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2007年04月10日

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

世俗の常識を全面的に受け容れると、人は夫々、夫々に夫々の人生の目的があり、当然に目標がある。
目的は、目標の集合で、目標の全部が達成された時、目的は自動的に達成する。
目的を達成させるための行為の全てを総称して、戦略という。
目的達成の節目ないしは重要な要素である通過点に合理的に置かれた目安を目標という。
目標を達成させるための行為を戦術という。
目標達成の手段である戦術は、標的単位で戦闘という行為が行なわれる。
つまり、『戦闘は標的を射止める行為、戦術は目標を達成させる行動、戦略は目的を達成させる活動』で、それらは階層化されており、論理学的に正しいことを要件として成立する。
そして、それらの知見の源泉は“軍事技術”が整理され洗練された結果“経営”の概念となっている。
つまり、国家経営も、企業経営も、組織経営も、家庭経営も、人間経営も、哲学という原点、思想という枠組みをもった上で、それらに対して論理的で合理的であることが絶対条件である。
なお、それらの哲学・思想・目的・目標・標的・活動・行動・行為に一貫性を互換性を担保しつつ進捗を計画し実施状況を調整して統合するもが“管理”であって、経営=管理、管理=経営は成り立たない。
また、それらの階層分化を設計する上での必要条件は、米国のコンサルティング会社であるマッキンゼー社が『Mutually Exclusive and Collective Exhaustive(相互に重なりなく、全部集めたら漏れがない)』がコンセプトとして提言した、と言うか論理学の世界では“当たり前のこと”をである、略称『MECE(ミシー)』という構造になっている論理構造図(ロジックツリー)が完成していなければならない。
更に、社会構造に言及すれば、目的達成をために編成されるのが社会組織であり、目的と規範がない集合は集団に過ぎない。このことは、全ての組織に共通する概念であり、家族という組織もまた同様である。
 因みに、家族とは最終的に解散することを暗黙の内に共有している核(単位)家族と、貴族や富豪一族のように解散を前提とせず拡大を前提とする形態を“家”ないし一族(華族ないし豪族ないし伝統的家族)という。故に、核(単位)家族は、相続を前提とはしておらず、従って資産形成が目的とはならないので、必然的に消費傾向が高まり、蓄財より費用対効果の確実な教育などのサービス消費が重んじられ、“家(一族)”に置いては、資産の継承を重視するために、耐久消費財への消費はありが、基本的には土地や金融商品などに関心が向けられ、蓄財傾向が高まる。
横道にそれたので話題を戻す。
上記のような論理展開を理解し、目的が決まれば、それに必要な戦略の大枠は決まり、戦略が決まれば自動的に組織構造が決まるというのは自明の理である。
そして、企業などにみられる組織構造は、目標単位で纏まりを作ることを要件としている以上、目的達成責任者である代表者と組織目標達成責任者である管理者が置かれ、目標達成責任者がその請け負った目標を全て達成すれば、組織の目的は自動的に達成することとなる。
故に、目的達成責任者は、部下である目標達成責任者の目標達成を支援するのが使命であると断言できる。
◆以上のような概要を詳細に解説し、個別の事例を調査研究し、クライアントの要求に従い、組織を設計したり、人材編成を行なってりするのが、在野での小林惠智の仕事のひとつである、ただ、現実的には『経営』という「仏教用語を語源とする統合的教育活動」の全般を担うことになり、在野においては、それらは“科学(方法が正しければ同じ成果が出る)”であることが当然のように要求されている。所謂“普遍性”の探求が、在野での私の仕事である。質問者は“それ”つまり、回答者が置かれた立場を理解して置いてください。
注記) 経営とは、『予め設定された目的・目標を日々の営みを経て達成させること』というのが定義である。

