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2005年06月02日

野狐禅和尚の辻説法『辻説法の展示会』 №766

 活人禅会の会員有志のお力で、拙僧の気付きを一枚のメモとして書き溜めた『備忘録』が、6月30日まで銀座書斎倶楽部(日比谷線東銀座駅から2分、みゆき通りと昭和通りの交差点で蕎麦屋さんの隣)で展示して頂いています。禅僧の墨蹟などという立派な物ではなく、一日一日の気付きを、その都度、電車の中、自宅、禅堂などなど場所を選ばずに書いてきたものが、気が付けば数百点溜まっていました。今回というか、最初で最後だと思いますが、その内から、ランダムに70点ほどが展示されています。しかし、自分としては“心の裸”をさらすという羞恥心を克服する修行のようで、正直、“未熟をさらす”のように思え、修行が足りないのか、展示場に足が向きません。しかし、会員同士の連絡で展示を知られた方から、「和尚、水臭いよ」と言われましたので、本日、ここで“恥さらし”のご案内を致します。
なお、どうやら私達の活動を応援してくださるために頒布して頂いているようですが、『備忘録』は私自身の気付きの記録であり芸術作品でもなければ、墨蹟でもありませんし、元来は時期が来れば焚付けに使かうか障子の破れを塞ぐために使うもので、ご覧になって頂けるだけで十分です。しかし、仮にお求め頂くような奇特な方があれば、その使途を明らかにすべきですのでお話しておきます。現在、有志の方々とともに、チェーンソーを持ち、ユンボを操り、南伊豆に、大自然の中で“作務(農業)と修行”をより多くの方に体験して頂けるように、菜根譚という村と禅堂を建設しているので、その費用の足しとしての“ご浄財”と、大子の寺の修復費用に使わせて頂きますことをお約束します。
さて、今日の辻説法に入ります。
人間には“個性”があります。その個性により“縁”が生じ、因→縁→果という自然法則に随い“今・此処”があります。勿論、どんな家に生まれたのか、どんな体質・健康状態か、どんな教育を受けたのか、何をして働いているのか・・・などの自分では如何ともしがたかった“既得”に準じることもあるでしょう。 しかし、『因果一如』の言葉が示すとおり、生れおちてから死ぬまでの人間生活において、全ての原因は例外なく過去の結果であり、誰一人として因果から逃れることはできません。ですが、一瞬前の過去、一瞬後の未来は、“縁”で繋がって行きます。ですから、“今”を変えれば“明日”は変わりだすのです。それが『善因善果』を確認できる方法です。しかし、善果を期待して善因をつくろうとする下衆な考えはいけませんし、善果を生むはずが無いのです。『因』は生き方です。ですから『果』も生き方です。過去の生き方が未来の生き方、死に方に投影するのです。しかし、それは数学的表現でいう“相関関係”は成り立たず、『受止め方』なのです。例えば、コップの水を眺めて「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うかで、次の意思決定は変わりますし、同時に“縁”が変わります。キリスト教という懺悔は、罪の認識の告白でありますが、仏教における懺悔は、己の生存は他の犠牲の上に成り立って居るという認識から、今、己が生きてということは、他を犠牲にしているということに対する確認であり、それを以て“利他”に生き、無駄な殺生を戒める行為です。私たち人間は、何の為に生きているのでしょうか。理由など深く考えずとも、生きて居るそのこと自体が“目的”でしょう。ですから、森羅万象全てに感謝し、相互に助け合って生きてゆくのが自然です。木を切れば植林するように、出せば入れるのです。入れば出すのです。決して留めないのです。それが仏教でも、科学でも同じで、“経済”の本質なのです。つまり、全ては相互依存であり相互補完なのであり、多を無視した“自律や自立”など存在しません。言い換えれば、『助け合って生きてゆく』ことが真理なのです。ですから『自利利他』と言われる様に、“してあげる”なんて“恩ぎせがましい”考えは邪心なのです。今日、会員からボランティアという言葉を聞きましたが、それは思い上がりです。禅者であれば『助け合いは当然』であり、それを表明するなど言語道断。『陰徳の心』を失うことです。
さて、この先は、今日のネット禅会で、言葉を使わずに考えてみてください。詳しくは、以下のURLへ
慧智(050602)

http://www.g-shosai.jp/museumf/mukongetu.html

投稿者 echi : 2005年06月02日 01:54

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