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2005年07月20日

野狐禅和尚の辻説法『熱時熱殺闍梨』 №811

 梅雨明けの禅堂は、言の他“暑い”のは事実で、暑くないなどという“痩せ我慢”は禅者には似合わない。暑い時は暑い。寒い時は寒い。それで良い。暑い時に寒ければ病気。寒い時に暑ければ病気。暑い時は暑い、それは健康。しかし、暑い時に暑い暑いと言っていては暑さを忘れる事は出来ません。例えば、暑い時に暑さを忘れるほど畑作務に没頭する。寒い時に寒さを忘れるほどに山作務に専心する。しかし、それは暑さ寒さから逃げるためではなく、一意専心できていれば、暑さ寒さは、忘れてしまうということ。何事にも全身でぶつかり、成り切る。それが、暑さを殺す、ということ。今週は活人禅会です。例年、恰も我慢大会のようにも見えますが、修行には最高の季節。座布団の汗染みが何を物語っているか。二日間、汗が枯れるまで、坐り切ってみよう。
 表題の読みは「ねつじ・じゃり・を・ねっさつ・す」で、意味は、“殺”という文字に肝があり、これは“殺す”という意味ではなく、『徹底する』というニュアンスを持ちます。つまり、『暑い時は暑さそのものに成り切る』、転じて、如何なる出来事に会っても、決して逃げることなく、真正面から取組むことの大切さを示唆しています。勿論、取るに足りないような事は囚われ、拘るなどは論外です。
慧智(050721)

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お応えします『坐禅をすると頭がよくなりますか?』 №810

 高校2年生からの質問がありました。「先日、グループ研修で近くの寺で坐禅をしました。その時、和尚さんが「坐禅を続けると頭がよくなる」と言っていました。それが本当なら来年は受験なので、近くで坐禅を続けようと思い、HPで検索したので質問に答えてください」という内容。
喝!、自分で考えろ!坐禅で頭がよくなるなど聞いたことがない。そもそも、双子がいて、一人は坐禅をさせ、もう一人は坐禅をさせないなどという実験も聞いたことがない。それに、坐禅は“心”がくすまないように、大自然の営みの一部としての自分に素直になる、素直であり続けるための手段の一つであり、くすんでしまった心を自分で綺麗にするもの。“下心”があれば、坐禅にはならない。和尚が話した「坐禅を続けると頭がよくなる」というのは、方便であり、“風が吹けば桶屋が儲かる”というのとかわりない。つまり、君達の“今の在り方”に対して疑問を持った和尚が、君達でも解るように表現しただけだろう。
私の経験から言えば、10年坐った人間と、そうでない者を観察すると、物事に動じない、落ち着いている、どんな状態でも暮せるだろうと思える・・・など、幾つかの共通点を見出すことは出来るが、逆に考えれば、“そういう人間”だから禅堂で10年暮せたと言えなくもない。つまり、『坐禅は結果を求めない』、只、只管に坐る。それ自身が目的であり、手段なんだ。坐禅を経験し、それが下心であれ、多少なりとも興味をもったのであれば、それも何らかの縁。家でよいから、坐禅でなくても良いから、“10年後の自分”をどうしたいのか、ハッキリしたイメージが出来るまで、一日20分、言葉(何も考えない)を使わない時間を持ってごらん。そして、それで感じたことを行動に移しなさい。“下心”があるような者は、その下心がなくなるまで、禅堂ではなく、玄関で坐ってもらいます。勉強や人生のことで困ったことがあれば、どんな相談にものりますが、それと坐禅は別です。坐禅は、自分自身との真剣勝負。“こいつは坐れるな”と思わなければ、誘いません。坐れば、如何なる疑問も“自ずから”晴れる。しかし、“解った!”と思ったら、その高まりが消えるまで坐る。悟っては捨て、捨てては悟り・・・を繰り返す。そして心がカラッポになるまで坐る。すると大自然の一部となり、勉強などせずとも全てが全身で解る。全身が心になる。知識、智慧、叡智は意味が違う。生きて行く上で何が大切か。それは。少なくとも“知識”でも“金”でも“己”でもないだろう。『今、何を成すべきか』、君は“それ”をしていれば良い。
慧智(050720)

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2005年07月19日

野狐禅和尚の辻説法『時々勤払拭』 №809

 『時々勤払拭』は、「じじ・に・つとめて・ふっしき・せよ」と読み、私は座右の銘にしている。出展は六祖壇経に出てくる神秀の偈の一部で、「身は是れ菩提樹、心は明鏡の如し。時々に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむ莫れ」に出てくる。本来の己は仏そのものなので、日々修行に勤め、心に煩悩という塵埃が付かないようにしなければならない、という意味だが、これに対して、六祖慧能が「本来無一物。何処にか塵埃を惹かん」と喝破したのは有名な話で、この一言の重みが五祖である弘忍の印可を受けることになったと伝わる。
 月に一回、一月の塵埃を落す活人禅会は大事であることは言うまでも無いが、毎日20分でも40分でも、ネット禅会で坐ることが大事だ、と感じさせてくれる句だと思いませんか?本来無一物を悟り切っていれば、塵埃すら無いはずだが、本来無一物を頭で理解している程度では、『時々勤払拭』という日常の心を刻み込んでいることが大切です。俗人は、今、此処で出来る事でも、ついつい明日に延ばしてしまうことがある。学生であれば、予習も大事だが、復習が大事。「明日にしよう」という心こそ“塵埃”だと私は思っている。“ま、良いか”という気持ち。よく有るだろう。しかし、それこそが“塵埃”。つまり“煩悩”に引き回されないことが大事です。今、此処で出来る事は直ぐする。本当に大事な事ですね。怠け心が起きそうな場所、例えばトイレや机の前には必ず「時々勤払拭」と書いて貼っておこう。さてさて、我が家には何枚貼ってあるかな。今すぐ、見に行こう。
慧智(050719)
蛇足:机、トイレ、洗面所、風呂、4枚もあった。お世話になります。大掃除も大事だが、やはり、一日一生。日々こそ一大事。

