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2007年04月29日

●良寛和尚の『我生何処来』を思う

我生何処来、
去而何処之、
独坐蓬窓下、
兀兀静尋思、
尋思不知始、
焉能知其終、
現在亦復然、
展転総是空、
空中且有我、
況有是與非、
不知容些子、
随縁且従容。
■慧智の読み方(標準的な読み下しではない)
我が生は何処より来り、
去って 何処にか之(ゆ)く、
独(ひと)り蓬窓(ほうそう)の下に坐して、
兀兀(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す、
尋思するも始(はじまり)を知らず、
焉(いずく)んぞ能く其の終りを知らん、
現在(いまある)も亦(ま)た復(ま)た然り、
展転(ゆくさき)は総て是れ空、
空中(このよ)に且(しばら)く我れ有り、
況んや是と非と有らんや、
如かず 些子を容れて、
縁に随いて且く従容(しょうよう)たる。
■慧智の解釈
 私の命は何処から来て何処へ行くのだろう。ひとり庵に坐って考える。しかし、幾ら考えても命の始まりは解らないし、終わりゆく先もわからない。今・此処・己ということも釈然としない。時は常でなく、全ては空であり、空の中にしばらくの間だけ現象しているのが私だ。ましてや、絶対的な善悪、良否、好嫌といった差別などはない。だから、私は縁に従いつつ、少しの間だけゆったり生きてみよう。
 さて、勝手な味わい方をしたが、皆には良寛和尚の気持ちに近づいて原文である漢文の方を味わって欲しい。
一日一生 慧智(070429)

投稿者 echi : 16:03 | コメント (0) | トラックバック

●自由とは“即今日眼前聴法底”の己の姿

“自由”という概念の源泉が“禅”にあることはご承知の通りで、それは『臨済録』の底に秘められている。『自由』は、『師、衆に示して云く、今時、仏法を学する者は、且らく真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去住自由なり』、『若し生死去住、脱著自由ならんことを欲得せば、即今聴法する底の人の、無形無相、無根無本にして、活撥撥地なることを識取せよ』、『若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』という節に滲み出ている。
“自由”は、その文字の如く、一切の制約がなく、天地自然の原理そのものが、“自らの理由”で働いている状態です。
 他にも、自由の意味を理解させようとする禅語に、『大用現前、軌則を存ぜず』という表現がある。意味は「人工的な規則などとは無縁な自然は、大用現前(眼の前で現象している自然の中の大きな役割)は人間の判断や規則が及ばない自然の中にあるものです。
 “人間としての自由”は“山川草木の自由”と異なり、前出した“本来の自由”を知った上で、手垢に塗れた世間という「不自由」な世界に身を置きながらも“自立しつつ制約に汚染されていない発想で自在に働くことです。
 つまり、二項対立の世界の呪縛から解放され、本来の己に従って生きることなのです。ですから、本当の自由を生きるためには、己の本質、本来の面目を知らなければ無理なのです。それには、坐禅と無心に働くこと以外に期待できません。
一日一生 慧智(070429)
禅は、自由・平等・平和を実現するためにあります。拙僧は、十牛図の十番目に出てくる布袋さんのようにありたいと思っていますし、その過程では、強く優しく柔軟で在りたいと思っています。

投稿者 echi : 06:04 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月28日

●『長者長法身、短者短法身』(長者は長法身、短者は短法身)

「ちょうじゃちょうほっしん たんじゃたんほっしん」という句が『禅林句集』にあります。出典は「春色雖無高下 花枝自有短長 故長者長法身 短者短法身という詩で、読みは「春色に高下なしと雖も、花枝おのずから短長あり、故に長者は長法身、短者は短法身」で、その元を更に遡ると『普燈録』巻第十一の「問。玄沙不過嶺。保壽不渡河。未審意旨如何。曰。直超物外。云。雪峰三度到投子。九度到洞山。又作麼生。曰。別是一家春。云。恁麼則春色無高下。華枝自短長。曰。一任卜度」。読みは「問う、玄沙、嶺を過ぎず、保寿、河を渡らず。未審、意旨如何。曰く、直超物外。云う、雪峰、三度投子に到り、九度洞山に上る。また作麼生。曰く、別に是れ一家の春。云う、恁麼ならば則ち春色高下なけれども、華枝おのずから短長」である。 まあ、禅学は“学”であり、我らは“度・断・学・成”を坐禅や作務という日常を経営して修めることを目的としているので、知の探求は探求として『己事究明』の観点からは、以下のような理解で十分でしょう。
 表題の『長者長法身、短者短法身』を意訳すると、「花や枝に個性があり、個性がそのまま趣であるのと同じように、背の高い者は高い者なりの悟りがあり、背の低い者は低い者なりの悟りがある」ということになります。
 ただ、此の語は時々誤解する人が要るので解釈を付け加えておきます。つまり、長短や高低、賢愚や美醜、貧富という“部分的な差別”があっても“全体”としては“個性”であり、部分に時代的で“瞬間的な見せ掛け”の評価が与えられていても、本来は“無差別”平等であり、それぞれが“法身”で、それがそのまま“妙相”です。簡単に言えば、背の高い人がよいのでもなく、背の低い人がダメだということでも、金を持っている人、持っていない人、頭のよい人、そうではない人とうような部分のみに着目した差異には関係なく『全体として夫々に夫々の持ち味があり、夫々が夫々なりに完全無欠』なのです。言い換えれば、相対的な尺度という幻想の縄で自分を縛り、無縄自縛に苦しむことは真理を知らないからであり、真理である仏性の結晶である“絶対的な自己”に出会い、自由自在に大道を歩めば日々是好日であり、人生は幸せの連続となるのです。
一日一生 慧智(070428)
★己の個性を活かし、出来る事に出来る方法で力を尽くそう。

投稿者 echi : 23:01 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月27日

●『無差別 無分別』って神を冒涜する和尚のような“悪者”のことです、という高校生からメールで受けたので、少しだけ説明をします。

 高校生なら十分に知っているだろうが、『物事は確率的に存在し、観測により実在が確定することは無く、物事は本質的に“空(性)と力”の具現である(量子論)』
 更に、『人間は“我”によって、人間や物事に対する愛着や執着が生まれ、それが“苦”の原因となる(仏教)』、『禅においての“我(アイデンティティ)”は、実体を伴わない幻想であり、“我”に左右されない純粋な“己”、即ち“仏性”の真相こそが純粋な智慧である“無分別智”なのである』
 因みに、活人禅では、以下の通り。
■知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫の知恵=差別知
■智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧=無差別智 
 所謂、二元論、二項対立の相対的世界で、普通にものを認識し理解する能力を知恵とよび、常に有無、善悪、是非など対立概念で分類し分析し区別して判断(分別)するので差別知といわれ、判断の基準の中心には“我”が存在している。
それが“ご都合主義”の源泉でもあり、永久不変の実体など無いことが衆智されている現代でも、所謂ところの我執、自我、アイデンティティという幻想を『不変の実体』として“変わらない自我”があるように勘違いして生きている世界で、分別・差別・競争が正当とされている畜生・餓鬼・修羅に準えられる知恵の世界である。
 一方、“我”が分別して生み出す妄想や煩悩を消し去り、物事を正しく検知する能力は、差別を伴わない平等の世界であり、各々が縁により生じている自覚から“出来ることに全力を尽くす”世界であり、『幻の結果より真なる過程』を大事にする無差別智の菩薩の世界、智慧の世界である。
 なお、俗世間では、心を意識・前意識・無意識のような構造とする場合が多いのですが、真理は一つですが、衆生に解りやすいように、仏教的では“分別と無分別”という方便を使いますし、頭と心という場合もあります。
 専門的には、脳の全体機能である“心の構造”は、無意識層(命の識:植物の識)を最下層に、前意識層(動物の識)、意識層(人間の識)が重畳的(地層化した)三層一体構造をなしているというのが精神身体医学や大脳生理学の知見ですが、脊髄を最下層とした四層構造を主張する方もいます。
 それらの機能を表す動詞的な表現を使うと『魚の脳→ワニの脳→馬の脳→人間の脳』となり、『生きている→生きる→都合よく生きる→より善く生きる』と表現されたりします。
 勿論、38億年の生命進化、46億年の地球的進化、150億年の力学的進化の産物としての一体構造ですから、絶えず上位は下位の構造を前提としています。
 最近、分裂症、分裂病という名称は差別的だと“統合失調症”というニックネームをつけられた精神障害は、前出の三ないし四階層の共鳴に器質的障害があるか強いストレス状態の防衛本能として同調を解除している状態です。鬱症状や鬱病は、その部分的な非同調が引き起こします。
 また、細胞は、自己複製の原型であるDNAという物質構造からなる染色体・遺伝子を格納している生命の最小単位であり、それらは全て分子構造を有し、分子構造は元素・原子の科学的結合であり、元素原子は核と電子、核は素粒子、素粒子は・・・、最後は量子(光速で動く力の結晶とその機影である波)となり、『存在は現象であり、現象は存在である≒色即是空 空即是色』の単位体であることは衆智となっているが、人間は人間の原点を完全には解明できていません。
 そのような力学性・光学性・現象性・物性を持つ構造を原点として成り立っている“生命”は、時として、単位個体である“自身”の不安や恐怖を解放する活動に成功し、その成功を単位同士に共有させると同時に上位構造に転送させた“安心”の個体的経験を“実体”と錯誤した二次的な経験を素材にした“物語”という幻想(妄想)を創造し、伝播する度に洗練化させ、やがてはその夢想である個人的な経験を集団に提供して共有化が図られ、個人的で原始的な権力構造を安定・助長・強化させる過程で、それらを磐石にするために『人格化させた神』と『神の代理人』と『権力者』が出来上がり、発展途上にある大衆の細胞レベルに宿る命の抽象的不安を、具体的な恐怖に統合して支配する構造が出来てきたのが”初期の社会”で、数千年前の少数の人間の“小さく他愛無い嘘”が洗練され、矛盾を昇華して来たの“神”の歴史であることは十分に知られています。
 言い換えれば、そのような過程を経て、支配する側とされる側の人間の未必のコラボレーションにより完成させた『神』という概念は、如何なる時代の『権力者』にとっても極めて便利な道具として、大衆の“不安と恐怖心”を利用して彼らを支配するために、『共産主義や全体主義』など、神に取って代りたい独裁者以外には、神という名の権力者の傀儡は捨てられることは無かった。
 つまり、神を冒涜するつもりなどない。存在しえない文学の世界の登場人物を、どうして冒涜できるだろうか。それを何と名付けるかは、歴史や文化、言語体系により異なるが、宇宙の本質は“力”であり、仏教では、それを“仏”と名付けているに過ぎない。仏像などは芸術世界との融合で、単なるインテリアである。しかhし、『物』もまた仏性の具現であり、私達人間と同様に大事にされなければならない。
 高校生なら、今使われている鉄は、地球生成時代に地球に衝突した隕鉄(石)であり、石油や石炭は初期の植物の異性体。樹木は人間や動物が吐き出した二酸化炭素を固定したものであり、植物が生産している酸素を我々は呼吸に用い、植物と動物は互いに開放生態系でガス交換している“共生体”であることは常識のはず。
 だからこそ、バクテリアの一匹、小石の一つまで、我々と同じ地球の構成要素であり、人間だけが地球の住民だというのは、思い上がりで、一瞬一瞬の生命現象に“感謝”が必要なのである。
 貴女が何を信じるかは自由です。しかし、神より大事なのは“貴女自身”です。己の外に想像上の絶対者を求め、崇め奉るからこそ“戦争”が起きてきたのです。神のために人間が死に、環境が破壊されて良いのだろうか。
 助言します。貴女は貴女を先入観を持たずに探求しなさい。すると、貴女が“仏”であることを理解できるはずです。そして、“人格化された神”は、救いの便法であることに気付くはずです。
■拙僧は、僧侶が天職と思っている。しかし、寺に居て弱者の拠り所になることだけを善しとは考えていない。全ての人間に“幸せ”に生きてもらいたい。全ての人間が自分を自分で経営できる経営者であって欲しい。それが幸せの源泉であることを知っているから。幸せとは“無知(不安や恐怖を抱く心の状態)”から解放された自由であり、大安心の境地である。自分で自分を限定して縛りつけている『無綱自縛』の綱の切り方を身をもって教える(生き様を曝す)ことだと思う。
 禅の考え方、科学の考え方、哲学の考え方には、夫々の世界観があり、互いに矛盾するような表現もある。しかし、煎じ詰めると“一”であり“無”であり“空”であることは自明の理。それを、「それぞれの分野の井戸の中にいる方々に、解り易く話す事で人類・地球は平和を確保できる。それ故、三つの世界から排除されようと、教師と言われようと、反面教師と言われようと、辱めを受けようと、一切構わない。また、禅坊主らしい『和顔愛語』などに興味はない。それは年寄りに任せる。拙僧は、守銭奴の世界、無知の世界に住み、命ある限り智慧の普及を行なう。怒らない禅坊主は禅坊主ではないと考えている。そこが何処であれ、自利利他を実践・実現するためには、正しく見る、正しく聞く、正しく生きる、そして正しく書く、話す。淀んだ淵をかき混ぜれば波風が起こる。自分さえ良ければという世界では“風当たり”は強いし、足を引っ張る者も多い。しかし、拙僧は、脇道は歩かず、“大道”を行く。年齢、性別、人種、宗教、貧富など所詮は幻想。分別による差別には全く興味がない。『山川草木悉皆成仏』、地球は一つ。世界も一つ。人間は夫々が独立しつつ、夫々が出会い補完し合う相補現象。だからキリストさんは菩薩さん。マリヤさんは観音さん。アラーも菩薩さん。彼も彼女も皆、仏さん、貴女も仏さん。生きてさえいれば“それ”に気付くチャンスはある。死んで仏になるより、仏として生きる方が幸せに決まっている。死ねば“幸せも不幸せ”も感じることはない。地球に戻り、宇宙に戻るのだから。
一日一生 慧智(070427)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

