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2005年04月24日

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

『禍は慎家の門に入らず』、慎みを忘れない家には禍は起きてこない、という意味です。正に、と思いつつも難しいな、とも思えます。自分としては“厳に慎み深い”と思っていても、“慎み”という意識は相対的で、慎んで居るつもりでも相手はそのように思わないということもあります。『長者の家は暗い』という戒めがあります。周囲の者から“妬まれない”ように、富める家は夜になれば早々に雨戸を閉めて外から見えないようにして余計な嫉妬の対象にならないようにすると良い、というのが表面的な意味で、背景には「禍は慎家の門に入らず」という心が伺えます。しかし、富む者と貧しい者にどんな違いがあるのかと考えると、なかなか難しいものがあります。一般的には地位や名誉などなどが思い起こされますが、それは貧者の発想で、富める者、長者の発想では地位、資産、収入などでは貧富を決められないというのが標準的な考え方です。それは高学歴なものは学歴の意味を知って意味が無い事を実感できるが、そうでない者は、それを信じられず、高学歴者の学歴無用論に疑心暗鬼を持つのと同じです。仏法が規準とする貧富は、資産、地位、名誉という相対的なものではなく、“心”であり、“与えられる者は豊か”と考えられています。何を与えるかは、与えられる物・事は全てです。言い換えれば、不特定多数のために役に立つ者が豊かな者です。言い換えれば、何事にも囚われず、拘らず、偏らない利他の心を持つ者が“豊か”と言っても過言ではありません。そこには地位・名誉・資産は関係ありません。しかし、“偽善”は困ります。偽善者ほど“貧しい心”の持ち主はいないからです。
つまり、『禍は慎家の門に入らず』とは、“慎み深く暮らす事”を言行一致で実践できる者といえるでしょう。現代的に言えば、どんなに社会的に評価されても“驕らない人”ということでしょう。勿論“だからこそ”不愉快だと思われる嫉妬心を抱かれる場合もありますが、それに耐えてこそ真に“富める者”と言えるでしょう。
なお、禅では以上の話の“まだ先”を教えています。『本来無一物』という言葉に代表されるように、人間は最初から全て備わっているので、それに気付き、実践している者が“富める者”だということです。しかし、これの悟りに達する道は厳しいが、また本当に豊かな気持ちになるのも事実です。この道を一緒に歩きませんか?
慧智(050424)

投稿者 echi : 2005年04月24日 16:22

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