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2005年07月17日

野狐禅和尚の辻説法『よく学び、よく働く』 №808

昨日は500人、今日は15人、人前で話す事が日常である。つまり、私にとっては“話す事は仕事”である。しばしば、人は金銭的報酬を前提にして仕事を考える。時給1000円で“こんな仕事”は出来ないとか、あの人の講演は90分で100万円だとか、である。つまり、仕事と金銭的報酬をリンクさせる人が多い。しかし、私は“それ”に同意できない。報酬であれ、価格であれ、それは“価値”の数値化であり、価値は、その価値を消費する側に決定権がある。そして、仕事には、仕事に対する其々固有の“価値感”がある。勿論、価値≒価格という人もあるだろうから、報酬を仕事の前提にしてはいけない、とは思わないが、私は違うというだけである。
私にとっての仕事とは、勉強の成果の発表であり具現化である。言い換えれば、沢山勉強することが仕事の可能性を拡大すると考えている。そして“仕事”とは、社会貢献であると私は確信している。
キリスト教では、労働≒仕事は、神から与えられた“懲役”である。だから、“安息日≒休日≒非労働日(神への感謝と時間の自由処分)”が内包されている。一方、日本(仏教伝来以降)、労働は“美徳”である。故に美徳に“安息”という概念はない。キリスト教では、有る意味で“客体的労働”であり、仏教は“主体的労働”である。その違いが解らないILOは、“労働は懲役”という価値感を前提に考えるから、時間制限と加重負荷に注視する。日本では、労働は、有る意味で“学び”を伴う美徳であり、働きながら学び、学ながら働く。学働一如である。
私は、昼間は働き、夜は勉強をするものだと、考えている。つまり、主体的に働いている以上、働く中に、学ぶ中に“遊び”があるので、あえて“安息日”を必要としないし、意味を感じない。晴耕雨読も同様。昼間、働けなければ、その時間は学びに転用する。寝る時間は、生理的要求であるが、全ての人間が6時間の眠りを必要とするとは思わない。9時間必要な者もいえば、3時間で十分という者もいる。私は、記憶の限りでは8歳から一日3時間以上の眠りは、体調不良の時以外は必要としなかった。つまり、私にとっては、相対的比較を持ち出せば、平均値より夜が長い。夜が長いから、必然的に勉強の時間が長いし、その成果を以て社会に貢献する時間は長くなる。
私にとって“仕事”は、「富は徳の結果」である。しかし、“富”を経済学でいう「集積した財貨、経済主体の財の総和」という定義を持たない。“富”とは、“豊かさ”であり、豊かか、豊かでないかを決定するのは“価値感”であり、“心”である。故に、財貨の集積が大きければ“豊か”と考える人がいても良いし、そのように考えなくても良い。しかし、私は、真理は一つだと思っている。人間は何も持たずに生れ、何も持たずに死ぬ。つまり“物質や財貨”は、心の豊かさの手段の一つであり、全てではない。
今日、何故、このような話をするかといえば、数日前の中学校での出張授業の折り、些か“まずい”と感じ、今日もまた大きな疑問にぶつかったからである。公立の小中学校で“株の取引(投資)”を授業に入れるの入れないのという話し。私立なら理解が出来るが、国家が、金で金を生み出すという異常で異色な経済メカニズム(資本主義の本質ではある)を唯一の価値観として“教育現場”で未来の日本人を洗脳するのは如何なものか。『富の源泉が金』、これは論理的に考えても誤りである。金は交換の仲介手段である。つまり、便宜上存在する“仕組み”であり、本質的には不要である。しかし、世界(交流の範囲)が広がると、貨幣経済は必須となる。しかし、その事と“国民の幸せ”とは強相関にはない。確かに世界は変る。其れは当然である。しかし、本質は変わらないからこそ本質というだろう。金や物や遊びが“豊か”の象徴だろうか。私は、“豊か”とは、不安が無い状態≒幸せだと思う。其処には、攻めたり、守ったりというディス・ストレスは無い。もっと勉強して、己の可能性を拡大しようとする“豊かな心”が有るだけだろう。蓄積された財貨(BS)・報酬(PL)は結果論であり、いつだって“足るを知る”ことが“幸せ≒豊か”なのである。
活人諸君、仕事について、豊かさについて、遊びについて、一度位は“根本まで掘り下げて”考えてみてはどうだろう。
坐禅は、さらにそのような分別を捨て、絶対的な境地への道。その道に踏み込む前に、自分の考えを知っておかないと、最後には全てを捨てるにせよ、中間段階で捨てる順序がわからなくなる。このHPでは、『十牛図』を解説していない。ただ眺めていれば解るからである。
『一日不作一日不食』、喜びは“働く事”の中に、“学ぶ事”の中にある。学んで之を活かす。働いて之を学ぶ。働ける事≒世の中に必要とされて居ること。これが人生最大の喜びであり、富の源泉であり、幸せの正体だろう。
慧智(050717)

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2005年07月15日

野狐禅和尚の辻説法『あるべきよう』 №807

 私が大好きな言葉である『あるべきよう』とは、明恵上人の「繰り返し大蔵経を読みたるに“あるべきよう”の六字なりけり」に登場している言葉です。『あるべきよう』、その人が其処に居る。その物が其処にある。その時、その場所にピッタリとある。それが“自然”という言葉であり、『あるべきよう』の心です。人間で言うなら『適宜適時適材適所』。居るべき処に、居るべき人が、居るべき時に居る。何とも素晴らしいことです。ところが、それが余りにも“当たり前”として、心に留まらない事が多く、従って感謝を忘れていることがある。そして、“その人が、その物が、其処に”無くなると、多くの場合には“不便、不自然”を感じて、其処に、其れが在った時の“価値”に気付く。つまり、“あるべきよう”というのは、正に“奇特”であり、“当たり前”こそが一大事なのです。“あるべきよう”は『無事是貴人』に通じています。『日々是好日』も同じ。毎日毎日が、自然であること。それこそが実は“稀”なことなんです。野の草は野にあってこそ美しい。それは“あるきよう”の心を持った人なら簡単に理解できる。
 最近、皆さんは“不自然”に慣れ過ぎていませんか?“旬”という概念を忘れていませんか?急ぎ過ぎていませんか?毎年毎年、その時が来れば花は咲き、鳥は鳴き、実は実ります。人間も同じ。誰にでも“旬”があります。それを忘れると、その価値が発揮できません。これ以上は何も言いません。今日のネット禅会の前に、“あるべきよう”の価値を考えてください。そして“あるべきよう”こそが“隋縁”の結果であることを。また、“流れ”に従うことが本当の勇気であることを考えてみてください。
慧智(050715)

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野狐禅和尚の辻説法『独釣寒江雪』 №806

時々、茶室や旅館の床の間で見かける山水画の讃にある『独釣寒江雪』は、禅林句集に挙げられた立派な禅語で、「ひとり・つる・かんこう・の・ゆき」と読み、厳冬の中で一人黙々と修行に励む禅僧をイメージさせつつ、如何なる場所でも“修行”とは、他の群れていては“己”との対話が出来ず、聞こえるはずの心底の声も、大自然が語りかけてくる法話も聞き取れないので、切磋琢磨も良いが、夜中に一人で山中に坐す時のように、暁天に「独坐大雄峰」の意味に気付くように、しっかり坐れ、ということだろう。一人で坐る、一人で行脚する。弘法大師ではないが「同行二人」。お遍路は、どんな時でも一人じゃないよ、弘法大師といっしょだよ、一心同体だよ、という方便で、時に挫けそうになる善男善女を勇気つけて居るが、禅では「物我一如」というように、いつだって一人ではなく、“万物と一体”、正に一心同体であり、それを体感することが修行であるゆえに禅宗では教祖を崇めず、教祖は“兄弟子”という位置付け。そして、祖に会って祖を殺し仏に会って仏を殺し、という言葉で表しているように、全ては己との戦い、目指すは己の真の姿である“仏”との一体化で、相対的な目標を持たない故に、禅は孤独な修行と言われるが、実は、禅に孤独は無い。山川草木悉皆成仏、全てが一、一が全てなのである。また、部分が全体であり、全体が部分なのである。故に色不異空、空不異色、色則是空、空則是色、不生不滅、不垢不淨、不増不減・・・・、なのである。
 『独釣寒江雪』、禅会であれ、独参であれ、夜中に一人で大子の山中に坐し、川の流れ、鳥の声、木々の囁きを聞き、月の励ましを受けて星とともに坐るのは、一坐、百坐の価値がある。夜坐は正に“野坐”。7月23・24日の活人禅会では、それを味わってもらおう。
 兎に角、修行は集まれど群れず。俗人には一番辛いかもしれないが“一人”こそ“万人”、万人こそ“一人”を感じ取って欲しいものである。
慧智(050715)

