2007年07月16日

●第1099話 『自分で自分を縛り、自分以外を支配しようとする邪心こそが苦の源泉』

 自分ひとりが心静かに暮らしていても、周囲にはゴタゴタが溢れている。それは、雨の日に縁側に坐って往来を眺めているようなもので、景色として観ていれば悟りの切っ掛けになるし、雨宿りを頼まれれば軒先を貸せば其れで済む。しかし、濡れ鼠になって走りまくる者を見てしまうと、バタバタせずにユッタリと暮らす方法を語りたくなる。ところが、語るためには、己も外に出て、バタバタとしなければ話す切っ掛けもつかめない。軒先に居るものなら、縁側からの声も届くので、「上がって茶でもどうぞ」と声を掛けられる。病から、暫くの間、縁側に座り、軒先で雨宿りをしている者にだけ“お茶”に誘い、往来でバタバタする者には「来る者は拒まず、去る者は追わず」というメッセージを投げかけていた。
 今、縁側から腰を上げ、玄関先に出られる程度に身体が回復すると、またまた“世間の塵や埃に塗れても、お節介と言われようと、雨の路地に出て、共に濡れながら、先ずは傘を差し出し、一人でも多くの人に心豊かな暮らし方を説きたい衝動に駆られる。
 病の間は、毎日のように悟りがあり、「溺れている者は、バタバタしている時は手を出さずに見守り、気絶したら引き上げて人工呼吸をするのが最善だ」ということを知った。
 しかし、まだまだ未熟な己は、火中の栗を拾うが如く、ツイツイ、軒先で雨宿りする者の話を聞いて、道の歩き方などを“中途半端”に話してしまう。病の折に、己がモデルとなりユッタリと暮らすころが、“結果的には多くを救う”ことを悟ったにも関わらずである。
 まあ、そんな己に内なる仏が反省させるため、癌という機会が与えられたのだが・・・。
 それにしても、巷には金の亡者が多い事か。金の使い道の何たるかに気付かぬ者が多い事か。確か、良寛和尚も心を痛めていたが・・・。少しだけだが解るようになったのは、癌のお陰。そろそろ“病の意味”を理解して欲しいものだ。
◆良寛和尚の漢詩
人生浮世間    
忽若陌上塵    
朝為少年子    
薄莫作霜鬢    
都為心不了    
永劫枉苦辛    
為問三界子    
将何為去津    
◆読み下し
ヒトのウキヨのカンにイくるや コツとしてハクジョウのチリのゴトく アシタにはショウネンのコたりしに ハクボにはソウビンとナる。
スベてシンフリョウなるがために エイゴウにムナしくクシンす タメにトう サンガイのヒト ナニをモッッてキョリツとなすや。
◆解釈
心定まらない者がこの世を生きるのは、正に道に舞う塵や埃のようなもので、朝方は子供、夕方は白髪の老人になってしまうようなもの。
全ては“本来の己”を自覚出来ずに空しく辛く苦しい生涯を送るのは何故なのか。皆のために悟りを開いた仏に、どんな生き方をすれば良いか教えて欲しい。

一日一生 慧智(070716)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 09:51

2007年07月01日

●第1092話 『山川草木悉皆成仏』

 雨が上ったので寺庭の手入れをしようと草刈機を持ち出し、聖観音様と禅堂の間の草むらに分け入った。エンジンを掛け、いざ、草刈をしようとすると、何故かエンジンが止まる。それも連続5回。何かあるかな。別に無い。その時、急に雨が落ちてきた。禅堂の軒で雨宿りしながら、草刈機を調べた。問題は無い。その時、雷鳴が轟き大粒の雨がバケツをひっくり返したような勢いで落ちてきた。しばらく桔梗の花を眺めていると、雨が打つ竹やぶから『山川草木悉皆成仏』と聞えた。人間の都合で無駄な殺生はいけないのは解るが、さりとて・・・・。
 雨が止まない。晴耕雨読。禅堂で一人坐っていた。いつの間にか寝てしまったようだ。辺りが暗い。午後の庭仕事は頓挫。世の中に無駄な命は無い。ただ、人間にとって不都合な命はある。我侭なことだ。雑草という名の草花は無い。小さな草花にも皆、名前があり旬がある。それを一纏めにして“雑草”と言うは人の身勝手。小さければ小さいほどに可憐。観ると刈り取れない。と考えながら踏みつけてもいる。ふと、人間でいるのが辛くなる。病や痛みのせいではない。己の分別、我心。厄介なものだ。
 一日一生 慧智(070630)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 10:11

