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2005年04月27日

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

 大事故が起きた。死者や怪我人が多数でた。何とも痛ましい。謹んでお悔やみを申し上げます。
最近、天災や人災の多くが記憶に残っている。視聴率至上主義のマスコミにとっては痛ましい現実もチャンスであることは否めない。キャスターやコメンテータと言われる輩は、“ここ一番”の顔つきと声で弔意を表現する一方で、恰も裁判官か検察官気取りで“魔女探し”を嬉々として勤しんでいる。何とも情けない。
事故があったのは事実。事実を受け止めるには“心”を動かしてならないのは人間としての基本。心が動けば事実は解釈され、“情動や感情”を動かして、事実が心象と化し、正しい理解や対応が出来なくなる。人間は情動・理性・感情を錯綜させて生きて居るのは事実で否定しようはない。確かに、情動や感情(俗に“心”といわれている)を動かす事から喜怒哀楽が生まれ、それが人間らしさだという考えもある。しかし、同時に、喜怒哀楽がストレス反応を引き起こし、“苦”の源泉になっていることも事実。生理学的に考えれば『苦楽一如』、“苦”はハイパーストレス状態を加速させ、“楽”はアンダーストレス状態を加速させ、共にディストレス状態を招いている。俗な言い方をすれば、笑うこと、泣くことは、共に同じ作用をするストレス因子として健康にダメージを与えることは広く知られているし、無表情はアンダーストレス状態に繋がることも知られている。そして、ニコヤカに微笑んでいられる状態こそが、健康を促進する状態で、心が動かず安定した状態でる心身がバランスの取れ、“至福感”の源泉であることは常識のはず。にも拘らず、“知って意味の無い情報”、無智な者に先入観を持たせるような動きが、何の疑問も無く社会のシステムに組み入れられている。悲しい者の悲しみを煽る、苦しい者の苦しみに油を注ぐ“マスコミ”という暴力装置は困ったものである。
私達は、正しく見る、正しく聞く。正しく理解する、正しく行動する、正しく反省する、正しく成長することを理想(道徳)としているはず。勿論、正・誤は相対概念であり、絶対的では無く、それに拘り、囚われることことは厳に慎むことも同時に教えられてきているはず。だからこそ、無縄自縛に注意し、諸行無常を念として臨機応変に暮らすことを、社会のありとあらゆる機会で教えられてきたはず。『他人の振り見て我が振り直す』ことを北朝鮮や中国の教育から洗脳の怖さを諭されたはず。
過去は変える事は決して出来ないし、未来は可能性しかない。そして我々は“今・此処”を通過している現象である。
“幸せ”とは何か。心が落ち着いて動かず、如何なることも素直に受け止められる冷静な状態が続いていることだろう。言い換えれば“大安心”の状態ということだ。
坐禅は“流言蜚語”に踊らされることを減らすな、と最近の参禅者から見て取れる。
さて、“幸せ”とは、どんな“心”の状態か。被害者に哀悼を捧げるとともに、他人事に終わらせず“自分事”として、幸・不幸、事実と解釈など“二項対立・二律背反”について考えてみよう。
慧智(050427)

投稿者 echi : 2005年04月27日 16:21

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