2007年07月19日

●第1100話『無くてはならぬものは多くない(キリスト)』

 皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答えるだろう。キリストは「無くてはならぬものは"ただ一つ”」とも答えたと伝わっている。それは何か。それは“religion”であると答えている。即ち“キリスト教”なのであるが、キリストは“キリスト教”という表現を使わなかったので、現代の日本語で表現すれば「人生で無くてはならないものは“宗教”であると答えたようなものである。勿論、以前に何回も話しているように『宗教≠religion(レリジョン)』です。レリジョンとは、唯一の神との再・結合という意味のラテン語を語源としており“キリスト教”を示しているからである。
 一方、“宗教”は禅語とは言い切れないが仏教用語であることは事実であり、概ね“禅語”として解釈してよい。出典を探すと碧巌録(北宋初期の禅僧、雪竇(せっちょう)重顕が古来の禅録の中から公案百則を選び,韻文のコメント(頌)を付した『雪竇頌古』に,北宋晩期の圜悟(えんご)克勤が解説・論評を加えたもの)の五則中にある「大よそ宗教を扶堅(ふじゅ)せんとすれば須らく英霊底の漢なるべし・・・」に突き当たる。つまり、『宗教とは“宗(むね)たる教え』という意味であり、“大本の教え”という意味ととらえる。言い換えれば“己の外に仏なし”という大本の考えからすれば、キリスト教を信じる者(信仰する者)の宗教はキリスト教が“唯一の宗教”なのです。ところが、仏教徒(仏教を信仰する者)が信じる宗教は“仏教”だけに囚われ拘らないので“キリスト教も仏教も宗教”と表現するからややこしくなる。
 『宗教』とは、“信仰”の一つであることは事実だが、正しくは『自分が信じる体系化された考え方である“宗たる教”以外の解釈は成立しないのである。そういう意味からすれば、洋の東西を問わず『人生に無くてはならないものは“宗教”』ということになる。ところで、皆の宗教は何かと問えば「仏教」と応えるのか、「禅宗」と応えるのか、「活人禅宗」と応えるのか。拙僧は「己の外になし」と応える。「己の外に無し」と応えた瞬間に『唯我独尊』が成立し、“全ての命が中心”となり、禅を宗教とする者は“山川草木悉皆成仏”から、『全ての現象』となる。
 以上から、我々は『禅の教え』こそが“宗教”ということになる。
 では、宗たる教えが根本であるとするなら、我々は“禅的”に生きるということに繋がる。その根本は何か。それを解説しているのが“経(きょう)”、時代を超えて経(たて)に繋がる教えである、八正道とうに現れているが、要約すれば『何事にも囚われず、拘らず、偏らずに、事実を無差別に受容し臨機応変(自由自在)に犠牲を最小限に生きる』ということであり、正に“持続可能な共生生活”である。換言すれば「人は独立しながら相互に犠牲にすることなく補完し合いながら他を否定せず肯定的に生きる」というのが“禅”であり“仏教”ということになるので、最近の檀家団体など他派を否定する“新宗教”は“カルト(教祖主義者)”なのである。勿論、カルトも教祖の教えを“宗たる教え”とするのであるから宗教は宗教であるが、自分の考えを主張するのは大事だが“それ”に囚われていては『無縄自縛』であって“自由(これもフリーやリバティの訳語は誤り)”を放棄していることになる。(続く)

一日一生 慧智(070718)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 07:22

2007年07月13日

●第1098話 『高山流水 只貴知音』

虚堂録の四巻に和尚の言葉として出てくる『高山流水 只貴知音』は、「こうざんりゅうすい ただちいんをとうとぶ」と読み、「高い山や流れる水の意味は、悟れる者に悟れる」と解釈する。人間、素直な心、清心の者は全てに学べるが、先入観に囚われた邪心の者は、老賢人にすら学べない。言い換えると、加齢と共に成長する者も居れば、返って下衆になってゆく者がいる。年を重ねるごとに賢人となり老賢人と言われるような生き方と、年を増すごとに痴人と化し愚者となる生き方は、日々の生き方に違いがある。物に拘り、事に囚われ、枝葉末節に偏っていては“本質・真理”は見えない。四十を過ぎて博打に現を抜かしている者には本質は見えないだろう。しかし、彼らでさえ“仏性”を内在させているし、何らかの切っ掛けでそれに気付き精進すれば、悟りへの道は開かれている。己の外に価値や規範を求め、物や金、地位や名誉で人間を評価する者は、何れは“神”を作り上げ、“占い”などの迷信に翻弄され、霊だ魂だと言い出し、己が主人公の世界、誰もが己の責任と権限で生きてゆく世界を愚弄する。私たちは誰一人の例外なく、一人ひとりが世界の全てであると同時に、世界の一部であることの自覚が必要だろう。己が大事なら、それと同列に他人も自然も大事なのである。眼前の物の世界に父母未生以前の己の姿を見たなら、子々孫々以後の己の姿も見えるはず。ところが、己の垢である“我”に気が付かない拝金拝物亡者は、“失う事”が苦の最たるものである事に気付かず、一喜一憂する競争社会、喜怒哀楽の快楽追求社会という地獄を足早に生きて大自然へ戻るのである。
 また、祖堂集巻五・石頭下巻第二曹渓345代法孫に出てくる『養子方知父慈』は、「子をうんではじめてちちのじを知る」と読み、意味は、父の慈悲心は自分が子を得て初めて解る」であるが、文の前後関係からは「雲嵒和尚は洞山という弟子を得て初めて雲嵒となり薬山和尚のありがたさが解った」と言われるように、悟ってみて初めて悟った人の境地が解るというものである。であるから、日頃から偏見を持たずに“己を越している”と思える人物と交わるのが良かろう。そして、師と弟子の関係を超えて切磋琢磨するのが良かろう。
一日一生 慧智(070713)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 10:01

2007年07月10日

●第1097話 『剛刀雖利 不斬無罪』

 『剛刀雖利 不斬無罪』は、「ごうとう としと いえども つみなきを きらず」と読み、正法眼蔵や五燈会元十七巻の寶峰克文禪師の文中に散見される句は、意訳すれば、強いものは弱いものを責めないと受け止めたり、能力の有る者は、その能力の使うべき道を知っているとなる。
 最近、能力は高いが“その能力”の“使い道”を誤っていると思われる者が多い。問題は“使い方”ではなく“使い道”なのである。皆は、無意識に使っているだろうが“使い方”と“使い道”は違う事は十分に理解しているだろう。例えば犯人と警官がピストルを持ち、共に“使い方”は知っていても“使い道”は異なるのである。だが、より本質に近づけば、更なる“使い道”が見えてくる。使い方は水平方向に広がり、使い道は垂直方向に深まる。拙僧は『剛刀雖利 不斬無罪』を文字通りではなく、「己の力を知って活かせ」と読み取る。
 ところで、諸君は“己の力”を知っているか?、そして“その力”は一人で発揮できるものか?
本日の禅会では、それに対する答えと出会うように坐りなさい。
 蛇足だが、数日内に大きなニュースを流す。
 一日一生 慧智(070710)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 19:36

2007年07月08日

●第1096話 『歸家穏坐(キカオンザ)』

 昨日、“海洋散骨”をする同夏から「歸家穏坐というが、御主は何処なのか」と問われ「歩歩是道場」と応じた。出家に帰るべき家などないし、寺は修行の場であり仮に留まっているに過ぎない。勿論、此の世とて同じ仮の命。HNKではないが、人間は何処から来て、何処へ行くのか。そんなことは禅坊主なら「こっちから来てあっちへ行く。お前はあっちから来てこっちへ行くのか」と笑い飛ばす。あっちだ、こっちだは所詮は語。“語を悟にした”者にとっては生死は諸行無常。変わらぬ事などが無いこと生きている。されば、歸家穏坐する地とは何処。それは父母未生以前の世界。言い換えれば「この宇宙よ」となるだろう。
 まあ、今日は難しい事は無し。東京の仮住いのベランダにひっそりと咲いた『仏手柑』の花をご覧下さ
い。

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 一日一生 慧智(070708)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 18:53

●第1095話 『曹源一滴水(そうげんのいってきすい)』

 言わずと知れた『碧巌録』に登場する五言の一句です。『曹源』とは「曹渓の源泉」、つまり六祖慧能(えのう)大和尚のこと。紀元前の釈尊という源から流れ出た大河の一滴は、800年の歳月を掛けて我が初祖である達磨(だるま)大和尚、そして本尊の慧可(えか)大和尚、僧粲(そうさん)、道信(どうしん)、弘忍(ぐにん)大和尚と続き、六祖慧能大和尚により『禅の流れ』は大成し、臨済・ 雲門・洞山・潙山・法眼によって、臨済宗・雲門宗・曹洞宗・潙仰宗・法眼宗の五家、加えて臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化して日本には二十四流の禅として伝えられたが、全てはて大河の一滴、『曹渓の一滴水』からのものです。そこで、禅の根本を「曹源の一滴水」と表現し、正伝の禅法を「一滴水」といいます。有名な話ですが、明治の初めに天龍寺の管長になられた滴水宜牧禅師は、曹源寺の儀山禅師を師として修行されており、師が入浴中に滴水に「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」と。適水禅師「老師の次の人が入ります」と。儀山禅師「それがすんだら」と。適水禅師「私たち小僧たちが入ります」と。儀山禅師「では、それがすんだら」と。そこで、適水禅師は「捨てます」と応えるや否や儀山老子の大喝一声。「馬鹿者、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にするでない」と。その一声に小僧である適水禅師が悟り、五十歳にして天龍寺の管長になられ、以後、号(ごう)を「滴水」と改めて遷化されるまで「水は仏の御命、一滴の水をも無駄にせぬよう」と言い続けておられました。
 しかし、最近はどうでしょうか。水を粗末にするなど言うに及ばず、命さえ粗末にしている。生きる時は全力で生きる。死ぬ時は全力で死ぬ。それが無駄の無い生き方ではないだろう。食糧の無駄、時間の無駄、人生の無駄・・・。現在では無駄を裕福・優雅のシンボルのように言うが、それでは地球が、宇宙が嘆き、人類を諌め様と隋縁から驚天動地があっても不思議ではない。それにしても二流の国民に三流の三代目の政治家は情けない。日本を“美しい国”になどと誤魔化さず、“美徳の国”へ戻すために、小手先の『教育改善』を改め、根本から見直す“教育改革”が必要なのではないだろうか。
 一日一生 慧智(070707)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 14:33

