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2007年04月04日
●“禅”と“悟”のノウハウ
禅は“信”ではなく“修”だと書いた記憶がある。つまり、盲目的に信じるのではなく、疑い尽くして体験して気付き、生き方を正すのが禅なのです。
現代風に言えば、禅は『事実』を価値観や先入観で汚染せずに、あるがままに受け止める。枝葉末節の事実の正しい認識が増えると機が熟し、一挙に本質、法則、原理原則などを発見する。それが“悟り”であり、引き金は極めて身近で単純な出来事が圧倒的に多い。例えば、ボタンが取れたとか、時計が止まっていたとかなど。禅では“発見(悟った)”程度ではまだまだ。小さな気付き、小さな発見が積み上がって初めて“大悟(だいご)”となる。大きな悟りであれば、その瞬間から行動が自動的に変わる。だから師家が弟子の悟りの段階を見抜けるのだ。
つまりは、禅は『事実』→『小さな発見』→『小さな発見の記憶』→『大きな発見(大悟)→『生き方の発明と『実行』という流れであり、『発明』とは己ブランドのオンリーワンだ。全ての大衆は初期条件から全てが異なるのだから、姿が違うように悟も他人とは違うのが当然だ。そこからが本当の修行だ。そして、ある時、他人と自分の境界が消え、ミミズと己の境界が消え、全てに個性がありつつも全てで一つという世界に至る。そこまで来たら本物だ。そこから更に進めて、先ずは悟を捨ててしまえ。捨てて捨てて捨てて、捨てるものが無いという心も捨ててみろ。言い換えれば、その手法を“止揚の止揚”という。止揚とは、異なる、または対立する事象を上位統合すること。それを更に統合する。この矛盾を生きろ。まあ、悟りは最小公倍数と言っても良いかもしれない。そして、最大公約数が得られてから更に修行を進めて最小公倍数を大発見するのが『後悟』ということ。それが禅の全てある。ミクロとマクロを止揚するとどうなるか。
さて、ここまで言葉・文字で親切丁寧に教えた以上、拙僧の定義する“悟り”をパクレば、悟りに達しないことになる。オンリーワンではないからな。格好だけで“片手の音”を聞いたようなことを言葉に出来るようなら、それは妄想、幻想、嘘ッパチの勘違い。無の一字に成りきりましたなんて言葉は出鱈目。頭が首の上に付いているようじゃ小僧だぞ。頭は網代の台みたいなもんだ。
さあ、禅士よ。どうするか。釈尊も達磨もワシも殺してみろ。活人剣を使うか、殺人刀を使うか。両方とも刃物というのが事実だ。さあ、どうする。
さあ、ネット禅士よ。『悟』とは何か言ってみろ。但し、言葉や文字は使うなよ。体も動かすなよ。その上で私の衣を脱がしてみよ。もし脱がすことが出来たら風呂に入ってやる。そうしたらネット禅姉よ。背中を流せ。ワシの背中が鏡になるまで磨きつくせ。但し、手も足も使うな、湯も水も使うな、氷もだめだぞ。手ぬぐいも使うなよ。風呂場にも入って来るなよ。入れば禅姉とてワシはお前らの衣をズタズタにするぞ。
さあどうだ。今日、此処で、禅の事など忘れて、お題目でも唱えていろ。
疲れた。茶でも飲んで寝るか。お前らは座れよ。
一日一生 親切が衣を着て歩いているような生涯一雲水の慧智(070404)
投稿者 echi : 2007年04月04日 22:58
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