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2007年04月26日

●『一切皆空』故の『行』

 『行』は、八正道。“正しい”行為、全ての活動に成り切って生きること。心と体は表裏一体。不可分不可同。即ち、心は体あって心、体は心あって体。縁の結晶です。
究極的には、“虚無なる我”の原点である“空なる己”をも捨て去って生きること。それが『無心』ということです。“あるがまま”の現実を素直に受け容れる。現実と一体となる。対峙しない。痛いときは痛い。死ぬ時は死ぬ。元気な時は元気。現実を受け容れずに抵抗するから“苦”が生まれる。苦も楽も瞬間的であり相対的で絶対的実体ではない。つまり“思い様、考え様”で評価は逆転するようなもの。
 故に“修行(行を修める)”により『一切皆空』が現前し、己と宇宙が一体という般若が目覚め、『一切皆苦』が消滅する。
 『般若』即ち『全身の智慧(力)』は、人生を自由自在、融通無碍なる日常に変身させる。
だからこそ、“行”は人生の原動力。歩歩是道場。禅堂だけ、坐禅だけではなく“働く(他楽、他を楽にする)”事が大事。活人禅者は衆生のモデルになるべし。
 『獲得的な知識と生得的な智慧』のハイブリット型のエンジンで動くような大衆は、多くの場合、悩みや不安を解消できないものとして修行に入る前に諦めていることが多い。
 しかし、先ずは挑戦せよ。とことんの坐禅は、無対立・無犠牲・自主独立に生きる慈悲の塊へと己を変身させ、全ての現象の部分である己を実感して『乾坤只一人(天上天下唯我独尊)』に気付き、自他一如を体現するようになる。
 すると、無縄自縛の縄は消え、一切皆空を体現して一切皆苦は消滅する。即ち、己が慈悲と智慧の結晶であることに気付くき、不安も無ければ恐怖も無い人生が見える。生老病死に囚われない大安心の世界が現前する。
坐るべし。只管に坐るべし。何処でも良いから『坐忘』となるまで坐るべし。
一日一生 慧智(070426) 本日の起抜け説法から抜粋
願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月25日

●日系アメリカ人からの回答「アメリカ人であることは誇りです。」

これが拙僧の物理的な脳であり、心が機能するハードウエアーです。
慧智の脳.jpg

 時差の関係で、深夜のメールが多く、ここに書き込むにはズレがあるが、昨日の拙僧からの質問に彼は2-3分で回答してきた。素晴らしい!と感じた。正に“反応”である。極論を言えば、雨漏りを見つけたら、ウロウロと洗面器を探しているより、雨漏りの下で口を空けて受け止め、その後、工夫をする。その間髪を入れない対応こそ“禅”である。
 回答の内容の全文を掲載するいは語弊がでると感じたのでポイントのみにする。
◆原爆については“当然”であり、日本国内に戦火が拡大しなかったのはアメリカ、長崎・広島に他の地域の日本人は、アメリカの決断と必要な犠牲となった日本人に感謝すべきである。
◆アメリカ以外に世界を平和に出来る国はない。正義を実現できる国はアメリカしかない。世界がアメリカの州になることが理想。
◆全ての人間が異なり、能力に既得的な個人差がある以上、差別や区別があるのは当然であり、それは神が与えた自由と試練である。寧ろ、日本のように表面的な繕いをする国に真実はない。(freedom
とlibertyは日系とはいえ言語学上では正しく使い分けられている)
 以上が拙僧の問いに対する文法論を重視した上での日本語への意訳である。
 これを読んだ多くの日本人は納得できないだろう。しかし、彼らの論理は理解できるだろう。
 しかし、個人の“有能感”が国家の優越感の源泉になっているという怖さは感じられるし、仮に回答者のような考え方の市民が多いとなると、世界の、否人類の恐怖を連想する者がいるだろう。
 ご存知の通り、英語には拙僧の調べた限り「能ある鷹は爪を隠す」「出る杭は打たれる」「以和為
貴」に酷似する教訓は無い。また、「以和為貴」となるに使われている“和”と完全一致する英語は無いが告知する語はUNITY(ユニティ)である。蛇足だがロシアには「伸びすぎた向日葵は倒れる」がある。
 日本が美徳の国と言われた時代、政権の座にある者が今唱えている“美しい国”ではない、多くの
日本人は「論理的な正しさを争うより、争い対立そのものを避けることを“和”とし、それを貴いこととして、「以和為貴」に価値を見出してきていた。それを如実に現すのが会議体の人数をみれば、米国では奇数、日本では奇数偶数の何れでも良く、全員一致を目指して、全員が満足とまでは言えないが不満とまでも言えない落とし処を探した。米国は“多数”が正義、多数決主義であり、それが権利である。rightという単語の意味から類推できるだろう。注意すべきは、権利は義務を持つ者に対峙する権利で、日本の概念である義務を履行するための力が権利ではない。また、カタカナ語にもなっている“アグレッシブ”、つまり攻撃的で闘争的、は日本では否定語であるが、米国では肯定語である。言い換えれば日本は協奏を重視するが、アメリカは競争重視であり、勝利者が全ての権利、敗者が全ての義務を負う。しかし、それではバランスを欠くと思う人もいるので“チャリティ”が税の控除対象になっている。日本は“再配分”主義なので収税と助成や補助は同時進行させない。
 さて、前出した、“恐怖”というのは“心と行動”に不思議な影響を与える。多くの場合「不安の源泉」は先入観や言葉にしえない抽象性である。一方、『恐怖』はその原因となる具体的対象がある。簡単に言えば、多くの日本人はアメリカに対して不安を抱き、北朝鮮に対して恐怖を抱いている。となると、中国に抱いている感情はなんだろう。温度差があるとしかいえない。
 禅者諸君。以上の文脈から何を学ぶか。正義や価値観の源泉となる『道徳や倫理』は絶対では無い
と感じたか。感情や情動は一瞬たりとも同じではないが、結果に関わらず活力の源泉になる、ということを感じられたか。
 禅は、以上のような世界の日常や、人類の心の違いや変化を十分に知り、その本質を見抜き、それらを全て捨て去る修行である。
 つまり、禅は、『不安→恐怖→克服→自由を実感して安心→大安心(自利利他)』という流れを坐禅により実現し、大安心をも捨てて森羅万象と共に生きることを体現する。だからこそ、先ずは“疑う”。釈尊と同じように『不安を原動力にして世界を疑い→恐怖の本質を理解し→因縁を得心し→全てをあるがままに受け入れて安心を築き→大安心(幸せ)』へと向かう生き方そのものである。
一日一生 慧智(070424)
★願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを


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2007年04月24日

●質問「和尚はアメリカという国が嫌いなんですか?」と27歳の日系アメリカ人。

 拙僧は、ご存知の通りアメリカの連邦組織や大学と8年の間、深い関係にあった。しかし、そこでは“好き嫌い”の感情は生まれなかった。ところで、国家に対して好き嫌いなど感じるものがいるだろうか。国民や文化なら解らんでもない。しかし、それは滅茶苦茶な表現で、自分の知る限りの文化、人間に対する感情であり、その背後にあるのは“心”だろう。心は留まる事無く変わる。変わらぬ心などない。何故なら“心”が瞬間的な現象だから。
 さて、問いに応えよう。嫌いではない。同時に好きではない。つまり、感情の対象ではない。勿論、貴殿が理解できるかどうかはわからないが、拙僧は“好き嫌い”を持たず、来る者は例外なく受け容れるし去る者は例外なく追わない。
 拙僧にとって重大事は、『物事を先入観を持たずに純粋な事実として正しく見て、論理的に正しく考えて事実の背後にある本質を求め、自分勝手な解釈ではなく、偏らない考え方に従って考えた結果を堂々と伝え、郷に従い違法性の無い自信の持てる正しい仕事や行動を行ない、只管に精進し、確信するが妄信しない一つの考えに集中し、一日を一生に準えて寝る前には即身仏となる』。そこには、小人の専売特許である好き嫌いなど入り込む余地はない。
 ところで、多くの日本人が好きな国はアメリカ、と言うと統計的なデータがあるようだが、貴殿は“世界で最も悪質な無差別殺戮である原爆を2回も落とす国、自国の経済的繁栄のためには、人類をも犠牲にして省みない国、人種差別や不合理、不条理を“正義”と呼ぶ国に国籍を置いているようだが、誇れるのか?聞きたいのは好きか嫌いかではない。そんな感情は聞く必要性も感じない。今日は好きでも、明日は嫌いなんてことは山ほどある。『誇りに思うか、埃と思うか』に答えてくれ。
一日一生 慧智(070424早朝メールに応えて)