2007年07月04日

●第1094話 『乾坤独歩(けんこんどっぽ)』

 拙僧は、この四言を座右の銘としている。勿論、平等共生が此の世の真理ゆえ、意識的に何かを避けることは無い。意味は意識的相対的な評価をせずに“大道”に随って生きるということである。つまり、一日一生、何事にも振り回されず、堂々と前を向いてキョロキョロすることなく一歩一歩を道場として、揺るがざる目的に向かい目標に対しては柔軟に対応して生きることである。文字通りであるなら『天地を一人で歩む』であるが、如何なる生命も共生が真理。相互に補完しあってこそ無欠完全なのである。『来る者拒まず、去る者追わず』も同根。『無事是貴人』『日々是好日』・・・、皆同根、同心。これを在家的に言えば、福祉政策の基本理念と同じ。『自立を推進するために支援助成を行なう』ということ。その為には、少なくとも己は自立自律し余裕を持って独歩していなければならないだろう。更に言えば『大人の心』である。相互依存と相互支援では天地の差、乾坤の差異がある。勿論“補完”なくして無欠完全は無いし、生物は自己完結できない存在(現象)故に、個体には相対的表現になるが“強み・弱み”がある。しかし、強みは長所、弱みは欠点ではない。それは“個性”である。それを知っていれば差別や区別は無い。
なお、以下に示すが、この四言は衆智の通り無門慧開和尚の『無門関』の序の結びの一句である。
 『大道無門・千差有路・透得此関・乾坤独歩』。正しく人間完成へ道に入る標語であろう。
 一日一生 慧智(070704)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 10:39

2007年07月03日

●第1093話 『大直若屈,大巧若拙,大辯若訥』

 表題の読み下しは、「大直(だいちょく)は屈(くつ)のごとく、大巧(だいこう)は拙(せつ)のごとく、大弁(だいべん)は訥(とつ)のごとし」。老子道徳経45章の一節にある3句は、余りにも有名で、今更、能書きを垂れる必要はないだろうが、今日は『誤解』について語りたいが故に敢えて話題としました。表題の表面上意味は「真っ直ぐな者は曲がってみえ、技量のある者は不器用にみえ、雄弁な者は口下手にみえる」ということなのですが、言い換えてみると「何事かに優れ巧みな者は、単刀直入で小細工を弄しないから還って下手(へた)に見え、その技を軽々と行うので難しいことのように受け取られないし、言葉の限界を知っているから多弁雄弁能弁という挙動が無いので口下手に聞える。つまり、本当の一流は一流の人間にしか理解されず、二流は二流以下から評価されるので、“一流のマイナー、二流のメジャー”などと揶揄されていますね。
 昨今は上辺(うわべ)時代。偽造変造模造品など“偽物”が一人歩きする。人間も同じ。“偽者”が多い。坊主の格好をしていると坊主だと思う。身なりが立派だと人格者であるとか成功者、有能な者と思われる。正に軽薄短小、“偽者天国”が今の日本。中国や朝鮮半島のような“偽物天国”より始末が悪い。正に“インスタント文化”の母国らしい。その背景には“ウソ”というより能動的に“誤解させる”こと、建前と本音を使い分ける事を良しとする文化がある。建前と本音、言い換えると意識と無意識。本来、“心”は一つなのだが、擬制と擬態の構造は世界中に見られるが、日本は特に顕著。政治の世界では、本音と建前を使い分けられる者が評価される。昨今、“真贋”を見抜ける本物の人間”が、少なくなってしまっている。確かに、目に爽やかで解りやすく、耳に心地良い事柄は一般に受け容れられやすい。安きに流れ、秘すれば華を見抜けない時代に向っている日本をこのままに傍観していて良いはずがない。禅では『大賢は愚に似たり、大智は愚の如し』を見抜けなければ未熟者。当然、公案に対向できない。巷では死語になってしまっている『能ある鷹は爪を隠す』『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』・・・・。
 吉本隆明の『真贋』という書籍がある。1時間で読めるので一度は目を通されよ。
 我々、活人禅に生きる者は、枝葉末節や“表面”に誤魔化されず“本質”を見抜く力を持とう。それには先ず“無心”。“我”を捨て坐る事だ。

 一日一生 慧智(070703)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 08:41

2007年06月28日

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろう。この一句は『心随万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』という二十二世の摩拏羅尊者(まだらそんじゃ)の偈で、「心は蟠りがなければ臨機応変に働くが、納得が行かない事があったりするとパニックになり、流れが滞り臨機応変は失われるので、喜怒哀楽に心は忙殺される」という感じだろう。人によっては、人生は“喜怒哀楽”があるから楽しい、という。確かに、己の過去を顧みれば解らんでも無いが、禅坊主であり、ストレス心理学、精神身体医学を学んだものとしては、喜怒哀楽の振れ幅の大きい者は、早死にすることを知っている。師のハンス・セリ博士は亡くなられる少し前に「ストレスは人生のスパイスだ」と言われたが、その言葉の裏には、真理を掴みつつも自己否定を嫌った師の個性がある。
 心の乱れが死を急がせることは、免疫系・内分泌系・神経系の不調和であることは解るだろう。そして、心が乱れていれば“自由”を失い臨機応変・融通無碍に暮らせず、心は何かに囚われ、何かに拘り、結果的に偏った考え方が、更なる窮地へと引き込む。これが“悪循環”というものである。つまり、心が万鏡に随わずに、見えているものを見ず、見えないものを見てしまうということだ。心が自由であれば、死ぬ時は死ぬ、生きる時は生きる。暑い時は暑い・・・。それらを評価せず差別せずに受け容れられる。正に“あるべきよう”であり、素直に生きることである。勘違いをして欲しくないのは、暑い時は暑いから、暑いと騒ぎ、暑さを征服しようとする心が起きるのは“素直では無い”ということで、暑い時は暑いように、動きはゆっくりと、4時には起床し午前中には一日の生きてゆくための仕事を全て終わらせ、昼は休み、夕方からはより善く生きてゆけるための勉学に時間を使うのが“素直”ということだ。だからこそ自分が『主人公』で『随所作主』、相対的な考えから絶対的な考え、枝葉末節から本質、喜怒哀楽から安心へという生き方の転換が必要なのです。その転換には『坐禅』以外の方法は万民向きではなく、出来る人と出来ない人が出る。坐禅は“安楽の法門”であり、正しい指導を受ければ個性や価値観に関係なく心身の健康に寄与するし、拙僧のように余命宣言を無力化できる。
 昨日今日、高温多湿の日々だが、今日はエアコンを消し、身体を締め付ける物は外し、窓を大きく空け放し、明かりを消して一本の線香を灯して40分坐ってみよう。拙僧は今日は日本時間の午後11時から坐るので、時空を超えて心を通じ合おう。
 では、その時に。
 一日一生 慧智(070628)
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投稿者 echi : 09:43

2007年06月26日

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

 禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷(固体)と水(液体)と雲(気体)という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず36度程度で体重の75%程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。
 つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的(便法的だが)な苦を主観的な苦と認識しなくなりm主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。
 結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。
 『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』

一日一生 慧智(070626)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 11:22

2007年06月20日

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

 子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。
 ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。
 そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。
 つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』
は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。
 しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。
 釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。
 さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。
 『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。

一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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投稿者 echi : 07:06

