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2007年06月28日

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろう。この一句は『心随万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』という二十二世の摩拏羅尊者(まだらそんじゃ)の偈で、「心は蟠りがなければ臨機応変に働くが、納得が行かない事があったりするとパニックになり、流れが滞り臨機応変は失われるので、喜怒哀楽に心は忙殺される」という感じだろう。人によっては、人生は“喜怒哀楽”があるから楽しい、という。確かに、己の過去を顧みれば解らんでも無いが、禅坊主であり、ストレス心理学、精神身体医学を学んだものとしては、喜怒哀楽の振れ幅の大きい者は、早死にすることを知っている。師のハンス・セリ博士は亡くなられる少し前に「ストレスは人生のスパイスだ」と言われたが、その言葉の裏には、真理を掴みつつも自己否定を嫌った師の個性がある。
 心の乱れが死を急がせることは、免疫系・内分泌系・神経系の不調和であることは解るだろう。そして、心が乱れていれば“自由”を失い臨機応変・融通無碍に暮らせず、心は何かに囚われ、何かに拘り、結果的に偏った考え方が、更なる窮地へと引き込む。これが“悪循環”というものである。つまり、心が万鏡に随わずに、見えているものを見ず、見えないものを見てしまうということだ。心が自由であれば、死ぬ時は死ぬ、生きる時は生きる。暑い時は暑い・・・。それらを評価せず差別せずに受け容れられる。正に“あるべきよう”であり、素直に生きることである。勘違いをして欲しくないのは、暑い時は暑いから、暑いと騒ぎ、暑さを征服しようとする心が起きるのは“素直では無い”ということで、暑い時は暑いように、動きはゆっくりと、4時には起床し午前中には一日の生きてゆくための仕事を全て終わらせ、昼は休み、夕方からはより善く生きてゆけるための勉学に時間を使うのが“素直”ということだ。だからこそ自分が『主人公』で『随所作主』、相対的な考えから絶対的な考え、枝葉末節から本質、喜怒哀楽から安心へという生き方の転換が必要なのです。その転換には『坐禅』以外の方法は万民向きではなく、出来る人と出来ない人が出る。坐禅は“安楽の法門”であり、正しい指導を受ければ個性や価値観に関係なく心身の健康に寄与するし、拙僧のように余命宣言を無力化できる。
 昨日今日、高温多湿の日々だが、今日はエアコンを消し、身体を締め付ける物は外し、窓を大きく空け放し、明かりを消して一本の線香を灯して40分坐ってみよう。拙僧は今日は日本時間の午後11時から坐るので、時空を超えて心を通じ合おう。
 では、その時に。
 一日一生 慧智(070628)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 09:43 | コメント (0)

2007年06月26日

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

 禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷(固体)と水(液体)と雲(気体)という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず36度程度で体重の75%程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。
 つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的(便法的だが)な苦を主観的な苦と認識しなくなりm主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。
 結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。
 『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』

一日一生 慧智(070626)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 11:22 | コメント (0)

2007年06月25日

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

 仏陀とは「真理に目覚めた人」「覚者」という意味で、釈尊とは、釈迦という人間の尊称である。人間である釈尊(開祖)の悟りを追体験する宗教宗派が“禅宗”であり、そこに生きる生き方が“禅”であり、それを家風とするのが禅家である。また禅宗三派では達磨大和尚を禅宗初祖、連なる二祖を慧可大和尚、六祖慧能大和尚。その法燈を繋いでこられたのが歴代の祖師で、臨済宗の場合は臨済義玄大禅師を宗祖、栄西禅師を日本臨済宗の開祖、白隠禅師を臨済宗中興の祖、禅家に集う修行者を禅士・禅子、その師匠を禅師・禅匠・老師という場合が多いが、在家の修行者を禅士と言わず居士という場合もある。なお、鎌倉時代に日本において成立した臨済宗は、中国で成立した禅の一派で、禅匠である臨済義玄大和尚の禅風を伝える宗派で、日本臨済宗開祖の栄西大和尚が宋より伝え、現在に伝わる臨済宗各派の大半は鎌倉末期から室町期に活躍した『大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄』といういわゆる『応燈関』の流れにあり、江戸時代の白隠大和尚(禅師)を中興の祖として『心身一如』にある状態を意味する“dhyana(jana)”の音写を漢字に当てた禅那、そして坐を組んで己事究明、自己の本性を見徹することで『悟りを開く』≒釈尊の悟りを追体験し『禅定(心の完全なる自由状態)』に至らしめることを目的としている。なお、一般論として言えば、その悟りの境地は言葉や文字によって全てを説明することはできないという意味の『不立文字・教外別伝』、師と弟子の間の以心伝心で心から心へと伝わる『直指人心』をもって釈尊の心を伝えて仏となる『見性成仏』に帰着させるための方法が坐禅であるが、禅は目的・目標・手段を分けて考えないので、師が弟子の心頭一如の体得度を点検するために『公案』という問答の切っ掛けを使い、修行の成果を自覚させ、更に修業を深めさせる。なお、現在の日本においては江戸期の白隠禅師による古則公案の“体系化”が広く普及し、その大河は明治期の山本玄峰老師を経て末席の拙僧にも伝わって来ている。 つまり、我々は皆、釈尊の弟子であり法孫であるが故に、『“苦”の本質を理解体得し、苦を苦としない生き方』を“言葉を超えて率先垂範して普及する責任がある。なお、常識だろうが、仏教では苦の総体を「四苦八苦」と言い、四苦とは生・老・病・死(しょうろうびょうし)、八苦とは「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えたものをいう。
 さて、人間は、その質・量の違いこそあれ、四苦八苦を避けて通ることは出来ないだろう。それは釈尊も同じ。ワシも皆も同じである。言い換えれば、苦しみを苦しみと認識出来ない人間に宗教は無用だろう。ところで、そんな人間はいないはずなのに、宗教を否定する者が多いのは何故だろう。その上、宗教を否定する人間を観ると“気の毒な位に不幸”なのは何故だろう。それは“自由な心”という状態を解らないからで、見えない縄で自分を縛っている『無縄自縛』という状態にあるからである。言い換えると、何かに拘り・囚われ・偏った考え方にあるが故に、己自身を理解出来ていないのである。
 活人禅寺は『来る者は拒まず、去る者は追わず』を信条にしている関係で、“下心”のある者も来るし、本来は自他不二だが、明らかな下心がある者や朱に染まる者、つまり、利他より自利を優先する輩もいる。それでも、活人禅寺は信条を曲げない。否、“無心”である。ワシもしばしば利用されるし、たった一人だが浄財泥棒も居た。しかし、罪人を作るのが寺では無いので、その都度、学びを頂くが、それでも『他人を疑う心』は持ちたくない。どんな者でも、清く正しく幸せに生きたいはずである。しかし、それが思うに任せない。実は“それ”こそが僧侶の責任なのだ。
 釈尊は、修行に入って六年目の12月8日に暁の明星を見て活然(忽然)と大悟され活人となった。師が居ただろうか。寺があっただろうか。それは『己の師は今・此処に居る己自身だ』という気付きがあればこその”大悟”である。語呂合わせでは無いが活人禅寺は“大子(だいご”という地にある。ワシが癌に負けないで済んだのも大子の寺のおかげである。釈尊は6年の修行で35歳で大悟した。つまり己を師として大賢者となった。釈尊も我々と同じ人間である。釈尊に出来て、達磨に出来て、臨済に出来て、白隠に出来て、皆に出来ない訳は無い。祖師に共通するのは上辺に流されず本質は何かとトコトン考える大疑心と、本来の己に対して素直になり、本質が解るまで諦めない心があったことだ。物事は途中で止めるから“失敗”というゴールが出来る。しかし、何があっても止めなければ失敗は無い。失敗が無い事が“成功”なのだ。言い換えると大悟が成功ではなく、大悟に続く道を歩み続ける事が成功なのである。ワシの人生も波乱万丈。3回も死に損なったが未だ生きている。考えると、為すべき何かが残っているからだろう。だから、「奇なる、奇なる、一切衆生皆如来の智慧徳相を具有せり。只、顛倒妄想の故に知ること能わず」と喝破する日を目指して生きる。誰が言ったかはどうでも良いが、「万物は天地人の三つの働きで成り立つ。天は理想、地は現実、人は実現」ということが言われる。それは、己の人生を宇宙と一体化し人生を大地に根を張り、万物の理想の実現のために現実の生活(事実)をしっかりと踏まえて生きていくべきである」ということだろう。幸せとは、あらゆる迷い、あらゆる苦しみから解き放され状態である。それには、無限の空間、悠久の時間を超越し、物事に拘らず動物、植物、鉱物とを問わず、賢愚の別なく、全て公平で公正な生き方を志すのが大前提である。“起きて半畳、寝て一畳”、空っ手で生まれ、空っ手で死ぬ。どんな生きても百年そこそこ。その上、誰でも明日生きている保証は無い。誰だって“今・此処・己”のみが現実である。釈尊であっても最初はたった六人からのスタートで、80歳で大遷化されるまで行雲流水の如く、三衣一鉢以外持たず、乞食(托鉢)されインドの各地を説法して回った。時代が変わっても釈尊に出来て我々に出来ない事は無い。勿論、方法は異なるだろう。しかし、ワシはワシを含めて皆にも出来ることだと信じている。人間は“生き方”で価値が決まる。釈尊だって45年の行脚を行い80歳になった頃、生まれ故郷に向かう途中で鍛冶屋さんが差し上げた供物を食べ、腹痛で床に臥し、死を悟った時の説法が後に『遺教経』として伝わり、2月15日に大遷化(涅槃に入られた)された。
 末筆になるが、釈尊が『事実の無分別なる直視→本質の発見→教訓化(一転語化)→生き方の発明』という悟りへの流れは、四苦八苦の現実を直視し、苦の本質をつきとめ、苦しみを滅するために四諦八正道の教え説き『坐禅』を考案されたことを忘れずに、最後の最後まで諦めずに生きようではないか。
 何か、遺言めいた話になったが、痛みで一睡も出来ないと、ワシの辻説法のトーンも変わるようだ。まあ、良いか。誰も明日の事は解らんからな。 今日の説法はワシ自身に向けて書いたようなものだ。ワシも弱い人間だということだな。
一日一生 生き恥を曝している野狐禅和尚 慧智(070625)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

