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2005年06月18日

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

 達磨大和尚の6世前に摩拏羅尊者(まどらそんじゃ)の偈に『心隋万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』というものがある。読みは「心は万鏡に随って転じ、転処は実によく幽なり。流れに随って性を認得せば、喜びも無くまた憂いも無し」と私は読む。意味は、ユーストレス状態の心は事実を事実として受け取り臨機応変に動いて喜怒哀楽に左右されずに流れを見失わない。つまり、ディストレス状態の心は拘り囚われ偏りが起こり自由を失い苦しむものと解釈すれば良いだろう。つまり、日常生活における私達の心で大きなマイナス要因はストレスマネージメントの失敗なのだ。
 坐禅は究極のストレスマネージメント手法と言われる場合があるし、ストレス耐性の高い心を実現する唯一の手法と欧米では言われる。まあ、目的・目標・手段を分けて考える文化の国の解釈らしく、我が国の解釈である『坐禅はそれ自身が目的・目標・手段』という理解には及ばないが、現代人の功利主義は満足できるのだろう。モントリオールのストレス研究所時代、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエ博士に何度も尋ねられたのも“この”部分である。彼は“坐禅”はセラピー手法として宗教と分離すれば世界的な方法論となり小林はノーベル症も可能だと言われた。其のたびに「坐禅と禅(宗教)は表裏一体で、人間から皮膚の全てを剥ぎ取りコートとして商品にしろというような考えは危険極まりない発想だ」と逆らい続けたが、今でも其の考えは変わらない。
 人間にとって重要なのは“真理”であり現象ではない。心の本性は前出の第一句である『心隋万境転』という心の本質の理解体現である。つまり『自由』と『自在』の心である。それが『無心』であり、『無我』である。この部分はキリスト教文化に汚染されていると先ず絶対に理解できないらしい。アイデンティティ(自我)という幻想を捨てた心が本性であり、それがアイデンティティであるというのは欧米人にとって公案以上のハードルなのだ。それが彼ら欧米人にとっては、そこにある“無”であり“空”が唯一の切り口なのだが・・・。
活人禅者よ、『日々是好日』にしても『平常心是道』にしても、ストレスマネージメントの成功した姿であることは機会ある毎に話しているが、それそのものが喜怒哀楽による心身
の自虐から解放され、自然体で生きていることこそが我々の目的で目標で手段であり、食事、呼吸、排泄と同じ次元で、坐禅が日常生活の欠くべからざる要素であることは容易に理解できているだろう。しかし、実践できているだろうか?一日20分で良いから坐れているだろうか。俗人は個性から逃れる事は出来ない。個性という自縛を乗り越えるには坐禅しかないが、一般的な社会生活では、個性を捨てる以前に先ずは活かす事が大切。自分の生得的な強味・弱味を知って強みにストレスをかける。するとそれは向上心・有能感へと向かう。しかし、誤って弱みにストレスが加われば、それは焦燥感・劣等感へと向う。活人は、達人への過程。菩薩道の助走である人間道と言っても過言ではない。その道を悠々と歩くには“ストレスマネージメント”の方法論が必要だろう。それは坐禅をおいて他には無い。兎に角、一日一回。しっかり坐ろう。
慧智(050618)

投稿者 echi : 2005年06月18日 08:26

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