« 2007年04月 | メイン | 2007年06月 »

2007年05月31日

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

記憶では、拙僧が10歳頃、小僧となって2年目。老師から大拙翁の荷物持ちに行けと言われ、鎌倉の帰源院(円覚寺塔頭)に出かけたのは昭和35年の夏だったと思う。まあ、今から50年近く前のことであり、大拙師は90歳前後、拙僧などの曾孫程度とみられ覚えていて頂かなくても当然だと言われて来たが、覚えていておられ、その上講演会の末席で話を聞kさせて頂いた。訳の解らぬ講演の間、出掛けに師から言われた事が気になり、講演後、東京へ向う道すがら大拙師に質問した時のことだと思うが、「坊、禅書はな一歩読み違えると奈落の底に入るぞ。それにな、寺だけでは修行にならんから、漢字だけでなく西洋の言葉も勉強せよ・・・」と、それからの拙僧の人生を大きく左右することになる金言が今でも耳に残る。道々、洪川老師、宗演老師、西田幾太郎や三舟(海舟・南洲・鉄舟)、世界宗仰会議の話などだったと今は創造できるが、訳の解らぬ小僧に“勉強の大切さと人間関係の難しさ”を聞かせてくれたような記憶がある。がしかし、真に残念であるが前出の一言以外の記憶は定かではない。 なお、師の出掛けの一言は、今でもハッキリと記憶しているし、今では拙僧の口癖となり、漢字を“観字”と読み変える本まで書いてしまっている。その一言は、師が、小生意気な小僧だった拙僧に「慧智坊、お前な、漢字で書けない言葉は使うなよ、警策の十本二十本じゃ済まないぞ」と言われた事も思い出される。
 さて、今、訳け有って京都の某寺にいる。今日は、期せずして花園大学名誉教授の西村惠信先生とお話する機会があったり、白隠禅師の坐禅和讃についてのお話を聞く機会があり、何故か、タイムスリップしたように昔の事をが思い出され、この文章を書き始めている。
 禅士諸君、君達は『何故、ヒマワリは東を向くか(書名の記憶は怪しい)』という本を読んだことはあるか。もし読んだ者があたなら正確な和名を知らせて欲しい。内容は『麦の根』から言葉・行動・個性と環境との関わりで、私が人間の思考行動様式を研究していたピーク時に禅書的な読み方からヒントを得て“受容性”、即ち“己”の特性や環境を無心に受け容れる力の発見に寄与した本である。(内容には疑問な部分が多いが・・)
 禅は、文字や言葉の限界に挑戦しつつ、その竿の先にある“行間”や文脈の背後に暗々裏に語られる著作者の無意識を汲み取ってもなお、顔と顔をくっつけ、寝食を共にして師から以心伝心、直指人心には及びもしないことを全身で理解させる。そして、行脚での出会いが、人生観・生命観、自然観の全てを変えてしまう一言に出会い“因縁”を無心に素直に受け容れてこその人生を悟れるのである。考えてみれば、それは“禅”のみに非ずだが、師弟が命がけで対峙する室内(公案・法戦の場)に優るものは、拙僧の知る限りでは無い。
 今、師の話を思い出しながら『沙彌十戒威儀録』を読んでいる。何を云わんとするか、ネット禅士から、読んだだけではダメ。書き写せ、実践せよ、読めるまで坐れ。読めたら心身を染め上げて忘れろ。解れよ。
 そろそろ休む。禅士の陰口はワシにも聞えるので、なるべくなら誤字脱字には気を付けるが、“辻説法”としている訳も解せよ。一日二十分、話すのと同じように無心にタイプし終わると、見直す力など無く、バタンキュウ。残念だが其れが現実。勿論、指摘があれば、遡って修正はしているので、試しに読み直して欲しい。

一日一生 慧智(070530) 京都にて 『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 08:38 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月29日

●第1068話 死について考える

 昨日から、現職の大臣の自殺について多くの報道がなされ、周囲から自殺に対する賛否両論が囁かれていた。
 さて、生者必滅。生まれた者は必ず死ぬ。日本人は一年に約100万人が死ぬ。世界では毎年5000万人が死ぬ。老衰死、病死、事故死、変死(自殺・他殺)という死の原因に違いはあるが、何れも死ぬことにかわりはない。しかし、俗世間での死の価値には大きな差異がある。美化される死、揶揄される死、重視される死、軽視される死・・。
 拙僧は、“死”は死であり、俗人が価値判断をすべきではなく、犠牲だ、犬死だ、立派な死だなどと死を評価し、差別すべきでないと考えている。
 以前、説法でも書いたことがあると思うが、拙僧は“己にとって意味の有る死を遂げたい”と語っているはず。それは己の己の死への己の評価であり、他に向けるものではない。だからこそ、癌仲間、禅仲間には「死は他人事、自分の死は経験できないから、永遠に生きることとして生きよう」、「死ぬ覚悟などしなくても誰でも死ぬが、生きる覚悟を決めないと生きた屍になるぞ」、「死は新たな生命を誕生させる転換点で、細胞分裂のようなものだから、子孫が出来る出来ないなどは、権力者が考え出した“家制度”の問題であり、子供の有無など人生には何の関係もない」、「世界的に見れば死ぬより生まれる方が多いので、日本ぐらいは人口を減少させ5000万人で機能する国家を目指せばよい」、「人間は病気や事故では死なない。死ぬのは寿命が尽きるからだ、使命を全うしたからだ」、「死に急ぐな、生き急ぐな」・・・。その場、その場で、方便を使っている。
 ところが、拙僧にとって他人の生死は身近であり日常であるが、“病院で生まれて病院で死ぬ時代”、魚も肉も店頭に並んでいるのは死骸で、一寸前まで遊んでいた庭先の鶏が夕食の食卓に上ることや、釣ってきた魚、捕まえた獣を父母が子のために殺す姿は見なくなった今、現代の大半の日本人にとって死は"非日常”なのである。統計を解釈すれば、男女平均で80年という長生き国家の日本でも、毎日3000人の人が死んでいる。しかし、同時に3000人弱が生まれている。結果、人口は若干減ってゆくが大きな変化は見て取れないにも関わらず、机上の統計数には表れ、現状を“少子高齢化”と名付け、“地球温暖化”だ、天然資源の枯渇だなどと同様の切り口で、官民揃って“日本の危機”だ煽り立てている。拙僧に言わせれば、そんな些細な事は『少欲知足』、『以和為貴』、『質実剛健』を肝とする“禅的生活スタイル”を実践すれば問題にもならない。しかし、経済合理性しか見えない拝金主義の亡者は、マスコミや風評を操り、一億総パニックを演出して大騒ぎする。それは、情けないことだが、所謂『健康・環境関連事業』という日本の新たな産業基盤整備を目論む一部の特権階級が失われた利権を補填するために新しい利権構造を作ろうとしているだけなのが悲しいことである。
 (注)建前と本音に開きが在りすぎる。
 さて、今日、一人、二人の著名人の死から沢山の思いが漏れ聞えて来る中で、コソコソとパソコンを持ち込んでいる国立ガンセンターの待合室での今・此処の己は、自分の死をそっちのけにして、他人の死を評価している声を聞いている。確かに、待合室に居る彼らにとっては死は身近なのだろう。勿論、私にとってもだが・・・。
 ところで、本日のネット禅会に先立ち、拙僧が日頃から話している死に纏わる話を、思い出した順に書いておくので、本日のネット禅会までに、『己の死』について考えておいてください。勿論、坐る時は全てを捨てて姿勢を正し、呼吸を正し、心を正して、頭の中の言葉を全て吐き出して坐ることは忘れずに。
◆『自殺』とは『自ずからを自らの手で生物学的な死に至らしめる』ことで、日本の場合は、『死ぬ事で生きる』という積極的な選択と『四苦八苦からの逃避』という消極的な選択という両面を持つ『人生の始末のつけ方』、一つの方法論であり、前者は美意識、後者は醜意識に通じる。
◆死は生と不可分不可同の現象の転換点であり、循環の通過点であるが故に生死一如である。つまり、誕生が祝い、死亡が弔いという決め付けは合理性を欠く。生死は重畳的連続現象である。
◆『極楽・浄土』とは四苦八苦から離れた自由で清浄な土地であり、『地獄』は自由が束縛された四苦八苦が因縁に従って現象する不浄な土地。つまり、両方とも、人間の無智が作り出した事実の解釈であり、事実の陰、幻、陽炎のような心象であり、権力者が大衆を支配するために、否定も肯定も証明できない言葉を凝縮した道具である。
◆『魂』とは拘りや囚われ偏りにより生じた変性意識であり、『霊』とは無智が生んだ未知の現象に対する仮初の姿で心身二元論の産物。
◆『己』という“本来”は、時、空間、意識も超越した無色透明の全体であり部分で、万物の一露、大河の一滴である。
◆『我』という己の“仮初”は、時、空間、意識により翻弄されている有色汚濁の部分であり、大河の澱である。
◆???????。此処は坐禅が終わったら、コピペして“気付き”を書いておいてください。

一日一生  慧智(070529)  築地ガンセンター待合室にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 12:02 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月27日