2007年06月19日

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

 他力のシンボルが“神”、自力のシンボルが“仏”。神は己の外にあり、仏は己の内にある。神は己に対峙する絶対者、仏は己その者の本質。神は彼の世にあり、仏は此の世にある。権力の為に殉死すれば神、己の為に殉死すれば仏。神は文学的経験、仏は現実的体験。神は組織行動、仏は独立独歩。神は自由を奪い、仏は自由を説く。神は殺し、仏は活かす。神は“特別な人間(特定の場所を与えた)”を幻想させ、仏は“普通(普く世界で通用する人間を自覚させる。神は随わぬ者を罰し、仏は随わぬ者も受け容れる。神は“霊”、仏は“魂”。神は“御告げ”、仏は“悟り”。
 最近、この“当たり前”が忘れられている。否、故意に歪められている。それは何故か。 また、仏教宗派の中には仏を方便以上に神格化した“如来”を崇拝し他宗を否定するところがあるが、それは何故か。更に、新興宗教の中には極めて独裁的(教祖崇拝)なもの(所謂カルト)があると聞いたが真偽の程は解らないながら、葬儀に徒党を組んで乗り込み、葬儀そのものの主導権争いをしたり、香典を着服して故人宅に上がりこんでは、既存の仏壇を破壊して新しい仏壇に入れ替えたり、墓地を売りつけている会があるという。思想信条、信教の自由が憲法に定められている我が国で、そんな暴挙や邪道が罷り通るとは思わないが、仮にあるとするなら、それは“マルチ商法”の一つか“講”の過激版で自らの組織の力を維持発展させるために考案された集金システムであり場合によれば政治活動と絡んでいるとしか思えないし、少なくともそのような団体は仏教団体ではなく、カルト集団(教団)に違いない。
 仏教は“来る者は拒まず、去る者は追わず”。凡夫即菩薩、煩悩即菩提。考え方は深さ(経)の違いであり、幅(緯)ではない。経てなれば“道”、緯なれば“椅子”。道は誰でも歩めるが、椅子には限りがあり、“椅子取り”となると対立が起こるのは自明の理であり、過去の多くの戦争は、その“椅子取り”合戦がエスカレートしたものだ。勿論、『経ての道(大道という)』には、多数の分岐があるが、皆、出発点も終着点も同じで門は無く、出入り自由なはずだが・・・。
 さて、本題だが、“祈り”と“誓い”について禅士諸君は前出から類推すれば大凡の見当は付いているだろう。“祈り(祈願)は完全な他力であり、“誓い(誓願)”は完全なる自力なのだが、それは極論であり、両忘すれば同じこと。つまり、祈るか誓うかは当人の心の問題であり、事実という枝葉末節は複雑だが、真理は大幹根底は単純であるからして、大した問題ではない。そもそも“自他一如”とは自力と他力は表裏一体ということなんです。キリスト菩薩にマリア観音、アラーもユダも皆菩薩。それで良い。鰯の頭だってカラスだって御本尊。大いに結構。
 さてさて、前出の疑問に皆は如何応える。
一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 13:40

2007年06月17日

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

 例えば風邪をひく。二元論的にはウイルスに感染したのが原因。間違いは無い。しかし、ウイルスが充満している部屋にいて風邪をひく者とひかない者に分かれる。何故か。二元論的に言えば、免疫力が落ちている者が感染し、免疫力がある者は感染しない。間違いない。では、免疫力はどんな理由で上がり下がりするのか。二元論的に言えば、ストレスが原因となる。ストレスは身体的と心理的と分けられる。栄養失調、体力低下、怪我や病気のようなものが身体的要因。不安や不信に伴う被害の予感などの心配事、焦り、競争、不満、悲しみ、度の過ぎた喜び・・・などが心理的要因。言い換えれば、個体の免疫力が最高値を示すのは、『満足では無いが不満との言えない状態』、つまり“喜怒哀楽”に変化が少ない状態で、『病気や怪我と認識する程では無いが、健康体そのものでも無い状態』である。勿論。それらの認識には、個体差、個別的特長、つまり個性の違いが大きく影響するので、“同じ事実”であっても感じ方、認識は質的にも量的にも差が大きい。言い換えれば、あらゆる事象に対して“悲観論者でも楽観論者でも”まずい。勿論、悲観論者より楽観論者の方が“ストレス耐性”が高いのは事実だが、認識することと体が認知することは異な、免疫力に与える影響に差異は小さい。
 つまり、どうして風邪をひくかと言えば、『分別妄想(煩悩)により無(自)縄自縛となり、心が乱れ、『自由(自ずからの由:自ずから然るべき状態)』を失うことで、ストレス因子を感知して無意識な抵抗で心身の疲憊が進行し、やがては当該個体の“免疫力”を弱体化させ、病名の付いている病気の95%を発病させるし、ストレスが心の免疫力を蝕んだ結果“怪我”や“事故”に遭遇する確率が高まることから、『ストレスを要因として免疫力が非弱化して怪我や病気が増す』という一見“風が吹けば桶屋が儲かる”的な現実があるのが“人体”であり、人体の生理機能が投影したのが“社会”である以上、個人のストレスが個人の心身のみならず社会が“病変”するのである。
 ここ50年の精神身体医学の進歩が、欧米的な心身二元論を消耗させ、東洋的な心身一元論が注目を浴びている。極論を言えば、権力者のストレス、免疫力を変数として“戦争”すら勃発するのである。その事を2500年前に解明していた釈尊(仏教徒)は、戦争の加害者(攻撃者)に現代に至るまで無く、権力者のストレス状態から十字架に掛けられて罪人として処刑されたキリストを崇拝する信者は、史実として確認されている4000回余りの戦争うち、約80%の戦いの当事者なのである。それ故に、戦争という集団的ヒステリー状態、ストレス状態が“競争・破壊・略奪・洗脳(宗教の押し付け)”の権化がキリスト教徒の特徴であり、無抵抗が特徴の仏教徒と全くことなる文化を築いているのである。言い換えれば“愛の宗教”と“慈悲の宗教”という社会基盤が180度異なるが故に、性悪説をとるキリスト教に対し性然説をとる仏教という図式が攻撃的リーダーシップ文化と守備的マネジメントの文化を生み出し、今日に至っているのである。
 前出のような言葉による説明は“分析・還元論の二元論”が有利だが、その分析の結果“一元論”に傾きつつあり、二元論の文化は一元論に向かい、一元論の文化は二元論に向かい、欧米に“禅”が広がり、アジアにキリスト教が広がりつつあるという捩じれ現象がおき、東西問題が縮小し、南北問題が拡大しつつあるのも“現代”という時代なのである。
 人間は60兆の植物性細胞と動物性細胞の共生体であり、細胞は分子構造・原子構造・素粒子・量子の構造を持ち、最終的には“力(波と粒子)に帰結し『色不異空=空不異色、色即是空=空即是色』『不生不滅、不垢不浄、不増不減』・・・で語りつくされているのである。故に『一切皆空』であり『物心一如』である故に“一元論”こそが“真理”への道なのである。この辺りは白隠禅師坐禅和讃』が優しく解説している。
 さて、表題について解いみよう。禅は“拘らず・囚われず・偏らず”と言いつつ、一元論に偏り・拘り・囚われているという言い方をする者があるが、実は『禅』は、釈尊の心そのものを拠り処にしており一元論でも二元論でもなく“無元論”と解釈と言った方が解りやすい。しかし、一般大衆に“無”を説明するのは難しく、まあ大きな括りから言えば“一元論としておこう”と鈴木大拙師らは語っていた。西田幾多郎先生と同級生で竹馬の友である二人が、若き時代、共に数学に心を向けていたいたが、夫々が『宗教学と哲学』という似て非なる道を歩んだのもお“その辺り”の微妙な理解が異なったからだと聞いている。
 さて、話を戻して、表題の『心身一如』についてだが、賢明な読者は既に読み取っているだろうが、『風邪』と『心身症』の原因は生育環境での価値観の異なりなどを除いては極めて類似し、『心身症』は“心の風邪”のようなもの、現代では、誰でもが“予備軍”であり、明日は吾身なおである。
 念のために以下に般若心経を書いておくので、ゆっくりと読んでみよう。多分“心身一如”が理解できるだろう。そして、出来れば“人生観・生命観”が変わるだろう。つまり、『競争より協奏』、『無対立・無犠牲・自主独立・一日一生』の意味は簡単に理解できるようになるということだ。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶、般若心経

一日一生 慧智(070617)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 22:35

2007年06月15日

●第1084話 『六道輪廻(3)』

 地獄という場所、浄土という場所など無い。しかし、“その心”はある。一日一生として、一日を「働く・学ぶ・寝る」を三分割して考えても、その時、その一瞬の心がある。
『餓鬼(がき)』のように金の為にガツガツと働き、物や力に飢え、焦りを覚えるような時。
 『畜生(ちくしょう)』のようにセックスを求め、美食を求め、睡眠を求めて得られない不機嫌な時。
 『修羅(しゅら)』のように喜怒哀楽を表に出し、競争に負けまいとしてストレスいっぱいの不安な時。   『地獄(じごく)』のように、悩み・苦しみ・悲しみの中で四苦八苦している苦痛な時間。
 『菩薩(ぼさつ)』のように穏やかで心が安定している余裕のある時。
 『如来(にょらい)』のように何もかもが頂天にあるように満たされ誰の望みでも適えてあげたくなる時。
人間であれば、“如来の時”とまで言わないが、せめて“菩薩の時”だけを過ごしたいと思うだろうが、それには何もかも投げ出して人里はなれた山中の叢林の篭らなければならないだろう。しかし、それは非現実的。その上、臭いものに蓋をするが如く、己のみの安楽感は得られるだろうが、それは本来の幸せには程遠いだろう。事実、不幸な人がいることを知っていて、知らぬ振りなんて出来るだろうか。本当に幸せになりたいなら、幸せにすることだろう。「他人の不幸は蜜の味」ということを言う人がいるが、暫くすると蜜の味が“ほろ苦い”ことを知るものだ。本当の幸せとは、全ての人々が争わず穏やかに菩薩のような生活が出来ている時に湧き上がる“心の状態”だろう。世の中には、菩薩のような顔をしていながら餓鬼、畜生、修羅、地獄の住民がいるのも確かだ。しかし、それに目くじらをたて、イライラしていては、己の幸せは遠のくばかり。だからと言って許していては罪を繰り返えし被害者が増えるだけ。そんな悩みを工夫で乗り越え、その世界からの脱出を支援する修行こそが『菩薩行』だろう。言い換えれば『経営者』は菩薩であるべきなのである。
 人生は『一日一生』の積み重ね。心の持ち方一つで、六道は輪廻する。だとしたら・・・。如来のような一切の見返りを期待しない慈善家。菩薩のように皆が幸せをつかめるように支援する経営者を目指し、六道を輪廻する毎日を修行と考え、少しでも己を磨き、菩薩、如来に近づこうではないか。
 活人禅寺は、餓鬼・畜生・修羅・地獄の時を苦しんでいる者が、一時でも菩薩の心を味わい、如来を目指す心が芽生えることを支援している寺である。
 明日、明後日は禅会。来る者は拒まないし、去る者は追わない禅会である。
この時期の参加者は少ないので、覗きに来て見なさい。
一日一生 慧智(070615)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 09:48

