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2005年06月06日

野狐禅和尚の辻説法『一切の現象に囚われない≒安住しない≒自由≒無心即心』 №768

 沢庵和尚が重宝した金剛教に由来する『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』は、「まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし」と私は読む。意味は、「何か、何処かに安住することが無ければ、喜怒哀楽とは無縁な自由な心心が生まれる」というもの。つまり、行雲流水のように何事にも執着しない、其の瞬間瞬間の在り様を100%受け入れ、しかも、それに拘り囚われないのが我々本来の心と言える。現代風に言えば「前例・先例に縛られない」ということ。そして、“縛られない”と思う“縛られまい”とする心にも、また縛られないという心こそが、人生を真に謳歌する唯一の心とも言える。
とは言え、我心(我儘な心)という心が“苦”の根本であることを悟った上であることは言うまでも無い。この心境を頭で理解しようとするのは少々難しいだろうから、数々の公案に登場する。『己は無心だと、心に浮んだ瞬間、無心に囚われている』。魚が水の中に居て喉の渇きを嘆き、その誤りに悟って、水に感謝している心が生まれたならば、未だ無心とは言えない、ということ。全てを捨て切ったとする認識をも消えて、初めて行雲流水のような自由な心となる。
 この心境を、この心境を体験できていない者の頭に説明するのは難しい。
坐禅をして、禅堂で蜂に刺され、蜂に己の存在を悟られたことで、己の未熟を悟り、其の次の瞬間は痛みを忘れていたが、更に其の次の瞬間、直日から警策を受け・・・。
美しい物は美しいし、美味い物は美味いが、それを覚えていると、囚われたり拘ったりして、相対比較の世界に捕まる。
つまり、『来る者を拒み、去る者を追う』という修羅の如き人生ではなく、『来る者は拒まず、去る者は負わない』という菩薩の心境となり、その心境にも囚われないのが、悟りの境地だと言えるのではないかと思える。言い換えれば、『人間』とは“その中間”でゆれて居るが故に人間なのであろう。
蛇足になるが、畜生→餓鬼→修羅→人間→菩薩→天上→畜生・・・・。赤ん坊から、我儘坊や、身勝手少年、悩む青年、道徳的な壮年、慈悲深い老年、そして輪廻に戻る。そんな風にも思える。訳の解らぬまま個人で起業し、社長と言われながら労働者を兼務してムチャクチャに働き、労働から解放され、そこそこの規模の会社の社長となっても我欲に翻弄されて事業拡大・M&A、ふと“己の心”と行動のギャップに悩みつつも“大義”を掲げた大社長となり、会社を次世代に譲って会長となり大義の自縛から解放され、何が大事かが解るようになり、それをも捨て去り一日一日を農作業に専念し「一日不作一日不食」の心境となり、己より先に作物を持って恵まれない施設に陰徳を積み、“善い事をした”という邪心が起こって己の未熟さに気付き、『応無処住而生其心』の意味に得心し、『本来無一物』の意味が深まり、名も無く行き倒れて地に帰る・・・。そして朽ち、地の資源となり植物や微生物の生存に貢献し、『不生不滅』の世を流れる。
実は、この文字を書いた時のエピソードだが、それを書いた紙は、職人さんに指導を受けながら自分ですいた。無心とは言えない心境で作業していたが、出来上がり乾いたので紙の質を知ろうと思わず書いたのが『応無処住而生其心』。滲んだ。すると後ろから職人さんが「書いちゃダメべ~、売れなくなるズラ」と。そして、己の未熟さに気付く。『人生に練習など無い。今・此処の在り方が本番、試しは試しでないから試しと名付けた本番なのだ』
慧智(050606)

投稿者 echi : 2005年06月06日 01:53

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