、生命は勿論のこと森羅万象の全ては“皆、仲間”であり、“平等”というファンダメンタルの上に、行為(好意ではない)が生れ、『一人が皆の為に、皆が一人の為に』、一人一人は『無対立・無犠牲・自主独立』を信条として生きてゆこうとしています。勿論、それは完全ではなく、知らず知らずに罪を犯していることがあるが故に懺悔がある施餓鬼があるのだ。それらを実現してゆくためには融通無碍、臨機応変、工夫、智慧などなどを磨き上げている。騙されても、脅されても泰然自若、悠然として凛と立って意図的な反撃などせず、わが道を行ける無心の己の確立を目指している。
『相互支援』の倫理(理想)の世界、『弱肉強食』の幻想(現実)社会。何れに組して生きるかは自由だが、それを止揚した『万法帰一(→一切皆空)』という本質の世界に住み替えても良いのではないだろうか。
夫婦だとか、友達だとか、敵味方などの二項対立を乗り越え、“人間”として“森羅万象の一現象”として、縁に随い、一瞬一瞬を永遠の不可分として大事にして生きる。一日を一生として生きる。“今”の流れに全力で取組む。結果は自然と成る。そうは考えられないだろうか。
私は、一面では経営戦略のコンサルタントでもある。戦略論を駆使して企業を勝ち組に導くというコンサル会社の代表でもある。一見すると、個人の生き方と会社の在り方が“矛盾”しているように思われることもある。しかし、私の中では“無矛盾”なのである。それは『人を観て法を説き、出来るだけ早く“竿の先”“川の手前”までお連れし、望めば“川を渡し”、望めば“竿先から戻す”ことを手伝っているという認識にあるからです。蛇足であるが、それもそろそろ潮時かもしれない。
教訓:『一切の執着、拘り、偏見を捨て、皆んな仲良く、ニコニコと生きよう』
慧智(050321)

投稿者 echi : 16:46

2005年03月19日

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは、強く、優しく、しなやかに、淡々と生きる事』№704

時々、「禅を学んでいます」、という人に会います。結構なことだとは思いますが、それは「調理を学んでいます」と似たところがあります。料理は、“食べること”の手段であり、『作って食べる』という元来“一体”、紙の裏表を、無理やりに2枚の紙に剥離したようなものです。調理を学んでも腹は満たされません。同時に、禅を学んでも心は満たされません。仮に“調理”を利他、“食べる事”を自利と考えたらどうだろう。人間、レシピを読んで学んでも“腹”は膨れない。同時に“採集”により食べるだけでは栄養が偏るし、毒キノコを食べてしまう事があるかもしれない。しばしば、食道楽は舌が肥える、料理人は食べる事を楽しめない、と言われる。
『禅』は、日常生活における『料理と食事』のようなもの。少し突っ込めば『素材を手に入れ、調理し、美味しく食べて、後片付けをする』、その内に“器”を作り、箸を削り、畑仕事をして、漬物をつくるようなもの。つまり、『行住坐臥』、“生活そのもの”なのです。それが転じて“医食同源”、“日常を楽しむ(日々是好日)”、無事是貴人・・・・となるのです。言い換えれば『強く・優しく・しなやかに、淡々と生きてる事』であり、それを実現している人が『活人』、そこへ向う道を『活人道』、それらの全体を『活人禅』と思っています。『無』だとか『空』とかいう言葉を理解することと、“それ”を生きている事とは少し違います。解らなくても“それ”を生きている、そして“それ”に感謝し、“それ”を虐めない事がだいじなのです。『無』は、単純に“無い”ということではなく『定まった形が無い・力が存在する(機能はある)』、水や空気、雲、森羅万象・・・全てが“無”、『空』は、単純に“カラっぽ”ではなく、『異なる“力”が相互に浸透し、全てが過不足なく調和している状態』、素粒子の世界、宇宙全体、ミクローマクロ、連想は何でも結構。最大のミクロを人間・最小のマクロを人間と捉え、無限の調和点を生命と考えてもよい。まあ、頭ではなかなか解らないし、言葉での解説には限界がある。しかし、“坐禅”は全てを感じ取れる。それを知って生きる人間と知らないで生きる人間には、天動説と地動説の違いを知って居るか知らないで居るかの差ができる。勿論、普通に暮している(限定合理性の世界)では大きくは困らないかもしれないが、・・・・。まあ、坐りましょう。
 今日から禅会です。来て下さい。
慧智(050319)

