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2005年06月30日

野狐禅和尚の辻説法『常行一直心』 №793

 「常に一直進(じきしん)を行(ぎょう)ず」と読み、六祖壇経の言葉です。意味は読んで字の如し。“どんな事でもどんな時でも直心(直向な心)で励め”という意味です。流す、適当にやる、そこそこにする、ボチボチでんな・・・・日常には手抜きを肯定するような言葉が多い。また、『過ぎたるは及ばざるが如し』という表現もある。さて、どういう意味だろう。我々の行為は何事にも“目的”がある。その目的が大きければ、通過点に“目標”を置いて、目的が振れないようにする。つまり、目標は目的ではないし、目的は目標ではない。表題の『常行一直心』は、“常行”とある以上“目的”達成の心を表わしている。
 先日、受験を前にした高校3年生に『受験の心構え』について話した。その時のこと、一人の生徒が「先生、人生の目的なんて解らない。それより大学受験をどうすれば突破できるかを話して欲しい」と言われた。そこで「君は大学に入る事が目的なの?」と聞くと、「勿論」と返事が返ってきた。「では大学で何をするの?」というと「入ってから考えるんだよな~」と他の生徒に同意を求めた。「では、受験する大学や学部はどうやって決めたの?」と聞くと、「偏差値」という返事。・・・・。正直、彼の論理は全く理解できなかった。しかし、彼の入試に対する必死さは理解できた。問題は“そこ”にある。簡単に言えば「入れそうな大学で一番のブランド校」に入りたいので、自分の得意を見つめ、将来を見つめ、将来の仕事に必要な知識や人間関係を獲得する為に学部や学校を選んでいないことだ。正直、受験だけを突破するのは簡単である。しかし、“簡単さ”が解るには“その学部”に精通しなければならない。精通する為には“その学部”が好きでなければならない。好きであれば“肝”は見えてくる。肝が見えれば、出題の傾向は自ずから解る。つまり、学部で必要な基礎の基礎が出題されるのが“入学者選考試験”なのだ。つまり、目的から大目標、中目標、小目標と落とし込んだ結果で学部や大学を選ぶことが、入試を突破するために最も合理的なのである。翻って言えば、「自分はこんな仕事をして、こんな人生を送る」と聞ける事が、合格の肝なのだ、と教えた。ところが、理解できないようであった。海外へでようとしなければパスポートは要らないし、車を運転しなければ運転免許は要らない。何とも不思議な生徒であった。その後、校長と懇談すると「今の生徒は皆、そんなものですね」と。「我々も、人生なんと教えられないし、それは自分で考えることで学校の役割だとは思いませんね」と。疲れた。何かが狂っている。そう、子供達に“大志”が無い。『大志を抱いて大志に拘らず、囚われず、常行一直心、縁に随え』と祖父に叩き込まれた。今更ながら、在り難さを実感した。今度は私が偉大な“祖父”になろ。それしか考えられなかった。
慧智(050630)

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2005年06月29日

野狐禅和尚の辻説法『仏性と法性』 №792

 『長者長法身 短者短法身』という言葉を知っていますか?これは意外と知られていませんが、仏教の根本教義を知るうえで大事な言葉です。元来、仏教の宇宙観では、「山川草木悉有仏性と言って、全ての現に仏性が宿り、物我一如ではあるが、人間に宿る宇宙原理を仏性、人間以外に宿る宇宙原理を法性といい、全ての存在・現象は、“それ自身、そのまま”で円満と考えています。この根本教義、真理から、背の高い者は背の高いままで立派な仏であり、低い者は低いままで立派な仏という意味から『長者長法身 短者短法身』という表現が使われます。それを解釈すれば「不可分不可同」であり、現象には例外なく仏性法性が宿るのだから、全ては“一の如し”であり、男女、貴賎、老若・・・・を差別区別せずに、それぞれの“個性”を歪めることなく“活かす”ことが大事であると説いています。竹は竹で立派、松は松で立派・・・。つまり森羅万象は“あるがまま”である事が“個性的”であり、本来本性、仏性法性を活かしているのが完成されている状態として尊び、己を分別し、己以外を分別して他の個性を真似るような自己否定を問題視します。ですから、どんな状態でも、それが自然≒仏性であるのが根本ですか、自己否定をする人も、その状態が織り込まれた個性なので、それはそれで立派ということになります。
 つまり、人間が“己を知る”という場合、その根本は“仏性”であり“無個性”なのですが、仏性の見え方(報身)、機能作用(化身)、それらが統合された姿(如)を法身により『個性』があると考えています。
 そして、無個性(無差別)である本質を知って、現象している個性を活かし、他を活かしている者を『活人』と呼んでいます。ですから活人の目で世の中を観れば、好嫌、賢愚、損得、美醜、強弱、男女・・・・の差別は全く無いのです。ですから、活人の修行レベルを自己診断するには、嘗て“我”ゆえに好きだ嫌いだ、怖いだ可愛いだと差別していたものが薄らぎ、無くなっているかをチェックすることです。お解りかな?KKさん。
慧智(050628)

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2005年06月28日

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

 “主”という文字は、燭台の上に置かれた灯火を描いた象形文字。文字をジット見ていると、土や台の上の平皿が炎を上げる様子とも思える。今日の一日は東奔西走、気温は30度超え、湿度は80%であった。今日は公立学校の教員・管理職に“経営と管理”、教育の心についてお話をする予定。その他重要な会見などがいくつもあり、昨夜からメールの返信、原稿書き、今日の講演のレジメ作り、**法人の申請書類作成、**法人の事業説明書・・・と寝る時間は無かった。『忙』という文字は“心を亡くす”という事態で、『主』となっていない事の証、と早朝のおつとめの後、坐禅をしていると蝋燭の灯(火)が『随所作主 立処皆真』、随所に主となれば、りっしょ、皆、真なり」という臨済録の示衆にある偈が心を過ぎった。臨済大和尚は私の中では生きているし、私の外でも生きている。そして『生死一如』を示してくれている。和尚の『主』の解釈は、主体性があるとか、悟っているとか、そんな訳のわからない意味で使っているのでは『自然の其処に在る』と意味だろう。禅の心は“計らいの心を捨てる事”、今・此処で全ての事実を事実として全面的に受け止める“野の草”のような在り方を真実の生き方として捕らえている。その心が体に表れれば“無事”、心は“平常”。臨済和尚の心を解釈した大応国師は「立処皆真なれば、方に随って主となる」というのがある。意味は、真(理)は、固定されたものではなく縁に随い変化するので、今・此処の一瞬一瞬が真実の場であり、場が真実」といことだろう。
それを受けて、小衲が思うに「全力で生き切っている今・此処こそ真理の具現であり、そこ、それは自ずから然るべくある」。どんな処でもどんな状態でも、それらをドンと受け止め自然体で生きているのが“主”なのだ。主となってい生きるには難行苦行など不要。今・此処を無批判に受け止めて、気張らずに全力を出し切って生きるだけのこと。
 そろそろ外出時間なので筆を置くが、今日も『日々是好日、随所作主 立処皆真、無事是貴人、松樹千年翠』と行こう。
慧智(050628)

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2005年06月26日

野狐禅和尚の辻説法『身土不二(しんどふじ)』 №790

 朝は粥、昼は一汁一菜、夜は雑炊。これが修行僧の日常食。その上、全ては自給自足、とは言っても托鉢で米などは頂いてくる。自給自足も、畑で作る以外に寺周辺の山野を歩き野草を摘み、根を掘ってくる。正に「菜根譚」そのもの。Roots & Leaves Story、Equal Life & Nature. 最近の表現ではスローライフだろう。その心が、身土不二。物我一如の心である。「不許葷辛酒肉入山門」、くんしん・しゅにく・さんもん・に・いる・を・ゆるさず、とは言え、草木も生命であることにかわりはない。山川草木悉有仏性である。つまり、命は、他の命を殺生してしか生きられないという宿命がある。それ故に、最低限を守り、感謝と謝罪の気持ちを忘れない故、食事の前後には“偈”を唱える。
 ファーストフードとスローライフが対峙するなら、スローライフはファーストライフ(生き急ぎ)と対峙しているのだろう。
禅の生き方は『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』を“板”に書いて、毎日毎日、心に刻み込む。「生死、即ち日常は常ならず、過去も無く、未来も無く、一瞬一瞬が連続するのが日常ゆえ、一瞬たりとも無駄にすることなく、時の流れに遅れをとるな」というニュアンスだ。即ち、「急ぐなよ、でも遅れるな、ゆっくりな」ということか、“自然体”、自ずから然るべく在れ、ということ。スローライフやスローフーズが、ノンビリ生きろ、ユックリ作れという今風とは些か違いがあるだろう。禅寺の修行僧は走り、動中の静を知る。そして黙して坐り、静中の動を知る。そして何時しか『静動一如』、『心身一如』、『物我一如』、となる。『身土不二』、重みのある表現である。
食糧需給率が50%を下回り、起業創業して淡々と企業活動をしてゆくことが軽視され、M&Aというハゲタカ流が世のトレンドだが、一方で、それに嫌気がさした団塊世代が大量に退職する時期が到来しはじめ、スローライフが農業、林業、漁業、ノンビリ旅行を連想させるらしく、退職後のセカンダリーライフでは“スローライフ”を目指しているようだが、少々軽薄ではないか、と感じている。機会があれば、第二の人生、後悔することにない半生とするためにも、一度は立ち止まり、心の声をしっかりと聞いてから動いても遅くは無いだろう。それがファーストからスローへの転換なのではないだろうか。それには一時、『坐禅と作務』に励むことが大切だろう。
慧智(050626)

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野狐禅和尚の辻説法『把手共行(はしゅきょうこう)』 №789

