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2005年06月19日

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

 久しぶり知人が訪ねてきた。玄関先で、行き成り、ぶっきら棒に「“無心”とはどういう心か」と挨拶された。一瞬、怯んだ。「ムーーー」と言っても彼には解らないことは解ってたので、「主観的でも客観的でもない心だ」と返したが・・・「それは何だ」と。
 禅を理解する言葉に『両忘』という表現がある。そもそもの意味は『対立を離れる』ということである。しばしば『主体(能見の我)』と『客体(所見の彼)』は、表裏一体、不可分・不可同。即ち“一如”こそが全てということ。『能所両忘』と書いても良い。坐禅が求める境涯である。己と自然、我と仏、善と悪、好と嫌・・・何でも良いが、一般論として対峙する概念、其れが相互浸透し一体となる心境だ。まあ、それを『父母未生以前の本来の己』というんだが・・・。
 心とは不思議な現象だ、応えに対し更なる相対的質問を投げかねられると、所謂“フォーカッシング”という質疑応答形式から逸脱しているゆえに戸惑う。戸惑うと、考える。これは野狐の宿命。殴ってしまえば良いはず。何故なら、無心は消極的な戸惑いではなく、積極的な戸惑いに近い心境だからである。
 禅の心を言葉と頭で理解しようとする者は、禅を知ろうとしない者より、禅から遠ざかる、というのが私の実感だ。それ故、この手の質問は苦手だ。
 まあ、上がれよ。ところで、どうしたんだ。
 いや、昨日、お前達のHPでやっているネット禅会とやらで坐ったんだ。そうしたら、“宙”に浮くような感じで、気持ちよくて、気が付いたら1時間たっていたんだ。なるほど。その気分こそ“無心”なのかと、どうしても知りたくてな・・。なるほど。時間感覚が無くなるというのは正に“三昧”という状態で起こるんだ。しかし、“宙に浮く”というのは怪しいな。宙に浮くという認識が有る以上、主と客は融合していないだろ。確かに。じゃあ、『無心』とどういう気分なんだ。簡単に言えば、何かに“一心不乱”に打ち込んでいる状態だよ。だから「これが無心だ」と気が付くわけがない。言い換えると「無心」になった、と思っている内は、無心とは縁が無いんだ。ところで、何で無心を知りたくなったんだ。だって、お前、自分で癌を治したろ。まあ。実は・・・・。この先は割愛する。
 何かがあって“無心”を求めるのは、死後に戒名を授かるくらい滑稽。悟って旅立つのであり、旅立って悟れる訳が無い。そもそも皆、例外なく“仏”。自分が“仏”であることに気が付いているか、いないか。三昧、無心何でも良いが、それを体験するのが“悟り”と言っても過言ではない。何れにしろ、何処であれ、何時であれ、一日に一回、一日一生の締め括りに坐るのは素晴らしい。彼も近々、禅会の門無き門を通るだろう。
慧智(050619)

投稿者 echi : 2005年06月19日 00:23

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