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2005年07月14日

野狐禅和尚の辻説法『究竟窮極 不存軌則』 №805

 『究竟窮極 不存軌則』は、信心銘に登場する一節で、「くぎょうぐごく ふそんきそく」と読む。これから碧巌録の第三則「馬大師不安」の垂示に「大用現前、軌則を存せず。しばらく向上の事の有ることを知らしめんと図る。蓋天蓋地、叉模索不著」とある。多分、失念しているだろうが、類似する表現は禅書には沢山あるだろう。表題の意味は、現代風に言えば『超法規的行動の賞賛』であり、規則をとことん重視する禅宗にあって“超規則”を重視するのは、規則重視を形骸化。目的化せず“手段”と位置付けていることに他ならない。『禅』は、究極的に言えば『生活そのもの』であり、あらゆる呪縛、自縄自縛から己を解放し、常に臨機応変、融通無碍、殺活自在、縦横無尽に生き、生かす“宗たる教え(宗教)”であり、“常識”、定石、形式、前例などという“過去の現在化”であり“未来の現在化”という妄想幻想に縛られず、10年程度の禅の修行をした者であれば、何をやらせても“超・一流”と思える結果を出す。つまり、禅の修行から結果的に身に着く“道力”は驚天動地と言われる所以がある。
 最近の日本を眺めていると、遵法(コンプライアンス)といったり、創造・改革・普及優先(イノベーション)と言ってみたり、統治・管理(ガバナンス)と言ってみたり、リーダーはマネージメント力を重視するという“ありえない”ことを口走ったり、正に“混迷”状態だろう。前出したことを、一瞬にして“止揚(アウフヘーベン)”してしまうのが禅者であり、その境地境涯が『究竟窮極 不存軌則』なのである。故に、絶えず“本質”から発想して動くのが、禅を生活に取り入れ、俗生活と禅を止揚してしまう『活人』が重視すべき心ということが出来る。ここ一番で、“猫を殺す”くらいはコラテラルダメージとして昇華してしまうのが本物の禅者で、木を見て林を見ない禅学者と活人禅者は世界が異なるが、それらも山川草木の部分。皆、互いに手を合わせあう“同志・道士”である。
 俗には『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』という表現があるが、多弁と嘘話で真実を隠し、その場限りを楽しむピーチクパーチクの燕雀が頭に乗り過ぎれば、南泉が猫を一刀両断したのと同じように、世の為、人の為であれば、禅者は何の警告も無く一気に殺してまうだろう。
 つまり、禅者とは“超・自由人”なのである。
慧智(050714)

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2005年07月13日

野狐禅和尚の辻説法『破戒坊主との問答』 №804

 朝、出かけようとすると、知人が“訳アリ”で訪ねてきた、嘗ては“タレント坊主”であった坊主。他愛無い会話があった。真剣といえば真剣、茶番と言えば茶番なのだが、活人諸兄に“何か”を感じ取って欲しいので掲載する。
慧智「久しいな」
其「・・・・」
其「俺は坊主か?」
慧智「不知」
其「エッさんは坊主か」
慧智「其が坊主なら己は坊主ではない。其が坊主で無いなら己は坊主と言われるだろう」
其「坊主とは如何に」
慧智「無」
其「禅とは如何に」
慧智「まあ、上がって茶でも飲めよ」
慧智「ところで坐っているのか」
其「歩いている」
慧智「突き当たったか」
其「突き当たれば、此処には来ない」
慧智「この茶は、高いんだぞ、美味いだろう」
其「もらい物だろう」
慧智「然り、ところで何か土産は持ってきたか」
其「玄関からは入らんで、外に置いてある」
慧智「内は暗いからな。じゃあ、捨ててしまえ」
其「捨てるほどのものでは無い」
慧智「なら、茶碗を洗って、さっさと帰れ!」
其「帰るところは無い」
慧智「行くところが無いのだろう」
其「お前、“坊主”らしくなったな」
慧智「俺は、坊主ではない。お前こそ坊主らしくなったな」
其「解った。やっぱり還俗する」
慧智「それでこそ、禅坊主だろう」
慧智「だったら、その衣を置いてゆけよ」
其「新しいのも良いものだ、これと換えてくれ」
慧智「俺のは、衣より破れの方が大きいぞ」
其「俺には似合う。なんたって破壊(戒ではないのだろう)だからな・・・」
僅か15分で消え失せた。どこから来たか。どこへ行ったか。何とも気分の良い訪問であった。
彼とは10年振り。ここ5年は風の頼りも聞かなかった。元気で何より。屋根の無い寺こそ本当の禅堂なのだ。在家は出家、出家は在家。困った世の中である。
慧智(050713)

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2005年07月12日

野狐禅和尚の辻説法『智者不言(しるものはいわず)』 №803

『智者不言(しるものはいわず)』、只、この一言。しかし、それで済まないのがお節介坊主である。つまり、本物の賢者は口数が少ない、というのだから、少なくとも私は賢者ではない。思い出すに、老子や荘子は、正に、そのように考えていたのだろう。それに追い討ちをかけて「言う者は知らず」とある。真実を知る者は無口。然りである。禅は勿論、老荘思想でも、人知以前の純真素朴を大事にします。つまり意識より潜在意識ということです。潜在意識は38億年に及ぶ先祖の教えが下敷き。昨日今日の浅智慧とは比較にならないほど深遠。つまり、本で覚えたような他人の知のパクリなど、さも其れらしくしても、所詮は借り物。俗に溢れる小利口など論外。正に、「大智は愚の如し」である。
 今日は、初々しい中学1年生の授業。半年前まで小学生に、“仕事”や“進路”の考え方を教えるのは、なかなか難しい。しかし、黙っている訳にはゆかない。そこで、世の中が必要とする人間はどんな人か知っているか?と始めた。皆、ポカン~。次には『働』という文字を解き明かし、目的を持って目標に対して人が動くのを“働く”ということだと版書しながら振り返る。またもポカ~ン。そこで最後に切り札。「僕はね・・・」と、身の上話。少し反応あり。それに味をしめて「ここに君達からの質問があるね。先ずは“これ”に応えよう、と紙を見ると、年収は?、ゲームはするの?、何時間寝るの?、家は何階建て?、大学では何を勉強したの?・・・。思わずニコリ。つい半年前までは小学生なんですね。“聞きたがり”なんです。ということで、45分。中学生の心構えや仕事についての話を織り交ぜ、子供達にも話させながら授業を終えた。そして、フッと、何を聞いてもニコニコしながら、答えなかった祖父の偉大さを思い出した。答えれば考えない。聞かれたら“応える”が“答えない。すると、子供は考えるようになる。そう考えると、学校とは“考えない人間”の製造装置なのかもしれない。説教だって同じだろう。庭を掃いている姿を見せる。そこに利他の心を学ばせる。知識は本で学べるが、智慧は姿からしか学べない。さてさて、今日もネット禅会。さあ、坐ろう。
慧智(050712)

