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2005年05月17日
野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756
『禅』を、その他一般的に知られている宗教である“信仰的”と比較して『覚宗教』ということがある。本来、宗教に“区別・差別”を持ち込むのはナンセンスではあるが、一般の方に解り易くするための悪意の無い“方便”としてである。その場合、『禅』が、中世的な信仰(己の外に絶対者を置く)宗教から近代の『哲学的(理性的・二元論的)解釈』を通過し、更には理性の限界をも超え、真に自由で融通無碍の“己”を生き、己を森羅万象の一部であり全体として、己を超えて表現する宗教体系であるからだ。つまり、大自然を『恐れ戦く』対象、限定的ではあるが『克服すべき』対象から、己と大自然を不可分・不可同として相互浸透している“真実”を体現し、それを行じ続けるているのが『禅』であるからだ。故に、最も本質を突いている宗教が『禅』であるのも関わらず、「禅は宗教というより哲学」と揶揄される場合もある。
活人禅においては、禅が宗教と言われようと、哲学であるいわれようと一向に構わず、『宗たる教え』と自覚している。そういった意味では、活人禅は、『一如』を体現する『覚悟の宗教』、『覚宗教』といえるだろう。科学と宗教(文学)を止揚すれば“無と空”の思想であり、“禅”にしか行き着かないのは科学なり文学を究めた者には何の違和感もないのが“現代”である。
慧智(050517)
投稿者 echi : 2005年05月17日 02:22