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2005年06月14日

野狐禅和尚の辻説法『見返りを求めず』 №775

 労働には報酬金を求め、ボランティアには充実感や感謝される事を求めるといった事が多い。何とも情けない時代である。報酬にしても充実感にしても、『結果成自然』、結果として自ずから然るべく成るのであって、前提や目標にすべきではないだろう。『働く・尽くす』のは、其れ自身が目的であり、目標のはず。給料の為に働く、感謝されたくて働くなどは“愚の骨頂”であり、大半の人は“それ”を十分に理解しているはず。親が子を育ててるのに将来の資金源となる事を求めるだろうか。只管に子の必要を満たしているに過ぎない。仕事にしても、縁あって力を発揮できる場が与えられ、職務が割り当てられる。そこには『出来る事・すべき事』があり、結果として熟達し『したい事(し続けたい事)』に変る。そして結果として、分相応、何らかの利益(りやく)が表れ、足るを知る。金満家になりたくて医学を学ぶ、成り金を目指して経営学を学ぶ、優雅な生活を思い描いて芸術に勤しむ・・・・。例外はあるにせよ、そんなことでは長続きしない。サラリーマンであれ、農業であれ同じこと。しかし、最近、その“当たり前”が拝金主義に圧倒されているようだ。そして、それ故、足るを知らぬ者が溢れ、世には不満が充満している。更に、拝金主義者が、現状に満足する“足るを知る者”に向上心や積極性が無いと揶揄し、“モチベーション論”という愚行を押し付ける考えが蔓延している。足るを知る、結果に不満を抱かないのが消極的だろうか?今・此処で“出来る事・すべき事”に全力を尽くす事が“消極的人生で、結果に不満を持たない事が“向上心が無いことだろうか。そもそも向上心とは“如何なる心”だと思っているのだろうか。己も“そう”なのであるが近年のアメリカで教育を受けた者の大半は自分が“功利主義者”であるという最も卑しい存在と化していることに気が付いていない。
 禅では“作務”を重視する。隠匿に価値を見出す。在野にあっても、その心は同じはず。
『可惜労而無功(惜しむべき労をして功なし)』という禅語がある。苦労をしても功は無く、ただ只管に労を重ねることを功という意味である。つまり、結果や効果を期待して行なう労はでは功は得られないということ。
我等『活人禅者』は、滅私、忘我、無心に、己に与えられた舞台で、己の才能を発揮し、一心不乱に一生を働き尽くす。『一日不作一日不食』、己の快・楽を求めない。
今日は、人を観て、己を振り返るチャンスがあった。誠に有り難い。正に我の外、全てが師。反面教師もまた教師。“反面教師”という存在も身近には多いが、みな偉大である。
高いつもりで低いのが教養・能力。低いつもりで高いのが欲望・報酬。理解して頂けますか?「あらゆる事について何事かを知り、何事かについてあらゆる事を知っている」を以て“教養人”を定義した学者がいたが、皆さんは何と考えますか?私達の知っている事は極めて少なく、知らない事は極めて多い。一生学んでも学び切ることなど無い。つまり、あらゆる事の何事も、あらゆる事を知り尽くすことも無い。我らは“愚”であり、“愚”をを自覚できてはじめて“智”となり、結果的に“賢”と呼ばれるのだ。
活人禅者諸君!心して生きようではないか。

慧智(050613)

投稿者 echi : 2005年06月14日 08:33

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