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2005年04月29日

野狐禅和尚の辻説法『人間の思考』 №741

一人一人が個性的である人間を其の抽象性、不確定性を超えて断定する表現はナンセンスであるが、それでも“人間”という表現を使う場合、多くは生物学的共通性に起因した生理学的存在として人間を見据えた場合である。『人間は考える葦である』と言ったのは哲学者で数学者、物理学者のパスカルであるが、そのキーワードが何を言わんとしたことかは、その前後の言葉から感情を排して推し量るしかない。ここで“感情を排して”と付け加えたのは、電車事故を素材に視聴率を上げようとするために、被害者を“哀れ”の対象、加害者を“悪”の対象として強調して、裁判をする以前に“リンチ”を楽しむ大衆に迎合し、大衆を煽動する卑劣なマスコミへの警鐘を鳴らしておきたいからである。話を戻す。
パスカルは『人間が葦の如く弱い存在であることを知っている人間は、“考える葦”として“知らない宇宙”より偉大であり、全てを知り尽くしていることより“小さな愛”の業の方が更に偉大である』と発言し、『物体→精神→愛』の連関を通じて“秩序の三段階”を明らかにした所謂“実存主義”の先駆者と言われている。勿論、パスカルの考えは釈尊に比較すれば明らかに稚拙で非科学的ではあるが、そこから欧州型道徳(モラール)に言及しその後の教育者の愛読書となる著書『パンセ』に昇華できたのは評価できる。ここで活人禅会会員に考えてもらいたいのは、『人間と物』を二元として捕らえていることである。それは何故なのか。
 人間の生理メカニズムの知覚的現象の一つは、皆さんが日常的に経験するように、『動いている時は考えられない・動かないでいるときは考えてしまう』ということ。『肉体的に疲れ果てている時は何も考えられない・(精神的な)悩みに苛まれているときは動けない』ということです。そして“坐禅”の初歩段階では『止静』の状態になると“雑念”が景色を隠す雲のようにモクモクと湧き出してくるということ。山作務で全力を出し切っている時は、考えようとしても“その考えや思い”も消え失せてしまっているということです。そこから、禅では畑にしても山にしても“作務”の効用が積極的に利用されています。このような説明に馴染めない方もいるでしょうから、『紅茶ポット』をイメージしてください。ポットに茶葉を入れ、90度の湯を指すと茶葉はダンスを始める。そして1分もするとポットの中で踊っていた茶葉は、静かに底に沈む。そして、それを持ち上げてカップに注ごうとすると茶葉は巻き上がる。この風景を居間のテーブルで目撃すると、人間の思考と行動の関連に気付く人は多く、有る意味で“自然”を感じるだろう。そして、それを感じると多くの禅者は、『碧厳録』の「魚行きて水濁る」という言葉を連想するようだ。ところが、この句は、『己が動いた後に己の道は出来る』という暗示であり、動かなければ360度全てが道だとも暗示しているので、連想が、どのようなニューロンのスナップから起きたのかは修行を積んだ師家なら直ぐ解る。
 考える事は“雨”に似て、思う事は“雲”に似ている、といわれる事があるが、『思+考』を切り離して“考えられない”のが現実である。
まあ、パスカルは、“人間は考える葦だと思った”と考えるのが妥当だと私は思う。
さて、活人諸君。電車事故の周辺から学べ!。それが出来なければ、無くなられた方は“犬死”だ。過去は変えられない。過去に執着したり、未来の囚われていると“苦”しかない。やり場の無い悲しみや苦しみは“やり場”をつくり上げ、認知的不協和を作り出して抽象的な不安や苦しみを、具体的な怒りに転換して、心を整理しようとするが、傍目には“気の毒”としか思えない。亡くなられた者は決して帰らないし、魔女狩りでの腹いせは、生きている己を更に悲しみへと向わせ、“大安心”という幸福から遠ざけてします。つまり、不幸の悪循環が始まってしまう。人生は諸行無常。時は人を待たない。大事なのは『全力で生き、全力で死ぬこと』。いつ何時旅たっても後悔しないし、残すものに悲しみを贈らない生き方がある。今日は連休の入口。時間が有るときこそ無為に時を過ごさず、日常の『事実』から坐禅を通じて何かを『発見』し、それを『教訓』として脳細胞に刻み込み、今この場の己の生き方を『宣言』してみてほしい。それが“活人4行日記”という、文字を使わない“ハイパー4行日記”なのである。因みに、私は“これ”で生きている。それ故に『一日一生』と断言できるし、死ぬ覚悟と生きる覚悟を止揚した生死一如を体現できるのであり、末期癌と共存する体質を作れるのだと思う。
慧智(050429)

投稿者 echi : 16:19 | コメント (0)

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740

 『真玉泥中異』は、「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読んでください。この句は、景徳伝燈録にでてきます。『本物は何処に居ても異彩を放っている』というもので、己の不遇を嘆くことに警告を発しています。転じて、『他責的になるな』という警告でもあります。
 人間は須らく“縁”により生じ、縁あって居場所がきまります。つまり、何処に居ても“そこ”が晴れの舞台です。ですから“そこ”で輝いて居なければ“本物”ではないのです。言い換えれば、与えられた境遇をイキイキと生きて居る人が本物です。自分の評価は自分では出来ません。“今の境遇”に不満を抱かず全力を出していれば、自然と『随所で主となる』を実践していることに他なりません。随所で主となる心をもっている人を“主人公”といいます。舞台で馬の足を演じていても光るし、会社ではどんな制裁人事に遭おうと、配属先で輝きます。Sさん、4月の人事異動はショックだったのでしょう。しかし、それこそがチャンス。貴方の本物をだしましょう。これまでは部署が貴方を飾っていたのでありあなたのアウトプットはバブルだったのではないですか?左遷されたと思う、被害者意識や他責的な発想に変るようでは、馬子が衣装で殿様と勘違いされ、殿様という椅子の権威で評価されていただけではないですか?。本物の殿様は裸になっても殿様です。つまり、本当に実力が有る者は、どこに居ても主人公です。そして実力者に「あなたは何故輝いているのですか」と訊ねると、「そうですか。有難う御座います。しかし、どこにあっても全力で生きて居るだけですか、他人の評価を気にしたことはないので、輝いている自覚はありませんね」というような反応でしょう。つまり、『何処にあっても全力』『どこにあっても“足るを知る”』、それが出来ている人が“真玉”であり、泥の中でも輝いている人だと思いますよ。
 「暗いと嘆くより、自分が明かりになりましょう」それが“伝燈”の心です。
Sさん、手紙を頂けたこと嬉しく思っています。気が向いたら禅会に来て下さい。
慧智(050428)

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2005年04月28日

野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739

 昨日、参禅者から「悟りとは無を知ることですね」と雑談の中で聞かれた。“問われた”のではないので、言葉の限界に挑戦するなどとは思わないが、言葉で伝えようと次のように話した。
「少なくとも“無”を知ることではなく“無になり切る”“一切を無に帰せること”が悟りの一面ではある。つまり“思い込む”ことではない。そしてそれは自分を無意味な“有”として感じられる程度ではなく、理性は元より、あらゆる感情、あらゆる情動、あらゆる意欲を無くし、尚且つ“空しさ”をも無くした経験を持たない者は、悟りを“概念”としか捉えられず、言葉を知っただけで、実際には“悟り”に至ってはいない。そして、そこに至るには、言葉や記号を以て極めようとすることを完全に断念するまで、己の力で思考を停止させる、つまり“我”は言うに及ばず“己”を殺せない限り、“無”を知ることは出来ないし、従って“無”になり切ることはできない。そこが『竿の先』であり、菩薩はそこの更に一歩先に居る者であるが、それは同時に、“それ”を求めて精進して居る者でもある。故に“悟り”とは“何か”なので、無になり切れたと自覚することではなく、“それ”を知った者により“感じられる”ことしか“それ”に達したか否かは解らないのである。即ち“それ”が悟りであり、悟りとは“それ”以外には無い。そして、“それ”という言葉も捨て、“それ”と不可分不可同となった状態が“それ”なのであり、“それ”を『糞箆』と言おうと、『麻三斤』と言おうと『“それ”は“それ”』なのである。『仏は仏でないから仏と呼ばれている』、もし“それ”が仏なら、呼称に縛られない自由があり、表現に限界の有る言葉には依存しないのである。」と話した。
 以上から、禅に於ける悟り、真理の探究など、どんな表現でもかまわないが、言葉の体系で有る“学問”、感情の体系である芸術など、無限と評される限界を極め、究極の一歩手前で知った限界を超えて始めて“悟り”を体験できるだろう。助言的に言えば、“何かを極めて、それを捨て去ったところに“それ”を体験する瞬間があると言える。
 過去、何度このような虚しい試みをしたか忘れたが、“坐禅”であれ“悟り”であれ、『体験しなければ解らない』ことを言葉に依存した『頭から頭へ』という“以頭伝頭”は虚しい限りである。つまり、その空しさを脱却し捨て去れるのは『心から心へ』“以心伝心”しかないのである。正に『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』。今、私が“仏”とは何か、と詰められれば「ローマ法王の屁」だとでも応えよう。
慧智(050428)

