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2007年07月19日

●第1100話『無くてはならぬものは多くない(キリスト)』

 皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答えるだろう。キリストは「無くてはならぬものは"ただ一つ”」とも答えたと伝わっている。それは何か。それは“religion”であると答えている。即ち“キリスト教”なのであるが、キリストは“キリスト教”という表現を使わなかったので、現代の日本語で表現すれば「人生で無くてはならないものは“宗教”であると答えたようなものである。勿論、以前に何回も話しているように『宗教≠religion(レリジョン)』です。レリジョンとは、唯一の神との再・結合という意味のラテン語を語源としており“キリスト教”を示しているからである。
 一方、“宗教”は禅語とは言い切れないが仏教用語であることは事実であり、概ね“禅語”として解釈してよい。出典を探すと碧巌録(北宋初期の禅僧、雪竇(せっちょう)重顕が古来の禅録の中から公案百則を選び,韻文のコメント(頌)を付した『雪竇頌古』に,北宋晩期の圜悟(えんご)克勤が解説・論評を加えたもの)の五則中にある「大よそ宗教を扶堅(ふじゅ)せんとすれば須らく英霊底の漢なるべし・・・」に突き当たる。つまり、『宗教とは“宗(むね)たる教え』という意味であり、“大本の教え”という意味ととらえる。言い換えれば“己の外に仏なし”という大本の考えからすれば、キリスト教を信じる者(信仰する者)の宗教はキリスト教が“唯一の宗教”なのです。ところが、仏教徒(仏教を信仰する者)が信じる宗教は“仏教”だけに囚われ拘らないので“キリスト教も仏教も宗教”と表現するからややこしくなる。
 『宗教』とは、“信仰”の一つであることは事実だが、正しくは『自分が信じる体系化された考え方である“宗たる教”以外の解釈は成立しないのである。そういう意味からすれば、洋の東西を問わず『人生に無くてはならないものは“宗教”』ということになる。ところで、皆の宗教は何かと問えば「仏教」と応えるのか、「禅宗」と応えるのか、「活人禅宗」と応えるのか。拙僧は「己の外になし」と応える。「己の外に無し」と応えた瞬間に『唯我独尊』が成立し、“全ての命が中心”となり、禅を宗教とする者は“山川草木悉皆成仏”から、『全ての現象』となる。
 以上から、我々は『禅の教え』こそが“宗教”ということになる。
 では、宗たる教えが根本であるとするなら、我々は“禅的”に生きるということに繋がる。その根本は何か。それを解説しているのが“経(きょう)”、時代を超えて経(たて)に繋がる教えである、八正道とうに現れているが、要約すれば『何事にも囚われず、拘らず、偏らずに、事実を無差別に受容し臨機応変(自由自在)に犠牲を最小限に生きる』ということであり、正に“持続可能な共生生活”である。換言すれば「人は独立しながら相互に犠牲にすることなく補完し合いながら他を否定せず肯定的に生きる」というのが“禅”であり“仏教”ということになるので、最近の檀家団体など他派を否定する“新宗教”は“カルト(教祖主義者)”なのである。勿論、カルトも教祖の教えを“宗たる教え”とするのであるから宗教は宗教であるが、自分の考えを主張するのは大事だが“それ”に囚われていては『無縄自縛』であって“自由(これもフリーやリバティの訳語は誤り)”を放棄していることになる。(続く)

一日一生 慧智(070718)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 2007年07月19日 07:22

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