2007年06月14日

●第1083話 『己の外に仏なし』

 仏は心であり、脳のOSであると感じる事が時々ある。つまり、それは脳がCPU(中央処理装置)、つまりコンピュータの構成要素で、内外装された装置の制御やデータ処理を行なう機能を持ち、記憶(蓄えられた情報、メモリ)をプログラムを実行する役割を持つ“部分”で、所謂、『入力→変換→出力』という力や情報の処理の中心で、動物の『五感→脳→運動』を基本としつつ、入力が無くても出力が出来る“人間”の特徴、即ち『五感→記憶→変換→行為』という流れから考えると、『“心”≒“仏”≒記憶変換装置』なのである。つまり、心は特定の臓器ではないという場合は、『感じない・思考しない・動かない』、脳は心だという場合は『五感・記憶・変換・行為』の一連をいうことになる。言い換えれば、宇宙(物理的)や社会(心理的)と幅広い情報交換を行ないながら、必要と考えた時に情報を処理して行為するのが、“心”と言える。勿論、コンピュータは脳を基本モデルとして目標にしつつ、人間の心の再現を目的に考案され、製作され、日々進化し、現在では脳の機能の一部は超越し、心に似た動きが出来るようになっているが、生物の脳はその生物の脳の機能を超える世界は作れないことは衆知されている。しかし、それは個人の脳が器質的に同じである“機械”と考えてのことで、地球で最も知能の高い人間が作成したコンピュータは、その彼の心をも引き継ぐために、全ての価値観を壊してしまう可能性を秘めている。
 ここで考えたいのは、一人の“心”は他の人の行動を情報源にしたり、他の人の心を自分の心が感じて二つの心がシンクロしたりするという経験的な事実は、心は地球であり、全ての物質現象、生命現象から切り離しては“一人の心”は現象できないということ。つまり、『己の外(ほか)に仏なし』が真理だということである。そして、その真理を、ある人は“神”と名付け、“仏”と名付け、“天然”などと名付けているだけなのかもしれないと、ということである。言い換えると、現象に対して人間が名付けた名称、それに担わせた意味などは、例外なく便法であり、便宜的なもので、それを“絶対”として論理展開したり、自由連想したりするのは、瞬間的なことで、実体など無いということである。
この話を“私の脳力”で、万民に理解できるように事例を引いて語るためためには“本一冊分”は最低でも必要なので、ここらで良寛和尚の力を借りてみる。
  
◆良寛さんの原文
仏是自心作 道亦非有為    
報爾能信受 勿傍外頭之    
北轅而向越 早晩到著時    

◆慧智の読み下し文
仏は是れ自心の作にて、道は亦た有為に非ず。
爾に報じ能く信受して、外頭にそうてゆく勿れ。
ながえを北にして越に向わば、いつか到著する時ならん。

◆慧智の超超訳
仏は自らの心がつくり、道は有為ではない(無為だということ)。
汝はこれを受け止め、外事に追随するな。
舵を北にして越に向っても、いつそこへ至り着けるだろう。

一日一生 慧智(070614)久々に体温が42度を超え、全身に痙攣が走った。またも“生きているな”と感じさせてもらった。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37

2007年06月13日

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

 拝金主義、拝物主義の“美しい日本”。金と地位が「人間の価値を決める」と豪語する者が多い金融、不動産、IT関連の若き経営者。勝組負組を構造化し権力の座を維持しようとする二世三世の政治家などなど、巷に跳梁が闊歩しているのは教育の荒廃が大きな要因になっているのだろう。所謂“格差”は、本々一つのあらゆる現象を二分三分し、無限に分かれたものを二極化することから始まる現象である。例えば人間を男と女、貧と富、美と醜、善と悪・・・。本来は“統合し調和させ融合する”方向へ進むべき道が誤った方向に進んでいる。その仕組みの原因は、神経系を持つ生物であれば具有しているが、その機能が暴走しないように内分泌系と免疫系があるが、機能不全になっているのかもしれない。二律背反の源泉であるデジタル系は神経系の産物。統合融合の源泉であるアナログ系は内分泌系の産物。そして、自己と非自己という判断の源泉である免疫系。生体に異変があれば、3つの系が同時に活動して生命を守り、進化への情報を収集しつつ成長させる。現代科学では随分前に発見されているし、生物の生理機能が外部にとうえいしたものが、その生物の社会・世界であるということも理解されている。にも関わらず、その知見が生きていない。言い換えると、人間が病むから社会が病み、社会が病むから人間が病むのである。このような状態にある世界は、対症療法は病巣を慢性化させ、症状を助長強化させるので、根本療法と併用しなければ何れは滅亡する。
 表題の『人生、如何に生きるか』ということを出来るだけ多くの者が真剣に考える事が根本療法への道を開くことになる。人は夫々で、一つの考えに偏り、拘り、囚われてはならないのは当然のこと故、何を考えるかは自由。本来は前提も不要。しかし、白い布に染みが付いた場合は、染める前に染み抜きをするのと同様に、何事によらず、一つの考えに固執せずに、『対立』は避け、多くの考えを受容し、本質の部分において“満足ではないだろうが不満とまでは言えない”『中庸』を模索することだけは約束事にしたいものである。そうすれば“多数決”という強者の切り札を使わずに済む。多数決という横暴が罷り通るから政治は荒廃し、『美徳の国』から“徳”を奪いさり利権を貪る者が鼠算式に増えるのだ。それに随い経済、教育、福祉・・、全てが後を追う。
 『人生を如何に生くるべきか』を一人ひとりが真剣に考えなければ明日の日本も人類も無くなる。“人間”を考えるとなると体系的な哲学という勉強が必要になるが、“己”を考えるには坐禅さえあれば宜しい。一日20分で良い。場所など何処でも良い。足を組まなくても良い。ただ、呼吸を整え、姿勢を正して半眼を維持し、現実・事実から逃げずに、それらの背後に流れる本質に目を向ける。それだけで良い。
  
 臨済宗大徳寺47世住持というには不似合いな一休宗純は、あらゆる権威を否定し、更に悟りさえも否定して、大徳寺に留まらず、庶民の中で生き抜いた拙僧など足下にも及ばない“真面目な破戒僧”であり、勝手に“師匠”にしている禅僧がおられた。一休禅師がある時、在家筋から家宝にしたいので一筆認めてくれと頼まれ、「けんかなぞせず、くらそじゃないか 末はたがいにこの姿・・」という賛を付け、一つの骸骨は自分自身、もう一つは喧嘩相手として二つの骸骨の絵を書きました。それから何を読み取るかは自由。しかhし、多くの者は「人生色々、人間関係も色々。だが、互いの行く末は“こんな姿(骸骨)”で、競い争うことなど愚の骨頂」と受け取る者が多い。
 また、“タクアン漬け”の考案者で、宝鏡寺等を再興した沢庵宗彭和尚は、一休さん後輩。同じ大徳寺の154世住持となるが、一休禅師同様に、三日で寺を捨て、書画・詩文・茶道を親しんだ自由闊達、融通無碍の禅僧で、周囲に武術家が集まったことからも類推できるように、「ことばにも、色に出して候ては、用心になり申さず候・・・」と言う和尚の心は、「常に備えつつ、その“備え”を表に出すな」というもの。禅でいうところの“無心の心”を生きた。つまり、人間関係は考えれば難しいが、相手と“二つ別れ”する前の状態を知れば、『無対立・無犠牲・自主独立』という生き方が出来ることを示している。勿論、“無”を知るには『坐禅』である。
 『人生、如何に生きるか』。それを考え尽くす。それは自分なりの“本当の幸せ”への道が開くこと。道が開けば、『手段も目標も目的』も一つであることが解る。つまり、『今・此処・己』が全てであることが解るのである。繰り返しになるが、過去は決定して戻ることも直すことも出来ない。未来は未だ来れず可能性以外に無い。そして今は、過去の結果であり未来の原因なのである。

一日一生 慧智(070613)癌センター待合室にて
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん

ことを』

投稿者 echi : 13:18

2007年06月12日

第1081話 ●良寛さんと遊びたい

●良寛和尚に「“仏”に会いましたか、会いますか」と訊ねると、どのように応えるだろう。そもそも問いを問いとして受け取ってくれるだろうか。それともニコっと微笑むのだろうか。もしかすると、毬を渡たされるかもしれない。まあ、想像がつくのは、大喝でも棒でもなく、今を淡々と生きているからこそ浮かび上がる自然な微笑みが返ってくるということだろう。

■良寛和尚の漢詩
過去己過去 未来尚未来    
現在復不住 展転無相依    
許多閑名字 意日強自為    
莫取旧時見 莫逐新条知    
懇々遍参窮 参之復窮之    
窮々至無心 始知従前非    