さて、巷で考えられている経営が完璧であったにしろ、それで“心”が満たされることはない。私は、それを全身で体験し知っている。解りやすく言えば、理科の実験室でレシピ通りに作られた料理を、シャーレやフラスコや試験管を食器として使う食事のようなもので、安全で安心故に、頭で考えれば最高の出来栄えであっても、それは味気なく、況や“心”が満たされることは決してない。況や、それを満腹な状態で食べたり、嫌いな食材が入っていたら“食糧”として、物理的エネルギー源としては十分だが、最も大事な要素が抜け落ちていることになるのは容易に理解できるだろう。
 そこで、頭と体、心身二元論が前提にある“科学”を幾ら寄せ集めても、人間を幸せには出来ないということ多くの科学者に理解され、二十年程前の『線形科学から複雑系(非線形)』という考え方が芽生え、同時に研究が始まり、結果として当時最も最先端の科学であった素粒子論、分子物理学、現在では量子論力学(量子論は科学と哲学が止揚された究極のアプローチ)は、“物”を中心に置いた二元論を疑問視することとなり、蹴った敵に二元論という“有無”の論理体系は無力化し、“力”を中心においた一元論の世界に足を踏み入れてしまった。その最初がサンタフェ研究所の前身であり、私がFFS理論を提唱する切っ掛けとなった戦略研究所の仕事であった。
 つまり、その時点から限界に達してしまい、限定的な合理性すら担保できなくなった科学が、無作法にも“頭で考える禅”、俗称でビート禅などと呼ばれている世界に足を踏み入れ、“禅の考え方”が、東洋思想から世界思想へ、思想のデファクトスタンダードに向けて動き出したのは事実である。ところが、一部の頭でしか理解していない修行体験を持たない一部の禅者は、それに気を良くして、有頂天となって『古い神が死に、新しい神が創造された』などという暴言を吐き、それがローマ法王庁の心を逆なでし、禅はバチカンから弾き出され、今日では嘗てのマイノリティの地位に後退してしまった。しかし、「それでも地球は回る」と言い続けているのが海外で修行を続ける“ZEN者”なのである。なお、その“新しい神”とは、“力”を意味しているのであって、父母未生以前の己であり、新しくも古くも無く、始まり無く終わり無く、減る事無く、増える事も無い“本質”なのである。その辺りは質問者が、本気になって般若心経を読めば解るだろう。
 話を進めるが、私は、前出の科学者同様に、『禅』を伝統サイドからのみ見ている禅僧ではない。禅の本来は全ての表現は固有であり、真似事を極端に嫌い、過去に固執し、師の言葉に拘り、偏った考えで自由を放棄することをもっと卑しむ。つまり、それでは禅僧ではないのである。『A≠AでないからAである』と書けば、聡明な相談者には類推できるだろう。ところが、既存の宗派は、自由闊達であることを伝統を危うくするものだとして嫌った。禅の伝統は生身の人間の成仏(生きながら仏になること)であり、革新であるはずなのだが、である。
 故に拙僧は“逸れ坊主”となり本山系からは異端扱いされ、禅僧であるが故に、現行法の中で法人格を必要となり、結果的に自身で宗派を立てざるを得なかったのである。勿論、それこそが“本物の禅僧”と確信しているし、葬式仏教との決定的な決別をも意味している。
 つまり、『禅』は今此処を生きている者が“幸せ(大安心)”に生きて行くための方法論であり目的論ということなのであり、“坐禅”は、その方法であって同時に目的なのである。
 更に付け加えて言えば、“禅”は、現代において最先端の知識を超えた“生きる智慧”なのである。なお、智慧は頭に蓄積記憶され再生される単純な知識ではない。しかhし、それらの知識は智慧を得るための通過点、捨て切る素材としては必ず必要であり、無知であってはならないのは事実である。例え話であるが、知識・地位・資産を得て、それを守ろうとする心こそが不幸であることを体験できないと、全てを捨て去り“大安心”の体験をすることは、本質的には出来ないのが凡夫の悲しさである。なお、誤解が無いように付け加えるが、出家得度して禅堂で最低でも十年暮らせば、如何なる凡夫であっても“本質を全身で悟り、智慧を得る事は無限である。
 話はまだまだ途中だが、質問である「生きながら仏になる道(菩薩道)」はに対する答えを、杓子定規に表現すれば、『本来無一物』を生きるなさい』としかいえない。
 しかし、その前に、一人ひとり、誰をも例外にせず与えられている個人固有の能力(強み)を発見し自覚し、今此処で活かし切り、自分に与えられた能力を出し切りましたか、と問いたい。
もし、未だに出し切っていなければ、俗世間で納得できる成果(大目標と言っても良い)は、実現できていないはずで、そんな状態を、禅を利用して脱出しようと考えるのは100年早い、と言いたい。
だから、逃げることではなく、先ずは、成功を勝ち取るまでは、在野の規範、“科学の世界(ニュートン力学の世界)から足を踏み外してはならないのである。
それは野球の試合は、野球のルールに従い、相撲は相撲のルールで行なわなければならず、野球に相撲のルールを適応させては野球にならないからである。そして、野球選手として技術的に秀でて、実力者として評価されても、野球は人生の一部であり全てではないのだかから、究極の幸せ(大安心)には至らないことを実感できるのである。
例えば、京セラの稲盛氏が、何故、得度し禅の世界に足を踏み入れたか、元総理の中曽根氏が・・・。成功を極めた人々、最先端の科学者・・・。彼らが何故“禅”の道に、在家であるか出家であるという分別差には関わりなく踏み込んで来た理由は、お分かりだろう。
付け加えるが、お金や地位は、使うためにある。ただ、自分の為に使ってはならないことを肝に銘じておくべきである。私は、師から、そのように教わってきたし、納得も出来ているので実行している。それが社会にどの様に映るかは、受け取り評価する側の人間の“心”次第である。
「素直に生きる」「社会の為に生きる」と松下幸之助氏は言った。成功したからそのような発言が出来るようになったのではなく、そのような心で働いていたから成功したということを理解しておいて欲しい。
◆拙僧が思う有質問への究極の答えは以下の通りである。
生きながら仏になるためには、『一日を一生に準え、謙虚に、真面目に、誠実に今の仕事を徹底し、一日30分でも良いから、静かに坐って(坐禅)、呼吸と姿勢を整え、心の乱れろ毎日修復すること』です。
当たり前ですが、己の体を風呂に入れのは誰ですか。心も同様です。心身一如なのですから。故に、場所は何処でも構わないので、風呂場でも結構です。安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼しである。
因みに、禅寺では、古来から“浴室(風呂)・東司(便所)・食堂(ダイニング)”は三黙堂と言って、坐禅と同じように厳粛に無言の修行の場となっていることからも“修行は日常に潜んでいる”ということは想像はつくだろう。
 
 以上、少々長くなりましたが、定年後の仕事と人生で迷われているというメールを頂き、結論は貴方が出すにしろ、団塊世代の大量退職の時代に、仕事と人生を考える方々のヒントになればと、同世代の人間として体験を書き残しました。
 最後に一言:“死ぬまで現役”、“死ぬまで全力”を心に、気張ることなく淡々と持てる能力を使い切りましょうよ!
一日一生 慧智(070410)

投稿者 echi : 2007年04月10日 11:24

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