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野狐禅和尚の辻説法『悟了同未悟』 №802

 『悟了同未悟』は、「ごりょうどうみご」と読む場合が多い。意味は、悟り終わって、未だ悟らずに同じ。活人、達人、そして名人。人生の最高峰である“名人”の境涯を表わす言葉で、平たく言えば「菩薩のようでもあり修羅のようでもあり、俗人からは見通すことが出来ないほど大きい人」と言っても良いだろう。老子の道徳経に「大直若曲、大巧若拙、大弁若訥」という一句がある。読みは「大直は曲の若く、大巧は拙の若く、大弁は訥の若し」。意味は「(愚か者からは)真っ直ぐな人は曲がっているように見え、技量に優れたもの人は不器用に見え、雄弁な者は口下手に見える」と解して良いだろう。偉大な者が偉大に見えるようでは未だ、未熟。賢者が賢者に見えるようでは賢者とまでは言えない。何とも趣がある言葉である。確かに、俗の世界では、切れ者が切れ者に見えれば警戒され、卑怯者にバッサリというのは良く有る話。同時に、『三人寄れば文殊の智慧』というが、それは「凡人が三人寄れば文殊の智慧」であり、「愚か者が三人寄れば大戯け」、「賢人が三人寄れば????」
 今日、幾つかの会議があった。人生勉強であった。人生は本当に面白い。イロイロな人がいる。知識が豊富な愚か者。知識や技術は未熟のように見えるが大きな仕事が出来る智慧者。まあ、何れにしろ、「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学べず」を実感した一日だったし、『心眼』を持つ事の大切さを痛感した。
 さて活人諸君。反面教師に学んでいるかな?そして、謙った智慧者、思い上がった愚者は周囲にいないか?喝!!!!!。
 回向返照、他人を評価する閑があれば、己を見つめよ!!!。己の師は己以外に無い。毎日毎日、昨日の己を1ミリでも良いから抜き去ろう。それは『克己(こっき)心』。それこそが『悟了同未悟』ではないだろうか。
慧智(050711)

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2005年07月10日

野狐禅和尚の辻説法『人間は自然の一部』 №801

 人間はロボットではない。つまり自分以外の誰かが、その人生の目的や目標をセットしてくれることはない。しかし、“類”としても使命は、改めて知ることなく、知っている。私は、それを“協働”だと確信している。そして、人間、生まれた以上は必ず死ぬ。それは何故か。過去に囚われ、未来に拘っても、それには意味が無いという大自然の仕組みだろう。となれば、一生を協働の中で過ごすのは間違いない。生まれることで親に生甲斐を与え、成長することで喜びを与え、働く事で仲間に貢献し、老いては仲間の足手間取りにならぬようにして死ぬ。働ける内は長く働く。しかし、長く働くには己の特性を知って活かしていなければ一時期の労働力としかならない。そこで、己を知り、己を活かす道を探る。それを“修行時代”という。修行の結果、“己”を発見し“己の道”を歩む。修行の時間は、個々に異なるだろう。しかし、必ず“道”は拓ける。昔は「四十にして惑わず」と言っていたが、先人の恩恵で、当時の平均寿命の1,5倍が今日。一昔前の四十は今の六十歳だろう。言い換えれば、六十歳からが“本物の人生”なのかもしれない。仮に80年を四季(四期)とすれば、人生の仕上げは60からだろう。
 『無門関』に、「春有百花秋有月、夏有涼風冬雪」とある。自然と己を一体として生きている様子が覗える。苦しい時は苦しめばよい。楽しい時は楽しめば良い。しかし、溺れてはならない。苦しい時にも楽しい時があり、楽しい時にも苦しい時がある。それは心の持ち様。苦も楽も心が作り出す幻想。そのような幻に迷うことなく、一日を一生として淡々と“己の道”を生きる。己の道は、己の強味を活かして協働に参加している道だろう。其の道は必ずや“大道”の一部となっている。己の人生の目的が言葉に出来ずとも、己を見つめて、己の真の強味に出会い、それを活かして協働する。そこには自ずから目標が浮んでくる。それは“昨日より一歩前へ”というものだろう。生を以て貢献し、死を以て貢献する。人生に迷ったら、縁に随って“利他”に徹して全力で生きてみよう。必ず“観得る。心の雲は必ず晴れる。つまり、今を怠惰に過ごすこと勿れ。快楽に溺れること勿れ。時を無駄にすること勿れ。『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』である。そして「一坐七走」、時々は坐り、己を見直してみよう。
昨日はエアコンで快適な研修センターで一晩坐らせて頂いた。講義は走るに似ている。走れば坐り、己を点検する。そして、気付いた。四季を見失いかけている己がいることを。快適に暮らす事は、実は不幸なことだということを。山川草木悉皆成仏。暑い時は暑いように、寒い時は寒いように。自然と一体となって暮らす。それが正しい生き方なんだろう。
慧智(050710)

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2005年07月09日

野狐禅和尚の辻説法『裂古破今』 №800

 『裂古破今』は、「いにしえ・を・さいて・いま・を・やぶる」と読みます。何故か『守破離』に共通する趣を私は感じます。『守破離』は、「規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても もとを忘るな」という短歌の“肝”を表わした3文字。茶道の創始者である千利休の茶道に寄せる精神を伝える"利休百首"の百番目にあります。『規矩(きく)』というのは「きまり」のこと、覚える事です。『作法』とは振る舞いの姿、身に着ける事です。つまり、茶道の“心”である、“もてなす心”を失わなければ、流儀を破り、流派から離れたとしても、それは、それで立派な茶道だ、と言っているのです。『裂古破今』は、「古いといって全面肯定するな、古いといって全面否定するな、新しいといって盲目的に飛びつくな、新しいといって毛嫌いするな」というのが現代的な解釈でしょう。では、どうするか。活人なら心の底から理解している通り、如何なる場合も「先入観を持つな」、囚われるな、拘るな、偏るな、ということであり、古かろうが新しかろうが、本物は本物。偽物は偽物ということでしょう。つまり、『新旧は上手に取り混ぜろ』ということです。言い換えると、科学や技術を盲従するな。宗教や哲学を毛嫌いするな、ともいえるかもしれませんし、若老一如としての登用を考えることを忘れた現代企業社会への警鐘と取る事もできるでしょう。
慧智(050708)

