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2007年05月02日
●活人禅とは、殺す事と見つけたり
臨濟義玄(りんざいぎげん、諡:慧照禅師)大和尚は、臨済宗の宗祖で『臨済録』という公案の宝庫である語録で知られている禅師で、『逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱』、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」という心を残している。この文脈が教喩する真意は、先入観、固定観念を捨て切った後の心で全てを見ろ、ということだと拙僧は理解している。
大衆の多くは、それぞれの言語活動(Langage:ランガージュ:仏語)で勝手に創り上げた幻想を、恰も“相手そのもの”と思い込んでいる。本来の心である『自他不二』、父母未生以前の心、二つ分れとなる以前の本来の心を思い出せば、仏とはこれこれ、親はこれこれ、禅はこれこれ・・・。それから出発して、親は~でなければならない。宗教は~でなければならない、禅は~でなければならない、茶は~でなければならない・・・などの“思い込み”がつくられ、それが熟成して先入観となり、本来は誰にでも平等に備わっている“己の自由”を放棄してしまっていることへの警鐘である。
勿論、全てに手前勝手な解釈をしろというものではない。『己事究明の後に唯一であれ』であって、1-2年僧堂に坐っただけで禅を語るなど言語道断、蒙昧の限りである。良い例に利休百首の百番目にある茶道の極意中の極意『守破離(規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るな)』がある。実は、これすらも、鎌倉時代の利休が書き残したとか、室町時代の世阿弥の言葉だとか“特許争い”のような下衆な論争を聞いたことがあり、近代の凡夫の本家論争のように微笑ましい部分はある。
さて、昨今、自分が作った教訓ではなく、他人のつくった教訓を並べて企業理念などという経営者も現れているが、これは二重の誤りをおかしている。ネット禅士には、コンサルタント、経営者が多く居るようだが、今日の講話は咀嚼を繰り返して己のものにして欲しい。
『捨て切る』≒『殺す』。幻想を殺す。これが大事なんです。活人禅は殺人禅。活殺自由。御分かりかな。
一日一生 慧智(070502)『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
投稿者 echi : 2007年05月02日 07:37
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