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2007年03月30日

●『雨奇晴好(うきせいこう)』

 『雨奇晴好』の意味は「雨の景色は奇特、晴の景色もまたよし)」、晴れても雨でも、それぞれによい景色で、趣のあるというのが文字通りの意味であることは誰しも想像はつくだろう。出典たる語源は、蘇軾(そふ)という詩人の「飲湖上初晴後雨」という歌だろう。聞くところによると、この詩は西湖の美しい情景を歌った一節にある~水光瀲艶晴方好・山色空濛雨亦奇~というところで、西湖のさざ波が陽を受けて輝く様は筆舌に尽くしがたいほど美しく、湖畔に佇む山々の雨に霞む姿もまた風情があってよいものだとい感じだろう。 つまりは、『日々是好日』の断片であり、大自然を前にすると誰しもが素直な心を取り戻し、今此処をあるがままに受け容れられる。
 今日は痛みがひどいので早起きて、東京の仮住いがある御殿山の雨の桜並木の下を歩いた。実に美しい。生きている実感は痛みをも忘れさせる。晴れ渡る青空の桜も良いが、雨の桜も趣がある。人生も同じこと。晴れる日もあれば降られる日もある。しかし、いずれの事象も全ては"一過性”、正に因果一如である。常なる現象は無い。正に諸行無常。歩きながらふと気が付くと『白隠禅師坐禅和讃(正宗国師坐禅讃)』が口をついて出ていた。
衆生本来仏なり   (私たちは本来仏なのである)
水と氷の如くにて  (水と氷の関係のようなもので)
水を離れて氷なく  (水がなければ氷ができないように)
衆生の外に仏なし (私たちの外に仏はない)
衆生近きを知らずして  (しかし、私自身が仏であるにもかかわらず)
遠く求むるはかなさよ   (自分の外に仏があるかのように思って探しまわっている)
譬えば水の中に居て   (それは水の中にいて)
渇を叫ぶが如くなり   (喉が渇いたと叫んでいるようなもの)
長者の家の子となりて   (また、裕福な家の子に生まれたのに)
貧里に迷うに異ならず   (貧しい里をさまよい歩いているようなもの)
六趣輪廻の因縁は   (いつまでも迷いの世界から抜け出すことができないのは)
己が愚痴の闇路なり   (世の中の真実を知らないからである)
闇路に闇路を踏みそえて   (迷いに迷っていて)
いつか生死を離るべき   (いつ苦しみの世界を離れることができるだろうか)
それ摩訶衍の禅定は   (大乗の禅は)
称嘆するに余りあり   (限りなく大きな支えとなる)
布施や持戒の諸波羅蜜   (他人への施しや自分自身への戒め)
念仏懺悔修行等   (念仏や懺悔、他力の信心、自力の修行など)
その品多き諸善行   (数々の善行があるが)
皆この中に帰するなり   (それらは皆「禅定」の中に含まれている)
一坐の功を成す人も   (一時でも、心を落ち着け坐った人は)
積みし無量の罪ほろぶ   (今までの迷いや不安は無くなり)
悪趣いずくに有りぬべき   (悪い出来事などどこにもなくなる)
浄土即ち遠からず   (浄土は今此処の近くにある)
辱なくも此の法を   (ありがたいことに、この真理、教えを)
一たび耳に触るる時   (一度でも耳にして)
讃嘆随喜する人は   (讃え、喜び、受け入れる人は)
福を得ること限りなし   (広大無辺な幸福を手に入れるであろう)
いわんや自ら回向して   (ましてや自ら修行して)
直に自性を証ずれば   (本来の己が分かれば)
自性即ち無性にて   (迷いや不安などは完璧に消え)
すでに戯論を離れたり   (同時に煩悩から離れた)
因果一如の門ひらけ   (そんな私たちは、今、仏と一体となり)
無二無三の道直し   (真実の道が真直ぐひらける)
無相の相を相として   (無常の相を実相とし)
往くも帰るも余所ならず   (どこに居ても、心から安らげる)
無念の念を念として   (雑念の無い心を心としていれば)
謡うも舞うも法の声   (全ての現象が仏の悟りの代弁者となる)
三昧無礙の空ひろく   (拘り囚われ偏りの無い心は、果てしない大空のように自由に広がり)
四智円明の月さえん   (本質を映し出す美しく清らかな月が輝く)
この時何をか求むべき   (この時、多々求める心は無くなる)
寂滅現前するゆえに   (迷いや不安がなくなって心の安らぎが得られた今此処)
当処即ち蓮華国   (それこそが、正に浄土であり)
此の身即ち仏なり   (私達自身が“そのまんま仏”(仏陀の再来)なのである)
慧智 超訳

『即今只今』、それが全て。全てが美しく『一期一会』。『無事是貴人』。真理を知る人は本当に素晴らしい。感謝。
★お知らせ:3年で1000本の辻説法を越えたらしい。それでも生きている。私の使命とは何なのだろう。さあ、坐るか。
一日一生 慧智(070330)

投稿者 echi : 11:27 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月28日

●『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』

『応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)』。
 意味は、「何か、何処かに安住しなければ、喜怒哀楽に支配されない真に自由(自ずからに由る)な心が生まれる」というもの。
 『自由な心』とは何か。“我”という妄想、自縛から解き放たれた喜怒哀楽とは無縁の『本来の己の心』である。『喜怒哀楽』という波紋のような一過性の現象に揺れる心があるから、人は絶えず“言葉に出来ない不安”の世界に閉じ込められている。己の外に仏なし。不安という漣を如何に考えるか。それが人生の質を左右する。
 人間を含む如何なる生物も安全・安心を希求する本能がある。そのこと自体が生物としての自然な要求である。つまり、命の自然な指向性と言ってよい。
 言い換えれば、人間本来は平安であり安寧(安全・安心)の主人公。形の無い純粋生命は無心に平衡状態へ向かう。考えて動くわけではない。A・Hマズローの初歩的な気付きですら、安全・安心・帰属・承認・自己実現という欲求の階層化を理解している。決して“自我実現”ではない。自己実現とは“無心”への到達であり、“百尺の竿の頭の先”の世界。如何なる生物も、種の保存のためには危険に挑戦して危険と一体となって危険の無い安全で安らかな環境を選ぶ。生命現象を営む上で、安定条件が満たされている方が“快適”に決まっているのだ。それを“進化”という。進化なきところ淘汰あるのみ。淘汰とは自然に帰ること。不生不滅の法則性の世界に入ること。“進化”とは、何事にも囚われない心を持ち、そして其の心を働かせ、生への執着が捨てられた先にある安寧。
「住する処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つの事に停滞しないこと。囚われない、拘らない、今・此処のこと。そこにこそ「其心を生ず」という。其の心とは、無念の念を念とする。無相の相を相を相とすること。正に“忘我のところに無心あり”。融通無碍、無碍自在の心の働きがあらわれるという意味である。そして、その境涯で行なわれる思考が、『禅脳思考(全人格的思惟:全身で考えること)』であり、IQ200の世界。父母未生以前の己である容(形)無き純粋生命を実体験すること。
 私が知る限り、其処への道(大道)は、坐禅を除いて体験できなかった。そこでの心境は、正に釈迦の発した「天上天下唯我独尊」という言葉に帰す。その言葉こそ、「人は夫々、其の人にとって掛け替えが無い尊い存在であり、だからこそ、互いに他人を大切に出来る」ことからの働きが出る。釈尊の心境に行き着けば『我という無我』は自然となり、自他一如を生きることが出来る。そこには“競争”という『妄想的で無意味な心(応無処住而生其心の“其の心”ではない心)』は無く、“協奏”という悟りの世界がある。拘らない心、囚われない心、助け合いの心で生きましょう。因果一如の門を開きましょう。それには、一日を一生として相対的自己ではなく絶対的自己を生きる“安寧”、生きていることへの感謝の世界が広がってます。
一日一生 慧智(070328)  体温40℃、物言わぬ肝臓が時々痙攣するのを実感できる、それは今日も生きている証。

