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2005年05月31日

野狐禅和尚の辻説法『活人禅会を終えて』 №765

5月の活人禅会を終えて東京に戻った。否、最近は“東京に来て居る”という心境。
今回、参加者が少なかった為と新参(製茶業の方)があったので、邪道ではあるが“三昧”の疑似体験をして頂いた。今更ながら、己の“お節介”には呆れた。禅、坐禅にバーチャルリアリティを持ち込むなど邪道も邪道であるが、一回でも“三昧”の快感を体験しなければ、居士の坐禅は長続きしない。長続きしなければ『己の外に仏なし』という絶対的な宇宙観は解らないし、己という存在が正に“無尽蔵”の力の化身、即ち“仏とは己の本心”を伝えられない。『煩悩即菩提』という表現もある。迷いに揺れ動き、定まらない心を感じ、それを含めて、己の心が“そもそも菩薩”という事を感じられない。『自利利他』という言葉があるが、私は『利他自利』であり、『自利即ち利他』、如何なる事も表裏一体。悪い人間も絶対的に悪い者はいないし、善い人間でも絶対的に善い人間もいない。つまり“善悪・良否・好嫌”などの“相対感覚”は、一瞬の現象で、絶対的ではない。『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』、『清心万能邪心万危』。人生の一瞬一瞬を真剣に生き切り、務めて己の良心に随い働く。人間に無駄にしてよい時間は、一分一秒無い。『歩歩是道場』、いつでも、どこでも人生道の修行の場。その時その時の経験から何を学ぶのかで、人の価値が決まる。己の人生の価値は“己”以外には高められない。というより、森羅万象が“その状態”で完成されている最高の地位にあるが、“分別”からの『囚われ・拘り・偏り』が己を苦境に追い込み、『苦』を現象させ、己の存在の素晴らしさを忘れさせてしまう。少々飛躍するが、代用監獄や刑務所に入れば、心身修養には最高の環境が得られはずだが、再犯者が多いという現実がある。『安禅不必須山水・滅却心頭火自涼』はず。それに比べて、自由に逃げ出せる“禅会”で“三昧”や“悟り”を感じるのは難しいだろうな。人間は“弱い”存在だろう。覚悟を決めるには、覚悟させられる方が遥かに楽。犯罪を犯す者は、何らかの形で“修行”が要求される。今、知人が経済事件で拘留中である。逮捕されるというのは、悟りの最大のチャンスだろうな、と、ふと過ぎる。本当の慈悲は厳しくあること。
そんな思いが浮んでは沈みながら東京へ。それにつけても“坐禅”は素晴らしい。軟弱な“ウスッペラ”な偽物のヒューマニズム、偽物の優しさなど、すっ飛ばし、“慈悲”の意味を体感させてくれる。
 これから坐禅に挑戦しようとする方、既に坐禅を経験した方。『もう一歩』踏み出してみませんか?
慧智(050530)

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2005年05月30日

野狐禅和尚の辻説法『葵花向日』 №764

『葵花向日』は、「きか ひにむかう」と読みます。意味は、“ひまわり”は太陽を追いかける。翻って言えば、雑念に惑わされず一つ事に集中すべしということです。“ひまわり”の咲く夏は、晴れ渡った空、青々した木々・・、一見すると、ギラギラと輝く太陽より魅力的な景色ばかりです。しかし、大輪の花を付け、虫たちを呼び、命を繋ぐという大目的のために“ひまわり”は只管に太陽を追います。
ところで、人間はどうでしょう。あれもしたい、これも見たい、それが欲しい・・となかなか心が定まりません。企業社会では「選択と集中」という言葉で、企業の成功は“何でも屋”ではなく、自社の強味(個性)に特化して、特化した事業に直接的な影響を与えられない事業は“捨てる”ことから始まるといわれています。
ところで、活人の皆さん。趣味でも仕事でも、所謂“極めたい”と考えている事は、絞り込まれていますか?。「二兎追う者は一兎も得ず」なんて事になっていませんか?
『照顧脚下』『看脚下』などという禅語も同じです。今・此処で“為すべき事”に『一意専心』、キョロキョロせずに、一つ事に集中する。それが“成果”を産出する唯一の道だとは考えませんか?
俗に“マルチ”と呼ばれる事がある私の場合でも、「頼まれた事で、出来る事で、すべき事」と感じた事の“一点”に集中し特化して生きているつもりです。皆さんは、どうですか?“頼まれもしない事”に手を出す。“出来そうも無い事”を引き受ける。“すべきでない事”をしてしまう、ということはありませんか?
悩んだら、“ひまわり”を思い浮かべ、足元を看てみませんか?
勿論、将棋の内藤九段のように、「芸能界で一番の将棋打ち、棋界で一番の歌唱力」という、“オンリーワン”の発想も大事ですし、“ナンバーワン”より“オンリーワン”が禅の思想に合致しているとも言えます。
大事なのは、選択や集中の大きさではなく、選択する事であり、集中することなのです。“選択”とは、一見すると“分別”のように思うでしょう。しかし、私は“それ”を『縁』に支えられたことと考えています。ですから、時間がかかるかも知れませんが、結果的に“選択”・“集中”となるのでしょう。
さて、今日、貴方は何を捨てることが出来ましたか?全てを捨て切れれば、最後の一つは“己”であり“無心”ですね。それが叶えば“空”という、『諸行無常で相互補完』という真理が見えるでしょう。
慧智(050530)

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2005年05月26日

野狐禅和尚の辻説法『癌センターの待合室で・・・』 №763

 作務衣姿で放射線治療を待っていると、見知らぬ患者さんから「お坊さんですか?」と声をかけられた。「そのように見えますか?」「ええ」ということで、「般若心経を毎日写経して唱えているんですが、“空”の意味を教えてくれますか?」と問われた。一瞬、迷った。“空”は、十牛図と同じで、その人の境涯で応え方がことなり、人を観て法を説かないと、かえって悩ませてしまう。多分、癌なんだろう。その声は弱々しいが、必死さを感じた。年のころ60歳くらいの初老のご婦人だ。「あなたは、写経をしていて、どんな気分になりますか?」と訊ねると、「その間は不安が薄らぎますね」。「じゃあ、心は“空も体”を解っているです。解らないのは“頭”だけですよ」。「いえ、解らないんです」。「ではね、不安な時と、不安が無い時では、何が、どう違いますか」と。「何かに夢中になっていると、楽のようです」。「ほら、解っているじゃないですか」。「“空”はね、諸行無常の根拠、決まりきったものは何も無く、全ては“思い”に随う、つまり“実体は無い”という真理を表わす言葉なんです。だからね、健康に拘るから現状が不安。生きて居ることに囚われているから不安。やれ科学だ、やれ宗教だ、やれ漢方だ、放射線だと偏るから、不安が起こるんですよ。人間、医者でも患者でも一人では生きられません。それを『無我』と言いますが、健康と病は、分けることは出来ないが、同じではないんです。ですから、私達だけが病気に選ばれたのではなく、誰だって病気になるし健康にもなるんです。『空』とはね、“諸行無常”と思って、心経を読んでみてください。そうすると、何故“拘らず・囚われず・偏らず”なのかが解りますよ。するとね、今日・此処を生き切ることの大切さが自然に解りますよ。一日を一生だと思って、生き切ってください。大事なのは“今・この時”以外に無いんです。今は、病と闘うんです。逃げたら負けますよ。大死一番、死ぬ気で生きるんですよ。一期一会も大切ですね。」・・・、すると、受付から声がかかり、そのご婦人は治療室へ消えた。「南無観世音菩薩、また逢えます様に」と心で合掌。ふと気付いたのだが、癌センターは、坊主が似合わない場所なんだな。次は、ジーパンで来よう。
慧智(050526)