2007年06月25日

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

 仏陀とは「真理に目覚めた人」「覚者」という意味で、釈尊とは、釈迦という人間の尊称である。人間である釈尊(開祖)の悟りを追体験する宗教宗派が“禅宗”であり、そこに生きる生き方が“禅”であり、それを家風とするのが禅家である。また禅宗三派では達磨大和尚を禅宗初祖、連なる二祖を慧可大和尚、六祖慧能大和尚。その法燈を繋いでこられたのが歴代の祖師で、臨済宗の場合は臨済義玄大禅師を宗祖、栄西禅師を日本臨済宗の開祖、白隠禅師を臨済宗中興の祖、禅家に集う修行者を禅士・禅子、その師匠を禅師・禅匠・老師という場合が多いが、在家の修行者を禅士と言わず居士という場合もある。なお、鎌倉時代に日本において成立した臨済宗は、中国で成立した禅の一派で、禅匠である臨済義玄大和尚の禅風を伝える宗派で、日本臨済宗開祖の栄西大和尚が宋より伝え、現在に伝わる臨済宗各派の大半は鎌倉末期から室町期に活躍した『大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄』といういわゆる『応燈関』の流れにあり、江戸時代の白隠大和尚(禅師)を中興の祖として『心身一如』にある状態を意味する“dhyana(jana)”の音写を漢字に当てた禅那、そして坐を組んで己事究明、自己の本性を見徹することで『悟りを開く』≒釈尊の悟りを追体験し『禅定(心の完全なる自由状態)』に至らしめることを目的としている。なお、一般論として言えば、その悟りの境地は言葉や文字によって全てを説明することはできないという意味の『不立文字・教外別伝』、師と弟子の間の以心伝心で心から心へと伝わる『直指人心』をもって釈尊の心を伝えて仏となる『見性成仏』に帰着させるための方法が坐禅であるが、禅は目的・目標・手段を分けて考えないので、師が弟子の心頭一如の体得度を点検するために『公案』という問答の切っ掛けを使い、修行の成果を自覚させ、更に修業を深めさせる。なお、現在の日本においては江戸期の白隠禅師による古則公案の“体系化”が広く普及し、その大河は明治期の山本玄峰老師を経て末席の拙僧にも伝わって来ている。 つまり、我々は皆、釈尊の弟子であり法孫であるが故に、『“苦”の本質を理解体得し、苦を苦としない生き方』を“言葉を超えて率先垂範して普及する責任がある。なお、常識だろうが、仏教では苦の総体を「四苦八苦」と言い、四苦とは生・老・病・死(しょうろうびょうし)、八苦とは「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えたものをいう。
 さて、人間は、その質・量の違いこそあれ、四苦八苦を避けて通ることは出来ないだろう。それは釈尊も同じ。ワシも皆も同じである。言い換えれば、苦しみを苦しみと認識出来ない人間に宗教は無用だろう。ところで、そんな人間はいないはずなのに、宗教を否定する者が多いのは何故だろう。その上、宗教を否定する人間を観ると“気の毒な位に不幸”なのは何故だろう。それは“自由な心”という状態を解らないからで、見えない縄で自分を縛っている『無縄自縛』という状態にあるからである。言い換えると、何かに拘り・囚われ・偏った考え方にあるが故に、己自身を理解出来ていないのである。
 活人禅寺は『来る者は拒まず、去る者は追わず』を信条にしている関係で、“下心”のある者も来るし、本来は自他不二だが、明らかな下心がある者や朱に染まる者、つまり、利他より自利を優先する輩もいる。それでも、活人禅寺は信条を曲げない。否、“無心”である。ワシもしばしば利用されるし、たった一人だが浄財泥棒も居た。しかし、罪人を作るのが寺では無いので、その都度、学びを頂くが、それでも『他人を疑う心』は持ちたくない。どんな者でも、清く正しく幸せに生きたいはずである。しかし、それが思うに任せない。実は“それ”こそが僧侶の責任なのだ。