投稿者 echi : 07:24 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月27日

●『悟』と『悟後』の連続性について問う、とカナダのネット禅士から迫られた。

禅士:「『悟』と『悟後』の連続性」とは如何に。
慧智:「それでも月は地球を回り、地球は太陽を回る」と
禅士:「では、修業とは」
慧智:「即今」
禅士:「智恵とは」
慧智:「足の裏でもなめろ!」
禅士:「裏とは表の反対か」
慧智:「手をなめてみよ!」
禅士:「無明とは」
慧智:「東京は夜だがカナダは朝か」
慧智:「早く仕事に出ろ!」
禅士:「言葉による解説の意味は」
慧智:「離却語言、語言三昧、東京の桜はもうすぐ咲くよ」
慧智:「坐りなさい。働きなさい。食べなさい。寝なさい」
 最近、ブログへのアクセス数が爆発し、海外の日本人からの“~らしき”が増えた。一方、日本人は沈黙。『禅学』への問いなら、禅文化研究所のDBにでもアクセスすれば済むだろう。にも関わらずである。“問答”は修行者同士の挨拶。修行に入っていなければ“言葉遊び”である。一日に十通近くは深刻な相談があり、海外に出ていると日本語による刺激を求めたくなるのは解るが、『時不待人』、深刻な相談を優先させてもらうので、次回からは“手紙”にして下さい。慧智 拝(070327)

●追記
更に『質問』がありましたので、お応えします。
質問:『公案』は、修行者でなければ理解できないのですか?
慧智:カーーーーーーーーーーッ」
□公案は、禅者同士が境涯をチェックするためのもので、師の室の外には持ち出すことはタブーです。
勿論、公案と問答も違います。
また、比喩ですが、初関のような師が“入り口”での決意を知ろうとするための学士過程の公案と、在家修行者である居士のための“竿の上”の古則に則った修士課程の公案と、独自の境涯を披瀝させる“竿頭の一歩先”の博士課程の公案とはまったく違うと拙僧は考えています。
 ましてや、『公案を理解する』というのは、禅学者の類であり、頭で考えている限り“禅”とは言わず“哲学”の類でしかありません。悪いことは言わないから、先ずは10年坐りなさい。
 当寺では、この3年、公案を与えたものはいません。それが“答え”です。それが全てです。
合掌 慧智拝 

投稿者 echi : 03:25 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月26日

●活人禅寺(慧智)流の“癌封じ”法

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★露蓮(LOHAS)の丘も春で★

 私が知る限り、己の癌をカミングアウトすると、医者以外(医者もかなりレベル差が大きい)の方、例えば“呪術系”、“民間療法系”、“耳学問系の素人”などから異口同音に“癌封じ”について助言を頂くことが大変に多いものです。
 勿論、大半の方は善意で、見聞きした情報を伝えつつ元気を出させようと“方便”を使う方(小さな親切大きなお世話型)。近親者などの特殊な経験や体験を拡大解釈して一般論のようにして熱く語ってくれる方(一杯のかけそば型)。藁をも掴みたい心境に乗じて悪意から“デタラメ”なことを言って金品を騙し取ろうとする輩(振り込め詐欺型)などなど沢山居られます。
 それらを十分に理解したうえで、私の体験のポジショニングを決め、自己責任で判断してください。では、私の現在進行形の“ご縁療法”について二つの観点『考え方と行動』に分けて話しましょう。
■『考え方』
1、体には自然治癒力があり、癌ですら治る
2、自然治癒力とは、特別な何かをするものではなく、己の免疫力を活性化すること。
3、自然治癒力を信じられないのは、心が病んでいるからである。
4、癌を恐れ、逃げてはいけない。そうかと言って精神力で頑張ってはいけない。
5、癌に怯え、過去を顧みて、自分を虐めたり、他を恨んではいけない。
6、癌を軽視してはいけない。
7、癌を敵視せず“己の一部”であることを認める。
8、自分を取り巻く環境は、全て自分にとって必要な現象であることを理解しておく。(雨が降ったら濡れれば良いし、傘があればさせば良い)
9、西洋、漢方、和漢だ、気功だ、温泉療法だ、統合医療だと、自然治癒力を支援してくれる行為は差別してはならない。
10、人間は病気や怪我では死なないことを理解する。死ぬのは“寿命”であり使命を果たし終えた証。
11、一日を一生と準えて生き切る。(今日一日の命を燃やし尽くす。明日があると思わない)
■『暮し方』
1、好意は遠慮なく全て受け取り、選り好みをせずに活用する。
2、効果を売り物にした勧めに応じ、金で命を買おうとすることは一切しない。
3、一日3食、食べられるものを食べる。食べたいものは食べる。
4、一日2リットルの極うすい塩水を飲む。1リットルに1グラム以下程度。
5、朝起きた時、夜寝る前に20分、布団の上で坐禅を組む。般若心経と坐禅和讃をおきな声で読む。(方法はTOPページ参照)
6、出来る限り“普通”の生活をする。(忙しかった人は忙しく)
7、疲れたら休む、寝る。
8、医者は、状況を客観的に知らせてくれる“外の己”として丁重に接する。
9、呼吸は、意識して深く吸い、ゆっくりと吐き出す。(癌を吐き出すイメージ)
10、命の次のステップを自分で用意して馴染んでおく。
 以上が、"ステージ4”からの復活の現在進行形です。
一日一生 慧智(070326)
広げられた露蓮の丘.JPG
★広げられた露蓮の丘★

投稿者 echi : 23:50 | コメント (0) | トラックバック

●ゆっくりと味わって欲しい“和讃(日本で日本語で作られ経の一種)”の一つ『菩提和讃』

●菩提和讃(ぼだいわさん)
若し人三世一切の仏を知んと欲すれば、法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、衆生おのおの仏性を、受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、忽ち仏性現前し、老若男女もろともに、その身が即ち仏なり。

しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、いつか救いのありぬべき。
それ人間の身を受けて、この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。
人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。
朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。
観世の慧眼明らかに、弘く衆生に回向して、ともに濁世を渡るべし。
尚ぶらくは人間の、受くる形はそのままに、仏の姿にかわらねば、本来より具えし霊明の、一仏心に覚むとき、この身すなわち仏にて、仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す。
日々仏に近づきて、礼拝供養も懇ろに、香花燈燭とりささげ、粥飯茶果等供えつつ、身口意三輪浄らかに、称名念仏経陀羅尼、坐禅観法修すれば浄土はもとよりわが身にて、心が即ち仏なり。
つらつらこの身を観ずるに、生生世世の父母や、一切衆生にいたるまで、その恩愛の深きこと、天の極り無きごとし。
されば誓願たてまつり、無明の眠りを覚しつつ、行住坐臥に怠らず、一心勇猛に修業して、無辺の衆生を慈しみ、菩提の道に趣かせ、本有の仏性発露して、不報の恩を報ぜんと、般若の船に掉さして、涅槃の岸に到るべし。
一日一生 慧智(070325)
★一昨日、南伊豆の禅堂で、一度に3匹の子ヤギが誕生し、菜・根・譚の家族は6匹になりました。
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投稿者 echi : 00:59 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月23日

●『百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に一歩を進む)』を解りやすく、と問われて。

この句が含意する心は、長い修行で至った悟りであれ、そこに留まり、安住していたら衆生救済の働きにならない。それ故、百尺の竿の先きから、さらに一歩を進め、命をも投げ出す(大死一番)ことで、自然と不惜身命の心(無心≒何事にも囚われない拘らない偏らない心)になるのが大事ということ。
 禅僧も“人間”。一度掴んだ安らぎの境地、悟りの世界は大変は居心地が良く、そこに安住する者も少なくない。つまり、捨てて捨てて捨ててきた心を捨てられないということ。それでは、悟らぬも同じで、何の悟りかというもの。寺を檀家からの預かり物と考えるなら兎も角、“個人資産”と考えて血族で相続し続ける“末寺”など、寺であって寺で無いから寺である。確かに、霊峰の頂上からの見晴らは良く、気分は最高なのも解る。また、内心、ここまで来れた自分を誉めたくなり、更には誉めてもらいたくなる気持ちも解らないではない。しかし、そんなところで満足していて本願である『衆生救済』が出来るだろうか。上がった山は“下りる≒私は“それ”が還俗だと信じている”。そして、その素晴らしさを活かして、己が手本となる生き方をする。人に伝え広める。それが“禅者”の働きだ。論理的には、百尺の竿頭から一歩踏み出せば、生物学的な生命を失う。しかし、得た社会的な生命が衆生救済になる。
 参考に、五祖弘忍大和尚の後継一番候補の神秀和尚の『竿の頭』の一時の心境を表している句を紹介する。
『身是菩提樹(身は是菩提樹)』
『心如明鏡台(心は明鏡台の如し)』
『時時勤払拭(時時に勤めて払拭(ふっしき)し』
『莫使惹塵埃(塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ。)』
 大意は、「この身体は悟りを宿す樹の如く、心は清浄で美しい鏡台の如きもの。故に常に汚れぬように払い拭きして、煩悩の塵や埃をつけてはならない」
 含意は、煩悩多き心に塵埃が無くなることはなく日々の修行こそが大切だということを示している。確かに“道”清浄なる境地であり、“秀才”の境地だろう。つまり“竿の頭”である。
 次に、前評判を翻して五祖弘忍和尚の後継となった六祖慧能大和尚の境涯を神秀和尚の境涯に対し一石を投じ、結果として五祖弘忍大和尚が法嗣させる切っ掛けとなった一句を披露する。
『菩提本無樹(菩提本(もと)樹(じゅ)無し)』
『明鏡亦非台(明鏡も亦台に非ず)』
『本来無一物(本来無一物(ほんらいむいちもつ)』
『何処惹塵埃(何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん』
 大意は、「本来、菩提には樹という不変(実態)はない、明鏡という心も実態ではない。故に、本来無一物であり、塵埃は溜まりようがない。故に、払拭の必要もない」というものです。
 含意は、本来無一物とは、好き嫌い、損得、良し悪しなどの二見に囚われた概念ではなく埃がかかる払うとかという道理はなく、対立的な考えを超越した、“竿の先”の禅の根本を示しているです。
(注) 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めると発表し、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍はそれを認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという、伝聞が伝わっている。
 禅士諸君!病僧を試し続けることで、私の命を延ばそうとして頂いているのは十分にありがたい。しかしな、質問攻めは、疲れるぞ。では寝る。
一日一生 慧智(070323)

