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2005年06月07日

野狐禅和尚の辻説法『悟は、理と情が止揚された状態』 №769

 多くの方は、「理と情の相克」に悩む。理は“道理”、情は“情状”、“相克”は拮抗する相対現象の他方が他方に克とうとする対立現象。正に、理と情が一歩も譲るまいとして対峙して動かない状態だろう。禅会会員が打ち明ける悩みは“それ”が多い。言い換えると“すべき事”と“したい事”との板ばさみ、ということも出来るし、理性と感情の対立とも言えるだろう。それは一聞すると“人間らしい”心の状態だと素直で未熟な人はいうだろう。一方、理を情に優先させてこそ人間だ、と道徳的で思い込みの強い人は言うだろう。
この二人が出会った時、理と情が対峙している姿だろう。翻って観れば理>情、情>理、理≒情というタイプが世の中には存在しているということだろう。しかし、現実には前出の3タイプではなく、もう1タイプである理と情を分別しないというのがある。これが『悟』である。以前にも話しただろうが『悟は無分別』であり、理と情を不可分不可同、紙の裏表としつつ、紙と観る見方である。少々異なるが『清濁併せ飲む』ことが出来て『達人』だと言われることがある。しかし、それは所謂“折衷案”という双方が“満足とも不満とも言えない状態”を演出しる力ではなく、双方ともに“満足”させる力を持ったひとの業である。前出したアナロジーから連想してもらえれば解るだろうが、『悟』とは下位構造をそのままに上位統合してしまう力だと言える。つまり『止揚(しよう)』する力で、世に言う『課題解決力』や『問題解決力』の究極の業である。対峙する善と悪を止揚すると“無心”となる。好と嫌を止揚すると“無心”となる。正と否を止揚すると“無心”となる。・・・これは、AかBかという一般的に言う答を出さないという消極的な態度ではなく、Aでもなく、BでもないとしてCを出すのでもない。“AであってBである”、AとBは同根であるということを見抜いて『AB=X』を提示することである。禅では「X」を無、つまり超二項対立、脱二元論、止揚論として、そんな野暮な言葉を使わずに心から心に伝えている。
つまり、『悟り』とは、何れかに偏らず、原因に囚われず、結果に拘らない心の状態を得ることなのだ。そしてそれを“無分別”と表わし、その心境で暮らす毎日が『日々是好日』、その状態が続いている姿が『無事是貴人』、貴人の心OSが『本来無一物』、それが『教外別伝』であり、その心を伝えるのが『以心伝心』『直指人心』で、それは『不立文字』だからである。そして、それが伝わった瞬間が『見性成仏』ということである。故に、止揚の業という“心のテクノロジー”という具体策を有した『悟り』こそ、仏、菩薩という生き方であり、本来、父母未生以前から備わる真理、己の外に仏なし、『即心即仏』なのである。以上は分別がましい表現であることは承知で、それを人を観て法を説く、つまり『方便』という。
 突き詰めると、拡散しても1、凝縮しても1、受容しても1、弁別しても1、保全しても1というのが真理なのである。・・・解るかな~。解らなければ坐ろう。解ると気持ちが良いぞ!
慧智(060607)

投稿者 echi : 2005年06月07日 01:52

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