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2005年05月24日

野狐禅和尚の辻説法『“仏”とは何ですか、という問いに応えて』 №762

 新参から、昨日の夜、悩んだらしく、朝っぱらから携帯電話に、「和尚、仏とは何でしょう」という質問を受けたので、お応えします。
『非心非佛(ひしんひぶつ)』という表現があります。これは『即心即佛』、活人禅でいう『即心菩薩』に近い表現ですが、『非心非佛』の逆説的な表現で、「仏とは一体何か」と言う問いに対し、禅僧が『非心非佛・即心即佛』と応えました。この応えは、禅を極めないとチンプンカンプンでしょう。『AはAでない故にAと言われている』という“即非”の論理から答で、我々が日常的に親しんでいる弁証法に代表される二元論理では解読不能であり、『無』を理解していないと解らないかもしれません。頭で応えるよな「仏とは意味」に対し「無」と応えれば、「無がある」ということになります。だからと言って“固有の存在”では無いはずなので、「有「であるはずはない。もし、本気で「仏」を理解し、仏になろうとするから、大死一番、解るまで坐り切る覚悟で、禅会に参加し続けてください。なお、山に来るときは“頭”は家に置いて、体は道中に置いて、『心』だけで来て下さい。そして、来られたら、「如何なるか心」と問いますので、“その心”を見せてください。見せる事が出来たら、“その心”を『仏』と名付けてあげます。
慧智(050524)

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2005年05月22日

野狐禅和尚の辻説法『至人無夢』 №761

大慧書に『至人無夢』、至人(しじん)に夢なし、という言葉がある。意味は、悟りに至った人に夢(妄想)は無いということで、未熟な人間が漠然と描く夢(妄想)は、悟った人間では“あるべき姿”となり、それは未来の現実であって“夢”ではなくなる。つまり、“そこ”に向かって大道を淡々と歩んでいるので、俗人の妄想とは異なるのだ。しばしば、“夢の無い人間はつまらない奴”などと言われる。しかし、それは誤りで、夢を夢のままにしておく人間はつまらない、と言い換えるべきだろう。夢であれ、理想であれ、抱いた以上は実現する。しかし“それ”に囚われない。一度抱けば、潜在意識の中では目標となり、意識しなくとも、我々の潜在意識は“そこ”に導いてくれる。それに至る道には難関もあるだろうが、“難関”は、“そこ”に向っている証拠であり通過すべき儀礼なのだ。それが“縁”と言っても過言ではない。
 あなたに夢はありますか?、と聞かれたら、活人を標榜している禅会メンバーとしては、「いいえありません、しかし、未来の現実は持っています」とサラッと答えられるような人間であって欲しいものである。人間の潜在意識は『未来の己の在るべき姿』を強く描き、それに拘らず、囚われずに淡々と歩んでいると、必ず実現してしまうという、機能をもっている。同時に、“嫌だな”と思う事も実現してしまう。つまり、イメージを実現してしまうのである。それを仏教では『妙智力』という。それを合理的に説明する言葉を持たなかった時代にあっては、それを“観音力”と表現し、観音信仰が盛んになった。翻って、現代、妙智力の構造が科学によって解ったにも関わらず、観音への信仰が薄れてゆくのは何故だろう。観音、即ち『仏』、即ち『本来の己』は、己であり宇宙である。つまり、現代の観音信仰は、“己”を信じきることに他ならない。
 活人諸君、夢を夢のままにしておくのは止めよう。夢は“未来の現実”なのだから。今を生き切った結果なのだから、潜在意識に焼き付けて“それ”に拘らず囚われず。それが活人の生き方なのだから。
願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんがことを。
慧智(050522)

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野狐禅和尚の辻説法『只管坐る』 №759

どんなに修行をしても、修行を終える事は無い。死んで、善人が極楽、悪人が地獄ということもない。輪廻から逃れる物は無い。そう聞くと、何の為に“修行”をするのか、と返ってくる。そもそも“修行”とは何だろう。俗には「悟りを求めて仏の教えを実践する事」である。修行≒難行・苦行などという意味は無い。仏の教えは“苦”なのだろうか。違う。「一切皆苦」という表現で、此の世の本質が苦(エントロピーの増大)であることを発見し、諸行無常を自覚し、森羅万象と合一して生きよ、というのが教え。つまり、森羅万象と合一して生きることが“修行”。決して“苦しむ”ことではない。流れに逆らわず、素直に生きる、それが修行である。流れとは“縁”と読み変えても良い。つまり『隋縁』であり“無心”に生きること。大道を歩むには、誘惑に乗って横道や袋小路に入るような下手な分別は捨てろ、という。確かに、金は欲しいだろう。その金で手に入れたい物があるだろう。それがあれば幸せになれると思うかもしれない。つまり“金”は手段で“幸せに生きる”ことが目標であり目的だろう。人間は、どのような時に幸せを感じるのだろう。“金”があると幸せか?それが妄想であることは“一度、金を持ち、失った人間”は知っている。“幸せ≒楽しみ”の対極と思われている“不幸≒悲しみ”は『失う事』だといことを。そして、その傷心を癒すために“喜び≒快楽”を求めるということ。そして“快楽”にはコストがかかるということを知る。この弁証法的論理は“俗”が“聖”の世界を垣間見るには便利であり、疑問が解けるのは快感だろう。しかし、解けない疑問もある。弁証法では手に負えない疑問もある。否、その方が圧倒的に多い。哲学を学ぶと必ず行き詰まる。そして苦しむ。実は科学も同じ。経済も同じ。学を究めると“学は極まらない”ということを知る。俗的に言えば、人間には器(分)があり、古くから『分相応』、『知足』が処世訓として説かれている。
 今日は、『人間の器』とはを考える瞬間が多かった一日であって。そして、器を眺めていた。器の質。量の規準となる容積。器の見せる姿形。中身を覗くと混沌としているのが解る。混沌は必ず沈殿する。沈殿したものが価値感となる。言い換えると“自我”となる。器がエス(イド)、沈殿物がエゴ、上澄みはスーパーエゴと捉えた学者もいた。解り易いが、疑問は多い。“なるほど”と言えば疑問を持たず、“苦”を背負い込まずにすむ。突き詰めると、この世は“一切皆苦”ということが素直に解る。そして“苦”を避けるには“今・此処”を淡々としつつ全力で生くことだということも素直に解る。“今・此処”には時間も場所も存在しない。瞬間的な現象世界で、二度再現することはない科学には歯が立たない世界だ。結局、己が妄想であれ何であれ幸せに生きてゆくには“瞬間に成り切る”ことしか無い。人生とは“瞬間”の連続を自覚して生きること。始まりも無く、終りも無い。俗的に見ても、苦が続くことも楽が続くことも無い。脳細胞は毎日死ぬ。再生することは無い。今、解っているのは死ぬ脳細胞は、その持てる情報を隣の元気な細胞に転移させるということ。だから、昨日の己と今日の己が同一だと勘違いする。それは恰も“雲や水”の如きである。器を眺めていると、器の中の水に目が行く。見ている水は、瞬間瞬間、変化をしている。分子崩壊から逃れることは出来ない。全ての現象に再現しない。繰り返すのは『法則性』だけである。それは色即是空・空即是色。不生不滅。不増不減。不垢不浄。
 人間は、坐れば落ち着くし、考えなければ落ち着いている。お茶を飲んで、ゆったりと坐ろう。そして一日の垢を落そう。体を風呂に入れるように心を風呂に入れよう。それが坐禅。只管に坐ること。坐れば本質が見えてくる。本質とは“器に内外なし”ということ。見える物と見えない物に違いがないこと。正に、在って無く。無くて在ること。即ち色即是空。空即是色ということ。真理・法則は極めて単純。つまり、物事を難しく考えて苦しむことはない。今・この場を全力で生き切れば、大道を外すことはない。大道はグッドサイクル、邪道はバッドサイクルのこと。しかし、大道と邪道は異なる道ではない。大道を迷って歩むのを邪道というだけ。素直に、素直に生きよう。只、只管に生きよう。そして素直に死のう。
 今日、セミナーの間に1時間のアイドリングタイムを頂き、坐っている時間が出来た。一時間は一瞬であり永遠とも感じられる。『壷中日月長し』
慧智(050522暁天4時)

