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2007年01月06日
●己事究明と修行
日本の仏教には沢山の宗派があり、同じ釈尊の教えでもフォーカスする部分が異なると、経の解釈や修行方法が異なります。我らは『禅宗』という流れにあり、己の外に絶対者(神や如来など)を持って依存せず、己の内なる仏を覚醒させるために修行の中心を坐禅においています。宗派によっては護摩行と言って経木を燃やして呪文を唱えたり、オリエンテーリングのように野山を走り回ったり、只管に念仏を唱えたりしますし、他力を標榜して自らは決して動かないという宗派もあります。そんなところから考えると、一般の方々に、禅はおろか仏教そのものが誤解され怪しまれるのは理解が出来ます。
そもそも『仏道修行』とは何でしょう。例えば富士山を連想してください。山梨から見ようが静岡から見ようが富士は富士ですが、見る人の位置と時の変化し随い、今此処の富士は瞬間的な現象であり、不変でもなければ同じ富士山を見る事は今此処の己以外には誰にも出来ません。況や釈尊の悟りから2500年も経って4万8千と云われる経があれば、その解釈は無限と言っても過言ではありません。故に、歴史的変遷を無視して、“是こそが釈尊の意思だ”という妄想に囚われることは出来ません。言い方を変えれば、「どこから何時見た富士山が本物ですか」に答えるようなもので、どれが本物の仏道修行か、と聞かれても答えようがないのが真実です。勿論、明らかに怪しげな修行もあり、ある意味では玉石混交と言えるかもしれません。何が良くて何が悪いなどと言えば“分別”が起こり絶対受容である“無分別の境地”を目指すという修行の根本が崩れてしまいます。つまり、己に縁があり、縁に従って出会っている修行で、疑いが起きていなければ“それ”で良いとしかいえません。
しかし、歴史を紐解いてみると、出家者の修行には大きく分けて二つの流れがあり、一つは坐禅、もう一つは経学です。この二つの流れから類推すれば『坐禅により心を鎮めて無心を実現し、その状態で経の行間から智慧を学び取り涅槃寂静の境地を実現するのが王道であることは容易に理解できます。つまり、その基本の上に宗派別の個性が乗って複雑化しているだけです。禅宗でさえ坐禅+経学が少し変形して『作務』が加わっています。少しだけ付け加えれば、滝に打たれたり、火に炙られたりする修行は神道系の修験道がフューチャーされているのだということです。仏教の心は『己の事を探求しつくして心静かな境地に至ること』が大前提で、単純な話が、己の心を清らかにするのに、火に焼かれたり、水に冷やされたりすることは逆効果こそあれ効果は無いでしょう。勿論、生理学的観点から考察すれば“脳を暴走させる”のですから不思議な体験は得られるでしょうが、それでは“麻薬”を使うのと代わりがありません。心を安定させ己を探求するには非言語的な脳が覚醒し、言語的な脳が沈静していなければ無理なのです。現代科学はその状態をアルファー波状態と呼んで“絶対的覚醒状態”と考えられているようですが、科学の言葉を借りるまでもなく、この世に“神秘や奇跡”は無いと幻惑の正体を見抜いたことが釈尊の悟りの構成要素なのですからバタバタな方法は逆効果しか得られないと我々は考えています。火では温まり、水では冷やされれるのが大自然の理です。
以上で理解できたとは思いますが、一般の社会で美徳を尊重し、善良に暮らしている皆さんは、先ず全力で不特定多数の人々に貢献しようとする志で働き、日々に己を鍛え、日々に心に被る埃を落としているのが大事なのです。『坐禅』は心を洗うことであり、毎朝毎晩、歯を磨くのと同じように『坐禅』をすることが大事なのです。そうしないと心が虫歯や歯槽膿漏になってしまい、弱肉強食と卑怯な裏切りの世界の住民になり、勝ち負け、高い低い、貧富などで物を考える下衆でさもしい“物狂徒”になってしまいます。
さあ、坐りましょう。働きましょう。それが『己事究明に通じ陰徳に通じて美徳の人となる品が実現するのです。
惠智(070112)
投稿者 echi : 2007年01月06日 14:03