■慧智の読み下し
過去の己は過ぎ去り 未来は未だ来らず。
現在はまたとどまらず 展転して相依るなし。
あまたの閑に名字し ひねもす強いて自ら為す。
旧時の見を取る莫れ 新条の知を逐う莫れ。
懇々としてあまねく参窮し 之に参じ復た之を窮める。
窮め窮めて無心に至り 始めて従前の非を知らん。

■慧智の超超訳
過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ない。
現在はとどまらず、移り変わりの中に頼れるものはない。
多くの言葉を弄して閑を潰し、己を決め付けてはならない。
過去に固執せず、未来に囚われてもならない。
心を込めて広く体験し、さらに究め尽くせ。
究め尽くして無心に至れば、始めて過去の誤りに気付くだろう。

一日一生 慧智(070611)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 01:12

2007年06月09日

●第1080話 『文教に随わず』

 文字や言葉は“葛藤(つたかずら+ふじ)”と表現されることがある。理由は“本質という根っ子”が幹や枝に撒きつく蔦を伴って成長するにつれ、複雑に絡み合い、何処が本やら先やら解らなくなるように、悩む必要も無いことに悩むことになるからだろう。正に“葛藤(カットウ)”が起きるのである。
 熱海の旅館組合の会長から聞いた話ですが、“とある温泉旅館”の実話だそうです。サービスと温泉と料理が素晴らしい、という噂が噂を呼んで人気が上がり、連日満室が続くので銀行から借金をして、本館に別館を付帯させ更に本館も別館も増築・改築を続けた結果、歩く距離が多すぎる旅館となり、客は言うに及ばず仲居さんすら館内で迷子になる始末となったそうです。そして、客は徐々に減っていったようです。笑い話のようですが、「旅館の使命とは何か」が途中から忘れられ、既成事実がエスカレートしたのでしょう。この話から学ぶことは多いですね。なお、旅館の名前を『葛藤荘』と改名することを奨めたいくらいですね。
 さて、現代は“二者択一”、サロー曰くのゼロサム時代(誰かが得をすれば誰かが損をする)と言われています。AかBか、勝つか負けるか、有るか無いかということである。
 また、シェイクスピアの「ハムレット」の中の名台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という西洋人の発想は、「生き死には自然の計らい」という東洋人の発想とは異なり、「生命や行動を支配するのは人間だ」という生命に対する“思い上がり”が見え隠れします。
 更に、西洋人は、特に産業革命以後、自然とは“征服”の対象である、と考えています。
一方、僅かな数になってしまったかもしれませんが、“西洋文明を盲従しない独立心のある東洋人は“万物共生”という人間も自然の一部として共に生きています。 『共生と征服』、この違いは大きいのです。皆さんは、完全に勝つ、完全に負ける、完全に正しい、完全に間違っているという事実を知っていますか?常識的に言えば“殺人”は完全に間違っていますか?それでは正当な防衛により相手を死に至らしめた場合や国家権力による死刑は“殺人”ではないということになります。
 さて、勝ち負けはどうでしょう。野球でもテニスでもゴルフでも、ルールを前提として勝ち負けを決めています。言い換えれば、ルールが変われば勝敗は逆転します。それでも完全と言えますか。全ては“相対的”なのです。本多勝一の『殺す側の論理』『殺される側の論理』を読んだことはありませんか。二元論(二項対立論)、つまり『有る』『無い』でも良いし、上と下、右と左、ゼロと一でも良いでしょうが、円を描いてみると、二元論者は“内か外か”を考え、一元論者は“線を観て“始まりも無く終わりも無い”と考えます。貴方は、どちらですか?何れにしろ、日常生活では多きな問題にはなりません。しかし、事、価値判断となると180度の違いが現れます。例えば対立が起きた場合、二元論者は裁判での白黒を望み、勝訴に向かいあらゆる策を講じます。一方、一元論者は、良し悪しは絶対的では無く、対立は堂々巡り(始まれば終わりは無い)になるので、自分も相手も満足ではないだろうが、不満とまでは言えない条件を考え“和解”しようとします。結果、二元論者同士ないし原告が二元論者で、被告が一元論者の場合に泥沼の争いが始まります。なお一元論者同士、原告側が一元論者で被告相当側が二元論者の場合には裁判になりません。前出の組み合わせによるトラブルで裁判が行なわれるのですから、当然に『勝訴と敗訴』が自分を完全な人間と勘違いした裁判官という不完全な人間により、白黒が決断された結果、勝った側は驕り、負けた側は恨みを残し、双方に問題を残こすことになります。一方後者の円に線に注目する一元論者は、勝ち負けを判断せず、双方が満足とは言えないが不満とまでは言えないという中庸を模索し「雨降って地固まる」という結果を模索します。これらの違いは『論理思考と情緒感覚』と言うことが出来ます。論理は“頭”、情緒は“心”です。勿論、真実は洋の東西を問わず『心頭は一如』です。それでも二元論者は“心と頭”、“心と体”を別の論理で考えます。霊魂だ魂だ、天国だ地獄だ、極楽浄土だ無限地獄のような人間が考えた二項対立、物理的には無いが心理的には有る”の真実であるにも関わらず、都合よく使い分けます。確かに二元論の考え方は単純な頭脳には便利なのですが、『限定的な合理性』しか持ちません。つまり二元論は、それが架空であれ実体であれ、『公正』には“基準”を必要とします。つまり、“前提”という概念が必要なのです。
 一方、一元論は“無(有無の無ではなく、有無が無いの“無”)”という発想から、公平、つまり無差別、無分別を重視します。簡単に言えば“王様”と“乞食”に本質的な違いは無く、人間としての価値は『平等』とみます。これらの違いは、記憶に新しいマリーアントワネットでも連想してください。時代も価値観も諸行無常。昨日は天下人、今日は断頭台。革命前後でもマリーアントワネットという人間は変わりませんが、回りが変わったために“生死”が逆転します。一元論はヒエラルキーを否定し皆平等に考えるので、例えば釈宗演老師の弟子の夏目漱石が学んだ福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を信条にしていましたし、勝海舟や山岡鉄舟らの西郷隆盛との交渉による江戸城無血開城などを参考にしても解るでしょう。現代風に言えば、『六本木ヒルズと断ボールハウス』か、『皆仲良く長屋暮らし』のような違いです。
 さて、一般に言われる頭の良い人は多くの場合は前者、二元論者です。ところが、今日のニュースからも解るだろうが、頭が良い人が必ずしも正しい訳ではなく、幸せ(大安心)である続けることはないのです。解りますか?。つまり、論理は無限に飛躍しつつ拡散し本質という“円の中心”に向わず、枝葉末節である“円の外”に向うのです。ですから“競争”は永遠、となるのです。
 一方、長屋暮らしであっても“心豊かな人”は、足るを知っていますから、必ず幸せです。現状に感謝し、現状を大事にしているのが一元論者の幸せなのですから、一生幸せなんです。勘違いしないで下さいね。一元論者は、現状は常に変化していることとして理解していますから、保守的ではなく融通無碍、自由自在なのです。
 さて、長くなったので終わりにしますが、表題の『文教に従わず』というのは、外から強制された考えに服従せず、己の感じている正しい道を何があろうと兀兀と進むと考えて良いでしょう。つまり、泥棒の被害にあえば、「罪を作らせたのは自分が悪い」と考えつつも、二度と罪を犯させないために取られた物を取り返すのではなく、必要な行動を起こすという感じです。因みに、二元論者は、事の背景などに関係なく、奪った側が加害者、奪われた側が被害者で、理由に関係なく白黒を着けて、奪われた物以上を取り返そうとします。
 さて、諸君、君達の“論”はどちらかな?。どちらとも取らないことについては如何に思うかな?
一日一生 慧智(070609)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
 

投稿者 echi : 02:32

2007年06月08日

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

 相変わらず上下によらず巷は騒がしい。こんな時は良寛和尚の漢詩を読むに限る。禅士諸君も坐る前に読んではどうかと思い、示しておく。教訓は『偏ること毋れ』である。百尺竿頭に着いて始めて半人前。聖から俗へ、そして俗から聖を渡り歩くことこそも“両忘”である。聖の是は俗の非かもしれないし、俗の是は聖の非かもしれないが、真実は是非一如なのである。己の信じる道こそ仏の道だが、己を信じても妄信してはならない。

◆良寛和尚の詩
昨日之所是 今日亦復非
今日之所是 安知非昨非    
是非無定端 得失難預期    
愚者膠其柱 何適不参差    
有智達其源 従容消歳時    
智愚両不取 始称有道児    

◆読み下し(慧智流であり、一般的かどうかは各位の判断))
昨日の是とせしところ 今日また非とす。
今日の是とせしところ いずくんぞ 昨の非にあらざるを知らん。
是非に定端なし 得失はあらかじめ期し難し。
愚者は其の柱をにわかとし いずくにゆくとしてしんしたらざらん
智あるは其の源に達し しょうようとして歳時を消す。
智愚ふたつながら取らずして 始めて有道の児と称す。

◆慧智の超訳
昨日、是であったことも、今日は非だということがある。
今日、是であっても昨日は非でないと、どうして解るだろう。
是であれ非であれ絶対ということはなく、何を得で、何を失かは予期できない。
愚者が是非を決め付けるが、食違いはどうしてもでるものだ。
智者は是非一如を知っているから、決め付けることなく悠悠と時を過ごす。
智愚を両忘出来てこそ、道を悟った人ということができる。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


