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2005年06月08日

野狐禅和尚の辻説法『戒+律=???』 №771

宗教の世界では、しばしば『戒律』という言葉が何気なく使われます。しかし、“戒”と“律”というのは本来は別のもので、私の場合は、“戒”は“してはいけない事”、“律”は“しなければならない事”と教えられました。言い換えると、“戒”は“道徳”に類似し、“律”は、“法律”に類似しているようです。つまり、一人の人間が“悟り(真理の修得)”へと至る“道”において自らが自らを縛るのが“戒”。自らが住まう社会でのその社会の秩序を維持する上での“決まり”が“律”といいうことになるでしょう。ですから、“戒”を破っても他人に“罰”を与えられる事は無く、己が己を罰するだけですが、“律”を破れば“罰”が与えられ、宗門や師匠から破戒僧として叱責されたり、場合によれば破門されます。
ところが、在家の社会では『戒+律』が逆転しているように思えます。例えば会社において、その組織の存在意義、有るべき姿は『理念』で“律”、その具現化した姿が『規則』で“戒”となっているように思えます。また、道徳、憲法、法律、慣習などなどに関しては、“戒”も“律”もゴチャ混ぜのようにも思えます。
さて、小生が研究し概念を整備した“マニュアル”という分野があります。ご案内のように“マニュアル”の語源は“マヌス≒手”、さらに辿れば“マナ≒欠くべからざるもの”という言葉に行き着き、この地球上に現存する3000弱の民族で使われている6000弱の言語の全てに、“マナ”という音が存在し、大半がその文化圏で『欠くべからざる何か』を示していました。例えば、マナー、マネー、眼・・・のようにです。そしてマニュアルも同じです。ですから、マニュアルを体系化する際、マインドマニュアル(心であり価値感の共有化)、テキストマニュアル(理由の体系化で合理性の証明)、そしてオペレーションマニュアル(行動の標準化)としました。つまり、『心・頭・体』といっても良いし『心・技・体』でもよいように整理しました。戒+律≒心+頭+体、と言うわけです。
さてさて、私達個人が属する企業や宗門のような社会、日本や中国というような国という概念世界では、平時においては心・頭・体の“全て”が相互に浸透した形で“常識≒組織構成員の大半(80%以上)が合意できる文化”が成立していました。しかし、昨今、“国際化≒異文化合同”が進み、嘗ての常識は“常識”としての意味を失ってきています。つまり、本来は、規則や法律の数が増え、行為を事細かに評価することが必要になるはずです。ところが、最近になって“アメリカ人”という概念が完成しだし“アメリカの常識”に意味を持ち出したアメリカなら理解できるのですが、国際化という現象の中で“常識”が意味を為さなくなってきた日本は、法律の数が増えることにより安定した社会が維持できるという合理的根拠に背を向け、明確な哲学を持たず、とても聡明とは言えない指導者が『規制緩和』を叫び企業犯罪、外国人犯罪、少年犯罪などなどが増えています。
そもそも、活人諸君。世界の理想は、“道徳(心の共有)”のみで法律(罰を伴う縛り)などを必要としない平和な世界でしょう。しかし、現実には“道徳”は排他的宗教(一神教)により分断され、権威を失っている状態で、法律を減らす、規制を緩和するというのは間違いではないだろうか。勿論、理想論としての『規制緩和≒道徳重視』は大賛成であり理想と思う。しかし、その前提は“道徳”の完全普及である。言い換えれば、教育の質的完成度の向上と規制緩和は相関関係になければならないのである。そうでなければ、教育は荒廃し、規制が緩和された世界の行き着く先は“無政府主義社会”になるのではないだろうか。
今日のネット禅会に入る前に、戒律の事、法律の事、道徳のことなどを自分なりに深く考え、坐禅が始まる時には“それ”を全て忘れ、ピタッと坐って欲しい。
慧智(050608)

投稿者 echi : 2005年06月08日 01:50

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