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2005年07月07日

野狐禅和尚の辻説法『迷己逐物』 №799

 『迷己逐物』は「己に迷って物を追(逐)う」と読み、出典は碧巌録第46則の本則にあります。この則は『鏡清雨滴声』という公案で、「外なる刺激の源の全ては、内なる悟りの源」であり、内と外、音と声、頭と心などが分離していては“仏”の本質を体得できない・・・」
 俗世間では、自分の金と会社の金の区別がつかないという最低な者が居ることはしばしばマスコミを賑わしているが、この公案は“そんな”こと比喩としても論ぜず、悟り気付きに必要な“刺激”は内外を分別しない“声なき声、音なき音”に纏わる比喩を用いて修行僧に“一如”を観づかせるものです。それが46則のタイトルで“雨の滴”を何と取るか、に表れています。少し難しいかもしれませんが、『事実に何を学ぶか』を知って欲しい公案です。事実とは“私”が見る、聞くに関わらず現象している全てですが、私が事実と認めるには体験を必要とするのが俗の理解です。つまり、“私”という“我”が体験した事実は、純粋な事実ではないのです。この辺はヨーロッパの哲学(論理学)、言語学などでも探求しているので、多少なりとも哲学をかじった者であれば“一言”あるところでしょう。
 『学び』とは、『迷己逐物』からは得られません。『無心』とは、分別・弁別しない心であり、“先入観”を捨てた心のことです。先入観があるから『迷己逐物』となり『雨滴声』が仏であり、同時に己の心底の声、つまり御説法にならないのです。猫に小判、俗に雨音・・・。
『己以外は皆“我”の師』の心境から歩を進めると『自他一如』であり、『一切皆空』、“無”一字の心境への過程(この表現は野暮)でしょう。地位や金や物の亡者諸君、大事なのは“心”ですよ。家を建てて“家庭”を失う人は意外と多いのですよ。会社を取って人生を失う人も多いのですよ。今日は七夕。星が何を教えてくれるのだろうか。46億年前の宇宙を知る為に彗星を狙い撃ちする程度が“科学の限界”なんです。禅者であれは、報道から“諸行無常”を悟ってしまいます。
降って良し、晴れて良し。雨に学び、星に学ぶ。今日の禅会は楽しみですね。
慧智(050707)

6月30日で個展は終わりました。沢山のご来場に感謝します。

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2005年07月06日

野狐禅和尚の辻説法『不戦国家建設の挑む』 №798

以下の■で始まる文章は、前防衛庁長官 石破 茂 氏の講演「新・国防論・・・いま日本が直面している危機」の要約です。それに対し●で始まる文書は、私の主張です。
なお、講演の目的は、「国の防衛体制」「自衛隊」とは何かを語り、「小泉、石破は米国のポチだ」という国民の声に、「いまは日米安保に頼るしかないではないか!」という主張の根拠を示し、国民に自衛隊の存在を理解をして欲しいほしいということでしょう。

■石破氏の主張:今年、自衛隊が誕生して50年目を迎える。02年9月からまる2年間(729日)、私は防衛庁長官を務めた。「長官として、ぜひやり遂げたい」ものが私にはあった。1つは、「有事法制」をつくること。2つ目は、「ミサイル防衛システム」の構築。北朝鮮などの脅しに屈しないためにも。3つ目は、自衛隊そのものについての考え方を変え、国民の理解を深めたかった。
●慧智の主張:自衛隊を名実共に“不戦”の軍隊として、『地球災害復旧防衛隊』として、日本のための軍隊から世界の軍隊へと返信させ、銃器の代わりに“重機”、銃剣の代わりに“スコップ”、破壊から建設へ、国連以上に国連的な存在、世界最大のNGOとすることに、日本国民がコスト負担を拒否するだろうか?先手必勝という言葉が示すとおり、世界で唯一の不戦・建設憲法を持つ、日本の地球における存在意義を極限までに高めることで“日本を攻撃することは世界を敵にする”というイメージを確立できないだろうか?少なくとも、“攻撃される不安”を払拭するためのコストより、“攻撃されたい安心”に対するコスト負担の方を国民は望んでいるのではないだろおうか?嘗て釈尊の故郷インドのガンジー首相の“無抵抗主義”、つまり根本は“仏教思想”について深く考えても良いのではないだろうか?

■石破氏の主張:いま日本の自衛隊は世界有数の軍事力を備えている。即ち、世界最新鋭の戦闘機(F15)、日米にしかないイージス艦、世界にひけを取らない最新鋭の戦車など有し、年間予算5兆円も使っている「軍隊」だ。が、他の国からいくら脅かされても、出て行ってミサイル基地を叩くことはできない。この50年間、そういう「能力」を持ってはいけないことになっている。
●“持っている”ことは使いたくなる。米国の原爆も同じ。軍事設備の全てをスクラップ&ビルドして、転職が続く建設・建築労働者を中途採用し、5兆円の半分の予算を投入して『地球災害復旧防衛隊』に変身させ、思想信条に区別無く、“国際赤十字”に匹敵する規模と組織で、赤十字を行動を共にする日本の自衛隊基地を変身させた『地球災害復旧防衛隊』とすることは簡単である。何故なら、軍隊の基本機能は“自給自足”だからである。更に、日本の災害対応能力は世界に知られた“個性”であり、資金負担能力も国連以上であることを思い出して欲しい。不戦憲法を思い出してほしい。そして“それ”を一歩進めて“建設”憲法へと進化させて欲しい。

■石破氏の主張:災害時に出動する「困ったときの自衛隊」というイメージを、多くの国民は持っているが、それが本当の仕事なのか? 自衛隊はまぎれもなく、軍隊なのだ。従って、有事法制は一刻も早く成立させる必要がある。20年前、栗栖統幕会議議長が或る週刊誌のインタビューに「有事法制がなければ自衛隊は超法規的に動かざるを得ない」と答えてクビになったことがある。
●慧智の主張:災害出動こそ“本当の仕事”である。防衛とは“敵”から守る事で“敵”は他国である事より“自然”という場合の方が、歴史的にも多い。名称に実体を合わすのか、実体に合わして名称を変更するのか、両方とも考え直すのか。少なくとも“今”のままでは不合理が生じている。現在の自衛隊は軍隊であることに異論は無い。しかし、軍隊は持たないのが日本の世界に向けた宣言である。憲法に合わすのが正論で、実体に憲法を合わすべきなら、駐車違反を違反としないとして、実態に合わして道交法を変えるのと同じだ。そんなことは子供でも解るだろう。クビは当然で、軍法会議にかけて終身刑にすべきだった。

■石破氏の主張:いざ戦争の時、国内法ではダメ。赤信号でいちいち止まるわけにはいかないのだ。有事法がなければ、超法規で動くのは当たり前のこと。が、日本では、「これは戦争準備法案だ」という人があまりにも多い。「そうではない、国民を戦争に巻き込まないための法案である」ことを私は説いた。お蔭で、昨年の国会で自、公、民の圧倒的多数で成立したときは嬉しかった。
●慧智の主張:対症療法は、薬と毒という両義性から逃れることは出来ない。世界が戦争準備法だと考えるのは世界の常識である。さらに、本当に日本の国民を戦争に巻き込みたくないなら『永世中立宣言』と『地球災害復旧隊』を第九条に加え、日本語から“戦争”という概念を捨てる国際活動をすることが、『守りという攻め』に注力するのではなく、『攻めという守り』への意識変革が重要だ。“いざ戦争”という恐怖マーケティングの手法で国民を騙すのではなく、健康と平和(和平ではない)維持のために国際法に新たな根拠を与え、有事法は“地球災害法”にすべきで、与野党議員が賛成したのは、対象療法しか知らない無智が根底にあるからだ。慶ぶのは石破壊氏が“邪心の固まり”である証拠だ。

