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2005年04月29日
野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740
『真玉泥中異』は、「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読んでください。この句は、景徳伝燈録にでてきます。『本物は何処に居ても異彩を放っている』というもので、己の不遇を嘆くことに警告を発しています。転じて、『他責的になるな』という警告でもあります。
人間は須らく“縁”により生じ、縁あって居場所がきまります。つまり、何処に居ても“そこ”が晴れの舞台です。ですから“そこ”で輝いて居なければ“本物”ではないのです。言い換えれば、与えられた境遇をイキイキと生きて居る人が本物です。自分の評価は自分では出来ません。“今の境遇”に不満を抱かず全力を出していれば、自然と『随所で主となる』を実践していることに他なりません。随所で主となる心をもっている人を“主人公”といいます。舞台で馬の足を演じていても光るし、会社ではどんな制裁人事に遭おうと、配属先で輝きます。Sさん、4月の人事異動はショックだったのでしょう。しかし、それこそがチャンス。貴方の本物をだしましょう。これまでは部署が貴方を飾っていたのでありあなたのアウトプットはバブルだったのではないですか?左遷されたと思う、被害者意識や他責的な発想に変るようでは、馬子が衣装で殿様と勘違いされ、殿様という椅子の権威で評価されていただけではないですか?。本物の殿様は裸になっても殿様です。つまり、本当に実力が有る者は、どこに居ても主人公です。そして実力者に「あなたは何故輝いているのですか」と訊ねると、「そうですか。有難う御座います。しかし、どこにあっても全力で生きて居るだけですか、他人の評価を気にしたことはないので、輝いている自覚はありませんね」というような反応でしょう。つまり、『何処にあっても全力』『どこにあっても“足るを知る”』、それが出来ている人が“真玉”であり、泥の中でも輝いている人だと思いますよ。
「暗いと嘆くより、自分が明かりになりましょう」それが“伝燈”の心です。
Sさん、手紙を頂けたこと嬉しく思っています。気が向いたら禅会に来て下さい。
慧智(050428)
投稿者 echi : 2005年04月29日 06:20