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

 以下に、鎌倉五山の一つである円覚寺の釈宗演禅師の師であり愚僧が小僧になったばかりのころ激励を頂いた鈴木大拙師の師でもある今北洪川老師の『亀鑑』を紹介し、愚僧の“超訳”を付しておくが、原文を読み、それぞれなりの解釈をして、今一度、禅とは何かを再確認してください。
 愚僧が日頃から口が酸っぱくなる位に言っている“薄っぺらなヒューマニズム”を捨て、無心となって全ての為に生きよ、ということを再確認してください。
 禅、坐禅は“カルチャー(お稽古事)”では断じて無い。今を生き切り、全てに報いる人間としての唯一無比の正しい生き方である。現在の社会の矛盾を解き明かし、如何にして生きるかを考えた人々は、法律の壁、道徳の壁、科学の壁、即ち相対的で限定された合理性が不完全であることに気付いた者の大半が坐禅をし、その因縁が望まずとも“大人物”という評価が下されていることを知って欲しい。
 坐禅をするから大人物になるのではなく、大人物をなる者は必然的に坐禅をしているのである。言い換えれば、遠い先を夢見るのではなく、出来る事に、全身全霊を打ち込み、他責的にならず、不満を言わず、現実をあるがままに受け入れつつ、己を失わずに、今・此処の己を使い切るのである。
 言い換えれば、それなくして、真の自由、真の合理性と出会うことなく、矛盾だらけの限定的合理性に埋没し、夫々が例外なく持つ本来の己(仏性)を萌芽させることが出来ず、単なる自己満足という稚拙な快楽に溺れ空し人生を送り、死に臨んで後悔するのである。
 悪いことは、言わないから、真剣に坐りなさい。
 以下を読めば解るが、必ず成就するから“三日坊主”はお止めなさい。
●今北洪川老師の「亀鑑」
「諸禅徳、既に俗縁を辞して仏弟子と為る。治生産業、汝が事に与からず。且く道え、甚を以て父母の生鞠劬労の大恩に報答すや。甘旨を供して父母を養うも汝が報恩底の事に非ず。文学に達して父母を顕わすも汝が報恩底の事に非ず。経呪を誦して父母を弔うも汝が報恩底の事に非ず。畢竟作麼生か是れ汝が報恩底の事。唯大法の為に辛修苦行して真の僧宝と為るの一事有る耳。之を譬えば、厦屋を造るが如し。真心を以て地盤と為し、志願 を以て礎石と為し、実悟を以て棟梁と為し、孜々兀々として朝参暮請し、歳月の久しきを厭わず、親切にして懈らずんば、則ち他時異日、一大厦屋を成立して輪奐の美を極むるや、必せり。然して後、始めて真の僧宝と謂うべきなり。此に至りて、啻今生の父母劬労の恩に報答するのみにあらず、過去百劫千生の父母劬労の恩、一時に報答に畢んぬ。大いなる哉、明心見性の功徳。唯但諸禅徳、二祖断臂の親切、臨済純一の刻苦、慈明引錐の激励等を憶念して、日々に修煉し、時々に体窮して、寸陰も怠ること勿れ哉。古徳曰く、僧と為って理に通ぜずんば、披毛戴角して信施を還すと。怖るべし、慎むべし。旃を勉めよ、旃を警めよ」
●慧智の洪川老師「亀鑑」の超訳
禅を志して出家し世俗を離れて仏弟子となった者は、経済生活を目的とした仕事に従事することは歩むべき道ではない。となれば、如何にして父母に養われてきた大恩に報うことが出来るか言ってみよ。出家にとって父母を扶養することは真の恩返しではない。学者となって知名度が上がり父母が世間から賞賛を受けたとしても真の恩返しにはならい。経や呪を読み誦んで弔っても真の恩返しにはならい。出家者として父母の大恩に報えるのは、大仏法を体得して真の禅僧となる以外には無い。それは、屋敷を建造するようなもので、真心を地盤、願心を礎石とし、実悟を棟や梁として、一心不乱に禅道を進み、一日を一生と思い、坐禅・公案・作務に成り切り、期間など気に留めず修行者に成り切れば、いつの日にか比類なき屋敷が完成すれるように、禅の宝をなる禅僧になる。つまり、出家した者は、道を究めること以外に父母の大恩に報うことは出来ない。己事究明を通じて父母未生以前の己に帰り本来を明らかにして自利利他に徹することこそ父母の大恩に報うことである。
 父母をはじめ全ての生きとし生けるもの、山川草木の大恩に報いるには、二祖慧可大師が臂を断って達磨大師にしめし道心、臨済大和尚の大いなる工夫、慈明禅師の壮絶な修行を忘れる事無く、一日を一生として全身を以って修行に打ち込み、日々に悟り、一分一秒も無駄にしてならない。
 つまり、歴代の大禅者の言葉を借りれば、「家を捨てて禅僧となった以上は、全ての本質を示した仏法を完全に会得、自覚しなければ、人間として生きた価値がなく、修行を支援して頂いた山川草木や無数の方々の大恩に報うことは出来ない」ということになる。恐れいり謹んで心に刻んで教訓として修行に打ち込め。

一日一生 慧智(070527)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 19:57 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月25日

●1066話 『入室参禅』について

 無期懲役とも思える禅堂修行に入ると相見(対峙により師弟の自覚が出来上がる面会)を済ませた“その日”から師の室で師弟の命がけの戦いが一日の二回、入室参禅(にっしつさんぜん)という形式で行なわれる。師は、夫々、弟子の力量を押しはかり『公案(修行のための正解の無い問題)』を与え、見解(けんげ)を求める。専門僧堂では朝暮二回、師の部屋に通じる廊下に喚鐘という半鐘の半分程度の鐘が出て、入室参禅が求められる。すると、修行僧は我先に入室しようと廊下に正座して順を待ち、ノック代わりに喚鐘を二点打して作法に従い入室する。問題は、室内での出来事なのだが、これは師はもとより雲水同士ですら一生涯に渡りその内容を話すことはない。何故なら、先入観を捨てるのが修行の肝であるにも関わらず、先入観を助長強化してしまうからである。俗世間でも、教師が“答え”を教えることは学人の成長を阻害してしまうので、先ず無い。実は禅師は己の雲水時代の経験から『規矩作法(規則や立振舞い)』は体験(体)で学べば躾になるが、頭に先に入れてしまうと、形式として記憶されしまい、心身に刻み込まれる躾にはならないことを全身で知っているからである。という訳で、拙僧など“パブロフの犬”のように今でも喚鐘の音を聞きくと全ての雑念が瞬間的に消えてしまうのである。という訳で、現在の立場は入室を促す側なのだが、心は学人のままなのである。ところが、今時の世間は、教育が“サービス業”という商売になってしまい、師と弟子が“差しで対峙”する法戦場こそが教育の場であり、教師の使命である己を超える人間を育成するという教育の肝が忘れられているのは残念である。
 さて、学人(雲水・居士の場合もある)は、己を経営する経営力を己自身で鍛え上げるため、予め与えられた公案に対する見解を入室毎に師に提示するが、初めのうちは一言も話せぬまま鈴が振られて追い出される。後で解るのだが、問いに対しての反応が0,25秒を超えると追い出される。ですから、師の立場になった今でも“間抜け”は許せない始末である。
 ところで、禅士諸君は、最大限の怒鳴り声を耳元で聞いたことがあるかな。本当に鼓膜が破れる。しかし、鼓膜が破れると聞える声がある。“法の声”かも知れんが不思議だぞ。ワシは優しいのので怒鳴らずに竹刀を打ち込むことにしている。竹箆、警策、扇子はすぐに折れてしまうからね。まあ、昔から「炉柎に入りて鉗鎚を受る」と言われているように真剣勝負だから、甘えは100%させないし、しない。生半可は火傷をするだけ。それは今でも変わっていないはず。入室参禅と坐禅、作務は“二入”、修行の両輪であり、最終的には“四行”をもって『悟り』に通じる大道、百尺竿頭への道であり、竿頭に着けば直ぐに一歩を進み、また原点から竿の頭を目指す繰り返しの始まりである。正に悟前・悟後が一つになる過程だ。
 ワシは、『入室参禅』こそ教育の原点だと思う。しかし、教育はプレタポルテ(既製服)ではなくオートクチュール(注文服)と同じようなもので、一人ひとりの技量に合わさなければ、師も学人も徒労に終わってしまう。だから、拙僧は、参禅者に対し、日々の雑談の中に『現成公案(今風の課題)』を与えているが、最近は、マニュアル人間が増えたことか、学校や家庭が崩壊状態にあるのか知れんが、“それ”と気が付かぬ者も多いのは困ったものである。
 ところで、「陰徳を積んでいるか」と問れたら、何と応える?ハイと肯定すれば陰徳ではなくなるし、イイエと応えれば嘘になることを承知で応えよ。

一日一生 慧智(070525)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

投稿者 echi : 10:36 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月24日

●1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

 表題は、言わずと知られた白隠禅師が考案された公案。「片手の音を聞いて来い」などと拙僧は、入室した参禅者に与えている公案の序章であり本文であり終章です。白隠禅師が何をヒントに『隻手音声(せきしゅおんじょう)という公案を編み出されたか、また禅師自身のエピソードなど調べれば解るものは話すつもりはありません。しかし、自我の奴隷、言葉の奴隷、文法の奴隷、先入観(経験、道徳、価値観など)、即ち“相対論・二項対立論”という幻想の奴隷になっている限りは、両手の音を聞くことは出来ても片手の音を聞くことは出来ないことは言っておきます。つまり、科学・哲学・儒教・道教・・・勿論、数学、国語、理科。社会・・・、今までに頭に入れ、入れられてきた全てを捨て去ることで真理が観得ます、聞えます。
 過去、ネット禅士の場合、入室参禅をメールで行なっていましたが、あまりにも無理があり現在では、南伊豆の菴か、活人禅堂で参禅されている禅士で、日頃の言動や行動から公案を与えても潰れない者にのみ与えています。
 日本から東に行くとアメリカに着きます。アメリカが東洋だからです。アメリカから西に行くと日本に着きます。日本は西洋だからです。北に向えば南極に着いて元へと戻り、南に向えば北極に着いて日本へ戻ってくる。北を向いて南を見る。南を向いて左にあるのは己の右腕。右足が沈む前に左足を上げれば海を歩ける。光より早く走れば、己の背中が見えるかも。無我夢中の時間は、閑居の時間より早い。人殺しが悪だと証明できる論理は無い。全ては“我”を中心に考えるから解らなくなる。ゲーデルの不完全性定理は、論理が絶対であることを否定する論理を論理だてて説明している。情緒と論理、感情と理性。誰が分けたか解らない。絶対的な善は何を前提にするのか。相対的な善は悪がなければ存在しない。では絶対的な悪の根拠は如何に。男と女が別れる前は一つ。羞恥心は社会的な洗脳を受けた結果が生んだ拘り・囚われ・偏り。我らは過去の誰かが作り上げた幻想の奴隷。さあ、父母が生まれる前の己、本来の己は、今、何処にいるか。今、此処にいる己は本来の己か。太陽は沈まないし、月も欠けない。月と太陽は、もともと一つ。私と貴方ももともと一つ。空気と私ももともと一つ。ところで、貴方の心は何処にありますか?。貴方の心と貴方以外の人の心は元を正せばひ一つだと思いませんか。坐る、働く、寝る、同じですか、違います。紙の一面には神、他面には仏と書きました。表はどちら、裏は表の裏で、その裏は表?。
 今日のネット禅会では、『色即是空=空即是色』の一次方程式の解を求めなさい。勿論、言葉を使わずに考えましょうね。そして、言葉や文字に依存せずに答えてください。
 公案を出してもらいたいという“おねだり禅士”に、自分の後頭部が直接見えたらね、ということで返事としました。
一日一生 慧智(050724)願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道 

投稿者 echi : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

●墨蹟は読めない方が良い?

