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2007年05月16日
●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。
究極の答えは『禅を体得した者以外に“自由”は無い』ということだ。言い換えると、禅を極めることは、“自由の自覚を得る”ことだ。だから、欧米には“自由”は無い、と断言しても過言では無い。
自由とは、“主観”という幻想から覚めることだ。自由においては、主観も客観(≒主観)も無い。自由とは“無心”のことだ。只それだけ。道徳的・倫理的・法律的など意に反するの制約が無い、ということが“自由”なのではない。今一度5月1日の説法を読んで欲しい。
君は重力から自由になれると思うか?。宇宙に出れば重力からも自由になる、と応えるか?。食欲から自由になれるか?。環境から自由になれるか?。そもそも自我から自由になれるか?。辞書の定義から自由になれるか?。自由民主党に、文字上の自由はあるが、本当の自由はあると思うか?・・・・・。
つまり、自由は意思でも意志でも無い。自由は、“本来”であり、『自ずからに由(よ)る状態』をいう。『由』の文字を見ても解るだろう。“由”は、田んぼから芽が出てくることだ。芽は誰かに命令されたか?。気(期)が熟せば『自ずからの由(よし)により発芽する。言い換えると、自由とは、“あるがままにある”、“あるべきよう”ということだ。
良寛さんの言葉を借りれば、『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』こそ、“自由”を自覚している表現だ。死ぬまいとするから不自由になる。解るか?。相手を自分の都合で動かしたいというから、不自由になる。解るか?。自他不二に逆らい、相対的に、対象を考えるから“主人公”の椅子が危なく感じて不自由になる。“随所作主”は自由であってこそだ。自由であれば、何処でも主だ。解るか?。
科学は考えなければ解らないが、科学を考える科学哲学は考えの所産を放棄している。限定合理性の範囲外、つまり無限定という自由な状態では科学は無力なんだ。ミクロとマクロの僅かな領域でのみ有効な科学を、現代的に言えば、科学は“コンビニ”、便利だけど絶対では無いのだ。“自由”を知りたければ寺に来て坐れ。10年坐れば誰でも解る。一日で解るかもしれん。
これ以上、応えようもない。あ、そうだ、“科学”に毒された頭は科学から解放されなければ、自由のスタートラインにも着けんぞ。欧米風に云えば、自由は我、欲望からの解放だ。だから欧米には“自由”がない。自由が無いから共生が出来ずに、争い競うことを続けるしかない。
“悟り”とは“本来”全てに行き渡っている『無一物中 無尽蔵』の“自由”を体現して(竿の頭まで行く)、現在の全てをあるがままに受け容れる(戻ってくる)ことだ。
ところで、君は自由になりたいのか?自由を知りたいのか?不自由なもんだな。皆、本来は自由じゃないか。刑務所に入っていても自由な者は自由。六本木ヒルズに住んでいようと不自由な者は不自由という方便が伝わらないかな・・・。残念。考えすぎると体を悪くするぞ。馬鹿に付ける薬は有っても利口に付ける薬は無いか。御免。あんたさん、もしかしてミスター・マリックか?メニュー見ただけで腹がいっぱいになるんかな?
一日一生 慧智(070515) 『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
投稿者 echi : 2007年05月16日 16:56