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2005年05月21日

野狐禅和尚の辻説法『表裏一体』 №758

 大慧宗杲禅師の言葉で『回無明為大智』、無明をかえして大智となす、という表現がある。しばしば、『不可分不可同』と活人禅では表現するが、正に智と愚は表裏一体で、智愚一如という所以。未完成の人間を“無明”≒闇を以て示唆し、禅では完成度の高い人間を“明”という表現で暗喩している。観世音菩薩の俗人には不可思議と移る智慧の力を“妙智力”というが、それは“明るく照らす力”であり、表裏を返す(回す)力であり、否定を肯定に、暗を明に、偽を真に・・・に“気付き”を与える力なのだ。実は“それ”こそが菩薩行で会得する力であり、俗人に与える“たった一言”で、世界を変える力なのだ。そして、その力を己の中に発見して使えるようにするには、小賢しい知識や情報などの分別の源泉を大捨できる坐禅が大事なのである。
今日は『一の如し』、“一如”の二字を“一字”として“無”となって“空”に坐ってみよう。きっと“成り切る”という禅の極意の一端を感じられるだろう。
慧智(050521暁天)
来週は、活人禅会です。夜通しの“夜坐(野坐)”で己を大気に溶け込ましてみよう。

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野狐禅和尚の辻説法『神道と仏道』 №760

 “神道”は、己が如何に弱く小さい存在であるかを気付かせ、他力を確信させる。一方、“仏道”は、己が如何に強く大きな存在であるかを気付かせ、自力を確信させる。そこには神道の二元論、仏道の一元論がある。言い換えれば性悪説と性善説の違いが生じる。人間を受身(客体)の存在として森羅万象の一部と対比させる神道と、人間を能動(主体)の存在として森羅万象の全体として融合させる仏道。180度ことなる考えも、表裏一体と仏道では受け入れる。それ故、私の生家(寺)では、キリスト菩薩、マリア観音まであるし、天地、天国(極楽浄土)と地獄は“表裏一体”と説いている。善悪一如とも説き、善を為す時に“悪心(下心)”は無いか?悪を為す時に“善心(躊躇)”は無いか?『無心』に生きる、それは全ての現象、森羅万象と一如となって生きること。そこには、相対的な世界の規準である、善も悪も、快も不快も、苦も楽も無い。絶対的な世界である“大安心”の世界しか無い。嘗ての我が国は奈良時代を起源に『神仏混淆、神仏習合』という文化があった。矛盾する概念を止揚して“無対立・無犠牲・自主独立”とする“中庸”の文化で、平和そのもの。大晦日には寺で除夜の鐘を聞き、その足で神社に初参り。クリスマスにはケーキを食べる。寺の坊主のバレンタインのチョコレートが来る。神主に戒名が贈られ、神社は寺の檀家で寺は神社の氏子。神父が坐禅にくる。日本は素晴らしい。この受容性の高さ、慈悲深さこそ、日本人が“慈悲”を尊ぶ“菩薩民族”である証拠。その大道に至るには“禅”という唯一無比の“生き方”がある。無対立・無犠牲。自主独立という平和主義がある。
 皆さん、不安や不信に満ち溢れて居る現代、何が問題なのでしょう。
『己の偉大さに謙虚になる』という一見矛盾した真理に気付く者が少なくなったのではありませんか?
慧智(050521)

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2005年05月20日

野狐禅和尚の辻説法『アリストテレスと禅』 №757

アリストテレスが、『ハッタリ屋とオトボケ屋』という表現で人間を2種類に分けて考えたという件があります。私は、それを追認しつつ、“しきり屋”と“頑固一徹”を加えてような個性分類をしてます。元来、禅僧と同時に、一方で哲学、ストレス心理学等の研究を生業にしてきた“科学者”でもあるものとしては、アリストテレス、その師であるプラトン、ソクラテス、イソクラテスなどなど、ほぼ釈尊と同時代の哲学者の考えには、“俗人”として共感できるところが多いが、誰を比較しても“釈尊”には遠く及ばないとも思っています。アリストテレスは、釈尊入滅の前年である紀元前384年に古代ギリシャに生まれた哲学者であり、釈尊、西洋ではソクラテスと同世代のプラトンの弟子で、しばしば“西洋”最大の哲学者の一人とみなされつつも自然研究の業績から、「万学の祖」とも呼ばれ、アレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られています。活人禅の会員各位も、禅に拘ることなく広く世界の名著には親しんでおきましょう。
 今日、第二禅堂として建築を進めている静岡県の南伊豆に行ってきました。そこは『菜根譚村』と名付けさせて頂いた。当禅会ゆかりの私有地で、広さはローマ法王庁が、政治からの独立を宣言して建国して100年の『バチカン市国』とほぼ同じ程度あり、境界地は“ゼロ磁場”の山と言われる山が聳え、菜根譚村はその山頂に向かう風の谷(龍谷)でもあり、今日、イオン測定器で村の中心でマイナスイオンの量をイオンカウンターで調べていたら、10分平均で1000近い値でした。道理で清清しいはずです。
 さて、今日の説法は、タイプ論についてです。タイプ論は元来、西洋的な考えで、東洋的な考えで、人間の個性の違いは認めつつ中庸を説いています。西洋は、ご存知のように“自我”重視で、自我を確立できた人間が「おとな」で、確立出来ていないのは「こども」として二項対立で考えるのが一般的です。ところが、禅では、“違いを知って違いを捨てる”無差別、無分別の心境に到達するのが修行です。ですから、“先ずは知る”ということが必要で、それが出来なければ『方便』の意味も威力も解りません。そして『方便』の世界をも捨て、真理と一体になって大安心の境地でイキイキと生きるのが“禅”です。そこで、今日の辻説法です。まあ、俗人も個性を捨てろと言われつつ個性豊かな禅僧を観察していると、曹洞宗系の禅僧には『おとぼけ家』が多く、我々のような臨済宗系は『はったり家』が多いように思えます。菜根譚村への電車の往復で、心を過ぎったのが“それ”で、禅僧の多くは“ハッタリ屋でおとぼけ屋”の融合段階で、完成されると『ハッタリおとぼけ』になりんだな、と思いつつ、思わず苦笑いをしていました。『禅僧は、禅僧でないから禅僧と名付けられている』という言い方があります。正に、ハッタリをかましつつオトボケな表現で、一人の中で“ボケとツッコミ”を同居させている噺家のように“人を主食”とする菜食主義者のようです。『不許葷辛酒肉入山門』と多くの禅寺の山門にありますが、「正に」と思い、クスクス笑いが止まりませんでした。“人を食って”いれば、それ以上は、臭くて、辛くて、依存的で、皮肉で覆われた物は、食えやしません。
 さてさて、在家の皆さんは最近の“禅坊主”に関して、どんな印象があるでのでしょうね。ついでに、あなた自身、ハッテリ屋ですか、オトボケ屋ですかですか、それとも、『禅僧』ですか?
慧智(050519)
*ソクラテス:前469~前399 古代ギリシアの最も有名な哲学者。
*釈尊、有力な一説:前463年4月8日~前383年2月15日。