 海外在住の方からのメールで、師の供で茶会に出かけた雛僧のころの出来事を思い出した。あれは、確か修善寺から三島への道すがらのことだった。
慧智「先ほどのお話で茶掛になっていた『虎頭生角出荒草』と書かれていると思えるお軸について聞かれた時、最初から最後まで、読みにも出典にも触れずに話されていましたが、何故でございますか」
老師「・・・・、生き切れ、成り切れ、坐り切れ、全てはそれからだ」
慧智「坊主なら、墨蹟は読まん方が良い。何年、何十年かかろうと、書けるまで座れ、と受け留めていますが・・・」
老師「皐月は鶯の声に何を思うかな・・・」
慧智「一度生まれ、一度死ぬのが常、同じ出来事は二度と起きませんね」
老師「おい、頭陀袋に饅頭があるだろう」
慧智「飯袋子に先おこされました」
老師「喫茶去ということか」
慧智「龍澤まで3里ぐらいだと思いますが」
老師「カーーーツ」
 この遣り取りの真意は伝わらないと思う。出会いは因縁に従います。墨蹟は、書かれた言葉と文字に禅師の万感の思いが込められています。その思いと心を汲み取るには、文字や言葉と一体にならなくては“価値”はありません。漢字にカナをふる前にカナを教えるのが先。心が言葉を作る、言葉が心を作る。否、言葉が心、心が言葉。人を観て法を説くことが大事。
 因みに、碧巌録第七十則『山、百丈に侍立す』 垂示に云く、快人は一言、快馬は一鞭。萬年一念、一念萬年。直截をを知らんと要せば、未だ擧せざる已前。且道、未だ擧せざる已前、作麼生か摸索せん。擧す。山、五峰、雲巖、同に百丈に侍立す。百丈、山に問う、咽喉と唇吻を併却いで、作麼生か道わん。山云く、却って、和尚道え。丈云く、我は汝に道うを辞せざるも、已後我が兒孫を喪わんことを恐る。
却って、和尚道え。虎頭生角出荒草(虎頭に角を生じて荒草を出づ)。十州春盡きて花凋殘み、珊瑚樹林に日は杲杲たり。
一日一生 慧智(050724)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』 


投稿者 echi : 08:51 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月23日

●第1063話 『身体、心、頭』について

 昨日、理事長を務める財団法人職業資格取得支援協会の理事会が早めに終わった。久々に時間が空いたせいか、時々顔を出す渋谷の喫茶店に足が向いた。途中、先日の禅会を思い出していた。
 参加者は少なかったが活人禅寺らしい内容であった。この時期の寺は、北関東というより南東北と言った方が似合う茨城と福島の県境である大子のこの時期は可憐な草花が多く生命の息吹を感じる。夜坐は春ならでは星が煌き無寒暑。拙僧の体調も安定してたせいか、一、二炷程度は、参加者と共に坐ることができた。また、寺の管理人が一ヵ月前に脳梗塞で倒れたが、何せ“復活再生の寺”故か、回復が早く、リハビリを兼ねて草刈に汗を流していた。「癌にも脳梗塞にも打ち勝つ寺だ」なんて売り出そうという笑い話が出来るまでに回復しているのには驚いた。
人間は清心万能邪心萬危。己の状態を全面的に受け入れ、持病も障害も“個性の一つ”として認めることが、障害の無い部分を自由自在に工夫して生かすことが出来る。出来る事に集中し、境涯を恨むことなどなければ、持病も障害も克服できる。“一病息災”とは良く言ったものである。己の障害や病を意識し
過ぎると、他のところまで病むことになる。教訓のようだが、人間、先ずは“出来る事”を完璧に行なうことが幸せの第一歩。今、此処で“出来る事”に全力を集中していると、それは“すべき事”を飲み込み“したい事”を飲み込んで、『出来る事がしたい事で、すべき事』という最高の人生を送ることが出来る。『したい事が出来ない、すべき事に気が付かない、出来る事をしない』ことにより“縁”が変わってしまい、本来は大安心の境涯となるべき人が、大不安の境涯に迷い込み、悲しく・寂しく・侘しく・空しい“生き地獄”のように苦しい現実にあることは相談に来られる方の多く善男善女に共通している。
 渋谷のセンター街を入って直ぐの処に、“ヤンキー、ニート、プータロー”達の溜り場がある。
数年前から時々顔を出し、仲間に入れてもらっている。彼らだって考え方をほんの少し変えるだけで充実した人生を送ることは出来ると信じ、タイミングを見つけては議論を吹っかけている。 
拙僧「体は目的も目標も持たないし結果も求めずに機能するだけ、ということは解るか」
茶髪A「解らね。SEXは目的だぜ、な」
茶髪B嬢「目的はSEX、目標もSEX、それでいいじゃん」
拙僧「そんな良いなら、これから皆でするか」
茶髪A「馬鹿じゃねの、エロ爺。SEXは好きな奴と二人でするもん、酒でも飲まなきゃ乱交なんかできねよな、な」
拙僧「お前らにちゃんと考えられるんだ」
茶髪A「俺達は、身体とハートで生きているんだぜ、頭じゃねよな」
*彼らは、どんな事でも仲間の相槌を必要とする。だから仲間が同意すれば、それが彼らの社会の“常識”になるらしい。
拙僧「じゃあな、お前らの心って、どこにあるんだ」
茶髪B嬢「ここの中、見たい?」
拙僧「お、見せてみろ。でも、心以外の物は出すなよ」
茶髪A「馬鹿じゃねーの、心が観れるわけねーよ、な、な、そうだろ」
拙僧「じゃあな、あんたらが目的や目標を持つのはどこだ」
茶髪A「頭じゃん、な」
茶髪B嬢「心だと」
拙僧「おい、意見が分かれたな、ところで、頭って、ここか?
拙僧「じゃあ、心は何処だ?」
 こんな話をいつもしている。すると、多くの場合、“霊魂”、“神様”、“運命”、などが登場する会話になる。今回も同じ。
拙僧「ところで、体を持たない頭、体をを持たない心、頭を持たない体、心を持たない体、心を持たない頭、頭を持たない心があると思うか?」
茶髪2人「あるわけないじゃん、な」
 すると、それまで黙っていた若者が
若者「霊魂は体を持たない」
拙僧「ということは、体は霊魂を持っているのか?」
若者「ある」
拙僧「じゃあ、見せろ」
若者「霊魂は特別に選ばれた者にしか見えない」
拙僧「誰に選ばれたら特別な者なんだ?」
若者「ゴッドだ」
拙僧「ゴッドって“神”ということか?、どこに行けば会える?」
若者「オレだ。おれがゴッドだ」
拙僧「オレは仏だから、親戚みたいなものだな」
若者「お前は人間だ」
拙僧「じゃあ、ゴッドは人間じゃないのか」
若者「そうだ、だから、おれはお前を消滅させられるが、爺はオレを消滅させられない」
拙僧「ゴッドは死なないのか?」
若者「体は心でも、心は不滅だ」
拙僧「だったら何故、心がゴットで霊魂だと言わないのか」
若者「霊魂や神は“宗教”の言葉だし、“心”は普通の言葉で、ゴットは五次元世界の存在だ」
拙僧「空間は三次元、時間が加わると4次元、五次元は何を加えればいい?」
若者「ゴッドだ」
 いつものことだが、この辺から会話はループに入って、大概の場合は、席を立たれてしまう。ところが、今日の若者は違った。
若者「お前は坊主だろ。神は信じないが霊魂は信じているんだろ?」
拙僧「神も霊魂も、おれは見たことも感じたこともない。どうしても神だ、霊魂だとかいうものがあるなら、ワシは神だし霊魂だ」
若者「お前は本当に坊主か」
拙僧「ワシは坊主だ。だから、世界は全ては心が描いた結果で、心をカラッポにすれば、見える世界も見えない世界も一つだということがわかるんだ」
 ここから2時間。11時をまわったところで、若者が「仕事だ」と言って出て行こうとした時、振り向きざまに「今度はサシで話そうぜ。来週の水曜に来いよ」
 素晴らしい。2年目で初めて受け容れられた、と感じた。来週が待ち遠しい。
一日一生 慧智(070523)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 09:08 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月21日

●第1062話 『大子の禅会にて』

花無心招蝶    花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花    蝶は無心にして花を尋ねる。
花開時蝶来    花 開く時、蝶来たり、
蝶来時花開    蝶 来る時、花は開く。
吾亦不知人    吾れ、人を知らず、
人亦不知吾    人、吾れを知らず、
不知従帝則    知らずして、帝の則に従う。

 昨日の活人禅会の開枕後、薬師堂での独坐の折、たどたどしい飛び方の蝶を見た。ここで“大悟”とくれば洒落の効いた絵に描いたような禅会なのだが、未熟者故の悲しさから、そうは問屋は卸してくっれなかった中で、ふと良寛さんの漢詩が口を付いて出てきた。考えてみれば当然かもしれない。過去、何回と無く『慧智坊の一筆説法』に書いたものだ。
 蝶は歩けないが飛べる。人は飛べないが歩ける。花は期が熟せば笑い、蝶を招き、蜂を招き、人の心に潤いを与える。しかも、無心にだ。只、今その時の環境を全面的に受け入れ、工夫をしながら文句も言わずに黙々として生きている、人間以外は皆同じ。
 それに比べて、痛いの熱いの辛いのと、己の病魔如きで右往左往する己としては、禅坊主失格だ。そう思った瞬間、己の連想系は自動的に太宰治の人間失格の中で主人公が心の中で呟いた「あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っている・・」という一文が思い出され、同時に、「何とも単純な己だろう。お前は此の世で最も厄介な奴だ。“あるべきよう”と生きてはいるし、生きる事への執着も大きくは無が、すべき事を残して去るのは忍び難いな~」という思いが心底から聞こえた。
 こんな情けない禅坊主が、人の心を受け容れられるだろうか。しかし、こんなチッポケな事であれ、地球の体力が減衰しているということであれ、天変地異であれ、全ての現象は自然の法則に従い、それを知っていようと、知らなかろうと、不知は許されずに従っている。
 自然を征服しようなどという考えは愚の骨頂である。人間も山川草木も自然の一部。受け容れつつ適応し工夫して生きるのが真理。今日・此処での己の心は一瞬の現象。邪心・有心であれば苦しみ、清心・無心であれば、全て敵うのが自然の摂理。真理。
 さて、参加者諸君は、坐れたかな?。
一日一生 慧智(070521)
『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
★大阪から飛び入りのEさん。無事に帰りついたかな?

投稿者 echi : 20:15 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月18日

●活人の誓いについて

 活人の誓いが『四句請願』であることは、機会あるごとに話しています。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)
それも、順番があり『度→断→学→成』。先ずは野にあって衆生を救う(社会貢献を意識する)。少欲を捨て大欲をもつ(目標意識より目的意識)。本質・真理・原理・原則を学ぶ(枝葉末節に囚われない)。己を完成させる(地球規模・宇宙規模で働く)。そして、竿の頭から飛び降り、基に戻って『度→断→学→成』を繰り返す。これが『百尺竿頭進一歩』(無門関より)の意味。
その大本の心には、活人禅堂の聖僧さんである慧可大和尚に対し、初祖達磨大師が与えた、以下に示す伝法の偈(一節)がある。
『吾本来茲土』・・・我れこの国の土となるために来た。
『伝法救迷情』・・・それは、法を伝えて、迷情を救うことだ。
『一華開五葉』・・・花が無心に開くように、純粋無垢な心となれ。 
『結果自然成』・・・無心に法を伝えていれば、自然と結果する(果を結ぶ)。
 我らが、坐禅を通じて文殊菩薩の智慧、慧可大和尚の心と行動と一心同体になるということは、両方の腕が揃ったままで、達磨の直弟子となり、文殊の智慧が働くはずである。
 さて、慧可大和尚が自ら左腕を断ち切って初祖に差し出した事を、肯定もせず、否定もせず、解説もせず、言葉も使わずに、山川草木に対して応えてみよ。
 応えなければ、活人を捨てることとなり、応えても言葉を使えば命に叛く事になる。
 さあ、どうする。
一日一生 慧智(070518)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
*明日3時、胆の据わった禅士を寺でお待ち申し上げます。

