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2007年03月18日

●『戒定慧(かいじょうえ)』

 私は釈尊・・(文殊)・・達磨・慧可・・・白隠・・・代々の祖師、大和尚に深く帰依するが、足跡を追う気にはなれなかった。つまり、伝統に連なることを嫌った。勿論、社会に認知されている“伝統”を踏襲していれば、表向きの『道』を外すことは無い、ということは十分に解っていた。また“禅堂(≒生きる事)”10年、『戒定慧(かいじょうえ)』の重要さは身にも染みていた。しかし、それでも伝統に“ぶら下ること”に“大疑”を感じていた。何度も何度も、何度も考えた『自灯明』と『法灯明』。そして昭和43年11月、忽然として“生涯一雲水”であること、歩歩是道場であること、独歩して己事究明に励むことこそ“禅”であると確信し還俗した。“本者”でありたい、“祖”となりたいと思った。しかし、本者であろうとすると、灯した明かりは絶やすことなく生涯に渡り灯し続けなければならず、常に伝統からは異端視される。確かに、伝統との決別はある意味で反逆行為なのだ。勿論、禅はある意味で“全てオリジナル(自灯明)”と考えることも出来た。だからこそ『法灯明』は“蝋燭を一本、一本、また一本と新しい蝋燭に火を灯して聖火リレーのように繋ぎ、時代時代と相互浸透しながら絶えず体制内で更新されてゆく自体『自灯明』であるという意見も十分に理解はしていた。その上、伝統には奇特な力があることも十分に体感していた。それでも『伝統』に生きることは己の成長を阻害すると思えての還俗だった。師と決別し、『戒定慧』と一冊の本を胸に還俗という形でゼロからの旅に出た。当時の私が解釈した『戒定慧』とは、『悪を制するを戒、心を無とする定、真実を証するを慧。つまり、『身を修め、あらゆることに先入観を持たず仏性の投影であるこの世の現象である事実を徹底的に体験して全身で学びつくせば、釈尊が発見した真理(宇宙の本質)を自ら検証し、先人と同じように完全無欠な智慧(知識・思考を超えた力)を得て成仏する』であった。そして、修行により完成した智慧を原動力にして“輪廻、因果そして縁”の本質を見抜き、迷い多き現世に小さくても良いからしっかりとした明かりを灯したかった。遡ること48年、龍澤寺を宗淵老師に任され、お体が弱り始めていた時期ではあったが、特別のご配慮で玄峰老師に就き得度、その後の10年の小僧・僧堂暮らしを捨ててから38年。今も心は“生涯一雲水”。師を持たず弟子を持たず“一人一宗一派こそ宗たる教え”を標榜しつつ今日もまたヨレヨレしながら行脚している。“逸れ坊主三十年”。花は紅、柳は緑という常識を放下し、“花は紅に非ず、柳は緑に非ず”という心境を経て、最近、なるほど、花は紅、柳は緑であると得心しているが、去りし日のことを思い出すことが多い今日この頃である。いやはや、困った未熟者である。
一日一生 慧智(070318)

投稿者 echi : 2007年03月18日 22:47

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