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2005年05月17日

野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756

 『禅』を、その他一般的に知られている宗教である“信仰的”と比較して『覚宗教』ということがある。本来、宗教に“区別・差別”を持ち込むのはナンセンスではあるが、一般の方に解り易くするための悪意の無い“方便”としてである。その場合、『禅』が、中世的な信仰(己の外に絶対者を置く)宗教から近代の『哲学的(理性的・二元論的)解釈』を通過し、更には理性の限界をも超え、真に自由で融通無碍の“己”を生き、己を森羅万象の一部であり全体として、己を超えて表現する宗教体系であるからだ。つまり、大自然を『恐れ戦く』対象、限定的ではあるが『克服すべき』対象から、己と大自然を不可分・不可同として相互浸透している“真実”を体現し、それを行じ続けるているのが『禅』であるからだ。故に、最も本質を突いている宗教が『禅』であるのも関わらず、「禅は宗教というより哲学」と揶揄される場合もある。
 活人禅においては、禅が宗教と言われようと、哲学であるいわれようと一向に構わず、『宗たる教え』と自覚している。そういった意味では、活人禅は、『一如』を体現する『覚悟の宗教』、『覚宗教』といえるだろう。科学と宗教(文学)を止揚すれば“無と空”の思想であり、“禅”にしか行き着かないのは科学なり文学を究めた者には何の違和感もないのが“現代”である。
慧智(050517)

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2005年05月16日

野狐禅和尚の辻説法『質問:どのように勉強した?』 №755

 20歳の大学2年生から「和尚の本を読みました。マルチですね。20歳頃、どんな勉強をしましたか・・・?」という質問を受けました。そこで、出来る限り具体的にお応えしようと思います。『勉強』は、一人一人の個性や環境で全く異なるでしょうが、人間の頭は2種類の大きな個性に分かれています。20歳とは言え、現代は七掛け時代。一昔前で言えば14-5歳でしょう。ですから、14-20歳頃までの“我流”の勉強法をお話しします。
14歳の夏、平凡社の百科事典26巻に出会い感動。夏休み40日間と冬休み14日で全てを読みました。1冊1000ページ程度で4~5段組だったと思いますが、夏の接心を除いて、夜10時からの3時間を含めて一日平均6時間くらいは読書三昧でした。勿論、雲水はメモ書禁止だし図書館の本ですので書き込みも禁止。しかし、“全ては覚える”という習慣が小僧として5年も修行していれば誰でも出来ますので、只管、読みました。本師曰く「人間、生きてゆくに必要なことは全て知っている。知っていることを素直に出せば、本など要らん」を叩き込まれていましたからね。しかし、学校に行けば図書館にも教科書にも黒板にも、興味を掻き立てることばかり。誰でも“知るべき事”を覚えるにはメモが必要だろうが、“知りたい事”にメモは要らないでしょう。つまり、“何もかも”、“知りたい事”だったのです。それに読む速度は、“知りたい事”であればあるほど、早くなります。反対に“知るべき事”は、その重要度を意識すればするほど、どんどん遅くなります。言い換えると、百科事典も教科書も板書も、私にとって“知るべき事”ではなく、“知りたい事”だったのでしょう。なお、所謂“速読”は自然に出来るようになり、今でも500ページ30分程度で読みます。
以上のところのポイントは、本も、教科書も、“常識”と信じ込んで殆どの生徒学生が行なっている『重畳的学習順序』が私には合わなかったし、速読のお蔭で、学ぶ順序は無視できたということでしょう。思い出しますと、私は、足し算→引き算→掛け算→割り算という順序でノンビリと勉強した経験がありません。米の量・疲労度・人数からお粥の水の量を瞬時に割り出すのが、“算数”の最初でした。つまり、それがキチンと出来ないと、自分の食べる物は無くなるし、みんなに迷惑をかけるという瀬戸際にあったからでしょう。また、カタカナを覚えるより先に漢文を読まされもしました。間違えればピシャッとされますので、今思い出すと、漢字は表意文字として記憶したのでしょう。それに身近に遊ぶ環境がなく、その面白さと交わらなかったことも“知る事時間”を増やしていたのでしょう。『必要は発明の母』とは納得です。時々“博学”と言われますが、その自覚はありません。誰でも知っているが、思い出せない事を素直に思い出せる力を、幼少期の坐禅が付けてくれただけで、私は一般人です。知能で悩んでいる人には“嫌味”と取られるかもしれませんが、本心から『頭を自由自在に使いたいなら坐禅をしなさい』としか言い様がありません。私のような素材が悪くとも“そこそこ”にはなります。その経験を後に『禅脳思考』と名付けて、禅会員に伝授していますが、精神力などという自分を縛る縄を解き、何事にも囚われず拘らず偏らず、“無心”となって“事と一体”となれば、何でも吸い込んでしまうのが、私達の“脳”だということです。
★『出来る事』を工夫して『したい事』をする。『すべき事』は進んですることで“強制”されないので、直ぐに『出来る事』になる。『出来る事』が増えると『したい事』が増えても大丈夫。時間まで増えるから★
 以上、出来る限り具体的に話したつもりです。そこで、今話したことを全て忘れて『坐禅』に来ませんか?夏の休みに一月も小僧として来ていれば、それなりに納得の行く己に会えると思いますよ。
慧智(050516)

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2005年05月15日

野狐禅和尚の辻説法『無象無私春入律』 №754

 「象なく私なく、春、律に入る」と読む。従容録にある万松行秀の句で、意味は『春と季節には形も私という我も無いゆえに、花は咲き、草は萌え出て、春夏秋冬のリズムが始まる』と、今日の私は受け止めている。
 今日の活人禅堂は、梅・桜が終り、木蓮が中継ぎをして、全山、色とりどりのツツジが満開で、所々には藤が枝垂れ咲き、ボタンはその花弁を風に揺らし、カキツバタは端正な顔立ちを覗かしていた。正に百花繚乱の風情がある。禅堂に一人坐していると、鳴き慣れた鶯が経を唱え、『生き急ぐなよ』『淡々と暮らせよ』『一日一生だぞ』と、正に、“法・法華経+25、25”と聞こえた。
 今日は、春を迎えられた感謝の記念として、癌封じでお世話になり続けて居る薬師堂の前にスモモと桃、禅堂の前にはプラムの苗木を植えた。ふと、ツツジの花越しに下を見ると、浅川が水量を増して流れ、田植えの終わった田の水は、風と雲と空を映していた。寺を後にしようとすると、庫裏の軒先に蓮を咲かそうと禅姉が置いた大鉢の水が澄んでいるのに気付いた。泥水のような煩悩も静かに坐していると澄んでくる。煩悩即菩提。煩悩是道場。日々是好日。正に、山川草木悉有仏性。己以外は皆師である。自然は素晴らしい、自然は偉大な教師である、と感じつつ所用のため170キロ先の東京を目指して時速***キロで90分、常磐道を東京に向った。
慧智(050515)

