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2007年04月27日

●『無差別 無分別』って神を冒涜する和尚のような“悪者”のことです、という高校生からメールで受けたので、少しだけ説明をします。

 高校生なら十分に知っているだろうが、『物事は確率的に存在し、観測により実在が確定することは無く、物事は本質的に“空(性)と力”の具現である(量子論)』
 更に、『人間は“我”によって、人間や物事に対する愛着や執着が生まれ、それが“苦”の原因となる(仏教)』、『禅においての“我(アイデンティティ)”は、実体を伴わない幻想であり、“我”に左右されない純粋な“己”、即ち“仏性”の真相こそが純粋な智慧である“無分別智”なのである』
 因みに、活人禅では、以下の通り。
■知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫の知恵=差別知
■智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧=無差別智 
 所謂、二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
それが“ご都合主義”の源泉でもあり、永久不変の実体など無いことが衆智されている現代でも、所謂ところの我執、自我、アイデンティティという幻想を『不変の実体』として“変わらない自我”があるように勘違いして生きている世界で、分別・差別・競争が正当とされている畜生・餓鬼・修羅に準えられる知恵の世界である。
 一方、“我”が分別して生み出す妄想や煩悩を消し去り、物事を正しく検知する能力は、差別を伴わない平等の世界であり、各々が縁により生じている自覚から“出来ることに全力を尽くす”世界であり、『幻の結果より真なる過程』を大事にする無差別智の菩薩の世界、智慧の世界である。
 なお、俗世間では、心を意識・前意識・無意識のような構造とする場合が多いのですが、真理は一つですが、衆生に解りやすいように、仏教的では“分別と無分別”という方便を使いますし、頭と心という場合もあります。
 専門的には、脳の全体機能である“心の構造”は、無意識層(命の識:植物の識)を最下層に、前意識層(動物の識)、意識層(人間の識)が重畳的(地層化した)三層一体構造をなしているというのが精神身体医学や大脳生理学の知見ですが、脊髄を最下層とした四層構造を主張する方もいます。
 それらの機能を表す動詞的な表現を使うと『魚の脳→ワニの脳→馬の脳→人間の脳』となり、『生きている→生きる→都合よく生きる→より善く生きる』と表現されたりします。
 勿論、38億年の生命進化、46億年の地球的進化、150億年の力学的進化の産物としての一体構造ですから、絶えず上位は下位の構造を前提としています。
 最近、分裂症、分裂病という名称は差別的だと“統合失調症”というニックネームをつけられた精神障害は、前出の三ないし四階層の共鳴に器質的障害があるか強いストレス状態の防衛本能として同調を解除している状態です。鬱症状や鬱病は、その部分的な非同調が引き起こします。
 また、細胞は、自己複製の原型であるDNAという物質構造からなる染色体・遺伝子を格納している生命の最小単位であり、それらは全て分子構造を有し、分子構造は元素・原子の科学的結合であり、元素原子は核と電子、核は素粒子、素粒子は・・・、最後は量子(光速で動く力の結晶とその機影である波)となり、『存在は現象であり、現象は存在である≒色即是空 空即是色』の単位体であることは衆智となっているが、人間は人間の原点を完全には解明できていません。
 そのような力学性・光学性・現象性・物性を持つ構造を原点として成り立っている“生命”は、時として、単位個体である“自身”の不安や恐怖を解放する活動に成功し、その成功を単位同士に共有させると同時に上位構造に転送させた“安心”の個体的経験を“実体”と錯誤した二次的な経験を素材にした“物語”という幻想(妄想)を創造し、伝播する度に洗練化させ、やがてはその夢想である個人的な経験を集団に提供して共有化が図られ、個人的で原始的な権力構造を安定・助長・強化させる過程で、それらを磐石にするために『人格化させた神』と『神の代理人』と『権力者』が出来上がり、発展途上にある大衆の細胞レベルに宿る命の抽象的不安を、具体的な恐怖に統合して支配する構造が出来てきたのが”初期の社会”で、数千年前の少数の人間の“小さく他愛無い嘘”が洗練され、矛盾を昇華して来たの“神”の歴史であることは十分に知られています。