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2007年06月22日

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

 論語の為政篇に、子曰く「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という件がある。孔子は“学問”と“思索”を独立概念としてとらえていたのか、それとも補完概念と考えていたかは、個々の研究者の解釈に委ね、ここでは前出の句を“禅の眼”で観ることにする。すると、禅という“一如”の発想ではなく、“道徳や倫理”に繋がる“二つ分かれ”からの発想だということが解る。つまり、「すべき事とすべきでない事」という雰囲気があることに気付くだろう。
 つまり、禅では父母未生以前、隻手音声から類推できるように、“二つ別れの前”に本質、原理原則を見て、眼前の事実(その背景)こそが本質・真理は“投影”と考えている。拙僧は“それ”こそが『百尺竿頭の世界と其処から飛び降りた処の世界の違いだと思っている。
 さて、孔子の『学び』とは何だろう。それは孔子の他の言葉から伺えるように書物や経験など他人からの借り物の“知”を意味している。また、『思い』は、知を純粋化してゆく中での独り善がりの”痴”を意味している。つまりそれは学者の発想であり、止揚することで“統合化”する考えか方に他ならない。それは確かに単純な体験や経験を広く深い“智”にすることは出来るだろうが、所詮は頭の理解であって簡単には体に浸透はしないだろう。それ故、禅における“今・此処”の悟りのように過去と未来の活動を劇的に変え力には成り得ないので、拙僧は“それだけ”では不十分だと考えている。言い換えると“智”は日々の行動に活きてこそ完成する“叡智・智慧”であり『本質』だと思っているからである。
 本質(智慧)に辿り着く道が『坐禅』であるのだが、坐禅も坐禅だけでは不十分で、坐禅の初期で得られるのは“痴(偏見)”であり、それは作務を通じて“智(真理)”となり、室内において『叡智・智慧』となり、更に聖賢の書・言葉、日々の事実、気付き、行動を通じて無相の相たる“般若(全身に染み込んだ智慧)”に至るのが“禅”である事を全身で知っているからである。
 さて、現在は“頭でっかち”の時代と見ている。そういう拙僧も“その傾向”が無くも無いのは自覚しているが、それを踏まえつつ話すので聞いて欲しい。頭でっかちとは、一億総評論家を意味していると考えて欲しい。
 過日、政府の『教育再生会議』の反主流はのメンバーと以下のような話をした。員「この会議の本質は何だろう。議論が盛り上がれば盛り上がるほど考えてします」僧「なるほど。つまり、コンセプト(概略)を作るのが使命なら枝葉末節に偏りすぎ、ワークが使命なら抽象的で感傷的である、と感じているのではないか?」
委員:「正しく、その通り」
拙僧:「そもそも『教育再生会議』という表現は誤りだとワシは思う。正しくは『“公”教育再生会議』が正しく、国民を勘違いへ誘い込もうとする邪心はみえみえである。勿論、政府系権力が公的教育を支配するのは、国民から付託された権限の一つではあるが“全て”ではない。つまり、『私教育(家庭教育を含む)』の自由を奪う権利はない。教育という知育・徳育・体育(行動)、頭・心・体(行動)が『同質』となる“躾”であり、本質的には“親”の責任である。勿論、現代のような情報化時代においては、継続的に体系化された知識は学校でしか出来ないだろう。だからこそ、平均的な学習は公立学校の役割であり、家庭の役割は“心”を中心的にしたものであることは確かである。何故なら、躾とは“家庭の文化”であり、国により平準化・標準化されるべきものでは無い。言い換えると、民族の未来を担う現在の責任である。
 美徳の国“日本”から“徳”を取り去り、私利私欲の為に、子供に悪影響を与えている原点は一部の政治家と一部の役人の行動である。二次答申の中にも、“道徳教育”に中途半端に言及し、“親学(親としての子育ての常識を学ぶ事)”の必要性を述べているが、教育(子育て)に迷った時に戻る『依って立つ』拠り処”、便爾“価値基準”を明確にしないところに根本的な問題がある。それは、諸悪の根源が“頭でっかちで偏見に満ちた”リーダーを選んだ国民の無智にあるということだ。そもそも“再生”というなら“いつの時代が理想であり、どの状態に戻す”のだろうか。それが示されていなければ『再生』の意味が解っていないことになる。委員「では、どうすればば良いか」
拙僧「禅が全てだなどと言うつもりは無いが、せめて儒教・道教・仏教の基本的な知識論語程度は持っているメンバーに入れ替えないとならんな」
拙僧:「考えてもみろ。日本にとって維新から戦後の最悪の時代でも、優秀な人間は出ているし、彼らが今の礎となっいる。それは頭より心を重視した『意欲と志』があったからだ。
拙僧「今、問題とすべきは国際社会を比較の対象とする『相対的な成績の低下や、犯罪の低年齢化などなどではなく、『日本の理想像(目的)』を示しつつ目標を明確にすべきせで、それが出来ない政府の無智を正す事である。
拙僧:日本は“美徳”の国であり、法律で雁字搦めにした懲役列島ではない。・・・・。
 
 この先は文字にするのが憚られる様な教育再生会議の呆れた内幕が告白された。
 教育は、100人居れば100人の教育論があるだろう。だから、それを一本化するような事をせず、政府は選択肢を用意し国民が選択権を行使できるようにすれば良いだけである。だが、子供の教育を云々する前に“政治家と親と教師の教育”を見直すことが先だ。品格も無ければ人間力も無い政治家を当選させない選挙制度の確立が遠回りなようで近道である。(続く予定)

一日一生 慧智(070621)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

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2007年06月20日

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

 子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。
 ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。
 そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。
 つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』
は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。
 しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。
 釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。
 さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。
 『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。

一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
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2007年06月19日