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2005年04月27日

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

 大事故が起きた。死者や怪我人が多数でた。何とも痛ましい。謹んでお悔やみを申し上げます。
最近、天災や人災の多くが記憶に残っている。視聴率至上主義のマスコミにとっては痛ましい現実もチャンスであることは否めない。キャスターやコメンテータと言われる輩は、“ここ一番”の顔つきと声で弔意を表現する一方で、恰も裁判官か検察官気取りで“魔女探し”を嬉々として勤しんでいる。何とも情けない。
事故があったのは事実。事実を受け止めるには“心”を動かしてならないのは人間としての基本。心が動けば事実は解釈され、“情動や感情”を動かして、事実が心象と化し、正しい理解や対応が出来なくなる。人間は情動・理性・感情を錯綜させて生きて居るのは事実で否定しようはない。確かに、情動や感情(俗に“心”といわれている)を動かす事から喜怒哀楽が生まれ、それが人間らしさだという考えもある。しかし、同時に、喜怒哀楽がストレス反応を引き起こし、“苦”の源泉になっていることも事実。生理学的に考えれば『苦楽一如』、“苦”はハイパーストレス状態を加速させ、“楽”はアンダーストレス状態を加速させ、共にディストレス状態を招いている。俗な言い方をすれば、笑うこと、泣くことは、共に同じ作用をするストレス因子として健康にダメージを与えることは広く知られているし、無表情はアンダーストレス状態に繋がることも知られている。そして、ニコヤカに微笑んでいられる状態こそが、健康を促進する状態で、心が動かず安定した状態でる心身がバランスの取れ、“至福感”の源泉であることは常識のはず。にも拘らず、“知って意味の無い情報”、無智な者に先入観を持たせるような動きが、何の疑問も無く社会のシステムに組み入れられている。悲しい者の悲しみを煽る、苦しい者の苦しみに油を注ぐ“マスコミ”という暴力装置は困ったものである。
私達は、正しく見る、正しく聞く。正しく理解する、正しく行動する、正しく反省する、正しく成長することを理想(道徳)としているはず。勿論、正・誤は相対概念であり、絶対的では無く、それに拘り、囚われることことは厳に慎むことも同時に教えられてきているはず。だからこそ、無縄自縛に注意し、諸行無常を念として臨機応変に暮らすことを、社会のありとあらゆる機会で教えられてきたはず。『他人の振り見て我が振り直す』ことを北朝鮮や中国の教育から洗脳の怖さを諭されたはず。
過去は変える事は決して出来ないし、未来は可能性しかない。そして我々は“今・此処”を通過している現象である。
“幸せ”とは何か。心が落ち着いて動かず、如何なることも素直に受け止められる冷静な状態が続いていることだろう。言い換えれば“大安心”の状態ということだ。
坐禅は“流言蜚語”に踊らされることを減らすな、と最近の参禅者から見て取れる。
さて、“幸せ”とは、どんな“心”の状態か。被害者に哀悼を捧げるとともに、他人事に終わらせず“自分事”として、幸・不幸、事実と解釈など“二項対立・二律背反”について考えてみよう。
慧智(050427)

投稿者 echi : 16:21 | コメント (0)

2005年04月25日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:坐禅は、それ自身が目的であり手段だということが和尚の過去帳に書いてありましたが、どうしても理解できないのでヒントを下さい(中学2年生)』 №737

 答えではなく“ヒント”を求めるのは最高の質問者です。ですが、君は坐っていますか?頭で解ろうとしていませんか?それともゴールが見えないと行動できませんか?君のように智慧の回る若者なら、教えなくても坐れば解るはず。坐禅に来たくなった来なさい。でも、今は学校に耐えなさい。
さて、ヒントが欲しいというなら“六波羅蜜”の説明をしましょう。
 六波羅蜜とは、布施・忍辱・持戒・精進・禅定・智慧の六つ。この六波羅蜜こそが実践的菩薩道(生き仏になる道)で、戎・定・慧の三学である実践的精神と対をなすものです。
「布施」とは“貪欲の心”を捨て不特定多数(僧侶や寺という解釈が一般的だが私は拡大解釈している)に財を与え、真理(法)を説いて完全な恵みを施すこと。
「忍辱」とは“瞋恚の心”を捨て去り艱難辛苦、迫害を耐え忍ぶこと。
「持戒」とは“悪業の心”を捨て去り身心を清浄にすること。
「精進」とは“懈怠の心”を捨て去り自分自身で自分の身心を励まし全力で生きること。
「禅定」とは“心の動揺や散乱(不安と言ってもよい)”を捨て去り、心身を統合して集中し安定させること。
「智慧」とは“愚痴の心”を捨て去り、迷いの心から離れて、諸法の“究極的の実相(真理)”を見極めること。
そして、「波羅蜜」とは、“完全無比の完成”ということ。
付け加えると、禅では六つの波羅蜜の中で最も重要なのが『智慧の完成』とされています。言い換えると,“智慧”は“波羅蜜の根拠”とも言えます。そして、“智慧の完成”こそが『無執着の完成』です。如何なる物や事、言い換えると“全ての現象”に囚われることなく、完全に執着しないという“融通無碍・自由自在”は、自利の完成であると同時に利他の完成であり、智慧の完成というものです。
 付け加えますが、君には知識などという相対的であやふやな情報に頼らずとも、君は解るはずだよ。何故か。それは人間として生き物として、現象している状態として“当たり前”のこと以外はないからです。中学生には少し難しいが、私ですら14,5で“坐っている内”に自然に解ったんですから、君なら必ず“答え”に出会えるはず。それが私の“応え”です。
追伸:高校には進学してみなさい。教師に疑問があれば、“己の先生は己”と決め、学校は“場所貸し”程度と思えば良いんです。先入観で決めるのだけは止めよう。焦ることは無い。君ほどの力があるなら大学院を出て本山の管長を目指して10年坐るのが世間のためだ。それが本当の功徳だよ。
慧智(050425)

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2005年04月24日

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

『禍は慎家の門に入らず』、慎みを忘れない家には禍は起きてこない、という意味です。正に、と思いつつも難しいな、とも思えます。自分としては“厳に慎み深い”と思っていても、“慎み”という意識は相対的で、慎んで居るつもりでも相手はそのように思わないということもあります。『長者の家は暗い』という戒めがあります。周囲の者から“妬まれない”ように、富める家は夜になれば早々に雨戸を閉めて外から見えないようにして余計な嫉妬の対象にならないようにすると良い、というのが表面的な意味で、背景には「禍は慎家の門に入らず」という心が伺えます。しかし、富む者と貧しい者にどんな違いがあるのかと考えると、なかなか難しいものがあります。一般的には地位や名誉などなどが思い起こされますが、それは貧者の発想で、富める者、長者の発想では地位、資産、収入などでは貧富を決められないというのが標準的な考え方です。それは高学歴なものは学歴の意味を知って意味が無い事を実感できるが、そうでない者は、それを信じられず、高学歴者の学歴無用論に疑心暗鬼を持つのと同じです。仏法が規準とする貧富は、資産、地位、名誉という相対的なものではなく、“心”であり、“与えられる者は豊か”と考えられています。何を与えるかは、与えられる物・事は全てです。言い換えれば、不特定多数のために役に立つ者が豊かな者です。言い換えれば、何事にも囚われず、拘らず、偏らない利他の心を持つ者が“豊か”と言っても過言ではありません。そこには地位・名誉・資産は関係ありません。しかし、“偽善”は困ります。偽善者ほど“貧しい心”の持ち主はいないからです。
つまり、『禍は慎家の門に入らず』とは、“慎み深く暮らす事”を言行一致で実践できる者といえるでしょう。現代的に言えば、どんなに社会的に評価されても“驕らない人”ということでしょう。勿論“だからこそ”不愉快だと思われる嫉妬心を抱かれる場合もありますが、それに耐えてこそ真に“富める者”と言えるでしょう。
なお、禅では以上の話の“まだ先”を教えています。『本来無一物』という言葉に代表されるように、人間は最初から全て備わっているので、それに気付き、実践している者が“富める者”だということです。しかし、これの悟りに達する道は厳しいが、また本当に豊かな気持ちになるのも事実です。この道を一緒に歩きませんか?
慧智(050424)