 釈尊は、修行に入って六年目の12月8日に暁の明星を見て活然(忽然)と大悟され活人となった。師が居ただろうか。寺があっただろうか。それは『己の師は今・此処に居る己自身だ』という気付きがあればこその”大悟”である。語呂合わせでは無いが活人禅寺は“大子(だいご”という地にある。ワシが癌に負けないで済んだのも大子の寺のおかげである。釈尊は6年の修行で35歳で大悟した。つまり己を師として大賢者となった。釈尊も我々と同じ人間である。釈尊に出来て、達磨に出来て、臨済に出来て、白隠に出来て、皆に出来ない訳は無い。祖師に共通するのは上辺に流されず本質は何かとトコトン考える大疑心と、本来の己に対して素直になり、本質が解るまで諦めない心があったことだ。物事は途中で止めるから“失敗”というゴールが出来る。しかし、何があっても止めなければ失敗は無い。失敗が無い事が“成功”なのだ。言い換えると大悟が成功ではなく、大悟に続く道を歩み続ける事が成功なのである。ワシの人生も波乱万丈。3回も死に損なったが未だ生きている。考えると、為すべき何かが残っているからだろう。だから、「奇なる、奇なる、一切衆生皆如来の智慧徳相を具有せり。只、顛倒妄想の故に知ること能わず」と喝破する日を目指して生きる。誰が言ったかはどうでも良いが、「万物は天地人の三つの働きで成り立つ。天は理想、地は現実、人は実現」ということが言われる。それは、己の人生を宇宙と一体化し人生を大地に根を張り、万物の理想の実現のために現実の生活(事実)をしっかりと踏まえて生きていくべきである」ということだろう。幸せとは、あらゆる迷い、あらゆる苦しみから解き放され状態である。それには、無限の空間、悠久の時間を超越し、物事に拘らず動物、植物、鉱物とを問わず、賢愚の別なく、全て公平で公正な生き方を志すのが大前提である。“起きて半畳、寝て一畳”、空っ手で生まれ、空っ手で死ぬ。どんな生きても百年そこそこ。その上、誰でも明日生きている保証は無い。誰だって“今・此処・己”のみが現実である。釈尊であっても最初はたった六人からのスタートで、80歳で大遷化されるまで行雲流水の如く、三衣一鉢以外持たず、乞食(托鉢)されインドの各地を説法して回った。時代が変わっても釈尊に出来て我々に出来ない事は無い。勿論、方法は異なるだろう。しかし、ワシはワシを含めて皆にも出来ることだと信じている。人間は“生き方”で価値が決まる。釈尊だって45年の行脚を行い80歳になった頃、生まれ故郷に向かう途中で鍛冶屋さんが差し上げた供物を食べ、腹痛で床に臥し、死を悟った時の説法が後に『遺教経』として伝わり、2月15日に大遷化(涅槃に入られた)された。
 末筆になるが、釈尊が『事実の無分別なる直視→本質の発見→教訓化(一転語化)→生き方の発明』という悟りへの流れは、四苦八苦の現実を直視し、苦の本質をつきとめ、苦しみを滅するために四諦八正道の教え説き『坐禅』を考案されたことを忘れずに、最後の最後まで諦めずに生きようではないか。
 何か、遺言めいた話になったが、痛みで一睡も出来ないと、ワシの辻説法のトーンも変わるようだ。まあ、良いか。誰も明日の事は解らんからな。 今日の説法はワシ自身に向けて書いたようなものだ。ワシも弱い人間だということだな。
一日一生 生き恥を曝している野狐禅和尚 慧智(070625)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 18:48