投稿者 echi : 10:05 | コメント (0) | トラックバック

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

 “好き嫌い”という二見が人間本来の自由を奪うことは少し考えれば解ると思う。好きな事は前倒し、嫌いな事は先送り。身に覚えがある人は多いだろう。“好嫌”という情動、“善悪”という感情、“正否”という理性。人が出会う現象を好事だ、悪事だ、都合が良いの悪いの、善だ悪だと二つの方向に分けることが“苦の源泉”なのだ。そして、そこから始まるのが、身勝手であり、求める心、偏った心、拘る心、囚われた心なのだ。そして、それを放置しておくと、執着心・先入観となり、行動が偏り、結果的に世間を狭くした上に、“自由”を失ない苦しむことになる。
 ネット禅士諸君。充実した人生にしよう!勿論、それは一朝一夕には出来ないが、今、此処で始める決断をしないと、いつまでたってもイキイキ人生にはならない。
 禅では、何事も“否定せず・肯定せず”、差別無く分別しないことを、先ず肝に据えさせる。そのためなら、師は弟子に対して強硬な手段も厭わない。そこを乗り越えられなければ、修行には耐えられないし、全てを“あるがまま”に受け止めることはできない。そこさえ乗り越えられれば“自然”と共生が出来る“自由自在”に一歩近づく。その心が“無心の心”という境地である。そこまで辿り着ければ、仏滅だ大安だなどの吉凶などは考慮の対象にすらならないし、喜怒哀楽に振り回されることなく『日々是好日』『無事是貴人』に得心が行く。妄語迷信など敵ではない。仏滅に結婚式をしようと、大安や友引に葬式をしようと、吉だ凶だ、方位だ、四柱推命だ、星占いだ、血液型占いだ、怨霊だ、怨念だなどの妄想など笑い飛ばせる“自由”に目覚める。何があってもドンと受け容れてしまい、理由を考え出したり、こじつけたりすることは無くなる。毎日が廓然無聖。カラッとしたさっぱりした気分だ。ただ、それで満足していては禅者ではない。ここまでは“自利”つぎは“利他”だ。
 人生を充実させたいなら、自分を自分の人生の主人公にしなければならない。それには、常識と思い込んでいる事を一度、全て捨てて、価値観を再構築する必要がある。だが、世間的な常識と思い込んでいるもの、価値観を全て否定し排斥するものではない。それらの全てを『肯定もせず否定もしない』目で見つめ直すのが大事なのだ。ところで、貴方にとって『好事』とはどんな事かと問われれば、『自分にとって“都合のよい”こと』だと答える人が多いだろう。日本人は“好い事、良い事、善い事”と書いて、どれも「いいこと」と発音する。同様に好い人、良い人、善い人と言う場合も同じ。勿論、3つの意味は異なる。しかし、前出の3つの「いい事、いい人」は“自分にとって“都合がよい”という共通項はある。

 心理学の世界では、「好い事」を感じるのは情動、「良い事」を判断するのは理性、「善い事」と決め付けるを人格という概念で説明しているし、大脳に部分機能を持つ構造に帰着させて考えることが多い。しかし脳に“その場所”があるのではない。脳の進化の過程で変わってきた“主導脳”による情報処理の異なりに呼び名をつけただけだ。だから、単細胞→多細胞→植物→魚→両生類→爬虫類→哺乳類→高等哺乳類と進化してきた人間だけが3つの定規を持ってしまい、その相互関係の矛盾から“自由”に生きていることが出来なくなったのです。 それが、釈尊をして『一切皆苦』という大前提を構成させたのだ。そして、苦の原因を断つ方法を探すために出家し修行をし、苦の分類(四苦八苦)と構造を発見し、苦しまない生き方を発明した。それが『一切皆空』といって、全ては相対的であり実態は無く、全ては“紙の裏”のようなもので、見方次第だが、不可分不可同、つまりは固定されたものではない、という真理に行き着い
た。そのポイントは、全ては実体ではなく、相対的な幻想に過ぎないということだ。だから、物事が二つに分かれる前、『我(が)』を『父母未生以前の己』に立ち返れらせればば、生死一如であり、原因が縁と結びついて結果となるのだから、結果に注目して苦しんでも無駄で、自分の心に注目し、結果は全て無条件に受け止め、足るを知れば、“此の世こそ大安心で満ち溢れている蓮華国、浄土であると理解し、『無事是貴人』『日々是好日』『平常心是道』『一期一会』『薫風自南来』・・・・という『禅語』は、結局『好事不如無』の心と同根だということを得心するために坐禅を発明したなのである。

 「穏やかに、伸びやかに、安心して、活き活きとしつつ淡々と暮らす」。反対する人がいるだろうか。心と体は不可分不可同、心身一如。差別する区別する分別することが幻想だと解ると、この上の無い気分で暮らせるようになると考えられないか?
 今週の土日は、大子の活人禅会です。自宅で一人で坐っているのも良いが、一度は寺に顔をだしてください。
 一日一生 慧智(070516)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 03:24 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月16日

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

 究極の答えは『禅を体得した者以外に“自由”は無い』ということだ。言い換えると、禅を極めることは、“自由の自覚を得る”ことだ。だから、欧米には“自由”は無い、と断言しても過言では無い。
自由とは、“主観”という幻想から覚めることだ。自由においては、主観も客観(≒主観)も無い。自由とは“無心”のことだ。只それだけ。道徳的・倫理的・法律的など意に反するの制約が無い、ということが“自由”なのではない。今一度5月1日の説法を読んで欲しい。
 君は重力から自由になれると思うか?。宇宙に出れば重力からも自由になる、と応えるか?。食欲から自由になれるか?。環境から自由になれるか?。そもそも自我から自由になれるか?。辞書の定義から自由になれるか?。自由民主党に、文字上の自由はあるが、本当の自由はあると思うか?・・・・・。
 つまり、自由は意思でも意志でも無い。自由は、“本来”であり、『自ずからに由(よ)る状態』をいう。『由』の文字を見ても解るだろう。“由”は、田んぼから芽が出てくることだ。芽は誰かに命令されたか?。気(期)が熟せば『自ずからの由(よし)により発芽する。言い換えると、自由とは、“あるがままにある”、“あるべきよう”ということだ。
 良寛さんの言葉を借りれば、『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』こそ、“自由”を自覚している表現だ。死ぬまいとするから不自由になる。解るか?。相手を自分の都合で動かしたいというから、不自由になる。解るか?。自他不二に逆らい、相対的に、対象を考えるから“主人公”の椅子が危なく感じて不自由になる。“随所作主”は自由であってこそだ。自由であれば、何処でも主だ。解るか?。
 科学は考えなければ解らないが、科学を考える科学哲学は考えの所産を放棄している。限定合理性の範囲外、つまり無限定という自由な状態では科学は無力なんだ。ミクロとマクロの僅かな領域でのみ有効な科学を、現代的に言えば、科学は“コンビニ”、便利だけど絶対では無いのだ。“自由”を知りたければ寺に来て坐れ。10年坐れば誰でも解る。一日で解るかもしれん。
 これ以上、応えようもない。あ、そうだ、“科学”に毒された頭は科学から解放されなければ、自由のスタートラインにも着けんぞ。欧米風に云えば、自由は我、欲望からの解放だ。だから欧米には“自由”がない。自由が無いから共生が出来ずに、争い競うことを続けるしかない。
 “悟り”とは“本来”全てに行き渡っている『無一物中 無尽蔵』の“自由”を体現して(竿の頭まで行く)、現在の全てをあるがままに受け容れる(戻ってくる)ことだ。
 ところで、君は自由になりたいのか?自由を知りたいのか?不自由なもんだな。皆、本来は自由じゃないか。刑務所に入っていても自由な者は自由。六本木ヒルズに住んでいようと不自由な者は不自由という方便が伝わらないかな・・・。残念。考えすぎると体を悪くするぞ。馬鹿に付ける薬は有っても利口に付ける薬は無いか。御免。あんたさん、もしかしてミスター・マリックか?メニュー見ただけで腹がいっぱいになるんかな?

一日一生 慧智(070515) 『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

投稿者 echi : 16:56

●『善悪』について 

 道元禅師の言葉に『人の心、もとより善悪なし。善悪、縁に随ておこる』というのがある。これは禅師の侍者であった懐奘により書き残され今に伝わっている。意味は「全ての現象・事象には人の決めた“善悪”とは無関係な“因”があり、それが“縁”に触れて“果”となり、また因となり回り続けて返ってくる。それが因果応報。だから回向返照。“本来”に善悪などはないが、道徳的な善悪、儒教的な善悪、世界で異なる法律的善悪。夫々で異なる宗教的善悪。善悪の基準は心の汚れ具合で皆少しづつ異なるが、己の清心の基準で善をなし、ひけらかす事をしないことは大切な事。だが、残念ながら人間は染まり易い。だから“したい事より、すべき事。すべき事より出来る事を大事にしよう。己の認識の有無には関係なく、縁が“善果”を結ぶ場合もあれば“悪果”を結ぶ場合もある。そして、それがまた“因”となる『因果一如
』。真理は永遠に繰り返す。どんな人間でも、生きていれば悪因の無い者も、善因の無い者もいない。問題は“何れに偏っているか”である。如何なる結果も自業自得。だからこそ、『全てを素直に受け容れる』のが一大事。それがどの様に評価されるかなど気にしちゃならん。出来る事に全力を尽くして、知足(足るを知る)。
◆良寛さんの一言
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』人は誰もが災難や死から逃れたいと思うものだが、不安や恐怖に逆らおうとする心はストレッサ
ー、ストレスの原因。望まぬ方向への道案内。だからね、何事にも逆らわず、力を抜いて素直に受け入れてこそ、この身即ち仏なり。この智(地)即ち蓮華国。それが妙法。 俗世間の善悪は相対的。心を無にして生きことこそ善、そして禅、そして然、そして全。
一日一生 慧智(070515)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
◆報告:薬は薬で毒は毒は西洋の二元論物語。東洋は薬は毒で毒は薬。意味深長だな。

投稿者 echi : 00:49 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月14日

●『本来』の意味・意義について

『禅』ないしは『大乗仏教』でいうところに『本来』とは、過去の拘り囚われ、偏りの一切を脱落せしめた純然たる“今”という瞬間が永遠に続く時空に依存する以前の世界を示す。
 つまり、『一』という全体を構成する『一』という部分が全体と相互浸透している世界である。
更に言えば、父母未生以前の己の消息であり、“二つ分かれ”する以前の『一』という未分化の世界である。それは、不二、自他一如、生死一如、不生不滅、不増不減、不垢不浄の状態であり、人間の手で汚れる以前の天然の世界である。
 故に、『本来』とは、無一物であり、無一物中無尽蔵の融通無碍の世界であるといえる。
 実は、『禅』における悟り(大悟)とは、その無空の消息自体を己を媒介にして坐禅・作務および行住坐臥の修行(歩歩是道場・日々是道場)の全てを以って自覚し体現することである。
 つまり、『己事究明』こそが真理(本質・原理・原則が同心球、円や球の中心)を悟る行為の唯一無比、絶対の方法を持った目的であり、目的を持った方法なのである。
 故に、禅の修業は『大死一番(娑婆の自分の一切を殺して(出家)、無心の心を心として修行に徹する覚悟)』が大前提となっている。なお、禅でいう『無心』は、空っぽ。自由で創造的で新鮮な心。それが『大死一番』で蘇った新しい己であり心身一如の姿です。言い換えれば『放下著』した残り(無)こそ『本来』が指し示すところなのです。
 なお、“本来の禅師”は、達磨大師が慧可大和尚に示したように、弟子が師に相見して公案を受け取る為には、本来、坐禅により“一度は死んだ己”を呈する以外には道は無いのです。
 とい訳で、野狐である愚僧ですら相見を受けにあたり、座禅の経験だとか、禅の知識だとか、況や社会
での地位などに関わりなく、『以心伝心』を重視している。言い換えれば、“人を観て法を説く”事以外に参禅者に応える方法はないのです。