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2005年04月23日

野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735

嘗て、師匠に「眠いなら岩の上で坐っていろ」と坐禅中に居眠りをしていた私に“喝”がとび、警策が唸りを立てて方に食い込んだ。
今日、暁天で久々に禅堂の前の“張り出した石”に坐った。顔に差し込む日の出は眩しい。しかし、素晴らしい。鶯は鳴き、山桜の花びらは朝日を浴びて薄桃色。若葉は勢いがあり、足下は百花繚乱。眠さが残っていた故に、石坐(当禅堂の居眠り者御用達の単)に坐ったが、余りの風景に、二重の意味で目が開いた。その時、思い出した禅語が、『無賓主(むひんしゅ)』という言葉。通常は、山岡や宮本などの武芸者が“剣禅一如”と敵と己を合一して戦わずして勝つというような場合や茶室での“決闘”に似た主客など、人と人の関係に於いて使われる。意味は「主は主に徹して、客は客に徹することにより、主客の対立を超越する境地」のことで、意外と理解し辛い。易しく言おうとすればするほど難しくなるが、まあ、「自分の立場と相手の立場を瞬時に見極め、阿吽の呼吸で相手と自分を相互浸透させて一体にとなり、“相手が自分であり自分が相手である”という心境になること。二項対立を瞬間に止揚した境涯と言ってもよいだろう。また、“無心”への昇華と言っても良いかもしれない。
 目に朝日が飛び込み、鳥が鳴き、青空を静かに雲が流れ、少しヒンヤリとした微風が竹を戦がせ、我が頬を撫でる。其の瞬間、私は“自然の一部であり、自然は私の一部”であることを感じ、次の瞬間、己と自然の区別が無くなり、大声で“喝!”と叫んでいた。
 何気ない日常に、真理が生きている。“無心”とは、心の完全なる拡散。何ものにも拘らない、囚われない、実に清清しい自由な気分だ。
慧智(050423)『自然の声は辻説法』。春の大子にて

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2005年04月21日

野狐禅和尚の辻説法『丈夫面上に紅粉をつく』 №734

この句を何故覚えているかは定かではないが、『男の顔に紅を差す』ということ転じて『いらぬ細工をすれば余計に見苦しくなる』という意味だろう。
先日、東京原宿の喫茶店で、辻説法をしていたところ、“スカート”をはいた20才程の“男の子?”が私の前に坐り、熱心に私を見ている。決して話を聞いているのではないようだった。そこで、「何か聞きたいのか」と訊ねると「その“前掛け”みたいな物はどこで買った?」と聞かれ、「どれ?」というと、どうやら『絡子(らくす)らしい。『絡子』っとは、修行僧や住職が普段に掛けて“平式の袈裟(五条袈裟の小さいもの、大袈裟でないもの)”で、禅宗の僧侶が行雲流水の如く所定めずに行脚する際に墨染(すみぞめ)の直綴に墨の手巾(しゅきん)、丸ぐけの帯を締め,白脚絆に草鞋(わらじ)に『絡子(らくす)』を肩に掛けその上に頭陀袋(ずだぶくろ)を吊している“それ”だ。「これか?」と訊ねると「そう、それ、どこで売っている?」と。「何だ、欲しいのか」という「カッコイイ」という。「それじゃ、寺に来いよ。一つやるぞ」というと、「今、売ってくれないか」ときた。何やら“フリマ”の店主の気分になった。そこで、「いくら出せる」というと、「触らしてくれ」となり、「300円で買う」と言われた。流石に“まいった”。そこで、「ところで、何でスカートをはいているんだ」、「衣と取り替えようか」と持ちかけた。すると「そんなボロじゃ、嫌だ」ときた。「良いじゃないか、俺のもスカートみたいなもんだ」と立ち上がると、「結構良いかも」だそうだ。こんなやり取りのなかで、フッと思い出したのが『丈夫面上に紅粉をつく』、人の振り観て我が振り直すか・・・。原宿では“雲水衣”もファッションにしかならないのかな?まあ、しかしだ、後で聞いたが、彼の姿は少々古いが“裏原宿ファッション”らしい、略して“ウラハラ族”と聞いたが、私には『裏腹(うらはら)』としか聞こえなかった。
何事も、要らぬ細工は見苦しい。今度の辻説法は“ホリエ門ルック”とするかな。
慧智(050421)

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2005年04月20日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:法律を守ることが最低の道徳なのですか(中学2年生)』 №733

 先日の中学生から、“法律と道徳の関係”を理解したいと言う内容の質問がありました。過日、助言した通りの質問方法が出来ていました。なかなか筋の良い15歳です。
 さて、お応えです。『法律』には強制力があり社会の維持に必要な最低限の“きまり”、『道徳』は個々人が、帰属する社会の中で、より豊かな気持ちで暮して行けるようにする合理的な“理想像”で、一般的には強制力はないが、常識の根幹ともなりえていると考えれば良いでしょう。つまり、法律の多くは“頭と行動”に注目し、道徳は“心”に注目しているのです。君の仮説では、大正解とは言えませんが、素晴らしい“発見”だと思います。法律すら守れない大人が多い今日において、“法律が最低の社会規準”という考えを中学生が解っているというのは感動です。しかし、そこまで解るなら、もう一歩、前に進んでみましょう。
そこで質問します。『“法律”は自分と他人の今を守り、“道徳”は未来の自分を守る』という道徳人に、“自他一如”という“禅”の世界観からの“ひと言”言ってください。ヒントは“止揚(必ず辞書を読みましょう)”です。対立を相互浸透させて無対立に昇華させてしまうことです。“今”は無限の過去と無限の未来の一瞬の接点で、今という今は既に無い、ということです。
慧智(050420)

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2005年04月19日

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №732

 “山寒花発遅”は、「山寒くして、花のさくこと、おそし」と読むのが一般的です。意味は、『人々に生きる慶びを与えられるような在り方は、長く厳寒風雪に耐えた分、一気に開花する北国の春のように、大器は晩成だということ』でしょう。
 福島以北、標高1000メートル以上の地の春は、梅桃桜梨の花、草木の新芽が一気に咲き、雪深いところであればあるほど“百花繚乱”という言葉に相応しい春が来ます。それは里や都会の春とは比較にならないほど、人々に大きな喜びを与えています。
 都会の青年の“早熟”も結構ですし、“温室育ち”“純粋培養”の特別コースも結構ですし、反面、田舎育ちの歪な天下獲りも、滑稽で微笑ましいのは事実ですが、艱難辛苦に耐え人間として大切な“利他”の心というのは、その完成に至るまでに時間がかかるものです。そういう意味で“東北の春”に準えた「山寒花発遅」は、味わい深い言葉です。
まあ、自分は大器だとか、反対に大器ではないという自己評価を聞くたり読んだりすることがありますが、発現を耐えに耐えた“晩成”は、なかなか難しいもので、江戸期や明治時代なら兎も角、平均寿命が80歳を超えている現代において、三十や四十の“未盛年”が、何を生き急ぐのか“成功”に固執しているのは、微笑ましいが、更に若い“未来の日本人”にとっての鏡としての“不特定多数の者に喜びを与えられる”という“成功(こうをなす)”なのかどうか、甚だ疑問があると感じます。
 蛇足ですが、“金儲けと借金”は下手でコツコツと陰徳を積める者は、出家・在家を問わず限りなく少ないが、だからこそ、日本人として『目指したい人間像』ではないだろうか。中国からの反日のテレビ中継を見ていると、さすがに歴史教育を操り帝国主義を実現した国の若者らしいなと、その軽率な発言から感じます。まあ、現代中国は、数千年の過去の栄光を捨て、焚書と洗脳と徴兵などを伴い独裁者が60年で築いた国だけに、過去、我々が鏡として学んだ4000年の歴史に裏打ちされた中国とは無関係なのだな、残念だなと思うのは私一人だけではないでしょう。『山寒花発遅』、日本は、昔も今も“中国は鏡”、“日本の先生”としてアメリカを先生とするのと同様に、大いに学ぶ必要があるでしょう。
『人類への信頼を失ってはならない。人類は海のようなものである。譬え海の中が汚れても、海全体は汚れない』とインド独立の功労者であるマハトマ・ガンジーも言っているように、汚れがあるから、綺麗にしようという心が動くとも考えられる。
慧智(050419)6:25

