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2005年07月14日
野狐禅和尚の辻説法『究竟窮極 不存軌則』 №805
『究竟窮極 不存軌則』は、信心銘に登場する一節で、「くぎょうぐごく ふそんきそく」と読む。これから碧巌録の第三則「馬大師不安」の垂示に「大用現前、軌則を存せず。しばらく向上の事の有ることを知らしめんと図る。蓋天蓋地、叉模索不著」とある。多分、失念しているだろうが、類似する表現は禅書には沢山あるだろう。表題の意味は、現代風に言えば『超法規的行動の賞賛』であり、規則をとことん重視する禅宗にあって“超規則”を重視するのは、規則重視を形骸化。目的化せず“手段”と位置付けていることに他ならない。『禅』は、究極的に言えば『生活そのもの』であり、あらゆる呪縛、自縄自縛から己を解放し、常に臨機応変、融通無碍、殺活自在、縦横無尽に生き、生かす“宗たる教え(宗教)”であり、“常識”、定石、形式、前例などという“過去の現在化”であり“未来の現在化”という妄想幻想に縛られず、10年程度の禅の修行をした者であれば、何をやらせても“超・一流”と思える結果を出す。つまり、禅の修行から結果的に身に着く“道力”は驚天動地と言われる所以がある。
最近の日本を眺めていると、遵法(コンプライアンス)といったり、創造・改革・普及優先(イノベーション)と言ってみたり、統治・管理(ガバナンス)と言ってみたり、リーダーはマネージメント力を重視するという“ありえない”ことを口走ったり、正に“混迷”状態だろう。前出したことを、一瞬にして“止揚(アウフヘーベン)”してしまうのが禅者であり、その境地境涯が『究竟窮極 不存軌則』なのである。故に、絶えず“本質”から発想して動くのが、禅を生活に取り入れ、俗生活と禅を止揚してしまう『活人』が重視すべき心ということが出来る。ここ一番で、“猫を殺す”くらいはコラテラルダメージとして昇華してしまうのが本物の禅者で、木を見て林を見ない禅学者と活人禅者は世界が異なるが、それらも山川草木の部分。皆、互いに手を合わせあう“同志・道士”である。
俗には『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』という表現があるが、多弁と嘘話で真実を隠し、その場限りを楽しむピーチクパーチクの燕雀が頭に乗り過ぎれば、南泉が猫を一刀両断したのと同じように、世の為、人の為であれば、禅者は何の警告も無く一気に殺してまうだろう。
つまり、禅者とは“超・自由人”なのである。
慧智(050714)
投稿者 echi : 2005年07月14日 08:46