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

 他力のシンボルが“神”、自力のシンボルが“仏”。神は己の外にあり、仏は己の内にある。神は己に対峙する絶対者、仏は己その者の本質。神は彼の世にあり、仏は此の世にある。権力の為に殉死すれば神、己の為に殉死すれば仏。神は文学的経験、仏は現実的体験。神は組織行動、仏は独立独歩。神は自由を奪い、仏は自由を説く。神は殺し、仏は活かす。神は“特別な人間(特定の場所を与えた)”を幻想させ、仏は“普通(普く世界で通用する人間を自覚させる。神は随わぬ者を罰し、仏は随わぬ者も受け容れる。神は“霊”、仏は“魂”。神は“御告げ”、仏は“悟り”。
 最近、この“当たり前”が忘れられている。否、故意に歪められている。それは何故か。 また、仏教宗派の中には仏を方便以上に神格化した“如来”を崇拝し他宗を否定するところがあるが、それは何故か。更に、新興宗教の中には極めて独裁的(教祖崇拝)なもの(所謂カルト)があると聞いたが真偽の程は解らないながら、葬儀に徒党を組んで乗り込み、葬儀そのものの主導権争いをしたり、香典を着服して故人宅に上がりこんでは、既存の仏壇を破壊して新しい仏壇に入れ替えたり、墓地を売りつけている会があるという。思想信条、信教の自由が憲法に定められている我が国で、そんな暴挙や邪道が罷り通るとは思わないが、仮にあるとするなら、それは“マルチ商法”の一つか“講”の過激版で自らの組織の力を維持発展させるために考案された集金システムであり場合によれば政治活動と絡んでいるとしか思えないし、少なくともそのような団体は仏教団体ではなく、カルト集団(教団)に違いない。
 仏教は“来る者は拒まず、去る者は追わず”。凡夫即菩薩、煩悩即菩提。考え方は深さ(経)の違いであり、幅(緯)ではない。経てなれば“道”、緯なれば“椅子”。道は誰でも歩めるが、椅子には限りがあり、“椅子取り”となると対立が起こるのは自明の理であり、過去の多くの戦争は、その“椅子取り”合戦がエスカレートしたものだ。勿論、『経ての道(大道という)』には、多数の分岐があるが、皆、出発点も終着点も同じで門は無く、出入り自由なはずだが・・・。
 さて、本題だが、“祈り”と“誓い”について禅士諸君は前出から類推すれば大凡の見当は付いているだろう。“祈り(祈願)は完全な他力であり、“誓い(誓願)”は完全なる自力なのだが、それは極論であり、両忘すれば同じこと。つまり、祈るか誓うかは当人の心の問題であり、事実という枝葉末節は複雑だが、真理は大幹根底は単純であるからして、大した問題ではない。そもそも“自他一如”とは自力と他力は表裏一体ということなんです。キリスト菩薩にマリア観音、アラーもユダも皆菩薩。それで良い。鰯の頭だってカラスだって御本尊。大いに結構。
 さてさて、前出の疑問に皆は如何応える。
一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

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2007年06月17日

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

 例えば風邪をひく。二元論的にはウイルスに感染したのが原因。間違いは無い。しかし、ウイルスが充満している部屋にいて風邪をひく者とひかない者に分かれる。何故か。二元論的に言えば、免疫力が落ちている者が感染し、免疫力がある者は感染しない。間違いない。では、免疫力はどんな理由で上がり下がりするのか。二元論的に言えば、ストレスが原因となる。ストレスは身体的と心理的と分けられる。栄養失調、体力低下、怪我や病気のようなものが身体的要因。不安や不信に伴う被害の予感などの心配事、焦り、競争、不満、悲しみ、度の過ぎた喜び・・・などが心理的要因。言い換えれば、個体の免疫力が最高値を示すのは、『満足では無いが不満との言えない状態』、つまり“喜怒哀楽”に変化が少ない状態で、『病気や怪我と認識する程では無いが、健康体そのものでも無い状態』である。勿論。それらの認識には、個体差、個別的特長、つまり個性の違いが大きく影響するので、“同じ事実”であっても感じ方、認識は質的にも量的にも差が大きい。言い換えれば、あらゆる事象に対して“悲観論者でも楽観論者でも”まずい。勿論、悲観論者より楽観論者の方が“ストレス耐性”が高いのは事実だが、認識することと体が認知することは異な、免疫力に与える影響に差異は小さい。
 つまり、どうして風邪をひくかと言えば、『分別妄想(煩悩)により無(自)縄自縛となり、心が乱れ、『自由(自ずからの由:自ずから然るべき状態)』を失うことで、ストレス因子を感知して無意識な抵抗で心身の疲憊が進行し、やがては当該個体の“免疫力”を弱体化させ、病名の付いている病気の95%を発病させるし、ストレスが心の免疫力を蝕んだ結果“怪我”や“事故”に遭遇する確率が高まることから、『ストレスを要因として免疫力が非弱化して怪我や病気が増す』という一見“風が吹けば桶屋が儲かる”的な現実があるのが“人体”であり、人体の生理機能が投影したのが“社会”である以上、個人のストレスが個人の心身のみならず社会が“病変”するのである。
 ここ50年の精神身体医学の進歩が、欧米的な心身二元論を消耗させ、東洋的な心身一元論が注目を浴びている。極論を言えば、権力者のストレス、免疫力を変数として“戦争”すら勃発するのである。その事を2500年前に解明していた釈尊(仏教徒)は、戦争の加害者(攻撃者)に現代に至るまで無く、権力者のストレス状態から十字架に掛けられて罪人として処刑されたキリストを崇拝する信者は、史実として確認されている4000回余りの戦争うち、約80%の戦いの当事者なのである。それ故に、戦争という集団的ヒステリー状態、ストレス状態が“競争・破壊・略奪・洗脳(宗教の押し付け)”の権化がキリスト教徒の特徴であり、無抵抗が特徴の仏教徒と全くことなる文化を築いているのである。言い換えれば“愛の宗教”と“慈悲の宗教”という社会基盤が180度異なるが故に、性悪説をとるキリスト教に対し性然説をとる仏教という図式が攻撃的リーダーシップ文化と守備的マネジメントの文化を生み出し、今日に至っているのである。
 前出のような言葉による説明は“分析・還元論の二元論”が有利だが、その分析の結果“一元論”に傾きつつあり、二元論の文化は一元論に向かい、一元論の文化は二元論に向かい、欧米に“禅”が広がり、アジアにキリスト教が広がりつつあるという捩じれ現象がおき、東西問題が縮小し、南北問題が拡大しつつあるのも“現代”という時代なのである。
 人間は60兆の植物性細胞と動物性細胞の共生体であり、細胞は分子構造・原子構造・素粒子・量子の構造を持ち、最終的には“力(波と粒子)に帰結し『色不異空=空不異色、色即是空=空即是色』『不生不滅、不垢不浄、不増不減』・・・で語りつくされているのである。故に『一切皆空』であり『物心一如』である故に“一元論”こそが“真理”への道なのである。この辺りは白隠禅師坐禅和讃』が優しく解説している。
 さて、表題について解いみよう。禅は“拘らず・囚われず・偏らず”と言いつつ、一元論に偏り・拘り・囚われているという言い方をする者があるが、実は『禅』は、釈尊の心そのものを拠り処にしており一元論でも二元論でもなく“無元論”と解釈と言った方が解りやすい。しかし、一般大衆に“無”を説明するのは難しく、まあ大きな括りから言えば“一元論としておこう”と鈴木大拙師らは語っていた。西田幾多郎先生と同級生で竹馬の友である二人が、若き時代、共に数学に心を向けていたいたが、夫々が『宗教学と哲学』という似て非なる道を歩んだのもお“その辺り”の微妙な理解が異なったからだと聞いている。
 さて、話を戻して、表題の『心身一如』についてだが、賢明な読者は既に読み取っているだろうが、『風邪』と『心身症』の原因は生育環境での価値観の異なりなどを除いては極めて類似し、『心身症』は“心の風邪”のようなもの、現代では、誰でもが“予備軍”であり、明日は吾身なおである。
 念のために以下に般若心経を書いておくので、ゆっくりと読んでみよう。多分“心身一如”が理解できるだろう。そして、出来れば“人生観・生命観”が変わるだろう。つまり、『競争より協奏』、『無対立・無犠牲・自主独立・一日一生』の意味は簡単に理解できるようになるということだ。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶、般若心経