投稿者 echi : 16:46

2005年03月17日

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは・・・・“呼吸”のようなもの。』№703

『趙州洗鉢』という、所謂“禅語”があるのを知っている人は少なくないだろう。しばしば、茶室に床の間に下がっている“あれ”だ。出処は、「無門関・第七」の公案。
ある時、一人の僧が趙州に「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい」問うた。すると、趙州は「朝ご飯は食べたか」と返し、「はい、食べました。」と僧は答えた。すると、趙州は「それでは持鉢(じはつ)を洗っておきなさい」と言った。そして、僧は心眼を開いた。・・・難解。 
  無門関・第一則“趙州狗子”で出てきた趙州(じょうしゅう)和尚は中国唐代の後期、禅宗の大和尚で、「唇皮上に光を放つ」と言われたほどの人物です。一喝する祖師もあれば、棒を振るう祖師もあり、また一指を立てる祖師もあり、なかなかユニークな時代ですが、趙州大和尚は、精妙な言句に鋭い機鋒を現した、現代禅風の祖と言われています。この公案は、表面的な会話は小学生でも分かるものですが、真意となるとなかなか難しいし、それを生涯の態度で示すとなると、『小学生でも解るが大人でも出来ない』というものだろう。
そもそもこの僧は、新参者と自ら名のっていますが、僧堂に入ったのは新参であっても、禅修業においては新参者ではない。本当の新参者がこの程度の2、3の会話で悟れるなら、私ですら10年で悟り切っただろう。しかし、そんな甘いものではない。六祖・慧能の頓悟(修行の段階を経ずに一挙に悟りが開けること )にしても、“下地”はあったはず。
 さて、横道から戻ろう。公案で趙州和尚は、「朝ご飯は食べたか」と、聞き返しました。そもそも弟子が、「師よ、どうか指示をお与え下さい」と言っているのにである。何故、趙州和尚は“朝飯の事”を聞いたのだろう。
そして、この僧は、何故、悟れたのだろう。・・・“何故”と言われて考えるようじゃ未熟。
趙州和尚の真意は以心伝心で受け止め、教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏が一瞬にして浸透しただろうが、「何故か」。
それは、日常的動作の中に“全て”が過不足なくあるが、ある特殊なタイミングでしたそれを体験できないということです。『啐啄同時』という禅語もあるでしょう。“悟り”とは、何も、“特別な所”の“特別な事”ではなく、当たり前の日常の全てに浸透し投影している真理を気付くことで、“一瞬”にして世界観が変る機の出来事なのです。簡単に言えば、「それまでの“苦”だと思っていたことが、それこそが“楽”だというように人生が180度変わることなのです。
己の行住坐臥が、そのまま“仏の営み”であるというのが“禅の極意”なんです。
子供でも解かるが、大人でも容易には出来ないのが『禅』だと覚えておきましょう。
故に“修行は一生”、『一日一生』なんです。
慧智(050317)