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2005年05月13日

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常』 №752

 親しい方のご尊父様の通夜に列席させて頂いた。ご縁の深い方の急な訃報に接し、ご遺族の心境は如何許りかと察するに余りある。
卍山広録に道白の言葉として『一蓮托生拭目可待』(いちれんたくしょう、まなこをぬぐいてまつべし)という一句がある。意味は「愛しい人に先立たれたあなたではあるが、何れはあなたも往生し、極楽において同じ蓮の葉の上に坐るであろうから、涙を拭い、気を確かに持つことだ」というもの。
 また、禅堂の板には『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』とある。意味は「諸行無常の人生は迅速で、生き死にという迷いの対象は悟りへの切っ掛けとなる一大事の因縁であり、時は人を待たないので、寸暇を惜しんで修行に打ち込め」というニュアンスである。
 人間、どんな元気で健康であっても一寸先は誰にも解らない。生死一如とはいうものの、現実には不安を抱える者も多いだろう。それ故に、一瞬一瞬に完全燃焼し、一日一日を一生と考え、悔いの無い一日を積み重ねることが大事で、不安を払拭する唯一の生き方なんですね。人は生まれれば例外なく必ず往生します。生死とは宇宙が『凝縮して拡散する』こと。大宇宙が、小宇宙に変身して、また大宇宙に戻ること。即ち『不生不滅・不増不減 不垢不浄・・・・』。命は大自然の営みの一過程であり、往生もまた同様。即ち諸行無常、常なる現象は無い。過去に拘らず未練を残さず、未来に囚われて自由を捨てることなく、融通無碍に一瞬一瞬を真剣に生き、足るを知って明日に備えよう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
慧智(050512)

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野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753

『教育』の肝を表わす言葉に、『敲骨打髄』(ほねをたたき、ずいをうつ)という禅語がある。意味は、上っ面にこびり付いた邪心を徹底的に打ちのめして清心を洗い出すことであり、『教育は手を抜いてはならない』ということを表わす言葉だ。言い換えれば、教育をしようとするなら、皮だ肉だで終わるような中途半端なことをせず、骨の髄まで徹底的に染み込ませることが“教育”の根本原理なのだということ。とは言っても、恐怖を与えて洗脳することではない。簡単に言えば“怒ることなく叱り、脅すのではなく励ます”、のであり、“教える側”と“教わる側”が不可分不可同となるように“伝えたい”“学びたい”という心を相互浸透しつつ阿吽の呼吸により教育すべき内容を共有することだ。それには、先ずは自ら学びたいという心を醸成させ、その後に機会を与え、学びの程度を知らせて励まし続けることだろう。言い換えれば、教える側は精神的に成長し、教わる側は知識や技術、心を統合しつつバランスの取れた人間的な成長をすることである。
『禅』の師弟関係を経験すると、“教育”が何で有るかが骨身に染みて解る。私の場合、そこから教育に関するノウハウを構築できたように思う。『禅』の世界では“無個性”こそ最高の個性である。それは個性を“我”として捉え、無個性を“本来の面目”と捉えるからである。しかし、在家の場合は、先ずは“我”、自我を重視する。それは『すべき事』と『したい事』の中間に位置する『出来る事』を合理的に理解させる必要があるからだ。『教育』は“心”+“頭”+“体”に教え込むことであり、それには教える側が“教わる側”の個性(覚え込む順序)を理解し、それにあった順序と教本・教具・教材を使わなくては、途中で挫折するからである。それを少しだけバター臭く小洒落て言えば『心の教えるマインドマニュアル』、『頭に教えるテキストマニュアル』『体に教えるオペレーションマニュアル』ということだ。活人禅の場合は、『価値感(経)+公案+坐禅と作務』となるだろう。話は少し脱線するが、臨済宗は“頭”から曹洞宗は“体”から入り、“心”に浸透させ、頭・体・心が統合されて一人前の僧侶と認める。だから、臨済宗向きの人間と、曹洞宗向きの人間が自ずと居るのである。それが“縁”なのだろう。人間は“教えるべき内容”を身につけるのは簡単で誰でも“先生”になれる。しかし、“教え方”をマスターしている“師”はどれ程いるだろうか。今日は、自分の教育という場面におけるレベルについて考えてみよう。
慧智(050514)

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2005年05月12日

野狐禅和尚の辻説法『一心不乱に坐る』 №751

坐禅儀に『久久忘縁自成一片』、「きゅうきゅう として えんをぼうずれば おのずから いっぺんとなる」と読みます。意味は「縁を忘れて久しく坐禅に打ち込んでいると、内と外の差別区別、有る無しなどの二項対立が消えさり、“ふっ”とした時に己が“自然の一部”であることに気付き、夜(野)坐の折の雨に気付かなくなる。つまり、己と雨と大地が一体となっており、眠さ・痛さ・寒さや時間までも消え失せてしまう。この体験をした日から、坐禅と坐禅以外という対立も自然と無くなる。不思議ななことに犬の糞を素手で片付けても気にならなくなる。正に『森羅万象は無差別』、一切衆生悉有仏性 山川草木悉皆成仏が現実となる。私の経験からすると“先ずは一年”だろう。「世界観が変る」などという言葉では表現できない。偉い偉くない、男だ女だ、善だ悪だ・・・全ての対立概念の妄想的な意味が消える。それは“恥ずかしさ”という心が消滅していることで直ぐに解る。言い換えると、道徳という世界から“超道徳”の世界に移住した感じだ。やさしい言葉で言えば“愛”という奪い執着する心から、無心に与える“慈悲”とも言えるが、愛と慈悲という差別も無くなる。この経験をしたのは10歳の頃だと思うが、それまで何とは無く“生死”の違いに縛られ、亡くなっている方に触れるのが“怖かった”が、『万物即一片』を感じ取った時から遺骨を木槌で叩いて砕いている最中に骨片が飛んできて口に入ってしまっても全く気にならなくなった。それから数年、14~5までは坐禅も室内も楽しくて楽しくてたまらなかった。つまり隻手音声が聞こえ、父母未生以前の本来の面目を探さなくなったということだろう。
 ネット禅会の会員の皆さん!毎日20分、先ずは一年。只管に坐ってみよう。坐り方は大子の禅会で伝授するので、時々は坐りにきてください。夏はサウナのような暑さ、冬は冷蔵庫のような寒さでしか持成しできないが、味噌汁と沢庵と米の飯には不自由はさせないし、トイレや庭掃除から土木工事まで作務も沢山あるので暇を持余すことはないだろう。最低、月に一度は陰徳を積む機会を差し上げるの是非とも大子にお出でください。喜捨・浄財箱も大きいのがあるから、誰からも感謝されずに数億円は捨てられます。身も心も財布も“カラッポ”、これが最高の気分です。是非味わってください。
慧智(050513)