投稿者 echi : 10:08

2007年06月07日

●第1078話 『公案は頭では解らない』

 禅士諸君。ここ数回の記述から気付いただろうが、『公案』は、頭では解けないのである。と同時に、室内において師と弟子が“同じ空間・時間”を共有し、即否定、即肯定が行なわれない限り、師は弟子の心を観ることが出来ないのである。同時に以心伝心、弟子もまた師の心を理解できない。ということで『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』の四句の意味が解るだろう。
 つまり、坐禅はネット上でも出来るし、夫々は毎朝生まれるように起き、毎夜死ぬように眠り、過去を変えることは出来ないし、未来を決定することも出来ない。“あれ・これ・それ”も思う通りにはならない。全ては“変数2であり、“縁”により今が現象していることも解っただろう。更には、言語学では“シニフィエ・シニフィアン”と表現するが、山は山であって山そのもではないのである。言葉・意味・実体が同一であることは保証されていないのである。言い換えれば、言葉や、常識という思い込み、それが作り出す先入観などで雁字搦めになっている己(それ“我”という)を毎日風呂に入り体を洗うように、心も風呂に入れて毎日の垢を落として死ぬ。そして生き帰るのが正しい生活(イキイキと生きる)だということは理解できただろう。何かを知っている。言語表現に長けている。常識的(道徳的)である。それら全ては“教えられ、信じ込まされてきた事”。つまり『主人公』ではなく、“操り人形”であるということ。それが抽象的不安や具体的恐怖である“苦しみ”を生んでいること。それ故に、己の幸せ(大安心の境地)を己自身で放棄していることも解るだろう。『今・此処の己』は、瞬間的な現象である。勿論、生まれたときも裸、死ぬ時も裸。その上、人間は例外なくあるにも関わらず、自分が生まれた事、死んだ事を体感できない。生まれて来た。生きている。死にそうだを想像するだけ。その想像もソーシャルマインドコントロールによって思い込んでいる“社会の常識”という幻想。お節介な拙僧としては、まだまだ書きたいのだが『知らなければならないが、教えられてはならない』とは、『自ら学べ』ということ。それが“禅の真髄”なのである。繰り返しになるが、本当の『学び』は体験からしか生まれない。教えられたものは、時間的合理性の観点からは便利であるが、記憶して変性され先入観(潜入感)の源泉になり、結局は“苦”の根幹になるだけなのだ。つまり、公案は言葉の体系のように思われているが、真実は、『体験の促し』であり、体験の解釈の結果を点検するのが師なのである。
 今日は、これをかみ締めながら坐るように。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★因みに、“あなた≒私”は“今”、何に坐っていますか?

投稿者 echi : 08:24

2007年06月05日

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

 禅師は、教えずに、育てる。育てるためには、学ばなければならない事を教えずに気がつかせる。それの浅いものを“気付き”、深いもの“悟り”と言う。気付きは態度に表れ、悟りは行動に現れる。究極の悟りを“大悟”という。大悟は、態度と行動に現れる。1073話のヒントをワシの言葉で与えると以上となる。つまり、現成公案も公案。ワシのヒントはヒントにしてはならない。何故なら、“教え”だからである。教えで人は育たぬ。己の師は己の内にある。それを“目覚める”という。自覚という。仏教では、すべての現象に『因』があるから『果』が生じると説いています。しかし、『原因と結果』というような“一対一”の関係は否定され、『因』は『縁』に触れて『果』を生じるという事実を発見し。更に『果』は因の一要素となり縁に触れて果となることから『因果一如』と表現しています。つまり、世界は循環慣性の法則に従って動いていることを理解しています。簡単言えば『因縁果』が連続的にあるのが“此の世”であり、“それを拡大すると“彼の世”なのです。ですから、此の世は彼の世であり彼の世は此の世なのです。となれば、因果を結ぶ『縁』を大事にしなければならないとは思いませんか。例え何かの『種』があったとしましょう。『種』の力は縁の出会えば発芽するということであり、発芽すれば天候だとか、人工だとかの『縁』により果を結ぶ場合もあれば枯れる事もあります。言い換えれば、発芽すれば結実するという約束は無いのです。『隋縁』つまり因は縁に従います。そこに人間が割り込むと、人間いとって都合の良い状態を『好い・良い・善い』、都合の悪い状態を『悪』と決め付けますが、『種』は無心です。その時その場所を全力で生きているだけです。環境に対して不満を漏らさず受け止めています。以上の事は、教えられれば理解は出来るが、体験しなければ納得できません。納得できないことは思考や行動に現れません。だからこそ、『作務』も坐禅同様に修行なのです。食べることも、排泄することも修行なのです。体を洗うこと、心を洗うこと・・・行住坐臥の全てが修行なのです。結論、修行なくして人は育ちません。厳しければ厳しいほどしっかりと育ちます。岩場の松、砂浜の松が教えてくれます。ただし、先入観があれば聞えません。見えません。感じません。だから分別を捨て無心に生きろということです。
 →明日は『学ぶ・育つ』です。ネット禅士諸君、今日も、しっかり坐れよ!
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 14:16

2007年06月03日

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という風流な句がある。出典は『虚堂録・巻一・興聖寺語録』。そして虚堂智愚大和尚が最初に上堂した時、一人の僧が立ち上がり『呼猿洞口、無心臥月眠雲、長水江頭、正好抛綸擲鉤、只如霊山密付、還許学人咨参也無』と質問した時の二句目。読み下すと「呼猿洞口、無心にして月に臥し雲に眠る。長水江頭、正に好し綸を抛ち鉤を擲つ。只だ霊山の蜜付の如きんば、還って学人の咨参を許さんや也た無や」となる。大まかな内容は「今までの和尚は呼猿洞において『月に臥し雲に眠る』ように無心であった。しかし今、長水江のほとりで住持となり、有り難い事に修行者を指導することになった。そこで、禅の極意についてお訊ねしたいが、よろしいか」と、いう感じだだろう。『臥月眠雲』とは、表面上は文字通りに「月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」だが、もう少し踏み込むと「厳しい環境で修行に集中している姿」となるだろう。言い換えれば、現代のように恵まれた環境の中で“人間”や“人生”を本や言葉から頭で学んでいては、人の本当の空しさ、悲しさ、辛さなどなどの言葉に出来ない苦しみを受け留めることは、御為倒しの心で態度や言葉では共に悲しみ苦しむような擬態は出来ても、本当の心は受け止められないだろう。拙僧の周囲にも“口と態度と心”が重ならない者が世間並みに居る。場合に拠れば無智なるが故に、彼らは“それ”にすら気付かず、自分は優しく思いやりがあるなどと自分本位に自分を評価していることも多い。それは、多くの場合、自分が弱い立場にあり、強い者には保護されて当たり前だというような甘えがあることが多い。人間に強いも弱いも実は無い。もし有るとすれば賢者か愚者かである。しかし本質は賢愚も一如。差別区別は不要である。野であれ聖であれ、これも亦一如。事実は一つである。事実とは“無”の蜃気楼のような物で、事実が映る己の心次第である。ということは、如何な
ることも無心に素直に受け容れることである。
 となれば禅士諸君は 『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という句に出会って何を悟るか。「あるべきよう」なのか、郷に入れば郷に従うのか、無駄な贅沢はするななのか。100人居れば百人の心があるだろう。中には自然が一番というのもいるかもしれん。
 『臥月眠雲』・・・・・。拝金主義が賛美され、格差が成長の源泉だなどという幻想が流され、物の豊かさに目を奪われがちな今日。今一度立ち止まり、『本当の豊かさとは何か』を考え、心豊かに暮らしたいものである。禅士諸君。無智は敵だ。妙智力。知恵の世界を超えて智慧の力を知ろう。その時“空”の意味に得心が行くだろう。
一日一生 慧智(070602)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 00:39

2007年06月01日

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 良寛さんに表題を問えば「今日はおついたち、ホラ足下に・・・」と返ってくるかもしれませんね。
 旅から帰ると全身に倦怠を覚え、夜が明けたのも知らずに8時間もの眠りに落ちていた。考えてみると、50年間、横になるのは一日3時間内外であった。“する事”があるし、“すべき事”も多い、その上、それらは“出来る事”で、結果“したい事”でもあった。人生、何度か立ち止まり、空を見上げ、涙したこともあった。それでも一日一生、寝て起きれば“新しい己”。昨日の己は己ではない。勿論、明日の事は明日。去る者、去る事は追わず、来る者、来る事は全て受けてきた。衣を着け絡子を着ければ坊主、背広を着れば経営者、白衣を着れば研究者。作務衣を着れ労働者。正に“馬子にも衣装”。そして、その時の為に白衣で床につく。3年前は坐睡を心がけていたが、線路脇のため最終電車と始発電車の間の数時間だけコトンコトンという列車とレールの励ましあいが途切れる。レールと車輪の互いの無事を確認する声に励まされた。今も同じ。「己!さっさと起きて働け!死んだら働けんぞ!」今、レールと車輪に励まされている。
 さて、今日は起き掛けによろけてツッカケてしまい開いてしまっいた良寛さんの漢詩を一つ紹介しておくので、味わってみて欲しい。

我生何処来 去而何処之    
独坐蓬窗下 兀々静尋思    
尋思不知始 焉能知其終    
現在亦復然 展転総是空    
空中且有我 況有是興非    
不知容些子 随縁且従容    