一日一生 慧智(070617)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

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2007年06月15日

●第1084話 『六道輪廻(3)』

 地獄という場所、浄土という場所など無い。しかし、“その心”はある。一日一生として、一日を「働く・学ぶ・寝る」を三分割して考えても、その時、その一瞬の心がある。
『餓鬼(がき)』のように金の為にガツガツと働き、物や力に飢え、焦りを覚えるような時。
 『畜生(ちくしょう)』のようにセックスを求め、美食を求め、睡眠を求めて得られない不機嫌な時。
 『修羅(しゅら)』のように喜怒哀楽を表に出し、競争に負けまいとしてストレスいっぱいの不安な時。   『地獄(じごく)』のように、悩み・苦しみ・悲しみの中で四苦八苦している苦痛な時間。
 『菩薩(ぼさつ)』のように穏やかで心が安定している余裕のある時。
 『如来(にょらい)』のように何もかもが頂天にあるように満たされ誰の望みでも適えてあげたくなる時。
人間であれば、“如来の時”とまで言わないが、せめて“菩薩の時”だけを過ごしたいと思うだろうが、それには何もかも投げ出して人里はなれた山中の叢林の篭らなければならないだろう。しかし、それは非現実的。その上、臭いものに蓋をするが如く、己のみの安楽感は得られるだろうが、それは本来の幸せには程遠いだろう。事実、不幸な人がいることを知っていて、知らぬ振りなんて出来るだろうか。本当に幸せになりたいなら、幸せにすることだろう。「他人の不幸は蜜の味」ということを言う人がいるが、暫くすると蜜の味が“ほろ苦い”ことを知るものだ。本当の幸せとは、全ての人々が争わず穏やかに菩薩のような生活が出来ている時に湧き上がる“心の状態”だろう。世の中には、菩薩のような顔をしていながら餓鬼、畜生、修羅、地獄の住民がいるのも確かだ。しかし、それに目くじらをたて、イライラしていては、己の幸せは遠のくばかり。だからと言って許していては罪を繰り返えし被害者が増えるだけ。そんな悩みを工夫で乗り越え、その世界からの脱出を支援する修行こそが『菩薩行』だろう。言い換えれば『経営者』は菩薩であるべきなのである。
 人生は『一日一生』の積み重ね。心の持ち方一つで、六道は輪廻する。だとしたら・・・。如来のような一切の見返りを期待しない慈善家。菩薩のように皆が幸せをつかめるように支援する経営者を目指し、六道を輪廻する毎日を修行と考え、少しでも己を磨き、菩薩、如来に近づこうではないか。
 活人禅寺は、餓鬼・畜生・修羅・地獄の時を苦しんでいる者が、一時でも菩薩の心を味わい、如来を目指す心が芽生えることを支援している寺である。
 明日、明後日は禅会。来る者は拒まないし、去る者は追わない禅会である。
この時期の参加者は少ないので、覗きに来て見なさい。
一日一生 慧智(070615)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月14日

●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

 ネット禅会に参加している方から「出家は僧侶になること思っていましたが、“在家出家”ということが他宗には有るようですが、出家の意味を教えてください」という質問をうけたので、活人禅宗としての見解を話そうと思います。元来、出家は、家を出て修行に入ることであり、柵を切り無一物となることです。そして、剃髪して仏門に入り仏に帰依する『得度』とセットになって初めて、『僧侶』になると言えます。
 つまり、僧侶の一大事は“柵から自由になる”、言い換えれば『解脱』する。言い換えれば家族や近親縁者と結ばれている“絆(きずな)”を100%断ち切り、全ての人間、全ての現象と公平無差別の絆を結ぶことと言えます。簡単に言えば、私有、所有という“愛着(煩悩)”や、父母兄弟姉妹への“愛情(煩悩)”を一旦は捨て、全ての現象や存在と“等距離”になること、即ち“慈悲”に生きることです。ですから、正しく、文字通りの『本来無一物』を生きることです。何か“仙人”のような感じがするでしょう。現実には、“煩悩の凝縮”といえる一人の人間を他の人間と差別し義務と権利の対象とする『結婚』が、仏門でも一般化し、本来無一物のはずが地所家作、車などの私有財産を持ち僧侶が多く居ます。つまり、職業としての僧侶、身分としての僧侶、生き方としての僧侶・・・、いろいろな僧侶がいます。それが現実であり、質問者が疑問を持つのは当然です。この説法でネット禅士の質問を取り上げたのは、快楽追求主義である自由主義・資本主義、禁欲主義と言われる共産主義や社会主義などを引き合いに出して、拙僧の考えを述べるためではなく、『~主義』という考えも捨てるのが出家得度だということを知らせたいから
です。偏らない心、囚われない心、拘らない心。それが本来の“自由”という心で、現実から逃避せず、“あるがまま”を受け入れて尚、自由に生きることが出家だと考えています。言い換えると、「したい事、すべき事」という心を捨て「出来る事」に生きることで、『出家』は物理的な問題ではなく、心の問題だと考えています。ですから、仏門に居ても出家ではない人もいれば、家にいて出家している人も居るのです。
 ところで、あなたは初対面の老婆と実母を無差別公平に扱えますか。扱えれば出家、扱うことが出来なければ在家です。『性愛から始まり族愛、理愛、博愛というプロセスを通じて慈悲に至る』のが人間です。そして。それらの段階は重畳的に現象し続けつつ重みが変わってくるのが人間の成長です。例えば物欲は性愛+族愛+理愛の投影であり、やさしさは、博愛までのプロセズの全ての投影、受容は慈悲までにプロセスの全ての投影なのです。ですから、出家は『煩悩を踏まえつつ慈悲に生きること』だと考えています。
一日一生 慧智(070614)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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●第1083話 『己の外に仏なし』

 仏は心であり、脳のOSであると感じる事が時々ある。つまり、それは脳がCPU(中央処理装置)、つまりコンピュータの構成要素で、内外装された装置の制御やデータ処理を行なう機能を持ち、記憶(蓄えられた情報、メモリ)をプログラムを実行する役割を持つ“部分”で、所謂、『入力→変換→出力』という力や情報の処理の中心で、動物の『五感→脳→運動』を基本としつつ、入力が無くても出力が出来る“人間”の特徴、即ち『五感→記憶→変換→行為』という流れから考えると、『“心”≒“仏”≒記憶変換装置』なのである。つまり、心は特定の臓器ではないという場合は、『感じない・思考しない・動かない』、脳は心だという場合は『五感・記憶・変換・行為』の一連をいうことになる。言い換えれば、宇宙(物理的)や社会(心理的)と幅広い情報交換を行ないながら、必要と考えた時に情報を処理して行為するのが、“心”と言える。勿論、コンピュータは脳を基本モデルとして目標にしつつ、人間の心の再現を目的に考案され、製作され、日々進化し、現在では脳の機能の一部は超越し、心に似た動きが出来るようになっているが、生物の脳はその生物の脳の機能を超える世界は作れないことは衆知されている。しかし、それは個人の脳が器質的に同じである“機械”と考えてのことで、地球で最も知能の高い人間が作成したコンピュータは、その彼の心をも引き継ぐために、全ての価値観を壊してしまう可能性を秘めている。
 ここで考えたいのは、一人の“心”は他の人の行動を情報源にしたり、他の人の心を自分の心が感じて二つの心がシンクロしたりするという経験的な事実は、心は地球であり、全ての物質現象、生命現象から切り離しては“一人の心”は現象できないということ。つまり、『己の外(ほか)に仏なし』が真理だということである。そして、その真理を、ある人は“神”と名付け、“仏”と名付け、“天然”などと名付けているだけなのかもしれないと、ということである。言い換えると、現象に対して人間が名付けた名称、それに担わせた意味などは、例外なく便法であり、便宜的なもので、それを“絶対”として論理展開したり、自由連想したりするのは、瞬間的なことで、実体など無いということである。
この話を“私の脳力”で、万民に理解できるように事例を引いて語るためためには“本一冊分”は最低でも必要なので、ここらで良寛和尚の力を借りてみる。
  
◆良寛さんの原文
仏是自心作 道亦非有為    
報爾能信受 勿傍外頭之    
北轅而向越 早晩到著時    

◆慧智の読み下し文
仏は是れ自心の作にて、道は亦た有為に非ず。
爾に報じ能く信受して、外頭にそうてゆく勿れ。
ながえを北にして越に向わば、いつか到著する時ならん。

◆慧智の超超訳
仏は自らの心がつくり、道は有為ではない(無為だということ)。
汝はこれを受け止め、外事に追随するな。
舵を北にして越に向っても、いつそこへ至り着けるだろう。

一日一生 慧智(070614)久々に体温が42度を超え、全身に痙攣が走った。またも“生きているな”と感じさせてもらった。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37 | コメント (0)