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2005年05月11日

野狐禅和尚の辻説法『不思議なこと』 №750

 時々禅会に顔を出すYさんと六本木のサウナ風呂で偶然に出会い、行き成りの質問攻撃を受けた。
室温は105度、10分も居るとヘロへロ。正直、“熱い”。にも関わらず「坐禅は毎日すると効果があるんですか?」と来た。少し突っけんどに「坐禅に効果なんか無いよ」というと「ありますよ」と反対に諭された。「しかし、毎日は辛いでですよね」というから「毎日だから楽なんだ」というと、「毎日しなければ効果は薄いんですよね」と再び。『坐禅に効果なんかあるものか』というと、「否、絶対ありますよ」と。このままでは倒れてしまうかと思い立ち上がると「心頭滅却できていないんですか?」とやられた。何と言われようと、耐え切れずに外へでて水風呂へ一直線。19度の“水”は実に気持ちが良い。そしてサウナへ戻ると、「修行が足りまへんな~」とやられた。そこで、「だから毎日坐って居るんだ」と返してみた。すると、「でも効果ないんでしょ?」と返された。「そうだ。効果とは目的や目標に対しての評価で、目的や目標を持たなければ効果もない。坐禅は“無心”に坐るんだ。ただ坐るだけだ。だから効果などない。がしかし、変化はある。しかし、変化を目的・目標にはしない。それば坐禅だからね」「ところで、君は毎日、風呂に入るだろ?」と聞くと「まあ、ほとんど」と。「何故?」聞くと、「汗や汚れを落としてリラックスするためですかね」と言葉を選んで応えた。其の瞬間、彼は解ったはずだ。
 “心”を風呂に入れるのが坐禅でもある。汚れが落ちるか汗をかくかは坐り方しだい。しかし、毎日“埃”に塗れるんだから、坐禅が大事なんだ。
禅語に『時時勤佛拭』というのがある。「時時に勤めて佛拭せよ」と読む。私の家ではトイレに書いてある。意味は「常に心の埃を払いなさい、そうでないと“清心”が“邪心”になりますよ」と解して良いだろう。言い換えれば、体と同じ様に、心も毎日、風呂にいれて綺麗にしておきなさい、というようなもの。出典は、『神秀、偈に曰く「身はこれ菩提樹、心は明鏡の如し、時時に勤めて佛拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ。」である。
 風呂は良いな~、と思いつつ、サッパリした心身で帰宅。今日の経験は『一切衆生悉有仏性』、「己以外は皆師」。どこにでも師はいるものだ。
慧智(050511)

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2005年05月09日

野狐禅和尚の辻説法『一苦一楽 一疑一信』 №749

 菜根譚などに代表される徳に敬意が払われていた時代の中国や我が国の『処世訓(≒道徳体系)』では、苦しみがあって楽があり、疑があって信があると人間の“あるべき姿”を説いていた。例えば、『一苦一楽相磨練、練極而成福者、其福始久。一疑一信相参勘、勘極而成知者、其知始真』、「人間は苦楽により磨かれ、磨き切って幸せとなった幸せは長く続くし、時に疑い、時に信じることで磨かれた勘は智慧へと昇華する」というようなものがある。正に“俗”における処世術、教訓として得心が行く者が多い示唆であろう。
 しかし、禅の発想では、それを更に一歩進め、“苦楽一如”と表現されるように、道徳の“それ”を『百尺竿頭』と位置付け、そこから更に歩を進めた地点の境涯の修得こそ悟りの境地としている。当然、我ら活人禅でも同じで、苦楽は不可分・不可同であり、『苦楽一如 疑信一如』、苦楽も疑信も紙の裏表と捉えうることとし、苦と楽、疑と信という相対概念を排した“一如”の体得を目指し、更に更に歩を進めようとしている。では、“そこ”はどんな世界か。それは言わずと知れた『不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏』と言うしかない。
 話は変わるが、最近、各マスコミは“不幸な大事故”をドラマチックに伝えようと、相も変らずの“魔女狩りとリンチ”に終始し、その対象となった愚か者は“その”挑発に乗って“世論”と称される無智な群集の声の一翼を担っている。冷静に合理的に考えれば、事故の日に宴会をする・しないは、“当事者”の価値感の問題で、我々が当事者の話も知らずにマスコミのシナリオに乗って、その善し悪しに関与すするのは如何なものだろうか。我々が大切にしなければならないのは、他人への軽率な糾弾ではなく、知る限りの事実を踏まえ、そこから“私”なら“どう”するかを自身に問い、“私の心”を知り、何かを学び、それを教訓として自分を成長させることではないだろうか。“それ”を『常識』という個人の勝手なローカルルール(価値感)を、公共性を謳い文句にするマスモミの挑発に乗ってインタビューに子供のように感情向き出しで応じているのは“目糞、鼻糞を笑う”が如きの軽薄さである。そして、原因探求も済んでいなければ、裁判も始まらない事件に対し、その関係者を感情だけでリンチ断罪するような風評をつくるなど、大人のすることではない。そもそも、他人の不幸をこれ見よがしに題材として視聴率を上げようとするマスコミの下衆な態度は、“宴会やゴルフ”に参加したと言われる者と大差ないだろう。
 それが“不幸な出来事であれ幸福な出来事であれ”、起きてしまった事故は『事実』であり、それを変えることはできない。問題は、それに対して当事者・関係者が“どのように”受け止め、行動するか、傍観者である非当事者は“それ”から何を学び、如何なる教訓をつくるかである。そうでなければ、“亡くなられたり怪我をされた直接の被害者”の不幸な経験は“無駄”になってしまう。
電車事故の少し前にあった“ホリエモン騒動”はスッカリ影を潜めているが、『過去は確定・未来は可能性』と言われ、“今・此処”こそが現実であるように、世は“諸行無常”、全てが“今・此処”という瞬間以外は全て“変数”であり、それらを我関せずの“他人事”として傍観するのではなく、己以外、森羅万象の全てを師として“自分事”として受け入れ、それに学び・昇華し・教訓として凝縮し、一瞬先の思考・行動に反映することが大事だろう。
 考えてみて欲しい。この世の中は、誰でも例外なく、一寸先には加害者となることも被害者となることもありえるのだ。その時、“如何に対応するか”が“その人”の価値を決定するということを。
 『覆水盆に返らず・・』、『死んだ子の年を数える・・』といった過去への囚われ、己の信じる常識への過度の拘りは、我々の悲しみや苦しみを助長強化するだけであり、先の事件の犠牲者の平成化を妨害したり、置き石事件や被疑者となっている会社の社員に対する暴力事件など第二次第三次の事故を引き起こすのだ。
社会でも企業でも、平時においては『公私混同するな・感情を仕事場に持ち込むな』と叫びつつ、有事となれば『公私混同を要求し、“動機付け”と証して仕事場に感情を持ち込む』ように圧力がかけられる。活人禅会のメンバーなら理解できるだろうが、『公私一如』であり、平時有事も一如であり、目の前にある『出来る事+すべき事』に自分に恥じることの無い方法で全力を尽くせば良いのだ。
ここで、もう一つ考えて欲しい。最近の“お騒がせ”を子供達にどのように説明し教訓とさせるか。それが我々“大人”の使命ではないだろうか。ところで、皆さん、振り返ってください。身近な子供達には今回の出来事を“どのように”解説し教育の素材にしていましたか?
慧智(050509)
●お願い:体調が不安定なので“辻説法”が間欠するかもしれませんが、私は生き抜きますますので、時々は覗いてください。

