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2007年04月29日

●自由とは“即今日眼前聴法底”の己の姿

“自由”という概念の源泉が“禅”にあることはご承知の通りで、それは『臨済録』の底に秘められている。『自由』は、『師、衆に示して云く、今時、仏法を学する者は、且らく真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去住自由なり』、『若し生死去住、脱著自由ならんことを欲得せば、即今聴法する底の人の、無形無相、無根無本にして、活撥撥地なることを識取せよ』、『若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』という節に滲み出ている。
“自由”は、その文字の如く、一切の制約がなく、天地自然の原理そのものが、“自らの理由”で働いている状態です。
 他にも、自由の意味を理解させようとする禅語に、『大用現前、軌則を存ぜず』という表現がある。意味は「人工的な規則などとは無縁な自然は、大用現前(眼の前で現象している自然の中の大きな役割)は人間の判断や規則が及ばない自然の中にあるものです。
 “人間としての自由”は“山川草木の自由”と異なり、前出した“本来の自由”を知った上で、手垢に塗れた世間という「不自由」な世界に身を置きながらも“自立しつつ制約に汚染されていない発想で自在に働くことです。
 つまり、二項対立の世界の呪縛から解放され、本来の己に従って生きることなのです。ですから、本当の自由を生きるためには、己の本質、本来の面目を知らなければ無理なのです。それには、坐禅と無心に働くこと以外に期待できません。
一日一生 慧智(070429)
禅は、自由・平等・平和を実現するためにあります。拙僧は、十牛図の十番目に出てくる布袋さんのようにありたいと思っていますし、その過程では、強く優しく柔軟で在りたいと思っています。

投稿者 echi : 2007年04月29日 06:04

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