 この禅語は、無門関第一則『趙宗狗子』に対する無門和尚の評語を出典とするとあって、余りにも有名であり、しばしば表現を替えて多くの公案、書物に引用されている。
『賊知賊』の項で書いたと思うが、“賊”同士は、その究極の目的を無言で共有し、釈尊が、達磨が、その目で見て、その耳で聞き、その全身で感じたものと同じ心象風景を得て、共に、“無”の体得を目指して大道を歩む。そこには切磋琢磨はあれど、競争など無い。あるのは“己という幻想”との戦い。二項対立、二律背反という幻想にみが敵となる。「犬にも仏性があるか」、“無”と応えようが、“有”と応えようが、表現された言葉に意味は無い。“有無”を超えた本来の面目世界、言葉が生まれた20万年前以前、AはAではなくAと呼ばれ出した時を超えて観れば解る世界を体得する。更には行住坐臥と大自然を分離してしまう以前、父母未生以前の本来の面目と一体化し、不可分不可同を知り、無対立・無犠牲・自主独立を知り、我執の幻想からの脱却を体得します。その時、何を観るのか。正に“把手共行”の世界なのである。
去ること35年。学費を稼ぐために“フーバー潜水”で水中写真のアルバイトをしていた時、館山沖で無心に仕事をした時、過去も未来も、水中も陸上も、そして“己”も、全てが一つに溶け込んでいるという体験をした。酸欠でも、常軌を逸していた訳でもなく、たぶん、己が己という生命を意識する以前とでもいようか、生命以前の“記憶”が蘇ったような気になったことがあった。それは幻想では無い。厳しい訓練の果てに潜水士免許(厚生労働省の認定資格)、港湾潜水技士資格(社:日本潜水協会認定)という資格を得ていたし、すべき仕事も全て完了させていた。有る意味で“不思議”な体験だったが、その時、『把手共行』という言葉が脳裏に浮び、言葉と自然が体に染み込み、共に仕事をしていたバディと己の区別が消え失せ一体化したのを体験した。
最近、スキューバ、スクーバという遊びが流行っており、二人を一組をして“一つの命”として海中散歩を楽しむ者達が多いが、時として自己が起る。今日も、知人から知人がダイビング中の事故で肺を潰してしまったことを聞いた。仕事なら止むを得ないが“遊び”でも事故とは残念。因果一如。善因善果、悪因悪果。安全が安全を生む。バディが一つの心、一つの体とならずに危険を遊ぶなど考えられない。
夏、それは心身に油断が生まれる時期。遊びも結構だが、“把手共行”を感じられるような“修行”も必要だろう。もう直ぐ“雨安居、夏安居”、とことん坐る。公案と心身を一体化する、禅宗では臘八大接心に次ぐチャレンジャブルな時期となるが、今年はどのくらいの雲水が悟るのだろう。そんな思いを巡らしながら、山梨での山作務から戻った。
慧智(050626)

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2005年06月25日

野狐禅和尚の辻説法『尋常茶飯(じんじょう・の・さはん)』 №788

 僧堂10年は中途半端な修行歴だが、坐禅と公案の日々は“禅脳思考”という貧弱な脳を完全に使い切る訓練となった。しばしば、人間は脳の能力の20%以内しか使っていないと言われる。ところが、10年程度の僧堂修業をした禅坊主は、私の感覚で、一般の人の脳の活用量の2倍は使っていると思える。その原因というか結果というかは別にして『公案』は、賢愚一如に成り切らなければ透関できない。私は“それ”を禅脳思考と名付けている。水平思考と垂直思考を止揚した空間思考とでも言うものだ。一を知って十を知り百に活かせると言ってもいいだろう。常識人の多くが習慣的に行なっている垂直思考、発想が豊かとか創造力があると言われるアントレプレナー型の思考法である水平思考、そしてそれら二次元思考を超える三次元思考である立体思考。禅脳思考はそれに時間を加えて乗り越えてしまう四次元思考とでも言えるだろう。それを一言で表現しているのが、表題の『尋常茶飯』という言葉で、誰にでもある日常の事実に接して瞬間的に事実の背後にある法則性や真理を見抜き、それを一転語という『言中有響(ごんちゅう・に・ひびき・あり)』の短く単純だが言葉の中に言葉以外の妙意を持たせた短文(教訓のような表現)に表わし、そして、即其れに成り切る。正に達磨大和尚の二入四行の実践が“自然”に出来るようになっている。繰り返しになるが、一を知って百を知り千に活かすのは“朝飯前”という事。ローコスト・ハイパフォーマンスとは正に“禅脳思考”の為せる業。もっと今流に言えば、ファミコン並のCPUでスパコンのCPUをも凌ぐ“スーパーソフト『THE ZEN-KNOW』とでも言える。蛇足だが、スパコンにzen-knowソフトが乗っているのような人が“高僧”。
 活人禅会では、その“禅脳思考”を体得して頂いている。一つの事実から真理や法則性を発見し、それを最小限の記憶容量でハードディスクに記憶させ、それに無数のシナップスを付けて、汎用性のある知識ユニットとしてしまい、瞬間にテストランさせ、ニューロンの結束をしてしまうのである。勿論、その方法は“坐禅”と“作務”以外には無い。
 禅は“悟り”である。悟りとは“真理”の実感である。真理とは一切皆空である。一切皆空とは、全ては一瞬の現象であるということ。故に一瞬の現象に150億年を観る事が出来るのである。
■:林檎が落ちるのを見た・・・出会った事実
◆:全ての物体は大に小が引き寄せられる。・・・・その瞬間の閃き(悟り)
●:万有引力、人同士も引き合う。・・・・一転語
★:私は、引き合う力を増幅している人間である。・・・行動
終りに、禅脳思考、別に工夫無し。
以上が、今日、数年ぶりにお尋ね頂いた店舗開発の日本有数のエキスパートとお話している最中に、自分でも気付かぬまま潜在意識がパラレル処理していた内容で、NET禅会が終わると、無意識にキーボードの上を指が走った結果で、これが禅脳思考なのだ。
慧智(050625)

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2005年06月24日

野狐禅和尚の辻説法『別無工夫(べつ・に・くふう・なし)』 №787

 この語は、『正念工夫、不断相続』を強く要求する“公案”の心構えに一見して反していると思われる夢窓疎石和尚(相国寺開山)の言葉です。禅が一般の方に理解され難いのはこの辺にあるのです。私が方便の混乱として時々使う川柳に「頑張れよ でも無理するな 遅れるな」とか、そのバリエーションで「無理するな でも頑張れよ 遅れるな」、更には「遅れるな でも無理するな 頑張れよ」・・・・、一体どうすれば良いのか。それは簡単。他人の言葉に迷わされるな、という事です。夢窓疎石和尚は「日々工夫せよ しかし特別な工夫は無い」というのは、日常的な行い(修行)をしていれば、公案を頂いたとしても特段の気張りなど要らないはず、と言っているのです。言い換えれば、一日一日を一生として生き切っている者は瞬間瞬間が工夫三昧なので、特別な事など無いということ。正に日常に全てが現象しているということ。『日々是好日』『無事是貴人』『万般存此道』に通じているのです。
 さて、学生であれば中間試験だ、期末試験だと徹夜騒ぎをするし、企業人であれば企画会議だ、予算会議だ、決算会議と、それが恰も特別な事、非日常としてバタバタする。実に嘆かわしい。今日出来る事を明日に延ばさなければ、如何なる日でも“日常”である。特別な工夫など不要。つまり、夢窓疎石和尚の言葉通りである。
 昨日の高校の生徒からメールをもらった。就職試験には“どんな勉強がいるか”という内容。その応えが『別無工夫』である。特別な事は必要ない。一日一日を完全燃焼していれば、特別な事は何も要らない。解ったね。今日という日は一生で一回しかない。
『論語の学而第一』は、
『子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不温、不亦君子乎。』
子(し)曰(のたま)わく、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う、
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠方(えんぽう)より来(き)たる有(あ)り、亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(うら)みず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
孔子云う、
「学んだことを繰返し実践していると、自然に身について来る。これは何とも嬉しいことだ。
志を同じくする友が遠くから訪ねて来て、一瞬の内に意気投合する。これは何とも楽しいことではないか。人目や成果など気にせず、只管に励む。これは何とも立派なことではないか」と。
学生君、下心など持たずに毎日を全力で生き切れ。それ以外に人生が満ち足りたものにする方法は無い。
慧智(050624)

