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2005年06月22日

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

 今日、然る会合の前、10年ぶりに元総理大臣のN氏と思い出話しから韓国問題を切っ掛けに『禅と神道』に関する雑談をした。ほんの2-30分のコーヒータイムだったが、彼の神道感は従前の理解に反して、靖国に代表される現在にような国家神道感ではなく、神話や自然感に基づくもので、彼のライフスタイルの一部である『禅』、彼の禅に対する理解と矛盾していない事が解った。また、“憂国の士”としての彼の懸念が『日本人の宗教心の希薄化』であることを聞き、多いに同感を覚えた。なお、“老兵は死なず~”ではあるが、青雲塾で共に語った頃より“マイルド”になった事は否めないが、見方によれば『悟無好嫌』、何ものにも縛られない心を得たのだろう。政治家や経営者の坐禅とは“そういう”ものなのだろう。それに接するに、現役の政治家は辛いだろうな、と思えた。前出の『悟無好嫌』は、信心銘にある言葉で「さとれば、こうお、なし」と読む。意味は“文字通り”。好き嫌などの感情に左右されないのが“悟り”と言っても言いし、悟れば、自ずから好き嫌いという二律背反、二項対立という幻想が消滅して世界が無辺となると思っても良いだろう。全ての現象は流動的で実体は無い。左右があれば二分、天地あ¥があれば二分。天地左右無きは無限なのである。言い換えれば好き嫌いがあれば世界を狭くする、ということ。即ち凡夫で、無ければ聖人ということだ。そして、この凡夫・聖人という区別を忘れた世界こそ、真に自由な“浄土”、此の世そのものが蓮華国で、“死して浄土へ、地獄へ”という方便からも解放され、“魂”などという訳のわからない観念からも解放され、靖国に参るも良し、参らぬも良し、“そこ”という場所には何も無く、全ては心の内にあるのだからとなり、世界は広がるだろうに。小泉君は気の毒だな、と・・・・。そして、多数決や量という“数”の世界が幻想だと思うようになったよ、と。正に“然り”である。最後に「しかし、彼は軽いな」という言葉は重かった。考えてみれば、“宗教心”の無い人間は確かに“軽い”。
慧智(050621)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 2005年06月22日 00:19

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