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●山花開似錦 澗水湛如藍(碧巌録第八二則 大龍堅固法身)

表題は、千年ほど前、中国宗代の禅僧・大龍智洪禅師が弟子の問いの応じたもので、「山花(さんか)開いて錦(にしき)に似たり 澗水(かんすい)湛(たた)えて藍の如し」と読みます。
詳しくは『碧巌録第八二則 大龍堅固法身』。本則と評唱の一部を抜粋すると以下の通り。
◆本則
大龍因みに僧問う、色身敗壊す、如何が是れ堅固法身。
龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。
◆評唱
古人の一機一境は~照用同時、人境倶奪、双放双収、時に臨んで通変す。
大用大機~明鏡の台に当りて胡来たれば胡現り、漢来たれば漢現るに大いに似たり。
見ずや僧雲門に問う「樹凋み葉落つる時、如何」
門云く「体露金風」と。

弟子が大龍和尚に「色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身」と問います。
意味は「生身の肉体は必ず老いや病に侵されやがては死んで無くなりますが、老・病・死に左右されず永遠に滅びることのない生命・仏身・真理とは如何なるものでしょう」と。
すると、大龍和尚が応じて「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」。
意味は「山に咲く花々が錦を織り成すような百花繚乱の春景色に似ている。谷川の流れは時として渓谷の淵で水を青々と湛えているが、実際には淀む事無く流れ続けている」と。

■慧智の講話では
「もし・たら話」はするな。人間は病む時は病む。死ぬ時は死ぬ。昨日は過去で変わらん。明日は未来で可能性しかない。無くなる、無くならないなどという二項対立に囚われ、拘り、偏った先入観でオロオロしてどうする。諸行は無常。永遠なることとは、全ての物事は変化流転し、増えず減らずということだけだ。
景色だって移り変わる。一瞬たりとも留まることはない。人間の心も同様。だからこそ、選好みは不要。ご都合主義はいらぬ。日々是好日。咲いてよし、散ってよし。降ってよし晴れてよし。濡れても乾いても永遠ではない。全てを“あるがまま”に受け止めてこそ『大安心』、即ち究極の幸せだろう。素直が一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂だろう。答えが人の数ほどあることに現をぬかしている閑があれば、眼の前にある“出来ること・すべきこと”に全力を注入しろ。疲れ果てて寝ろ。そこには不安など起き様もない。
ワシは皆も知っての通りの出る釘坊主、悪たれ坊主。言わしてもらえば、善だ悪だ、自力だ他力だ、自然だ不自然だ、温暖化だ少子化だ。景気が好いの悪いのとバタバタするな。過去は変えられん。明日は解らん。だから、今・此処を精一杯生きろ。一日を一生として生きろ。出来る事をせよ。すべきと思うことをせよ。それが明日をつくる。それが因縁論だ。バタ臭い因果論に振り回されるな。一つの原因が一つの結論を導き出すなど科学理論の世界だけだ。理論は生きてはいない。自然も人間は生きているんだ。山川草木悉皆成仏。如何なる物事にも、自分の都合の良し悪しに関係なく感謝だ。生かして頂き、活かされていることこそ幸せ以外のなにものでもないだろう。己を含めて全ての人間は己の師匠。反面教師も亦教師。『度・断・学・成』、与えて捨てて学んで実る。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)

一日一生 慧智(070424)
★願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月23日

●坐禅の要諦は『無我実現≒自己実現』

 本日の講演会で『“坐禅”とは何ですか?念仏とどう違うんですか?』という質問を受けたが、立ち話であり時間も無かったので、ここに書き残します。
 先ず『坐禅』が“自我の完全否定、つまり真空無想(本来無一物)・無念無想の心境の現前である“真”の“自己実現”であることを理解しておいて欲しい。そして、自己は“自我”を空じて『無我』の心境を体現することであり、一意専心の“一”をも捨てた心境である。
『念仏』は、前出の一心不乱に念仏を唱えるという“一意専心”であることを理解されたい。つまり、『禅』は、念仏や難行苦行という大学課程を卒業した者が、更なる探求(己事究明)のために入る修士課程や博士課程である“大学院”のようなポジショニングにあり、“卒業はない修行”であると理解されたい。勿論、指導教官(師)から修士課程修了(印果)の証明書を受け取ったり、博士号に準えられる法嗣者となるよいうな場合もあるが、決して“卒業”はないものである。
 なお、勘違いしては困るのは自己と自我の違いである。巷を闊歩するA.Hマズローの『Self-actualization』が日本語では“自己実現”と翻訳されているのは明らかな誤訳であり“自我実現”を意味していることは明白なことである。詳しくは「人間性の心理学(初版1954年)」を原書で読めば直ぐに解るはず。ヒントは、マズロー自身が心身一如という絶対的平等の真理を理解できず、概念として人間が作り上げた文学作品としての“神と我(心と体は分離)”を前提とした差別を肯定しているところがポイントとなる。
 さて、念仏と決定的にことなるのは『坐禅』は儚い夢幻に何かを委ねたり、“帰る”だけでは半人前であり、“また帰る”ことが重要であることは、十牛図あたりを参照すれば直ぐ解るだろう。つまり、坐禅により“本来の面目(元の住処≒父母未生以前の己)”に帰えり、そして戻ってくる。“行くも帰るも法の声”であることは白隠禅師の坐禅和讃にもある。
 言い換えれば、“自我”を抱いて父母未生以前の世界へ帰り(行く)、“我”を捨てさって本来の自己(面目)である“空”と一体化した“己”として帰ってくることである。これが自己実現(本来の面目で生きる)の正しい定義である。
 蛇足だが、拙僧は、病の為か、大愚和尚の言葉ではないが、黄檗和尚の“老婆親切”には疑問があると言われたことと似ているが、余計なお節介として懇切丁寧に話したがる傾向があり、禅者の本物の悟りの妨害をしているかもしれないが、平に許されたい。
一日一生 慧智(070423)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月22日

●『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』

 人間は、知る限りにおいて自分が経験した文脈を抽象化して端的に伝えるために短い語や句をつくる習性があるようだ。
禅においては“一転語”と言う“見解(けんげ):悟りの凝縮文”を、記憶に残りやすい、言ってみれば、潜在意識に落ちやすいようにリズミカルな“句”として表現する。例えば、喫茶去や本来無一物、無事是貴人、日々是好日など。同様に、俗世間でも、今風に言えば表現と意味合いの関係を結びつける“辞書や辞典”が沢山生まれた。それを一般的には『事物解説書』と呼ぶ。数多ある中に寛文四年に発刊された『世話支那草』というのがある。その中に禅寺に伝わる『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』に似ている『毒薬(どくやく)変(へん)じて薬(くすり)となる』という件(くだり)がある。似て非なるが何れが元で先かは定かではない。表題の「毒にも薬にもなる草は料理次第で美味なる馳走(醍醐のこと)になる」という意味。禅寺では『毒薬変作醍醐』にどんな心と託しているかは、夫々の師の解釈によるが、拙僧が教えられた?または、理解したのは「師の罵声は軽薄な弟子は“怒られた”ととり、賢明な弟子は“叱られた”と取る」。結果、怒られたと思えば意気消沈し、叱られたと思えば奮起し修行に拍車がかかる。
 本日の禅会で「殺人刀(せつにんとう)活人剣(かつにんけん)は上古(じょうこ)の風規、今時の枢要」という碧巌録十二則の圜悟克勤和尚が羅山道閑の言葉を引用した件の話をした。禅語として取れば“刀や剣”は“般若の智慧(良く切れるから刀剣に準えられている)”となのだが、拙僧の解釈は“力(力≒仏≒智慧”)とし、活人禅寺では解釈させている。つまり、“力(智慧や罵声)”は使いようで、相手に劣等感を植え付ける場合もあれば、有能感を与えることもあるので注意して使えと、いうことを話した。活人禅の語源であるから、参禅者は知っていて当然なのだが、何度も何度も言わないと、忘れる者も出る。
 勿論、拙僧の罵声に耐えて参禅、公案工夫9年。これが後継者(印可)の最低条件であることは事実。何故なら、拙僧の罵声に絶えられれば、如何なる時でも『平常心是道』が身につく。
 さて、表題も、活人剣の件も、俗の教訓においても異口同音に示しているのは、『力は使いよう』ということである。転じて「才能、財産、技術、知識、地位、体力、若さなど・・・・」は“使い方次第”ということである。勿論、“力”を正しく使えるようになれるには、『六波羅蜜行』である『布施・持戒(自戒ではない)・精進・忍辱(にんにく)・禅定・智慧を実践することは言うの及ばず。それには“善根”に害を及ぼす煩悩である『貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)』、“むさぼり、うらみ、愚痴ること”の三毒を追放する。そのためには、眼、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官(五根)は入ってくる“情報”で生まれる五欲、色、声、香、味、触である五境を通じて“意”が生じるメカニズムを理解し、チッポけな“小欲”である『必要以上の物(金銭)欲、快楽のための性欲、選好みや美食などの食欲、目的としての名誉欲(結果ではない)、必要以上の惰眠である睡眠欲』などなどの“アドレナリン中毒、βエンドルフィン依存症”と決別し、天下国家、地球を俯瞰するような『大欲一個』に集中するのが肝要ということである。それが“精進”の意味であり、只管に道を究めようとする“禅定(坐禅のこと・只管のに与えられた仕事に打ち込むこと)”が、あるとき忽然として“悟り”を生み、結果的に“智慧”となり、そこから“智慧≒力≒仏(衆生本来仏なり・己の外に仏無し・・)となるのである。また、日常的な行動規範である『八正道』、つまり『正見(先入観を持たずに純粋な事実を正しく見る)・正思(正しく考えて事実の背後にある本質を考える)・正語(パロールという個人的な方言ではなく長い間に洗練されてきた標準的な意味であるラングを使って正しく話し、書くこと)、正業(コンプライアンスに自信の持てる正しい仕事や行動を行なうこと)、正精進(志した正しい道を只管に歩むこと)、正念(一点にフォーカスされた正しい念(おもい)、正定(師に従った正しい坐禅や規矩作法)』を重視して生きることが必須なのである。
 よく聞け。禅は“今・此処に正に生きている人間”が、迷い無く活き活きと生きることを身に着ける“道”なのだ。言い換えれば、自分を“経営”出来るようにするのが“禅”なのである。我欲の為に作業する“月給鳥”には無縁。己の持ち味を存分に発揮して、天下の為に生きる“乾坤只一人”の菩薩育成機関である。薄っぺらなヒューマニズムなど無用。負け犬など門前で叩き切る。強く活き活きと生きようという“生きる覚悟”をさせるのが禅である。忘れるな。とは言っても、来る者は拒まず、去るものは追わずもまた、禅である。
●最後に一言。
昨日今日輸入された“バリュー、ビジョン、ミッション、フィロソフィーなど”というキリスト教的な“性悪説”の国の“お題目”に踊らされている“似非・日本人”。取り分け政界や財界をリードする権力者は、己の見せ掛けの“地位・財力・発言力”を今一度点検し、長ずる者の生き方に気付いてもらいたい。それが本物の『ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige)フランス語』であり「財産、権力、社会的地位を背景にした高貴な者の義務(社会的責任:CSR)」である。
●ぼやき
「わかんねーだろうな」成金には・・・。
一日一生 慧智(070422)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月20日

