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2007年04月17日
●『飲水貴地脈(みずをのんでちみゃくをとうとぶ:虚堂録)』
私たちは、毎日毎日、起きて寝て、息をして、水を飲んだり食事をしたりする。当たり前のこと。それが日常というもの。つまり、一瞬たりとも物事と断絶していることはない。禅の修行者は、禅堂は言うに及ばず、行住坐臥の一瞬一瞬を全力で生き切る。鐘の音、風の音、洗面時の水音、線香の灰が落ちる音、引き戸の軋み・・・、その一挙手一投足を一期一会の出来事と一体となって本来の己、父母未生以前の己に出会おうとする。つまり、四苦八苦の“根”を全身で解ろうとする。先ずは3年、十年、二十五年。人により多少の異なりはあるが、坐って坐って、歩いて歩いて、凍えて焼かれて、己の無知に悩みながら諦める寸前まで“無”の一字になり切る生活をする。それは、同じ水を飲む場合、喉が渇ききった時に飲む水と、十分に潤っている時に飲む水は、水は水だが、水が水ではない。水の中にあって渇きを叫ぶのば不自然なように、必要な時に必要な量が満たされていれば、感謝の心は忘れられている。『知足(たるをしる)』の大事さは当然だが、私達が体験する全ての現象は、無数の原因が“縁”となって具現し認識する。言い換えれば認識しえない事実は無限にある。私たちは“事実”と共に生き、事実から学び、事実の根底にある根本(本質)と離れることはない。にも関わらず、「本質とは何か」と、あらためて問うと、頭で考えて言葉にしてしまう。それは私達の外に“仏”が無いにも関わらず、内に求めるべきを外に求めてしまう傾向がある。
本質とは私達の外だとか、内だとかには無い。何故なら、私たち自身が無限に姿を変える本質の“一つの形”であり、“仏”以外の何者でもない。全ての現象が“仏”“本質”である以上、感謝無しには生きられない。会う人、力の出すために頂く食物、雨露を防ぐ藁一本から瓦まで。足の痺れを癒してくれる坐布一枚・・・・・。托鉢の折に山中で出会う湧き水の一滴。何も化もが本質、根本の変化。
表題の句は、虚堂録にある「~仰山飲水貴地脈 報恩久貧乍富~」から切り出した“一句という一片”。直訳は、湧水を飲んで、その源の貴さを知り恩を忘れないということ。好き嫌い、良し悪し・・・、自分都合で評価する事実は無限だが、事実は、個人の都合の良し悪しという評価に関係なく現象し続ける。故に、現前する事実を無差別、無条件に受け容れることが自然体。暑い時は暑さと一体となる。苦しい時は苦しみと一体となる。主体と客体を一如とする。“不二”となる。この時が“無心”。生死一如、自他一如。一切皆苦が一切皆空と一体となりること。山川草木悉皆成仏、全ての自然は最初から成仏している。皆例外なく仏。感謝し合う現象。そのような真理、本質、原理、原則が世界、環境を構成している以上、“気付き”や“発見”は、日常そのもの。しかし、水の中に居て喉が渇いた、という者は多い。長々話したが、『飲水貴地脈≒みずをのんでちみゃくをとうとぶ』ということ、その理由に気付くこと。大事だとは思いませんか。
一日一生 惠智(070417)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを
投稿者 echi : 2007年04月17日 07:03
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