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2005年06月23日

野狐禅和尚の辻説法『驢年(ろねん)』 №786

子丑寅・・午未・・犬亥、『驢馬』という歳は干支には無い。そこで、“当てにならない”ということを禅寺では言う。
今日の説法は千葉の高校。50人ばかりの来年は就職という形で社会に巣立つ若者である。しっかりと聞いてくれた者。寝ていた者。様々である。
“社会が必要とする人間とは”について話した。結論は『当てになる人間』。どこの世界でも同じ。改めて話す事でも無い。しかし、現実は、お寒い。今の日本には“当てにならない人間”が多すぎる。当てにすることの良し悪しは別にして、この世界を一人で生きれる者はいない。つまり社会とは“相互補完”なのである。言い換えると、一人一人が請け負う役割がある。請け負う役割は、一人一人違う。それが“個性”なのである。悟りは諸法無我を体得することであるが、『無我』への道の一里塚は『有我』だろう。捨てるべき“我”は“我”の正体を知らなければならない。“我”とは“仮の主”である。つまり、己を認識することであり、それは己自身の強味・弱味を知ることである。そして“強味”を活かして、他に貢献することである。強味を活かして利他に生き切る。それが“無我”である。
高校生には“当てになる人間”であれ、と力説した。何でも良いから得意を発揮して生きろと話した。出来る事から始める。出来る事は成功する。成功は向上心に結びつく。そして更なる成功を産む。振り返ると“それ”が好きなこととなっている。そして、それが“すべき事”と気付く。そして、それを意識せず、当然の事として生きる。“当てになる人間”の完成である。この当たり前の事が解らない者が“驢馬歳生まれ”なのである。
多くの高校生は“好きな事”に魅了されている。好きな事では無いから、出来る事でもしない。それが“ニート”である。我々は38億年を生きて居る。それはDNAという過去帳に記録されている。要らぬ人間なら“今・此処”に居る訳が無い。つまり、人間は“何らか”で“当てになる存在”なのだ。
さて、あなたは“当てになる人間”という自覚があるか。それが『自利利他』である。『自利利他』とは、WIN-WINの関係を言う。勝ち負けの世界の対極である。人間に“勝ち組”や“負け組”は本来は無い。随所で主となる主人公ばかりである。それは、己を知って、己を活かし、己を捨てて、己を生き切ることである。それは“無我”という完成された人間の生き方である。
蛇足だが、金や快楽を追う者は一生涯、金や快楽で苦しむ。金や快楽を追わずに己を追う。それを『回向返照』という。己を追えば、金も快楽も追いて来る。前者を有心、後者を無心という。そして有と無が止揚されると“空”となる。『一切皆空』とはそういうことである。
更に蛇に“お手”をさせよう。今日の高校生の中に36年ほど前の“自分”を観た。それは一人の女生徒だった。眼鏡越しにも目が輝いているのが見えた。彼女は必ず“跳べる”と直感した。拈華微笑である。そして、未だ“旬”の到来がない子供を含めて、周囲のオトナが『啐啄同時』を誤らなければ、必ず“役に立つ”人間として未来を担うだろうとも感じた。我々“オトナ”は彼等彼女等の踏み台とならねば、と感じた。
慧智(050623)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

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野狐禅和尚の辻説法『賊知賊』 №785

 『賊知賊』は、「ぞく・ぞく・を・しる」と読み、碧巌録第八則「翠巌夏末」に由来する禅語。意味は、文字通り。賊の気持ちや手口は賊だからこそ解る、というもの。転じて「悟りの心境は悟った者同士では阿吽の呼吸で解る」、翻って言えば「悟った者の心境は悟りの無い者には解らない」と思って良い。私は、この語(評語)が導かれた“関”には思い出がある。釈尊が蓮の花を掲げて迦葉尊者がニコッとしたのと同じような経験をし、『正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏・・・』全ての公案がドミノ倒しのように連動し始めたことだ。
 無門関第一則『趙州無字』の無門和尚の評唱である『把手共行(はしゅきょうこう)』の境涯も、『賊知賊』も煎じ詰めれば同じだし『以心伝心』も同じ。しかも『類は友を呼ぶ』も類語。朱に交われば朱くなる、というのも類縁である。
活人諸君、師は弟子を選ぶべし。弟子は師を選ぶべし。入った学校を何事も思わず卒業するようでは情けない。言い換えれば、何処の大学に入ろうと、そこを惰性で卒業しようなどと考えず、自分の知的好奇心を満足させられる師を求めて学部も学校も替わるのは“自然(じねん)”だ。解るかなTさん。
慧智(050623)

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2005年06月22日

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

 今日、然る会合の前、10年ぶりに元総理大臣のN氏と思い出話しから韓国問題を切っ掛けに『禅と神道』に関する雑談をした。ほんの2-30分のコーヒータイムだったが、彼の神道感は従前の理解に反して、靖国に代表される現在にような国家神道感ではなく、神話や自然感に基づくもので、彼のライフスタイルの一部である『禅』、彼の禅に対する理解と矛盾していない事が解った。また、“憂国の士”としての彼の懸念が『日本人の宗教心の希薄化』であることを聞き、多いに同感を覚えた。なお、“老兵は死なず~”ではあるが、青雲塾で共に語った頃より“マイルド”になった事は否めないが、見方によれば『悟無好嫌』、何ものにも縛られない心を得たのだろう。政治家や経営者の坐禅とは“そういう”ものなのだろう。それに接するに、現役の政治家は辛いだろうな、と思えた。前出の『悟無好嫌』は、信心銘にある言葉で「さとれば、こうお、なし」と読む。意味は“文字通り”。好き嫌などの感情に左右されないのが“悟り”と言っても言いし、悟れば、自ずから好き嫌いという二律背反、二項対立という幻想が消滅して世界が無辺となると思っても良いだろう。全ての現象は流動的で実体は無い。左右があれば二分、天地あ¥があれば二分。天地左右無きは無限なのである。言い換えれば好き嫌いがあれば世界を狭くする、ということ。即ち凡夫で、無ければ聖人ということだ。そして、この凡夫・聖人という区別を忘れた世界こそ、真に自由な“浄土”、此の世そのものが蓮華国で、“死して浄土へ、地獄へ”という方便からも解放され、“魂”などという訳のわからない観念からも解放され、靖国に参るも良し、参らぬも良し、“そこ”という場所には何も無く、全ては心の内にあるのだからとなり、世界は広がるだろうに。小泉君は気の毒だな、と・・・・。そして、多数決や量という“数”の世界が幻想だと思うようになったよ、と。正に“然り”である。最後に「しかし、彼は軽いな」という言葉は重かった。考えてみれば、“宗教心”の無い人間は確かに“軽い”。
慧智(050621)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

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2005年06月21日

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №783

 「しんぎょく・でいちゅう・に・いなり」と読みます。出典は景徳伝燈録です。意味は「本物(者)は、何処に在っても本物」ということです。本物(者)は、寡黙であっても随所で主となるでしょうし、主人公。大道を進むということは、多くを語らず、他人を気にせず、堂々と、そして勝手に輝いていれば良いのです。『今・此処』があなたの舞台。解る人は解るし、それに嫉妬し足を引っ張ろうとする下衆な輩もいる。しかし、『両忘』、その両方を忘れて、大道を歩む。それが大事なんだ。
 F君。心配は理解できるが、“君は本物”、何も気にする事は無い。本者とは、本来の己に忠実に生きている人であり、強味を活かしている人であり、弱味を隠さない人。つまり、分相応を知って淡々と、そしてイキイキと“今与えられている仕事”に全力を出し切って居る人。
F君、『オドオド、キョロキョロ、ギョロギョロ、ベラベラ、ヘラヘラ、モジモジ、カリカリ、ドタバタ、ソワソワ、ヒソヒソ、チョロチョロ、バタバタ、セコセコ、ウジウジ、ピリピリ、ショボショボ・・・』、そんな言葉は、君に似合わない。「サラサラ、グイグイ、グングン、ニコニコ、ノシノシそしてコツコツ」、それが“ピカピカ”の『真玉泥中異』。
大丈夫、大丈夫。心配御無用。私も活人禅者も、皆、君の味方だ。骨は拾ってやるから、信念を貫け。しかし、それに囚われるな、拘るな、偏った考え方はするな。どうしても困ったら、私を悪者にして火の粉を避け、体力気力を再生して出直せば良い。私は癌だが、防弾、防炎・防火・耐水構造だから大丈夫。
 出る釘として頭を打たれ、転職に迷っている青年からの相談を受けて
慧智(050621)

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2005年06月19日

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

 久しぶり知人が訪ねてきた。玄関先で、行き成り、ぶっきら棒に「“無心”とはどういう心か」と挨拶された。一瞬、怯んだ。「ムーーー」と言っても彼には解らないことは解ってたので、「主観的でも客観的でもない心だ」と返したが・・・「それは何だ」と。
 禅を理解する言葉に『両忘』という表現がある。そもそもの意味は『対立を離れる』ということである。しばしば『主体(能見の我)』と『客体(所見の彼)』は、表裏一体、不可分・不可同。即ち“一如”こそが全てということ。『能所両忘』と書いても良い。坐禅が求める境涯である。己と自然、我と仏、善と悪、好と嫌・・・何でも良いが、一般論として対峙する概念、其れが相互浸透し一体となる心境だ。まあ、それを『父母未生以前の本来の己』というんだが・・・。
 心とは不思議な現象だ、応えに対し更なる相対的質問を投げかねられると、所謂“フォーカッシング”という質疑応答形式から逸脱しているゆえに戸惑う。戸惑うと、考える。これは野狐の宿命。殴ってしまえば良いはず。何故なら、無心は消極的な戸惑いではなく、積極的な戸惑いに近い心境だからである。
 禅の心を言葉と頭で理解しようとする者は、禅を知ろうとしない者より、禅から遠ざかる、というのが私の実感だ。それ故、この手の質問は苦手だ。
 まあ、上がれよ。ところで、どうしたんだ。
 いや、昨日、お前達のHPでやっているネット禅会とやらで坐ったんだ。そうしたら、“宙”に浮くような感じで、気持ちよくて、気が付いたら1時間たっていたんだ。なるほど。その気分こそ“無心”なのかと、どうしても知りたくてな・・。なるほど。時間感覚が無くなるというのは正に“三昧”という状態で起こるんだ。しかし、“宙に浮く”というのは怪しいな。宙に浮くという認識が有る以上、主と客は融合していないだろ。確かに。じゃあ、『無心』とどういう気分なんだ。簡単に言えば、何かに“一心不乱”に打ち込んでいる状態だよ。だから「これが無心だ」と気が付くわけがない。言い換えると「無心」になった、と思っている内は、無心とは縁が無いんだ。ところで、何で無心を知りたくなったんだ。だって、お前、自分で癌を治したろ。まあ。実は・・・・。この先は割愛する。
 何かがあって“無心”を求めるのは、死後に戒名を授かるくらい滑稽。悟って旅立つのであり、旅立って悟れる訳が無い。そもそも皆、例外なく“仏”。自分が“仏”であることに気が付いているか、いないか。三昧、無心何でも良いが、それを体験するのが“悟り”と言っても過言ではない。何れにしろ、何処であれ、何時であれ、一日に一回、一日一生の締め括りに坐るのは素晴らしい。彼も近々、禅会の門無き門を通るだろう。
慧智(050619)