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2005年04月18日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:先生は、何を目的に、何を目標に生きていますか?』 №731

 茨城県の中学生から『先生は、何を目的に、何を目標に生きて居るんですか?それに死ぬのが怖くないのですか?という質問』がメールにありましたので、お応えします。
Yさん、“この質問”は、僕に対する興味からか、“君自身の問題を解決するためのヒントを得るのが目的か知りたいな。君は今、中学生。可能性の塊だと僕は思う。だから、質問をしてくれたお礼に、一つ素晴らしいことを教えます。質問する場合には、2つ基本があるんです。一つ目は、調べれば解るような客観的な事実を知りたい場合は“質問しない”で、調べること。そして、その結果が正しいかどうかを質問すること。二つ目は、相手の主観的な意見を知りたい場合は、“自分の意見(私は~と考えます・思います)”、を先に述べるんです。そうしないと、質問された相手、聞かれた相手は、聞いてくれた人の知識や境涯を踏まえて“応える”のが『大人の世界』だから、“どのようなレベル”で応えたら、あなたの役に立つか解らないと辛いんだ。解ったね。
 さて、君の心や頭を理解しないで応答するのは、難しいことだけど、聞かれた以上は応えておきます。
■人生の目的:究極の目的は“幸せに死にたい”と言えるでしょう。ですから“死の一歩手前まで“幸せに生きたい”と思っています。
■私の幸せ:“不特定多数に役立つている”と感じられること。
■大目標:出来るだけ、多くの人に貢献する。
■中目標:一切の差別を捨てる、媚びないなどなど
■小目標:来る者は拒まない、去る者は追わない。お金は他人の為に使う。・・・多分50個くらいの目標があるでしょう。
Yさん、以上は、標準的な中学生をイメージして書きましたが、君がもう少し大きければ、
『目的や目標は意識していません。“今”を全力で生きています』と応えるでしょう。
質問した相手が坊さんなら、殴るでしょう。
 今、言葉の空しさ、自分の未熟さを味わっています。Yさん、有難う。
慧智(040518)

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野狐禅和尚の辻説法『多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し』 №730

 釈尊が遷化する前、その教えを箇条書きにして残したものを集めたものを、後に鳩摩羅什が漢訳した経典である『遺教経(ゆいきょうぎょう)』にある、“多欲”を戒め“利他”を促したものの一つが「多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し」というものです。『自分だけの欲望を追求し、自分の事だけを考えて生き、不特定多数の利益のために己の能力を使うことをしない者は、苦しみも多く悩みも多い』という意味です。なお、「知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり」という『“足るを知ること”こそが、大安心の源』ということを暗示する記述も見られます。
さて、『足るを知る』という言葉は、現代の我々にとっても耳に心地よく、頭では簡単に理解できるでようが、それを本心から得心して行動している者は、私が知る限り、極めて少ないのが現実です。
一昨年、この辻説法で『菜根譚(さいこんたん)』を解釈してきた時にあった『貪らずを以て宝となす』という一節を思い出せないだろうか。『今・此処の己』のみが現実。過去は変えられない。未来は変わりすぎる。つまり、『決定と未定』の中間過程にあるのが“今”であり、今は『過去の結果であり、未来の原因』であるから、何をどんなに貪ろうと、過去は変えられないので、今は過去の結果。未来の為に今を貪ろうと、未来は今の結果であり不安定なので、望んだ分が実現するとは限らない。つまり、過去や未来に囚われ拘り、偏った考え方をすれば、“落胆”が待ち構えているのです。ところが、今、此処で、現象している“事実”を、因が縁により変換された過去において自分が望んだ結果であると考えたら如何だろう。『黙って受け入れる』のだ当然、という気持ちにならないだろうか。不足を漏らし、愚痴を言えば変るのだろうか。ところが、“今は分相応”という規準で今を評価できたらどうだろう。そして、現前に現象する“すべき事”に集中できたら、あなたの明日は如何だろうか。
私は、今日も生きて居る。正に、“人間は病気や事故”で死ぬのではなく、“寿命”に随うのだろうという考え方が間接照明されている。『今』、それは感動である。
『今があることで十分』と感じる事が出来れば、“もっと・・”という心は消え去る。
『今を満足して、昨日は昨日と、済んでしまったことに拘らず。まだ現象しない未来に今を犠牲にさせない』、そんな生き方が出来たら、この世は薔薇色以外の何ものでもないだろうか。“縁”で結ばれた“現前の事実”を素直に受け入れ、それに対し“全力を尽くす”、そして、その結果もまた“素直に受け入れる”それが最高の生き方では無いだろうか。
慧智(040518)
*出張→セミナー→坐禅と数日間があっという間に過ぎた。行方不明になった携帯電話、壊れかけたコンピュータ(Eメール)、その上、新聞・テレビ・ラジオなどなどから“孤立”していた。『情報断食』、これは素晴らしい。アルコール依存、金依存、物依存、人依存などなど、現代人は“何らか”に依存していきているが、時には“それら”を忘れることが大切だな、と今、感じている。4月18日午前4時、記す。

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2005年04月15日

野狐禅和尚の辻説法『一日不作一日不食』 №729

「一日なさば、一日食らわず」と読みます。「働かざる者、食うべからず」という道徳的な戒めをはるかに超える百丈懐海(ひゃくじょうえかい)和尚の名言で、公案集である五燈会元の第三則に出てきます。この語は、禅と労働(作務)を結びつけた金言で、たとえ年老いても、たとえ体が不自由であろうと、一生涯に渡り働く。働く≒利他。それは、生産性を問うものでも、結果を論じるものでもなく、“出来る事をする”、それが人間を人間ならしめる『唯一の道』であることを示唆しています。
 巷はマネーゲームを賛美し、拝金主義者は小・中学生までに、アメリカに追随して株取引を教え込もうとしています。古来、金で金を生み出す生業を“虚業”として忌み嫌いました。そして額に汗して働く“実業”を善しとしてきました。しかし、昨今は変わってしまいました。勿論、変ること、変化することは自然であり、忌み嫌うべきことは何もありません。しかし、それは枝葉であり、“根本(真理)”は変わらないものです。限定合理性である科学でさえ“地動説”を説いています。
 定年までに金を溜めて遊んで暮らすことが理想の老後であるが如き昨今の風潮は、完全な誤りです。人間が人間であり続けるためには、“出来る事”をするのです。目が見えなくても、足が無くても、譬え、余す時間に余裕の無い病の体であろうと、“使える部分”を使って“利他”を実践するのが“働く”ということです。働かないのは、死しているのも同じ、だから当然“食べない”、それが一日不作一日不食なのです。寝たきりになり“働けなくなった人間”でさえ、“介護の対象”となることで、人間をまっとうして、働いているのです。 “働く”という事は、金を得る『手段』ではなく、それ自身が『目的』です。生きて居る“証”です。“働くこと”それ自身に意義があるのです。言い換えれば、“働ける”というだけで十分な“利益”を得ているのです。経営者は、働く場所、機会を提供する人であり、営みを経て目的目標を達成させることと予てから言っていますね。
 マネーゲームは“最低の人間”の生業ではなく、人間のすることではないのです。
性悪説であるキリスト教では『労働は懲役』という概念であり、性善説である儒教では『労働は美徳』です。しかし、仏教(正確には禅)では、『労働は自然』なのです。森羅万象は例外なく理法に随い“働いている”のです。結果は自然に成るのであり、結果を目的や目標にはしません。それは人間であっても例外ではありません。
『生涯現役』という言葉は、一生涯、出来る事を活かして、働き続けるということです。
『活人』も『達人』も、働く人です。活人はイキイキと働き、達人は悠々と働くのです。
 先ほど、『増加する中年フリーター』という論文を読んで、情けなくなりました。若年フリーター、ニートだけに目を奪われていると、とんでもない現象が起きているのです。皆さんも考えてみてください。
慧智(050416)