以上、『本来』の二文字ですら、言葉で伝えるのは難しい。況や、無だの空だのは意味を頭に記憶させるのは大した問題ではないが、全身に染み込ませせるのは禅師としても命がけなのです。
達磨さんが『教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏』と言わざるを得ない気持ちが理解できたかな?
一日一生 慧智(070514)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合 掌

投稿者 echi : 15:15 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月13日

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

『和光同塵(わこうどうじん)』は、“和≒品性(“和を以って貴しと為す”の和)”と“光≒光り輝く才智(≒天分)”を“同≒同じくする”と“塵≒汚れ≒塵芥”で構成された句と考えられます。 
 つまり、『和光』という全ての人間が本来から具有する清い心や個々独特の能力を、『同塵』、即ち“塵や芥”と同等にするということです。
 しかし、一般には何が何だか解りませんね。
 ところが、東洋の教養を身に着けていたり、禅を学んだ方、“**道”というような行為を通じて自分自身を磨いておられる方であれば、これは“謙虚であれ”とか“陰徳”を積む事だと解釈します。
 更に、禅の修業を真剣にされた方は、『和光同塵』は禅語(文字や言葉を引き金にはするが、それに囚われずに本質を観じる)として受け止めて『己の本質である穢れ無き力量を他の為に使う上で、無功徳に功徳を期待するような偽善に流れず、修行の成果かど微塵も見せずに巷(≒野、俗)にあり、人知れずに衆生を救い、救われた者に救われた意味を悟らせる生き方こそ最高の生き方だとなるでしょう。十牛図の十番目にある布袋さんを連想するように理解し同時に行動します。正に菩薩さんの行住坐臥です。正に、私達ネット禅士のゴールイメージです。
 さて、目を現在の日本社会に転じてみましょう。
 現在の日本の姿は、禅者である私達の非力のためなのか、民主主義、自由主義という変幻自在な隠れ蓑を被った経済(経国済民)、拝金主義、資本主義を建前に“経営(営みを経て目的目標を達せさせること)”という実を伴うべき志を曲解した格差社会(勝ち組と負組みを明確にする不公正・不平等な社会)を固定し拡大することで“新市民と新奴隷”という新たな身分社会を一部の権力者が誕生させようとしているように見えます。
 勿論、日本という国は“過去”が素晴らしくて“今”が悪い、というものでは断じてありませんが、20世中盤から世紀末、そして21世紀初頭にかけての変わり様は、恰も“一億総博打打ち”にようです。特に昨今の日本社会は、上流はヘッジファンド・株式投資のようなマネーゲーム。下流はパチンコ・競馬・宝くじのような射幸性ビジネス。双方ともに実を欠いた“虚業”に幻惑され、猫も杓子も金金金・・、ではないでしょうか。
 考えてみると、経済界のリーダーの一部は『和光同塵』を忘れて主婦、退職者、中学生に株取引を教えて誘い込み、政界のリーダーの一部は『會成一棵大樹 給天下人做蔭涼』を忘れ、世界遺産とも言える非暴力宣言を柱とする憲法まで放棄しようとしています。その上、“和を以って貴し”としてきた声無き声の“国民の本音”を守り、事実を正確に伝達する使命を持っているはずの“マスコミ”は、官民の区別なく品性を欠いた“面白ネタ”で読者や視聴者を獲得し、異なる種類の利権と結託して拝金主義を煽り、勝手な論理を振り回す文化人や学者をも取り込んで、正義を装いつつも、司法権でも握ったかのように、時には国民を裁き、日々に弄んでいるようです。また、国民は国民で、自分さえ良ければ良い、という手前勝手な論理を展開する無知蒙昧ぶりで、個人的利益のみに目を奪われ“快楽と投機”に没入しているようです。更には、“勝組二世”と言われる輩、即ち“虎の意を巧みに利用できる小利口な高学歴”は、“御為倒しの善意・正義”を隠れ蓑に市場イメージに過剰反応する時価純資産の高い企業と徒党を組み“非営利事業という営利事業”を考案して『大量生産・大量消費・大量廃棄』を支える金融やIT産業という虚業の延命を図るため、『環境保護活動』や『環境回復活動』という収益性の高い“虚業”を考え出す始末です。
 勿論、それらは“一事が万事”ということではありませんが、それらは高い“教育効果”を有し、日本人の品格を収穫逓減の如く下げ続ける危険を孕んでいるのです。
 『和光同塵』とまでは言いませんが、日本は米国の属国でも、北朝鮮の玩具でも、中国の標的でも無いはずです。以和為貴、質素倹約、質実剛健、非暴力、独善より協調、競争より協奏の素晴らしさを体験している“まとも”な国民であり、世界屈指の“共生による世界平和のノウハウ”を持つ国です。
 そうは思いませんか?
 ネット禅会に参加されている禅士諸君、そろそろ『自利利他』事を実践する時節ではないでしょうか。
 以上、禅というより儒教的な説法になりましたが、全ての人類が安全・安心を確保でき、山川草木と共生できる地球を取り戻せるように行動しようではありませんか。
一日一生 慧智(070513)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』 合掌

投稿者 echi : 22:13 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月12日

●良寛さんの漢詩に学ぶ

人心各不同 如面有相違    
倶執一般見 到処逓是非    
似我非為是 異我是為非    
是我之所是 非我之所非    
是非始在己 道固不若斯    
以竿極海底 祗覚一場疲    
◆慧智の読み下し(二句読み)
人心(にんしん)、各おの同じからず、面に相違のあるが如し。
倶(とも)に一般の見を執(しゆう)し、到る処 逓(たがい)に是非す。
我に似れば非も是と為し、我に異なれば是も非と為す。
是は我れの是とする所 非は我れの非とする所。
是非は始より己に在り、道は固(もと)より斯くの若くならず。
竿を以て海底を極めんとすれば、祗(た)だ疲れを覚ゆるのみ。
◆慧智の超訳
人の心は顔に違いがあるように皆異なるものだ。
しかし、皆、自分の考えに固執し、相手の考えの是非を決め付ける。
問題は、自分の考えに似ていれば相手を肯定し、異なっていれば否定するところだ。
つまり、是々非々は最初から自分の尺度で決め込んでいるということだ。
ところが、自分が決め込んである是々非々の基準は、しばしば道理に反するものだ。
それは、竿で海底を突こうとするようなもので、疲れ果て空しさが残るだけの話なのだ。
◆要約すれば『人間には個別的特性(個性)があり、各々が自分の価値観に固執して相手の是々非々を判断するが、結果的には真理を見過ごし空しさだけが残るものだ』と言っている。
◆禅士に問う。
禅では、個性の違いを表面上では認めているが、真理は“無個性”だと個性を断じているが、何故か。

一日一生 慧智(070512)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 19:28 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月10日

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。

 鈴木大拙に拠ると、慧智和尚の般若心経の解釈の終わりの呪文のところで、文字は『羯諦羯諦』とあるが、正しくは『掲帝掲帝』。意味は『行って観よ』ではなく正しくは『来た・着いた』だと書いてある。・・・・・という、御指摘を頂いたので、お応えしよう。
 先ず、文字については“当て字”であり何種類もある。特に呪文は"音”こそが肝であり文字はどうでも良いはず。心経のように、音訳であって意味をも伝える時は“漢字”は慎重に選ばれる。つまり、呪文の文字に何が正しくて何が間違いだということは無い。況や、鈴木大拙師が正しいという思い込みは如何なものか。
 次に、拙僧が『行って観よ』と訳しているは、大拙の『禅学』とは聊か異なる発想からである。そもそも般若心経は"空”と解いているが、解いているだけでは心経が担った使命を果たせない。確かに、単純な翻訳なら大拙氏の『来た・着いた』であるが、『来た・着いた』と言って良いのは拙僧の解釈では『釈尊のみ』である。拙僧は、心経を菩薩(修行中の仏)に読ます場合は『来た・着いた』ではなく『行って観よ』と訳すのがスジだと思っている。
 『禅(宗)』は、修業こそ肝であり、『不立文字』を深く理解していれば、文字に囚われているのは愚考であると解るはず。そもそも『経』には音訳(一種の陀羅尼)と意訳、それに和讃があり、何れも修行の補助が目的であり、それに囚われてはならない。
 因みに『経』は、ある意味で意味が解らない方が無心となることを促進すると思う。つまり、意味が解りそうな場合は、看ようが読もうが、意識への働きかけが強く、『直指人心』の障害になる。『教外別伝』とは、文字や言葉を離れたところを指すもので、仏の心は修行者の心に内包されているので、その浮上を支援できれば良いのだ。
 さて、Yさん。中途半端と中庸は違いますな。学と修、行も違いますな。大拙と慧智も違いますな。ところで、Yさん、貴方は誰ですかな?。拙僧は釈尊であり達磨であり貴方ですよ。禅を学問と考えるのは欧米人に多い。何故なら『宗教はキリスト教しか許さない』からである。となると貴方はクリスチャンかな?。まあ、何でも宜しい。一度は寺に来て坐りませんか?。拙僧の文殊一刀流警策の乱れ打ちを受けてみませんか。限界に来てしまった二元論を超えてみませんか?。それが『両忘』の意味です。Yさん、大拙を読まれるとは素晴らしい。しかし、それにはそれなりの理由があるだろう。背景には言い難い何かがあるのだろう。待っているよ。何年先でも構わない。 
 拙僧は、いつの日にか『羯諦羯諦』の訳に関して参禅者から指摘があると期待していた。しかし、残念
ながら3年以上、指摘も質問も無かった。
 なお、『行って観よ』が間違いだと指摘する人は、『来た・着いた人』ではないから、『行って観よ』が正し
い。何も指摘しない人は『行き先が解らない人』か、『来た・着いた人』。後者の『来た・着いた人』は拙僧の真意が伝わるので指摘はしない。前者の『行き先が解らない人』は指摘が出来ない。となるとYさん、貴方はなかなかである。しかし、大拙を読むのは早すぎる。先ずは坐ろう。
◆蛇足:人間、指摘されている内は現役でいられるが、指摘を受けられなくなると引退しかない。今日は、少々辛い日であったが、「未だ死ぬな現役でいろ」という応援を受けたようで嬉しかった。感謝。
以上
一日一生 慧智(070510)久しぶりに全身が硬直し骨が折れるような痛み、されどそれは生きている実感をくれる。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合掌。