◆読み下し
我が生は何処より来り、去って何処にかゆく。
ひとり蓬窗(ほうそう)の下に坐し、兀々(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す。
尋思するも始(はじめ)を知らず、焉(いずくんぞ)能く其の終を知らん。
現在も亦復(また)然り、展転 総べて是れ空。
空中に且(しばらく)我れ有り、況んや是と非と有らんや。
如かず 些子を容れて、縁に随って且く従容(しょうよう)たるに。

◆慧智の超訳
命はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
荒れた庵の窓の下に独坐して、動かず静かに考える。
考えても考えても考えても命の始まりはわからないし、命の終わりゆくところもわからない。
今、此処に然るべく在り、寝返ると時は移りゆき、すべては空であることに気付く。
私は空の中にしばらくいいるが、有る無しに固まっているわけではない。
今此処にある現実を受け入れ、縁に従いってゆったり生きてゆこう。

一日一生 慧智(070601)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37

2007年05月31日

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

記憶では、拙僧が10歳頃、小僧となって2年目。老師から大拙翁の荷物持ちに行けと言われ、鎌倉の帰源院(円覚寺塔頭)に出かけたのは昭和35年の夏だったと思う。まあ、今から50年近く前のことであり、大拙師は90歳前後、拙僧などの曾孫程度とみられ覚えていて頂かなくても当然だと言われて来たが、覚えていておられ、その上講演会の末席で話を聞kさせて頂いた。訳の解らぬ講演の間、出掛けに師から言われた事が気になり、講演後、東京へ向う道すがら大拙師に質問した時のことだと思うが、「坊、禅書はな一歩読み違えると奈落の底に入るぞ。それにな、寺だけでは修行にならんから、漢字だけでなく西洋の言葉も勉強せよ・・・」と、それからの拙僧の人生を大きく左右することになる金言が今でも耳に残る。道々、洪川老師、宗演老師、西田幾太郎や三舟(海舟・南洲・鉄舟)、世界宗仰会議の話などだったと今は創造できるが、訳の解らぬ小僧に“勉強の大切さと人間関係の難しさ”を聞かせてくれたような記憶がある。がしかし、真に残念であるが前出の一言以外の記憶は定かではない。 なお、師の出掛けの一言は、今でもハッキリと記憶しているし、今では拙僧の口癖となり、漢字を“観字”と読み変える本まで書いてしまっている。その一言は、師が、小生意気な小僧だった拙僧に「慧智坊、お前な、漢字で書けない言葉は使うなよ、警策の十本二十本じゃ済まないぞ」と言われた事も思い出される。
 さて、今、訳け有って京都の某寺にいる。今日は、期せずして花園大学名誉教授の西村惠信先生とお話する機会があったり、白隠禅師の坐禅和讃についてのお話を聞く機会があり、何故か、タイムスリップしたように昔の事をが思い出され、この文章を書き始めている。
 禅士諸君、君達は『何故、ヒマワリは東を向くか(書名の記憶は怪しい)』という本を読んだことはあるか。もし読んだ者があたなら正確な和名を知らせて欲しい。内容は『麦の根』から言葉・行動・個性と環境との関わりで、私が人間の思考行動様式を研究していたピーク時に禅書的な読み方からヒントを得て“受容性”、即ち“己”の特性や環境を無心に受け容れる力の発見に寄与した本である。(内容には疑問な部分が多いが・・)
 禅は、文字や言葉の限界に挑戦しつつ、その竿の先にある“行間”や文脈の背後に暗々裏に語られる著作者の無意識を汲み取ってもなお、顔と顔をくっつけ、寝食を共にして師から以心伝心、直指人心には及びもしないことを全身で理解させる。そして、行脚での出会いが、人生観・生命観、自然観の全てを変えてしまう一言に出会い“因縁”を無心に素直に受け容れてこその人生を悟れるのである。考えてみれば、それは“禅”のみに非ずだが、師弟が命がけで対峙する室内(公案・法戦の場)に優るものは、拙僧の知る限りでは無い。
 今、師の話を思い出しながら『沙彌十戒威儀録』を読んでいる。何を云わんとするか、ネット禅士から、読んだだけではダメ。書き写せ、実践せよ、読めるまで坐れ。読めたら心身を染め上げて忘れろ。解れよ。
 そろそろ休む。禅士の陰口はワシにも聞えるので、なるべくなら誤字脱字には気を付けるが、“辻説法”としている訳も解せよ。一日二十分、話すのと同じように無心にタイプし終わると、見直す力など無く、バタンキュウ。残念だが其れが現実。勿論、指摘があれば、遡って修正はしているので、試しに読み直して欲しい。

一日一生 慧智(070530) 京都にて 『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 08:38

2007年05月29日

●第1068話 死について考える

 昨日から、現職の大臣の自殺について多くの報道がなされ、周囲から自殺に対する賛否両論が囁かれていた。
 さて、生者必滅。生まれた者は必ず死ぬ。日本人は一年に約100万人が死ぬ。世界では毎年5000万人が死ぬ。老衰死、病死、事故死、変死(自殺・他殺)という死の原因に違いはあるが、何れも死ぬことにかわりはない。しかし、俗世間での死の価値には大きな差異がある。美化される死、揶揄される死、重視される死、軽視される死・・。
 拙僧は、“死”は死であり、俗人が価値判断をすべきではなく、犠牲だ、犬死だ、立派な死だなどと死を評価し、差別すべきでないと考えている。
 以前、説法でも書いたことがあると思うが、拙僧は“己にとって意味の有る死を遂げたい”と語っているはず。それは己の己の死への己の評価であり、他に向けるものではない。だからこそ、癌仲間、禅仲間には「死は他人事、自分の死は経験できないから、永遠に生きることとして生きよう」、「死ぬ覚悟などしなくても誰でも死ぬが、生きる覚悟を決めないと生きた屍になるぞ」、「死は新たな生命を誕生させる転換点で、細胞分裂のようなものだから、子孫が出来る出来ないなどは、権力者が考え出した“家制度”の問題であり、子供の有無など人生には何の関係もない」、「世界的に見れば死ぬより生まれる方が多いので、日本ぐらいは人口を減少させ5000万人で機能する国家を目指せばよい」、「人間は病気や事故では死なない。死ぬのは寿命が尽きるからだ、使命を全うしたからだ」、「死に急ぐな、生き急ぐな」・・・。その場、その場で、方便を使っている。
 ところが、拙僧にとって他人の生死は身近であり日常であるが、“病院で生まれて病院で死ぬ時代”、魚も肉も店頭に並んでいるのは死骸で、一寸前まで遊んでいた庭先の鶏が夕食の食卓に上ることや、釣ってきた魚、捕まえた獣を父母が子のために殺す姿は見なくなった今、現代の大半の日本人にとって死は"非日常”なのである。統計を解釈すれば、男女平均で80年という長生き国家の日本でも、毎日3000人の人が死んでいる。しかし、同時に3000人弱が生まれている。結果、人口は若干減ってゆくが大きな変化は見て取れないにも関わらず、机上の統計数には表れ、現状を“少子高齢化”と名付け、“地球温暖化”だ、天然資源の枯渇だなどと同様の切り口で、官民揃って“日本の危機”だ煽り立てている。拙僧に言わせれば、そんな些細な事は『少欲知足』、『以和為貴』、『質実剛健』を肝とする“禅的生活スタイル”を実践すれば問題にもならない。しかし、経済合理性しか見えない拝金主義の亡者は、マスコミや風評を操り、一億総パニックを演出して大騒ぎする。それは、情けないことだが、所謂『健康・環境関連事業』という日本の新たな産業基盤整備を目論む一部の特権階級が失われた利権を補填するために新しい利権構造を作ろうとしているだけなのが悲しいことである。
 (注)建前と本音に開きが在りすぎる。
 さて、今日、一人、二人の著名人の死から沢山の思いが漏れ聞えて来る中で、コソコソとパソコンを持ち込んでいる国立ガンセンターの待合室での今・此処の己は、自分の死をそっちのけにして、他人の死を評価している声を聞いている。確かに、待合室に居る彼らにとっては死は身近なのだろう。勿論、私にとってもだが・・・。
 ところで、本日のネット禅会に先立ち、拙僧が日頃から話している死に纏わる話を、思い出した順に書いておくので、本日のネット禅会までに、『己の死』について考えておいてください。勿論、坐る時は全てを捨てて姿勢を正し、呼吸を正し、心を正して、頭の中の言葉を全て吐き出して坐ることは忘れずに。
◆『自殺』とは『自ずからを自らの手で生物学的な死に至らしめる』ことで、日本の場合は、『死ぬ事で生きる』という積極的な選択と『四苦八苦からの逃避』という消極的な選択という両面を持つ『人生の始末のつけ方』、一つの方法論であり、前者は美意識、後者は醜意識に通じる。
◆死は生と不可分不可同の現象の転換点であり、循環の通過点であるが故に生死一如である。つまり、誕生が祝い、死亡が弔いという決め付けは合理性を欠く。生死は重畳的連続現象である。
◆『極楽・浄土』とは四苦八苦から離れた自由で清浄な土地であり、『地獄』は自由が束縛された四苦八苦が因縁に従って現象する不浄な土地。つまり、両方とも、人間の無智が作り出した事実の解釈であり、事実の陰、幻、陽炎のような心象であり、権力者が大衆を支配するために、否定も肯定も証明できない言葉を凝縮した道具である。
◆『魂』とは拘りや囚われ偏りにより生じた変性意識であり、『霊』とは無智が生んだ未知の現象に対する仮初の姿で心身二元論の産物。
◆『己』という“本来”は、時、空間、意識も超越した無色透明の全体であり部分で、万物の一露、大河の一滴である。
◆『我』という己の“仮初”は、時、空間、意識により翻弄されている有色汚濁の部分であり、大河の澱である。
◆???????。此処は坐禅が終わったら、コピペして“気付き”を書いておいてください。