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2005年05月08日

野狐禅和尚の辻説法『“無心”を感じさせる』 №748

 坐禅をしていてもなかなか“無心”になれないんです、という参禅者がいた。
「本当に“無心”になりたいのか?」と聞くと「本当です」と返ってきた。そこで、「少し辛いぞ、我慢できるか?」と聞き返すと「耐えます」としっかりした返答があったので、私は、参禅者の鳩尾を思い切り打った。考えてみれば空手・柔道・合気道それと書道を合わせて12段の小衲の当身はかなり効き目があったらしく、暫らく声も出ずに蹲っていた。暫らくすると、「何をするだ!」と烈火のごとく怒った。そこで、「無心を感じられたろ」と言うと、「冗談じゃない、痛いだけだ」と。すかさず、「それで良い、それが無心だ」と言ったが、禅堂には二度と現れない。
未知数Nを知りたければ(N-1)を知ることだ。(N-1)は(無心-痛さ)なのだが、解ったかな~。“痛い”という事しか感じない一瞬こそ“無心”なのだが・・・。
慧智(050508)

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2005年05月07日

野狐禅和尚の辻説法『理事=事理=止揚の姿』 №747

 今日、午後遅くからハンデのある子供達を支援する団体の会合に呼ばれ、“理事”を依頼された。そこで就任に際し、“理事”の使命について話させてもらい、“その”認識で良ければ引き受けると話した。そこで気付いた事は『理事』という役割が寄附行為に示された法律上の権利と義務については衆智なようだが、『理事』という呼称が本来持つ使命について知らない人が多いのには驚いた。
 そもそも“理事”とは、仏教用語であり、“理”+“事”=理事または事理である。“理”とは『万法帰一』の論理で一元論を代表する『絶対的本質』のこと。“事”は表面的現象で相対的・差別的現象のこと。つまり、“理事”とは、二元論、一元論を止揚した“無”を司る役割で、表面的な損得、良悪、道徳的な善悪などを超越して、真理を探究する道の目的目標を失わせないようにする役割と考える事が出来る。正に“禅”の実践者なのである。つまり、理事会は、判断機関ではなく決断機関であり、団体の代表である理事長の執行を監視して助言する役割があり、それを委託することは“目的達成”の番人になることでイエスマンでは絶対にありえないし、執行役である理事長の部下ではないのである。
 まあ、平均年齢60歳を超える“大人”に対してお話しするようなことではないとは思いつつ、ついつい強い言葉になってしまい、反省している。
 それにつけても、日本人が日本語を知らないという現実は怖い。漢字は表意文字であり、単語は固有の意味を伝承してきている。そして、熟語、文節、文脈を構成して“意思・意図・意味”を伝えている。つまり、文中、話中の登場するキーワードの一つでも意味を取り違えれば、話し手・送り手と聞き手・受け手の間には大きな認識のズレが生じるのである。「“こう”言ったつもり」、「“そう”聞いたつもり」が大事件を生むこともある。
 日本語は美しいし、意思疎通には素晴らしい潜在力を持つ言葉。大事にしたいものである。
慧智(050507)

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2005年05月05日

野狐禅和尚の辻説法『先入観は“愚行の源”』 №746

 『無心帰大道』、無心なれば大道に帰す。無心とは、先入観の無い心を言うし、禅はそれを平常心という。つまり、平常心とは一切の先入観を持たない心の状態で、心が自由自在に動き、大道(真理)に統合された、父母未生以前の在り方そのもので、一切の創造の源となる心です。そして、それが“本来の心”であり隻手音声を聞くことが出来る唯一の心です。
 しかし、人間の神経系には、過去の成功事例をパターン化して認識し、高速で情報処理できるような単純化システムがあり、“先入観”を持つことにより表面的には“便利”に生きて行ける部分があるのは事実です。つまり、赤信号は止まれ、車は左・人は右。雨の日には傘を差す。睡眠時間は8時間必要。魚や野菜は買うものだ、というようなことです。つまり、反射に神経に入れて良いほど単純な情報処理の結果としての行動を、一々“何故か”と考えていたのでは時間がいくらあっても足りないというものでしょう。しかし、同時に、“それ”を思い込んでいれば、パターンから外れた現象が有る以上、事故に見舞われることもあるし、心気症になる確率は高まるし、発見のチャンスを逃すこともあるだろう。
 さて、あなたは本当の自由を取りますか?目先の便利を取りますか?このような聞き方をすれば、大半の方は「自由」を選ぶと言うでしょう。しかし、その質問と回答にも“先入観”が作用しています。解りますか?ヒントは“言葉”です。次に、一般に言われている“先入観と固定観念”の意味の違いを意識して使っていますか?それとも無意識ですか?先入観ですか?。その答えのヒントは“する前”、“した後”、経験の結果か、体験の結果という違いにありますが解りますか?
『禅』は、“二元論”という目先の便利である先入観を捨て、『万法帰一』である本当に自由な“一元論”を説き、先入観や固定観念などの“無縄自縛”を“拘り”、“囚われ”、“偏り”と呼び、過去の経験に拘り、常識にという幻想に囚われ、理か情とい二項対立の片方に偏るなどが“苦”の源泉と説いています。
 我らが精進している『活人禅』では、“苦”は“愚”の結果ではあるが、“楽”への過程と解いています。ですから、『一切皆苦』は同時に『一切皆楽』であり、それを『一切皆空』と説いています。つまり、『諸行無常』の此の世に先入観は危険極まり無い無用の長物なのです。現代において必要なのは、臨機応変の行動を支える“自由な心”であり、一切の先入観を捨て去った心なのです。なお、先入観は、別名『選択肢の制限』と言われてます。それは何故だと思いますか?言葉を使わずに思いを集中して坐って観じてみましょう。きっと気付くでしょう。
慧智(050505)

