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2005年04月28日
野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739
昨日、参禅者から「悟りとは無を知ることですね」と雑談の中で聞かれた。“問われた”のではないので、言葉の限界に挑戦するなどとは思わないが、言葉で伝えようと次のように話した。
「少なくとも“無”を知ることではなく“無になり切る”“一切を無に帰せること”が悟りの一面ではある。つまり“思い込む”ことではない。そしてそれは自分を無意味な“有”として感じられる程度ではなく、理性は元より、あらゆる感情、あらゆる情動、あらゆる意欲を無くし、尚且つ“空しさ”をも無くした経験を持たない者は、悟りを“概念”としか捉えられず、言葉を知っただけで、実際には“悟り”に至ってはいない。そして、そこに至るには、言葉や記号を以て極めようとすることを完全に断念するまで、己の力で思考を停止させる、つまり“我”は言うに及ばず“己”を殺せない限り、“無”を知ることは出来ないし、従って“無”になり切ることはできない。そこが『竿の先』であり、菩薩はそこの更に一歩先に居る者であるが、それは同時に、“それ”を求めて精進して居る者でもある。故に“悟り”とは“何か”なので、無になり切れたと自覚することではなく、“それ”を知った者により“感じられる”ことしか“それ”に達したか否かは解らないのである。即ち“それ”が悟りであり、悟りとは“それ”以外には無い。そして、“それ”という言葉も捨て、“それ”と不可分不可同となった状態が“それ”なのであり、“それ”を『糞箆』と言おうと、『麻三斤』と言おうと『“それ”は“それ”』なのである。『仏は仏でないから仏と呼ばれている』、もし“それ”が仏なら、呼称に縛られない自由があり、表現に限界の有る言葉には依存しないのである。」と話した。
以上から、禅に於ける悟り、真理の探究など、どんな表現でもかまわないが、言葉の体系で有る“学問”、感情の体系である芸術など、無限と評される限界を極め、究極の一歩手前で知った限界を超えて始めて“悟り”を体験できるだろう。助言的に言えば、“何かを極めて、それを捨て去ったところに“それ”を体験する瞬間があると言える。
過去、何度このような虚しい試みをしたか忘れたが、“坐禅”であれ“悟り”であれ、『体験しなければ解らない』ことを言葉に依存した『頭から頭へ』という“以頭伝頭”は虚しい限りである。つまり、その空しさを脱却し捨て去れるのは『心から心へ』“以心伝心”しかないのである。正に『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』。今、私が“仏”とは何か、と詰められれば「ローマ法王の屁」だとでも応えよう。
慧智(050428)
投稿者 echi : 2005年04月28日 16:20