2007年06月22日

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

 論語の為政篇に、子曰く「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という件がある。孔子は“学問”と“思索”を独立概念としてとらえていたのか、それとも補完概念と考えていたかは、個々の研究者の解釈に委ね、ここでは前出の句を“禅の眼”で観ることにする。すると、禅という“一如”の発想ではなく、“道徳や倫理”に繋がる“二つ分かれ”からの発想だということが解る。つまり、「すべき事とすべきでない事」という雰囲気があることに気付くだろう。
 つまり、禅では父母未生以前、隻手音声から類推できるように、“二つ別れの前”に本質、原理原則を見て、眼前の事実(その背景)こそが本質・真理は“投影”と考えている。拙僧は“それ”こそが『百尺竿頭の世界と其処から飛び降りた処の世界の違いだと思っている。
 さて、孔子の『学び』とは何だろう。それは孔子の他の言葉から伺えるように書物や経験など他人からの借り物の“知”を意味している。また、『思い』は、知を純粋化してゆく中での独り善がりの”痴”を意味している。つまりそれは学者の発想であり、止揚することで“統合化”する考えか方に他ならない。それは確かに単純な体験や経験を広く深い“智”にすることは出来るだろうが、所詮は頭の理解であって簡単には体に浸透はしないだろう。それ故、禅における“今・此処”の悟りのように過去と未来の活動を劇的に変え力には成り得ないので、拙僧は“それだけ”では不十分だと考えている。言い換えると“智”は日々の行動に活きてこそ完成する“叡智・智慧”であり『本質』だと思っているからである。
 本質(智慧)に辿り着く道が『坐禅』であるのだが、坐禅も坐禅だけでは不十分で、坐禅の初期で得られるのは“痴(偏見)”であり、それは作務を通じて“智(真理)”となり、室内において『叡智・智慧』となり、更に聖賢の書・言葉、日々の事実、気付き、行動を通じて無相の相たる“般若(全身に染み込んだ智慧)”に至るのが“禅”である事を全身で知っているからである。
 さて、現在は“頭でっかち”の時代と見ている。そういう拙僧も“その傾向”が無くも無いのは自覚しているが、それを踏まえつつ話すので聞いて欲しい。頭でっかちとは、一億総評論家を意味していると考えて欲しい。
 過日、政府の『教育再生会議』の反主流はのメンバーと以下のような話をした。員「この会議の本質は何だろう。議論が盛り上がれば盛り上がるほど考えてします」僧「なるほど。つまり、コンセプト(概略)を作るのが使命なら枝葉末節に偏りすぎ、ワークが使命なら抽象的で感傷的である、と感じているのではないか?」
委員:「正しく、その通り」
拙僧:「そもそも『教育再生会議』という表現は誤りだとワシは思う。正しくは『“公”教育再生会議』が正しく、国民を勘違いへ誘い込もうとする邪心はみえみえである。勿論、政府系権力が公的教育を支配するのは、国民から付託された権限の一つではあるが“全て”ではない。つまり、『私教育(家庭教育を含む)』の自由を奪う権利はない。教育という知育・徳育・体育(行動)、頭・心・体(行動)が『同質』となる“躾”であり、本質的には“親”の責任である。勿論、現代のような情報化時代においては、継続的に体系化された知識は学校でしか出来ないだろう。だからこそ、平均的な学習は公立学校の役割であり、家庭の役割は“心”を中心的にしたものであることは確かである。何故なら、躾とは“家庭の文化”であり、国により平準化・標準化されるべきものでは無い。言い換えると、民族の未来を担う現在の責任である。
 美徳の国“日本”から“徳”を取り去り、私利私欲の為に、子供に悪影響を与えている原点は一部の政治家と一部の役人の行動である。二次答申の中にも、“道徳教育”に中途半端に言及し、“親学(親としての子育ての常識を学ぶ事)”の必要性を述べているが、教育(子育て)に迷った時に戻る『依って立つ』拠り処”、便爾“価値基準”を明確にしないところに根本的な問題がある。それは、諸悪の根源が“頭でっかちで偏見に満ちた”リーダーを選んだ国民の無智にあるということだ。そもそも“再生”というなら“いつの時代が理想であり、どの状態に戻す”のだろうか。それが示されていなければ『再生』の意味が解っていないことになる。委員「では、どうすればば良いか」
拙僧「禅が全てだなどと言うつもりは無いが、せめて儒教・道教・仏教の基本的な知識論語程度は持っているメンバーに入れ替えないとならんな」
拙僧:「考えてもみろ。日本にとって維新から戦後の最悪の時代でも、優秀な人間は出ているし、彼らが今の礎となっいる。それは頭より心を重視した『意欲と志』があったからだ。
拙僧「今、問題とすべきは国際社会を比較の対象とする『相対的な成績の低下や、犯罪の低年齢化などなどではなく、『日本の理想像(目的)』を示しつつ目標を明確にすべきせで、それが出来ない政府の無智を正す事である。
拙僧:日本は“美徳”の国であり、法律で雁字搦めにした懲役列島ではない。・・・・。
 
 この先は文字にするのが憚られる様な教育再生会議の呆れた内幕が告白された。
 教育は、100人居れば100人の教育論があるだろう。だから、それを一本化するような事をせず、政府は選択肢を用意し国民が選択権を行使できるようにすれば良いだけである。だが、子供の教育を云々する前に“政治家と親と教師の教育”を見直すことが先だ。品格も無ければ人間力も無い政治家を当選させない選挙制度の確立が遠回りなようで近道である。(続く予定)