投稿者 echi : 19:30 | コメント (0) | トラックバック

●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

■釈尊が涅槃に際して説いた『仏遺教経』にある『少欲知足』に対する道元禅師の解釈として正法眼蔵に「多欲の人は、多く利を求むるが故に苦もまた多し。小欲の人は求むることなく欲なければ、すなわちこの患(わずら)いなし」とある。拙僧は「己の身の程を知り、過剰・過少を両亡した“あるがまま”を素直に生きることが“大安心≒豊か”に通じ、結果、苦楽一如を知るの処世の極意に通じる」と話している通りで、意志ではなく無心という『真』を説く。
■道教の祖にあたる老子は老子道徳経第33章に『知人者智 自知者明 勝人有力 自勝者強 知足者富 』、読み意味は「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つは力、自らに勝つ強。足るを知る者は富む」とある。つまり、道教(現在の道徳の原点)では 『足るを知る者は経済的に貧しくとも心は豊かで
、足るを知らぬ者は経済的に豊かであっても心は貧しい』というニュアンスで、意志の持ち方を説いてい
るのであって、正に道徳的な『道』を説く。
■儒教の祖にあたる孔子の、天下は“徳”によって治めるべき、云わば“徳治主義”の立場からの言葉を
思い出すと、やや疑義はあるものの、『知足安分(ちそくあんぶん)』という思想、つまり士・農・工・商・穢多・非人というような身分は、社会における分業のための区別であり、人間としての差別ではないという政治思想である『理』を説く。
■詳細は知らぬが英語圏の教訓に『A contented mind is a perpetual feast. (満足する心は永遠の馳走である)」というキリスト教的な禁欲の示唆がある。
■現代中国で文化大革命後も支持されているのが李繹『五知の知恵』といわれる『難を知る・時を知る・
命を知る・退くを知る・足るを知る』という“長いものには巻かれろ(躓く方が悪い)”という教訓がある。
 以上、『知足(ちそく)』という“心”は、洋の東西を問わず、常識人の座右の銘になっていることが多く、心豊かに生きる人生の肝ではあるが、『知足』の概念を獲得し納得した源泉(初めて聞いた、読んだ、納得した、話した・・・)の異なりにより、夫々の価値観は異なる。
 禅士諸君は、以上のどれに共鳴するか。ないしは“菜根譚”という仏教・道教・儒教をブレンドした現実的処世術に共鳴するか、ないしは四書(大学(礼記の一部)・中庸・論語・孟子)の一つに出ているよな『修身齋家治国平天下(大学)』、拙僧の解釈では、これは禅+道教+儒教に通じる『足るを知る』に至る考え方に共鳴するか。
 21世紀の現代日本は、20世紀の人間主義、物質主義、征服主義、利己主義、拝金主義を下敷きにした“破戒文明”にケジメを付け総括する事無く、不愉快極まりない『“御為倒し(おためごかし)”文化・文明期』に突入している。大量消費・大量廃棄・環境汚染を必須アイテムとする資本主義経済は、その限界が大衆に露呈するや、LOHAS(持続可能で健康的な生活様式)という言葉を生み出し、資本家の
都合による経済成長を維持するためにNPO活動やNGO活動という“稚拙な善人の活動”に目を向けさ
せ、諸悪の根源である『人間欲求充足主義』を問題視されないようにしている。温暖化→熱帯雨林の減少→植林=御為ごかしビズ。勿論、破壊した自然を復活させることは大事であり、それ自身に異論は無いが、その為に、人間は如何に生きるべきかという『根本的な課題』から視線を逸らせるのは如何なものか。
 『善(道徳)』や『倫理』は、世界共通ではなく、宗教や民族文化、思想が異なれば真偽が逆転し正反
対が概念が正当化される危険思想、つまりはローカルルールである。
 一方『禅』は知られざるグローバルスタンダード(世界標準)として知識人には知られているが、我ら禅僧の力不足で衆智させられていない。ここには禅の『矛盾を抱え込んだまま止揚するという』という特徴があるからかも知れず、『己の行住坐臥をモデル』にし、解る者は何時か解る。解らぬ者も皆仏という考えがある故に、出しゃばらない。来る者は拒まず、去る者は追わない。
 本当に、これで良いのか。ここ数日、体温40度、患部に熱感。ステージ4なれど坐禅三昧。心からこの世界を救いたいと思うが、力不足に悩んでいる。寺に居れば日常に感けて見えないことが、娑婆で病め
ば見える。見えたときは遅い、に悩む。正に『一切皆苦』である。
一日一生 慧智(070510) 品川五畳菴にて
◆『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 13:10 | コメント (0) | トラックバック

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

  『碧巌録』九六則・趙州三轉語「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽」という偈がある。読みは「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。雪に立ちて未だ休せずんば、何人か雕偽せざらん」というのが一般的。
 そして、評唱には「泥佛不渡水。神光照天地。這一句頌分明了。且道為什麼卻引神光。二祖初生時。神光燭室亙於霄漢。又一夕神人現。謂二祖曰。何久于此。汝當得道時至。宜即南之。二祖以神遇遂名神光。」とある。読みは、「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。この一句に頌して分明にし了る。しばらく道え、什麼としてか卻って神光を引く。二祖初め生るヽ時、神光室を燭して、霄漢にわたる。また一夕神人現じて。二祖に謂って曰く。なんぞ此に久しき。汝まさに道を得べき時いたれり。宜しく即ち南に之くべしと。二祖神遇を以て、遂に神光と名づく」である。
 「神光」とは、達磨大師の後継であり、活人禅寺の聖僧として禅堂に鎮座している二祖慧可(えか)大和尚のことである。慧可大和尚は、達磨大師の下で修行を願い出たが許されず、左片腕を元兵士らしく雪中で自ら切り落とし、修行への決意を示したところ、入門が許され、初祖達磨大師から『慧可』の諱を賜る。
 表題の『泥佛不渡水 神光照天地』の意味は、「土作りの仏像は水に溶けて消えるが、神光により伝えられる法は世界に伝わり天地をてらすだろう」と受け取ってよいだろう。翻って言えば、己を超えてゆくであろう只一人の後継者を経営することが修行の完成を意味し、その後あらゆる評価すら捨てさり、正に無一物となり、存在そのものが“癒し”として巷にあるのが禅僧の理想像かもしれない。
一日一生 慧智(070509) 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏』

投稿者 echi : 01:16 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月08日

●回向文について

 最近のことだが、説法文末に回向文『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』を書いている理由は、『自利利他』の本願をネット禅会の参禅者の全てと共有し実行して行きたいと願っているからです。禅は、こ洒落た文化でもなければ、学問でもなく“菩薩行”たる“宗たる教え”ですから、修行そのものなのです。その事を忘れがちな禅士が紛れ込んだり、やたらと質問をする“勉強好き”が増えるのは考え物なのです。
 前出の『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』という法華経からの回向文は、多くの回向文の中でも皆さんには一番身近であり“ピンとくる”回向文だと思います。
 何故なら、禅宗系が理解している菩薩は、『自未得度先度他』を肝に据え、己の悟りより衆生の悟りを支援することを優先させ、己の積んだ陰徳、功徳を全ての衆生に巡らすことを毎日毎日、己に誓っているからです。四句請願の一句目も同様です。勿論、『自利利他』は一如、『自他一如』です。つまりは、利他の“他”の中に“自”は含まれているし、自利の“自”の中に“他”は含まれ、自即是他、他即是自なのですから、何も改めて回向文を読むことは無いのですが、悲しいかな、体は毎日風呂に入れるが、心を風呂に入れるのを忘れがちなのが人間です。私とて病を直そうとする私利私欲からか、ついつい大事な大事なことが後回しになってしまうことがあり、それを戒め、請願を達成させるために毎回毎回、回向文を打っています。燃え尽きたはずの薪でも、風の吹き様で燃え上がることもあります。努努、ご油断を召されぬように願います。
一日一生 慧智 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』

投稿者 echi : 14:39 | コメント (0) | トラックバック

●仏教では“方便”を多用すると言われていますが、それは“嘘”だとうことですか?という質問に応えて。

 先ずは、基礎知識です。『妙法蓮華経(法華経)方便品』が“方便”の出所であり、その語源はサンスクリット語の(upaya=ウパーヤ) のようです。
 次は、“方便”の意味です。方便は、『衆生を経営(教え導く巧みな手段)する』あるいは『真実の次元に導くための“便宜上の教え”』ということです。
 ですから、方便の使用者は、使用後、方便を作った者の責任から離脱して一人歩きすることを許しません。つまり、制作者が特定できる“経”は良いと考えるのが基本です。
 言い換えると、“方便は純粋な意味で真理ではない”と認識している。つまり“真実を知っている者”以外が“方便”を利用することは、それが正当な目的であり方便だと解っていたとしても、方便の“背後にある真実”を知らない者が使かうことは、方便ではなく“嘘、騙し”となり、将来の禍根を残すので、悟りに達した者以外が“方便”を使うことは許されません。
 なお、釈尊の“方便に関する見解”が伝わっていますので、参考にしてください。
『私がみんなに説いていることは、人が真実の次元に到達するための筏に過ぎない。つまり筏は、此の岸から彼の岸に渡るための便宜上の道具で、渡ってしまえば必要ないもので、それ以上のことではない』
 また、その後の仏教界でも、『菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす』とあり、目的を達成させるための行動を動機つける以外に、方便を使うことは許されません。
 つまり、霊魂だの、彼岸だの、浄土だの・・・、に始まり“ご利益”などは、衆生を一時的にでも救い、衆生を経営する目的で作った者以外が使うことには疑問を感じますが、千年以上も繰り返されると“嘘も真”として信じる者も多くなり、最終的に“結果”が悟り(真理を知る)に結びつくなら、方便を受け容れべきが現実です。
 ですから、禅宗は、他宗他派を否定せず、異教をも包み込むのです。簡単に言えば、子供相手に高等数学の知を解いても混乱するだけですから、円周率『 π』 は超越数であるが、便法上は『π』、方便では『3,14』・・・とするのです。ですから、『3,16』という間違いや嘘はいけません。因みに『π』は一転語となるか、呪文かもしれません。勿論、これが『円相』の意味することかも知れない、と愚僧の慧智が言ったら、それは方便になりますかね。じっくりと考えてください。

一日一生 慧智(070507)『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

投稿者 echi : 02:55 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月07日

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

 どこで調べられたのか、お会いしたことの無い女性から電話で「強くなりたいんです。和尚さんの強さの秘密を教えてください」と聞かれ、「私が“弱い”ことを知っているだけですよ」と応えたが、納得いただけなかったようで、「強いことは辻説法を読んでいるから解る」「私は乳癌で手術したが転移し、死ぬのが怖くて寝ることも食べることも出来ない」「助けるのは和尚の仕事でしょう。だから、強くなる方法を教えて欲しい」・・・。随分と長電話になったが、拙僧の未熟さゆえ、楽にさせてあげられなかった。そこで、これを読んで頂ける事を期待して、“強くなるコツ”を伝授しようと思う。
 先ず、少しだけ冷静になるために、読んでください。
耳で聞けば同じ、読んでも同じ音、正に“異句同音(≠異口同音)”だが、文字を観れば異なる興味深い四文字熟語があるので紹介します。
■『一刀両断』とは、一太刀で、AもBも、両方を断固として切り捨て、迷いを断ち切る。
 禅語の
■『一刀両段』とは、一太刀で、AもBも両方を活かし、新たな境涯を作らせ、迷いを消滅させる。
 