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2007年03月21日

●『活きる生き方』を教えてというネット禅士からの質問に応えて

 拙僧が思うに、究極的には「生まれて死ぬ」ことが“活きる生き方”なのだが、それでは“活きる”という部分の自覚が出来ないだろう。自覚するということは“意識(有)”の問題で、無意識(無)ではない。本当に“無心”に生きていれば、“活きる”という意識ではなく、“活かされている”という無意識からの叫びに満たされ『日々是好日』や『無事是貴人』が考えずとも、思わずとも全身を満たしてくれる。だが、未だ修行中(悟後のことではない)の身であり、機械的な生産と機械的な消費という生活を余儀なくされている多くの人々にとっては『活きる生き方』、言い換えれば“納得できる生き方”が出来ているか否かでは、『“楽”の世界である浄土と“苦”の世界である地獄』の差があるだろう。禅は“自力本願”と方便的には考えても良いが、実際には『自他一如』であり自力VS他力という差別は無いということを以下の考えを読む場合には、せめて頭では理解しておいてください。そこを理解していないと『善因善果・悪因悪果』と『善悪一如』が同時に実現している一元論、『因縁論(原因は過去にあり、今は縁により現象中の過程≒故に『果』は『因』と不可分不可同)』という前提に矛盾を見てしまうからである。
 『不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏』を掲げているのに、グダグダと面倒な前置きをして申し訳ないが、質問の背景にある“心”を私なりに解釈したからである。『和眼愛語(和癌遭悟という今の心境ではない)』とは程遠い冷たい言い方に聞こえるかもしれんが、己が『活きる生き方を知って、己を活かして生きてゆこうという意志(ないし意思)の背後は、“活きる生き方”をすることで満足(安心)感を得たいという利己的な思い(邪心)か、それが人間としての当然の姿だ、使命だ、あるべき姿だとかような、ややもすると偏った拘り、囚われに近い強い価値観(脅迫観念的)ものがある場合もあれば、語彙の問題で“そんな表現”しか出来ないが、純粋で素直な思いの場合もあるだろう。しかhし何れにしろ、“今・此処の己”が不安定な状態にあることは確かだと思うから前置きをしたのである。勿論、「教えて」という『自由(自ずからに由る)に生きられない依存心にもが問題があるのは言うまでもない。また、『活きる生き方』は、“生活”と“死活”という言葉の語源をキーワードに、例えネット禅会での坐禅であれ、坐禅と仕事を通じて己事究明に挑戦していれば、自ずと答えは内にあることに気付くはずなのだが、拙僧が“そう”言ってしまえば“反面教師”を標榜する野狐禅和尚の名折れになる(そんなことはどうでも良いが、『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』だ)。
 その上、禅士が東大法学部→ハーバード→財務官僚というキャリアがあると拙僧に伝えていることから推理できるように、優越感を持ちながらの懐疑であり、本当に頭脳明晰なら、解るはずである。つまり、悩むのは、禅士が既に“有”の世界の成功者であり、捨てるべき垢が多すぎるというマイナスからの出発だからこそ、敢えて“有”の世界で通じるであろう“グダグダ話”をせざるを得ないからだ。
 良いか、よく聞け。ここまでの話は一週間も本気で坐れば、自然と気付くものだ。であるのに、難しく考えようとするのは高学歴者固有の“無知”のなせる業だ。グダグダと考える暇があるなら、己の能力を今、目の前にある仕事に120%注ぎ込め。働いて働いて働きつくせ。それが如何なる評価を得るかなどに囚われるな。独り善がりの満足感など捨ててしまえ。
 大体、過去の仕事の充実感に思いをはせ、拘り囚われ、己の理解に偏りが出てしまい、“今・此処の己”に与えられた仕事への疑問を原因に不安な毎日を送っているなどと、ほざくのも嘆かわしい!。嫌なら辞めて寺に来て住み込みの下働きでもしろ。そして時には禅堂の末単にでも坐れば、拙僧が警策の代わりに木刀で脳天を打ってやる。そもそも“人間は何か”程度のことは人に問うことなく己の全身で考え、己に問え。知的能力だの肉体的能力だの、仕事能力だの作業能力などと分けて考えるのは大衆に対する方便だ。世の中に不要な人間もいなければ、欠くべからず人間もいやしない。一人一人に個性(個別的特性)という得意・不得意があるが、全ての人が“主人公”だろうが、違うと思うか。悩むくらいなら“人間”を辞めてしまえ!!!。物(無心)となって自動的に全てのためになれ。それが『死』であり「死して活きる」ことだ。「活きて生きる」ことを望むなら、『一日一生』、己に与えられた環境で全力を尽くして生き切れ。大馬鹿者が。もう疲れたから寝る。
一日一笑 慧智(070321)

投稿者 echi : 12:47 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月20日

●“癌(ガン)とともに生きる

過日、禅会後の座談の中で“心身の健康”という議論が交わされた。“健康”の定義は、立場により沢山あるだろうが、国際的な機関である『WHO(World Health Organization:世界保健機構)』では“健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会福祉の状態であり、単に疾病又は病弱が存在しないことではない”というものです。言い換えれば、健康を病気(専門家により病名を特定された心身の不調状態ではない)との対比で語りつくせるものではないということである。つまり、“健康”を考えるには、その背景にある『価値観・経済状態・個性と社会的環境』などを考慮した上で、その地域に根ざす“文化(集合的な無意識の投影としての形式)”が大きく影響する“幸せ”という概念を理解する必要がある。換言すれば、『幸せ』の一つの要素が"健康”という概念であり、例え病気であったとしても、主体自らが“幸せ”と感じるのであればであれば『健康』と考えてよい場合もあるし、その逆もある。
 通常、幸せ(幸+福)には3つの側面がある。それは『体の調和状態(身体的健康)・心の健康(活き活きと生きている状態・生甲斐がある状態)・生活の健康(経済)』であり、その3つの側面の個々の価値感に応じた充実度が優先順序うを伴って統合され、その人なり『幸せ(幸+福)』であると言っても過言ではない。
 勿論、それらの考え方は、デカルト的二元論世界の論理で構成されている以上、完全に鵜呑みにするのは出来ないが、最近の唯物論的な教育を受けた多くの日本人への説明には利便性が高い。つまり、本質論ではなく現象論としての“方便(本質を理解できないと思われる相手に対して本質が意味する内容を知覚可能な身近な現象を比喩として使う瀬戸際的な例示法)と考え、例えば「嘘を言えば地獄に落ちて閻魔様に舌を抜かれる」などという荒唐無稽な例え話を“方便”として使って、『嘘を付く事は悪いこと』という本質的な価値を与え、それに沿った行動をさせることが必要な場合が多々ある。当然、私なども、しばしば“方便”を利用してる。それは前出のような理由と、本質は“言葉や文字”で伝えるが難しいという現実があり、禅堂修行において、全では『不立文字・教外別伝・直心人心・見性成仏』という表現で、師から弟子へ修行生活を通じた『以心伝心』で行なっていることからも十分に理解してもらえるだろう。
 さて本題である。
私は3年3ヶ月前に、脾臓・胆嚢・肝細胞の癌を患いステージ4で手術も出来ない状態だと3人の専門医から異口同音に「余命6ヶ月と宣告されたが、“今日も此処で生きている”という不可思議な状態にあるのは禅士諸君のご承知だろう。言い換えれば『何故“延命(小康状態)”できているのか』、それは『何
故か』を伝え、同様の状態にある人々に“希望”を与えるのが、今・此処での私の使命だとも考えている。
 各位の身近にも“余命幾許も無い”と宣告されている方が居られるかもしれない。そこで、今日は前出したように『健康』に関する考え方を説明しつつ、私の行住坐臥を公開しようと今日はこの文を書いている。本来なら、「寺に来て一緒に坐りましょう」と言いたいが、状況が状況だけに遠方の方には難しいので“ネット禅会”を毎日開いている。つまり、延命の方法論は“それ(坐禅)”が中心で、補助的には各地の禅者にお届けいただく“ご縁(民間療法の薬や健康食品など)”を無差別に頂いていることや、寺に伝わる寝ながら出来る“一人整体法”だけである。あくまで結果論としてなのだが、坐禅の三要素である『調身、調息、調心』、『身を調え、呼吸を調え、心を調える』ということが重要であり、“病”を否定するのでがなく、“病”もこの身の一部であり、宇宙の一部であるという考え方が重要なのである。詳しく知りたい方は、禅会においで下さい。
一日一生 慧智(070320)

