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2007年06月07日
●第1078話 『公案は頭では解らない』
禅士諸君。ここ数回の記述から気付いただろうが、『公案』は、頭では解けないのである。と同時に、室内において師と弟子が“同じ空間・時間”を共有し、即否定、即肯定が行なわれない限り、師は弟子の心を観ることが出来ないのである。同時に以心伝心、弟子もまた師の心を理解できない。ということで『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』の四句の意味が解るだろう。
つまり、坐禅はネット上でも出来るし、夫々は毎朝生まれるように起き、毎夜死ぬように眠り、過去を変えることは出来ないし、未来を決定することも出来ない。“あれ・これ・それ”も思う通りにはならない。全ては“変数2であり、“縁”により今が現象していることも解っただろう。更には、言語学では“シニフィエ・シニフィアン”と表現するが、山は山であって山そのもではないのである。言葉・意味・実体が同一であることは保証されていないのである。言い換えれば、言葉や、常識という思い込み、それが作り出す先入観などで雁字搦めになっている己(それ“我”という)を毎日風呂に入り体を洗うように、心も風呂に入れて毎日の垢を落として死ぬ。そして生き帰るのが正しい生活(イキイキと生きる)だということは理解できただろう。何かを知っている。言語表現に長けている。常識的(道徳的)である。それら全ては“教えられ、信じ込まされてきた事”。つまり『主人公』ではなく、“操り人形”であるということ。それが抽象的不安や具体的恐怖である“苦しみ”を生んでいること。それ故に、己の幸せ(大安心の境地)を己自身で放棄していることも解るだろう。『今・此処の己』は、瞬間的な現象である。勿論、生まれたときも裸、死ぬ時も裸。その上、人間は例外なくあるにも関わらず、自分が生まれた事、死んだ事を体感できない。生まれて来た。生きている。死にそうだを想像するだけ。その想像もソーシャルマインドコントロールによって思い込んでいる“社会の常識”という幻想。お節介な拙僧としては、まだまだ書きたいのだが『知らなければならないが、教えられてはならない』とは、『自ら学べ』ということ。それが“禅の真髄”なのである。繰り返しになるが、本当の『学び』は体験からしか生まれない。教えられたものは、時間的合理性の観点からは便利であるが、記憶して変性され先入観(潜入感)の源泉になり、結局は“苦”の根幹になるだけなのだ。つまり、公案は言葉の体系のように思われているが、真実は、『体験の促し』であり、体験の解釈の結果を点検するのが師なのである。
今日は、これをかみ締めながら坐るように。
一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★因みに、“あなた≒私”は“今”、何に坐っていますか?
投稿者 echi : 2007年06月07日 08:24