投稿者 echi : 16:47

2005年03月16日

野狐禅和尚の辻説法『法律・道徳・倫理・宗教』№700

昨今、合法か違法かなどという低レベルの論争が、企業買収に纏わって立法・司法・行政の各府から経済三団体で盛んに議論されている。私も“その”幾つかの会で発言するチャンスがあり、話すべきことは話しているが、彼らの理解はかなり異なる。特に、その代表者の宗教による違いはハッキリしている。誰が如何なる宗教かは差し控えるが、経済三団体の代表は、キリスト教徒、神道、念仏系仏教であり、それぞれが競争賛美、権力賛美、規模賛美思想をその言葉の端端に伺える。勿論“無信仰者(利己主義)”である話題の主よりは、確固たる信念(価値基準)が公開されているほうがフェアーであることは事実ではあるが、 おおむね“排他主義”であることは悲しい現実である。
 法治国家である以上『遵法(コンプライアンス)』は当然であるが、法律は“時代(文明度・文化度)”という変数に大きく影響を受けるので、たえず“不完全”であるから、法律の上位概念である“道徳”の視点から“法律の精神”を受け止め、合法であれば全て善しと考えることは差し控えたい。
次に、“道徳”は国家的な価値感を変数としているので、“その国家”の最高権力者の人格を変数として不安定となる。つまり、日本を例に言えば首相の人格が道徳の普及度に大きく影響する。そこで道徳は、その原理である“倫理”に精通していなければ語れないし、日々の率先垂範が出来なくなる。言い換えれば『修身斎家治国平天下』であり国会議員が国民の模範でなければ天下が落ち着く訳がない。そして、“倫理(道徳の原理)”の背景には“宗教(倫理の原理)”があり、簡単に言えば、如何なる宗教でも構わないが、宗教を持たない者は、倫理、道徳、法律は、生きるための“制約”と捉え、自己の都合で“合法と違法”を使い分ける法律論者は本物の『無道徳者』となる。そして、道徳(商業道徳などを含む)を振り回す者は、倫理観が怪しく、倫理を謳い上げる者は、宗教に関する無智が露呈する。
 私達、地球上の存在である生命+森羅万象は、相互補完、相互支援で存在が可能となる“現象”であり、『互恵』を無視することは犯罪である。また、人間であるなら『競争』を無くし『弱肉強食』の生存原理から、抜け出す努力こそ、法律・道徳・倫理・宗教の共通概念のはずである。
 今日、世界は『法律・道徳・倫理・宗教』を止揚した新しい概念を必要としている様に思う。そして、それが“禅”の思想にかなり近いのではないかとも考えている。しかし、“それ”が何か、と話す時期ではないだろう。少なくとも、今後50年以内に本物の“世界規準”が出来ない限り、50億年続いてきた地球の調和は大きく崩れるだろう。地球の寿命は100億年であり、これまで50億年を経た。そろそろ地球も“おとな”にならなくてはならないのだ。
 なお、今、生きている者は、少なくとも“今日”を大事にしておかなければならない。そこで、今直ぐ誰でも出来る“無対立・無犠牲・自主独立”だけは守りたい。競争は止めようではないか。勝組・負組をつくるのはよそうではないか。相互補完とならない一方的依存は止めよう。
・・・・願わくば我等と衆生と皆共に仏道を成せんことを・・・・
慧智(050316)

投稿者 echi : 06:48

野狐禅和尚の辻説法『無対立・無犠牲・自主独立』№699

 対立関係を数字で見てみよう。“3と6”という関係には最大公約数は3、最小公倍数は6という関係がある。“2と4"も同じ,ように2と4だろう。つまり“どちらか”に合わすことができてしまうか、合わさざるを得ない。言い換えれば、“あちら”を立てれば、“こちら”は立たない。では、3と5という関係ではどうだろう。最小公倍数15が存在するが、最大公約数は1という以外に無い。また、2と3のような関係には最小公倍数6が存在するが、最大公約数は1以外に存在しない。
 ここで、数字を“己”と相対する“他”に置き換え、“止揚”という概念を考えてみよう。また、“万法帰一”を考えてみよう。そして“相対関係”とは何かを考えてみよう。
そこには、『無対立・無犠牲・自主独立』を理解する秘密が隠されているのだ。
慧智(050316)