2007年06月13日

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

 拝金主義、拝物主義の“美しい日本”。金と地位が「人間の価値を決める」と豪語する者が多い金融、不動産、IT関連の若き経営者。勝組負組を構造化し権力の座を維持しようとする二世三世の政治家などなど、巷に跳梁が闊歩しているのは教育の荒廃が大きな要因になっているのだろう。所謂“格差”は、本々一つのあらゆる現象を二分三分し、無限に分かれたものを二極化することから始まる現象である。例えば人間を男と女、貧と富、美と醜、善と悪・・・。本来は“統合し調和させ融合する”方向へ進むべき道が誤った方向に進んでいる。その仕組みの原因は、神経系を持つ生物であれば具有しているが、その機能が暴走しないように内分泌系と免疫系があるが、機能不全になっているのかもしれない。二律背反の源泉であるデジタル系は神経系の産物。統合融合の源泉であるアナログ系は内分泌系の産物。そして、自己と非自己という判断の源泉である免疫系。生体に異変があれば、3つの系が同時に活動して生命を守り、進化への情報を収集しつつ成長させる。現代科学では随分前に発見されているし、生物の生理機能が外部にとうえいしたものが、その生物の社会・世界であるということも理解されている。にも関わらず、その知見が生きていない。言い換えると、人間が病むから社会が病み、社会が病むから人間が病むのである。このような状態にある世界は、対症療法は病巣を慢性化させ、症状を助長強化させるので、根本療法と併用しなければ何れは滅亡する。
 表題の『人生、如何に生きるか』ということを出来るだけ多くの者が真剣に考える事が根本療法への道を開くことになる。人は夫々で、一つの考えに偏り、拘り、囚われてはならないのは当然のこと故、何を考えるかは自由。本来は前提も不要。しかし、白い布に染みが付いた場合は、染める前に染み抜きをするのと同様に、何事によらず、一つの考えに固執せずに、『対立』は避け、多くの考えを受容し、本質の部分において“満足ではないだろうが不満とまでは言えない”『中庸』を模索することだけは約束事にしたいものである。そうすれば“多数決”という強者の切り札を使わずに済む。多数決という横暴が罷り通るから政治は荒廃し、『美徳の国』から“徳”を奪いさり利権を貪る者が鼠算式に増えるのだ。それに随い経済、教育、福祉・・、全てが後を追う。
 『人生を如何に生くるべきか』を一人ひとりが真剣に考えなければ明日の日本も人類も無くなる。“人間”を考えるとなると体系的な哲学という勉強が必要になるが、“己”を考えるには坐禅さえあれば宜しい。一日20分で良い。場所など何処でも良い。足を組まなくても良い。ただ、呼吸を整え、姿勢を正して半眼を維持し、現実・事実から逃げずに、それらの背後に流れる本質に目を向ける。それだけで良い。
  
 臨済宗大徳寺47世住持というには不似合いな一休宗純は、あらゆる権威を否定し、更に悟りさえも否定して、大徳寺に留まらず、庶民の中で生き抜いた拙僧など足下にも及ばない“真面目な破戒僧”であり、勝手に“師匠”にしている禅僧がおられた。一休禅師がある時、在家筋から家宝にしたいので一筆認めてくれと頼まれ、「けんかなぞせず、くらそじゃないか 末はたがいにこの姿・・」という賛を付け、一つの骸骨は自分自身、もう一つは喧嘩相手として二つの骸骨の絵を書きました。それから何を読み取るかは自由。しかhし、多くの者は「人生色々、人間関係も色々。だが、互いの行く末は“こんな姿(骸骨)”で、競い争うことなど愚の骨頂」と受け取る者が多い。
 また、“タクアン漬け”の考案者で、宝鏡寺等を再興した沢庵宗彭和尚は、一休さん後輩。同じ大徳寺の154世住持となるが、一休禅師同様に、三日で寺を捨て、書画・詩文・茶道を親しんだ自由闊達、融通無碍の禅僧で、周囲に武術家が集まったことからも類推できるように、「ことばにも、色に出して候ては、用心になり申さず候・・・」と言う和尚の心は、「常に備えつつ、その“備え”を表に出すな」というもの。禅でいうところの“無心の心”を生きた。つまり、人間関係は考えれば難しいが、相手と“二つ別れ”する前の状態を知れば、『無対立・無犠牲・自主独立』という生き方が出来ることを示している。勿論、“無”を知るには『坐禅』である。
 『人生、如何に生きるか』。それを考え尽くす。それは自分なりの“本当の幸せ”への道が開くこと。道が開けば、『手段も目標も目的』も一つであることが解る。つまり、『今・此処・己』が全てであることが解るのである。繰り返しになるが、過去は決定して戻ることも直すことも出来ない。未来は未だ来れず可能性以外に無い。そして今は、過去の結果であり未来の原因なのである。

一日一生 慧智(070613)癌センター待合室にて
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん

ことを』

投稿者 echi : 13:18 | コメント (0)

2007年06月12日

第1081話 ●良寛さんと遊びたい

●良寛和尚に「“仏”に会いましたか、会いますか」と訊ねると、どのように応えるだろう。そもそも問いを問いとして受け取ってくれるだろうか。それともニコっと微笑むのだろうか。もしかすると、毬を渡たされるかもしれない。まあ、想像がつくのは、大喝でも棒でもなく、今を淡々と生きているからこそ浮かび上がる自然な微笑みが返ってくるということだろう。

■良寛和尚の漢詩
過去己過去 未来尚未来    
現在復不住 展転無相依    
許多閑名字 意日強自為    
莫取旧時見 莫逐新条知    
懇々遍参窮 参之復窮之    
窮々至無心 始知従前非    

■慧智の読み下し
過去の己は過ぎ去り 未来は未だ来らず。
現在はまたとどまらず 展転して相依るなし。
あまたの閑に名字し ひねもす強いて自ら為す。
旧時の見を取る莫れ 新条の知を逐う莫れ。
懇々としてあまねく参窮し 之に参じ復た之を窮める。
窮め窮めて無心に至り 始めて従前の非を知らん。

■慧智の超超訳
過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ない。
現在はとどまらず、移り変わりの中に頼れるものはない。
多くの言葉を弄して閑を潰し、己を決め付けてはならない。
過去に固執せず、未来に囚われてもならない。
心を込めて広く体験し、さらに究め尽くせ。
究め尽くして無心に至れば、始めて過去の誤りに気付くだろう。