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2005年04月13日

野狐禅和尚の辻説法『好事不如無』№728

「好事も無きに如かず」と読みます。単純に言えば「この上なく良いことは無い方が良い」というところ。意味は、二項対立から生まれた“素晴らしい物や事”は、捕らわれの対象となり自我となってしまい、全てが真金の如く最高の状態で備わっている“本来の面目”を傷付けてしまうことになる危険性が“凡夫”は高いからです。
こうした語句を境界辺(きょうがいへん)のものといい、実は、相当に修行した者でなければ解らない心境を表わす禅語です。相当に修行した者とは、力がある者で、無ければ分からぬからだ。坐禅をする者の中には、少しでも過去に比して“優れた考えとか気持”が得られると、それを誇示したり、それに満足したり、その状態に依存してしまうことがある。やがて、それが他との隔絶を生み、対立心を強め、自己顕示欲や自己主張を巨大化し、鼻持ちなら無い野狐と成り下がってしまう。だから、“特別に良い事”≒修行の初期段階での分不相応な悟りは無い方が良く、徐々に徐々に成長してゆくのが良いということに他ならない。巷では、経済的に困窮している人間が宝くじに当たったり、莫大な遺産相続の縁に触れ、不相応な大金を掴んでしまうことで人生を棒に振ってしまったという話は枚挙に遑が無い。
なお、公案には趙州禅師に纏わる話がある。弟子が修行中の時、「一物不将来の時如何」と、師に対して「私は既に何ものも心にもっておりませんが、どうでしょうか」と得意気に言った。すると師は「放下著」、捨ててしまえ、と応じた。すると、「既に一物不将来。箇の什麼(なに)をか放下せん」、つまり「すでに何もありません。そんな私が、更に何を捨てるのですか」と理屈を言った。言い換えれば『無理会』ではないのだ。そこで、「放不下ならば担取し去れ」。そうか、そんなに何も無いと言う下衆なものが好きなら、何時までも担いでおれ、と応じた。すると、弟子は、大いに悟りを得た。
慧智(050414)

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野狐禅和尚の辻説法『質問:方便は“嘘”ですか?』№727

 『方便』とは、仏教用語で、衆生を真理に導く“便法上の教え”で、子供に対し親が、親の知識レベルで教育するのに便利な“架空の喩え話し”と考えれば良いでしょう。例えば、恐怖を教える“悪魔”、善を教えるのに“神”、畏敬の念を教えるのに“自然神”を、人間が創造し、成長過程にあるものに対し“権威”を植え付けることを目的にしています。つまり、『方便』には目的と目標があります。言い換えれば、『教育』が目的であり、『教育内容』が目標です。
 そこを前提に考えれば、神教は“方便”の体系であり、13宗56派の日本仏教の大半は教本や仏像などを用いて大衆教化を目的としているので“方便宗”であります。一方、禅宗(主として臨済宗)は、特定の教本や特定の本尊を持たず、“方便”も使わずに、“心から心へ”釈尊から達磨・・と連綿として連なる“仏心”を、『教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏』を合言葉に、方便に代わる方法論として『公案』を使い、師から弟子へと確実に伝えてきています。だから、禅はハードルが高いと思われています。
 さて、質問である『方便は嘘ですか?』に対しての応えは、何とも言えません。あなたが、考えれば良いことです。言語理解が未熟な赤ん坊に、怪我をさせず、台所仕事を手際よく行い、更には“湯は熱い”≒“ヤカンは熱い”ということを同時に教えるために、台所の入口に一端は熱いヤカンを置いて、幼児にヤカンを瞬間的に触れさせ“熱い≒怖い”を教え、次にヤカンを空にして、台所の入口に置くことで親の利便性と子供の教育を同時に行うことは多くの家庭で行なわれてきています。あなたは、それを“嘘”だと言えますか?正に、『嘘も方便』、これは“誤り”ですか?方便と嘘の違いは、“悪意か善意か”が問題ではないでしょうか。
 蛇足になりますが、私は“科学は真理の共有を目的とした『方便』”だと考えています。ですから、“科学は限定的合理性の体系”だと話している筈ですし、真理を段階的に探究する“方法論”として、私自身も社会科学者として関わっています。
 言い換えれば、私の中では、『科学・哲学・仏法』は止揚され無矛盾なのです。
慧智(050413)

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2005年04月12日

野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726

『無理会』は、“むりえ”と読み、坐禅修行において修得を目指す究極の“在り方”。『理会』は、理屈のことであるから、『無理会』とは“理屈なし”ということ。
では、何故、無理会が禅における究極の境地なのか。それを説明することは難しい。理由は、“理由”だからである。無理会は“理由なし”、正に全ての現象を“あるがまま”に受け入れること。理由を問わないこと。言い換えれば、迷いから解脱することなのだ。理会することは、迷いを引き伸ばしているに他ならない。
雨が降る。晴れ上がる。鳥が鳴く。月が出る。日が昇る。雪が降る。生まれる、病む、老いる、死ぬ。現代科学は“それ”の理由を解き明かし、人間にとって“都合が良い”ように自然を支配しよと考える。そして、一が解れば二に、二が解れば三に、と連綿たる迷いにはまり込む。そして、現代、素粒子物理学は、究極の物質が物質でなく“力”であることに到達したが、其の次には“力”の源泉を求める。知への欲望は果てることはなく、向上心、探究心として賛美の対象としている。しかし、それは何れも『欲望』に源泉があることは衆智であり、“満たされない欲望”こそが“苦”の源泉であることも衆智。それでも人間は、それを尽きることの無い欲望に翻弄される。そして、苦しみ続ける。言い換えれば、組みつくせず海の水を全て組み出そうとしているのと同じだ。汲み出しては捨てるが、それは循環する。大局的には、減らない増えない。つまり、苦しみは永遠。それが『一切皆苦』の原理。
人間は、解らないから苦しむ。解らないから不安になる。それは“知”であれ“情”であれ、“意”であれ同じこと。
もし、“解ろう”という意識を捨て、全てを在るがままに受け入れる勇気を手に入れたら、あなたは“どう変わる”だろう。
禅の修行は、無理会の心を会得すること。それが“無心”ということ。苦しむ心を捨て去ること。過去に拘らない。未来に囚われない。今・此処における己を全てとして生きる。すると、全てが輝き、心は絶えず満たされている。不安が無い。
以前、師に“無理会”だけは説明するな、と教えられた。しかし、私は、今日、その戒を破る。複雑怪奇な理由など無い。書きたいと思ったから書く。書きたいという気持ちは私の心の叫び。ただ、素直に、利他に生きたいから。この世の全ての“種”は、種の保存に貢献することが第一義的な目標であり、仲間の為に生き、仲間の為に死ぬことが使命であり、そのために“今”を全力で生きるようにプログラムされている。勝ち組も、負け組みもない。一人一人、異なった才能(強味・弱味)を自覚し、それを発揮して、仲間のために一生懸命に生きることが全て。仲間とは、山川草木森羅万象の全て。
もう、優劣、勝ち負け、貧富、男女、人種、国籍・・・。そんな差別や区別を止めて、『人間』として生きようよ。共食いは止めようよ。
 『願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんがことを』
以上は、今日、財界のパーティに参加している間中、感じていたこと。疲れた。
慧智(050413)

