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2007年06月22日

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

 論語の為政篇に、子曰く「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という件がある。孔子は“学問”と“思索”を独立概念としてとらえていたのか、それとも補完概念と考えていたかは、個々の研究者の解釈に委ね、ここでは前出の句を“禅の眼”で観ることにする。すると、禅という“一如”の発想ではなく、“道徳や倫理”に繋がる“二つ分かれ”からの発想だということが解る。つまり、「すべき事とすべきでない事」という雰囲気があることに気付くだろう。
 つまり、禅では父母未生以前、隻手音声から類推できるように、“二つ別れの前”に本質、原理原則を見て、眼前の事実(その背景)こそが本質・真理は“投影”と考えている。拙僧は“それ”こそが『百尺竿頭の世界と其処から飛び降りた処の世界の違いだと思っている。
 さて、孔子の『学び』とは何だろう。それは孔子の他の言葉から伺えるように書物や経験など他人からの借り物の“知”を意味している。また、『思い』は、知を純粋化してゆく中での独り善がりの”痴”を意味している。つまりそれは学者の発想であり、止揚することで“統合化”する考えか方に他ならない。それは確かに単純な体験や経験を広く深い“智”にすることは出来るだろうが、所詮は頭の理解であって簡単には体に浸透はしないだろう。それ故、禅における“今・此処”の悟りのように過去と未来の活動を劇的に変え力には成り得ないので、拙僧は“それだけ”では不十分だと考えている。言い換えると“智”は日々の行動に活きてこそ完成する“叡智・智慧”であり『本質』だと思っているからである。
 本質(智慧)に辿り着く道が『坐禅』であるのだが、坐禅も坐禅だけでは不十分で、坐禅の初期で得られるのは“痴(偏見)”であり、それは作務を通じて“智(真理)”となり、室内において『叡智・智慧』となり、更に聖賢の書・言葉、日々の事実、気付き、行動を通じて無相の相たる“般若(全身に染み込んだ智慧)”に至るのが“禅”である事を全身で知っているからである。
 さて、現在は“頭でっかち”の時代と見ている。そういう拙僧も“その傾向”が無くも無いのは自覚しているが、それを踏まえつつ話すので聞いて欲しい。頭でっかちとは、一億総評論家を意味していると考えて欲しい。
 過日、政府の『教育再生会議』の反主流はのメンバーと以下のような話をした。員「この会議の本質は何だろう。議論が盛り上がれば盛り上がるほど考えてします」僧「なるほど。つまり、コンセプト(概略)を作るのが使命なら枝葉末節に偏りすぎ、ワークが使命なら抽象的で感傷的である、と感じているのではないか?」
委員:「正しく、その通り」
拙僧:「そもそも『教育再生会議』という表現は誤りだとワシは思う。正しくは『“公”教育再生会議』が正しく、国民を勘違いへ誘い込もうとする邪心はみえみえである。勿論、政府系権力が公的教育を支配するのは、国民から付託された権限の一つではあるが“全て”ではない。つまり、『私教育(家庭教育を含む)』の自由を奪う権利はない。教育という知育・徳育・体育(行動)、頭・心・体(行動)が『同質』となる“躾”であり、本質的には“親”の責任である。勿論、現代のような情報化時代においては、継続的に体系化された知識は学校でしか出来ないだろう。だからこそ、平均的な学習は公立学校の役割であり、家庭の役割は“心”を中心的にしたものであることは確かである。何故なら、躾とは“家庭の文化”であり、国により平準化・標準化されるべきものでは無い。言い換えると、民族の未来を担う現在の責任である。
 美徳の国“日本”から“徳”を取り去り、私利私欲の為に、子供に悪影響を与えている原点は一部の政治家と一部の役人の行動である。二次答申の中にも、“道徳教育”に中途半端に言及し、“親学(親としての子育ての常識を学ぶ事)”の必要性を述べているが、教育(子育て)に迷った時に戻る『依って立つ』拠り処”、便爾“価値基準”を明確にしないところに根本的な問題がある。それは、諸悪の根源が“頭でっかちで偏見に満ちた”リーダーを選んだ国民の無智にあるということだ。そもそも“再生”というなら“いつの時代が理想であり、どの状態に戻す”のだろうか。それが示されていなければ『再生』の意味が解っていないことになる。委員「では、どうすればば良いか」
拙僧「禅が全てだなどと言うつもりは無いが、せめて儒教・道教・仏教の基本的な知識論語程度は持っているメンバーに入れ替えないとならんな」
拙僧:「考えてもみろ。日本にとって維新から戦後の最悪の時代でも、優秀な人間は出ているし、彼らが今の礎となっいる。それは頭より心を重視した『意欲と志』があったからだ。
拙僧「今、問題とすべきは国際社会を比較の対象とする『相対的な成績の低下や、犯罪の低年齢化などなどではなく、『日本の理想像(目的)』を示しつつ目標を明確にすべきせで、それが出来ない政府の無智を正す事である。
拙僧:日本は“美徳”の国であり、法律で雁字搦めにした懲役列島ではない。・・・・。
 
 この先は文字にするのが憚られる様な教育再生会議の呆れた内幕が告白された。
 教育は、100人居れば100人の教育論があるだろう。だから、それを一本化するような事をせず、政府は選択肢を用意し国民が選択権を行使できるようにすれば良いだけである。だが、子供の教育を云々する前に“政治家と親と教師の教育”を見直すことが先だ。品格も無ければ人間力も無い政治家を当選させない選挙制度の確立が遠回りなようで近道である。(続く予定)

一日一生 慧智(070621)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 2007年06月22日 06:01

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