一日一生 慧智(070611)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月09日

●第1080話 『文教に随わず』

 文字や言葉は“葛藤(つたかずら+ふじ)”と表現されることがある。理由は“本質という根っ子”が幹や枝に撒きつく蔦を伴って成長するにつれ、複雑に絡み合い、何処が本やら先やら解らなくなるように、悩む必要も無いことに悩むことになるからだろう。正に“葛藤(カットウ)”が起きるのである。
 熱海の旅館組合の会長から聞いた話ですが、“とある温泉旅館”の実話だそうです。サービスと温泉と料理が素晴らしい、という噂が噂を呼んで人気が上がり、連日満室が続くので銀行から借金をして、本館に別館を付帯させ更に本館も別館も増築・改築を続けた結果、歩く距離が多すぎる旅館となり、客は言うに及ばず仲居さんすら館内で迷子になる始末となったそうです。そして、客は徐々に減っていったようです。笑い話のようですが、「旅館の使命とは何か」が途中から忘れられ、既成事実がエスカレートしたのでしょう。この話から学ぶことは多いですね。なお、旅館の名前を『葛藤荘』と改名することを奨めたいくらいですね。
 さて、現代は“二者択一”、サロー曰くのゼロサム時代(誰かが得をすれば誰かが損をする)と言われています。AかBか、勝つか負けるか、有るか無いかということである。
 また、シェイクスピアの「ハムレット」の中の名台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という西洋人の発想は、「生き死には自然の計らい」という東洋人の発想とは異なり、「生命や行動を支配するのは人間だ」という生命に対する“思い上がり”が見え隠れします。
 更に、西洋人は、特に産業革命以後、自然とは“征服”の対象である、と考えています。
一方、僅かな数になってしまったかもしれませんが、“西洋文明を盲従しない独立心のある東洋人は“万物共生”という人間も自然の一部として共に生きています。 『共生と征服』、この違いは大きいのです。皆さんは、完全に勝つ、完全に負ける、完全に正しい、完全に間違っているという事実を知っていますか?常識的に言えば“殺人”は完全に間違っていますか?それでは正当な防衛により相手を死に至らしめた場合や国家権力による死刑は“殺人”ではないということになります。
 さて、勝ち負けはどうでしょう。野球でもテニスでもゴルフでも、ルールを前提として勝ち負けを決めています。言い換えれば、ルールが変われば勝敗は逆転します。それでも完全と言えますか。全ては“相対的”なのです。本多勝一の『殺す側の論理』『殺される側の論理』を読んだことはありませんか。二元論(二項対立論)、つまり『有る』『無い』でも良いし、上と下、右と左、ゼロと一でも良いでしょうが、円を描いてみると、二元論者は“内か外か”を考え、一元論者は“線を観て“始まりも無く終わりも無い”と考えます。貴方は、どちらですか?何れにしろ、日常生活では多きな問題にはなりません。しかし、事、価値判断となると180度の違いが現れます。例えば対立が起きた場合、二元論者は裁判での白黒を望み、勝訴に向かいあらゆる策を講じます。一方、一元論者は、良し悪しは絶対的では無く、対立は堂々巡り(始まれば終わりは無い)になるので、自分も相手も満足ではないだろうが、不満とまでは言えない条件を考え“和解”しようとします。結果、二元論者同士ないし原告が二元論者で、被告が一元論者の場合に泥沼の争いが始まります。なお一元論者同士、原告側が一元論者で被告相当側が二元論者の場合には裁判になりません。前出の組み合わせによるトラブルで裁判が行なわれるのですから、当然に『勝訴と敗訴』が自分を完全な人間と勘違いした裁判官という不完全な人間により、白黒が決断された結果、勝った側は驕り、負けた側は恨みを残し、双方に問題を残こすことになります。一方後者の円に線に注目する一元論者は、勝ち負けを判断せず、双方が満足とは言えないが不満とまでは言えないという中庸を模索し「雨降って地固まる」という結果を模索します。これらの違いは『論理思考と情緒感覚』と言うことが出来ます。論理は“頭”、情緒は“心”です。勿論、真実は洋の東西を問わず『心頭は一如』です。それでも二元論者は“心と頭”、“心と体”を別の論理で考えます。霊魂だ魂だ、天国だ地獄だ、極楽浄土だ無限地獄のような人間が考えた二項対立、物理的には無いが心理的には有る”の真実であるにも関わらず、都合よく使い分けます。確かに二元論の考え方は単純な頭脳には便利なのですが、『限定的な合理性』しか持ちません。つまり二元論は、それが架空であれ実体であれ、『公正』には“基準”を必要とします。つまり、“前提”という概念が必要なのです。
 一方、一元論は“無(有無の無ではなく、有無が無いの“無”)”という発想から、公平、つまり無差別、無分別を重視します。簡単に言えば“王様”と“乞食”に本質的な違いは無く、人間としての価値は『平等』とみます。これらの違いは、記憶に新しいマリーアントワネットでも連想してください。時代も価値観も諸行無常。昨日は天下人、今日は断頭台。革命前後でもマリーアントワネットという人間は変わりませんが、回りが変わったために“生死”が逆転します。一元論はヒエラルキーを否定し皆平等に考えるので、例えば釈宗演老師の弟子の夏目漱石が学んだ福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を信条にしていましたし、勝海舟や山岡鉄舟らの西郷隆盛との交渉による江戸城無血開城などを参考にしても解るでしょう。現代風に言えば、『六本木ヒルズと断ボールハウス』か、『皆仲良く長屋暮らし』のような違いです。
 さて、一般に言われる頭の良い人は多くの場合は前者、二元論者です。ところが、今日のニュースからも解るだろうが、頭が良い人が必ずしも正しい訳ではなく、幸せ(大安心)である続けることはないのです。解りますか?。つまり、論理は無限に飛躍しつつ拡散し本質という“円の中心”に向わず、枝葉末節である“円の外”に向うのです。ですから“競争”は永遠、となるのです。
 一方、長屋暮らしであっても“心豊かな人”は、足るを知っていますから、必ず幸せです。現状に感謝し、現状を大事にしているのが一元論者の幸せなのですから、一生幸せなんです。勘違いしないで下さいね。一元論者は、現状は常に変化していることとして理解していますから、保守的ではなく融通無碍、自由自在なのです。
 さて、長くなったので終わりにしますが、表題の『文教に従わず』というのは、外から強制された考えに服従せず、己の感じている正しい道を何があろうと兀兀と進むと考えて良いでしょう。つまり、泥棒の被害にあえば、「罪を作らせたのは自分が悪い」と考えつつも、二度と罪を犯させないために取られた物を取り返すのではなく、必要な行動を起こすという感じです。因みに、二元論者は、事の背景などに関係なく、奪った側が加害者、奪われた側が被害者で、理由に関係なく白黒を着けて、奪われた物以上を取り返そうとします。
 さて、諸君、君達の“論”はどちらかな?。どちらとも取らないことについては如何に思うかな?
一日一生 慧智(070609)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
 

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2007年06月08日

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

 相変わらず上下によらず巷は騒がしい。こんな時は良寛和尚の漢詩を読むに限る。禅士諸君も坐る前に読んではどうかと思い、示しておく。教訓は『偏ること毋れ』である。百尺竿頭に着いて始めて半人前。聖から俗へ、そして俗から聖を渡り歩くことこそも“両忘”である。聖の是は俗の非かもしれないし、俗の是は聖の非かもしれないが、真実は是非一如なのである。己の信じる道こそ仏の道だが、己を信じても妄信してはならない。

◆良寛和尚の詩
昨日之所是 今日亦復非
今日之所是 安知非昨非    
是非無定端 得失難預期    
愚者膠其柱 何適不参差    
有智達其源 従容消歳時    
智愚両不取 始称有道児    

◆読み下し(慧智流であり、一般的かどうかは各位の判断))
昨日の是とせしところ 今日また非とす。
今日の是とせしところ いずくんぞ 昨の非にあらざるを知らん。
是非に定端なし 得失はあらかじめ期し難し。
愚者は其の柱をにわかとし いずくにゆくとしてしんしたらざらん
智あるは其の源に達し しょうようとして歳時を消す。
智愚ふたつながら取らずして 始めて有道の児と称す。

◆慧智の超訳
昨日、是であったことも、今日は非だということがある。
今日、是であっても昨日は非でないと、どうして解るだろう。
是であれ非であれ絶対ということはなく、何を得で、何を失かは予期できない。
愚者が是非を決め付けるが、食違いはどうしてもでるものだ。
智者は是非一如を知っているから、決め付けることなく悠悠と時を過ごす。
智愚を両忘出来てこそ、道を悟った人ということができる。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


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2007年06月07日

●第1078話 『公案は頭では解らない』

 禅士諸君。ここ数回の記述から気付いただろうが、『公案』は、頭では解けないのである。と同時に、室内において師と弟子が“同じ空間・時間”を共有し、即否定、即肯定が行なわれない限り、師は弟子の心を観ることが出来ないのである。同時に以心伝心、弟子もまた師の心を理解できない。ということで『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』の四句の意味が解るだろう。
 つまり、坐禅はネット上でも出来るし、夫々は毎朝生まれるように起き、毎夜死ぬように眠り、過去を変えることは出来ないし、未来を決定することも出来ない。“あれ・これ・それ”も思う通りにはならない。全ては“変数2であり、“縁”により今が現象していることも解っただろう。更には、言語学では“シニフィエ・シニフィアン”と表現するが、山は山であって山そのもではないのである。言葉・意味・実体が同一であることは保証されていないのである。言い換えれば、言葉や、常識という思い込み、それが作り出す先入観などで雁字搦めになっている己(それ“我”という)を毎日風呂に入り体を洗うように、心も風呂に入れて毎日の垢を落として死ぬ。そして生き帰るのが正しい生活(イキイキと生きる)だということは理解できただろう。何かを知っている。言語表現に長けている。常識的(道徳的)である。それら全ては“教えられ、信じ込まされてきた事”。つまり『主人公』ではなく、“操り人形”であるということ。それが抽象的不安や具体的恐怖である“苦しみ”を生んでいること。それ故に、己の幸せ(大安心の境地)を己自身で放棄していることも解るだろう。『今・此処の己』は、瞬間的な現象である。勿論、生まれたときも裸、死ぬ時も裸。その上、人間は例外なくあるにも関わらず、自分が生まれた事、死んだ事を体感できない。生まれて来た。生きている。死にそうだを想像するだけ。その想像もソーシャルマインドコントロールによって思い込んでいる“社会の常識”という幻想。お節介な拙僧としては、まだまだ書きたいのだが『知らなければならないが、教えられてはならない』とは、『自ら学べ』ということ。それが“禅の真髄”なのである。繰り返しになるが、本当の『学び』は体験からしか生まれない。教えられたものは、時間的合理性の観点からは便利であるが、記憶して変性され先入観(潜入感)の源泉になり、結局は“苦”の根幹になるだけなのだ。つまり、公案は言葉の体系のように思われているが、真実は、『体験の促し』であり、体験の解釈の結果を点検するのが師なのである。
 今日は、これをかみ締めながら坐るように。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★因みに、“あなた≒私”は“今”、何に坐っていますか?