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2005年04月11日

野狐禅和尚の辻説法『足るを知れ』№725

 立派な家を建てたが、無理な資金づくりが災いし、新築後間もなく家庭を崩壊させた方と会った。起業し会社は大きくなったが、不正経理が発覚して社会的制裁を受けている会社がある。株式を公開して市場から膨大な資金を調達し、キャピタルゲインを独占して有能な創業の同志を失った人がいた。無理をして高級外車を買い保険を軽視していて交通事故を起こして自己破産した人がいた。欲に眼が眩んで会社を乗っ取った中間管理職は不正が露呈することやオーナーの反撃が怖くて仕事は手に付かず夜も眠れずに体を壊して家庭をも崩壊させた者がいた。
裏口入学で偏差値の高い学校に子供を入学させたが勉強に追いつかない子供が自殺してしまった親が坐禅に来たことがある。その他、“嫉妬心”を背後に置いた“見栄や高望み、無理や分不相応”が齎す一瞬の“満足”のために一生を台無しにした例は枚挙に遑が無い。
 最近は、猫も杓子も、競争だ、勝組だ、投資だ、株だ、金さえあれば何でも買えると豪語する“拝金主義者、拝物主義者”が巷を闊歩している。
 確かに、資本主義社会の基盤は“欲求充足経済”。共産主義の“禁欲経済”とは正反対で、持てる者と持たざる者の収入や資産は、天地の開きが生まれ、情報化社会が“彼ら持てる者”の私生活の快楽的優雅さを流布させるために、世の中は“彼らこそ理想”という風潮に流されている。私は日本人自身が選択している体制や資本主義だ共産主義だという経済思想、自由主義だ社会主義だという政治思想に口を差し挟む気は無いが、一部の勝ち組を大多数の負け組みが支えるという米国型・中国型社会より、『最大多数の最大幸福(国民総中流化)』を実現する社会の方が、安全で安心な社会であることは事実であろうし、それを目指す事が大切だろうと考えている。しかし、“幸福”という概念は、民度、生活レベルや個々の価値感により大きく異なることは事実。勿論、其のこと自身は、“皆が同じ価値感”であることに比較すれば決して悪いことは無く、個性的で結構なことだ。しかし、こと『幸福』という概念に関して言えば、煎じ詰めれば、『“不安”が無い人生』だということが共有かできることだと私は思っている。言い換えれば“安心して暮せる”こととも言えるだろう。
“安心”という心理状態、言葉としての概念は、『未来に於ける毀損が担保されている心理状態である』という歴史的にも衆智されてきた事実がある。言い換えれば『日々是好日』『無事是貴人』という境涯にある状態なのである。
しかし、現実の社会に天災、人災という“不都合”は付き物。言い換えれば、誰でもが被害者や加害者になる恐れがある。問題は“そこ”の認識の差異なのだ。
 もし貴方が『現実をあるがままに受け入れられる勇気』があったら、どうだろう。『足るを知る』ということは、“そういう事”である。
 『禅』における究極の境地は『知足』即ち“あるがままの現実”を受け入れ、一瞬一瞬に策を弄せず、真正面から全力を尽くし、如何なる結果も素直に受け入れて生きる事なのである。今日のネット禅会前に、少しだけで良いから『足るを知る』ということの意味を考えて欲しい。
また、中国・韓国・北朝鮮の対日政策の現実の背後にある“嫉妬”と“集団ヒステリ行動”を伴うディストレス状態は、アメリカ政府の先導に悪乗りした“配慮の足りない”現代日本の政治の在り方にも問題があるだろう。勿論、嫉妬する側と、される側の功罪を比較するなどナンセンスではある。しかし、振り返るべきは、我々日本人は“必要以上の金や物”を占有していないだろうか?そして、何故“それ”を“共有化”出来ないのだろうか?それは“不安”だからではないですか?
坐禅に効能を期待し求めることは『坐禅』の目的を汚損することではありますが、坐禅は結果的に、“不安”を捨てる勇気が湧いてくるものです。生きている辛さ、老いることへの恐怖、病の結末への不安、死に対する恐れ・・・。それが無い状態、それが“大安心≒幸福”というものではないでしょうか。
慧智(050412)

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野狐禅和尚の辻説法『麻糸は、1、8キロ(麻三斤)』№724

 弟子が「如何なる是れ仏」と問うと、雲門の法嗣(はっす)である洞山和尚「麻三斤」
と応じたことは、碧巌録にも無門関にもあるので知る人は多いだろう。
 昨日は、大子での活人禅会であった。20代から60代の、何れが桜か梅かの7人の活人が各々の心境で坐った。灌仏会の翌日から一昼夜を共にする仲間に男女、老若、肩書き、貧富、国籍など、ここでは全ての差別区別はない。それぞれには其々の心の眼の大きさがあり、心境は様々だが、自利利他の心さえ捨て去り、坐禅衣を着けて禅堂に坐れば、みな菩薩。中には、心落ち着かず10分とじっとしていられない初心者もいるが、振り返れば皆同じような道を通ってきた。『安禅不必須山水 滅却心頭火自涼』、そのうちには“清心万能邪心万危”を体得するだろう。大子の春は未だ走り、桜は三分咲き。夜は火を囲んで人生談義。作務の後は、竹の子掘り、筑紫積み、背負子を背負って裏山の掃除。坐る時は坐る。歩く時は歩く。行住坐臥は“それに成り切る”ことだ大事。一夜明け、作務が終われば饂飩供養(斉座)。そして、食後には、それぞれの心境を川柳に託しあって散会。
『坐禅会 人も桜も 三分咲き』、満開には今しばらく時間はかかるだろうが、皆、咲き切るだろうというのが私の心境。「如何なるか菩薩」と、今、ここで問われれば『三分咲き』と応えるだろうな、と思いつつ、洞山和尚の『麻三斤』の公案に応えた15歳の春を思い出し、“我が春夏秋冬”を噛締めた。
『葉は緑 花は紅 一日一生』、観自在、あるがまま。『一大事今日只今心』。過去に囚われず、明日に拘らず、今を生き切る。大安心とは、先入観を捨て切った者への御褒美。そして大安心をも捨てたら“無心”。それが菩薩の心。三分咲きを眺めていると、思わす笑みが零れた禅会であった。
活人禅会 慧智(050411)

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2005年04月09日

野狐禅和尚の辻説法『神と仏、そして、禅』№723

『哲学』は“行動と分離された定義の体系”と言われ、『宗教』は“行動を伴う価値判断の根本体系(≒思考行動原理)”と言われ、双方の概念は隣接しているし、重なり合う部分と相互に排他的な部分がある。
そんなことから、体系的な教育を受けていない者は、哲学を強者の理性、宗教を弱者の感覚などと揶揄する。私がアンケートを用いて調査した限り、即ち知る限りに於いて、哲学派(理性型)が2割、宗教派(感覚型)2割、混合型3割、無帰属型3割という分散がある。勿論、彼らの全てが物事を判断するに十分な教養(一貫性互換性が有る基本的な知識)が有るわけではないので、アンケート文の理解が出来ずに答えた者もあるだろうが、概ね2:6(3+3):2という正規分布を示す。然るに哲学派:無信論派:宗教派と言い換えることもできる。
また、伝統的で標準的な“言語”解釈(ラング)規準の広辞苑などの一般人用の辞書を離れ、多くの日本人が日常的に使っている言葉(パロール)から類推する“ことば”の定義は、次のようになっている。
『哲学』≒行動と分離された定義の体系、『神』≒自分の外部にある絶対的な力の主体、『仏』≒自分の内にある根源的な力、『宗教』≒行動を伴う価値判断の根本基準、『信仰』≒畏敬の念をもって尊ぶこと、『仏教』≒釈尊が発見した真理、『禅』≒哲学と宗教の中間概念。『カルト』≒個人崇拝、『活人』≒イキイキと生きて居る人間という解釈から“ことば”が独り歩きしているようである。
 そこで、同じ言葉で話しても、哲学派、無信論派、宗教派では解釈に大きな差異が生まれ、人間関係の粗密化に大きな影響を与え、主体の客体に対する“人格判定”に差異が生まれている。勿論、今、この文章を読んでいる方々もその影響から逃れることは出来ず、私や活人禅会会員に対する評価も大きく分かれるのである。
 先日、『活人禅』は、哲学ですか?、もし『哲学』なら入会して坐禅をしたいが、もし『宗教』なら参加したくないというという人に出会った。私は、活人禅会の代表として「私が何と応えるかで貴方の人生を変えるような質問には応えられない」「参加してあなたが判断すれば宜しい」というと、「それだったら怖いので止めます」と言われた。多分、その心境には、私の応えから“宗教”と考えたのだろう。
 『禅』も『活人禅』も、釈尊の発見した真理を追体験する“体系的仏教”以外の何ものでもない。非体系的仏教(葬式仏教)としての葬儀、埋葬、墓参、仏壇、御神籤、美術的価値の対象となった古寺の観光参拝などなど“文化”と化した低次元のものではない。
 しかし、宗教が何故に怖いのか不思議である。教祖がスキャンダルを起こしたオウムや何とかキリスト教などは、宗教ではなく“カルト”という狂信的個人崇拝集団とは全く相容れないのは衆智の事実であるはず。また、『宗教』は“宗たる教え”の略称でもあり、世間には選択肢があり、個人には選択権がある“思考行動様式の体系”であり多くの場合、子供や独立した自我が芽生える前の者には自立的な選択能力が無いので対象外のはずである。つまり“宗教”に強制力は無いので、来る者は拒まず、去る者は追わないのが宗教で、強制的に入信させたり、退会を拒絶したりするのは“エセ”であり“カルト”であることは、誰が考えても解るはずである。にも関わらず真贋判定が出来ないのであれば、国民が無智化したとしか言い様がない。
 質問をくれた貴方!貴方は何をよりどころに生きて居るのですか?己を信じている、否、信じたいなら坐りなさい。もし、己を信じていない、否、信じられないなら手を合わせなさい。言い換えれば、自力か他力かを自分に問いなさい。
 なお、付け加えておきますが、『禅』は宗教です。活人禅も宗教ですが、他宗と異なるのは哲学と分離された“他力”ではなく、心・頭・体を不可分不可同として統合した自力本願の“宗たる教え”ですので、教祖など存在せず、『己の教祖は己である』こと、己の主人は己であることを自覚する『道』とも言えるでしょう。茶道(裏千家)が臨済宗大徳寺派の生活様式の一形式であるのと変わりはありません。そして「活人禅」はイキイキと生きる人間の生活様式(思考行動様式)を確立させる“道”なのです。蛇足ですが、株式を上場している会社にも宗教系(理念系)は多く、カルト系(拝物・拝金・拝人系)、哲学系、無信論系、無政府系などなどと名前を付けて区別をしようとすれば、全て何らかに属するのです。
両忘活人禅会 慧智(050409)

