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2007年01月01日

「内に一物も無く、外に求むる所も無し」

「仏法の大意」即ち禅の修行を一言で言えば、坐禅を以って見性成仏に至り、己が即ち仏であることを自覚することにある。そこで、白隠禅師の『坐禅和讃』を読んでみよう。先ず冒頭に「衆生 本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷無く 衆生のほかに仏無し」とある。これは、我々は例外なく、自己(自ずからの己)と仏(智恵の具現・真理)とは別者ではないという根本的なことであり、真理なのである。続いての部分は以下のごとくであるが、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏を解りつつも意訳をしている心根を理解して頂き、これをそのまま鵜呑みにせず、坐禅の意味は坐禅することでしか解らないということを坐ることで感じて頂きたいのでヒント程度に読んで下さい。

衆生本来仏なり →私たちの本来は仏なのである。
水と氷の如くにて →それは水と氷のようなもので、
水を離れて氷なく →水がないと氷ができないように
衆生の外に仏なし →私たちでない仏はありえないのである。

衆生近きを知らずして →ところが、私たちがそのまま仏であることに気付かず、
遠く求むるはかなさよ →外の世界に仏があると思ってしまう哀れさは、
譬えば水の中に居て →例えば、私達が水の中にるにも関わらずに、
渇を叫ぶが如くなり →のどが渇いたと叫んでいるようなものである。
長者の家の子となりて →また、裕福な家の子に生まれたにも関わらずに、
貧里に迷うに異ならず →貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。

六趣輪廻の因縁は →私達が迷いの世界から抜け出すことができないのは
己が愚痴の闇路なり →真実を知らぬ愚かさにある。
闇路に闇路を踏みそえて →考えてみよ、迷いに迷っているうちに
いつか生死を離るべき →本来から仏である私たちは死んでしまうではないか。

それ摩訶衍の禅定は →そもそも大乗の禅は、
称嘆するに余りあり →感動するに余りある大きな支えとなる。
布施や持戒の諸波羅蜜 →他人への施しや自分自身への戒め
念仏懺悔修行等 →念仏や反省、他力の信心、自力の修行など
その品多き諸善行 →数々の善行はあるが、
皆この中に帰するなり →それらは全て「禅定」の中に含まれている。

一坐の功を成す人も →喩え一時でも、心を落ち着けて坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ →今までの迷いや不安は軽くなる。
悪趣いずくに有りぬべき →悪い出来事などはどこにもない。
浄土即ち遠からず →安寧の地は今正に目の前にある。

辱なくも此の法を →ありがたいことに、この教えを
一たび耳に触るる時 →一たびでも耳にして
讃嘆随喜する人は →感動して喜び、信じ、讃えて受け入れる人は
福を得ること限りなし →必ず幸せになるだろう。
いわんや自ら回向して →ましてや自ら積極的に修行して
直に自性を証ずれば →本来の己と出会えれば
自性即ち無性にて →自然と迷いや不安は消え
すでに戯論を離れたり →同時に欲望の下降螺旋から離れてしまう。

因果一如の門ひらけ →そして、原因と結果の境界が消え去り、
無二無三の道直し →たった一つの真実の道に全ては収斂する。
無相の相を相として →全ての出来事は瞬間的な現象であるという真理により
往くも帰るも余所ならず →どこに行っても、心は安らかなままとなる。

無念の念を念として →無心となって雑念を起こさなければ
謡うも舞うも法の声 →歌う時にも踊る時にも、仏の声が聞こえるはずである。
三昧無礙の空ひろく →拘らない囚われない偏らない心は、大空のように果てしなく広がり
四智円明の月さえん →真理を象徴するような美しく清らかな月が輝くだろう。
この時何をか求むべき →そんな時、私たちは何か求めるものがあるだろうか。

寂滅現前するゆえに →迷いや不安がなくなった心であるから、
当処即ち蓮華国 →今・此処が安寧の地であることに気付き、
此の身即ち仏なり →心身一如となっている己の此の身体がそのまま宇宙の叡智の凝集であることに納得が行くのである。

慧智(070102)

投稿者 echi : 2007年01月01日 21:28

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