■石破氏の主張:20年前と、時代は確かに変わっていた。が、「そうは言うけど、戦争は起るの?」と言う人は、いまも少なくない。事実、戦後60年を経て、日本は一回の戦争もしていない。世界的に見ても大規模な戦争はなかった。人類史上、珍しい時代だったと言える。が、これは米ソの軍事力が拮抗して生まれた「冷戦期」という稀有の時代であり、その恩恵だったと私は思う。
●慧智の主張:石破氏の考えは、間違いである。木を見て林を見ていないし、人間を知らない。戦争が無かったのは偶然ではなく、“悲惨さ”の教訓が薄れていなかったのであり、それだけ第一次、第二次に続いた地域戦争に経済合理性が無い事を知ったからである。決定論でしか考えられない過去だけを見る“先例前例主義者”には永遠に“平和”の意味が解らないだろう。次元を落として発言しても、戦争の死亡者より、自然死、災害死の方が圧倒的に多いし、軍人はもっとも安全な職業とアメリカですら言っている。

■石破氏の主張:ベルリンの壁が崩壊し、その冷戦は終った。自由主義のイデオロギーが共産主義に勝ったということ。「もうこれで世界は平和になる」と錯覚した人も多くいた。が、間もなく湾岸戦争が勃発。その原因は宗教であり領土問題だった。ソ連を下した米国の一極支配が強くなってきたと思ったら、「9.11テロ」が起った。いつどこから攻撃されるかわからない時代となった。
●慧智の主張:共産主義に自由主義が勝ったというのは事実誤認。本来の共産主義は未だ到来していない。政治思想と経済思想をゴチャ混ぜにして国民を騙すのは止めて欲しい。快楽社会主義が禁欲社会主義に優位した結果が“ベルリンの壁崩壊”である。
“宗教”に責任転嫁するのは石破氏は卑怯者である。正しくは“一神教”という独裁主義の原点が原因であり、“仏教は神を持たない”、つまり、人間全てが“仏”という根本教義で、歴史的にも“無神論仏教”は、戦争の被害者になっても戦争には関わったことはない。日本で“宗教”という言葉を使う場合は“仏教”を示していることを忘れないで欲しい。
繰り返すが、“唯一の神”というから戦争が起きるし、それを一神教は求心力として布教していることを考えてみれば解るはず。今の発言は、余りにも無智。

■石破氏の主張:テロの時代に入ると、安全保障の考え方も変える必要がある。テロの特徴は「自由と民主主義(話し合い)の否定」。我々はこれと対峙していかねばならない。が、日本国憲法は、その前文で謂う「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高の理念と・・・」、まさに性善説だ。このような環境下で我々安全保障を担当する者は、性善説に立つことはできない。
●慧智の主張:その発言は、事実誤認であり、人間を知らなさ過ぎる。テロというカタカナを使わずに日本語で『宣戦布告なき攻撃』と言い、それは公正では無いなんて強者アメリカの価値感だ。弱者は宣戦布告などというコストを払っていては戦闘に勝てない。
性善説と性悪説の意味を知らないのか。善悪一如を説いている。善と決め付ける、悪と決め付けるから対立が生まれる、孔子・孟子を読み直して欲しい。憲法前文を誰が作ろうが、時代がたとうが、表現された事実・真意に誤りは無い。崇高の理念の何が悪いのだ。世界平和の為に、積極的に死ぬという志に繋がる前文の何が悪い。安全と危険は、紙の両面である。状況を読む心である。石破氏は童話から読み直した良い。北風は旅人のコートを脱がせたか?“安全”とは“安らかな心”を持てる物理的状態であり、安心は“安全を感じられる心理的状況である。戦争マニアに平和や安心は理解できないだろう。

■石破氏の主張:また、楽観的にものごとを考えることも禁物だ。ケネディ大統領が防衛予算を増やすとき、野党の批判に答えていわく「多いかも知れない。が、私は合衆国大統領として、国民をギャンブルに賭けるわけにはいかないのだ!」。私たちはギャンブラーではない。何ができて、何ができないか・・・を、きちっと考えていかねばならない。そのために自衛隊というものがある。
●慧智の主張:石破氏は、心と体を分離した二元論者で、『体の安全が心の安心に通じる』という、歪んだ楽観論である。それとも歪んだ悲観論者なのだろうか?国民に恐怖心を煽り、安心感を与えられなければ政治家ではないし、アメリカ一神教独裁性悪説国家の国民感情と、八百万神仏合掌生善説国家の国民感情は違う。キリストは迫害を恨んで殺された。釈尊は慈悲に喜んで病死した。その違いから勉強をすべきだ。貴方こそ自己認識が足りない。貴方は、明らかに株式投資家のような戦略的ギャンブラーであり、コツコツと溜める郵貯派でないことは解る。そして、自衛隊は、形と名称と心を変えて“あるべき存在”だ。

■石破氏の主張:自衛隊の歴史は複雑だ。50年前、警察予備隊として呱々の声をあげた。朝鮮動乱が勃発、米軍に代わって共産革命から日本を守るのがその使命。昭和27年に保安庁になり、同29年に自衛隊になった。このとき、初めて「わが国の独立を守るため」という言葉が出てくる。「国の秩序を守るのが警察で、国の独立を守るのが自衛隊」という概念がはっきりしたわけだ。
●慧智の主張:歴史認識に異論は無いが、何故、“木を見て林を見ず”以下の観点しか持てないのだろうか?恰も“葉を見て、木を見ず、林や森など概念すら無い”という心の狭さを自覚できていないのが怖い。過去に拘らず、稚拙な頭で考えられる程度のリスクに囚われ、競争大好きという偏った考えに気付いて欲しい。“国”ではなく守るべきは“国民”だろう。国とは“政権”であり、石破氏は利己主義である。利他の心に気付いて欲しい。貴方だって“菩薩”なんだから。菩薩である事に気が着けば『国民を守り、人類を守り、生命を守り、環境を守る』のが、人間であるあなたの使命だ。小学生の国語の授業に出て勉強し直したら良いだろう。政治家は、あなたのようなモノローグに呆れている。必要なのは対話、ダイアローグであり、頭に用意された原稿を読むような議論も出来ない“話下手”に人間は語れない。根本で有る国語から勉強し直すべきですね。