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2005年06月18日

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

 達磨大和尚の6世前に摩拏羅尊者(まどらそんじゃ)の偈に『心隋万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』というものがある。読みは「心は万鏡に随って転じ、転処は実によく幽なり。流れに随って性を認得せば、喜びも無くまた憂いも無し」と私は読む。意味は、ユーストレス状態の心は事実を事実として受け取り臨機応変に動いて喜怒哀楽に左右されずに流れを見失わない。つまり、ディストレス状態の心は拘り囚われ偏りが起こり自由を失い苦しむものと解釈すれば良いだろう。つまり、日常生活における私達の心で大きなマイナス要因はストレスマネージメントの失敗なのだ。
 坐禅は究極のストレスマネージメント手法と言われる場合があるし、ストレス耐性の高い心を実現する唯一の手法と欧米では言われる。まあ、目的・目標・手段を分けて考える文化の国の解釈らしく、我が国の解釈である『坐禅はそれ自身が目的・目標・手段』という理解には及ばないが、現代人の功利主義は満足できるのだろう。モントリオールのストレス研究所時代、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエ博士に何度も尋ねられたのも“この”部分である。彼は“坐禅”はセラピー手法として宗教と分離すれば世界的な方法論となり小林はノーベル症も可能だと言われた。其のたびに「坐禅と禅(宗教)は表裏一体で、人間から皮膚の全てを剥ぎ取りコートとして商品にしろというような考えは危険極まりない発想だ」と逆らい続けたが、今でも其の考えは変わらない。
 人間にとって重要なのは“真理”であり現象ではない。心の本性は前出の第一句である『心隋万境転』という心の本質の理解体現である。つまり『自由』と『自在』の心である。それが『無心』であり、『無我』である。この部分はキリスト教文化に汚染されていると先ず絶対に理解できないらしい。アイデンティティ(自我)という幻想を捨てた心が本性であり、それがアイデンティティであるというのは欧米人にとって公案以上のハードルなのだ。それが彼ら欧米人にとっては、そこにある“無”であり“空”が唯一の切り口なのだが・・・。
活人禅者よ、『日々是好日』にしても『平常心是道』にしても、ストレスマネージメントの成功した姿であることは機会ある毎に話しているが、それそのものが喜怒哀楽による心身
の自虐から解放され、自然体で生きていることこそが我々の目的で目標で手段であり、食事、呼吸、排泄と同じ次元で、坐禅が日常生活の欠くべからざる要素であることは容易に理解できているだろう。しかし、実践できているだろうか?一日20分で良いから坐れているだろうか。俗人は個性から逃れる事は出来ない。個性という自縛を乗り越えるには坐禅しかないが、一般的な社会生活では、個性を捨てる以前に先ずは活かす事が大切。自分の生得的な強味・弱味を知って強みにストレスをかける。するとそれは向上心・有能感へと向かう。しかし、誤って弱みにストレスが加われば、それは焦燥感・劣等感へと向う。活人は、達人への過程。菩薩道の助走である人間道と言っても過言ではない。その道を悠々と歩くには“ストレスマネージメント”の方法論が必要だろう。それは坐禅をおいて他には無い。兎に角、一日一回。しっかり坐ろう。
慧智(050618)

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野狐禅和尚の辻説法『愚直なほどに素直』 №780

 禅の心は、愚直なほどに素直に生きる事、の一言に尽きるかもしれない。何に対して“素直”なのかと言えば、それは“自然”。即ち、自ずから然るべくある“自然”だ。暑い時は熱いし、寒い時は寒い。春は春。梅雨は梅雨。綺麗と感じれば綺麗。苦しいと感じれば苦しい・・・。つまり、“眼前に現象している世界”。言い換えれば、それを感じている心だ。ところが、同じ事実に接しても人により感じ方が異なる。“赤ちゃん”とは随分と違う。何んで変わったのだろう。そこれが知識や経験と言われる“解釈”だ。そして其の解釈が固定して“先入観”を構成したからだ。言い換えれば、“素直じゃなくなった”からだ。そして其れを“愚から賢へ”という勝手な解釈をしているからだ。
 『常行一直心』という禅語がある。「つねに・いちじきしん・を・ぎょうず」と読む。読んで字の如しだが、誤解が無いように“直心”とは『直心是道場』の“直心”と同じで「造作の無い心」のこと。言い換えれば、愚直なほどに純心な心、つまり素直な心のこと。あるがままの心のこと。知識・情報・経験により汚染される前の心。分別(≒先入観)する前の心。故に『常行一直心』とは、『愚直なほどに素直な心で日常生活』ということだ。
 マイナス6%運動の一貫で『クールビズ』なる言葉と軽装が政府主導で推奨されている。暑い時は暑いので、涼しくしよう。上着やネクタイは不要というもの。しかし、不思議だと思わないか?上着やネクタイを制服にまでした西欧カブレの日本で、春・秋・冬の仕事には必要で、夏は要らない。四季で仕事が違うのだろうか。そこに“素直”を無くした日本の姿がある。『何に対して素直』なのかを忘れた姿だ。しかし、愚鈍な政策が“自然”を思い出させてくれるかもしれない。暑い時は暑いように、寒い時は寒いように暮らす。それが“自然”だ。素直な心への回帰だ。流されたり、押し曲げ捻じ曲げることではなく、“自然の法則に従って流れる”、つまり自然体で生きるというのが大事なのだ。先入観・稚拙な知識や浅い経験を離れ、事実を事実として素直に受け入れ素直に暮らすことだ。
好きな者は好き、嫌いな者は嫌いで良いが、好きだから会う、嫌いだから会わないのではなく、自然の流れ(≒縁)に委ね、瞬間的で実体の無い感情(解釈された事実が構成する)に左右されず、『常行一直心』、いつも眼前の事実を素直に受け入れ、何事にも素直な心で対峙することだ。つまり『無心(先入観の無い心)』に生きるということだ。
活人諸君。“上手く生きよう”なんて考えるな!素直に生きよう。一日一生、一日一日を全力で生き切ろう。『隋縁』、それは本質から外れないとても大事な心。小泉さん、竹中さん、素直に生きようよ。素直な心(勝手な心ではない)こそが“本質”を見抜けるんですよ。★禅会ですので説法は“生”のみ★
慧智(050618)