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2007年06月06日

●第1077話 『仏の乗り物は何か』

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釈尊は蓮の華に座している。文殊は獅子の背に座している。普賢は象の背に座している。
では、『仏は何に座しているか』
禅堂で坐れば一炷で解る。

一日一生 慧智(070607)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

しばしば目にする公案の一節に「問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。恁麼. 會。便不是了也。如何是祖師西來意。庭前栢樹子」なるものがある。言わずと知れた趙州大和尚の『如何是祖師西來意』に対しての名答である。『山川草木悉有仏性』なり『山川草木悉皆成仏』を全身で理解し体験していれば、犬の然り、野狐も然り。況や動かぬ草花然り。その真理を伝えたのは誰か。言わずと知れた祖師である達磨大和尚。その上、目的是作略、坐禅は目的であり作略、目的と手段は表裏一体、不可分不可同となれば、『祖師西來意』は真理そのもの。真理とは全てに投影している『本来』である。ということで問いに対する応えは何でも良いのだが、この公案の構造上の問題は、“問に対する答”という二元論と取る修行者が多くなることである。問は答えであって別々のものではない。だからこそ“問答”という。問と答が別れる前は何だ。“そこ”に真理がある。 さて、今日の現成公案は・・・
問『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』にしよう。
中学生の国語の授業をサボっていなければ「これ」は無意識に自分の領域にある“ある物”を示し、「それ」は対峙している相手の支配下にある「相手のこれ」、「あれ」は対峙しあう二人の領域外にある「“これ”であり”あれ” 」。“どれ”は“あれか、それか、これか”という誰の領域にあるかを知るために投げかけられる“代名詞”であることは日本人の常識。まあ、常識という言葉を発するのは非常識であるから、「あれこれ」言うのは止める。「これ・それ」という時は対話だが、「あれ・これ」いうのは独話。
 さてさて、禅士諸君。何と応える。
慧智はネット禅士に問う
『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』
チリーン。「はい、お座り。お手、チンチン」「おい、“そこ”で足を上げて何を出すか」。カーン、カーン。「おたのみもうーす」。「ドーレ」。「どれ、見て来い」という訳で、考えても無駄。論理は通じない。かといって情緒もダメ。“思い”と“考え”、即ち『思考一如』。『禅脳は無心で全脳』。
 今日の公案はどうだ?ネット禅士が望むから与えているが、消化できているか?1700の古則公案の先、“これ”がワシが与える悟後の公案だ。小僧(10歳)の頃、「隻手の音を聞いたか?」と師匠に問われ、「それは、これですか、あれですか、どれですか、聞えますか?」と返したら、平手で横っ面を殴られ、鼓膜が破れたて、片手の音が聞こえたのを思い出す。まあ、鼓膜があると聞えない音もあるんだな。否、鼓膜などがあるから聞えないんだ。今度、慧可大和尚に会ったら“左手”で殴ってもらおう。右手は痛そうだからな。

一日一生 慧智(070606)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月05日

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

 禅師は、教えずに、育てる。育てるためには、学ばなければならない事を教えずに気がつかせる。それの浅いものを“気付き”、深いもの“悟り”と言う。気付きは態度に表れ、悟りは行動に現れる。究極の悟りを“大悟”という。大悟は、態度と行動に現れる。1073話のヒントをワシの言葉で与えると以上となる。つまり、現成公案も公案。ワシのヒントはヒントにしてはならない。何故なら、“教え”だからである。教えで人は育たぬ。己の師は己の内にある。それを“目覚める”という。自覚という。仏教では、すべての現象に『因』があるから『果』が生じると説いています。しかし、『原因と結果』というような“一対一”の関係は否定され、『因』は『縁』に触れて『果』を生じるという事実を発見し。更に『果』は因の一要素となり縁に触れて果となることから『因果一如』と表現しています。つまり、世界は循環慣性の法則に従って動いていることを理解しています。簡単言えば『因縁果』が連続的にあるのが“此の世”であり、“それを拡大すると“彼の世”なのです。ですから、此の世は彼の世であり彼の世は此の世なのです。となれば、因果を結ぶ『縁』を大事にしなければならないとは思いませんか。例え何かの『種』があったとしましょう。『種』の力は縁の出会えば発芽するということであり、発芽すれば天候だとか、人工だとかの『縁』により果を結ぶ場合もあれば枯れる事もあります。言い換えれば、発芽すれば結実するという約束は無いのです。『隋縁』つまり因は縁に従います。そこに人間が割り込むと、人間いとって都合の良い状態を『好い・良い・善い』、都合の悪い状態を『悪』と決め付けますが、『種』は無心です。その時その場所を全力で生きているだけです。環境に対して不満を漏らさず受け止めています。以上の事は、教えられれば理解は出来るが、体験しなければ納得できません。納得できないことは思考や行動に現れません。だからこそ、『作務』も坐禅同様に修行なのです。食べることも、排泄することも修行なのです。体を洗うこと、心を洗うこと・・・行住坐臥の全てが修行なのです。結論、修行なくして人は育ちません。厳しければ厳しいほどしっかりと育ちます。岩場の松、砂浜の松が教えてくれます。ただし、先入観があれば聞えません。見えません。感じません。だから分別を捨て無心に生きろということです。
 →明日は『学ぶ・育つ』です。ネット禅士諸君、今日も、しっかり坐れよ!
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月04日

●第1074話 『全ては過不足なし』

 この宇宙の全ての現象は本から過不足なし。人間も宇宙の現象の一つで過不足なし。心も同様、仏も同様。形だけの坊主も同様。にも関わらず、大衆の心は、成長とともに過不足を感じるようになり、長者の子供が貧里に迷い、乞食の子供が成り上がって驕りを覚える。過不足感は、自惚れや嫉妬、挫折や偏見を生じさせる。
ネット禅士に問う『仏は何処におるか,、見つけてつれて来い』 
 勿論、禅士は、昨日同様、言葉、文字、態度で応えることは許されん。言葉を使い頭で考えてもいかん。音を出してもいかん。
 さあ、道え、応えよ。応えなければ破門だ。さあ、どうする。
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


◆追記
今。此処の状態に過不足なし。全ては其処から出発する。故に日日是好日、降って好し、晴れて好し。明日は明日。努力とは明日のためにではなく、今、此処で全力を尽くすこと。そして結果は自然に成る。それを全面的に受け容れる。だから、すべき事で出来る事に全力を尽くす。今、此処で、すべき事・出来る事に全力を尽くせば、自然に熟達して自由自在に動けるようになる。抜きん出て秀でる。好きになる。すべき事、出来る事、好きな事が統合されると使命感が見える。これが自然。これが禅的に生きるということ。(質問に応えておきます) 慧智

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●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

 表題の『学ばなければならないが、教えられては行けない事』というのが“禅”における“公案”です。俗では『教えられても、学べず』、『教えられなくても、学んでしまう』ということが多いことが、今日の日本の状況に“投影”しています。
 大脳生理学や心理学の世界では、記憶、表層心理、深層心理という表現が使われますが、禅では、心と頭です。『滅却心頭火自涼』という表現に心と頭の関係が見えます。そして『分別と無分別』、『知恵と智慧』、『言葉(文字)と反応(心)』などと便法的に二項対立法を用いて表現しつつ、それらは父母未生以前の“本来から一体”、不可分不可同で、片手の音の聞こえる世界を示しています。名称や概念は、全てが現象した以後に、人間が便利の為に勝手に付けたもので、言葉や文字で表現しています。『公案』は、“本来”を悟り、体得するために白隠禅師が体系化した方法論であり、師弟が室内で生死をかけて行なわれる口頭試問といえます。拙僧も敢えて名をあげませんが隠山、卓州両家3人の師から500を超える公案を与えられ、鍛え上げられました。しかし、既に遷化された3人の師の名誉の為に名は伏せますが、本来は師の作品、嗣法のはずの弟子が私のような“破戒僧”では師も泣くに泣けないでしょう。
 さて、本日のネット禅会の為に、現成公案を与えます。
如何なるか『学ばなければならないが、教えられてはならない事』 
勿論、言葉や文字で応えてはダメ。態度に出してもダメ。考えてもダメです。音を出してもダメ。本来無一物だ、明鏡の如しだ、本来仏なりなどの言葉も概念も使ってはならん。只、己の境涯をワシの心に直接に伝えよ。
さあ、どうする。どうする。どうするか!
・・・・・チリーン。
カーンカーン。