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2007年03月18日

●『戒定慧(かいじょうえ)』

 私は釈尊・・(文殊)・・達磨・慧可・・・白隠・・・代々の祖師、大和尚に深く帰依するが、足跡を追う気にはなれなかった。つまり、伝統に連なることを嫌った。勿論、社会に認知されている“伝統”を踏襲していれば、表向きの『道』を外すことは無い、ということは十分に解っていた。また“禅堂(≒生きる事)”10年、『戒定慧(かいじょうえ)』の重要さは身にも染みていた。しかし、それでも伝統に“ぶら下ること”に“大疑”を感じていた。何度も何度も、何度も考えた『自灯明』と『法灯明』。そして昭和43年11月、忽然として“生涯一雲水”であること、歩歩是道場であること、独歩して己事究明に励むことこそ“禅”であると確信し還俗した。“本者”でありたい、“祖”となりたいと思った。しかし、本者であろうとすると、灯した明かりは絶やすことなく生涯に渡り灯し続けなければならず、常に伝統からは異端視される。確かに、伝統との決別はある意味で反逆行為なのだ。勿論、禅はある意味で“全てオリジナル(自灯明)”と考えることも出来た。だからこそ『法灯明』は“蝋燭を一本、一本、また一本と新しい蝋燭に火を灯して聖火リレーのように繋ぎ、時代時代と相互浸透しながら絶えず体制内で更新されてゆく自体『自灯明』であるという意見も十分に理解はしていた。その上、伝統には奇特な力があることも十分に体感していた。それでも『伝統』に生きることは己の成長を阻害すると思えての還俗だった。師と決別し、『戒定慧』と一冊の本を胸に還俗という形でゼロからの旅に出た。当時の私が解釈した『戒定慧』とは、『悪を制するを戒、心を無とする定、真実を証するを慧。つまり、『身を修め、あらゆることに先入観を持たず仏性の投影であるこの世の現象である事実を徹底的に体験して全身で学びつくせば、釈尊が発見した真理(宇宙の本質)を自ら検証し、先人と同じように完全無欠な智慧(知識・思考を超えた力)を得て成仏する』であった。そして、修行により完成した智慧を原動力にして“輪廻、因果そして縁”の本質を見抜き、迷い多き現世に小さくても良いからしっかりとした明かりを灯したかった。遡ること48年、龍澤寺を宗淵老師に任され、お体が弱り始めていた時期ではあったが、特別のご配慮で玄峰老師に就き得度、その後の10年の小僧・僧堂暮らしを捨ててから38年。今も心は“生涯一雲水”。師を持たず弟子を持たず“一人一宗一派こそ宗たる教え”を標榜しつつ今日もまたヨレヨレしながら行脚している。“逸れ坊主三十年”。花は紅、柳は緑という常識を放下し、“花は紅に非ず、柳は緑に非ず”という心境を経て、最近、なるほど、花は紅、柳は緑であると得心しているが、去りし日のことを思い出すことが多い今日この頃である。いやはや、困った未熟者である。
一日一生 慧智(070318)

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2007年03月16日

●『無宗教』を自慢する人に出会って

 昨日、“無宗教”を自慢されている方に出会った。不思議でならなかった。生命に貴賎は無く、他の生物や現象と差別をするつもりは無いが、宗教を持っているから人間なのではないだろうか。そもそも『宗教』とは“宗たる“教え”であり、考えの柱、よって立つ価値観であり、英語のreligion(レリジョン:有神論・一神教)とは異なり、faith(信条や教養)に近い概念である。であるから、日本語の宗教は、無神論である仏教は勿論、禅、神道、道教、儒教、キリスト教、イスラム教など“それ”を生き方の拠り所にする全ての宗教(考え出された“生き方”の体系)が入っている。しかし、“エコノミック・アニマル”≒拝金主義動物や個人崇拝、政治思想は入れていない。つまり、“無宗教”であるということは、自分教(ナルシスト)だということであり、「私は利己主義(自己中心の生き方)です」と言っていることに他ならない。それを自慢する人は、何を考えているのか興味があったので、暫く話を聞かせてもらった。概して言えることは、彼は「自分は宗教に頼らなければならないような弱い人間ではなく、自分の考え方を持った精神的に強い人間である」と言っているようであった。そこで「あなたの葬式は“何式”でやるのですか?」と聞くと、「私の葬式なんて縁起の悪いことを言うな」と怒り出された。それを聞いた時、彼は納得できる死の概念をもっていないからだな、と感じた。だから死という概念を忌み嫌うのであり、恐れているという弱い人間なのだと理解できた。弱い人間というのは“自分”を含めて何かを“信じ切る”ことが出来ない方で、軽度の不安神経症と言っても過言ではありません。さらに、彼の中にはお気の毒だが、何かを信じてしまえば盲従してしまう自分の弱さを自覚しているのかもしれないな、とも感じた。
 考えてみると、彼のような人間が居ると言うことは、日本の“教育”に問題があるのではないだろうか。宗旨や宗派に関わりなく、積極的に社会に参加し、自分が大事であると同じように相手も大事な存在であることを自然に認め、助け合って生きてゆくのが人間であり、自分の考え(と思っているソーシャルマインドコントロールを受けた考え)のみを主張したり、自分の宗教を他人に押し付けるようなことをすることが、過去において紛争や戦争を起こして来たことを知らないのだろうか。私は“正しい宗教”とは、相手を尊重し、非生産的な対立をせず助け合って生きてゆく術を提供できる体系化した価値の体系であると思っている。
 このところ、ユニークな人との出会いが多い。つまり“ご縁”に恵まれている。禅では『一期一会』を大切にしている。それは“全ての出会い”は一生に一回というのが根拠で、昨日会って、今日会っても、昨日は戻ることの無い過去の経験であり、“今”ではないということからである。『今・此処の己が全て』というのが禅の考え方で、一生は“今”の連続という考えからだ。だからこそ、“今”に手抜きをしない。
 さて、『無宗教』を自慢している方、ないしは“自分は無宗教”と思っている方は“一日”を何と考えているのだろうか。過去と未来の通過点なのか、それとも何も考えずに“今”を過ごしてしまっているのか。
 禅士諸君。君らは“今”を全力で生きているだろうな。今を大事に出来なければ、未来を大事にも出来ないし、過去も大事にしていないことになる。大丈夫だろうな。人間らしく『和顔愛語』で生きているだろうな。
一日一生 慧智(070316)

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2007年03月15日

●『“美しい国”に必要なのは道徳?、教育?、それとも禅?』に関する無駄話

 『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝、“禅”は“心”
を“無”とすることが肝だと、道徳的な動物園の狐が、野生の狐に語った。続けて、道徳的な動物園の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と野生の狐にたたみ掛けた。野生の狐は「何故“自由”になりたいのか」と動物園の狐に問うた。すると、動物園の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると野生の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。
そこに、話を聴いていた野狐禅和尚が登場し、「では、お前達は入れ替わってみよ」と。
 暫くして、「『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝で、
“禅”は“心”を“無”とすることが肝だ」と檻の中の狐が、檻の外の狐に語った。続けて、檻の中の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と檻の外の狐にたたみ掛けた。檻の外の狐は「何故“自由”になりたいのか」と檻の中の狐に問うた。すると、檻の中の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると檻の外の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。

