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2005年06月12日

野狐禅和尚の辻説法『葬儀そして埋葬を思う』 №774

縁者の事故死に接し、通夜、葬儀の往復、托鉢をしながら思ったことがある。確かに、通夜・葬儀・回忌法要、そして埋葬には、それなりの根拠も現代的合理性もある。しかし、考えなくてはならないのは“誰の為の行事”なのかということである。そして、それにも増して“何故、仏式か”ということ。確かに、社会の凭れ合い、相互依存と前例踏襲による合理性は十分すぎるほど理解できるが・・・。禅僧の多くは、「通夜・葬儀・墓所など不要」と考える。しかし、現実には慣習に流される。それが“誰の為か”、思い遣りか、残された者の都合か、それとも・・・・。
 活人諸君、自分の通夜・葬儀・回忌・埋葬について決めていますか?それを誰に託していますか?。それとも“死は遺族への最期の奉公”と考え遺族に全てを依存しますか?確かに、死んでしまえば死者の当人である我々は何も解らない。と同時に、不垢不浄、不増不減、天国だ地獄だ浄土だなどという荒唐無稽な方便でも躍れない。我等“即心菩薩”には其々が其々の思いを実現するか、それとも拘らず・囚われず・偏らずと、「遺族の勝手にせよ」とするか。それとも即身成仏と洒落込んで山中で野垂れ死にするか。それら全てに拘らず、囚われず“野となれ山となれ”と今・此処を生き切るとするか。
 現代的は契約社会、自分の意志を自分の死後、自動的に実行されるような献体や相続、葬儀まで法的な効力がある“遺言信託”などもあるし、生前葬儀などもあるが、それも我々らしくないようにも思える。因みに、私は“遺言”に『通夜葬儀、回忌、墓所不要、所持品は全て勝手に処分し、負債を整理し残る預金、全ての資産は財団と寺に等分して寄附の事、その他は勝手たるべし』と書き残してある。
 “己の死”は縁者にどんな影響を与えるのだろうか。死は決して単純な感傷的心理的現象ではなく、現実論からみれば遺族・関係者の価値観やら人生設計、経営者であれば事業継承などを含む経済的問題、法律問題も絡む些か悩ましい“公的・私的両面”を持つ“一大事”である。
 まあ、個性豊かな活人諸君は、いろいろとお考えはあるだろうが、少なくとも一度は人生の締め括りをじっくりと考えてみて欲しいものである。
慧智(050612)

投稿者 echi : 2005年06月12日 10:44

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