■石破氏の主張:いま、弾道弾ミサイルがいつ飛んでくるかわからない時代になった。現に、工作船が日本海域で巡視船と銃撃戦を行っている。拉致問題も「日本の独立を守る」に関わる問題だ。北朝鮮の核実験は本当に心配な事項としてあがっている。中国と台湾の情勢も緊迫している。長い間、平和を享受した日本人だが、いまいろんな「有事」を、考えなければならなくなった。
●慧智の主張:あなたは以前、一人の命は地球より重い、という発言をしたのを忘れたのか。文学的な表現で国民を騙さないで欲しい。貴方の言う“日本の独立”とは、政権維持を言っているとしか思えない。あなたは“日本人を守り、人類を守り、環境を守るべき政治家である。北朝鮮が攻撃してきたら、あなたは逃げるだろう。しかし、我々僧侶は“盾”になる。我々僧侶が死に絶えるまでに世界に平和を訴えれば良い。平和建設のための犠牲にならなるという志を持つ日本人は少なくない。日本人の心を自覚して欲しい。それより、自衛隊をNGOにして、壊されても恨まず、殺されても報復せず、只管に“建設”しようよ。

■石破の主張:米国とソ連が対峙していた頃は、空白をつくらないための防衛力程度でよかった。が、これからはそうはいかない。そこで昨年、「防衛計画大綱」を見直し、機能的、実効的な防衛力に変えた。即ち、一機100億円もするF15戦闘機を200機、10億円もする世界最高値の9マル式戦車、イージス艦・・・これらをどう活用するか、今後、本格的に考えるようにしたのだ。
●慧智の主張:“戦争オタク”の発言には、返す言葉も無い。対症療法しか知らないアダルト・チルドレンに国民の安全を守れるだろうか?そんな戦争が好きなら、北の金さんと刺し違えれば良いだろう。小泉氏も会談の時に刺し違える勇気があれば、国連に銅像が建ったはずだ。しかもコストはかからない。ミサイルで反撃されたら、世界中を敵にすることになる。それが最小の犠牲で最大の効果だ。そのために税金を生活しているのだろう。

■石破氏の主張:「陸・海(陸軍対海軍)全力をあげて戦い、余力をもって英米に当たる」と揶揄されたほど日本の軍隊は統一性に欠けた。これは自衛隊としても要注意だ。今後はどうするか? やはり核の問題がある以上、「日米安保」に以外に選択肢はない。自衛隊をイラクに送ったのは、石油確保が最大の目的だが、同盟国の米国が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかなかった。
●慧智の主張:石破氏を代表とする政治家は、自分の1000万円の年金を欲しいがために、国家に100億円を損させるような狭い根性しかないのか?。一事が万事、稚拙で、公私の分離が出来ない人間が政権を握り、論客と言われているのは呆れて物が言えない。せめて中学生レベルの人間観、世界観を持って欲しい。

■石破の主張:03年12月24日、航空自衛官に初のイラク派遣命令を出した私は、20代の隊員を前に「なぜいま自衛隊が重要なのか」を懇々と説いた。或る隊員が私に言う「自分が行かなければいけないことが、よくわかりました。一番、嬉しいクリスマス・イブになりました」。平和と自由の国を守るため、身を挺して国民の負託に応えようとする自衛官の姿を知って頂きたい。
●慧智の主張:将が将なら、兵も兵。隔絶した環境でのマインドコントロールは、オオム以上だ。何時から拝金教、ハゲタカ教の教祖になったんだろう。
 一切の先入観を捨て、物事の本質を見ようという努力はして欲しい。3流の国民には3流の政治家、3流の軍人が似合うのだろう。教育経済学の定説から考えると、政治家が成長すれば、国民も成長し、軍人も成長する。それを肝に銘じて活動して欲しい。
口“アングリ”の慧智(050706)
蛇足:呆れた国会、呆れた政治家、そろそろ60年、70年を思い出して、今一度、国会前に雲水姿で座り込む時期かもしれない。

投稿者 echi : 07:05 | コメント (0)

2005年07月05日

野狐禅和尚の辻説法『坐一走七』 №797

 『坐一走七』は、「ざ・いち・そう・しち」と読みます。意味は、文字通り。七回走ったら一回は坐る、ということです。この言葉は、古来から『酔生夢死(すいせいむし)』という、目的も目標も見えずに無我夢中、闇雲に走っているような生き方を諌めています。確かに、我々現代人は、世界・社会の大きな流れに流され、本来の己を忘れ、何が何だか解らないまま、皆が走るので、自分も走るといったように、働いていることが多いようです。そんな生き方に対し、七回走ったら一回は坐れ。つまり、人生の方向性を大きく逸脱することの無いように、時には心静かに座りなさいということです。坐る、即ち己を見つめる。走っている時は、転ばないように、ぶつからないように外を見ていますね。ですから、内を見ていないのです。内を見ている時は外は見ていないのです。理想は、心を見ながら足下を見て、ゆったりと着実に歩くことです。しかし、現実的には“走らなければならない”のも事実でしょう。そこで、俗世間で『坐一走七』、満足な生き方とは言えないが、不満とまでは言えない生き方にするためにも、走れば坐る。ネット禅会の思想です。一日を一生として多くの活人は走っているでしょう。ですから、一日に一回は禅僧のように坐ろうというものです。
今晩のネット禅会では、坐を組んで、中国風喫茶を楽しみましょう。耐熱ガラスのコップに茶葉(家庭で普通に飲んでいる緑茶で良い)をティースプーンに半分くらいの量を入れ、6-70度の湯を三分の二程度入れ、茶の成分を出すようにコップを揺すりましょう。暫らく揺すってから目の前におきましょう。そして眺めましょう。只管、眺めてください。コップから目を離さないでください。そして、湯が落ち着き、茶葉が沈んでも、10分間は目を離さずに眺めてください。10分したら、さあ、“喫茶去”、まあ、飲んで下さい。温度も味も飲み頃です。そして、湯や茶葉のように動いていた一日が静まったはずです。コップや茶葉、そして喫茶から何を学びましたか?『坐一走七』が解りましたか?
慧智(050705)

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2005年07月03日

●野狐禅和尚の辻説法『悟無好悪』 №796

 『信心銘』の「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪なし。一切の二辺は良に斟酌に由る」に出典を求めることが出来るだろう。読みは「悟れば好悪なし」とするのが臨済的であるが、曹洞的には「悟に好悪なし」と読むことも多い。当然、読み方により意味は異なるが、宗派に関わらず、禅者としては「万法如一、万法帰一」と同じで、悟ることということは二項対立の幻想からの解脱だということです。
 俗世間は、勝った負けた、取るの取られるのと、先入観や固定観念に犯されている。
しかし、真理は、森羅万象悉有皆仏性、山川草木悉皆成仏・・・と表現されるように宇宙は一つであり、生命を含めた全ての現象は、相互浸透した相互補完の関係にあり、其々が位置のエネルギーを具備して、因縁果の法則に随い現象しているが故に、無常迅速であり、只、“今・此処”が全てとして捉え、“其々の其処”で全力を出し切って働き、無対立・無犠牲・自主独立を守り、与えられた仕事に誠実に取組むのが、この社会の唯一の在り方を示唆しているのです。
 つまり、悟りを得た世界には、そんな生き方、あんな生き方などはなく、『只管に生きる』という、俗世間で言われる個々に異なる生き方の全てを止揚した在り方があるだけです。
 「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪なし。一切の二辺は良に斟酌に由る」は、無明からの脱出を示唆している句です。それを実現するには、回向返照、只管に己を見つめ、己の使命を果たすべく悔いを残さぬように、一日不作一日不食、今・此処で出来る事に全力を尽くすだけなのです。
慧智(050704)