 明鏡(曇り無い鏡)は、外界を“ありれまま”に写し出し、何の造作もない。つまり差別がない。苦しみとは自我、我欲という“心”に執着することから始まる。『檻と名付けられた鏡』の世界に内外があるかな。産まれた時は、皆“無心”。恰も明鏡。自由とは明鏡無心。あらゆる価値から離れている。それが絶対的な自由の境地。人の個性(気質・性格・人格の統合概念)は容易には変わらない。それに、世俗的な価値か、知的な価値か、道徳的な価値が加わり人は評価され、己を判断する。
 禅は「無念の念を念として、無相の相を相として、無住の住を住とする」。『念』とは情動・理性・感情の生み出す現象、つまり“心”。『相』とは体が置かれている状態、己を己としている環境とで言える。『住』とは正に今安住している価値の世界と考えれば宜しい。『自由』とは拘らない・囚われない・偏らない本来の面目の姿である。『本来の面目』とは「父母の生まれる前のあなたの姿」である。そして、衆生は本来仏である。仏こそ己である。己の外に仏なし。それが禅である。
一日一生 慧智(070315)  政府系の会議で対立している委員を眺めながら・・・・。

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●如何なる化『菩提心』に応じて

ネット禅会の禅士から、「如何なるか『菩提心』」と問われた。
拙僧は、「自分で答えてご覧」と返した。
続けて「自他一如」と。

 坐禅をしている時、50%程度のレベルの禅士なら、自問自答という心の動きに出くわす。何故なら、聞く相手が居ないからだ。つまり、本当に己を無に出来ていれば、聞く人と答える人の区別はない中途半端だから、己の中に師と弟子が出来る。
 母に会えば子供になる。しかし、禅者なら、母に会えば母になる。
それが、『単(一)』になること。頭で考えた事は『一切不是』。
禅士:「単(一)」になる術は如何に。
拙僧:「無を知る者と共に生きよ」・・・・「(0+2)÷2」=1(これは冗談)
拙僧:「余念を捨てよ」
禅士:「つまり・・・・」
拙僧:「カーーーーーーーーーーーーーーーツ」

「比較」する事なかれ。
比較とは、心の内に対象物があるから起こる。無心(余念を無くす)となれば、比較は無い。
それは、禅堂でなくても出来る。どこでもできる。歩歩是道場。
それが『菩提心』。
菩提の心とは、余念の無いこと。
一日一生 慧智(070315)

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2007年03月14日

●真理は平凡に宿る(高校生に言い残したいこと)

 今日は、高校2年生に対して講演をさせていただいた。テーマは「社会が求める人」というもの。そして答えは「当てになる人」という一言でした。
 私は、此の世に要らない人間など一人もいない。自分の強みを発見して、それを活かしてください。それには、今・此処で出来る事を完璧にして下さい。それが出来れば大丈夫。その人が「社会が求める人」なんです。ただ、その事に気付かないで、今・此処で、自分に出来る事に全力を尽くさず、キョロキョロと周り眺めて、うらやましがったり、嫉妬したりして、肝心な事が出来ない人が、周りから“不要な人”と言
われてしまうんです。勿論、本当は“要らない人”など一人もいないんですよ。でも、言われてしまうんです。悲しいでしょ。悔しいでしょ。
 皆、大事な“命”だし、自分が大事なように、相手も自分が大事。だから、お互いに大事にし合うんだ。それって普通でしょ。普通のことを普通にする。それが大事なんです、というような内容の話をさせてもらいました。しかし、時間の都合で話しきれなかったことがあるので、今日は此処に書いておきます。いつか、キット読んでくれる人もいるでしょうから。
 夢も結構、理想も結構。「したい事」をするのも大いに結構。でもね、それが、誰かの迷惑にならなければの話。偉くなりたい。それも結構な事です。でも、誰かの足を引っ張らないこと。金持ちになりたい。勿論それも結構なこと。でも、貧しい者から奪わないでください。それだけは忘れないで下さい。
 さて、君達は「したい事」が出来ないと、どうだろう。「すべき事」が出来ないと、どうだろう。辛いだろ。苦しいだろ。悲しいだろ。だから、今は先ず、自分に『出来る事』を確実にすることなんだよ。それは平凡な事に思えるが、実はとても非凡な事なんです。何故って、続けることは大変なことなんです。出来る事をキチンとして毎日毎日を大事に生きる。出来る事を繰り返し続けるとどうなるだろう。実はね、“達人”と呼ばれる人になるんだよ。つまり、毎日を大事に生きる事こそが“達人への道”ということなんだ。そして、“達人”とは本当に“当てになる人”のことなんです。そして、達人といわれる人、当てになる人は、何があろうと、今、自分の居るところの眼の前の“道”を淡々と進む人なんです。出来る事を完全にするんです。すると、徐々に出来る事が増えてゆくんです。簡単なことでしょ。それを禅では、『平常心是道(へいじょうしんこれ“どう”)』という言葉で表します。この言葉は、唐代の南泉普願(なんせんふがん)が弟子である、後に『喫茶去(きっさこ)』という言葉で知られるようになる趙州従諗(じょしゅうじゅうしん)の「道とはどのようなものですか?」という問いに対して発せられた言葉で、詳しくは『無関門』第十九則を読むと良いが、少し難しいかもしれないな。まあどんなに難しい内容でも同じところを100回読めば自然と解るよ。人間の頭は凄いんだ。試してごらん。そこが解ると、『臨済録』に出てくる『無事是貴人(ぶじこれきにん)』という言葉が、今・此処で出来る事に成り切って全力で、結果など考えずに事に当たること、とうことが解り、それが、社会が必要としている『当てになる人』のことであり、「無事是れ貴人なり。ただ造作することなかれ。ただ是れ平常なれ。」という真理が解るんだよ。
 繰り返しますが、『当たり前の事』をあれこれ考えずに『当たり前』にする。それが“平常”であり“無事”
ということんなんです。それは、如何なる場合でも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく受け入れ、瞬間瞬間で処置して行くことなんです。当たり前の事ですね。
 『真理』とは、実に平凡な事の中にあるんです。しかし、それは極めて非凡なことなんです。言い換えれば『平凡は非凡の中にあり、非凡は平凡の中にあるんです。というと、数学好きな人がウズウズするでしょう。実はね、私の場合は中学時代だったけど、般若心経、ガモフ、アシモフ、アインシュタイン、ガストン・バシュラールに夢中だったから、今の君達の中にもそんな人が居ると思うので、ヒントをあげます。『真理』を解き明かすために『事実』を追って追って追い続ける“科学”という入り口もあることを覚えておいてください。それを“禅”では『大道無門(だいどうむもん)』と言います。“道(真理に繋がる生き方)”は何処からでも入れるんだということです。科学好き、数学好きな人なら、『平常心是道・無事是貴人』を複雑系数理論で証明してごらん。ヒントはカオスとフラクタル、マンデンブロー集合。真理とは“青い鳥”のように実に平凡で身近なところで見つかるよ。哲学好きなら、先ずはデカルトを読んでごらん。音楽好きなら、青空の下で鳥の声が言葉として聞こえるまで聞いてごらん。美術が好きなら、目の前にある粘土を熱くなるまで捏ねてごらん。芸術全般が好きなら先ず「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を読んでごらん。どこから入っても良いんだよ。『何が正しいのか、何が間違っているのか』。それを解るために真理を探究するんだからね。答えは簡単だからここで僕が答えておきます。『この世の中に、絶対的に正しい、絶対的に間違い、などということは無いんだよ』、あるのはね、『正しい考え方』があるだけなんだよ。さあ、僕が行ったことが本当かどうか、考えてごらん。君達は未だ2年生だから、少しは時間があるはず。受験勉強に入る前に、1週間で良いから、深く深く考えてみてごらん。実はね、それが受験勉強の頭のウオーミングアップになるんです。
一日一生 慧智(070313)