 言い換えれば、そのような過程を経て、支配する側とされる側の人間の未必のコラボレーションにより完成させた『神』という概念は、如何なる時代の『権力者』にとっても極めて便利な道具として、大衆の“不安と恐怖心”を利用して彼らを支配するために、『共産主義や全体主義』など、神に取って代りたい独裁者以外には、神という名の権力者の傀儡は捨てられることは無かった。
 つまり、神を冒涜するつもりなどない。存在しえない文学の世界の登場人物を、どうして冒涜できるだろうか。それを何と名付けるかは、歴史や文化、言語体系により異なるが、宇宙の本質は“力”であり、仏教では、それを“仏”と名付けているに過ぎない。仏像などは芸術世界との融合で、単なるインテリアである。しかhし、『物』もまた仏性の具現であり、私達人間と同様に大事にされなければならない。
 高校生なら、今使われている鉄は、地球生成時代に地球に衝突した隕鉄(石)であり、石油や石炭は初期の植物の異性体。樹木は人間や動物が吐き出した二酸化炭素を固定したものであり、植物が生産している酸素を我々は呼吸に用い、植物と動物は互いに開放生態系でガス交換している“共生体”であることは常識のはず。
 だからこそ、バクテリアの一匹、小石の一つまで、我々と同じ地球の構成要素であり、人間だけが地球の住民だというのは、思い上がりで、一瞬一瞬の生命現象に“感謝”が必要なのである。
 貴女が何を信じるかは自由です。しかし、神より大事なのは“貴女自身”です。己の外に想像上の絶対者を求め、崇め奉るからこそ“戦争”が起きてきたのです。神のために人間が死に、環境が破壊されて良いのだろうか。
 助言します。貴女は貴女を先入観を持たずに探求しなさい。すると、貴女が“仏”であることを理解できるはずです。そして、“人格化された神”は、救いの便法であることに気付くはずです。
■拙僧は、僧侶が天職と思っている。しかし、寺に居て弱者の拠り所になることだけを善しとは考えていない。全ての人間に“幸せ”に生きてもらいたい。全ての人間が自分を自分で経営できる経営者であって欲しい。それが幸せの源泉であることを知っているから。幸せとは“無知(不安や恐怖を抱く心の状態)”から解放された自由であり、大安心の境地である。自分で自分を限定して縛りつけている『無綱自縛』の綱の切り方を身をもって教える(生き様を曝す)ことだと思う。
 禅の考え方、科学の考え方、哲学の考え方には、夫々の世界観があり、互いに矛盾するような表現もある。しかし、煎じ詰めると“一”であり“無”であり“空”であることは自明の理。それを、「それぞれの分野の井戸の中にいる方々に、解り易く話す事で人類・地球は平和を確保できる。それ故、三つの世界から排除されようと、教師と言われようと、反面教師と言われようと、辱めを受けようと、一切構わない。また、禅坊主らしい『和顔愛語』などに興味はない。それは年寄りに任せる。拙僧は、守銭奴の世界、無知の世界に住み、命ある限り智慧の普及を行なう。怒らない禅坊主は禅坊主ではないと考えている。そこが何処であれ、自利利他を実践・実現するためには、正しく見る、正しく聞く、正しく生きる、そして正しく書く、話す。淀んだ淵をかき混ぜれば波風が起こる。自分さえ良ければという世界では“風当たり”は強いし、足を引っ張る者も多い。しかし、拙僧は、脇道は歩かず、“大道”を行く。年齢、性別、人種、宗教、貧富など所詮は幻想。分別による差別には全く興味がない。『山川草木悉皆成仏』、地球は一つ。世界も一つ。人間は夫々が独立しつつ、夫々が出会い補完し合う相補現象。だからキリストさんは菩薩さん。マリヤさんは観音さん。アラーも菩薩さん。彼も彼女も皆、仏さん、貴女も仏さん。生きてさえいれば“それ”に気付くチャンスはある。死んで仏になるより、仏として生きる方が幸せに決まっている。死ねば“幸せも不幸せ”も感じることはない。地球に戻り、宇宙に戻るのだから。
一日一生 慧智(070427)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

投稿者 echi : 2007年04月27日 18:21

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