一日一生 慧智(070621)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 06:01

2007年05月24日

●1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

 表題は、言わずと知られた白隠禅師が考案された公案。「片手の音を聞いて来い」などと拙僧は、入室した参禅者に与えている公案の序章であり本文であり終章です。白隠禅師が何をヒントに『隻手音声(せきしゅおんじょう)という公案を編み出されたか、また禅師自身のエピソードなど調べれば解るものは話すつもりはありません。しかし、自我の奴隷、言葉の奴隷、文法の奴隷、先入観(経験、道徳、価値観など)、即ち“相対論・二項対立論”という幻想の奴隷になっている限りは、両手の音を聞くことは出来ても片手の音を聞くことは出来ないことは言っておきます。つまり、科学・哲学・儒教・道教・・・勿論、数学、国語、理科。社会・・・、今までに頭に入れ、入れられてきた全てを捨て去ることで真理が観得ます、聞えます。
 過去、ネット禅士の場合、入室参禅をメールで行なっていましたが、あまりにも無理があり現在では、南伊豆の菴か、活人禅堂で参禅されている禅士で、日頃の言動や行動から公案を与えても潰れない者にのみ与えています。
 日本から東に行くとアメリカに着きます。アメリカが東洋だからです。アメリカから西に行くと日本に着きます。日本は西洋だからです。北に向えば南極に着いて元へと戻り、南に向えば北極に着いて日本へ戻ってくる。北を向いて南を見る。南を向いて左にあるのは己の右腕。右足が沈む前に左足を上げれば海を歩ける。光より早く走れば、己の背中が見えるかも。無我夢中の時間は、閑居の時間より早い。人殺しが悪だと証明できる論理は無い。全ては“我”を中心に考えるから解らなくなる。ゲーデルの不完全性定理は、論理が絶対であることを否定する論理を論理だてて説明している。情緒と論理、感情と理性。誰が分けたか解らない。絶対的な善は何を前提にするのか。相対的な善は悪がなければ存在しない。では絶対的な悪の根拠は如何に。男と女が別れる前は一つ。羞恥心は社会的な洗脳を受けた結果が生んだ拘り・囚われ・偏り。我らは過去の誰かが作り上げた幻想の奴隷。さあ、父母が生まれる前の己、本来の己は、今、何処にいるか。今、此処にいる己は本来の己か。太陽は沈まないし、月も欠けない。月と太陽は、もともと一つ。私と貴方ももともと一つ。空気と私ももともと一つ。ところで、貴方の心は何処にありますか?。貴方の心と貴方以外の人の心は元を正せばひ一つだと思いませんか。坐る、働く、寝る、同じですか、違います。紙の一面には神、他面には仏と書きました。表はどちら、裏は表の裏で、その裏は表?。
 今日のネット禅会では、『色即是空=空即是色』の一次方程式の解を求めなさい。勿論、言葉を使わずに考えましょうね。そして、言葉や文字に依存せずに答えてください。
 公案を出してもらいたいという“おねだり禅士”に、自分の後頭部が直接見えたらね、ということで返事としました。
一日一生 慧智(050724)願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道 

投稿者 echi : 18:32

2007年05月21日

●第1062話 『大子の禅会にて』

花無心招蝶    花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花    蝶は無心にして花を尋ねる。
花開時蝶来    花 開く時、蝶来たり、
蝶来時花開    蝶 来る時、花は開く。
吾亦不知人    吾れ、人を知らず、
人亦不知吾    人、吾れを知らず、
不知従帝則    知らずして、帝の則に従う。

 昨日の活人禅会の開枕後、薬師堂での独坐の折、たどたどしい飛び方の蝶を見た。ここで“大悟”とくれば洒落の効いた絵に描いたような禅会なのだが、未熟者故の悲しさから、そうは問屋は卸してくっれなかった中で、ふと良寛さんの漢詩が口を付いて出てきた。考えてみれば当然かもしれない。過去、何回と無く『慧智坊の一筆説法』に書いたものだ。
 蝶は歩けないが飛べる。人は飛べないが歩ける。花は期が熟せば笑い、蝶を招き、蜂を招き、人の心に潤いを与える。しかも、無心にだ。只、今その時の環境を全面的に受け入れ、工夫をしながら文句も言わずに黙々として生きている、人間以外は皆同じ。
 それに比べて、痛いの熱いの辛いのと、己の病魔如きで右往左往する己としては、禅坊主失格だ。そう思った瞬間、己の連想系は自動的に太宰治の人間失格の中で主人公が心の中で呟いた「あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っている・・」という一文が思い出され、同時に、「何とも単純な己だろう。お前は此の世で最も厄介な奴だ。“あるべきよう”と生きてはいるし、生きる事への執着も大きくは無が、すべき事を残して去るのは忍び難いな~」という思いが心底から聞こえた。
 こんな情けない禅坊主が、人の心を受け容れられるだろうか。しかし、こんなチッポケな事であれ、地球の体力が減衰しているということであれ、天変地異であれ、全ての現象は自然の法則に従い、それを知っていようと、知らなかろうと、不知は許されずに従っている。
 自然を征服しようなどという考えは愚の骨頂である。人間も山川草木も自然の一部。受け容れつつ適応し工夫して生きるのが真理。今日・此処での己の心は一瞬の現象。邪心・有心であれば苦しみ、清心・無心であれば、全て敵うのが自然の摂理。真理。
 さて、参加者諸君は、坐れたかな?。
一日一生 慧智(070521)
『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
★大阪から飛び入りのEさん。無事に帰りついたかな?