●禅は、事実を『みる』、『きく』ことが先ず第一。

先ず『みる』の文字は、拙僧が知る限り、誤解をさせるまいとして更なる誤解を生む可能性があるので、完全には使い分けてはいないが、『見 看 相 覯 覧 観 矚 眄 視 覗 診 睨 睹 監 覩 瞰 瞥・・・』。文書の師である塩小路光孚師(菅原道真公の38代目)によれば100以上はあるという。次に『きく』は、聞 聴 可 聆 訊 (利 効)、現代に於いては少々意味が異なる2字を加えても6文字。師に問えば「もっとある」という。確かに、話を“きく”、音を“きく”。人工音か自然音か。音源別なら無限にあるだろう。いずれにしても“分別”→“差別”に繋がる“有”の源泉であることは確か。それにしても、「みる」文字が「きく」文字より多いのは何故だろう。

『看話禅(臨済宗)』の修業に入ると、“初関”として与えられることが多いのが『無門関』第一則の「趙州狗子」。その本則に対する趙州の解説は懇切丁寧そのもので、無門禅師の解説も同様。その『無門関 第一則「趙州狗子」』は通称『“無字”の公案』といわれている。『室外持ち出し厳禁』の公案なので詳細は述べないが、『本則』は、「趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無」。意味は、趙州にある僧が「犬にも仏性があるでしょうか」と尋ねると、趙州は「無」と答えた。一切衆生悉有仏性 山川草木悉皆成仏、森羅万象は全て仏性そのもの」という根本思想からすれば“おやおや”の応えである。続いて、無門禅師の解説が、「無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて、絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽くこれ依草附木の精霊ならん」というもので、意味は「禅の実践は、先ず最初に「祖師の関」を透らなければならない。それから、悟りを得る道に踏み込み、己事究明を通じて“心”見窮め、夢想・妄想・煩悩から解放されることが肝要。祖師の関も透らず、夢幻や妄想に取
り付かれたまま、煩悩を滅する経験も無しに『禅』に取り組んでも無駄、中途半端は禅敵である」。「しばらく道え。如何なるかこれ祖師の関。ただこの一個の無字、すなわち宗門の一関なり。ついに之をなづけて禅宗無門関という」。「さて、祖師の関とは何か。それは、この一個の「無」字である。これが禅宗の第一の関門である。それを名付けて「禅宗無門関」という」というのが、「趙州狗子」の超超訳のである。
 何故、臨済宗は『看話禅(かんなぜん)』なんだろう。何故に「話を看る」と書くのだろう。そして『無字の公案』なのだろう。捨てるには、“有無”の“有”の状態が無ければならないが、周知のように、無字の公案の“無”は“有無の無”ではなく、“有無の無では無い無”である。つまり、相対的な無では無く、絶対的な無。絶対的な無を観ようとする時に“相対的な無”が比較に出てくるのは絶対的では無い。「素粒子の姿を直接に観ることは出来ない」というのは先端科学の常識。有は無であり、無は有であるからだ。そんな事実は『般若心経』の肝である「色即是空 空即是色」とあるから、禅者であれば衆智。がしかし、本当に解って行動できていれば“初関”が全て。にも関わらず1700の公案があり、48000の経がある。

■禅士に問う「禅では、何をみるか、きくか」

一日一生 慧智(070420)
『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』
『衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成』
願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月19日

●『帰到家山即便休(かざんにかえりいたって、すなわちきゅうす)』碧巌録六十四頌

『帰到家山即便休』とは、表面上は「故郷に帰えりつくは休むこと」という句だが、真意は「無心を得て父母未生以前の己を生きる」と小衲は感じた。さて、己本来の休息の場とは如何なる処か、如何なる心か。そこは『枯木花開劫外春(枯れ木に花が咲く時間を超越した大安心の春』。正に、死中に活を得た心境。さて、そこは何処か。
一日一生 慧智(070419)
◆今日は、少しだけ長めに坐られよ。

*********************************
★追記
白隠禅師坐禅和讃が頭を過ぎられかな?
衆生本来仏なり~一坐の功をなす人も~自性即ち無性にて~無相の相を相となし~無念の念を念として~当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり。

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●『日月雖有清明 不照覆盆之下(じつげつにせいめいありといえども、ふぼんのしたをてらさず))』

表題の文字通りの意味は「太陽や月に自然な明るさがあるとしても、盆が覆った下を照らすことはない」というもの。
さて、句中の『盆』とは一体何なのか。『盆が覆う』とは、どういう状態か。だから、どうしろと暗示しているのか。
禅語として受け取ることと、教訓として受け取ることの違いは、時代的な背景もあるだろうが、それ以上に“受け取る側の心”の違いなのだ。禅士が己の修業と同様に重視しなければならないのが、衆生の手本となる生き方をすること。となれば、“人を観て法を示す”が大事となる。それは、小さな子供から漢語の専門家や老師に至るまで、相手に相応した理解が必要だろう。それは無心となって自他一如が体現できていれば何の懸念も要らない。しかし、そこに至るまでの道においては、その交わりから生まれる“本質的な学び(気付き・悟り)”にこそ、一大事がある。
 さあ、禅士よ“見解(けんげ)を伝えよ。ただし、言葉は不要。
 「願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを」
一日一生 慧智(070419)
◆追記
昨日、寺の管理を一手に引き受けていてくれた村上夫婦の夫が脳溢血で倒れたとの連絡を受けた。生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人。悔いなく生きることは日々を全力で生きていることにほかならない。病む時は病む。素直に受け入れ、出来る事に全力を尽くす。因果を超えて因縁に生きる。快復を心底より願うのみ。
 

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2007年04月17日

●『不許夜行 投明須到(やこうをゆるさず、みょうにとうじてすべからくいたるべし:碧巌録41本則より)』

 『不許夜行 投明須到』の意味は、「夜行くことは禁止するが、夜明けまでには辿り着け」という無理難題。
さて、ネット禅士よ、如何とするか。
この関を通れば、死中に活を得られる。
さあ、応えよ。
一日一生 慧智(070417)
願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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●『飲水貴地脈(みずをのんでちみゃくをとうとぶ:虚堂録)』

私たちは、毎日毎日、起きて寝て、息をして、水を飲んだり食事をしたりする。当たり前のこと。それが日常というもの。つまり、一瞬たりとも物事と断絶していることはない。禅の修行者は、禅堂は言うに及ばず、行住坐臥の一瞬一瞬を全力で生き切る。鐘の音、風の音、洗面時の水音、線香の灰が落ちる音、引き戸の軋み・・・、その一挙手一投足を一期一会の出来事と一体となって本来の己、父母未生以前の己に出会おうとする。つまり、四苦八苦の“根”を全身で解ろうとする。先ずは3年、十年、二十五年。人により多少の異なりはあるが、坐って坐って、歩いて歩いて、凍えて焼かれて、己の無知に悩みながら諦める寸前まで“無”の一字になり切る生活をする。それは、同じ水を飲む場合、喉が渇ききった時に飲む水と、十分に潤っている時に飲む水は、水は水だが、水が水ではない。水の中にあって渇きを叫ぶのば不自然なように、必要な時に必要な量が満たされていれば、感謝の心は忘れられている。『知足(たるをしる)』の大事さは当然だが、私達が体験する全ての現象は、無数の原因が“縁”となって具現し認識する。言い換えれば認識しえない事実は無限にある。私たちは“事実”と共に生き、事実から学び、事実の根底にある根本(本質)と離れることはない。にも関わらず、「本質とは何か」と、あらためて問うと、頭で考えて言葉にしてしまう。それは私達の外に“仏”が無いにも関わらず、内に求めるべきを外に求めてしまう傾向がある。
 本質とは私達の外だとか、内だとかには無い。何故なら、私たち自身が無限に姿を変える本質の“一つの形”であり、“仏”以外の何者でもない。全ての現象が“仏”“本質”である以上、感謝無しには生きられない。会う人、力の出すために頂く食物、雨露を防ぐ藁一本から瓦まで。足の痺れを癒してくれる坐布一枚・・・・・。托鉢の折に山中で出会う湧き水の一滴。何も化もが本質、根本の変化。
 表題の句は、虚堂録にある「~仰山飲水貴地脈 報恩久貧乍富~」から切り出した“一句という一片”。直訳は、湧水を飲んで、その源の貴さを知り恩を忘れないということ。好き嫌い、良し悪し・・・、自分都合で評価する事実は無限だが、事実は、個人の都合の良し悪しという評価に関係なく現象し続ける。故に、現前する事実を無差別、無条件に受け容れることが自然体。暑い時は暑さと一体となる。苦しい時は苦しみと一体となる。主体と客体を一如とする。“不二”となる。この時が“無心”。生死一如、自他一如。一切皆苦が一切皆空と一体となりること。山川草木悉皆成仏、全ての自然は最初から成仏している。皆例外なく仏。感謝し合う現象。そのような真理、本質、原理、原則が世界、環境を構成している以上、“気付き”や“発見”は、日常そのもの。しかし、水の中に居て喉が渇いた、という者は多い。長々話したが、『飲水貴地脈≒みずをのんでちみゃくをとうとぶ』ということ、その理由に気付くこと。大事だとは思いませんか。
一日一生 惠智(070417)願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを
 

