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2005年06月28日

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

 “主”という文字は、燭台の上に置かれた灯火を描いた象形文字。文字をジット見ていると、土や台の上の平皿が炎を上げる様子とも思える。今日の一日は東奔西走、気温は30度超え、湿度は80%であった。今日は公立学校の教員・管理職に“経営と管理”、教育の心についてお話をする予定。その他重要な会見などがいくつもあり、昨夜からメールの返信、原稿書き、今日の講演のレジメ作り、**法人の申請書類作成、**法人の事業説明書・・・と寝る時間は無かった。『忙』という文字は“心を亡くす”という事態で、『主』となっていない事の証、と早朝のおつとめの後、坐禅をしていると蝋燭の灯(火)が『随所作主 立処皆真』、随所に主となれば、りっしょ、皆、真なり」という臨済録の示衆にある偈が心を過ぎった。臨済大和尚は私の中では生きているし、私の外でも生きている。そして『生死一如』を示してくれている。和尚の『主』の解釈は、主体性があるとか、悟っているとか、そんな訳のわからない意味で使っているのでは『自然の其処に在る』と意味だろう。禅の心は“計らいの心を捨てる事”、今・此処で全ての事実を事実として全面的に受け止める“野の草”のような在り方を真実の生き方として捕らえている。その心が体に表れれば“無事”、心は“平常”。臨済和尚の心を解釈した大応国師は「立処皆真なれば、方に随って主となる」というのがある。意味は、真(理)は、固定されたものではなく縁に随い変化するので、今・此処の一瞬一瞬が真実の場であり、場が真実」といことだろう。
それを受けて、小衲が思うに「全力で生き切っている今・此処こそ真理の具現であり、そこ、それは自ずから然るべくある」。どんな処でもどんな状態でも、それらをドンと受け止め自然体で生きているのが“主”なのだ。主となってい生きるには難行苦行など不要。今・此処を無批判に受け止めて、気張らずに全力を出し切って生きるだけのこと。
 そろそろ外出時間なので筆を置くが、今日も『日々是好日、随所作主 立処皆真、無事是貴人、松樹千年翠』と行こう。
慧智(050628)

投稿者 echi : 2005年06月28日 07:51

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