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2007年06月19日
●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』
他力のシンボルが“神”、自力のシンボルが“仏”。神は己の外にあり、仏は己の内にある。神は己に対峙する絶対者、仏は己その者の本質。神は彼の世にあり、仏は此の世にある。権力の為に殉死すれば神、己の為に殉死すれば仏。神は文学的経験、仏は現実的体験。神は組織行動、仏は独立独歩。神は自由を奪い、仏は自由を説く。神は殺し、仏は活かす。神は“特別な人間(特定の場所を与えた)”を幻想させ、仏は“普通(普く世界で通用する人間を自覚させる。神は随わぬ者を罰し、仏は随わぬ者も受け容れる。神は“霊”、仏は“魂”。神は“御告げ”、仏は“悟り”。
最近、この“当たり前”が忘れられている。否、故意に歪められている。それは何故か。 また、仏教宗派の中には仏を方便以上に神格化した“如来”を崇拝し他宗を否定するところがあるが、それは何故か。更に、新興宗教の中には極めて独裁的(教祖崇拝)なもの(所謂カルト)があると聞いたが真偽の程は解らないながら、葬儀に徒党を組んで乗り込み、葬儀そのものの主導権争いをしたり、香典を着服して故人宅に上がりこんでは、既存の仏壇を破壊して新しい仏壇に入れ替えたり、墓地を売りつけている会があるという。思想信条、信教の自由が憲法に定められている我が国で、そんな暴挙や邪道が罷り通るとは思わないが、仮にあるとするなら、それは“マルチ商法”の一つか“講”の過激版で自らの組織の力を維持発展させるために考案された集金システムであり場合によれば政治活動と絡んでいるとしか思えないし、少なくともそのような団体は仏教団体ではなく、カルト集団(教団)に違いない。
仏教は“来る者は拒まず、去る者は追わず”。凡夫即菩薩、煩悩即菩提。考え方は深さ(経)の違いであり、幅(緯)ではない。経てなれば“道”、緯なれば“椅子”。道は誰でも歩めるが、椅子には限りがあり、“椅子取り”となると対立が起こるのは自明の理であり、過去の多くの戦争は、その“椅子取り”合戦がエスカレートしたものだ。勿論、『経ての道(大道という)』には、多数の分岐があるが、皆、出発点も終着点も同じで門は無く、出入り自由なはずだが・・・。
さて、本題だが、“祈り”と“誓い”について禅士諸君は前出から類推すれば大凡の見当は付いているだろう。“祈り(祈願)は完全な他力であり、“誓い(誓願)”は完全なる自力なのだが、それは極論であり、両忘すれば同じこと。つまり、祈るか誓うかは当人の心の問題であり、事実という枝葉末節は複雑だが、真理は大幹根底は単純であるからして、大した問題ではない。そもそも“自他一如”とは自力と他力は表裏一体ということなんです。キリスト菩薩にマリア観音、アラーもユダも皆菩薩。それで良い。鰯の頭だってカラスだって御本尊。大いに結構。
さてさて、前出の疑問に皆は如何応える。
一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成
投稿者 echi : 2007年06月19日 13:40