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2005年06月17日

野狐禅和尚の“経済”説法『経国済民そして分相応』 №779

久々に『政策金融委員会』に出席し、背筋が寒くなったので、内職のようにこの原稿を書いている。経済は、経国済民(くにをおさめ、たみをすくう)を語源とすることは衆智であり、経済≠金ではない。しかし、文化や教育を弄るには結果が出るまで時間がかかるので、政府や役人は、ついつい“金”を弄って仕事をしている幻想に陥る。困ったものである。
今日の日本の経済状況は、分不相応を追いかけたバブルの崩壊で1400兆円の“泡”である資産価値を喪失したが、1929年のアメリカ大恐慌の再来はなかった。理由は単純で、政府が無智ゆえに膨大な財政出動をしたからだ。つまり、無智に無智を重ねた偶然が恐慌を結果的に起こさなかっただけなのだ。先ず、それを記憶しておいて欲しい。現在の日本経済は、一部には“長期デフレ”とも、“構造問題”とも言われている。しかし、私は、米国拝金イズムという“病”にかかりながら、ホメオスターシス(恒常性維持力)とプラセボ(財政出動)の相乗効果で、瀕死の重傷でありながら基礎体力(実業主義→米国型虚業主義の反対)で何とか命を長らえている内に、基礎代謝を落として、健康を回復しつつある状態と見ている。そもそもインフレとデフレを区別しているのは何か。金(マネー)の仕入れと販売の関係値で、長い刀には長い鞘、短い刀には短い鞘という本来のスタイルを逸脱し、長い刀を短い鞘、短い刀に長い鞘という『分不相応』をおかしいと思わない連中、ないし悪辣な“刀鍛冶”とそれを取り巻く商人、悪代官の指標で、本来の実質重視経済を基調とする日本では不要な数値なのだ。英国や米国の嘗てのインフレは22%という短期金利を仕掛け、転んでも“ただ”では起きまいとする海賊の頭と、山賊の頭が“策士が策に溺れた結果”であり、謹厳実直で素直な仏教徒である大半の日本人は『晴耕雨読』の生き方を思い出し、質実剛健に徹したから恐慌にならなかっただけで、本来、経国済民を司るべき政府の力ではない。今、未曾有のゼロ金利が長く続いている。それにも関わらず、資金の流通量は増えない。言い換えれば、政府の中枢にある無智な経済学者が“構造改革”などと騒いで、資金の供給力を銀行に付けさせたところで“借手”は増えない。増えないから仕入・販売ともに金利は上げられない。エコノミストの中には日本国内は需要不振だと言うが、いつに比較して需要不振といっているか。『今』を否定し、バブル時を肯定しているという心理が背景にあるからだ。
話は少し変わりアナロジーになるが、チョットだけイメージして欲しいのは、『日本人の平均身長が150センチになれば、現在の50%を下回った食料需給率は解決する』ということ。江戸時代、食料需給率は農業技術が低いし人口も少ないが100%だったのだ。つまり分相応の大きさで生きることから背伸びをし、贅沢に暮らすことを欧米に教え込まれた結果の今日で、“経済問題”の本質は其処にあるのだ。言い換えれば、“分相応・質実剛健”そして『知足』という“日本の心”を思い出して暮せば、現在の経済状態でも十分に“豊か(餓死者を出さず、皆仲良く慎ましく安心して暮して行ける貧富の差の小さく妬みや恨みを抱くことのない社会)”なのだ。
さて話を戻そう。大隈先生の開校した立派な学校の縮小再生産が生んだ鬼っ子で、経営の“け”の字も知らず“日本の心”も知らないアメリカ拝金教の信徒である政治屋さんになった経済学者は、銀行屋に向かって「信用力のある大企業で素晴らしい企画を持っている会社が沢山あるのに銀行がカネを貸さないのは訳が解らない」と言うが、それは世間知らずの弁で、現実に資金の需要があれば、借入れは増え、仕入と販売が市場原理に連動して貸出金利は上がるのが当然。しかし、現実は違う。その証拠に資金需要があり、邦銀が貸さなければ、ハゲタカ銀行が貸しまくる。しかし、そんな気配はないし、邦銀・外銀とも貸出し量は下がったまま。其の上、外銀の対法人シェアは落ち始めている。つまり、T大臣は世間が見えていないのだ。
常識の目で、今を見てみよう。企業はゼロ金利にもかかわらず借金をどんどん返済している。何故?。受容性は高いが、保全性の高い経営者も国民も『マネーストレス』から学習したからだ。バブル絶頂から見れば株価が6割、都市不動産は8割も下落した。勿論、本来なら株価は9割下落でも不思議ではなかったが、“持ち合い”で救われた。覚えておきたいのは、政府が持ち合い解消を奨めている以上、“次”は耐えられないということを皆、本能的に悟っている。だから、金は借りない。しかし、現実問題、今でも中小企業の『不動産』は怪しい。簿価と実勢には全国平均で8対1。そして“借金”はそのまま残っている。日本の企業の9割が中小零細であることは衆智。つまり、株式会社日本のBS(バランスシート)は危機的状態に変わりない。しかし、本業に回帰してPLは健全、CFも大きな問題は無い。しかし、BSは“債務超過”だった。・・・これ修復するため日本中の企業が「早く借金を返そう!」と大合唱。そして、大企業から健康を取り戻した。しかし、中小企業はまだまだ。そして現実はバランスシートが綺麗にならないから、それまでは例え“ゼロ金利”でも借金はしないし、銀行も同様に貸さない。銀行が貸して万が一にも銀行のBSが悪くなれば破綻し、ハゲタカと其の手先であるT大臣に潰される。それが怖いのだ。現実に、日本の銀行には、今も何が起きても不思議ではない。世界的格付機関で合格を示す「ABC」をとっているのは銀行は一行もなく、揃いも揃って「DE」ばかり。学校の成績なら“2”と“1”ばかり、進級なんか出来ない。
 一方、企業の借金返済が昨年から急速に進み、有利子負債残高は大幅に減少しバブル前の86年水準を回復。また、恒常性維持力により都市圏での土地価格の下落も止まり、バブル崩壊の主犯である団塊世代の整理が進み、バブルで痛い目にあっていないホリエモン世代が、禁断の木の実に幻惑されている。つまり、07年あたりから、病気が再発し、先ずは熱があがり、浮かれ、疲れて、悪寒が続き、悪寒に慣れて、それなりの暮らし方を発見するだろう。正に、景気は循環なのだ。
 そういえば、小泉公約の「30兆円枠」は今何処に?まあ、今の政策をあと2年続ければ、大半の大企業は元気になりMAやMBOを進められ、日本の心を完膚なきまでに捨てた米国カブレの企業ばかりになるだろう。果たして、それが良いのか悪いのか。それでも多きな課題は残る。そのキーワードは『石油・中国・ドル・輸出とアメリカの一人横綱』。車社会のアメリカ、これから車社会にある中国。漁夫の利を狙うEU。そして世界が狙う日本の外貨。心臓が政府・日銀とすれば、中間ポンプが銀行というイメージで“経済”を国民と文化を無視して動かしている限り、日本の危機は去らない。今、日本に必要な改革は『日本式文化大革命』なのだ。ホリエモンに老子・孔子・菜根譚を読ませ、六本木ヒルズ族に坐禅をさせて週末は農業・林業に参加させることだ。
つまり、今の日本に本当に必要なのは、『経済改革・郵政改革・・』なんかより『教育改革』と『宗教心(禅)』なのだ。
 会議が終わるので、内職もここまで。
★★明日から活人禅会です。寺で待っています★★
慧智(050617)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

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2005年06月16日

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常・無常迅速』 №778

 中国、漢代の人間訓に『人間万事塞翁馬(にんげんばんじさいおうがうま)』という句がある。元東京都知事で作家にしてタレントの青島幸男氏は、この句をもじって『人間万事塞翁丙午(・・・・ひのえうま)』という本で、自分の人生を予言していたようだ。
さて、しばしば耳にする“この句”は、幸福は必ずしも幸福ではなく、不幸は必ずしも不幸ではないという意味。原書では「塞翁という男が飼っていた雌馬が逃げて落胆していると、暫らくの後、牡馬を連れて帰って来て、子馬が生まれてた。それを喜んでいると、塞翁の子供が馬から落ちて大怪我をしてしまった。その時、戦争が始まり殆どの若者は徴兵され、90%が戦死したが、体が不自由な塞翁の子供は徴兵を免れ、親子は命拾いをした」という内容だったと記憶している。
しばしば、二項とは表裏の関係だと話している。『楽中苦・苦中楽』という禅語の意味もしばしばお話している。そして“諸行無常”、常なるものは無く、全ては現象であり、解釈ひとつともお話している。『人間万事塞翁馬』にしろ“~丙午”にしろ、何事も決定的などということはない。良い時もあれば拙い時もあるし、それは不可分不可同である。つまり、哀しむ事なかれ、かと言って喜ぶことなかれ。今・この時こそ“全て”なのである。一瞬前は過去、一瞬先は不確定。全ては諸行無常。故にチャランポランに生きろというのではなく、善因善果・悪因悪果、因果応報。今・此処での己を一日一生と準え生き切ること。それが悔いの無い明日の今・此処となるのだから。
慧智(050616)

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2005年06月15日

野狐禅和尚の辻説法『見掛けと実体』 №777

 怖そうに見えて優しい。強いように見えて弱い。高そうに見えて安い。堅いように見えて脆い。・・・・。今日、時々法話を頼まれて伺うグループにメンバーの一人と電車でバッタリ会った。その時の会話「衣を着ていると優しそうに感じたんですが、スーツ姿だと“偉い経営者”って感じですね、と話しかけられた。「そんなに違いますか?」と返すと、「ぜんぜん違う」と。「孫にも衣装ですかね?」。「どちらが似合いますか?」。「どちらとも言えないわ」。「じゃ、どちらが好きですか?」。「衣かな・・・」。「じゃあ、あなたは強い人より優しいが好きなんですね」というと、「何故、解るんですか?」と。「あなたは言いましたよ」と返すと、「不思議な顔をしている」。理由はこの次に会った時に話してあげますが、先入観なく聞いたり見たりする心が出来ていると、相手の心は解るですよ。「スゴイ、心理学者みたい」と。「心理学者なんです」、「じゃまた」と二駅間の会話。
 さて、先入観という脳の処理メカニズムは便利ではあるが不便でもある。そもそも先入観は脳が情報処理をエネルギーの消費を抑えつつ高速で行なえるように大脳辺縁系が持つ既得的な『経験能力』。その下位構造が『反射神経』で、上位構造が『先入観』。しかし、便利な機能は必ず“不便”も伴います。それが“生き物”なんです。なお人工物は、それに挑戦しているんです。小さくて、軽くて、早くて、大きい・・・ノートパソコン。加えて頑丈で安くて綺麗で・・・。人間って欲張りですね。私なら、これに加えて電池が48時間とお願いしたい。
 さてさて本題。『見掛け』とは先入観の為せる業。ところが“実体”も先入観という評価
で、前出の『優しい衣姿、偉く見えるスーツ姿』から類推して欲しいが、“私”の実態は?
活人諸君は、もう私の公案が解りましたね。“実体”と書けば“根底”、“実態”と書けば“在り様”。全ては“現象”であり“実体”など無いというのが“実態”。それが先入観であり夢、幻。
 諸兄!。見掛けとは如何に???。晴耕雨読。今日の東京は雨。早々に帰宅して坐ってみよう。湿度が高い状態と雨との関係は?濡れると湿るのと違いは?人間は思った事を信じている動物。安定した考えが“思い”の源泉。私は優しいから、公案も易しい。さて、この言葉は正しいか?
今週の禅会までには、一転語を用意してくださいね。
慧智(050615)

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野狐禅和尚の辻説法『人生には“旬”、一年にも“旬”、一日にも“旬”』 №776

 茶掛で見かける事が多い『花謝樹無影』という5文字がある。「はな・しゃして・き・に・かげ・なし」と読みます。これは蕾の時期は蕾。人生は相対評価ではなく“絶対評価”の対象。己は絶対的な己あるのみ。人間、皆、旬は異なる。他人と己を比べることから、優越感や劣等感が生まれ、人生を危ういものにしてしまう。以上が人間としての心構え。活人は、菩薩道。一瞬一瞬が“旬”、無駄な一瞬など無い。故に、一日一日を“旬”として生き切る。己の人生の“旬”に気が付くのを忘れると“思い出に生きる”という悲しい人生となり、今・此処を楽しめない。
さて、活人諸君。今日の“旬”を感じたか?“今”という“旬”の連続を生き切れたか?
目を開いて生きよ!!!!愚痴を言うな、夢に逃げ込むな。今・此処のみが現実、そして、人生に一回しかない“旬”、大事にしなきゃ。ね、W君。
気が向いたら、以下のURLへ飛んで見て下さい。
慧智(050613)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