一日一生  慧智(070529)  築地ガンセンター待合室にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 12:02

2007年05月27日

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

 以下に、鎌倉五山の一つである円覚寺の釈宗演禅師の師であり愚僧が小僧になったばかりのころ激励を頂いた鈴木大拙師の師でもある今北洪川老師の『亀鑑』を紹介し、愚僧の“超訳”を付しておくが、原文を読み、それぞれなりの解釈をして、今一度、禅とは何かを再確認してください。
 愚僧が日頃から口が酸っぱくなる位に言っている“薄っぺらなヒューマニズム”を捨て、無心となって全ての為に生きよ、ということを再確認してください。
 禅、坐禅は“カルチャー(お稽古事)”では断じて無い。今を生き切り、全てに報いる人間としての唯一無比の正しい生き方である。現在の社会の矛盾を解き明かし、如何にして生きるかを考えた人々は、法律の壁、道徳の壁、科学の壁、即ち相対的で限定された合理性が不完全であることに気付いた者の大半が坐禅をし、その因縁が望まずとも“大人物”という評価が下されていることを知って欲しい。
 坐禅をするから大人物になるのではなく、大人物をなる者は必然的に坐禅をしているのである。言い換えれば、遠い先を夢見るのではなく、出来る事に、全身全霊を打ち込み、他責的にならず、不満を言わず、現実をあるがままに受け入れつつ、己を失わずに、今・此処の己を使い切るのである。
 言い換えれば、それなくして、真の自由、真の合理性と出会うことなく、矛盾だらけの限定的合理性に埋没し、夫々が例外なく持つ本来の己(仏性)を萌芽させることが出来ず、単なる自己満足という稚拙な快楽に溺れ空し人生を送り、死に臨んで後悔するのである。
 悪いことは、言わないから、真剣に坐りなさい。
 以下を読めば解るが、必ず成就するから“三日坊主”はお止めなさい。
●今北洪川老師の「亀鑑」
「諸禅徳、既に俗縁を辞して仏弟子と為る。治生産業、汝が事に与からず。且く道え、甚を以て父母の生鞠劬労の大恩に報答すや。甘旨を供して父母を養うも汝が報恩底の事に非ず。文学に達して父母を顕わすも汝が報恩底の事に非ず。経呪を誦して父母を弔うも汝が報恩底の事に非ず。畢竟作麼生か是れ汝が報恩底の事。唯大法の為に辛修苦行して真の僧宝と為るの一事有る耳。之を譬えば、厦屋を造るが如し。真心を以て地盤と為し、志願 を以て礎石と為し、実悟を以て棟梁と為し、孜々兀々として朝参暮請し、歳月の久しきを厭わず、親切にして懈らずんば、則ち他時異日、一大厦屋を成立して輪奐の美を極むるや、必せり。然して後、始めて真の僧宝と謂うべきなり。此に至りて、啻今生の父母劬労の恩に報答するのみにあらず、過去百劫千生の父母劬労の恩、一時に報答に畢んぬ。大いなる哉、明心見性の功徳。唯但諸禅徳、二祖断臂の親切、臨済純一の刻苦、慈明引錐の激励等を憶念して、日々に修煉し、時々に体窮して、寸陰も怠ること勿れ哉。古徳曰く、僧と為って理に通ぜずんば、披毛戴角して信施を還すと。怖るべし、慎むべし。旃を勉めよ、旃を警めよ」
●慧智の洪川老師「亀鑑」の超訳
禅を志して出家し世俗を離れて仏弟子となった者は、経済生活を目的とした仕事に従事することは歩むべき道ではない。となれば、如何にして父母に養われてきた大恩に報うことが出来るか言ってみよ。出家にとって父母を扶養することは真の恩返しではない。学者となって知名度が上がり父母が世間から賞賛を受けたとしても真の恩返しにはならい。経や呪を読み誦んで弔っても真の恩返しにはならい。出家者として父母の大恩に報えるのは、大仏法を体得して真の禅僧となる以外には無い。それは、屋敷を建造するようなもので、真心を地盤、願心を礎石とし、実悟を棟や梁として、一心不乱に禅道を進み、一日を一生と思い、坐禅・公案・作務に成り切り、期間など気に留めず修行者に成り切れば、いつの日にか比類なき屋敷が完成すれるように、禅の宝をなる禅僧になる。つまり、出家した者は、道を究めること以外に父母の大恩に報うことは出来ない。己事究明を通じて父母未生以前の己に帰り本来を明らかにして自利利他に徹することこそ父母の大恩に報うことである。
 父母をはじめ全ての生きとし生けるもの、山川草木の大恩に報いるには、二祖慧可大師が臂を断って達磨大師にしめし道心、臨済大和尚の大いなる工夫、慈明禅師の壮絶な修行を忘れる事無く、一日を一生として全身を以って修行に打ち込み、日々に悟り、一分一秒も無駄にしてならない。
 つまり、歴代の大禅者の言葉を借りれば、「家を捨てて禅僧となった以上は、全ての本質を示した仏法を完全に会得、自覚しなければ、人間として生きた価値がなく、修行を支援して頂いた山川草木や無数の方々の大恩に報うことは出来ない」ということになる。恐れいり謹んで心に刻んで教訓として修行に打ち込め。

一日一生 慧智(070527)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 19:57

2007年05月25日

●1066話 『入室参禅』について

 無期懲役とも思える禅堂修行に入ると相見(対峙により師弟の自覚が出来上がる面会)を済ませた“その日”から師の室で師弟の命がけの戦いが一日の二回、入室参禅(にっしつさんぜん)という形式で行なわれる。師は、夫々、弟子の力量を押しはかり『公案(修行のための正解の無い問題)』を与え、見解(けんげ)を求める。専門僧堂では朝暮二回、師の部屋に通じる廊下に喚鐘という半鐘の半分程度の鐘が出て、入室参禅が求められる。すると、修行僧は我先に入室しようと廊下に正座して順を待ち、ノック代わりに喚鐘を二点打して作法に従い入室する。問題は、室内での出来事なのだが、これは師はもとより雲水同士ですら一生涯に渡りその内容を話すことはない。何故なら、先入観を捨てるのが修行の肝であるにも関わらず、先入観を助長強化してしまうからである。俗世間でも、教師が“答え”を教えることは学人の成長を阻害してしまうので、先ず無い。実は禅師は己の雲水時代の経験から『規矩作法(規則や立振舞い)』は体験(体)で学べば躾になるが、頭に先に入れてしまうと、形式として記憶されしまい、心身に刻み込まれる躾にはならないことを全身で知っているからである。という訳で、拙僧など“パブロフの犬”のように今でも喚鐘の音を聞きくと全ての雑念が瞬間的に消えてしまうのである。という訳で、現在の立場は入室を促す側なのだが、心は学人のままなのである。ところが、今時の世間は、教育が“サービス業”という商売になってしまい、師と弟子が“差しで対峙”する法戦場こそが教育の場であり、教師の使命である己を超える人間を育成するという教育の肝が忘れられているのは残念である。
 さて、学人(雲水・居士の場合もある)は、己を経営する経営力を己自身で鍛え上げるため、予め与えられた公案に対する見解を入室毎に師に提示するが、初めのうちは一言も話せぬまま鈴が振られて追い出される。後で解るのだが、問いに対しての反応が0,25秒を超えると追い出される。ですから、師の立場になった今でも“間抜け”は許せない始末である。
 ところで、禅士諸君は、最大限の怒鳴り声を耳元で聞いたことがあるかな。本当に鼓膜が破れる。しかし、鼓膜が破れると聞える声がある。“法の声”かも知れんが不思議だぞ。ワシは優しいのので怒鳴らずに竹刀を打ち込むことにしている。竹箆、警策、扇子はすぐに折れてしまうからね。まあ、昔から「炉柎に入りて鉗鎚を受る」と言われているように真剣勝負だから、甘えは100%させないし、しない。生半可は火傷をするだけ。それは今でも変わっていないはず。入室参禅と坐禅、作務は“二入”、修行の両輪であり、最終的には“四行”をもって『悟り』に通じる大道、百尺竿頭への道であり、竿頭に着けば直ぐに一歩を進み、また原点から竿の頭を目指す繰り返しの始まりである。正に悟前・悟後が一つになる過程だ。
 ワシは、『入室参禅』こそ教育の原点だと思う。しかし、教育はプレタポルテ(既製服)ではなくオートクチュール(注文服)と同じようなもので、一人ひとりの技量に合わさなければ、師も学人も徒労に終わってしまう。だから、拙僧は、参禅者に対し、日々の雑談の中に『現成公案(今風の課題)』を与えているが、最近は、マニュアル人間が増えたことか、学校や家庭が崩壊状態にあるのか知れんが、“それ”と気が付かぬ者も多いのは困ったものである。
 ところで、「陰徳を積んでいるか」と問れたら、何と応える?ハイと肯定すれば陰徳ではなくなるし、イイエと応えれば嘘になることを承知で応えよ。

一日一生 慧智(070525)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 10:36

2007年05月23日

●第1063話 『身体、心、頭』について

 昨日、理事長を務める財団法人職業資格取得支援協会の理事会が早めに終わった