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2007年04月14日

●薬師の十二請願(薬師本願功徳経・薬師経)を『企業経営者の使命』に投影する。

 薬師如来は、今日考えられている“病難厄除”や“病気平癒”だけではなく、衆生を全ての苦悩から解放することを菩薩修行の中で誓いました。それは単に“現世利益”を与えることではなく、救われた後には利他の働きをするように導いた本物の“経営者”です。
 言い換えると、先ずは救い、自立させ、世の為に働ける力と心を作ることを己に誓っているのです。
*因みに、拙僧が“末期癌”を自覚し、余命を受容れ、己を信じて七日間坐り決定的な危機から脱した活人禅寺の薬師堂には『薬師菩薩』が安置されています。
 さて、本題です。請願の超訳の下に『→』で“経営理念(企業目的や経営目標を達成させる上での経営者の明文化した志)”に準えられることが出来る“標準的な表現”を書いておきました。前出しましたが、薬師如来(菩薩)が、経営道を究めた方だということを理解してもらえるでしょう。
(ご注意)薬師の十二大願(請願)は、異なる表現が数種類あり宗旨宗派により読まれているものが異なりますが大同小異です。
第一願   光明普照
第二願   随意成弁
第三願   施無尽仏
第四願   安立大乗
第五願   具戒清浄
第六願   諸根具足
第七願   除病安楽
第八願   転女得仏
第九願   安立正見
第十願   苦悩解脱
第十一願  飲食安楽
第十二願  美衣満足

1、人々を光明で普く照らし成仏させます。
  →社員の成長を促し一人前の社会人にします。
2、人々が善い行いをできるようにします。
  →仕事を通じて社会に貢献します。
3、人々が必要なものを手に入れることができるようにします。
  →社会貢献を行なう組織には十分な投資をします。
4、人々を大乗仏教の正しい教えに導きます。
  →社員を教育し理念を実現させます。
5、人々に戒律を保たせ清い心にします。
  →遵法精神を持った企業市民にします。
6、人々の身体上の障害を無くします。
  →出来る事をさせるという心で差別の無い雇用を実現します。
7、人々の病を除き窮乏から救います。
  →労災に対して真摯に対応し生活を支援します。
8、女故の修行上の不利を取り除きます。
  →差別や数合わせでない真に正しい女性登用をします。
9、人々の菩薩行を手伝い完全な悟りに至らせます。
  →社員教育を充実します。
10、人々を災難や苦痛から解放します。
  →社員の安全と健康管理を重視します。
11、人々の飢えや渇きから解放します。
  →社会貢献活動を重視します。
12、人々に衣服など心慰めるものを与えて満足させます。
  →働きやすい環境を用意します。

一日一生 慧智(070414)
願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

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2007年04月13日

●禅は、己の外に願わず、己に誓うことを『四句請願』を通じて学ぶ

 坐禅の前に、自らの誓いを口から発して耳にフィードバックさせて、意志を再確認させるのが『四句請願』です。今日は、“四句請願とは”について話します。
なお、明日は拙僧が魅了される薬師の十二請願を講話を予定します。
今日は、取り立てて説明をしません。
ネット禅会で実践してください。

■四句請願
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)
4句を最低三回は繰り返す。

■四句請願の慧智流の“超訳”(何を、誰に誓っているのか)
生きとし生けるものを救い幸せに導くことを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
己の尽きることの無い邪な欲望(邪心)には負けないということを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
釈尊の発見した真理(宇宙の法則)をあらゆる場所の体験を通じて学び尽くすことを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
正しい智慧、正しい生き方を獲得するために生きることを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。

一日一生 慧智(070413)
★追記
起きぬけに書いた部分に誤りがありましたので、修正しました。

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●『空』『不』『無』について

 般若心経に限らず、『教』を後世に確実に送るための『経』、仏教経典には、『空』『不』『無』という言葉
が沢山出てきます。何とは無く“似たような”考え方に基づいているのだろうな、と多くの方は思っているようです。そこで、今日はそれらについて話しましょう。
 先ず『空』とは、『一切皆空』の“空”であり、釈尊が発見した真理を示し『全ては実体が無く、全ては現象である』ことを意味します。恰も『量子力学』の中心概念のようです。「実体が無い」ものは「無常」、変化しないものはありえません。言い換えれば「全ては変化するが、増えもせず減りもせず、ということです。分子は元素、原子、核と電子、素粒子、量子と細分化され終には『4つの力』に帰着します。つまり“全ての物(者)は一時的な現象です。例え、それを我々の五感で現認していても想像がつく通り、永遠の存在(実体)ではなく宇宙の波動性と電磁性で一時的に現象しているに過ぎません。しかし、真実の実在ではなくとも現象しているのですから『色即是空であるが空即是色』と考えます。有るけど無い、無いけど有るという状況は“空”、“力”だから実現しているのです。つまり、物として確認しているのは“事(現象)”の仮の姿です。宇宙の本質こそ『空』なのです。以下『不』も『無』も『空』を前提として、経験的に確認できる“物”も“事”も一過性の現象という考えが下敷きになります。
 ですから、『不』は、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」などが代表的な使い方で、現代日本語の使われ方で「不自由」を“自由が無い”と解するか“自由でない”と解するかで微妙に差異が生じますが、仏教用語としての『不』は、「~しない」「~でない」のように使われていて、“実体が無い”という考え方の延長線上で使われています。つまり、不生不滅、不垢不浄、不増不減は、「生じるという事実はないし滅するという事実ははない、汚れるという事実はないしききれいになるという事実はない、増えるという事実はなく減るという事実はない」。つまり、“実は変化するという事実も無い”という考えが投影しているのです。
 となれば『無』は、“実体は無い”ことを意味し、日常経験の世界のもろもろの存在物は、実体が無い、ということです。在していないのです。これを「無」という語によって表しました。
 以上から、全ての“般若経典”に共通する概念で、智慧を伝え送る経においては、『一切皆空』という釈尊の“発見”を伝えているのですが、実は、『一切』という語は“例外は無い”ということから、釈尊と言おうが仏陀と言おうが、それもまた『空』であることが伝わって来ています。
諸君、トップぺージのある般若心経を、記憶に委ねて口をパクパクするのではない、今日はしっかりと読んでください。
一日一生 慧智(070413)

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2007年04月12日

●『信じる事、疑う事』の意味

二見は危険であるが、極論を示した方が理解しやすいので、『信じる・疑う』すなわち禅で言われる『大疑大悟』について話します。 
西洋(キリスト教文化)の思考様式の特徴は、神を信じ、他人や事象(事実)を疑うことが基本。
東洋(仏教文化)の思考様式の特徴は、他人や事象(事実)を信じて、自分を疑うことが基本。
さて、皆は、この表現を信じるか。受け容れるか、拒絶するか。
仮に、“信じ”という部分を“受け入れ”と変えたらどうだろう。
『清心万能・邪心万危』という教訓がある。
これは、性善説の発想と理解するか、性悪説の発想と理解するか。
仮に、会社で上司に怒鳴られた。その時“悪い上司”と思うか、“自分が悪い”と思うか。場合により異なるだろうが、何れが“学び”が多いと思うか。
人には、外向型と内向型、他責的(型)と自責的(型)という心理学的傾向があるが、何れが成長にとって効果的か。
信じる事は愛すること、愛することは信じることか?
疑う事は拒絶すること、拒絶することは疑うことか?
デカルトが提唱した『方法論的懐疑』は、彼の言う“真理”に到達するために疑うという“方法論”としての懐疑であり、全てを事実を疑い、疑問が晴れたもののみが真理であるという考え方だ。
皆は、これに同意するか。
仏教の『懺悔(SANGE)』とキリスト教の『懺悔(ZANGE)』、読み方も違えば意味も違う。
皆は、理解できるか。
さて、本題である。
以下は、ご存知の四句請願と対となる懺悔文(さんげもん)である。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かうゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいそしょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

表面的な意味は、以下の通り。しかし、『悪の認識』は意識的か、無意識か。そもそも“悪”とは何か。また、“悪”の対極が“善”か。考えてみると良い。とは言っても、考えて解るものではない。本日の講話の内容は頭で解ってもの、それは生きる意味を見出せない。坐る以外にはない。暫くは、坐禅三昧でいて欲しい。少々体調が思わしくなく、辻説法が途切れ途切れになるかもしれないので。
『私の父母が生まれる前の私は沢山の悪い事をしています。それは真理をしらない無知が原因で、日常の動作や言葉や考え方を通じてのことです。己に降りかかる全ては己の心の問題であり、真理に目覚めていなかった事を悔い改めます』と意訳したが、誰に対しての言葉か。
一日一生 慧智(070412)

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2007年04月11日

●『ことばにも色に出して候ては、用心になり申さず候』と沢庵和尚が言った。

さて、表題の句は誰に向けての言葉だろう。
ネット禅士であれば、そう考えてしまうだろう。
だが、そう考えた瞬間に、否、それは万民に向けた言葉だ、と考えられないと禅者としては半人前。
言葉は、発する側と受け取る側では意味内容が異なる。
だからこそ、禅では不立文字、直指人心、以心伝心・・・を戒める。
つまり、凡夫には「お前の警戒心は見え見えだぞ」。
菩薩には「心が顔に出ているぞ」。
聖人には「本当に捨てるものはもうありませんか」となる。
言葉というものには解釈の幅があり、六道を用いて方便的に解説すれば、
①「地獄界」では言葉は嘘の道具ゆえに言葉すら受け取らない。
②「餓鬼界」では言葉を笑い飛ばす。
③「畜生界」では意味が理解されない。
④「修羅界」では言葉の裏が読まれる。
⑤「人間界」では言葉通りに受け取られる(真意は伝わらない)。
⑥「天界」では、言葉が発される前に真意が伝わり、(拈華微笑)、真意は、その言葉を更に洗練させて一転語に翻訳されて後世に残される。(不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏)
お前さんたちは、どの様に受け取ったかな。
さて、後先になったが、沢庵和尚の言葉の表面上の意味は「言葉や顔色に出してしまっては用心にはならませんぞ」。人間的な解釈は「万一に備えて警戒するだけではなく、その「警戒心」を相手に気付かれないようにしなければ警戒の目的は達しませんよ」ということだろう。
 禅の教えにある修行中の菩薩(お前さんたち)は、「無念無想無住」の一歩手前,心が「空」の前の「無」のような状態にあれば「警戒心があるうちは無心ではないよ」と受け取れるはず。十年も坐っていれば「警戒心をも捨てて心が空っぽになっていれば如何なる場合でも最適な行動が取れる」と受け取れたはず。そして、そこから“在家のゴール”と“出家のゴール”の違いを悟り、在家が目指すは菩薩禅、出家が目指すは如来禅の意味が廓然無聖、カラッとはっきりと観えたはず。と同時に「不可分不可同」が浮かび、表裏一体の言葉が飛び出て、川の手前、竿の上と川の先、竿頭の一歩先の違いが観えたはず。このように解るのが“観音”、音が観えるという状態。この感覚は体験してみないと解らない。方便では(俗的な言い方)をすれば、“凡夫禅・野狐禅、秀才禅と天才禅”のような二見的な表現になるだろう。勿論、天才も秀才も凡夫も皆、人間。欠くべからざる宇宙の要素であることは真理。「不生不滅・不垢不浄・不増不減」。
一日一生 慧智(070411)
★追記
昨日、理由はわからないが4年間で最高数のアクセスがあったようだ。これもインターネットという地球の神経系が動き出している証拠かな。だとすると地球の内分泌系、免疫系も近い内に健全化するかな。まあ、100年は黙って見ていよう。

