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2007年06月26日

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

 禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷(固体)と水(液体)と雲(気体)という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず36度程度で体重の75%程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。
 つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的(便法的だが)な苦を主観的な苦と認識しなくなりm主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。
 結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。
 『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』

一日一生 慧智(070626)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 2007年06月26日 11:22

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