投稿者 echi : 05:49

2005年03月12日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)』№695

十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)段階について。
頌曰
■鞭策時時不離身
■恐伊縦歩入埃塵
■相将牧得純和也
■羈鎖無拘自逐人
(図版はHPのTOPの下から“十牛図”を見てください。ここが菩薩道の五合目)
◆鞭策時時不離身
読:鞭策(べんさく)時々(じじ)身を離れず。
意味:(牧牛は掴えたておくのに血みどろの努力をしたのであるから)、鞭、綱は片時も自分の身から離さないようする。
◆恐伊縦歩入埃塵
読:恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に入らんことを。
意味:(さもないと、)あの牛はきっと勝手に行きたいところへ飛んでいって、塵埃が一杯ある分別の世界に入ってしまう。(つまり、欲求充足、快楽追及の俗世間と悟の世界の魅力との板ばさみにsるだろう。)
◆相将牧得純和也
読:相(あい)将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんな)せり。
意味:本当に真剣になって、飼い馴らしていくと、心が段々と柔らかくなって純粋になってくる。(坐禅をして見性が許され、己の主人が己であることに得心が行くと、何となく偉くなったような気になり、知らず知らずに放漫になることがあるので、坐って坐って坐り抜くことが大事で、自分を自分が飼い馴らせれば、心も顔も柔和になり、言葉使いもソフトになってくる。
◆羈鎖無拘自逐人
読:羈鎖(きさ) 拘(こう)すること無きも自(おのず)から人を逐(お)う。
意味:(段々牛が落ち着いてくると、)羈鎖(手綱や鎖)をつけておかなくても、自然にその牛は己についてくるようになる。(行住坐臥の悟りが生き、本来の牛(己)を見失うことが無い様になる)

解釈:『牧牛』のレベルになれば、本来の己である牛を手に入れてはいるが、そこで安心せず必死になってそれを馴らし、己のものにしていく大切です。
心には実体がなく、時に応じた現象であると同時に宇宙万物、森羅万象もまた、実は実体ではなく現象であるという『空観』に得心が得られる。しかし、まだまだ、観念・妄想の根は残っているので、目が出てくるので、それを自分で積むことになる。ところが、悟りを体得していると同時に、邪心の状態も知っているので、かえって“悟り”の素晴らしさに呑まれ、悟りの体験を鼻にかける思いに陥入ることがあるので、厳に戒めておかなければならない。まあ、『禅』の素晴らしさ、『禅』のレベルの高さを吹聴し、やたらと人の指導をしたがるような弊に陥入るので注意すること。また、次から次へと湧き出てくる想念・分別の本質が本来カラッポであって実体が無いことを十分に理解し体得しているだろうが、それに執着してしまう程度のレベルなのです。私たちの日常は常に主観・客観の二項対立でみるのが簡単なので、「有る・無い」という対立観念に陥り易い。真理は、有ることは無いことであり、無い事はあることであるように、『有ることと無い事が調和して現象している万法が一に帰すのです。『牧牛』という段階は、実はとても苦しいが、それが己の弱さを再確認するには良い機会になる。この段階を過ぎれば、人に対しては極めて寛容的になれ、時盗人(時間を守らない者)や泥棒や詐欺師にすら、哀れみをかけられるようになり、穏やかな人生の入口にあることが実感できるだろう。(本当です)
慧智(050312)

投稿者 echi : 16:52

2005年03月10日

野狐禅和尚の辻説法『拈華微笑(ねんげみしょう)』№693

 釈尊が晩年、一言も発せずに一輪の“金波羅華(ロータス)”を大衆の前に示した時、 弟子達の大半が、釈尊が伝えんとする意味を掴めず、摩訶迦葉(迦葉尊者)ただ一人が“にっこり”と微笑んで、肯いた光景を移した言葉で、真理は言葉だけでは伝えられない、という意味を担った四文字です。そして、微笑んだ迦葉尊者と大衆に対して釈尊は「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、摩訶迦葉に附嘱す」と言われた、と伝わっています。それを受け達磨大和尚は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」という禅の根本思想となる“四聖句”を唱えたとされています。
 つまり、“悟り”の境地とは、文字・言葉(経典の内容を絶したところ)に伝えるべき深遠なもの、言い換えれば“行住坐臥の統合”により、師から弟子に“以心伝心”されるものだということを意味しています。言い換えると、公案にして然り、師と弟子は阿吽の呼吸で結ばれてこそ、以心伝心が可能になるのです。しかし、それはテレパシーだとか、集合的無意識とかいう非科学的なものではなく、“教育”による成果であることを付け加えておきます。そして、教育とは“経営(営みを経て目的目標を達成させる行為)”であり、“経営”とは教育であることも付け加えておきます。
教訓:禅とは完成された教育体系である。
慧智(050310)