一日一生 慧智(070604)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月03日

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という風流な句がある。出典は『虚堂録・巻一・興聖寺語録』。そして虚堂智愚大和尚が最初に上堂した時、一人の僧が立ち上がり『呼猿洞口、無心臥月眠雲、長水江頭、正好抛綸擲鉤、只如霊山密付、還許学人咨参也無』と質問した時の二句目。読み下すと「呼猿洞口、無心にして月に臥し雲に眠る。長水江頭、正に好し綸を抛ち鉤を擲つ。只だ霊山の蜜付の如きんば、還って学人の咨参を許さんや也た無や」となる。大まかな内容は「今までの和尚は呼猿洞において『月に臥し雲に眠る』ように無心であった。しかし今、長水江のほとりで住持となり、有り難い事に修行者を指導することになった。そこで、禅の極意についてお訊ねしたいが、よろしいか」と、いう感じだだろう。『臥月眠雲』とは、表面上は文字通りに「月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」だが、もう少し踏み込むと「厳しい環境で修行に集中している姿」となるだろう。言い換えれば、現代のように恵まれた環境の中で“人間”や“人生”を本や言葉から頭で学んでいては、人の本当の空しさ、悲しさ、辛さなどなどの言葉に出来ない苦しみを受け留めることは、御為倒しの心で態度や言葉では共に悲しみ苦しむような擬態は出来ても、本当の心は受け止められないだろう。拙僧の周囲にも“口と態度と心”が重ならない者が世間並みに居る。場合に拠れば無智なるが故に、彼らは“それ”にすら気付かず、自分は優しく思いやりがあるなどと自分本位に自分を評価していることも多い。それは、多くの場合、自分が弱い立場にあり、強い者には保護されて当たり前だというような甘えがあることが多い。人間に強いも弱いも実は無い。もし有るとすれば賢者か愚者かである。しかし本質は賢愚も一如。差別区別は不要である。野であれ聖であれ、これも亦一如。事実は一つである。事実とは“無”の蜃気楼のような物で、事実が映る己の心次第である。ということは、如何な
ることも無心に素直に受け容れることである。
 となれば禅士諸君は 『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という句に出会って何を悟るか。「あるべきよう」なのか、郷に入れば郷に従うのか、無駄な贅沢はするななのか。100人居れば百人の心があるだろう。中には自然が一番というのもいるかもしれん。
 『臥月眠雲』・・・・・。拝金主義が賛美され、格差が成長の源泉だなどという幻想が流され、物の豊かさに目を奪われがちな今日。今一度立ち止まり、『本当の豊かさとは何か』を考え、心豊かに暮らしたいものである。禅士諸君。無智は敵だ。妙智力。知恵の世界を超えて智慧の力を知ろう。その時“空”の意味に得心が行くだろう。
一日一生 慧智(070602)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月02日

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

 以前、茂原の両亡活人禅堂に参禅に来られた方、職業は精神科医師で森田療法、内観療法に詳しい方から、四行日記の内でも未来日記が統合失調症の患者に効果的だと久里浜の療養所で伺ったので、要点を教えてくださいというメールを頂いたので、お応えします。
 先ず、昔から『禅日記』や『坐禅日記』として、本来は邪道であるが、室内での己の心境などを記録として書き留めておく者もいたにはいた。そもそも『四行日記』の原点は、“そこ”にあったと言うことも出来なくはないが、何もかも“禅”に帰着させる気は無い。しかし、禅は本質、原理、原則を見抜いて『智慧』を会得し生活様式、行動様式とするのが肝であり、結果として科学的なアプローチの帰結と一致する故に、四行日記も例外では無いといえる。
 なお、四行日記は小生の俗での専門分野の一つである『ストレス心理学』の定説に根ざした方法論であり、思考行動様式を計量する計量心理学の知見が無くして『FFS理論』はなく、当然、四行日記の潜在力は半減することを前提に置いて欲しい。
 ご存知の通り、“日記療法”は、心傷の原因が究明されて総括され完治できない“心の傷”がトラウマを形成したり、現実と理想の乖離が認知を不協和状態に追い込み、軽度ないしは一過性の精神疾患が見受けられるクライエントに、事実の客観視を訓練し、セルフカウンセリングとしての気付き部分をフィードバックさせ、思考や行動の変容を生み出させる手法である。それは、何も非健常者のみに有効なものではなく、“自分の存在意義”に疑問を感じたり自分を深く探求しようとする成長願望があるものには極めて有効であると認められている。小生が提唱する『四行日記』や『未来日記』は、禅において体系化されている公案や、悟りのメカニズム、中枢神経系・免疫系・内分泌系の生理機能を利用し、世界で一番短く、コストがかからずに効果が高いセルフカウンセリング法として開発したもので、出家からすると邪道だが、居士が参禅修行している時の記録法としても有効だと考えて皆に教えてきたもので、私の科学者の立場からはFFS理論、四行日記、セルフエクスパンディングプログラム(SEP)として“健常者”の更なる成長促進のために紹介しているが故に、非健常者への『日記療法』としての応用については、専門的な指導者が指導しない限りは危険なので敢えて公表を避けているものです。
 ご存知の通り、四行日記の構造は『事実→発見(気付き・悟り)→記憶(教訓・一転語化)→発明(現在進行形による行動宣言)』という構造であり、水面上に居られる方々が、それ以上に飛躍し、己の潜在力を120%発揮させるための変容過程をシステム化したもので“目的達成型”、『読み替えれば“参禅日記”』と読み返ることが出来るものです。一方、未来日記は、“願望(望んでいる自分の姿)”を、日々の反省と都度の勇気付け自分自身で行なうことで、目標達成型という構造にしていあります。何れも、先ずは『自己肯定』がポイントです。ただ、四行日記では『個性(個別的特性)の強み』を活かすことに焦点をあてていますが、未来日記では『個性の弱みを認める』ことで強みに気付かせ、認めて活かせるように考えてあります。つまり、水面下から水面までを未来日記、水面から空中へを四行日記が担っています。
 この辺りは、今秋には四行日記の改訂版が出ますが、“奥の院”としておくことが大事ではないかと思い書くことはありません。言い換えれば、この辺りから深く入るのであれば、個別指導、禅でいうなら“室内参禅”という方法しかありません。
 よって、申し訳在りませんが、専門的な話や議論は、お会いしてと考えています。がしかし、専門家であれば、此処までを読まれれば、見通せるはずです。遠まわしになりましたが、質問に対する応えとさせて頂きます。

一日一生 慧智(070601 小林惠智として記す。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年06月01日

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 良寛さんに表題を問えば「今日はおついたち、ホラ足下に・・・」と返ってくるかもしれませんね。
 旅から帰ると全身に倦怠を覚え、夜が明けたのも知らずに8時間もの眠りに落ちていた。考えてみると、50年間、横になるのは一日3時間内外であった。“する事”があるし、“すべき事”も多い、その上、それらは“出来る事”で、結果“したい事”でもあった。人生、何度か立ち止まり、空を見上げ、涙したこともあった。それでも一日一生、寝て起きれば“新しい己”。昨日の己は己ではない。勿論、明日の事は明日。去る者、去る事は追わず、来る者、来る事は全て受けてきた。衣を着け絡子を着ければ坊主、背広を着れば経営者、白衣を着れば研究者。作務衣を着れ労働者。正に“馬子にも衣装”。そして、その時の為に白衣で床につく。3年前は坐睡を心がけていたが、線路脇のため最終電車と始発電車の間の数時間だけコトンコトンという列車とレールの励ましあいが途切れる。レールと車輪の互いの無事を確認する声に励まされた。今も同じ。「己!さっさと起きて働け!死んだら働けんぞ!」今、レールと車輪に励まされている。
 さて、今日は起き掛けによろけてツッカケてしまい開いてしまっいた良寛さんの漢詩を一つ紹介しておくので、味わってみて欲しい。

我生何処来 去而何処之    
独坐蓬窗下 兀々静尋思    
尋思不知始 焉能知其終    
現在亦復然 展転総是空    
空中且有我 況有是興非    
不知容些子 随縁且従容    

◆読み下し
我が生は何処より来り、去って何処にかゆく。
ひとり蓬窗(ほうそう)の下に坐し、兀々(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す。
尋思するも始(はじめ)を知らず、焉(いずくんぞ)能く其の終を知らん。
現在も亦復(また)然り、展転 総べて是れ空。
空中に且(しばらく)我れ有り、況んや是と非と有らんや。
如かず 些子を容れて、縁に随って且く従容(しょうよう)たるに。

◆慧智の超訳
命はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
荒れた庵の窓の下に独坐して、動かず静かに考える。
考えても考えても考えても命の始まりはわからないし、命の終わりゆくところもわからない。
今、此処に然るべく在り、寝返ると時は移りゆき、すべては空であることに気付く。
私は空の中にしばらくいいるが、有る無しに固まっているわけではない。
今此処にある現実を受け入れ、縁に従いってゆったり生きてゆこう。

一日一生 慧智(070601)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House