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2007年03月28日

●『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』

『応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)』。
 意味は、「何か、何処かに安住しなければ、喜怒哀楽に支配されない真に自由(自ずからに由る)な心が生まれる」というもの。
 『自由な心』とは何か。“我”という妄想、自縛から解き放たれた喜怒哀楽とは無縁の『本来の己の心』である。『喜怒哀楽』という波紋のような一過性の現象に揺れる心があるから、人は絶えず“言葉に出来ない不安”の世界に閉じ込められている。己の外に仏なし。不安という漣を如何に考えるか。それが人生の質を左右する。
 人間を含む如何なる生物も安全・安心を希求する本能がある。そのこと自体が生物としての自然な要求である。つまり、命の自然な指向性と言ってよい。
 言い換えれば、人間本来は平安であり安寧(安全・安心)の主人公。形の無い純粋生命は無心に平衡状態へ向かう。考えて動くわけではない。A・Hマズローの初歩的な気付きですら、安全・安心・帰属・承認・自己実現という欲求の階層化を理解している。決して“自我実現”ではない。自己実現とは“無心”への到達であり、“百尺の竿の頭の先”の世界。如何なる生物も、種の保存のためには危険に挑戦して危険と一体となって危険の無い安全で安らかな環境を選ぶ。生命現象を営む上で、安定条件が満たされている方が“快適”に決まっているのだ。それを“進化”という。進化なきところ淘汰あるのみ。淘汰とは自然に帰ること。不生不滅の法則性の世界に入ること。“進化”とは、何事にも囚われない心を持ち、そして其の心を働かせ、生への執着が捨てられた先にある安寧。
「住する処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つの事に停滞しないこと。囚われない、拘らない、今・此処のこと。そこにこそ「其心を生ず」という。其の心とは、無念の念を念とする。無相の相を相を相とすること。正に“忘我のところに無心あり”。融通無碍、無碍自在の心の働きがあらわれるという意味である。そして、その境涯で行なわれる思考が、『禅脳思考(全人格的思惟:全身で考えること)』であり、IQ200の世界。父母未生以前の己である容(形)無き純粋生命を実体験すること。
 私が知る限り、其処への道(大道)は、坐禅を除いて体験できなかった。そこでの心境は、正に釈迦の発した「天上天下唯我独尊」という言葉に帰す。その言葉こそ、「人は夫々、其の人にとって掛け替えが無い尊い存在であり、だからこそ、互いに他人を大切に出来る」ことからの働きが出る。釈尊の心境に行き着けば『我という無我』は自然となり、自他一如を生きることが出来る。そこには“競争”という『妄想的で無意味な心(応無処住而生其心の“其の心”ではない心)』は無く、“協奏”という悟りの世界がある。拘らない心、囚われない心、助け合いの心で生きましょう。因果一如の門を開きましょう。それには、一日を一生として相対的自己ではなく絶対的自己を生きる“安寧”、生きていることへの感謝の世界が広がってます。
一日一生 慧智(070328)  体温40℃、物言わぬ肝臓が時々痙攣するのを実感できる、それは今日も生きている証。

投稿者 echi : 2007年03月28日 07:24

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