投稿者 echi : 16:53

2005年03月09日

野狐禅和尚の無分別な辻説法『生命は、部分であり全体である(ホロスとホロンの関係)』№691

地球上の生命は、例外なく同一の起源をもっている。言い換えれば、人間の起源を遡れば、38億年前の原核細胞に至り、更には“物質”に至るのです。即ち、“父母未生以前の本来の面目”は、細胞→分子→原子・・・最終的には“力”に至り、『空(相互補完)』であり『一切皆空』という事実を示します。言い換えれば、生命と物質は不可同不可分の関係にあるのです。
 小中学生の理科の授業で習うように、『0』という概念は『マイナス1とプラス1』を原型とする相互補完から成り立ちます。言い換ええると、ゼロは完全な1でもあるのです。細胞(生命)に注目する、『細胞は完全性と全体性を有する一体』から無限に分化し、統合しながら完全な部分であり全体となります。これが『個』と『人類』そして『森羅万象』の関係です。ですから、地球上の生命は“相互補完”の具現者なのです。
若し、地球の外に生命が存在すれば、その『根』は深くなるだろうが、全てはビックバンという150億年前の得意な『無』から生まれ出たであろうことは合理的なことだろう。言い換えれば、全宇宙の物質・生命も同根でありながら不可同不可分なのである。
故に、唯心論と唯物論も同根ということになるのです。
そして、生命は物質に分解可能であり、生命情報は物質(DNA)により受け継がれるが“物質”を以て“生命”を作り出すことは、人間には出来ず、全て“自然界”に依存している。つまり、有機物は無機物に分解できるが、無機物は“生命”が介在しない限り“有機物”とはならないのである。(但し:定義による)言い換えると、生命は物質化合の単純な結果として生ずることはなく、最初の一つ『一』以外は、生命は生命から生まれるのです。
ですから、生命は相互依存を必然としているのであり、“単独・孤立”では存在し得ないのです。以上が『空』すなわち“相互依存”、“補完”の意味です。
 さて、食卓にある“米一粒”を穴が開くほど見てみよう。確かに表面的には“己の外”の物質である。しかし、口に入れた瞬間に“消化”が始まり、“己”の一部となり、血となり肉となる。そして、一部は排泄され、次なる生命の“力”となる。
■五観の偈
●一つには功の多少を計り彼の来処を量る
“功”とは時代を超越した多くの営みであり、“彼の来処”とは『縁』のことで、“量る”は、どのようにして此処に私に食されるためにやってきたのかを思いましょう、ということですね。つまり、“命”はどのようにしてはぐくまれ、己の命に置き換わっていくのかを理解するのは人の義務ですよ捉えて良いだろう。
●二つには己が徳行の全欠を計って供に応ず
“己の徳行”、つまり戒・律を守り、六波羅蜜を実践を必要とする人間にとっての、今日一日の精進が一歩でも前進したか否かを考え、『一日作さば一日食わず』を思い出して、差し出された供物に食べて良いか自らに問えということですね。
●三つには心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす
昨日よりも今日、今日よりも明日、と己の心を澄まし高めるために“今日一日”を費やしたのかどうか、眼前にある“食べ物”が本当に、己の命に“成り代わって頂いく価値があるか“己”にあるか自問自答し、心の安寧を守り、出された食事の好き嫌い、えり好み、食事に対する不平不満を持たず、仏教で厳しく戒めている『貪り、怒り、愚痴(三毒)』にならないことを宗たる教えとせよ、ということ。
●四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
“食”は生きるためにあり、生きていることが感謝と喜びの原点であるように、眼前にある“食べ物”が“今”を生きるための糧であり“五体”を維持するがための“良薬”なのである。つまり、自分の“食欲”を満たすために生命を頂くのではなく、“森羅万象の部分であり全てでもある己”の体を求道の為に維持する“良薬”として頂かくのである。   
●五つには道業の成ぜんが為に当に此の食を受くべし
“道業”とは悟りへ向う修行のこと、あらゆる執着を離れ、素直な己に立ち帰るり、仏性である森羅万象に心を配り、殺生を自覚することの為に、今この食事を頂くべし。つまり、今は未熟であるが、将来必ず帰れるであろう悟りの境地のために、己の命を繋がせていただきます、ということである。