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2007年03月10日

●『セレンディピテイと“禅”は不可分不可同』

 セレンディピティイメージ.bmp
セレンディピティ(英:serendipity)とは、『“重要な何か”を探している時に、偶然としか思えない状態で、探しているものとは異なる重要な何かに出会い、探す原因となった課題が結果的に解決されてしまうという“人間の潜在力”を示す概念』です。
 つまり、一般的に使われている“何かを発見したという思いの結果で発見した当初の何か”、つまり課題に対する意識的行為を示すのものではありません。言い換えれば、この語(概念)は、古くから多くの研究者や技術者の間では知られ、体験する者も多い“ツキ”“ヒラメキ”“ラッキー”と称されるが、現実には『己の秘められたる力(≒潜在脳力)』だといえます。
 簡単に言えば、潜在意識を活用する方法を身に着ければ、誰にでも備わっている「潜在“脳”力」を“偶然”と思えるが、実は“必然”として活用できるのであり、人間はその潜在能力より高い結果は出せないが、自分が思うより大きい潜在能力が備わっているのが人間なのかもしfれない。
 なお、この語の語の起源は、『セイロン(セレンディプ)の三人の王子』という童話の内容にあるといわれているので、原著を読まれると宜しいが、この語の命名者ホレス・ヴォルポールの“発見(それそのものがセレンディピテ)”は18世紀中盤という時代的な背景から、そのメカニズムには言及していないし解明もしていないので、現代では、それそのものを研究するより『脳』にかんする知見を深めるが、セレンディピティの力に期待するのであれば、自分を信じ切り、日常的な“すべき事”に全身全霊を打ち込んで生きていれば良いだろう。
 さて、セレンディピティと“禅”の関係についてだが、ご存知の通り『禅』は釈尊が“苦”の本質を探究しているなかで、偶然にも“大自然の法則性と人間の思考の法則性”を発見し、その結果、“苦楽一如”であることに気付き、更には“脳力開発法”を発明したプロセスを『発見と発明の内容』を、発見した本質(原理原則)に随い、弟子達に追体験(坐禅)させるという法は、セレンディピティそのもです。
 “釈尊のセレンディピティ(潜在脳力)”は、言語的・映像的に伝えることが出来ない(不立文字・教外別伝)ので、坐禅という方法であり目的を通じて、修行者(探求者)に追体験(直指人心)させ、釈尊と同じレベルの発見者(見性成仏)にする教育システムを完成させた力である。
 なお、その“法”が、達磨大師から臨済大和尚、そして白隠禅師を中興の祖とした祖・師のセレンディピテイを通じて伝わっているのが『禅』なのである。
 だからこそ、禅の根底には大自然の法則である『大自然には一切の無駄は無い(≒揀択を嫌う・無分別の思想)』ということから、とことん捨象し、完全に削ぎ落とした結果の“本来無一物”が拙僧(我々)に伝わり、更に、休む事無く削ぎ落として次世代に引き継がせようといしているのは、ご存知の通りです。
 そこで、これもご存知の通り、拙僧が提言している『禅脳思考』は、言葉で解説するには限界があるが、“SEPとか四行日記として一般化し、『潜在意識である全身意識(細胞意識)を活性させ、大脳基底核から辺縁系を連続的に刺激して活性し、続いて非言語脳(右脳)からのアナログ信号を言語脳(左脳)に瞬間的に転送してデジタル信号に変換し、脳の全体でデジタル信号とアナログ信号を統合し、必要最低限の言語表現(主に観字)を用いて、発見内容(悟りの内容)を言語化(一転語)したものを、バイオフィードバック・システム(口から発音された言語情報を耳へと回向返照する仕組)を利用し、発見(悟り)前の思考回路を瞬間的に閉鎖して、発見(悟り)後の思考回路を使った新しい考えや行動を発明するというもので、『脳力強化≒“禅脳(禅僧の思考法)”』は、仏教2500年の歴史を背景にした脳力活用法なのだが、私が“これ”を発見したのもセレンディピティの賜物なのです。
一日一生 慧智(070310)
◆蛇足:これを書いている最中に「やはり言葉では伝えきれない」ことを再確認し、多くの悩める者に坐禅(禅脳思考)を伝えるのが、私の使命であることを再確認した。

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2007年03月07日

●六中観を思い出して

 昭和47年某池袋の左翼組織の書記局で活動していた時期、老師から電報が来て、数人の“胆の据わった連中”が来るから会いに来いと呼ばれた。その時は「ハイ」と言えるような境涯になく無視するつもりが、何故か寺に引き寄せられ、気が付けば末席に坐らされ、正に“茶坊主”になっていた。その一人が、日本農士学校を創立者で東洋思想の研究と後進の育成に従事し財界リーダーの啓発・教化につとめ『平成』の年号考案者として知られている安岡正篤(やすおか まさひろ)で、他に小佐野賢治、檀一雄、金丸信など意味不明の集まりだったと記憶しているが、本堂で酒を飲んでいる様子から“怪しい奴等”という感じはあった。彼のことは後に知ったのだが、本当に胆の据わった男。明治生まれの哲人で、多くの名言名句を残している。その中で拙僧が気に入っているのが、『六中観』というもの。
●死中有活(身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある)
●苦中有楽(苦中の楽こそが本当の楽
●忙中有閑(忙中に掴んだ閑こそ本当の閑)
●壺中有天(確かな内面世界こそ壷中に天を持つ)
●意中有人(いつでも人材逸材を心に留めておく)
●腹中有書(腹の中には哲学、信念が体系化されてある)
と、拙僧は『六中観』を勝手に解釈している。その中でも『死中有活』は、今の心境・境涯にピタッとくる。
人間誰しも必ず死は来る。否、死ぬために生きるのが人間かもしれない。だからこそ、時間を無駄にせず一日一生の如く生きるのである。また、寺の名前である『活人禅寺』の由来は、碧巌録の「活人剣 殺人刃」の行が繋がる大慧語録に出てくる『活人何必剣(かつじんかひつけん)』、「活人は何ぞ必ずしも剣ならん」とも読み、意味は「人を活かすのに(悪心を切る)剣が必要とは限らず、本当に優秀な者は、何もしないでも人を作る」というものなのだが、何故か安岡正篤が“その人”を連想する。
一日一生 慧智(070307)博多にて