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2005年06月14日

野狐禅和尚の辻説法『見返りを求めず』 №775

 労働には報酬金を求め、ボランティアには充実感や感謝される事を求めるといった事が多い。何とも情けない時代である。報酬にしても充実感にしても、『結果成自然』、結果として自ずから然るべく成るのであって、前提や目標にすべきではないだろう。『働く・尽くす』のは、其れ自身が目的であり、目標のはず。給料の為に働く、感謝されたくて働くなどは“愚の骨頂”であり、大半の人は“それ”を十分に理解しているはず。親が子を育ててるのに将来の資金源となる事を求めるだろうか。只管に子の必要を満たしているに過ぎない。仕事にしても、縁あって力を発揮できる場が与えられ、職務が割り当てられる。そこには『出来る事・すべき事』があり、結果として熟達し『したい事(し続けたい事)』に変る。そして結果として、分相応、何らかの利益(りやく)が表れ、足るを知る。金満家になりたくて医学を学ぶ、成り金を目指して経営学を学ぶ、優雅な生活を思い描いて芸術に勤しむ・・・・。例外はあるにせよ、そんなことでは長続きしない。サラリーマンであれ、農業であれ同じこと。しかし、最近、その“当たり前”が拝金主義に圧倒されているようだ。そして、それ故、足るを知らぬ者が溢れ、世には不満が充満している。更に、拝金主義者が、現状に満足する“足るを知る者”に向上心や積極性が無いと揶揄し、“モチベーション論”という愚行を押し付ける考えが蔓延している。足るを知る、結果に不満を抱かないのが消極的だろうか?今・此処で“出来る事・すべき事”に全力を尽くす事が“消極的人生で、結果に不満を持たない事が“向上心が無いことだろうか。そもそも向上心とは“如何なる心”だと思っているのだろうか。己も“そう”なのであるが近年のアメリカで教育を受けた者の大半は自分が“功利主義者”であるという最も卑しい存在と化していることに気が付いていない。
 禅では“作務”を重視する。隠匿に価値を見出す。在野にあっても、その心は同じはず。
『可惜労而無功(惜しむべき労をして功なし)』という禅語がある。苦労をしても功は無く、ただ只管に労を重ねることを功という意味である。つまり、結果や効果を期待して行なう労はでは功は得られないということ。
我等『活人禅者』は、滅私、忘我、無心に、己に与えられた舞台で、己の才能を発揮し、一心不乱に一生を働き尽くす。『一日不作一日不食』、己の快・楽を求めない。
今日は、人を観て、己を振り返るチャンスがあった。誠に有り難い。正に我の外、全てが師。反面教師もまた教師。“反面教師”という存在も身近には多いが、みな偉大である。
高いつもりで低いのが教養・能力。低いつもりで高いのが欲望・報酬。理解して頂けますか?「あらゆる事について何事かを知り、何事かについてあらゆる事を知っている」を以て“教養人”を定義した学者がいたが、皆さんは何と考えますか?私達の知っている事は極めて少なく、知らない事は極めて多い。一生学んでも学び切ることなど無い。つまり、あらゆる事の何事も、あらゆる事を知り尽くすことも無い。我らは“愚”であり、“愚”をを自覚できてはじめて“智”となり、結果的に“賢”と呼ばれるのだ。
活人禅者諸君!心して生きようではないか。

慧智(050613)

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2005年06月12日

野狐禅和尚の辻説法『葬儀そして埋葬を思う』 №774

縁者の事故死に接し、通夜、葬儀の往復、托鉢をしながら思ったことがある。確かに、通夜・葬儀・回忌法要、そして埋葬には、それなりの根拠も現代的合理性もある。しかし、考えなくてはならないのは“誰の為の行事”なのかということである。そして、それにも増して“何故、仏式か”ということ。確かに、社会の凭れ合い、相互依存と前例踏襲による合理性は十分すぎるほど理解できるが・・・。禅僧の多くは、「通夜・葬儀・墓所など不要」と考える。しかし、現実には慣習に流される。それが“誰の為か”、思い遣りか、残された者の都合か、それとも・・・・。
 活人諸君、自分の通夜・葬儀・回忌・埋葬について決めていますか?それを誰に託していますか?。それとも“死は遺族への最期の奉公”と考え遺族に全てを依存しますか?確かに、死んでしまえば死者の当人である我々は何も解らない。と同時に、不垢不浄、不増不減、天国だ地獄だ浄土だなどという荒唐無稽な方便でも躍れない。我等“即心菩薩”には其々が其々の思いを実現するか、それとも拘らず・囚われず・偏らずと、「遺族の勝手にせよ」とするか。それとも即身成仏と洒落込んで山中で野垂れ死にするか。それら全てに拘らず、囚われず“野となれ山となれ”と今・此処を生き切るとするか。
 現代的は契約社会、自分の意志を自分の死後、自動的に実行されるような献体や相続、葬儀まで法的な効力がある“遺言信託”などもあるし、生前葬儀などもあるが、それも我々らしくないようにも思える。因みに、私は“遺言”に『通夜葬儀、回忌、墓所不要、所持品は全て勝手に処分し、負債を整理し残る預金、全ての資産は財団と寺に等分して寄附の事、その他は勝手たるべし』と書き残してある。
 “己の死”は縁者にどんな影響を与えるのだろうか。死は決して単純な感傷的心理的現象ではなく、現実論からみれば遺族・関係者の価値観やら人生設計、経営者であれば事業継承などを含む経済的問題、法律問題も絡む些か悩ましい“公的・私的両面”を持つ“一大事”である。
 まあ、個性豊かな活人諸君は、いろいろとお考えはあるだろうが、少なくとも一度は人生の締め括りをじっくりと考えてみて欲しいものである。
慧智(050612)

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2005年06月10日

野狐禅和尚の辻説法『梅雨入りしました』 №773

 いよいよ梅雨入り。これから4-50日は、植物が暑い夏に耐えられるようにと恵みの雨が降ります。
無門関に『春有百花秋有月 夏有涼風冬有月』、春に百花あり秋に月あり、夏に涼風あり冬に雪あり、とあります。自然とは実に“風流”ですね。
 人生にも自然と同様、雨の日も晴れの日もあるでしょう。それを自分の都合で“良い日、悪い日”というのは些か問題があります。まあ、正確な表現をすれば『都合の良い日、都合の悪い日』ということでしょう。同様に、天気に良し悪しはなく、どんな日でも“一生に一度の一日”です。晴耕雨読。長雨なら勉強が捗り、晴が続けば仕事が捗ります。降って良し晴れて良し。正に碧巌録に出典をもつ『日々是好日』。それを延長すれば無門関に出典を持つ『平常心是道』。更に延長すれば信心銘に出展する『万法一如』・・・・宝蔵録にある『天地と我と同根、万物と我と一体』。
 今日は、梅雨に学べば本来の面目に到達するということを坐りながら思ってください。勿論、言葉を使わずに思う、のは大前提です。コツは自分が“梅雨”に成り切るのです。できれば今日は外に出て、梅雨の雨を全身に浴びながら坐ると良いでしょう。濡れるというのは何か先祖還りしたような気分となり実に良いものです。
慧智(050610) 

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野狐禅和尚の辻説法『夜坐は目をカッチリと見開け』 №772

今日の夜明け、フト油断したのか、薬師堂の岩の上での坐禅中に居眠りをしてしまい、落ちた。幸い、打撲と擦り傷だけだったが、どうやら断崖を3メートルを頭から落ちたようだ。思い出せば15歳の春にも同じ様なことがあった。その時も「初志貫徹」を再確認した。私は、時には痛い目に遭わないと忘れていることがある。それは目的≒初志、目標≒隋縁(臨機応変)ということ。稼業ゆえに頭で忘れる事はなく、口にも自然に出る。しかし、忙しさ(心を亡う)故に、淡々と生きるという初志に埃が溜まるのだ。
 “野狐禅和尚”の由来である無門関第二則『百丈の野狐』の偈に「不落と不昧、両采一賽なり。不昧と不落、千錯万錯なり」とあります。第二則は『因果律』に関する公案で“因果一如”をトコトン体現させるもので、それを透過すると、本心から“苦楽一如”、今・此処を生き切ることに何の疑問も無くなる。
 15歳の春、師から与えられていたのが「如何なるか仏」。“無字”を透過した直後。眠れずに苦しんでいるのに居眠りして、岩場の夜坐で転落し鎖骨を折り全身打撲と擦り傷。元社員のことで40年振りに『理か情か』で苦しんでいた。そして、眠れぬままに居眠り。そして転落。そして『理情一如』、自然に任せる、と気付いた。最近は、誰も私を打たない。やはり、生涯一雲水でいなければ。打つ者がいなければ、己で己を打てば良い。今、左手、左足の打撲、擦過傷が警策代わり。やはり坐禅は素晴らしい。しかし、居眠りはいかん。夜坐こそ闇を睨みつけて坐らねばならない。そして闇を一体になって暁天を一体になれることを忘れまい。
 活人諸兄、ネット禅会でも『一如』を忘れることないように。
慧智(050610)