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2005年04月08日

野狐禅和尚の辻説法『色即是空、空即是色』』№722

 宮本武蔵の師匠として、漬物の代名詞として著名な禅宗在野の『沢庵和尚』の言葉に「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝は五尺の身を売って、一切衆生の煩悩を安んず。色即是空、空即是色。柳は緑、花は紅。水の面に 夜な夜な月は通えども 心も留めず影も残さず。」というのがあります。
正に、融通無碍、自由奔放の禅風を感じますね。何とは無くなら沢庵和尚の心境、境遇を理解出来るでしょうが、さて、“意味は”となると、なかなかです。
解釈:森羅万象は、須らく永遠に続く実体は無い。それを諸行無常という。しかし、眼前に現象している。勿論、現象は“瞬間(刹那)”の“態”であり、一時として不変ではない。即ち『色即是空』なのだ。それが解れば、“瞬間こそが唯一の実体”であることが解るはず。つまり現象、瞬間こそが真実とも言えるので『空即是色』である。
言い換えれば、関東以西では今日が花見の最盛期であろうから、自分が花に成り切って花見をしてみると良い。それで初めて“花に学べる”のである。くれぐれも“飲んだくれて花見をするなよ”と言っておきます。まあ、無意識が“それ”を知っているからこそ、その“不安”から逃れる為に、徒党を組んで酒に溺れるのだろう。煩悩即菩提とはいえ、酔って悪さだけはするなよ。そして明日は禅会だぞ。二日酔いで来るなよ。
『不許葷辛酒肉入山門』
慧智(050408)

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2005年04月07日

野狐禅和尚の辻説法『転迷開悟(てんめいかいご)』№721

人間は迷う。それは未熟だからではない。14世紀のスコラ哲学者であるビュリダンは、腹をすかした驢馬を二つの干草の山の中間におくと、どちらにも動けず餓死してしまうことを観て『ビュリダンの驢馬』という概念を提示している。これは、どちらかの餌を食べようと、そちらの方向に動くと、他方の餌から離れてしまうことに囚われることからなのだ。『二兎を追うものは、一兎をも得ず』、実感ですね。つまり、哺乳類という類に属する動物は、大脳辺縁系が種により発達レベルは異なりますが、“弁別≒分別”が出来ます。つまり、分別は差別、区別の原因なのです。道徳や倫理は当然の如く関係しますが、打算や計算、作為などの心的機能にも大きく関わります。言い換えると『善と悪、快と不快、好嫌、功罪などを、大自然に代わって勝手に作り出し、価値感や文化という“先入観”を固定させます。禅では、そこを問題視して“分別を捨てろ”と云います。また、『策士、策に溺れる』とも云います。その反面、俗世間では、合理性や戦略性などと“分別”を賞賛し、それを“智”として肯定的にみています。その結果、『理と情の相克』なとという概念を創造し“迷い”や“苦しき”の元凶としています。更に更には『知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される』などという観点もある。勿論、これは誤りで、『理や知と情』は完全なる二項対立ではない。しかし、何れにしろ『理や情や知』を使い分けることがストレサーであり、『迷い』を生み出す心的機能であることは事実である。そして、人間は“迷い”の本質に出会って、捨てることしか“苦”という概念から抜け出すことは出来ない。故に釈尊曰く『一切皆苦』なのである。しかし、『苦』は実体ではなく、分別の結果である瞬間的な現象なのだから『一切皆空』となる。
 『禅』は、苦の本質を迷いながら悟とる生き方、生き様なのである。『煩悩』とは“迷い”でもある。しかし、我々は煩悩の塊でもある。その煩悩を知って捨てるしか『真の安心(完全な幸せ)』はない。言い換えれば、大きく迷い、大きく苦しめば苦しむほど“悟り”に近付く。正に『煩悩即菩提』なのである。
●Nさん!。迷いなさい。板ばさみで苦しみなさい。それが在野の修行です。其の修行の先に“悟り(大安心)”が有るのです。一日一生、一生一日。明日は明るく、新しい日です。過去に囚われ、拘る人間は苦しみの連続、正に生き地獄。囚われず・拘らず・偏らずに日々是好日、無事是貴人に生きる人間は、正にこの世は浄土です。死んでしまえば地獄も浄土・極楽もありません。全て生きている間の幻です。しかし、仏・祖師は、苦しみ続ける無智なる衆生の心を救うため、方便という手法で、「死後の救い」を暗示させ念仏に極楽往生を求めさせ、無明なる衆生の根性の苦しみを軽減させたのです。素晴らしいことです。しかし、禅に方便はありませんし、禅には真理に体当たりできる覚悟がいります。
 さあ、“それ”が解る活人諸君、今日も坐りましょう。
慧智(050407)

