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2005年05月13日
野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753
『教育』の肝を表わす言葉に、『敲骨打髄』(ほねをたたき、ずいをうつ)という禅語がある。意味は、上っ面にこびり付いた邪心を徹底的に打ちのめして清心を洗い出すことであり、『教育は手を抜いてはならない』ということを表わす言葉だ。言い換えれば、教育をしようとするなら、皮だ肉だで終わるような中途半端なことをせず、骨の髄まで徹底的に染み込ませることが“教育”の根本原理なのだということ。とは言っても、恐怖を与えて洗脳することではない。簡単に言えば“怒ることなく叱り、脅すのではなく励ます”、のであり、“教える側”と“教わる側”が不可分不可同となるように“伝えたい”“学びたい”という心を相互浸透しつつ阿吽の呼吸により教育すべき内容を共有することだ。それには、先ずは自ら学びたいという心を醸成させ、その後に機会を与え、学びの程度を知らせて励まし続けることだろう。言い換えれば、教える側は精神的に成長し、教わる側は知識や技術、心を統合しつつバランスの取れた人間的な成長をすることである。
『禅』の師弟関係を経験すると、“教育”が何で有るかが骨身に染みて解る。私の場合、そこから教育に関するノウハウを構築できたように思う。『禅』の世界では“無個性”こそ最高の個性である。それは個性を“我”として捉え、無個性を“本来の面目”と捉えるからである。しかし、在家の場合は、先ずは“我”、自我を重視する。それは『すべき事』と『したい事』の中間に位置する『出来る事』を合理的に理解させる必要があるからだ。『教育』は“心”+“頭”+“体”に教え込むことであり、それには教える側が“教わる側”の個性(覚え込む順序)を理解し、それにあった順序と教本・教具・教材を使わなくては、途中で挫折するからである。それを少しだけバター臭く小洒落て言えば『心の教えるマインドマニュアル』、『頭に教えるテキストマニュアル』『体に教えるオペレーションマニュアル』ということだ。活人禅の場合は、『価値感(経)+公案+坐禅と作務』となるだろう。話は少し脱線するが、臨済宗は“頭”から曹洞宗は“体”から入り、“心”に浸透させ、頭・体・心が統合されて一人前の僧侶と認める。だから、臨済宗向きの人間と、曹洞宗向きの人間が自ずと居るのである。それが“縁”なのだろう。人間は“教えるべき内容”を身につけるのは簡単で誰でも“先生”になれる。しかし、“教え方”をマスターしている“師”はどれ程いるだろうか。今日は、自分の教育という場面におけるレベルについて考えてみよう。
慧智(050514)
投稿者 echi : 2005年05月13日 06:11