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2005年07月01日

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №794

 『山寒花発遅』は、「やま、さむくして はなの ひらくこと おそし」と読みます。意味は“文字通り”、「山は未だ寒く、花は蕾のまだまだ固い」という情景を描写したのであろうし、その心というか、背景には「逆境に耐えた花は遅咲きと言えど美しい」というのが有るかもしれない。そもそも漢詩や禅語の解釈は、読む人の境涯、心境と相関関係にあり、解釈は自由なのです。勿論、文字通りの意味を誤解しては、解釈という連想も在らぬ方向に進む可能性がありますが、実際には“それ”でも良いのです。しばしば音楽を聴いていてタイトルを聞きたがる人がいます。CDを買うために知りたいなら解りますが、タイトルを知ることで作曲家の心を知ろうとします。それが良いとか悪いとかの解釈は自由なのですが、音楽なら“聴いた時”に感じた“気持ち”こそ本物であり、タイトルに引きずられては“本来の心”の声を聞けないでしょう。なお、オペラや演歌など詩付きの音楽は音楽に何かを感じるのと同等以上に“詩”に引き釣られ、音楽を感じる自由は、詩により妨害されてしまいます。如何なる芸術、歌舞音曲の存在理由は“自由”を謳歌する作り手の手段でもあり、聞き手、受け手の感じ方の自由に委ねられます。勿論、形式主義者は、作者や作家の制作意図や意味を重視します。ですから、作者の心を、描写されたものを『事実』として認識し、そこから何かを感じ、感じた内容を解釈しようとすることを重視します。まあ、それも悪くはないのですが、それでは「作者の意図に囚われ、表面的な意味に拘り、受け手の心の偏りにより、“自由”が失われてしまいます。禅者は心の自由を獲得し自在に生きることを本来の眼目としています。ですから、書き手は書き手、歌い手は歌い手であり、受け手は受け手なのです。作者が何を言いたかったかなど気にすることなく自由に解釈し、己の心に浮んだものに学ぶことです。特に“漢字”は象形文字、表意文字で、本来は読めなくても読めるものです。漢字は『観字』と書くのが正しいのです。
 話が飛躍しましたので、『山寒花発遅』の読みと解釈に戻ります。禅者の多くは『山寒花発遅』→悟りには簡単に至らないが、いつかは必ず素晴らしい心境に至る→大物は大器晩成だ→誰にでも旬があり、旬は異なる→人を観て法を説け→只管に生きよ→他人の目を気にする生き方では本来の人生ではない→自然は無心→法性→無→空→あっ!というような展開に至ります。それは人間であればこそ。そのような展開の背景には“仏性”があり、仏性法性は一如として宇宙を構成している。物我一如や山川草木悉皆成仏、山川草木悉有仏性などを感じることでしょう。森羅万象には法則があり、人間の自由になることなどありません。諸行は無常。知識や先入観に囚われず、現実をありのままに受け取れてこそ“自由”なのです。備忘録も同じです。何が書いてあろうと書き手や作者などに惑わされず、自由に解釈してください。
蛇足:日本にはキリスト教的な不自由、すなわち“最初に言葉ありき”という権力者優位はなく、“最初に心ありき”という真の自由が昔からあります。つまり送り手(プロダクトオリエンテッド)文化ではなく、受けて(コンシュマオリエンテッド)文化なのです。だから素晴らしい言葉は解釈の幅が大きくなるもので、単一の理解、思想統制の役目を担ったアルファベット圏のような送り手の意志を正確に伝える道具として解釈の幅を極力小さくした、文法を重視した文法論による解釈できる言語ではないのです。漢字文化とは本来、意味論での解釈対象であり“受け手の自由”を重視した文化記号です。
追伸:昨日で“個展”が終わりました。沢山の御浄財を有難う御座いました。
慧智(050701)

投稿者 echi : 2005年07月01日 04:02

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