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2005年06月08日

野狐禅和尚の辻説法『戒+律=???』 №771

宗教の世界では、しばしば『戒律』という言葉が何気なく使われます。しかし、“戒”と“律”というのは本来は別のもので、私の場合は、“戒”は“してはいけない事”、“律”は“しなければならない事”と教えられました。言い換えると、“戒”は“道徳”に類似し、“律”は、“法律”に類似しているようです。つまり、一人の人間が“悟り(真理の修得)”へと至る“道”において自らが自らを縛るのが“戒”。自らが住まう社会でのその社会の秩序を維持する上での“決まり”が“律”といいうことになるでしょう。ですから、“戒”を破っても他人に“罰”を与えられる事は無く、己が己を罰するだけですが、“律”を破れば“罰”が与えられ、宗門や師匠から破戒僧として叱責されたり、場合によれば破門されます。
ところが、在家の社会では『戒+律』が逆転しているように思えます。例えば会社において、その組織の存在意義、有るべき姿は『理念』で“律”、その具現化した姿が『規則』で“戒”となっているように思えます。また、道徳、憲法、法律、慣習などなどに関しては、“戒”も“律”もゴチャ混ぜのようにも思えます。
さて、小生が研究し概念を整備した“マニュアル”という分野があります。ご案内のように“マニュアル”の語源は“マヌス≒手”、さらに辿れば“マナ≒欠くべからざるもの”という言葉に行き着き、この地球上に現存する3000弱の民族で使われている6000弱の言語の全てに、“マナ”という音が存在し、大半がその文化圏で『欠くべからざる何か』を示していました。例えば、マナー、マネー、眼・・・のようにです。そしてマニュアルも同じです。ですから、マニュアルを体系化する際、マインドマニュアル(心であり価値感の共有化)、テキストマニュアル(理由の体系化で合理性の証明)、そしてオペレーションマニュアル(行動の標準化)としました。つまり、『心・頭・体』といっても良いし『心・技・体』でもよいように整理しました。戒+律≒心+頭+体、と言うわけです。
さてさて、私達個人が属する企業や宗門のような社会、日本や中国というような国という概念世界では、平時においては心・頭・体の“全て”が相互に浸透した形で“常識≒組織構成員の大半(80%以上)が合意できる文化”が成立していました。しかし、昨今、“国際化≒異文化合同”が進み、嘗ての常識は“常識”としての意味を失ってきています。つまり、本来は、規則や法律の数が増え、行為を事細かに評価することが必要になるはずです。ところが、最近になって“アメリカ人”という概念が完成しだし“アメリカの常識”に意味を持ち出したアメリカなら理解できるのですが、国際化という現象の中で“常識”が意味を為さなくなってきた日本は、法律の数が増えることにより安定した社会が維持できるという合理的根拠に背を向け、明確な哲学を持たず、とても聡明とは言えない指導者が『規制緩和』を叫び企業犯罪、外国人犯罪、少年犯罪などなどが増えています。
そもそも、活人諸君。世界の理想は、“道徳(心の共有)”のみで法律(罰を伴う縛り)などを必要としない平和な世界でしょう。しかし、現実には“道徳”は排他的宗教(一神教)により分断され、権威を失っている状態で、法律を減らす、規制を緩和するというのは間違いではないだろうか。勿論、理想論としての『規制緩和≒道徳重視』は大賛成であり理想と思う。しかし、その前提は“道徳”の完全普及である。言い換えれば、教育の質的完成度の向上と規制緩和は相関関係になければならないのである。そうでなければ、教育は荒廃し、規制が緩和された世界の行き着く先は“無政府主義社会”になるのではないだろうか。
今日のネット禅会に入る前に、戒律の事、法律の事、道徳のことなどを自分なりに深く考え、坐禅が始まる時には“それ”を全て忘れ、ピタッと坐って欲しい。
慧智(050608)

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野狐禅和尚の辻説法『自画自賛』 №770

禅画の特徴は、絵が描いてあって、それを説明する言葉があることです。これを賛(さん)といいます。多くは、そこに描かれた絵の内容に賛同して、それを言葉で表現し、称えるものです。つまり、絵を描いた人と賛を付ける人が別なのですが、我らが白隠さんは、絵も賛も全て自作がほとんどです。これを「自画自賛」といいます・・・。自画自賛というと、“自惚れ”“ナルシスト”などを連想する人が最近は多いようですが、本来の意味は違いますよ。
さて、小拙の場合も自画自賛なのですが、それは白隠さんと異なり、絵だけでも言葉だけでも言い表せないところからの苦渋の選択で、何とも情けないものです。○一つで全てを表わす事が出来るようにと精進しているつもりですが、何せ根っからの愚者ですから、絵と文字と言葉をフルに動員しても足らずという始末。情けない。とは言え、私は“行動”で示していると“自画自賛”というか、居直っているのですが、朝一番でキツイ一発を電話で受けました。「和尚の作品の坊さんの顔は全て違うね。心が定まっていないんじゃない?」と。「確かに」と応じたが・・・。『本来無一物』『応無処住而生其心』『行雲流水』・・・とは書いてはあるが、返せなかった。
さてさて、「心をひとところに安住させず、フラフラもさせない」とは融通無碍、臨機応変と言えるだろうが、それには、心を何処におけば良いだろう。それこそ“無心”と答えたいだろうが、心という文字も言葉も絵も、そして態度にも表わさずに応えよ。さあ、活人諸君、応えよ!
慧智(050608)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

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2005年06月07日

野狐禅和尚の辻説法『悟は、理と情が止揚された状態』 №769

 多くの方は、「理と情の相克」に悩む。理は“道理”、情は“情状”、“相克”は拮抗する相対現象の他方が他方に克とうとする対立現象。正に、理と情が一歩も譲るまいとして対峙して動かない状態だろう。禅会会員が打ち明ける悩みは“それ”が多い。言い換えると“すべき事”と“したい事”との板ばさみ、ということも出来るし、理性と感情の対立とも言えるだろう。それは一聞すると“人間らしい”心の状態だと素直で未熟な人はいうだろう。一方、理を情に優先させてこそ人間だ、と道徳的で思い込みの強い人は言うだろう。
この二人が出会った時、理と情が対峙している姿だろう。翻って観れば理>情、情>理、理≒情というタイプが世の中には存在しているということだろう。しかし、現実には前出の3タイプではなく、もう1タイプである理と情を分別しないというのがある。これが『悟』である。以前にも話しただろうが『悟は無分別』であり、理と情を不可分不可同、紙の裏表としつつ、紙と観る見方である。少々異なるが『清濁併せ飲む』ことが出来て『達人』だと言われることがある。しかし、それは所謂“折衷案”という双方が“満足とも不満とも言えない状態”を演出しる力ではなく、双方ともに“満足”させる力を持ったひとの業である。前出したアナロジーから連想してもらえれば解るだろうが、『悟』とは下位構造をそのままに上位統合してしまう力だと言える。つまり『止揚(しよう)』する力で、世に言う『課題解決力』や『問題解決力』の究極の業である。対峙する善と悪を止揚すると“無心”となる。好と嫌を止揚すると“無心”となる。正と否を止揚すると“無心”となる。・・・これは、AかBかという一般的に言う答を出さないという消極的な態度ではなく、Aでもなく、BでもないとしてCを出すのでもない。“AであってBである”、AとBは同根であるということを見抜いて『AB=X』を提示することである。禅では「X」を無、つまり超二項対立、脱二元論、止揚論として、そんな野暮な言葉を使わずに心から心に伝えている。
つまり、『悟り』とは、何れかに偏らず、原因に囚われず、結果に拘らない心の状態を得ることなのだ。そしてそれを“無分別”と表わし、その心境で暮らす毎日が『日々是好日』、その状態が続いている姿が『無事是貴人』、貴人の心OSが『本来無一物』、それが『教外別伝』であり、その心を伝えるのが『以心伝心』『直指人心』で、それは『不立文字』だからである。そして、それが伝わった瞬間が『見性成仏』ということである。故に、止揚の業という“心のテクノロジー”という具体策を有した『悟り』こそ、仏、菩薩という生き方であり、本来、父母未生以前から備わる真理、己の外に仏なし、『即心即仏』なのである。以上は分別がましい表現であることは承知で、それを人を観て法を説く、つまり『方便』という。
 突き詰めると、拡散しても1、凝縮しても1、受容しても1、弁別しても1、保全しても1というのが真理なのである。・・・解るかな~。解らなければ坐ろう。解ると気持ちが良いぞ!
慧智(060607)

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2005年06月06日

野狐禅和尚の辻説法『一切の現象に囚われない≒安住しない≒自由≒無心即心』 №768

 沢庵和尚が重宝した金剛教に由来する『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』は、「まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし」と私は読む。意味は、「何か、何処かに安住することが無ければ、喜怒哀楽とは無縁な自由な心心が生まれる」というもの。つまり、行雲流水のように何事にも執着しない、其の瞬間瞬間の在り様を100%受け入れ、しかも、それに拘り囚われないのが我々本来の心と言える。現代風に言えば「前例・先例に縛られない」ということ。そして、“縛られない”と思う“縛られまい”とする心にも、また縛られないという心こそが、人生を真に謳歌する唯一の心とも言える。
とは言え、我心(我儘な心)という心が“苦”の根本であることを悟った上であることは言うまでも無い。この心境を頭で理解しようとするのは少々難しいだろうから、数々の公案に登場する。『己は無心だと、心に浮んだ瞬間、無心に囚われている』。魚が水の中に居て喉の渇きを嘆き、その誤りに悟って、水に感謝している心が生まれたならば、未だ無心とは言えない、ということ。全てを捨て切ったとする認識をも消えて、初めて行雲流水のような自由な心となる。
 この心境を、この心境を体験できていない者の頭に説明するのは難しい。
坐禅をして、禅堂で蜂に刺され、蜂に己の存在を悟られたことで、己の未熟を悟り、其の次の瞬間は痛みを忘れていたが、更に其の次の瞬間、直日から警策を受け・・・。
美しい物は美しいし、美味い物は美味いが、それを覚えていると、囚われたり拘ったりして、相対比較の世界に捕まる。
つまり、『来る者を拒み、去る者を追う』という修羅の如き人生ではなく、『来る者は拒まず、去る者は負わない』という菩薩の心境となり、その心境にも囚われないのが、悟りの境地だと言えるのではないかと思える。言い換えれば、『人間』とは“その中間”でゆれて居るが故に人間なのであろう。
蛇足になるが、畜生→餓鬼→修羅→人間→菩薩→天上→畜生・・・・。赤ん坊から、我儘坊や、身勝手少年、悩む青年、道徳的な壮年、慈悲深い老年、そして輪廻に戻る。そんな風にも思える。訳の解らぬまま個人で起業し、社長と言われながら労働者を兼務してムチャクチャに働き、労働から解放され、そこそこの規模の会社の社長となっても我欲に翻弄されて事業拡大・M&A、ふと“己の心”と行動のギャップに悩みつつも“大義”を掲げた大社長となり、会社を次世代に譲って会長となり大義の自縛から解放され、何が大事かが解るようになり、それをも捨て去り一日一日を農作業に専念し「一日不作一日不食」の心境となり、己より先に作物を持って恵まれない施設に陰徳を積み、“善い事をした”という邪心が起こって己の未熟さに気付き、『応無処住而生其心』の意味に得心し、『本来無一物』の意味が深まり、名も無く行き倒れて地に帰る・・・。そして朽ち、地の資源となり植物や微生物の生存に貢献し、『不生不滅』の世を流れる。
実は、この文字を書いた時のエピソードだが、それを書いた紙は、職人さんに指導を受けながら自分ですいた。無心とは言えない心境で作業していたが、出来上がり乾いたので紙の質を知ろうと思わず書いたのが『応無処住而生其心』。滲んだ。すると後ろから職人さんが「書いちゃダメべ~、売れなくなるズラ」と。そして、己の未熟さに気付く。『人生に練習など無い。今・此処の在り方が本番、試しは試しでないから試しと名付けた本番なのだ』
慧智(050606)