次に、文字は同じだが、意味は微妙に異なる一転語があるので、紹介する。
 碧巌録十二則の圜悟克勤和尚が羅山道閑の言葉を引用した件の
■『殺人刀 活人剣は上古の風規、今時の枢要』
 無門関 第十一則の頌である
■『眼は流星、機は掣電。殺人刀、活人剣。』
 以上から、“空”を説き、“無心”となることが”究極の智慧”であり、あらゆる相反は上位に統合される“一如”であることを体得するのが『禅』であることは連想できるでしょう。
 元気であろうが、病であろうが、“今・此処の己”を活かし切り、一日一日を全力で生きることが、“弱い人間”と思い込んでいる人間が強く生きてゆけるコツだと知ってほしい。
 刀も剣も同じ矛。矛より強い盾もあり、盾より強い矛もある。それらが互いに対立することを“矛盾”という。また、殺人刀と活人剣が両刃の矛とすれば、理と情の相克に迷う時もあるだろう。知っていますか、文殊菩薩の剣は両刃です。
 弱い心と強い心が対立するのが“不安”の現況で、具体的な恐怖ではない。実は、そこが厄介。しかし、人間は本より、全面的に強い、全面的に弱いなど無く、経験知に惑わされた幻想、思い込み、先入観です。人間には夫々に個性があり、不安や恐怖の対象が異なります。ただ、それも宇宙から観れば些細なことです。
 どう考えても、人間は健康に生き永らえても100年。しかし、38億年の下積みの上での100年。つまり、貴女は38億三十歳、私は38億五十七歳。所詮、早いも遅いも誤差範囲でしかないんです。
 私は、人間は“病気や怪我”では死なないことを知っています。もしかすると、それを知っているから強いと思われるのかもしれません。死ぬのは寿命が尽きるからだと思います。何らかの役割を終えるからだt思います。
 世の中に不要人間など誰一人としてなく、皆、気付く気付かないは別にして役割をもって生まれ、役割を終えて旅立つのだと思います。人間、どんなに健康であっても“明日”は未知、誰にも解らない。だが、100年後は誰でも確実に死ぬ。
 そこから考えると、全ては“考え方次第”、時間の使い方次第だと思いませんか。
 確かに“痛い”のは辛い。私だって感じる。しかし、“痛い”と感じるのは脳であり、それを受け止めるのは“心”なんです。
 私は、人間に強い弱いの差別・区別が根本的にはあるとは思わない。が、貴女に百歩譲り、仮に強い弱いがあるとしても、前出したように、その原因は、“真理の気付き”の有無だろうと思う。しかし、真理は気付こうが気付くまいが真理であり、心理。 『真理が心理を正し、心理が真理を歪める』と思う。この世は諸行無常。無常迅速。時不待人。光陰可惜なんです。死ぬことは娑婆の修行の仕上げ、と考えたらどうだろう。人より早ければ優秀なのかもしれない。
 もし、痛みと不安が別々のものなら“苦”を『一刀両断』すれば”楽“になる。苦楽一如ということだ。
 苦しいものは苦しい、痛いものは痛い。それを乗り越えるには『一刀両段』。使う刀剣は、殺人刀か活人剣かの違い。
 活かそうと思っても死ぬことがある。死なそうと思っても活かすことがある。人生は矛盾だらけ、『一切皆苦』と同時に『一切皆空』、『苦楽一如』。
 事実だけを受け容れるか、余計な詮索に忙殺され偏見までも受け容れるかが、貴女の考える心の強弱を分けているのかもしれない。貴女から観て私が強く、貴女が弱いと思うから、貴女は相対的な強さを求めからだろう。私だって死ぬことに不安があるかもしれない。しかし、それを考え、悩んでいたら、残された時間を楽しめない。「痛い痛い」と言って、何もしなければ時間の浪費。何かに夢中になれば痛みは和らぐ。勿論、それは坐禅が理想的。時間の浪費は長生きが保証されるならモタモタ人生でも良いかもしれない。しかし、そんな人間はいない。命には賞味期限がある。賞味期限をを知って、それを活かせるのと、賞味期限を知らずに時間を浪費する人生では、何れに価値を感じるか。
 『痛い、苦しい、不安だ』なんて天下国家の安寧を考えれば些細なことだ。
 ところで、『脳と悩』の文字の違いは何処か。“身体か心か”という違いに気付くだろう。しかし、心無くして体なく、体なくして心なし、という事実からすれば、体と心に区別も差別も無い。
 坐禅をしてごらん。心と体は不可分不可同であることを体験するよ。
 確かに、不安だろう。しかし、誰だって不安の一つや二つはある。確かに恐ろしいだろう。でも、そんなことに忙殺されちては、残り少ない人生を楽しめないぞ。
 無理しても食べろ。辛くても坐れ。そして十分に寝ろ。残された時間を楽しめ。
 成長させる責任のある子供があるのか、無いのかは知らないが、親は無くても子は育つ。夫がいるかいないか知らないが、貴女が居なくても大丈夫。地球には30億人もの女性がいる。誰か一人くらい奇特な人は現れるから、後は任せればよい。年老いた親が居るのかもしれない。それでも大丈夫。日本の祉は捨てたものではない。返し切っていない借金があるかもしれない。心配無用。金は天下の回りもの。
 ところで、何が本当に心配なんだ。泣いていても何も始まらないし、何も解決しないで、大事な時間が過ぎるだけ。
 自分の弱さが心配なのか。人間には出来る事と出来ないことは誰にでもある。出来る事に時間を使おう。出来ないことを悩んでいる閑はない。診断結果だって医者の意見でしかない。私なんか日本の名医といわれる医師の三人が異口同音に『余命6ヶ月』と太鼓判を押してくれてから、丸3年生きて、人生最後の仕上げを一日単位でしている。寿命なんてものも解らん。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きる。どうせなら立派に生きよう。立派に死のうよ。
 悪いことは言わないから、兎に角、坐れ。幹部の痛みや心の痛みなど幻想だ、足の方が余程痛いぞ。不安は幻想なんだ。お化けと同じで、出た験しが無い。事実は、死ぬまでは生きているし、真実は、命は無限だということ。生に執着するな、拘るな、死に囚われるな。死ぬのか人間として健康な証拠。
 ところで、ドナー登録はしたか?他の人が使える部品があれば残してやりなさい。忙しいだろうが、時間が限られているなら、ノンビリと悩んでいる閑はないはずだ。自分のために生きるには限界があるが、他人のために生きるには限界はない。お互い、価値のある死に方をしようよ。それが『生きる覚悟』ということだ。大丈夫だ。我々が死んでも世界に影響は無い。むしろ、生きている事の方が問題かもしれない。
では、秋葉原辺りの冥土カフェで△印の鉢巻でもして会おう!只、今生きている奴と死んでいる奴では、圧倒的に死人が多いはずなので、お互いに出会えるかどうかチョット心配。
 どうしても苦しいなら、私のところに来なさい。苦しい心を私の前に出せれば必ず無くしてあげるから。
一日一生 慧智(070506)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:25 | コメント (0) | トラックバック

●『無常の偈』に学ぶ

■涅槃教より漢文と表面上の意味
諸行無常・・・森羅万象は常に変化し留まることはなく、
是生滅法・・・これを消滅の法という。
生滅滅已・・・生も滅も滅するに至れば、
寂滅為楽・・・何もかもを受け容れることが出来る涅槃の境地である。

*前半の二句(半偈)を流転門、後半の二句(半偈)を還滅門と言う。

■慧智の超訳
『全ては只一回の奇特な現象であることを悟り、全てを素直に受け容れて生きることが大安心の世界である』
 →一日一生(何事にも手を抜くな。今日出来る事を明日に延ばすな)
 →一期一会(何者も日々初対面、会った時には全力を尽くせ)
 →素直になって事実を受け容れろ。
 →心頭滅却すれば火は自ずから涼し。
一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 05:31 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月03日

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

『慧能大和尚の禅』について詳しく知りたい場合は『頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經(通称:壇経)』を通読された後、今・此処で貴方が出来るを完全にし切ることを奨めます。
 とは言え、問われた以上は、記憶の限りで応えましょう。しかし、慧能大和尚の禅は“頭(我)”では無く“心(己)”であることは言うまでも無く、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏の達磨大和尚の四聖句に見られる禅の肝の中の四句目にある“見性成仏”に力点が置かれているのが特徴と言えば特徴。
 『見性成仏』を文字や言葉で語ることを拙僧としては躊躇いがあるものの、言ってみれば、仏教の常識。当たり前のこと。誰に聞いても異口同音で、活人禅らしい答えに困る。
 つまり、『本来、此の世に現象している全てが公平、平等に埋蔵している“仏性(空に働く無一物の力)”に気付いた瞬間、己の内に埋蔵されている仏(無限の智慧)が萌芽し、即心菩薩となり、己(我ではない)とは即ち修行中の仏、菩薩であり、菩薩として、今・此処の己を素直に生きることこそ、己の外に何かを求める“我”ではなく、己の内の己(仏)を活かすこと。
 されど、簡単すぎて難解な慧能大和尚の心を理解する上で大事の全ては、達磨大和尚の五代目にあたる『五祖・大満弘忍大和尚』が後継者を選ぶため、弟子に対し、「詩に表した『悟りの心境』を観て決めるぞ」という『不立文字』から発想すれば愚問であって難問の思い付きに始まった、秀才にして高弟の誉れ高き『神秀』と、愚鈍に映るような下働きをしていた『慧能』の境涯を表す、以下に掲げた二人の詩から“己自身で”学ぶことを奨める。
 なお、ヒントとしては、慧能が弘忍大和尚の後継となって六祖になった後、周囲から囁かれたのが『神秀の漸修禅』、『慧能の頓悟禅』という有名な話を考えると良い。拙僧がそこから類推すれば、『神秀は左脳型の秀才、慧能は右脳型の天才』で、共に本来無一物の“凡才”から禅の修行により成長した“普通の人間”だということを導き出すだろう。さて、質問者は何を見出すか楽しみである。
 付け足しになるが、禅宗において“祖”とつくのは六祖慧能が最後となるのは、その後は南方禅の慧能系、北方禅の神秀系に分かれたからである。
→先手を打った神秀の詩は以下の通り。
■神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
→後手を打った慧能の詩は以下の通り。
■慧能の詩
菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
★問う:二人の詩の提示順序が逆さであったら、五祖は如何にしたか。(内緒だが、活人禅の公案の一つ)、まあ、書いた以上は永久に封印だから予習の意味は無い。
応えは以上である。

★最近、HPからの質問は増えたが、参禅者は減っている。活人禅は、堅苦しいのが嫌い。気軽に来て、気軽に坐って、楽しく山作務。『一泊二日三食四坐五月の坐禅は六祖の禅、無くて七癖、八百屋もビックリ、九労は無いが十実も無し、それでも実現、大子で大悟は3000円』。敷居は低く鴨居は高いが襖は無い貧乏寺。その上、全能の神は居ないが“禅脳”の死に損ないの和尚はいる。楽しいと思うがな。5月の禅会は、19(土)・20(日)。詳しくは★http://www.ryobo.org/sche28/sche28.cgi ★メールは info2@ryobo.org  大子も春爛漫、和尚は昼寝。軽薄短小、野狐禅和尚は禅僧の恥部。本日体調を崩し、ついに体温は40度。歩くと浮いているようで、頭は暴走、心は房総。海が見たい!
梯子と弟子は文字姿が似ているな~。何が違うのかな?