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2007年04月10日

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

世俗の常識を全面的に受け容れると、人は夫々、夫々に夫々の人生の目的があり、当然に目標がある。
目的は、目標の集合で、目標の全部が達成された時、目的は自動的に達成する。
目的を達成させるための行為の全てを総称して、戦略という。
目的達成の節目ないしは重要な要素である通過点に合理的に置かれた目安を目標という。
目標を達成させるための行為を戦術という。
目標達成の手段である戦術は、標的単位で戦闘という行為が行なわれる。
つまり、『戦闘は標的を射止める行為、戦術は目標を達成させる行動、戦略は目的を達成させる活動』で、それらは階層化されており、論理学的に正しいことを要件として成立する。
そして、それらの知見の源泉は“軍事技術”が整理され洗練された結果“経営”の概念となっている。
つまり、国家経営も、企業経営も、組織経営も、家庭経営も、人間経営も、哲学という原点、思想という枠組みをもった上で、それらに対して論理的で合理的であることが絶対条件である。
なお、それらの哲学・思想・目的・目標・標的・活動・行動・行為に一貫性を互換性を担保しつつ進捗を計画し実施状況を調整して統合するもが“管理”であって、経営=管理、管理=経営は成り立たない。
また、それらの階層分化を設計する上での必要条件は、米国のコンサルティング会社であるマッキンゼー社が『Mutually Exclusive and Collective Exhaustive(相互に重なりなく、全部集めたら漏れがない)』がコンセプトとして提言した、と言うか論理学の世界では“当たり前のこと”をである、略称『MECE(ミシー)』という構造になっている論理構造図(ロジックツリー)が完成していなければならない。
更に、社会構造に言及すれば、目的達成をために編成されるのが社会組織であり、目的と規範がない集合は集団に過ぎない。このことは、全ての組織に共通する概念であり、家族という組織もまた同様である。
 因みに、家族とは最終的に解散することを暗黙の内に共有している核(単位)家族と、貴族や富豪一族のように解散を前提とせず拡大を前提とする形態を“家”ないし一族(華族ないし豪族ないし伝統的家族)という。故に、核(単位)家族は、相続を前提とはしておらず、従って資産形成が目的とはならないので、必然的に消費傾向が高まり、蓄財より費用対効果の確実な教育などのサービス消費が重んじられ、“家(一族)”に置いては、資産の継承を重視するために、耐久消費財への消費はありが、基本的には土地や金融商品などに関心が向けられ、蓄財傾向が高まる。
横道にそれたので話題を戻す。
上記のような論理展開を理解し、目的が決まれば、それに必要な戦略の大枠は決まり、戦略が決まれば自動的に組織構造が決まるというのは自明の理である。
そして、企業などにみられる組織構造は、目標単位で纏まりを作ることを要件としている以上、目的達成責任者である代表者と組織目標達成責任者である管理者が置かれ、目標達成責任者がその請け負った目標を全て達成すれば、組織の目的は自動的に達成することとなる。
故に、目的達成責任者は、部下である目標達成責任者の目標達成を支援するのが使命であると断言できる。
◆以上のような概要を詳細に解説し、個別の事例を調査研究し、クライアントの要求に従い、組織を設計したり、人材編成を行なってりするのが、在野での小林惠智の仕事のひとつである、ただ、現実的には『経営』という「仏教用語を語源とする統合的教育活動」の全般を担うことになり、在野においては、それらは“科学(方法が正しければ同じ成果が出る)”であることが当然のように要求されている。所謂“普遍性”の探求が、在野での私の仕事である。質問者は“それ”つまり、回答者が置かれた立場を理解して置いてください。
注記) 経営とは、『予め設定された目的・目標を日々の営みを経て達成させること』というのが定義である。

さて、巷で考えられている経営が完璧であったにしろ、それで“心”が満たされることはない。私は、それを全身で体験し知っている。解りやすく言えば、理科の実験室でレシピ通りに作られた料理を、シャーレやフラスコや試験管を食器として使う食事のようなもので、安全で安心故に、頭で考えれば最高の出来栄えであっても、それは味気なく、況や“心”が満たされることは決してない。況や、それを満腹な状態で食べたり、嫌いな食材が入っていたら“食糧”として、物理的エネルギー源としては十分だが、最も大事な要素が抜け落ちていることになるのは容易に理解できるだろう。
 そこで、頭と体、心身二元論が前提にある“科学”を幾ら寄せ集めても、人間を幸せには出来ないということ多くの科学者に理解され、二十年程前の『線形科学から複雑系(非線形)』という考え方が芽生え、同時に研究が始まり、結果として当時最も最先端の科学であった素粒子論、分子物理学、現在では量子論力学(量子論は科学と哲学が止揚された究極のアプローチ)は、“物”を中心に置いた二元論を疑問視することとなり、蹴った敵に二元論という“有無”の論理体系は無力化し、“力”を中心においた一元論の世界に足を踏み入れてしまった。その最初がサンタフェ研究所の前身であり、私がFFS理論を提唱する切っ掛けとなった戦略研究所の仕事であった。
 つまり、その時点から限界に達してしまい、限定的な合理性すら担保できなくなった科学が、無作法にも“頭で考える禅”、俗称でビート禅などと呼ばれている世界に足を踏み入れ、“禅の考え方”が、東洋思想から世界思想へ、思想のデファクトスタンダードに向けて動き出したのは事実である。ところが、一部の頭でしか理解していない修行体験を持たない一部の禅者は、それに気を良くして、有頂天となって『古い神が死に、新しい神が創造された』などという暴言を吐き、それがローマ法王庁の心を逆なでし、禅はバチカンから弾き出され、今日では嘗てのマイノリティの地位に後退してしまった。しかし、「それでも地球は回る」と言い続けているのが海外で修行を続ける“ZEN者”なのである。なお、その“新しい神”とは、“力”を意味しているのであって、父母未生以前の己であり、新しくも古くも無く、始まり無く終わり無く、減る事無く、増える事も無い“本質”なのである。その辺りは質問者が、本気になって般若心経を読めば解るだろう。
 話を進めるが、私は、前出の科学者同様に、『禅』を伝統サイドからのみ見ている禅僧ではない。禅の本来は全ての表現は固有であり、真似事を極端に嫌い、過去に固執し、師の言葉に拘り、偏った考えで自由を放棄することをもっと卑しむ。つまり、それでは禅僧ではないのである。『A≠AでないからAである』と書けば、聡明な相談者には類推できるだろう。ところが、既存の宗派は、自由闊達であることを伝統を危うくするものだとして嫌った。禅の伝統は生身の人間の成仏(生きながら仏になること)であり、革新であるはずなのだが、である。
 故に拙僧は“逸れ坊主”となり本山系からは異端扱いされ、禅僧であるが故に、現行法の中で法人格を必要となり、結果的に自身で宗派を立てざるを得なかったのである。勿論、それこそが“本物の禅僧”と確信しているし、葬式仏教との決定的な決別をも意味している。
 つまり、『禅』は今此処を生きている者が“幸せ(大安心)”に生きて行くための方法論であり目的論ということなのであり、“坐禅”は、その方法であって同時に目的なのである。
 更に付け加えて言えば、“禅”は、現代において最先端の知識を超えた“生きる智慧”なのである。なお、智慧は頭に蓄積記憶され再生される単純な知識ではない。しかhし、それらの知識は智慧を得るための通過点、捨て切る素材としては必ず必要であり、無知であってはならないのは事実である。例え話であるが、知識・地位・資産を得て、それを守ろうとする心こそが不幸であることを体験できないと、全てを捨て去り“大安心”の体験をすることは、本質的には出来ないのが凡夫の悲しさである。なお、誤解が無いように付け加えるが、出家得度して禅堂で最低でも十年暮らせば、如何なる凡夫であっても“本質を全身で悟り、智慧を得る事は無限である。
 話はまだまだ途中だが、質問である「生きながら仏になる道(菩薩道)」はに対する答えを、杓子定規に表現すれば、『本来無一物』を生きるなさい』としかいえない。
 しかし、その前に、一人ひとり、誰をも例外にせず与えられている個人固有の能力(強み)を発見し自覚し、今此処で活かし切り、自分に与えられた能力を出し切りましたか、と問いたい。
もし、未だに出し切っていなければ、俗世間で納得できる成果(大目標と言っても良い)は、実現できていないはずで、そんな状態を、禅を利用して脱出しようと考えるのは100年早い、と言いたい。
だから、逃げることではなく、先ずは、成功を勝ち取るまでは、在野の規範、“科学の世界(ニュートン力学の世界)から足を踏み外してはならないのである。
それは野球の試合は、野球のルールに従い、相撲は相撲のルールで行なわなければならず、野球に相撲のルールを適応させては野球にならないからである。そして、野球選手として技術的に秀でて、実力者として評価されても、野球は人生の一部であり全てではないのだかから、究極の幸せ(大安心)には至らないことを実感できるのである。
例えば、京セラの稲盛氏が、何故、得度し禅の世界に足を踏み入れたか、元総理の中曽根氏が・・・。成功を極めた人々、最先端の科学者・・・。彼らが何故“禅”の道に、在家であるか出家であるという分別差には関わりなく踏み込んで来た理由は、お分かりだろう。
付け加えるが、お金や地位は、使うためにある。ただ、自分の為に使ってはならないことを肝に銘じておくべきである。私は、師から、そのように教わってきたし、納得も出来ているので実行している。それが社会にどの様に映るかは、受け取り評価する側の人間の“心”次第である。
「素直に生きる」「社会の為に生きる」と松下幸之助氏は言った。成功したからそのような発言が出来るようになったのではなく、そのような心で働いていたから成功したということを理解しておいて欲しい。
◆拙僧が思う有質問への究極の答えは以下の通りである。
生きながら仏になるためには、『一日を一生に準え、謙虚に、真面目に、誠実に今の仕事を徹底し、一日30分でも良いから、静かに坐って(坐禅)、呼吸と姿勢を整え、心の乱れろ毎日修復すること』です。
当たり前ですが、己の体を風呂に入れのは誰ですか。心も同様です。心身一如なのですから。故に、場所は何処でも構わないので、風呂場でも結構です。安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼しである。
因みに、禅寺では、古来から“浴室(風呂)・東司(便所)・食堂(ダイニング)”は三黙堂と言って、坐禅と同じように厳粛に無言の修行の場となっていることからも“修行は日常に潜んでいる”ということは想像はつくだろう。
 
 以上、少々長くなりましたが、定年後の仕事と人生で迷われているというメールを頂き、結論は貴方が出すにしろ、団塊世代の大量退職の時代に、仕事と人生を考える方々のヒントになればと、同世代の人間として体験を書き残しました。
 最後に一言:“死ぬまで現役”、“死ぬまで全力”を心に、気張ることなく淡々と持てる能力を使い切りましょうよ!
一日一生 慧智(070410)