少々こじ付けに聴こえるかもしれないが、『生きる』ことは『活かされる』ことであり、それが己の解放生態系的な位置にある己の部分である己を頂くためには毎回毎回の食事に於いても原点に立ち返り自戒を新たにするのが“修行”であり、『一』へと向う大道を歩む者の義務であり責任なのです。質素倹約、感謝なくして食事をする資格は無いのである。
そして、『一口為断一切悪、二口為修一切善、三口為度諸衆生、皆共成仏道』と続く。
 これが、毎回の食事において150億年を自覚する礼儀なのである。
慧智(050309)ああ、腹減った。でも、今日は働いていないな~。・・・・・。

投稿者 echi : 16:54

2005年03月04日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

頌曰
■竭尽精神獲得渠
■心強力壮卒難除
■有時纔到高原上
■又入烟雲深処居

◆竭尽精神獲得渠
読:精神(せいしん)を竭尽(けつじん)して 渠(かれ)を獲得す。
意味:精神の限りを尽くして牛を掴まえてみると、この牛は快・不快、好き・嫌いに代表される二項対立の分別を求める心が強く、自我という虚空の己を主張し影響を受けた“外の世界”にとらわれ、明らかにした中空の手綱が、油断すると切れそうになる。戦争や競争の権化である自他対立の悪習性は、長い年月で身に付いたもので、“心の空性”はわかっても、なかなか云うことを聞かない。
◆心強力壮卒難除
読:心(しん)強く 力(ちから)壮(さかん)にして卒(にわ)かに除き難し
意味:長い間野放図にされた己の心は、野生化した牛のように力が強く、そのバカ力を無くさせるのはなかなか難しいので、急ぐことはできないので、ますます熱心に坐禅に励まなければならない。
◆有時纔到高原上
読:有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り
意味:云うことをなかなか聞かない有様であるが、『ある時は悟りの頂上に立って衆生を度せんとするが、その対象としての衆生が無く、その世界に執着して独りよがりになり『悟ったという心』に執着し融通無碍な自由な心が曇るときがある。この状態を『禅病』と言い、利他を必要とする世界の無用の長物となってしまう。
◆又入烟雲深処居
読:又烟雲の深き処に入って居す
意味:もう一つの問題は『烟雲』という一元論を二元論で説明するような二項対立の魔境に、すぐに戻ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまうことがある。まあ、自分はは他人が容易く持てないような“悟り”を開いたという自信に漲り、それが高じて、悟らない人より頑固となり、自己主張が強くなって、手に負えない状態となってしまう。(慧智はこの傾向を未だに具しているのは否めない)
昔から、この状態を『禅天魔』と云い、このようなケースは過去にも山ほどあり、この世界を抜け出すには、乞食などに徹して、ますます謙虚になり作務と坐禅に没入することである。


さて、『得牛(とくぎゅう)』のレベルは、“眞の己”のアナロジーである“牛”を、しっかり掴まえた段階である。つまり、“牛の正体=本来の面目”が明確になり得心を得た段階である。つまり、己を頭で理解した段階である第3の「見牛」段階とは格段の差があります。言い換えれば、第三段階では本来の己に会ったという見性経験はできたものの、まごまごしていると直ぐに見失ってしまい、『悟り』の経験を頭と口で話せる程度で、しばしば己を見失い、安易な生き方への執着を捨てられず、酒や異性や遊びに流され、自堕落な人生と聖なる人生を往復することになる一番苦しい段階である『見牛』を抜け出し、頭と心と体が一体となっている本来の己として生きられようになった“人生道”を初心者マークを付けて走れるようになった段階です。
ところが、この“己”という牛は、長い間、路上駐車していた車のように未整備で、なかなかスムーズには動きません。つまり、快楽を追い続けていた二項対立の世界の自堕落な味が忘れられないのか、どんな道でも快適に走れるというわけにはいかないのです。しかし、『色即是空』という語を観念を媒介にせずにハッキリと確信できるので、己が無限の能力を備えていることへの自信が湧いてきて“形式的に作られた思想や観念”などの方便モデルの力を必要としなくなることから、ここまで来ると牛(本来の己)を見失うことはなくなります。
慧智(050304)
★報告:TOPページの下に『十牛図』への入口を用意しましたので、参照してください。

投稿者 echi : 16:59

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House