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2005年04月06日

野狐禅和尚の辻説法『4月8日の灌仏会について』№720

 今から三千年ほど前の四月八日(旧暦)、釈尊がカピラ国(日本でいう藩のような地位)の王(当主)である浄飯王(じょうぼんのう)とその妃である摩耶(まや)との間に、王子として生れ、ゴータマ・シッダルタと名付けられました。
伝説では、花が咲きほこる「ルンビニーの園」で生まれた釈尊は、誕生すると即座に東に七歩歩いて、右手を上に、左手を下に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と声を発したと伝わります。この伝説の真偽は兎も角として、意味は「私たち一人ひとりは、宇宙にただ一つの独自の命を与えられた尊い存在だ。」という意味で、八文字で“命の尊さ”を表現しています。しばしば巷では『天上天下唯我独尊』を自惚れや独善的など否定的に解釈する場合がありますが、真意は『この世に不必要な命はなく、山川草木森羅万象は、全て“個性的な”使命をもっている独自の存在だ』ということです。   釈尊はその後、父の過保護からルンビニ園で世間と遮断され、温室育ちを余儀なくされましたが、直観的に“おかしい”と感じて、“外の世界”を体験すると、そこには“生老病死”という現実があり、悩み苦しみ、出家を思い立ち、当時のバラモン教に倣い難行苦行を行ないましたが、心の痛みは癒されず、消沈して“坐禅”をしていた12月8日の夜明けに、忽然として“真理”を発見し、それを大衆に布教する段階で“それ”を検証しつつ“方法論”として完成され、十人の弟子達に伝えつつ、托鉢を続けながら辻説法を行い、陰暦2月、現在は3月15日(涅槃会)に、托鉢で頂いた傷んだ食べ物で食中毒を起こして亡くなったと伝わっています。「何故、傷んだ供物を食べたのか」については諸説がありますが、私にも経験がありますが、『清廉な心から提供された物』は、それが腐り始めていたとしても捨てられませんし、『自説』を実践している己では、他の者に食べさせて病気になる可能性があるなら自分で食べてしまうものです。私は疫痢で済んだ経験があります。
 つまり、我々も、『正しいと確信できる説』に対しては、命がけでそれを実行しますね。釈尊は、“それ”を示すのが最後の使命だと思ったのではないでしょうか。私は“諸行無常”“諸法無我”“一切皆空”“一日一生・一生一日”“生死一如”“生死事大”“日々是好日”“無事是貴人”“山川草木悉有仏性”“万法一帰”などなどという一転語に秘められた真理を伝えるためには“毒をも喰らう”覚悟で“在野”で『来る者は拒まず、去る者は追わず』という姿勢で生きています。それが“己の使命”と確信しているからです。それも『天上天下唯我独尊』、一人一人には固有の使命があると信じているからです。そして、私は“己の使命”は、“自分の強味”に投影されていると考えているので、「強味を活かして全力で生きよ」と伝えているつもりです。世の中には“それ”に気付かず“下衆”な生き方をする者もいるでしょう。それでも彼は“唯一無比”の人間です。反面教師として自らを省みず何かを伝える使命を担って居るのですから立派なのですから、受け入れるのです。しかし無対立・無犠牲・自主独立。足して二で割るような妥協はせずに、『異質を止揚して両忘する』こととしましょう。本質的には善悪一如です。しかし、それを理解していない者は『悪因悪果善因善果』という法則性に随うのです。因果法則からは誰も逃れられません。しかし、“因”は変数です。そして“因と果”を結ぶ“縁”も変数です。故に“己”を信じ己に忠実に生きてください。もちろん“己”は森羅万象と同根。自他一如。『己の外に仏なし』ですよ。では、8日から再開します。
現代の菩薩ともいえるかもしれないローマ法王の遷化を心より悼みます。しかし、“神”は人間の創造した虚空の概念であり、最後まで『己の外に仏無し』という真理に出会えなかったことはお気の毒でした。再度、御遷化に対し謹んでご冥福を祈ります。
蛇足ですが、宗教を持つことは、それが如何なる宗旨宗派であれ、『我執』で生きるより素晴らしいことです。しかし、他宗の存在、言い換えれば多種多様な価値観を受容できないようでは、それは“宗教”とは言えないでしょう。宗教の肝は、“自利利他”の心です。
慧智(050406)
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737<>2005-04-05 (Tue)<><><>●野狐禅和尚の辻説法『8歳の夏の思い出』№719<> 出家・得度の思い出も、45年以上前経つと薄らぐ。しかし、その中でハッキリと思い出すのが師が仲良くさせて頂いていた龍澤寺の山本玄峰老師の言葉である。今日、寺の薬師堂の前で暫らく坐っていると、雨蛙が一匹、怪訝な目つきで私を見ていた。その時、雨蛙が「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」という、老師が酔って口にされた北条時頼の歌である。当時の私は8歳。剃刀を入れて頂いた夜のことで、意味は何も解らなかった。すると同様に剃髪して頂いた宗淵和尚がすかさず「コロコロ変る心に心を奪われるなよ」と耳元で囁かれた。それでもチンプンカンプン。それ故に45年経った今でも、その時の声の調子まで覚えている。蛙が語った「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」を観じて、自分では乗り越えてしまったと思っている病が心の奥底に未だにあるのを悟った。一日一生、一生一日。生死一如。今日生まれ、今日死ぬつもりで生きてはいるが、その心が捨てきれていない。『無心』であるつもりである限り『有』の世界から解脱できない。目の前の白梅、紅梅、水仙。膨らみかけたソメイヨシノ。膝の前には芹、ホトケノザが顔を出している。時が来れ芽生え、時が来れば枯れる。それこそが無心。ふと気が付けば蟻が膝の上にいる。何と素晴らしい事か。皆、無心に生きている。己以外は皆師である。
 さて、俗に「人の振り見て我が振り直せ」というが、他人の陰口や悪口。俗にみ“無明”と言われる無智。あなたは、作為的な言葉に振り回され、己を見失ってはいませんか?
 今度の8日は釈尊が誕生された日でもあり、今度の土日禅会では『父母未生以前の本来の面目』を、春爛漫の森羅万象に教わりましょう。降って良し、晴れて良し。しっかりと坐りましょう。
蛇足:2日ばかり説法が出ない環境に入りますので、お休みさせてください。では、禅堂でお会いしましょう。
慧智(050405)

投稿者 echi : 16:31 | コメント (0)

2005年04月03日

野狐禅和尚の辻説法『澗水松風悉説法』№718

 「澗水松風は悉く説法」と読む、禅語には稀なストレートな表現である。この句は“読んで字の如し”で、谷を流れる水音、松を揺らして発せさせる風の音は須らく仏(真理)の声というもの。森羅万象は全て仏(真理)の投影に他ならない。言い換えれば、山川草木、森羅万象は“仏性”そのものであり、皆、己そのものであり師なのである。つまり、我々は、仏性の部分であり全体なのである。この自覚に立脚すれば『澗水松風悉説法』に他ならない。
 『観音』とは、“音に本質を観る”ことに他ならない。言葉を慎み、目の前の事実、現象の声無き声、音無き音をしっかりと聞くことが悟りへの道。正に、大自然との対話である。
 本日のネット禅会では“線香の燃える音、灰が落ちる音”を聞いてみよう。
慧智(050403)

投稿者 echi : 16:32 | コメント (0)

2005年04月02日

野狐禅和尚の辻説法『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』№717

 『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』は、老子の句として多くの日本人が基本的価値感の一つとしている「知る者は言わず、言う者は知らず」と似た意味を持つ句で、正に“謙虚”、世阿弥の「秘すれば華、秘さざれば華ならず・・」を善しとする日本文化の底に流れる価値です。
 『白』は“明白の白。『黒』は沈黙のこと。『式』は規範のことで、前出の句は『本質を知って多くを語らず、淡々と生きてゆくのが価値の有る生き方だ』と解しても良いだろう。
 最近、“知ったか振り”をしている評論家がマスコミを賑わしている。何と“ウスッペラ”な社会だろう。また、巷には“肝心な事”や“大事なこと”に薄く、無意味な事に熱くなる者が増えている。まあ、『雄弁というより多弁』と言われる小生のような者かもしれない。雄弁の一言は重く、多弁の一言は軽い。
 活人禅会では、『情報断食』を奨めている。一月に一回は、“活字、電波、会話”から完全に離れ、内なる声に耳を傾け、全身を目や耳にして“森羅万象”に溶け込んでみようということだ。その日は農作業や創造活動が良いだろう。しかし、何と言っても“坐禅”、特に“野坐”がお奨めである。
 そこで気付くのは『真理は雄弁』、風が、漣が、鳥が、雲が・・・真理を語ってくれる。
そして、明日からは、無駄口を止め、大事な事をしっかりと伝えることを少しだけ心がけて欲しい。
慧智(050402)

投稿者 echi : 16:32 | コメント (0)

野狐禅和尚の辻説法『人生の起・承・転・結』№716

 人間を幼児・少年・青年・壮年・老年というような主に生物学的な年齢を基準とした段階だけで解釈すべきではと考える事が多い。また、第二の人生だとか、日本ベテランズ倶楽部提唱の11月14日(いいとし)は盛人式とか、成人式は30歳にすべき、ないし15歳にすべき等の議論を聞いていると、“人生”というマラソンのような過程を個人が積極的に考える上で何らかの標準的な指標が必要なのではないだろうか。
 是までの人生を振り返ると、社会適応を目標とした“学習期”、学習の結果を利用して社会の最前線に参加している“自利の期”、第一線での仕事を退き社会の後方支援に徹する“利他の期”そして、出来る限り健康でそれまでの知識や経験を後世に残す“総轄の期”といった区分が出来るのではないだろかと思っている。それは人により異なるだろうが、25歳までは勉強、55歳まで最前線、70歳までは後方支援、それいごは悠々自適といういうようなイメージが生まれてくる。『学んで、行い、育てて、去る』。人間の一生とは、そのようなものだろう。
慧智(050401)

投稿者 echi : 06:33 | コメント (0)

 
活人禅宗・両忘活人禅会
活人禅会:茨城県久慈郡大子町浅川椢立目2644 両忘山活人禅寺  南伊豆禅会:静岡県賀茂郡南伊豆町加納1232 The禅House