投稿者 echi : 20:36 | コメント (0)

2005年07月02日

野狐禅和尚の辻説法『贖罪の山羊』 №795

 “贖罪の山羊”は一般的には“スケープゴート”として一般化している概念で、キリスト教の聖書に出典をみることが出来る。元来の意味は、民衆の不平や不満を他に逸らすための身代り、を指すが、その方法論である「政権にある者が、社会的統合を維持するために、自己の責任で生じた問題の原因を、社会的弱者や政治的小集団に起因するかのような幻想をつくりあげ、自己の利益を守る技術」でもある。この話から、東アジアの権力者を連想する人が多いだろう。勿論、このような話は身近にも溢れている。つい最近も地方の素材メーカーとしてそこそこの地位にあった会社の社長が経営改革を断行しようとしたところ、利権を一人で貪っていた社員や反主流は関係者が結託し、社長を“スケープゴート”にして追放し、経営権をまんまとせしめたが、その後、経営権を奪った者達に、スケープゴートの排除という共通目標が完了するや、其々の思惑の違いから徐々に結束を弱め、最近では内部崩壊が生じ、企業業績は更に悪化し、いまや、新たなスケープゴートを反乱軍の中で新たに見つけようとしている、と風の便りで聞きましたが、まるで、“バトルロワイアル”。まあ、似たような話は昨今は余りにも多く、嘆かわしい限りです。
 さて、贖罪の山羊を必要とするのは“執着”、“固執”、“我執”・・・と表現される“偏った心”であり、物事の本質を観ることの出来ない無智・無明であり、翻って言えば、正に『苦』の原因である“先入観”を捨てきれない貧しい心があるからです。バトルロアイアルのように、10人の弱者が暗黙的な同意から先ずは一番強い者を狙い撃ちに、次々と同じ事を繰り返し、最後に残った2人が最後の戦いをするので、9番目に弱い者が最後の勝利を得るというのが一般的なストーリーですが、その間の其々の思惑や評価の異なりから、方程式自体は確定論なのですが、結果は不確実性論理が展開され、多くの場合“そして誰もいなくなった”ということになります。つまり、玉石混交のこの世界は正に諸行無常であり、如何なる“下心”も、それが“有心”である限り、現実化する可能性は低いのです。
 この説法を読んで頂いている方ならお解りでしょうが、『玉石一如』と考えると、時間の関係で栄枯盛衰はあるでしょうが、最後は“あるべきよう”に納まりが着くのです。ですから、大事なことは、下手な分別を捨て、今、此処を全てとして全力で生き、如何なる結果も受け入れ、“知足”を心がけることです。人間本来無一物。下衆な争いに巻き込まれ、『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』を常に心して生きることが大事なのです。それには“無対立・無犠牲・自主独立”の心がけが大事なのです。因縁果ですが、どこかで過去の因縁を断ち切らなければ、新しい明日は来ないのです。
慧智(050702)

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2005年07月01日

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №794

 『山寒花発遅』は、「やま、さむくして はなの ひらくこと おそし」と読みます。意味は“文字通り”、「山は未だ寒く、花は蕾のまだまだ固い」という情景を描写したのであろうし、その心というか、背景には「逆境に耐えた花は遅咲きと言えど美しい」というのが有るかもしれない。そもそも漢詩や禅語の解釈は、読む人の境涯、心境と相関関係にあり、解釈は自由なのです。勿論、文字通りの意味を誤解しては、解釈という連想も在らぬ方向に進む可能性がありますが、実際には“それ”でも良いのです。しばしば音楽を聴いていてタイトルを聞きたがる人がいます。CDを買うために知りたいなら解りますが、タイトルを知ることで作曲家の心を知ろうとします。それが良いとか悪いとかの解釈は自由なのですが、音楽なら“聴いた時”に感じた“気持ち”こそ本物であり、タイトルに引きずられては“本来の心”の声を聞けないでしょう。なお、オペラや演歌など詩付きの音楽は音楽に何かを感じるのと同等以上に“詩”に引き釣られ、音楽を感じる自由は、詩により妨害されてしまいます。如何なる芸術、歌舞音曲の存在理由は“自由”を謳歌する作り手の手段でもあり、聞き手、受け手の感じ方の自由に委ねられます。勿論、形式主義者は、作者や作家の制作意図や意味を重視します。ですから、作者の心を、描写されたものを『事実』として認識し、そこから何かを感じ、感じた内容を解釈しようとすることを重視します。まあ、それも悪くはないのですが、それでは「作者の意図に囚われ、表面的な意味に拘り、受け手の心の偏りにより、“自由”が失われてしまいます。禅者は心の自由を獲得し自在に生きることを本来の眼目としています。ですから、書き手は書き手、歌い手は歌い手であり、受け手は受け手なのです。作者が何を言いたかったかなど気にすることなく自由に解釈し、己の心に浮んだものに学ぶことです。特に“漢字”は象形文字、表意文字で、本来は読めなくても読めるものです。漢字は『観字』と書くのが正しいのです。
 話が飛躍しましたので、『山寒花発遅』の読みと解釈に戻ります。禅者の多くは『山寒花発遅』→悟りには簡単に至らないが、いつかは必ず素晴らしい心境に至る→大物は大器晩成だ→誰にでも旬があり、旬は異なる→人を観て法を説け→只管に生きよ→他人の目を気にする生き方では本来の人生ではない→自然は無心→法性→無→空→あっ!というような展開に至ります。それは人間であればこそ。そのような展開の背景には“仏性”があり、仏性法性は一如として宇宙を構成している。物我一如や山川草木悉皆成仏、山川草木悉有仏性などを感じることでしょう。森羅万象には法則があり、人間の自由になることなどありません。諸行は無常。知識や先入観に囚われず、現実をありのままに受け取れてこそ“自由”なのです。備忘録も同じです。何が書いてあろうと書き手や作者などに惑わされず、自由に解釈してください。
蛇足:日本にはキリスト教的な不自由、すなわち“最初に言葉ありき”という権力者優位はなく、“最初に心ありき”という真の自由が昔からあります。つまり送り手(プロダクトオリエンテッド)文化ではなく、受けて(コンシュマオリエンテッド)文化なのです。だから素晴らしい言葉は解釈の幅が大きくなるもので、単一の理解、思想統制の役目を担ったアルファベット圏のような送り手の意志を正確に伝える道具として解釈の幅を極力小さくした、文法を重視した文法論による解釈できる言語ではないのです。漢字文化とは本来、意味論での解釈対象であり“受け手の自由”を重視した文化記号です。
追伸:昨日で“個展”が終わりました。沢山の御浄財を有難う御座いました。
慧智(050701)

投稿者 echi : 04:02 | コメント (0)

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House