投稿者 echi : 11:24 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月08日

●言葉の怖さ故の『不立文字』か。

 今朝、テレビで“absolute(absolution)”を、“実体(実態かもしれない)”だと、わざわざコメントを付加して訳した大学教授がいた。その瞬間、私は“これだ!”と思った。
 そもそも“absolute”はラテン語に起源を持つ英語で、[ab+solute]で、 概念的には、全ての力から完全に解き放たれた絶対的独立であり、疑う余地の無いことを示す副詞ないし形容詞で、名詞的には『原理・原則』となる。そして、哲学用語では『何者にも依存しない』という概念を持ち、キリスト教の影響下にある思想用語では『絶対者、神、実体』という意味で使われる。
 この程度は高校生の英語の授業で出てくることで、取り立てて大騒ぎする必要はない。所詮、英語を日本語に、日本語を英語にするような意訳の場合は“曖昧性”が拭えないことは誰しもが知る大前提で、「経営をマネジメント」と訳すような的外れは日常茶飯事なのである。
 今朝、気付いたことは“無知を自覚できていない権威者(知識人・文化人を含む)”が、大衆に向かって“誤り”を述べ、大衆はマスコミを通じた権威者の言葉に強く影響を受けることであり、悪意の無い権威者が無知な大衆に対して送る言動が誤りを定着させてゆくということに危惧した。
 拙僧は、決して権威者ではない。しかも悪意も無い。ただ、拙僧の体験から得た“幸せ(≒大安心)に至る道”を『千日説法修行』として語っているだけで、如何に言葉を尽くしても“一坐の効”には及ばないことを感じて頂き、『坐禅』の素晴らしさを伝えているだけである。“ホッとする禅語”のような優しく思い遣りに満ちた言葉も、相田みつおさんのような心に響く素朴な“かな言葉”も提供できていない。否、“それ”をこの辻説法の使命としてはいない。
 しかし、考えてしまった。毎日100以上のアクセスがあったり、四分の三以上が新しい読者からのアクセスを考えると、そもそもネット禅会の禅者に向けて話から始まった“辻説法”が、今や私を直接知らない方々に読まれていることへの不安が芽生えた。
 『言葉』、それを書き残す『文字』は、便利だが危険な文化である。『以心伝心』『直指人心』・・・。それが禅会なのだが、インターネットを通じての禅会にどれ程の価値があるか。白隠禅師の坐禅和讃は、ネット禅会を前提にはしていない。しかし、釈尊や達磨、臨済の祖師は“それ”を含めて伝えてくれていたのだ。
 春になりました。ネット禅会の方々も、一度は寺の禅会に参加し、親しく同じ空気を吸い、同じ物を食べて雑談に興じようではないか。
 禅会参加や禅に関することは、info2@ryobo.org にメールしてください。皆様の基準からすれば“愚か禅僧”かもしれないが、持てる全ての力を提供しようとしている意欲だけは信じて欲しい。
 “言葉の力”は両刃の剣。活人剣であり殺人刀。されど“両亡”。これを如何に言葉で伝えるか。それが拙僧の永遠の課題。
一日一生 慧智(070408)

★追記
アップロードしてから、ふと気付いたのですが、TVで発言した彼は、哲学では類似の概念を示すことから、「substance」を「absolute」と単純に良い間違いただけなのかしれない。とするなら、拝物主義者なのかもしれない。
★★追記2
一日中“水”を飲んでいた。痛みは激減し、体温は37度。すこぶる快調。明日は忙しくなる。それにしても土日祝祭日は、気が緩むためかダウンしている。もったいない。諸行無常、光陰可惜、時不待人、と時は金なり・・・。最近は坐睡をしていると太腿が鬱血し、腰に鉄板が差し込まれたようになるので、坐禅すら一炷がやっと。しかし、寝込んでいては“無駄死”になる。
★★★追記3
2003年4月7日が“虫(無私か、無死か)の知らせ”で書き始めた『辻説法』の始まり。今日から“5年目”に入る。
2003年12月24日が末期癌の宣告を受けた日。
2004年6月25日が、命日の予定日。
2007年6月25日を越えれば・・・・今日から、また“一日一生”を積み上げよう。

投稿者 echi : 10:49

2007年04月07日

●聞声悟道、見色明心

 禅の世界に『聞声悟道 見色明心(もんしょうごどう、けんしきみょうしん)』という雲門和尚の言葉があり
ます。「声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らかにする」という意味です。勿論、連綿と続く生命38億年の歴史を踏まえ、全身で聞き、全身で見なければ『聞声悟道 見色明心』はない。
 我ら、高々数十年の狭い狭い個人的な意識体験では、数千年の“知の体系”である学問にすら及ばないのは自明の理である。
 もし、白隠禅師に問えば、「鐘の音な何て言っている、カラスは何と鳴いている」と教えて下さるだろう。もし、盤珪禅師なら「花の香りは如何なる色か」と言われるかもしれない。
 つまり、見聞きする日常を師として、先入観、決め付け、拘り囚われた偏った“頭”ではなく、150億年の宇宙の歴史、38億年の生命の歴史が刻まみこまれた“60兆個の細胞の共鳴”である“全身の智慧(無の心)”で聞き、見る時に『父母未生以前の本来の己』、即ちマクロ宇宙の部分であり、ミクロ宇宙の全体である己、正に“主人公”でなければならない。
 それには、どうするか。“坐る”こと、全身を“禅”にすることである。
 つまり、戒や律に従って生活を整え、身体を整え、姿勢を整え、呼吸を整え、深い三昧(脳はα波状態)に入り、一日一日を一生に準え、眼の前のご縁に全力で取り組む。すると、求めなければ『般若の智慧』に至る。求めない理由は、稚拙な知識や高々の体験や経験、世間の常識という先入観の源泉を“捨てて捨てて捨てまくる”からだ。すると、ある時に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりする何かが、全てを気付かしてくれる。
◆表題の出典は『従容録第八十二則 雲門声色』。
衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。
挙す、雲門衆に示して云く、『聞声悟道、見色明心』、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。
頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。
禅士よ。今日のネット坐禅の前に声を出して100回読んでみなさい。必ず何かに気付く。
一日一生 慧智(070407)
報告:本日、朝方から激痛(鼻毛を千本抜いた位)と高熱(体温計の目盛りの上限に近い)を楽しんでいる。何か宙を飛んでいるようで趣がある。
 品川五畳菴にて

投稿者 echi : 14:12 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月06日

●競い、争うこと毋れ

雲水時代の慧智.JPG
 無知で怠慢な者は、“社会的手抜き現象”と言われる行動を無意識にとる。どういうことかと言えば、スポーツなどを思い出せば直ぐに解る様に、自分より非力な人間と競争する時には全力を出さないし、明らかに技量が勝っている相手と競争する場合は、最初から諦め、これも全力を出さない。まあ、“兎と亀”の競争でも同じようなことがあり、それが屡のことであるから、長い間に“教訓”となっている。勿論、“環境や状況に合わす”というのが術語の本意であり、無意識の平均化である。『禅』はこれを徹底的に嫌う。
 私が師からトコトン仕込まれたのは、正に“社会的手抜き”はするな、ということ。それを『勉強や仕事、つまりは“修行”を通じてトコトン自分を磨き上げる』という表現が使われた。言い換えれば、昨日より今日、今日より明日、自分で解るように成長しろ。それが己事究明になる。お前はお前の人生の主人公である。他の誰とも違う。磨いて磨いて鏡になるまで磨け。その為には、今・此処を晴れの舞台としてしっかりと“主人公”を務めろ。掃除の時は全身を雑巾にしろ。坐る時は富士の様に坐れ。 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」だ。その上で“心身一如、物心一如、自他一如”を生きろ。他人と比べるということ、真似をすることは罷りならん。頼まれたことは決して断らず、己が納得した方法で必ず実行しろ。風当たりが強ければ強いほど凧は高く上がる。
 30余年、このように生きてきたつもりである。しかし、まだまだ納得が行かない。最近、病のためか6時間程度の睡眠である。以前は数十年、3時間睡眠であり、仕事・勉学を半々としていた。・・・。
 今、古い写真が出てきたためか、そんな思いが湧き上がり、涙が頬を伝う。まだまだだな。否、人生は一生修行だな。寝込んでいる暇は無いな。
一日一生 慧智(070406)

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●年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず・唐詩選)

大子の春の花.JPG
 この漢詩は、唐の詩人、劉(りゅう)希夷(きい)の「白頭を悲しむ翁に代わりて」の第4節の『古人は復た洛城の東に無く、今人は還た対す落花の風、<年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず>、言を寄す全盛の紅顔の子、応に憐れむべし 半死の白頭翁』を出展にしています。
 昔の恋人はもういないが、若い恋人達同士は今も風に散る花を眺めてる。思えば、寒い冬が終わって春が来ると、毎年同じように花は美しく咲くが、嘗て花を一緒に見た人はもう此の世にはいない。若者よ、いつまでも若いと思っていると、すぐ年老いてしまうぞ!、というように意味。
 『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』、正に諸行無常。悠久の自然と生命のはかなさを対峙させた句から学ぶことは多い。生者は必ず死ぬ。それは定め。だから「死んでしまうかもしれない」なんて考えなくても大丈夫。必ず死ぬ。だからこそ、クヨクヨせずに思い切り生きよう。完璧な人間なんか何処にもいないし、だめな人間だって何処にもいない。人それぞれに個性がある。その個性が集まって“人類”や全ての現象が成り立っている。大丈夫。ひとりぼっちの人間なんかいやしない。知られてなくても君は君。少なくとも私は君の事を知っている。寺に来なくても良い。今夜、11時丁度。真北を向いて二人で坐ろう。20分で良いよ。死ぬなんて思うな。何れ死ぬ。だから自分に威張れる死に方をしよう。君を救えるなら、遠慮なく私の命を使いなさい。だから、子供は生かしてやりなさい。残すのが心配なら、私のところに連れてきなさい。
☆Kさん!毎日、読んでいてくれて有難う。読者が減るのは寂しいので読み続けてください。
一日一生 慧智(070406)