投稿者 echi : 20:15

2007年05月10日

●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

■釈尊が涅槃に際して説いた『仏遺教経』にある『少欲知足』に対する道元禅師の解釈として正法眼蔵に「多欲の人は、多く利を求むるが故に苦もまた多し。小欲の人は求むることなく欲なければ、すなわちこの患(わずら)いなし」とある。拙僧は「己の身の程を知り、過剰・過少を両亡した“あるがまま”を素直に生きることが“大安心≒豊か”に通じ、結果、苦楽一如を知るの処世の極意に通じる」と話している通りで、意志ではなく無心という『真』を説く。
■道教の祖にあたる老子は老子道徳経第33章に『知人者智 自知者明 勝人有力 自勝者強 知足者富 』、読み意味は「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つは力、自らに勝つ強。足るを知る者は富む」とある。つまり、道教(現在の道徳の原点)では 『足るを知る者は経済的に貧しくとも心は豊かで
、足るを知らぬ者は経済的に豊かであっても心は貧しい』というニュアンスで、意志の持ち方を説いてい
るのであって、正に道徳的な『道』を説く。
■儒教の祖にあたる孔子の、天下は“徳”によって治めるべき、云わば“徳治主義”の立場からの言葉を
思い出すと、やや疑義はあるものの、『知足安分(ちそくあんぶん)』という思想、つまり士・農・工・商・穢多・非人というような身分は、社会における分業のための区別であり、人間としての差別ではないという政治思想である『理』を説く。
■詳細は知らぬが英語圏の教訓に『A contented mind is a perpetual feast. (満足する心は永遠の馳走である)」というキリスト教的な禁欲の示唆がある。
■現代中国で文化大革命後も支持されているのが李繹『五知の知恵』といわれる『難を知る・時を知る・
命を知る・退くを知る・足るを知る』という“長いものには巻かれろ(躓く方が悪い)”という教訓がある。
 以上、『知足(ちそく)』という“心”は、洋の東西を問わず、常識人の座右の銘になっていることが多く、心豊かに生きる人生の肝ではあるが、『知足』の概念を獲得し納得した源泉(初めて聞いた、読んだ、納得した、話した・・・)の異なりにより、夫々の価値観は異なる。
 禅士諸君は、以上のどれに共鳴するか。ないしは“菜根譚”という仏教・道教・儒教をブレンドした現実的処世術に共鳴するか、ないしは四書(大学(礼記の一部)・中庸・論語・孟子)の一つに出ているよな『修身齋家治国平天下(大学)』、拙僧の解釈では、これは禅+道教+儒教に通じる『足るを知る』に至る考え方に共鳴するか。
 21世紀の現代日本は、20世紀の人間主義、物質主義、征服主義、利己主義、拝金主義を下敷きにした“破戒文明”にケジメを付け総括する事無く、不愉快極まりない『“御為倒し(おためごかし)”文化・文明期』に突入している。大量消費・大量廃棄・環境汚染を必須アイテムとする資本主義経済は、その限界が大衆に露呈するや、LOHAS(持続可能で健康的な生活様式)という言葉を生み出し、資本家の
都合による経済成長を維持するためにNPO活動やNGO活動という“稚拙な善人の活動”に目を向けさ
せ、諸悪の根源である『人間欲求充足主義』を問題視されないようにしている。温暖化→熱帯雨林の減少→植林=御為ごかしビズ。勿論、破壊した自然を復活させることは大事であり、それ自身に異論は無いが、その為に、人間は如何に生きるべきかという『根本的な課題』から視線を逸らせるのは如何なものか。
 『善(道徳)』や『倫理』は、世界共通ではなく、宗教や民族文化、思想が異なれば真偽が逆転し正反
対が概念が正当化される危険思想、つまりはローカルルールである。
 一方『禅』は知られざるグローバルスタンダード(世界標準)として知識人には知られているが、我ら禅僧の力不足で衆智させられていない。ここには禅の『矛盾を抱え込んだまま止揚するという』という特徴があるからかも知れず、『己の行住坐臥をモデル』にし、解る者は何時か解る。解らぬ者も皆仏という考えがある故に、出しゃばらない。来る者は拒まず、去る者は追わない。
 本当に、これで良いのか。ここ数日、体温40度、患部に熱感。ステージ4なれど坐禅三昧。心からこの世界を救いたいと思うが、力不足に悩んでいる。寺に居れば日常に感けて見えないことが、娑婆で病め
ば見える。見えたときは遅い、に悩む。正に『一切皆苦』である。
一日一生 慧智(070510) 品川五畳菴にて
◆『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 13:10