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2005年06月05日

野狐禅和尚の辻説法『人生の意義』 №767

毎日、忙しく動いていると、時として己にとって一番大事な“人生の意義”を見失うことがある。否、見失う以前に“発見”出来ない者もいる。
“発見”は『大悟』に似ている。つまり“気付き”という『小悟』の積み重ねが、一気に爆発する感じだ。それはそれまでの人生で味わったことの無い“快感”。言葉では言い表せられない。
 しかし、残念なことに“それ”を味わえる者は少ないだろう。それは、人間は動物ゆえ、動いている方が自然。しかし、本当に“己の思い”で動いている人がどれ程いるだろう。周囲の者を観ていると、“動かされている”という感がある。それは惰性であったり、外に動因があったりする。つまり、“己の人生の意義”が解って、主体的に、己の主人を己として己の道を歩んでいるとは、とても思えない。皆が大学に行くから自分も行く。皆が金儲けに走るから自分も走る。皆がサッカーを見るから自分も観る。・・・・・。
つい先日、高校の授業を引き受けた時、一人の生徒が「先生、何故勉強しなければならないのですか」と問うてきた。どこの親でも答えるであろう、当然と言えば当然と思っていた答を返した。「生き方の選択肢、人生の可能性を大きくするためだろ」「人間は年を取るから、肉体の可能性は低減するが、心の可能性は死ぬまで拡大する」「勉強とは可能性を拡大することだろ」「今、君がした質問も、勉強したから出来るようになったんじゃないか?」「違うかい?」。すると、「家では良い大学に入るためとしか言わない・・・」。何故か悲しげ。そこで「ご両親は解っているが、君に解り易いと思って目の前の目標を話しているんだろうよ」、と話しながら、最近の家庭では“目標優先、目的喪失”なのかな、そんな思いが頭を過ぎった。
人生の意義は教わるものでも、教えるものでもなく、“己で気付く”こと。だから人生には“個性”がでる。教え込まれれば画一化し、教われば縛られる。“気付く”以外に“自由”という『自らの存在の理由』には到達しない。しかし、自らの存在理由を発見するのは、並み大抵の気付きではないだろう。言い換えれば、小さな気付きの積み重ねが“発見(大悟)”という爆発を生むのだ。そのためには、毎日毎日、一瞬一瞬を真剣に生きることが大切であり、専ら学ぶ時代には全てを師として真剣に学び切るしかない。学びが多くなれば視野が広がり、選択肢が増えると同時に、大きな流れが見えてくるだろう。それが俗に言う『道』である。道には必ず目的地と目標地がある。
人生の意義とは、己固有の道を発見し、一日一日を一生と見立てて歩み続けることだろう。道が解れば、キョロキョロせずに『足下』見て一歩一歩を確実に歩いていれば、ふと気が付けば“ゴール直前”ということになる。
昭和45年辺りまでは、ほとんど家に、その家らしい教育、その学校らしい教育があったと記憶している。しかし、昨今、家にも、学校にも“教育”が無くなったのかもしれない。教育とは“己の本性”を自覚させる手段であり、己の本性に出逢って“己は自由”を得る。つまり、己が己の主人、主人公として生きられる。主人公は“動く”のであり、“動かされる”ことはない。
話が右往左往になったが、『人生の意義』を子供達に気付かせるのは“大人”の役割。これが解らないと、人が大学へ行くから自分も行く。人が就職するから自分も就職する・・・親が受験しろというから受験する。みんなが結婚するから自分も結婚する。一体、誰のための人生なんだろう。
己の本性、目的地はどこか。見えないから、見失ったら、再確認したいなら、一度立ち止まって、自分の方角を見定めて、それから動き出してもおそくはない。
“一度立ち止まる”、つまり“静かに考えて見る”、それが一般人の坐禅だ。言い換えれば、“人生の意義”を問いただして、発見すること。それが坐禅と考えても良いだろう。
ところで、諸君!。己の存在意義を見出し、“活人”としてイキイキと生きているだろうね。そうでなければ、坐りましょう。坐れば必ず雲は晴れる。濃い雲、薄い雲、雲にも数々あるだろうが、晴れない雲、切れない雲は無いのだ。
慧智(050605)

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2005年06月02日

野狐禅和尚の辻説法『辻説法の展示会』 №766

 活人禅会の会員有志のお力で、拙僧の気付きを一枚のメモとして書き溜めた『備忘録』が、6月30日まで銀座書斎倶楽部(日比谷線東銀座駅から2分、みゆき通りと昭和通りの交差点で蕎麦屋さんの隣)で展示して頂いています。禅僧の墨蹟などという立派な物ではなく、一日一日の気付きを、その都度、電車の中、自宅、禅堂などなど場所を選ばずに書いてきたものが、気が付けば数百点溜まっていました。今回というか、最初で最後だと思いますが、その内から、ランダムに70点ほどが展示されています。しかし、自分としては“心の裸”をさらすという羞恥心を克服する修行のようで、正直、“未熟をさらす”のように思え、修行が足りないのか、展示場に足が向きません。しかし、会員同士の連絡で展示を知られた方から、「和尚、水臭いよ」と言われましたので、本日、ここで“恥さらし”のご案内を致します。
なお、どうやら私達の活動を応援してくださるために頒布して頂いているようですが、『備忘録』は私自身の気付きの記録であり芸術作品でもなければ、墨蹟でもありませんし、元来は時期が来れば焚付けに使かうか障子の破れを塞ぐために使うもので、ご覧になって頂けるだけで十分です。しかし、仮にお求め頂くような奇特な方があれば、その使途を明らかにすべきですのでお話しておきます。現在、有志の方々とともに、チェーンソーを持ち、ユンボを操り、南伊豆に、大自然の中で“作務(農業)と修行”をより多くの方に体験して頂けるように、菜根譚という村と禅堂を建設しているので、その費用の足しとしての“ご浄財”と、大子の寺の修復費用に使わせて頂きますことをお約束します。
さて、今日の辻説法に入ります。
人間には“個性”があります。その個性により“縁”が生じ、因→縁→果という自然法則に随い“今・此処”があります。勿論、どんな家に生まれたのか、どんな体質・健康状態か、どんな教育を受けたのか、何をして働いているのか・・・などの自分では如何ともしがたかった“既得”に準じることもあるでしょう。 しかし、『因果一如』の言葉が示すとおり、生れおちてから死ぬまでの人間生活において、全ての原因は例外なく過去の結果であり、誰一人として因果から逃れることはできません。ですが、一瞬前の過去、一瞬後の未来は、“縁”で繋がって行きます。ですから、“今”を変えれば“明日”は変わりだすのです。それが『善因善果』を確認できる方法です。しかし、善果を期待して善因をつくろうとする下衆な考えはいけませんし、善果を生むはずが無いのです。『因』は生き方です。ですから『果』も生き方です。過去の生き方が未来の生き方、死に方に投影するのです。しかし、それは数学的表現でいう“相関関係”は成り立たず、『受止め方』なのです。例えば、コップの水を眺めて「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うかで、次の意思決定は変わりますし、同時に“縁”が変わります。キリスト教という懺悔は、罪の認識の告白でありますが、仏教における懺悔は、己の生存は他の犠牲の上に成り立って居るという認識から、今、己が生きてということは、他を犠牲にしているということに対する確認であり、それを以て“利他”に生き、無駄な殺生を戒める行為です。私たち人間は、何の為に生きているのでしょうか。理由など深く考えずとも、生きて居るそのこと自体が“目的”でしょう。ですから、森羅万象全てに感謝し、相互に助け合って生きてゆくのが自然です。木を切れば植林するように、出せば入れるのです。入れば出すのです。決して留めないのです。それが仏教でも、科学でも同じで、“経済”の本質なのです。つまり、全ては相互依存であり相互補完なのであり、多を無視した“自律や自立”など存在しません。言い換えれば、『助け合って生きてゆく』ことが真理なのです。ですから『自利利他』と言われる様に、“してあげる”なんて“恩ぎせがましい”考えは邪心なのです。今日、会員からボランティアという言葉を聞きましたが、それは思い上がりです。禅者であれば『助け合いは当然』であり、それを表明するなど言語道断。『陰徳の心』を失うことです。
さて、この先は、今日のネット禅会で、言葉を使わずに考えてみてください。詳しくは、以下のURLへ
慧智(050602)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 01:54 | コメント (0)

 
活人禅宗・両忘活人禅会
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