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2005年06月05日

野狐禅和尚の辻説法『人生の意義』 №767

毎日、忙しく動いていると、時として己にとって一番大事な“人生の意義”を見失うことがある。否、見失う以前に“発見”出来ない者もいる。
“発見”は『大悟』に似ている。つまり“気付き”という『小悟』の積み重ねが、一気に爆発する感じだ。それはそれまでの人生で味わったことの無い“快感”。言葉では言い表せられない。
 しかし、残念なことに“それ”を味わえる者は少ないだろう。それは、人間は動物ゆえ、動いている方が自然。しかし、本当に“己の思い”で動いている人がどれ程いるだろう。周囲の者を観ていると、“動かされている”という感がある。それは惰性であったり、外に動因があったりする。つまり、“己の人生の意義”が解って、主体的に、己の主人を己として己の道を歩んでいるとは、とても思えない。皆が大学に行くから自分も行く。皆が金儲けに走るから自分も走る。皆がサッカーを見るから自分も観る。・・・・・。
つい先日、高校の授業を引き受けた時、一人の生徒が「先生、何故勉強しなければならないのですか」と問うてきた。どこの親でも答えるであろう、当然と言えば当然と思っていた答を返した。「生き方の選択肢、人生の可能性を大きくするためだろ」「人間は年を取るから、肉体の可能性は低減するが、心の可能性は死ぬまで拡大する」「勉強とは可能性を拡大することだろ」「今、君がした質問も、勉強したから出来るようになったんじゃないか?」「違うかい?」。すると、「家では良い大学に入るためとしか言わない・・・」。何故か悲しげ。そこで「ご両親は解っているが、君に解り易いと思って目の前の目標を話しているんだろうよ」、と話しながら、最近の家庭では“目標優先、目的喪失”なのかな、そんな思いが頭を過ぎった。
人生の意義は教わるものでも、教えるものでもなく、“己で気付く”こと。だから人生には“個性”がでる。教え込まれれば画一化し、教われば縛られる。“気付く”以外に“自由”という『自らの存在の理由』には到達しない。しかし、自らの存在理由を発見するのは、並み大抵の気付きではないだろう。言い換えれば、小さな気付きの積み重ねが“発見(大悟)”という爆発を生むのだ。そのためには、毎日毎日、一瞬一瞬を真剣に生きることが大切であり、専ら学ぶ時代には全てを師として真剣に学び切るしかない。学びが多くなれば視野が広がり、選択肢が増えると同時に、大きな流れが見えてくるだろう。それが俗に言う『道』である。道には必ず目的地と目標地がある。
人生の意義とは、己固有の道を発見し、一日一日を一生と見立てて歩み続けることだろう。道が解れば、キョロキョロせずに『足下』見て一歩一歩を確実に歩いていれば、ふと気が付けば“ゴール直前”ということになる。
昭和45年辺りまでは、ほとんど家に、その家らしい教育、その学校らしい教育があったと記憶している。しかし、昨今、家にも、学校にも“教育”が無くなったのかもしれない。教育とは“己の本性”を自覚させる手段であり、己の本性に出逢って“己は自由”を得る。つまり、己が己の主人、主人公として生きられる。主人公は“動く”のであり、“動かされる”ことはない。
話が右往左往になったが、『人生の意義』を子供達に気付かせるのは“大人”の役割。これが解らないと、人が大学へ行くから自分も行く。人が就職するから自分も就職する・・・親が受験しろというから受験する。みんなが結婚するから自分も結婚する。一体、誰のための人生なんだろう。
己の本性、目的地はどこか。見えないから、見失ったら、再確認したいなら、一度立ち止まって、自分の方角を見定めて、それから動き出してもおそくはない。
“一度立ち止まる”、つまり“静かに考えて見る”、それが一般人の坐禅だ。言い換えれば、“人生の意義”を問いただして、発見すること。それが坐禅と考えても良いだろう。
ところで、諸君!。己の存在意義を見出し、“活人”としてイキイキと生きているだろうね。そうでなければ、坐りましょう。坐れば必ず雲は晴れる。濃い雲、薄い雲、雲にも数々あるだろうが、晴れない雲、切れない雲は無いのだ。
慧智(050605)

投稿者 echi : 2005年06月05日 01:53

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