2007年03月28日

●『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』

『応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)』。
 意味は、「何か、何処かに安住しなければ、喜怒哀楽に支配されない真に自由(自ずからに由る)な心が生まれる」というもの。
 『自由な心』とは何か。“我”という妄想、自縛から解き放たれた喜怒哀楽とは無縁の『本来の己の心』である。『喜怒哀楽』という波紋のような一過性の現象に揺れる心があるから、人は絶えず“言葉に出来ない不安”の世界に閉じ込められている。己の外に仏なし。不安という漣を如何に考えるか。それが人生の質を左右する。
 人間を含む如何なる生物も安全・安心を希求する本能がある。そのこと自体が生物としての自然な要求である。つまり、命の自然な指向性と言ってよい。
 言い換えれば、人間本来は平安であり安寧(安全・安心)の主人公。形の無い純粋生命は無心に平衡状態へ向かう。考えて動くわけではない。A・Hマズローの初歩的な気付きですら、安全・安心・帰属・承認・自己実現という欲求の階層化を理解している。決して“自我実現”ではない。自己実現とは“無心”への到達であり、“百尺の竿の頭の先”の世界。如何なる生物も、種の保存のためには危険に挑戦して危険と一体となって危険の無い安全で安らかな環境を選ぶ。生命現象を営む上で、安定条件が満たされている方が“快適”に決まっているのだ。それを“進化”という。進化なきところ淘汰あるのみ。淘汰とは自然に帰ること。不生不滅の法則性の世界に入ること。“進化”とは、何事にも囚われない心を持ち、そして其の心を働かせ、生への執着が捨てられた先にある安寧。
「住する処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つの事に停滞しないこと。囚われない、拘らない、今・此処のこと。そこにこそ「其心を生ず」という。其の心とは、無念の念を念とする。無相の相を相を相とすること。正に“忘我のところに無心あり”。融通無碍、無碍自在の心の働きがあらわれるという意味である。そして、その境涯で行なわれる思考が、『禅脳思考(全人格的思惟:全身で考えること)』であり、IQ200の世界。父母未生以前の己である容(形)無き純粋生命を実体験すること。
 私が知る限り、其処への道(大道)は、坐禅を除いて体験できなかった。そこでの心境は、正に釈迦の発した「天上天下唯我独尊」という言葉に帰す。その言葉こそ、「人は夫々、其の人にとって掛け替えが無い尊い存在であり、だからこそ、互いに他人を大切に出来る」ことからの働きが出る。釈尊の心境に行き着けば『我という無我』は自然となり、自他一如を生きることが出来る。そこには“競争”という『妄想的で無意味な心(応無処住而生其心の“其の心”ではない心)』は無く、“協奏”という悟りの世界がある。拘らない心、囚われない心、助け合いの心で生きましょう。因果一如の門を開きましょう。それには、一日を一生として相対的自己ではなく絶対的自己を生きる“安寧”、生きていることへの感謝の世界が広がってます。
一日一生 慧智(070328)  体温40℃、物言わぬ肝臓が時々痙攣するのを実感できる、それは今日も生きている証。