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●『啐啄同時用(そったくどうじのよう)』伝統録

 南院和尚が「諸方の師家は啐啄同時の眼はあるが、用(はたらき)がない」。そこで僧が「啐啄同時の用とは何ですか」と尋ねた。すると「作家(さっけ:やり手の事)の禅者の出会いは啐啄しない。すれば同時に失う」と。
 僧「その答えは私の質問の答えではありません」と。
 南院和尚「では、お前の質問はなんだ」。
 僧「失いました」
素晴らしい遣り取りですが、僧は独り善がりで、和尚の心が通じなかった。僧の行脚の折、似た様な遣り取りをしている他の師匠と弟子の話を聴いて(人の振りみて我が振り直す)、南院の和尚に帰ったが和尚は遷化されていた。そこで、南院の後継者である風穴(ふけつ)和尚に、経緯を話すと風穴和尚は「啐啄同時の用は解ったか」と尋ねられ、「あの時は、“燈火の影”を歩いていて、ハッキリと照顧できませんでした」と。風穴和尚はそれを聞いて「啐啄同時」を証明した。
さあ、今日は燈火の影を示すので、坐ってください。
一日一生 慧智(070307)
燈火.jpg

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2007年03月05日

●歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

托鉢.JPG

どんな山中の閑静な処にあっても、心に妄想や邪心があっては、其処は“道場”とは言えない。
『歩歩是道場』とは、正直な心、素直な心で己事究明(己の本性をトコトン知ろうとすること)にあたれば、そこが何処であっても『道場』、即ち修行の場であるという意味です。
つまり、修行の場とは、己の内にあり、環境に求めるものではなく、真摯な態度で暮らす“行住坐臥(日常)”の一挙手一投足、歩みの一歩一歩であり、如何なる入り口も仏道(智恵)の完成への入り口であり道であり、一歩なのです。
さて、調布の勝さん、出家を考える前に、騙されたと思って、服装など何でも宜しいから、雨の日に、少しだけ遠出し、見知らぬ土地をカッパ(レインコート)姿で、何も考えずに涙が自然に出てくるまで歩いてごらん。己の本性を垣間見ることができるよ。先ずは、それから出家得度を考えても良いのではないだろうか。坊主は世捨て人の終着点ではないんだよ。
●ネット禅会に参加してる禅士からの質問に答えました。
一日一生 慧智(070305) 

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2007年03月04日

●可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶)

一昨年、銀座で拙僧の“手慰み”の展示会を開いて頂き、沢山の方に見ていただいた。墨蹟だとか作品などとは程遠い、本物の“手慰み”なのだが、先ほどファイル探しをしているとふとしたタイミングの悪戯からその画像ファイルに出くわした。この写真である。誰が撮ってくれたのか、誰も居ない開館前の手慰みの写真に眼を奪われていると、ふと、五燈会元にある投子和尚(とうすおしょう)の行と我が師匠と拙僧の遣り取りが思い出された。
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「森羅万象は全て這裏に在り」と投子和尚は弟子に茶を出した。すると弟子は、この茶を飲めば境涯の一つも言わなければならないと舞い上がり、咄嗟にその茶碗を跳ね飛ばして「森羅万象、甚麼処にかある」と和尚に迫ると、和尚は「可惜一杯茶」と静かに応えた。
 師匠と弟子とは24時間365日真剣勝負。写真の中に写っていた一枚、「円相」は師匠との思い出であった。師匠「何を書いたか」と、14歳の拙僧、悪戯に坊さんの絵を書き始めたそのときで、未だ頭の部分である○しか書いていなかった事をよい事に、「円相ですと言うつもりが瞬間的に言い換えて」、「森羅万象です」と。すると、師匠は即座に「良く燃えるから焚付けに使いなさい」と。そして、薬石の為に湯を沸かす時、それを竈にくべてマッチで火をつけた。確かに良く燃えた。火を見ていると『力』の意味が見えた。どんな物もどんな人も分相応の役割があり、役割が終わると役割が変わる。それが『生死(しょうじ)』であり、山川草木悉皆成仏なのだと気付いた。一休和尚なら「円相は煙相だな」とでも和ましてくれるだろうが、暗い土間で一人きりの拙僧には煙が目にしみて涙が頬を伝うだけだった。
一日一生 慧智(070304)

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2007年03月02日

●悠々閑々灑々落々(ゆうゆう・かんかん・しゃしゃ・らくらく)

 禅者の姿の手本となる『悠々閑々灑々落々』とは、老子の道徳経の『和光同塵(わこうどうじん)」、十牛図なら十番目の『入塵垂手(にってんすいしゅ)、巷にあって衆生を直接に済度する』・・・の姿、生き方を表して、同義語は沢山あります。
禅者であれば『悠々閑々灑々落々』といえば布袋和尚を連想する人が多いでしょう。布袋和尚は七福神に『布袋さん』として描かれていますから、皆さんも達磨和尚や一休さんに次いで見知った顔でしょう。腹を出し裸同然の格好で杖と生活用具の一切を入れた大きな袋を持った実在した方です。
 禅の悟りに至った者は、法だ道だ悟りだなどと言わず、況や説法だの、仏だの、善だ、悪だなどという道徳じみたことも微塵も見せず、馬鹿か利巧か、偉いのか世捨て人なのか、仏なのか乞食なのか、まったく判らない境涯で、巷にあって、衆生にやすらぎや安寧を与え続けられることを理想としています。
 天真爛漫で無欲、無一物。食べられる時は食べ、食べられない時は、それを受け容れます。地位も財産も名声も安寧も求めず、利口ぶることも、威張るでもない。その上、誰に会っても笑いかけ、会った全ての人が“幸せ”を感じる。それが布袋さんであり、百尺竿頭に歩を進めた禅者です。拙僧も、と思うのですが体型にこそ不足は無いが垢だらけの身で説法など書いているようじゃね。『悠々閑々灑々落々』には程遠いな。トホホホ・・・。
一日一生 慧智(070302)
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2007年03月01日

直心是道場 歩歩是道場

「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」(趙州録)の語は、もとは維摩経の中の「直心是道場」という維摩居士の言葉に由来している。修行は山中の閑静な処にあっても心に妄想や邪心があっては修行とは形だけで其処は“道場”とはいえないし、素直な心で一日一日を一生に準えて修行をするならば、そこが病院のベットの上であれ、事務所や街中のような喧騒の場であれ“道場”、即ち修行の場です。言い換えれば、ビジネスの世界に身を置いていようと、心掛け次第で一日一日が成長の過程となり修行の場となります。例え、満員電車に乗っている時でも、風呂に入っている時でも、心がけ一つで、そこが道場、修業の場です。縁の快川紹喜和尚の遺偈にも「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」とあります。
因みに、「歩々是道場≒直心是道場」で、「光厳童子という修行者が、騒がしい城下を出て、閑静な修行場所を探していた時、維摩居士に出会ったので、「どちらから来られましたか?」と訊ねると「道場から来た」という答えが帰ってきたので、空かさず「その道場は何処にあるんですか」と問い直すと、維摩居士は「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」と返答をしたことに由来し、「直心」とは素直な心、我見、我執のない真っ直ぐで無雑な心のことです。 
一日一生 慧智(070301)

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活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House