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野狐禅和尚の辻説法『“利行”という生き方』 №745

 “利行”とは、道元禅師がしばしば使われている『利を生み出す行為』のことです。道元さんは、“利行”を“一法”と述べ、大乗仏教の“自利と利他は一如”と同じです。
「愚人(ぐにん)謂(おもわ)くは“利侘(りた)”を先とせば、自(おのずか)らが利省(はぶか)れぬべしと、爾(しか)には非ざるなり。“利行(りぎょう)は一法”なり、普(あま)ねく自侘(じた)を利するなり」と修証義にあります。
意味は、「愚か者は、相手を利すれば、自分は損をするのではないかと考える、と普通の人は“そのように”考えるが、それは間違いで、本物の“利”は相対的なものではなく、絶対的であるから“利”は全ての人々に向く」と言い切っている。
 このことは経験した人間ではないと解らないだろうが、エジソンやベルの発明を想像してみると何とは無く追体験できるのではないだろうか。彼らの発明や発見は自分の利益を目標にしたのではなく、結果として莫大な利を得て、それを社会へと循環させたのである。勿論、莫大な特許料を得て“大儲け”したのは事実であろう。それで得た金が、社会の解釈から有意義に使われようと、仮に浪費に使われようと、結果的には社会を循環し、不特定多数の者の財布を経由したし、一つの大きな発明が産業の勃興に関わり、不特定多数の人の利となったことは事実なのだ。そこで、忘れてはならないのは“利”とは何か、ということである。前出したように我々活人禅では『自利利他一如』が説かれている。その“利”は、『無心からの創造の結果』であり、自分を利するとか、他人を利するとかを超えて、不特定多数への貢献意欲に基ずく行為です。それが“菩薩行”です。お解りですよねKさん。「したいこと」とは、『不特定多数の為に“したいこと”』というのが、真意で、“自分勝手な思い”ではないのです。しかし、それを理解出来る方は少ないのです。もし理解出来ていれば、『したいこと』=『すべきこと』で、必ず『できること』になるので、大願は成就するのです。小願は、自分のための小さな願いで、成就するのは難しいのです。しかし、大願は小願を含んで成就してしまうのです。ですから利行一法、自利利他一如なんです。
慧智(050505)

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2005年05月03日

野狐禅和尚の辻説法『謙譲の美徳は死語ですか?』 №744

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害は其の身に至る。己を責め、他人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」は、戦国時代を締め括った徳川家康の遺訓です。そして、天下取りの時間に大きな差が出た戦国3武将には、彼らを評した連句があり、それぞれに感ずるところがあるでしょう。
信長を評して「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」
秀吉を評して「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう 不如帰」
家康を評して「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」
 自己肯定を望む多くの人は、自分と似ているように感じる武将を贔屓目に観るようです。
あなたは、3人に内で誰を贔屓にしますか?
 さて、家康の遺訓を眺めましょう。彼は、幼少の頃から“人質”として肉親と離れた“不自由”な生活経験があり、また、戦国の世を最も長く経験し、中年になって“天下”を取り300年の徳川時代の祖となり、その経験から子孫に伝えたい事を言葉にしたのでしょう、かなりの重みが感じられます。遺訓のポイントは『焦らず、足るを知り、無事を最良として、他責的にならず、一歩を譲って、淡々と生きる』ということでしょう。信長も秀吉も家康も、茶道を通じて『禅』と交わっことは衆智ですが、禅者らしいのは家康のような気がします。
 競争に勝つ事が“美しい”ですか?負けることは“醜い”ですか?“勝ち負け”は所詮は相対的で、勝っても負けても、競い争うことでの弊害は内包しています。一方、一歩を譲る生き方、“謙譲を美徳”として生きる事は、情け無いですか?カッコ悪いですか?
「すべき事」の中に「出来る事」を発見し、淡々と実行してゆく。ふと気付くと“それ”が「したい事」だったという経験はありませんか?「したい事」を優先すると対立が起るが、「すべき事」を優先すると協調が生まれるとは思いませんか?何れにしろ日々精進。「出来る事」を拡大する必要があるでしょう。自分の人生を振り返ってみる、僅かな選択肢しか無かったが、出来る事で、すべき事をして、その成功が、それらを徐々に“したい事”に変身させてきたようにも思います。勿論、如何なることも“決め付ける”事はせず、“縁”に随い、条件の範囲内で“工夫”して“川の流れに乗る”ように生きてきたように思います。もし、この命が保てれば、今年の暮れには55歳になります。さてさて、明日は新しい日。一日一生の今日は、明日も目が覚めることを期待して終わらせることにします。
慧智(050502)

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2005年05月02日

野狐禅和尚の辻説法『まあ、お茶でも一服』 №743

 良寛さんの戒語の一節に「悟り臭い話、学者臭い話し、茶人臭い話、風雅臭い話しは頂けない・・・」と言われるのに得心が行く。利休百首での『守り尽して破るとも離るるとても・・・(守破離)』は忘れられている。互助は競争に、慈悲は執着(愛着)に、楽は苦に、布施は略奪に・・・、表層は深層の流れに逆らうこともある。分別臭いことはナンセンスだが、最近の日本を眺めると“振れ幅”が大きいのは事実。仕事は誰にとっても修行だろうが、何のための修行だろ。諸法に実相あり。大道の先は“大安心”。無対立・無犠牲・自主独立。いつもニコニコ、自他ともに虐めず、一歩を譲りながら協調しながら中庸の道を歩むことが処世術のはず。まあ、ジタバタせずにボチボチと歩くこと。
 さあ、お茶でも飲もう。寝る時間が無いほどバタバタしている病持ちは、今日もバタバタ。反省!
慧智(050501)

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2005年05月01日

野狐禅和尚の辻説法『大器晩成』 №742

 Xさん、近況メール有難う。連休は、迷いを吹っ切るために坐禅三昧のXさんに贈ります。以下は、2年前の7月に『超訳・菜根譚・前集222項』で書いたものを再掲し、言葉を加えています。
■前集222項 原文
桃李雖艶、何如松蒼栢翠之堅貞。
梨杏雖甘、何如橙黄橘緑之馨冽。
信乎、濃夭不及淡久、早秀不如晩成也。
■読み下し
桃李(とうり)は艶(えん)なりと雖(いえど)も、何(なん)ぞ松蒼栢翠(しょうそうはくすい)の堅貞(けんてい)なるに如(し)かん。
梨杏(りきょう)は甘(あま)しと雖(いえど)も、何(なん)ぞ橙黄橘緑(とうおうきつりょく)の馨冽(けいれつ)なるに如(し)かん。
信(まこと)なるかな、濃夭(のうよう)は淡久(たんきゅう)に及(およ)ばず、早秀(そうしゅう)は晩成(ばんせい)するに如(し)かざるなり。
■超訳
桃やスモモの花は艶(あで)やかだが、松や柏の常緑の強さには及ばない。
梨やアンズの実は美味しいが、黄色のダイダイや緑のミカンの芳香には及ばない。
何はともあれ、艶やかでない物は、さっぱりして長続きするものには及ばないし、早熟は晩成に及ばないのは事実だ。
つまり、世間の評判がよい早熟で表面的な知識や技術を実力と勘違いした頭脳派は、たっぷりと時間がかかった実質的で内容の充実した“経験者”には及ばないということ。
言い換えれば、現代は、早熟・軽薄短小が持て囃されているが、晩成・重厚長大の素晴らしさこそ本物だろう。他人に何と言われようと、コツコツと地道な人生を歩むことが“本者”の人間の道だろう。仕事か、会社か、帰属を問う“自利”も良し、不特定多数の最大幸福を支援する“利他”も良し。真の自利と利他は、不可分不可同。過去は囚われないこと、未来に拘らないこと。“今”を無心に生きてください。自分の決断を信じ切ってください。何処に居て、何をしていようと、貴方は貴方なんです。貴方は貴方を磨き上げるんです。それが利他に通じるのです。“未知数”は外にあるのではなく内にあることを忘れずに。そして“外”も“内”も、貴方を含む宇宙の従属変数(これを“縁”といいます)で、世の中には相互浸透(因果といっても良い)から逃れた“独立変数”などは無い、ということも忘れずに。
なお、『大器晩成』という言葉は『老子41章』に出てきます。時間があれば『老子』も一読されると良いでしょう。
慧智(050430)

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活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House