投稿者 echi : 07:24

2007年03月18日

●『戒定慧(かいじょうえ)』

 私は釈尊・・(文殊)・・達磨・慧可・・・白隠・・・代々の祖師、大和尚に深く帰依するが、足跡を追う気にはなれなかった。つまり、伝統に連なることを嫌った。勿論、社会に認知されている“伝統”を踏襲していれば、表向きの『道』を外すことは無い、ということは十分に解っていた。また“禅堂(≒生きる事)”10年、『戒定慧(かいじょうえ)』の重要さは身にも染みていた。しかし、それでも伝統に“ぶら下ること”に“大疑”を感じていた。何度も何度も、何度も考えた『自灯明』と『法灯明』。そして昭和43年11月、忽然として“生涯一雲水”であること、歩歩是道場であること、独歩して己事究明に励むことこそ“禅”であると確信し還俗した。“本者”でありたい、“祖”となりたいと思った。しかし、本者であろうとすると、灯した明かりは絶やすことなく生涯に渡り灯し続けなければならず、常に伝統からは異端視される。確かに、伝統との決別はある意味で反逆行為なのだ。勿論、禅はある意味で“全てオリジナル(自灯明)”と考えることも出来た。だからこそ『法灯明』は“蝋燭を一本、一本、また一本と新しい蝋燭に火を灯して聖火リレーのように繋ぎ、時代時代と相互浸透しながら絶えず体制内で更新されてゆく自体『自灯明』であるという意見も十分に理解はしていた。その上、伝統には奇特な力があることも十分に体感していた。それでも『伝統』に生きることは己の成長を阻害すると思えての還俗だった。師と決別し、『戒定慧』と一冊の本を胸に還俗という形でゼロからの旅に出た。当時の私が解釈した『戒定慧』とは、『悪を制するを戒、心を無とする定、真実を証するを慧。つまり、『身を修め、あらゆることに先入観を持たず仏性の投影であるこの世の現象である事実を徹底的に体験して全身で学びつくせば、釈尊が発見した真理(宇宙の本質)を自ら検証し、先人と同じように完全無欠な智慧(知識・思考を超えた力)を得て成仏する』であった。そして、修行により完成した智慧を原動力にして“輪廻、因果そして縁”の本質を見抜き、迷い多き現世に小さくても良いからしっかりとした明かりを灯したかった。遡ること48年、龍澤寺を宗淵老師に任され、お体が弱り始めていた時期ではあったが、特別のご配慮で玄峰老師に就き得度、その後の10年の小僧・僧堂暮らしを捨ててから38年。今も心は“生涯一雲水”。師を持たず弟子を持たず“一人一宗一派こそ宗たる教え”を標榜しつつ今日もまたヨレヨレしながら行脚している。“逸れ坊主三十年”。花は紅、柳は緑という常識を放下し、“花は紅に非ず、柳は緑に非ず”という心境を経て、最近、なるほど、花は紅、柳は緑であると得心しているが、去りし日のことを思い出すことが多い今日この頃である。いやはや、困った未熟者である。
一日一生 慧智(070318)

投稿者 echi : 22:47

2005年03月17日

野狐禅和尚の独り言『所有権・経営権・就労権・収税権・・・』№702

 巷では「会社は誰のものか」という議論がある。この疑問は極めてナンセンスで、法律行為を文学用語で説明を求めることが可笑しい。其の上、この世界が相互補完を前提としている以上、それぞれの強味を活かす事が大事。
 「会社は誰のものか」は、株式所有者の所有物であることは明白。しかし、株式所有者は、自らの資産である株式の価値を上げさせるために、ふさわしい経営者(取締役)を選んで、企業組織の経営権を付託し、経営者は善管義務を背景に労働者を給与で雇用し精勤を要求できる。そこに感情が入り込む余地はない。
つまり、其々の陣営(特別決議権株式所有者・取締役会代表・労働組合長)には、対立か融和かしかの選択肢しかない。
今日の世情は、利己主義者(資本主義者)・社会主義者(会社主義者)・共産主義者(労働者主義)にリンチ主義者(マスコミ)が参入し、事勿れ主義者(国民)、国家主義者(収税主義者)の前で、それぞれの利権を争っている『茶番劇』なのです。ここで戦争主義者や警察主義者が登場してこないのが薄気味悪いが・・・
今、私たちが根本的に考えなければならないのは、人類の平和共存であり、地球の延命に有効かどうかであり、このような世情を子供達に正しく説明する“教育問題”である。今のままの教育体系は“拝金主義”が大量生産されてゆくだけなのだ。
私一人が何を騒いでも、帝国主義(アメリカ合衆国)が地球の一国支配を実現させるために仕組まれた今日の殆どの対立構造を壊すことは出来ないし、“狼少年”にされて意見そのものを抹殺させるかもしれない。
それであっても私はかまわない。生命と地球は共存以外に選択肢は無く、男だ女だ、資本家だ労働者、ニューエコノミーだオールドエコノミーだとか言っている場合ではない現実を、未来を担う子供達に如何に伝えてゆくかを私なりに考えて行動してゆく。
目指すべきは、『無対立・無犠牲・自主独立』の世界建設であり、安心と安全、豊かな心が最優先される社会の建設で、金や物、犯罪と利己主義に塗れた現状の打開だろう。
慧智(050317)
★★★週末は、活人禅会です。まだ間に合います。★★★

投稿者 echi : 06:47

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House