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●愚かなほどに素直に生きると幸せが・・・。

「災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 <大愚良寛 和尚>
 人は誰しも“災難”や“死”から逃れたいと思うもの。拙僧だって例外ではない。強い人間などいやしない。ただ、強い弱いという“ふた心”が無い人はいるよ。それは“その心”に逆らい“~でなければならない”なんて精神論を振り回そうものなら、帰って肩に力が入り、さらに恐怖心が増すもの。
 だからね、何事も逆らわずに“今・此処”を素直に受け入れる。何があろうと『日々是好日』『和顔愛語』『無事是貴人』すると不思議なことに平静(平安・安寧・大安心≒幸せ)が得られる。それが妙法だよ、と良寛和尚は優しく語っている。
 では、“その心”になるには、それなりの方法があるんだよ。目的・目標は“恐怖心”を消滅させる何か。言い換えると“無心・無我”となる何か。それが“坐禅”なんだ。
 いつも言うだろう。『過去は変えられないし、未来は決まっていない』。今の全ては“縁起(無数の原因の相乗効果が今の結果という未来の原因をつくること)”によって現前している。それがどんな状態であれ、誰も“それ”からは逃げられない。つまり“因果をくらます”ことは出来ないんだ。
 方便に聞こえるかもしれないが「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」と親鸞聖人が言っているね。それは、悪人正機(あくにんしょうき)という浄土真宗の教義の中心的な教えなんだが、本意は、人間の本来は善悪などを差別しない、善そのもの。だから“それ”を悟り、一日を一生として世間の決めた善悪などに囚われずに、拘らずに“本来の己”を素直に生き、しっかりと坐って自性すれば、己が“無性”であることを悟り、己が菩薩、此の世の仏(つまり仏陀≒真理を悟った智恵者)になりますよ、と白隠禅師坐禅和讃にあっあろ。だから、親鸞さんは“方便”として“善人は自らの力で成仏”できるんだから“悪人”だと思っている人は私の話を聞きなさいと言っている。素晴らしい。これが、本物の信仰だろうね。ヨーロッパで神様の椅子取りゲームを性懲りも無く何千年もしているレリジョン(一神教)が「私の支配下に入り“羊”として暮らさなければ皆とも地獄に落ちて苦しむぞ」なんてマインドコントロールを多用する世界的なカルトが教団があるが、それに比べると我が国の親鸞さんは素晴らしい。先日旅立たれた青島幸男さんじゃないが、「♪悪い奴は、俺んとこに来い♪」だからね。
 脱線してしまったが、“無心となる方法”は、難行苦行でも脳天気に生きることでもなく、“只管に坐る”こと。釈尊もそうだったし、慧可大和尚も達磨大和尚も、臨済さんも白隠さんも、良寛さんも、玄峰老師も宗淵老師も・・・・、皆『二見(相対的な考え)』を消滅させ、本来の己を発現させて生きることを体験し、体験させようとした。それは、二見がなくなると、不安や恐怖という相対的な幻想が消え失せ、本質、原理原則、真理が見えるからだ。すろと、みんな“良寛さん”になるんだ。すろと、いつもニコニコ。元気に生きよう、元気に死のうとなる。無理なんかしなくて良い。本来の己(父母が生まれる前の己)に素直になれば良い。それだけ。嘘みたいな本当の話。それが“坐禅”。死に損ないの私が言うんだから間違いないが、疑うんなら坐って自分で試してごらん。でも、ちゃんと坐るには寺に来なさい。教えてあげるから。
一日一生 慧智(070405)
*昨日の説法は“怖い”なんて、若い娘に言われたんでね。今日は・・・・・。
*これが、坐禅和讃の心。

投稿者 echi : 04:33 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月04日

●“禅”と“悟”のノウハウ

 禅は“信”ではなく“修”だと書いた記憶がある。つまり、盲目的に信じるのではなく、疑い尽くして体験して気付き、生き方を正すのが禅なのです。
現代風に言えば、禅は『事実』を価値観や先入観で汚染せずに、あるがままに受け止める。枝葉末節の事実の正しい認識が増えると機が熟し、一挙に本質、法則、原理原則などを発見する。それが“悟り”であり、引き金は極めて身近で単純な出来事が圧倒的に多い。例えば、ボタンが取れたとか、時計が止まっていたとかなど。禅では“発見(悟った)”程度ではまだまだ。小さな気付き、小さな発見が積み上がって初めて“大悟(だいご)”となる。大きな悟りであれば、その瞬間から行動が自動的に変わる。だから師家が弟子の悟りの段階を見抜けるのだ。
 つまりは、禅は『事実』→『小さな発見』→『小さな発見の記憶』→『大きな発見(大悟)→『生き方の発明と『実行』という流れであり、『発明』とは己ブランドのオンリーワンだ。全ての大衆は初期条件から全てが異なるのだから、姿が違うように悟も他人とは違うのが当然だ。そこからが本当の修行だ。そして、ある時、他人と自分の境界が消え、ミミズと己の境界が消え、全てに個性がありつつも全てで一つという世界に至る。そこまで来たら本物だ。そこから更に進めて、先ずは悟を捨ててしまえ。捨てて捨てて捨てて、捨てるものが無いという心も捨ててみろ。言い換えれば、その手法を“止揚の止揚”という。止揚とは、異なる、または対立する事象を上位統合すること。それを更に統合する。この矛盾を生きろ。まあ、悟りは最小公倍数と言っても良いかもしれない。そして、最大公約数が得られてから更に修行を進めて最小公倍数を大発見するのが『後悟』ということ。それが禅の全てある。ミクロとマクロを止揚するとどうなるか。
 さて、ここまで言葉・文字で親切丁寧に教えた以上、拙僧の定義する“悟り”をパクレば、悟りに達しないことになる。オンリーワンではないからな。格好だけで“片手の音”を聞いたようなことを言葉に出来るようなら、それは妄想、幻想、嘘ッパチの勘違い。無の一字に成りきりましたなんて言葉は出鱈目。頭が首の上に付いているようじゃ小僧だぞ。頭は網代の台みたいなもんだ。
 さあ、禅士よ。どうするか。釈尊も達磨もワシも殺してみろ。活人剣を使うか、殺人刀を使うか。両方とも刃物というのが事実だ。さあ、どうする。
さあ、ネット禅士よ。『悟』とは何か言ってみろ。但し、言葉や文字は使うなよ。体も動かすなよ。その上で私の衣を脱がしてみよ。もし脱がすことが出来たら風呂に入ってやる。そうしたらネット禅姉よ。背中を流せ。ワシの背中が鏡になるまで磨きつくせ。但し、手も足も使うな、湯も水も使うな、氷もだめだぞ。手ぬぐいも使うなよ。風呂場にも入って来るなよ。入れば禅姉とてワシはお前らの衣をズタズタにするぞ。
 さあどうだ。今日、此処で、禅の事など忘れて、お題目でも唱えていろ。
疲れた。茶でも飲んで寝るか。お前らは座れよ。
一日一生 親切が衣を着て歩いているような生涯一雲水の慧智(070404)

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2007年04月03日

●今日は“憲法記念日”?

 拙僧の記憶が正しければ、今日は聖徳太子が17条の憲法を策定した記念日(西暦604年4月3日)である。そんなことを思い出したので、少し調べて、総則というか、精神というか、日本人なら一度は聞いた事のある「以和為貴」の部分について考えよう。
◆原文:
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
◆読み:
いちにいわく。
やはらぎをもってたっとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。
ひとみなたむらあり、さとれるものすくなし。
これをもって、あるいはくんぶにしたがはず、またさととなりにたがう。
しかれどもかみやわらぎ、しもむつびてととのへば、ことをあげつらわむに、
すなわちことわりみずからかよへり。なにごとかならざらむ。
◆訳文:
 一つ、節度をもって仲良くすることが大事で、足を引っ張り合うようなことはしてはいけません。
人は皆、派閥をつくって群れ感情的に動くもので、論理的に考え行動できる者は少ない。
つまり、直接の上司の命令に従わない者や仲間同士の喧嘩で、規範を逸脱する者がでる。
しかし、上の者に敬意を払い、下の者に正しく接すれば、上下関係は円満となり正しい議論が生まれ、物事の原因や結果を共有し、正しい対策が取れるので、不祥事は起きない。
◆評語:現代は、太子が心を痛め憲法を制定せざるを得なくなった1400有余年前と同じように、『競争を賛美し、勝ち組と負け組に分け、年長者を老害あつかいし、拝金主義が心を重視する者を排斥し、一人勝ち願望が蔓延している今日』、同じことを繰り返さない創意工夫が必要でしょう。
一日一生 慧智(2007年4月3日)

投稿者 echi : 10:56 | コメント (0) | トラックバック

●『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

我々は本来から“仏性(ぶっしょう)”を完全に具えている、と白隠禅師の坐禅和讃の冒頭に出てくる。さて、「如何なるか“仏”」と私が白隠禅師に問うと、禅師は如何なる表現をされるか。今日は、ネット禅士各位に問いたい。
 また、それを禅士に問えば何と応えるか。
 さらに、如何なる者も“同じ表現”になってはならない、と拙僧が付け加えたとすると、その真意は何か。
 「本来仏なり」なら、仏性に始まりはない。始まりがないとするなら終わりもない。父母未生以前から孫子誕生以後も同じ。即ち、本具仏性は永劫不変。となれば、核攻撃も、老・病・死や地震など問題外。地球が壊れても微動だにしない。『不生不滅、不垢不浄、不増不減』と般若心経にある。
さて、応えよ!
但し、頭を使うなよ。言葉を使うなよ。
さあ、どうする?
一日一生 慧智(070403)

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2007年04月01日

●”七歩歩んで天上天下唯我独尊”とお釈迦様は生まれて直ぐ歩いて喋ったと聞きましたが信じられません。本当ですか。(墨田区・中学生)

和尚ズ.JPG
私は釈尊ではありませんので、文字通りの事実は確認できませんし、聖書と同じような創作話は信じないのが宜しいでしょう。しかし、『何故、そんな話が作り上げられあなたが聞くことになった』のかは真剣に考えることに値するでしょう。
 因みに、我々に伝わっている『~七歩歩んで天上天下唯我独尊~』とは、釈尊という人を例えに出しただけで、『七歩』とは地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上(菩薩)という心のあり方である“六道”の先の一歩で、『如来(宇宙そのもの)』の凝縮の如く、どんな赤ん坊も、過不足なく全てが整って生まれてくる“唯一無二”の存在であり、全てで一つの現象というのが人間の本質であることを伝える言葉としてです。ですから、その他の表現は“方便”であり、『真理を発見し、真理に至る道を発見した釈尊』に対する心からの畏敬の念がエスカレートして“超人化”させてしまった表現だと思います。
 禅の心は“先ず疑う”ことが第一歩です。最初から信じたら、それに囚われ・拘り・偏った考えになってしまいます。ですから、疑って疑って、疑う過程で、疑いが解けたら、それを”あるがまま”に受け容れる。それでも疑い、疑い、疑うものが無くなり、疑う心が消えるまで疑いつくす。それが“禅”です。なお、一番先に疑うのは“己”の考えですよ。己を無にして初めて“大疑”がもてるんです。
一日一生 慧 智(070401)
★驚き:海外の画廊から拙僧の“悪戯描き”を一枚5000円で何枚でも譲ってくれという話がありました。御浄財5000円は托鉢に出たら1週間分。悪戯書きは3分とはかからない。不思議な世の中ですね。過日、紙すきをして、出来栄えをみようと筆を走らせたら、職人さんが「だめだ!書いたら売れなくなるっぺ!」と言われて怒られたのが夢のようです。しかし、本来は売るものではないので困っています。

投稿者 echi : 15:06 | コメント (0) | トラックバック

 
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