一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 15:20 | コメント (0) | トラックバック

●良寛和尚の心、一休和尚の心

■良寛さんは、新潟の豪農の出身で18歳で出家得度し修行の後、大忍国仙の法嗣となり、歌人・詩人・書家として大愚良寛という法名で18~19世紀を無欲恬淡に草庵に住して、庶民と子供とともに淡々と清貧を生きた高邁深遠な境涯の曹洞宗の禅僧。
■一休さんは、天皇所縁の出身で、一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)という法名で、臨済宗大徳寺の47世を経て15世紀を飄々と生きた禅僧で、『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有漏路(迷い)より 無漏路(悟り)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」と応じて境涯を示し、伝わる話では、1420年のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したとあるも師からの印可を断り詩人·狂歌·書画を残しつつ風狂の生活を送った。
 さて、この二人、曹洞宗の良寛和尚と臨済宗の一休和尚の似て非なる人生から何を学ぶかは、各々によるが、“捨てるべき荷物”が多ければ多いほど、捨て去った時の爽快感は筆舌に尽くせないだろうというところだ。荷物は“苦楽一如”苦と楽は紙の裏表。財産であれ、家柄や学歴、地位や名誉であれ、欲望であれ何でも良いが捨てるべきものは大きい方が修行は楽しい。何故か。守るものが無い者が、守るものを持つ者より安らかの実感が大きいからである。私有から共有へ。物から事へ。有から無へ。何か感じませんか?
■良寛さんの漢詩から
言語常易出    
理行易常虧    
以斯言易出    
逐彼行易虧    
弥逐則弥虧    
弥出則弥非    
油救火聚弥    
都是一場凝    
■慧智の読み方
言語は常に出(いだ)し易く
理行(りぎょう)は常に虧(き)け易く
斯(こ)の言の出し易きを以て
彼(か)の行の虧(か)け易きを逐(お)う
弥(いよい)よ逐えば則ち弥よ虧け
弥よ出せば則ち弥よ非なり
油をそそいで火聚(かじゆ)を救わんとす
都(すべ)て是れ一場の凝(きょう)のみ
■慧智の解釈
理屈を捏ねることは簡単だが、理屈通りに行動するのは難しい。人は安易な言葉に頼って、行いの不足を補おうとする。
しかし、補おうとすれば、するほど底が見え、伝えようとすれば、するほど伝わらない。つまり、火を消そうとして油を注ぐような馬鹿げたことだ。
耳が痛い。しかし、これは良寛さんであって一休さんではない。

■一休さんの漢詩から
児孫多踏上頭関、一箇狂雲江海間。
大会斎還在何処、白雲蒸飯五台山。
■慧智の読み方
児孫の多くは上頭の関を踏めど、一箇の狂雲は江海の間。
大会斎(だいえさい)は還た何処にか在り、白雲は飯を蒸す五台山。
■慧智の解釈
伝統や系譜を肩にかけた頭でっかちの“お偉い”先輩弟子が公案を通るが、頭を捨て去り融通無碍に生きてこそ本物である。
耳が痛い。しかし、これは一休さんであって良寛さんではない。

一日一生 慧智(070503)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 03:31 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月02日

●活人禅とは、殺す事と見つけたり

 臨濟義玄(りんざいぎげん、諡:慧照禅師)大和尚は、臨済宗の宗祖で『臨済録』という公案の宝庫である語録で知られている禅師で、『逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱』、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」という心を残している。この文脈が教喩する真意は、先入観、固定観念を捨て切った後の心で全てを見ろ、ということだと拙僧は理解している。
 大衆の多くは、それぞれの言語活動(Langage:ランガージュ:仏語)で勝手に創り上げた幻想を、恰も“相手そのもの”と思い込んでいる。本来の心である『自他不二』、父母未生以前の心、二つ分れとなる以前の本来の心を思い出せば、仏とはこれこれ、親はこれこれ、禅はこれこれ・・・。それから出発して、親は~でなければならない。宗教は~でなければならない、禅は~でなければならない、茶は~でなければならない・・・などの“思い込み”がつくられ、それが熟成して先入観となり、本来は誰にでも平等に備わっている“己の自由”を放棄してしまっていることへの警鐘である。
勿論、全てに手前勝手な解釈をしろというものではない。『己事究明の後に唯一であれ』であって、1-2年僧堂に坐っただけで禅を語るなど言語道断、蒙昧の限りである。良い例に利休百首の百番目にある茶道の極意中の極意『守破離(規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るな)』がある。実は、これすらも、鎌倉時代の利休が書き残したとか、室町時代の世阿弥の言葉だとか“特許争い”のような下衆な論争を聞いたことがあり、近代の凡夫の本家論争のように微笑ましい部分はある。
 さて、昨今、自分が作った教訓ではなく、他人のつくった教訓を並べて企業理念などという経営者も現れているが、これは二重の誤りをおかしている。ネット禅士には、コンサルタント、経営者が多く居るようだが、今日の講話は咀嚼を繰り返して己のものにして欲しい。
 『捨て切る』≒『殺す』。幻想を殺す。これが大事なんです。活人禅は殺人禅。活殺自由。御分かりかな。
一日一生 慧智(070502)『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 07:37 | コメント (0) | トラックバック

●『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか?という学生からの質問に応える

■「『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか」という疑問がHP来訪者(学生)から寄せられた。そこで、過去、何回か書いてはいるが、再び、活人禅が考えている日本語本来の意味としての“自由”を“自由”として、質問者が考えているとと思われる『自由』を『自由』と書いて説明してみます。なお、“自由”でも『自由』でもない“手前勝手”は、自分だけに都合が良い未熟な軽薄なる“我”の表出として、ここでは触れません。 さて、質問者の考える『自由』は、二元論(二分論)世界、還元論世界の価値観が生んだ自我と対峙する“他(彼)”、例えば天変地異など天然の驚異、間断なく刻む時、意思に反して従っている権力(法律)、否が応でも従うことになる家系的な伝統、遡ることが出来ない過去の積み上げとしての文化(神を含む)・・・などからの拘束や圧迫から解き放たれたFreedom:フリーダム、Liverty:リバティという英単語の持つ意味を、日本語の“自由”と思い込んでいるのではないだ
ろうか。だとしたら、日本人がそれを『自由』と呼ぶのは全くの見当違い。また、仮に百歩譲って、質問者が思っているのが『フリーダムやリバティ≒自由』だとしても、そこには『権利と義務』から『責任と権限』への人間的な成長を前提とし、『自由』は予め与えられているものではなく“勝ち取るもの”であり、学問、修養、労働を通じて得られるもので、学生には自由は無い、と理解出来ているはずである。言い換えると『フリーダムやリバティ』は、西洋社会では然るべき前提がある概念であり、自我を取り巻く制限された外界から開放されるのが『自由』であり、それは相対的概念であり、絶対的概念ではない。
■他方、東洋社会(とは言っても仏教、特に臨済録などの禅書を背景にもつ日本文化)における“自由”とは、“自に由る(おのずからに、よる)”という父母未生以前から内包している“自然の理由と共にある自然の一部である己”、全てを“あるがままに”受け容れている状態を指し示す仏教用語を語源にしたもので、近代におても円覚寺(臨済宗)所縁の故人である禅者(禅学者)の鈴木大拙と西田幾太郎の二人でも解釈は微妙にずれてはいるが、概ね相対的概念である自我、煩悩から“取り戻す”対象が“自由”で、簡単に言えば、勝ち取るものではなく“最初からある”囚われない、拘らない、偏らない心そのものが“自由”なのである。言い換えれば、自由主義は、主義という拘り、囚われ、偏りの凝縮である以上“自由”ではないのである。
■そもそも言葉や言語は、言語学的には“PAROLE:パロール(個人的“言葉”・方言)”の集まりである“LANGUE:ラング(言語)”というように分けるという西洋思想が下敷きにあるので、『自由』は言語学的に理解できるが、“自由”は禅を全身で学ばなければ解らない概念です。
■結論的に言えば、自由を二元論的な表現で言えば人間の自由は唯物論的自由と唯心論的自由があり、一元論的な表現であれば自由は自ずからの由”、“素より”のあり方ということになる。
■大胆な表現を使えば、西洋人の『自由』は懲役からの解放である目に見える世界の規範であり、本来の“自由”は、先入観を捨てた心に映る宇宙の規範と言っても過言ではないだろう。
■質問に対する答え
 ①全ては縁起により生起する“空”を理解している。
 ②相対的な認識で振り回される我は実体ではなく幻想であり無我≒己を理解している。
 ③事の本質は己の心の中にのみあることを理解している。 ④あらゆる先入観を捨て去っている。
心が以上の状態を実現できている時の心が自由であり自在に動ける融通無碍が実現できている状態、生死をも超越している心の状態を言います。
■蛇足①
西洋人は西洋哲学における自由の定説では『人間には自由は無い』という結論を乗り越えるため、本物の自由を得るには“禅”しかないと思っている人が大多数なのです。残念ながら、それでも西洋人は西洋人なのかもしれませんので、禅の修業は厳しければ厳しいほど本物の自由を勝ち取れると思っているようです。
■蛇足②
第二次世界大戦中のヒットラーが求めた西洋的自由と、アウシュビッツの入り口にある看板にある「労働で自由を(アルバイテット マハト フライ)の西洋的自由は、底辺では同じなのです。本当の自由とは“不戦”と“協働”の同時実現です。つまり“不二”、萬法一に帰すということを全身で体得した人間の心の状態といえます。

一日一生 慧智(070501)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 00:56 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月01日

●『道無心合人 人無心合道』祖堂集、第巻十鏡清・第巻二十

表題は、祖堂集、第巻二十に、問「古人有言人無心合道、如何是人無心合道。師云、何不問道無心合人。如何是道無心合人。師云、白雲乍可来青嶂、明月那堪下碧天」という文脈で登場する。読みは「道は心の人に合することなく、
人は心の道に合するなし」となる。意味は『本当に大事なのは、大道は人の心に合さないし、人も大道に合さない。二項対立ではなく、何事も最初から一体だ」ということ。“無”は有無の無でないのと同じ。
 小学生でも読み書き出来る文字だが、院生でも理解できない句。坐りましょう。
一日一生 慧智(070430)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 01:12 | コメント (0) | トラックバック

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House